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昔の写真から ガラスのピラミッド

札幌の北のはずれに広い公園がある。確か昔の廃棄物処理場を整備して公園にしたはずだ。そこにイサムノグチの彫刻なども展示されているが、一際目立つのがガラス製のピラミッドだ。確かパリのルーブルにも似たようなものがあったが、それがオリジナルだろう。こちらは模倣というか似たような発想で作られた建築物ではないかと思った。

初夏に訪れると気持ちの良い公園だ。ひと渡り歩くだけで2時間以上かかる。地下鉄駅からバスに乗りつけば簡単に行けるが、市民の大多数は車できているようだ。

2020年5月の写真から引っ張り出してきたのだが、実はこの時はコロナ初期の閉鎖期間であり家からほとんど出ていない時のアーカイブだから、それよりもずっと前の旅の記録だろう。その逼塞機の写真を見ていると、旅の写真ばかりなので、実に欲求不満が溜まっていたことがよくわかる。

おそらくこの写真を撮ったのは2000年代だったのではないか。20年近く前の写真だとすれば今ではもう残ってるかも怪しいものだ。

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昔の写真から 零式艦上戦闘機

呉にある大和ミュージアムには通称ゼロ戦、零式艦上戦闘機が展示されている。日本に現存する零式艦上戦闘機は実に数が少ない。一般的に見学できるの展示は、この大和ミュージアム、そして浜松にある航空自衛隊の展示施設だろう。あちこちに保存されているものもあるが、全体で10機もないと思う。
一番保存状態の良いのは、米国ワシントンの博物館にあるものらしい。米国のレトロ航空マニアが飛行できる実機を所有しているという話も聞いたことがある。その鹵獲された零式艦上戦闘機に米国産航空ガソリンを使用したら、性能が1割以上向上したそうだ。燃料の差で設計以上の能力が出るといいうのは、何やら当時の大日本帝国の実情を表すようで物悲しい。

昭和100年と言われる年で、実に90年前に登場した零式艦上戦闘機を懐かしんでみるのも良いなと思うが、この稀代の傑作機が展示されている正面には、同じく帝国海軍造船技術の頂点に立った、戦艦大和のレプリカ(1/10サイズのミニチュア)があるので、大和対零戦の勇姿を一度に拝めるおすすめスポットだ。

ちなみにこの零式艦上戦闘機は、最終モデルである64式だったと思う。好景気の開発が間に合わない中、改良に次ぐ改良で老体に鞭打って頑張っていた最後のモデルだ。

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昔の写真から 陸に上がった鯨

呉は軍都だ。戦前から続く軍艦造船の街だ。そのせいか街の中に奇妙なものがある。潜水艦が陸上にうち上げられている。その中は展示施設になっている。海上自衛隊の施設だ。海上自衛隊の基幹地には展示施設が存在するが、その中でもこの陸の鯨は最大規模のものだ。
ちなみに航空自衛隊の最大施設は浜松に、陸上自衛他の最大施設は練馬(朝霞)にある。

この陸の鯨の向かいには戦艦大和ミュージアムがある。そこには1/10サイズの大和の模型が展示されている。ミニチュアというにはあまりにも大きい。

いまでも呉では自衛艦が製造されているはずだが、昔のように囲いで覆って秘密工事にしていることはないだろうから、造船中の姿を見にくのも面白いかもしれない。広島に行ったら宮島観光は外せないが、もうひとつの探索スポットとしておすすめの街だ。

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初夏の風情 アウトドアで飯作り

風除けがないと固形燃料ではうまく炊けない

5月といえば初夏だろう。連休明けの時期は一年で一番快適な季節だ。ということで、過去の写真を見返していると、5月にはいつもキャンプに出掛けているのがわかった。その年によって、キャンプ道具をあれこれ試していたことがよくわかる。
これな明けの22年には釜飯を土鍋で作っていた。使っているものは、例の有名な駅弁で手に入れたものを再利用だ。熱源は固形燃料を使い、意外と簡単にできたのを覚えている。

この写真を見て、押し入れにしまい込んでいた土鍋を取り出してきた。もう一度釜飯を作ろうと企んでいる。
ちなみに、市販されている五目飯・釜飯の素などの調味料を使えば簡単なのだが、あの調味料は3合炊きの使い切り仕様なので、この一人前釜飯の製造には向いていない。昔、子供たちと遊んだ時には焚き火の上に、この土鍋を4個並べて一気に炊き上げた。その時のコメが3合程度だったはずだから、この土鍋ひとつ分であれば半合から3/4合っくらいだろう。
となると自分で調合した調味料を使うしかない。出汁と醤油と味醂と……………あれこれ合わせて、チッピングには鶏肉とキノコでなどと考えている。塩鮭を乗せたら美味そうな気もする。お手軽にやるのであれば、焼き鳥の缶詰でも良いか。

