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街を歩く

キャンプで生ビール

最初にお断りするが、自分はけしてアサヒビールスーパードライの回し者ではない。ビールはどちらかというとプレモル好きだし、普段のみであれば一番搾りが好みだ。気張って飲む時はギネスの黒がよろしい。
だが、この泡が出るという新タイプの缶ビールはCMを以て気になっていた。人気商品らしく売り切れが続いていたが、最近ようやく近くのスーパーで買えるようになった。とりあえず中身は同じだろうと一缶だけ買ってきた。それを気温の上がった日のキャンプで飲もうと思ったのだ。この日は5月にしては珍しい30度を超える夏日で、ビールを飲むには絶好の日だと思った。

上面全部が蓋になっているので、プルトップを引くと、缶上面が完全に解放される。イメージとしてはツナ缶を開けるような感じだ。どうもビールの冷やし方が足りなかったのか、いきなり泡が爆発的に飛び出してきた。
おやおや勿体無いだろうと思ったが、量的にはそれほど減ってもおらず、泡だけが吹き上がった感じだろう。ひょっとすると、缶の蓋は一気にかパッと開けてしまうのが良いのかもしれない。

泡の吹き出しが治ってから徐に飲み始める。いつものスーパードライの味だった。中身ではなく缶の形状が変わっただけだから当たり前だろう。ただ、これまでも缶ビールを飲む時は、狭いプルトップの飲み口が嫌いで、ほぼ必ずコップに注いで飲んでいた。だから、缶上面が全解放されている新形態は好ましい。これであればコップいらずで飲めそうだ。
問題は泡の吹き出しだろう。これほど勢いよく出てくると、従来缶のように「おっと、危ない」と口をつけて飲むわけにもいかない。なんだか微妙に難しい飲み物だ。それでも、屋外で飲むにはよさそうだ。もう一本買ってこようと思っていたら、すでに売り切れていた。やれやれ。

街を歩く

原宿散歩 東郷元帥のことで思う

竹下通りから明治通りに出た後、東郷神社までは一息の距離だ。ただ、この東郷神社は(個人的には)新しくできた人工的な神社という感じがあって、今一つ拝みに行く感覚にならない。東郷元帥の記念館みたいな思いが強い。
神話時代であれば日本武尊、戦国期であれば豊臣秀吉が軍人として神社に収まっる一柱になった経緯を思えば、戦功のある武人が神社の主神になるというのは不思議でもない。明治の大戦で大奮闘し歴史に残る鮮やかな結果を残した東郷元帥の神社ができても、当時の国威発揚策として考えれば当然だっただろう。
日本という国が戊辰戦争、西国諸藩連合が起こした暴力革命の結果として、30年を経過してようやく治まりかけた時期だ。おまけにその国が開発途上の貧乏国のくせに大陸の二大強国と連続して戦争するという暴挙に出た。1度目の戦争で賠償金を手にしたことに味を占め、2度目の戦争は国際的な大借金をしてまで開戦したのだから、負ければ亡国どころか民族根絶やしになるほどの大ギャンブルだっただろう。
それに勝ってしまった立役者が、軍神に生まれ変わっても仕方がない。ただ、その結果として、また世界最強の国を相手に、勝利条件も決めないまま戦争を仕掛けるという暴挙パート2をする原因にもなった。東郷神社の始まりは、まさに敗戦亡国のきっかけとも言える。
東郷元帥自身は対英米戦を危惧していたという話も読んだことがある。もしあと10年長生きしていたら、陸海軍が暴走し、開戦にいたるまでのあれこれを止める役になっていたかもしれない。貧乏なくせに見栄を張る政治屋の姿は現代にも続いている。対戦に負けてもこの国の政治屋どもの考えは変わらなかったらしい。人類が存続する限り、クズな政治屋は無くならないなのだなとも思うのだが。色々な意味で東郷神社は考えさせられることが多い。

すぐ近くにある明治神宮もそういう意味では、大正期になって創建された神社だから、東郷神社だけが特殊というわけでもない。そもそも神社には複数の神様が、時代を超えてだんだんに集まってくることも多いので、造営された時代とか祀られている主神のことをとやかくいうこともないとは思う。八百万の神の国だし。しかし、この近代的ルックスの神社というのもなんだかなあ、という気分がするのも確かだ。

その東郷神社の前、明治通りを眺めてみると知らないうちにずいぶんビルが高層化している。東京メトロ副都心線の工事中は、実に見通しの悪い渋滞道路だったような記憶があるが、今はすっきりとしているし、電線が地中化されたせいで空に余計なものが見えない。電信柱と電線電話線が消えると、空は広くなるのだとわかる。おしゃれタウン原宿には似つかわしい景色だ。歩道が広くなったので歩きやすい。原宿から表参道を抜けて青山に至るゆるい坂道も昔から散歩道としては名高ハイソサエティー愛好レベルの遊歩道であるが、明治通りも散歩のしやすい都会的な雰囲気になった。