そんなことを考えるのが野遊びの楽しみ方なんだが、「梅雨前のこの時期に、目一杯楽しんでおきたいものだなあ。

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晴れた日の記憶

去年の8月のとある日

晴れた日は夏にこそ気持ちが良い。秋晴れとか冬晴れという言葉もあるが、やはり夏の空が恋しくなるのは何故だろうか。
子供時代の夏休みと連動している記憶なのかもしれない。齢を重ね子供時代のことなどすっかり思い出せなくなっている。よく映画やアニメの登場人物が、子供の頃が人生で一番楽しい時期だった、などと行っているのを聞くたびにゾッとする。そんなことを一度も思ったことはない。
どちらかというと早く大人になって、あれこれ文句をつけられないようになりたいと思っていた。ただ、大人になってみれば、あれほど偉そうに見えていた大人たちも、それなりに面倒を抱えていて大人であることを楽しんでいるわけでもないことに気がつく。

振り返ってみれば、いつの時、時代でも面倒ごとは多く、楽しみは少なく、バタバタと過ごしてきただけだった。子供の頃に憧れた、誰にも文句を言われない大人などいないのだと理解した時には、しっかり年をとり過ぎていた。

例外として、晴れた夏の日には良い記憶が多い。暑いのは嫌だが夏は好きだった。夏に良いことが多かったとは思えないのだが、晴れた日と重なることが多かったからだろう。今年の夏は「酷暑」らしいが、それでも記憶に残る「晴れた日」を何日迎えることができるだろうか。

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広島お好み焼き 食文化の保護に関する考察

これが焼き上がったお好み焼き

何円ぶりかで広島お好み焼きを食べた。銀座にある広島県アンテナショップの2階にある専門店に食べに行った。お江戸で広島風お好み焼きの店を見つけるのは実に難しい。お好み焼きはそこそこ見つかるが、お江戸風であったり大阪お好み焼き屋の出店であったりする。
小麦粉を練った焼いたものという点では、お江戸も大阪も同系統のお好み焼きだろう。
ところが広島風お好み焼きは、名前は一緒だが別の食べ物だ。正確にいえば焼きそばの変形だと思う。しかし、広島お好み焼きを邪道というつもりもなく、お江戸・大阪版を政党お好み焼きと弁護するつもりもない。同じラーメンという言葉を使いながら、札幌ラーメンと博多ラーメンのように共通項はほとんどないのと一緒だ。麺がスープに入っているという意味でラーメンと言っているだけで、スープも違えば麺の質も違う。それでもどちらもラーメンであることに違いはない。それと同じで、広島の人が思うお好み焼きとお江戸・大阪版のお好み焼きの共通点は天板の上で焼く、という点だけではないか。あえていえばソースをつけて食べるというのも共通点になる。

それに自分の好みでマヨネーズをかけて完成

あまりに愛情のない言い方になるが、広島お好み焼きは、一番上に乗っている小麦粉の皮を外して仕舞えば、中身は焼きそばだ。焼きそばの味付けは薄い。だから、ソースとマヨネーズを合わせて食べないと物足りなく感じる。だが、それで良いのだ。部品の仕上がりが料理の全てではない。あれこれと部品を組み上げて、全体的にうまく仕上げるのが料理というものだ。単体で食べたらそれほどうまさを感じない焼きそばと、ほとんど感動を感じない小麦粉の皮、そして薄く伸ばして焼かれた卵が合体することで、味の複雑さ、歯ごたえにバリエーション、そして甘辛おソースにマヨネーズ味という日本人がこよなく愛する「濃厚なソース味」が食として完結する。

個人的には広島お好み焼きの店がもっと開かないものかなあと思っているのだが、お好み焼きという言葉の持つイメージと焼きそば的な広島お好み焼きのギャップが課題なのかもしれない。どうもお江戸のお好み焼き屋では、焼きそばがサブアイテム扱いされているせいだろう。

広島に行くとビル一軒全てお好み焼き屋というすごいものがあるが、最近では全ての店が外国人観光客に占拠されている感がある。つまり、広島お好み焼きはすでにグローバル化しているのだが、おかげで?広島に行ってもお好み焼きを食べられないような酷い目に遭ってしまった。なんてことだと憤慨しても始まらない。俺のおこにみやきを返せと、月に向かって吠えるくらいしかできなかった。
幸いなことにお江戸界隈ではお好み焼き屋はまだまだ日本人のものだ。とあんしんしてもいられない。あの甘辛ソースとマヨネーズ味という、日本が誇る食文化はすでに外国人が受け入れてしまっている。この先はケチャップ味で炒めた食べ物、チキンライスとかナポリタンも外国人にバレてしまうと、我ら日本人は外食を楽しむにあたって根源的な危機を迎えてしまうとお好み焼きを食べながら思っていた。やはりこれれ、文化的な侵略行為ではないか。日本人の食を守るために、伝統的な飲食店ではマイナンバーカードを見せて、日本人であることを証明しないと入店できないようにするとか、そんな規制をしてもらえないものだろうか。

すでに我が愛する新宿の洋食店では、外国人占拠率が半分を超えている。オムライスの危機なのだ。このまま放置すると『日本オムライス防衛隊』が発足して外国人観光客排斥を訴える食テロ行為が発生するぞ。もちろん広島お好み焼きも保護対象にしてください。

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ビジュアル度に欠けるラーメン

この写真を見たら、これは一体どういう食べ物だろうと疑問が湧くのではないか。これは我が意図しの日高屋の新作ラーメンだ。豚骨ニラ南蛮ラーメンという。これが日高屋で最後の未見メニューだった。
普通の豚骨ラーメンは、豚骨ラーメンとしてはちょっと変わっている。らしくないのだ。博多トンコルラーメンを関東風にアレンジしましたという感じがする。ところが、その感東風とんこつラーメンにニラと唐辛子?を和えたトッピングを載せただけのものだ。なんとも手抜きに見えるし、ビジュラル的には全く冴えない。ところが、このラーメンはすごい。グラビアアイドルの形容詞としてよく使われる言葉で、「私、脱いだらすごいんです」というのがあるが、まさにこれは「私、混ぜたらすごいんです」だった。

想像していた以上にニラ和物が辛い。単独で食べると、明日のトイレが心配になるレベルだ。その辛いやつをラーメンのスープの中で混ぜる。混ぜおわわると、なお一層ビジュアル的には平坦になるのだが、一口でも食べると思わず「うわっ」とため息が漏れる。強烈な味が口の中で炸裂する。見た目とは全然違う個性的な辛さだ。極めて平板な豚骨スープが深みを増す気までする。
確かにこのニラ南蛮を味噌ラーメンや醤油ラーメンに合わせようとすると、間違いなくスープと喧嘩するだけだ。うまさが増すことはないだろう。豚骨スープが唯一で一択の相手だ。

日高屋は時々こんな変わりネタを仕込んでくる。ビジュアルに騙されてはいけない凄技なのだが、もう少し宣伝しても良いのではと突っ込みたくなる。そういえば赤坂の四川料理店で食べた担々麺もこれに似た単調なビジュアルだったが、一口食べて凄さにびっくりしたことがある。麺を楽しむより濃厚なスープを楽しむ料理だと思ったものだ。


このニラ南蛮も混ぜた後のスープを楽しむラーメンなのだろう。こういう個性的なラーメンを時ゴキ放り込んでくるので、日高屋からはなかなか目が離せないのだなあ。そういえば、今年は冷麺をやるのだろうか。去年より進化した冷麺を食べさせてもらいたいものだ。

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鰹の季節がやってきた

念の為に説明しておくと、魚屋の照明は魚をうまく見せるように赤めになっているらしいので、写真に撮ると赤っぽくなるが、写真で見るより現物はずっとうまそうに見える

5月になるとカツオが出回る。このインフレ時代でありながら、カツオのお値段は昨年並みなので、カツオ付きとしてはありがたいことだ。地元の埼玉県は海無し圏でありながら、新鮮な魚介類はそこそこ楽しめる。物流の整備が進んだ平成時代の恩恵だ。ちなみにカツオは千葉産のものが一番最初にで始める。初鰹が出回る時期は、もっと南の鹿児島や宮崎産が出回りそうなものだが、カツオがスーパーの魚屋に出回るのは千葉産になる。おそらく流通の問題なのだろう。

面白いのは見た目がほぼほぼ同じ千葉産のカツオが、駅の東口と西口にある魚屋で微妙に値段が変わることだ。魚の目利きをできるほどではないので、見た目には同じに見えるものが値段が違うと、ちょっと不思議な感じがする。カツオ以外の冷凍マグロや養殖の鯛はほぼほぼ同じ値段なので、カツオの値付けには微妙な何かが関係しているらしい。