原宿を北参道方向までぶらぶら歩いた後、原宿駅に戻る途中で見かけた、いかにも原宿っぽい洒落たラーメン屋がとにかく目についた。パッと見ただけでは、これがラーメン屋と思う人の方が少ないだろう。オープンテラスがあるカフェと言われても信じてしまいそうだ。
この店の本店(?)は恵比寿にあると思っていたら、本店は神奈川の山奥にあるそうだ。あまりにもオシャレすぎて、この店にラーメンをたべに行った記憶がほとんどない。10年以上前に一度行ったきりかもしれない。ただ、端正なスープが有名で、いわゆる高級ラーメン店の走りだった。
ネットで調べてみたら、なんとすでに国内に10店以上ある有名ブランドだった。海外にも大量に出店しているので、グローバル化したラーメンエンタープライズだ。

窓の外からメニューが眺められる。じっくりみてみた。なんと、千円では食べられない。もともと高級系な店だったが、場所柄も考えると、ついにラーメン1500円時代が到来したのだと分かった。昔から、ラーメン一杯の値段は、アルバイトの時給で1時間分くらいだと思ってきたが、ついに時給を超えてしまった。この先、時給が上がるのが早いか、ラーメンの値上がりの方が早いか、相当微妙な感じがする。
ラーメンがついに大衆食から脱出して進化する時代が来たのかもしれない。それとも、これは原宿だけで起きている局地的な動きなのだろうか。日本経済の今を探るために、もう少し原宿をぶら歩きしてみるのも良いかな。

食べ物レポート

自分への土産物

北の大地に旅をすると、いくつか買い込んでくるものがある。お土産というより自分向けのストック商品が多い。昔はジンギスカンのタレを大量に買い込んでいたが、最近は首都圏のスーパーでも手に入るようになったので買い物リストからは除外した。今でも買い出ししているのは、ジンギスカンのタレ風の「しゃぶしゃぶのタレ」で、これは有楽町のアンテナショップでもたまに買えるが、個人的にはほぼ万能調味料扱いなので、最低限3本はストックしておきたい。なので、定期的に現地調達している。
セイコーマートのPB商品である「ミルクコーヒー飴」も買ってくることが多い。セコマは埼玉県にも支店があるので、乾物飲料系であれば手に入るのだが、残念ながら最寄りの店舗まで車で1時間近くかかる。だから軽めのものは現地調達することが多い。さきイカにチーズがコーティングされた、チータラのイカ版は土産に渡すと喜ばれる。セコマ最強PBはメロン味のソフトクリームだが、これは持って帰るのが難しい。首都圏のウェルマートで業務提携しているらしく、セコマPBが手に入ることもあるのでたまに利用する。

土産に頼まれるものは大体が甘いものになる。カニやイクラなどの生ま物(?)は頼まれても宅配便で送ってしまうことにしている。荷物の軽量化は大事な旅の掟だ。
お土産に希望されるような名物は空港で買えるものがほとんどだが、時にはローカルな街の名物を調達しなければいけないこともある。十勝であれば、スイートポテト(それも重量で値段が決まる量り売り)が現地でしか買えない名品の最たるものだ。これを買うために何度か寄り道をしたぐらいだ。ただ、自分への割り当ては極めて少ない。あくまで贈呈用の一品だ。
北の軍都であれば、リンゴが丸ごと一つ入ったパイがおすすめだが、これも現地でなければ手に入らない。最近はテレビで報道されたせいで通販でも品切れが続いているようだ。とてつもなくうまいプリンもあるが、こちらは通販で買えるようになった。プリンは冷蔵品だし、なかなか重たい荷物になるので、土産扱いにはしていない。1-2個を自分が食べるために買うくらいだ。ラーメンでも有名な街だが、個性的な銘菓が多い。動物園を見に行ったついでに、あれこれ買い集めるのが良いかもしれない。
たまたま軍都の名物焼き菓子を土産に注文されたので、どこにいけば買えるかとネットで調べてみたら、なんとJR駅前の物産館で売っていた。空港の中で探すのはなかなか大変だが、駅の物産館はコンパクトでわかりやすい。すぐに見つけたが、なんと味がわりで3種類ある。どれを買えば良いか問い合わせをすれば良いのだろうが、面倒なので全種類買ってしまった。

食感で売るという、かなり斬新なコンセプトだが名品に違いない うまいぞ

その注文された焼き菓子を手渡してから、ふと自分でも食べてみたくなった。すでに土産として渡したものを、一つでいいから自分にもくれないかと頼めるはずもなく、その時は諦めた。次に行った時に自分の分を調達しようと決めた。それが、この焼き菓子だった。サイド買いに行って気がついたのだが、一枚ずつばら売りしていた。最近の土産物屋はこのバラ売りシステムを採用しているところが増えたが、実に客目線で宜しいサービスだ。
さてどんな味だろうと一枚食べてみると、柔らかいクッキーというのが最初の感じだが、商品にはクッキーではなくサブレーと書いてある。サブレーの定義はよくわからないが、なんとなく硬めの焼き菓子というイメージがあるので、このふにゃっとした食感は意外だった。生地の甘さは控えめだが、その中に柔らかいチョコレートが練り込まれている。
チョコチップの入ったクッキーがとても柔らかくなったというか、ぐずぐずに湿気った食感というのか。甘さのバランスも良いが、最大のセールスポイントはこの一風変わった食感だろう。ホワイトチョコ味は食べなくても想像がついてしまう。サイトを見てみたら季節限定品も売っているようだ。次回は季節限定品を試してみよう。