まあ、目くじらを立てるほどの値段の違いでもなく、厳密に重量を測ったらそれなりにおこさの違いがあるのかもしれない。試しに両方の店でカツオを買って食べ比べてみるかとも思ったが、そこまでこだわる必要もない。
そもそも千葉産の初鰹は、初鰹という割にもっちりとして脂も乗っている。初鰹らしくない初鰹なので、半分は刺身にして食べ、のこちを「漬け」にして丼にする。カツオは偉大だ。

初鰹を食べるたびに、生きていてよかったなあと思うのだから、人生の喜びとは意外と単純なものなのだ。

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GWの後で出かけよう

連休中の所沢駅で

5月の大型連休も終わり、世の中は暑い夏に向けて動き始める。今年は新用語「酷暑日」が一体何日続くのかなあ、などと思うが、その暑い日はそれなりに好きなのだ。寒さは人を殺すが、暑さは人をダメにする、というのが我が心情だ。北国で生まれ育ち寒さには強いはずだが、寒いのは好きではない。暑さは苦手だが、人生の大半を関東平野で過ごしてきたので、どうやら暑さ耐性が身についたようだ。

その大型連休をほとんど家でぶらぶらと過ごしていたが、人混みに紛れてどこかに出かける気にはならなくなって随分と経つ。気候的にはキャンプに出かける絶好のタイミングなのだが、連休中のキャンプ場はまさに芋を洗うが如く人で溢れているらしいので、家でキャンプ道具の手入れをするのが精一杯だ。

連休中の名所としてなかなかなが通っている「秩父の芝桜」を、渋滞する車ではなく電車に乗って見に行こうかなどと考えたのだが、駅に行ってみると特急は満席表示だ。まあ、考えることは皆同じということか。秩父の武甲山近くにある芝桜の名所は。まさにボトルネックという名がふさわしい逃げ道のない一本道なのdえ、たかが1Km程度の渋滞を抜けるだけで数時間がかかるようなことになる。決して車で近づいては行けない難所だ。

最近では気温上昇により連休後半ではすでに花が終わっているという話も聞く。秩父観光は今ごろが空いていて良いようだ。来週あたりはキャンプに出掛けて、帰りにそばでも食べてくるというアフターGWを楽しむことにしよう。

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辛いものの魔力的な誘惑

日高屋でよく食べる辛い食べ物は、爆弾炒めという恐ろしいネーミングがついている。辛さが爆弾並みということなのだろうかと、いつも不思議に思うのだが、要するにキムチを入れた肉野菜炒めみたいなものだ。
味付けは濃い。野菜がたっぷりを食べられる気がするので、よく注文する。そして、ここが実に日高屋らしいのだが、いつも味が違う。辛い日と辛くない日がある。調理担当の違いではないかと思っているのだが、原料の量などはマニュアルで決められているはずだから、炒めるタイミングなどで辛さが変わるのかもしれない。実に不思議だ。が、辛いのも辛くないのも、そこそこに気に入っているので、今日はどれが出るかな……………みたいな楽しみ方をしている。

気温が上がってくると辛いものが食べたぃなるのだが、ネギチャーシューというのは、爆弾炒めとは違う意味で辛い食べものだ。そのからさの正体は、生のネギにある。これも日によって辛さが違うが、それは調理による差ではなくネギの問題なのだと思う。
ねぎの産地なのか、品種なのか、季節のせいなのかはわからないが、生のねぎ細切りの辛味は、いつもちがっている。今日は大当たりだったな、などと感じながら半分ほど食べると、そのまま残りをとっておく。後で注文するラーメンにトッピングして「ネギラーメン」へ変身させるのだ。

この爆弾炒めとねぎチャーシューのWラインを堪能すると、辛味欲求は満足される。しかし、その日の夜からちょっとしんどいことになる。どうやら辛いものを食べすぎると胃腸が反乱を起こすらしい。食べ合わせの問題というより刺激物を取りすぎたせいだろうと思う。どちらか一つにしておけば平穏な夜を迎えるはずなのだ、と後悔しても始まらない。
快楽の後には代償が付きまとうという真実を身をもって体験する。つまりトイレに篭りっきりになる瞑想タイムが訪れる。この時は賢人モードになっている。我が身の悪徳を振り返る、思考と空想の時間だ。

この悪癖を止められないのは「からさ」の魔力なのだろうなあ。