この焼き菓子をもぐもぐと食べていたら、東京大好きな元・上司が銀座以外の菓子屋なんて…………という大差別発言をしていたのを思い出した。全国各地の菓子職人たちが銀座には売っていない(おそらく発想もできないから作ることもできない)、ユニークな名品を生み出しているのだが知らないのか、と反発していた。
たまたま出張の土産にフランスで有名なお菓子を買っていたときも、この店は東京にもあるのに………と馬鹿にされた。東京にあるのだから珍しくもないと言いたいようだった。
フランスの店と東京の店で売っているものが同じ商品だと思う神経がよくわからない。原材料を全てフランスから輸入したとしても、調理機器を全て輸入品にしたとしても、水が気温が湿度が違う以上、同じものになるはずがないだろう。おまけにフランスの小麦は一般的な輸入品ではない。味をよくしようとカナダ産小麦などの北米もの小麦に変えていたとしたら、東京製はフランス製と根底から変わってしまう。同じミルクやバターをフランスから安定的に輸入できるかというともっと疑問だ。日本にある「商品」は名前は同じであっても、限りなく現地のものに似せているが、あくまで似せているだけの「偽物」でしかない。(ただ、偽物であっても上手いのは間違いないと思う)東京で売っているものは、ブランドラベルだけ本物、中身は別物という認識ができないのだろうか。業界人としての見識を疑ってしまう。などと、心の中でぶつぶつと呟いていた。(こっそりとぶうたれていたが、あくまで心の中だけですよ、だって、上司ですからね)

こういうローカルな名品に出会うたびに、その時のことを思い出す。熱烈な東京崇拝主義は、それに反発する過激な地元礼賛主義を生み出すものだ。地方と中央という対立構造は案外と食い物の恨みから生まれているのかもしれない。個人的には、お江戸も巨大なローカル都市だと思っていますから、ありがたみなど感じていませんけどね。

街を歩く

うれしいお土産

お江戸には様々な和菓子の名店がある。100年続く老舗も多い。(古都の人間に言わせると老舗とは少なくとも室町時代あたりから続いているブランドを言うらしいのだが) 
和菓子を商う名店では、あんこに関して一言あるようだ。老舗であるほどあんこへのこだわりは強く、原材料や製法、一子相伝の秘法みたいな物語になっていると考えて良いだろう。この辺りは食に関わるものとして色々と言いたいことはあるが、今回は横に置いておく。
行列をしてでも買いたい「我がお気に入りランキング」で、和菓子部門の常連といえば、お江戸のどら焼き三名店がある。どら焼きは全国あちこちに名店、名品があるが、確かにお江戸のどら焼きは上位ランキングに並ぶ逸品だと思う。長崎のカステラと比べても良いほどの完成度ではないか。
また、庶民派の代表選手である団子の名店もお江戸のあちこちに散らばっているが、個人的には高輪のハズレにある店の団子が気に入っている。(あくまでお江戸ではという限定付きだ。団子ワールドで最大のお気に入りの団子屋は長野県伊那市にある)
下町まで足を伸ばせば「きんつば」や「〇〇もち」「くずもち」などの名店に事欠かない。「あんみつ」など甘味処も神田から浅草にかけては名所が多い。確かに、お江戸は古都と違った甘味天国なのだが、個人的なイチオシはやはり最中(モナカ)だ。


最中といえば予約をしなければなかなか手に入らない銀座の「空也」は押さえておきたい絶対定番だが、もう一軒お気に入りの名店が吉祥寺にある。そこの最中を土産にもらったら、半日くらいはウキウキしてしまう。
そもそも最中という存在だが、あれはあんこをそのまま食べるのは難しいので、あんこの味に影響のない皮で包んだ食べものという認識をしている。あんこを純粋に楽しむ和菓子、と定義しても良さそうだ。どら焼きはあんこと甘い生地の調和を楽しむものだから、もなかとはその部分が異なっている。ソロ演奏と二重奏の違いみたいなものだろうか。
最中の皮は、苦い薬を飲む時に使うオブラート(未だに存在しているとは思うが)みたいなもので、味に主張があっては行けない。あくまであんこが主役だ。
ただし、歯触り、食感も味の内なので、皮がパリパリしていないと最中の全体的な味を引き下げてしまう。なかなか厄介な脇役だと思う。しかし、あくまで皮は脇役であんこの味を引き立てるための存在だから、皮に妙な甘みがあったりしてはいけない。
だからこそ、最中は皮が湿気ってくる前にさっさと食べてしまうべきなのだが、スーパーなどで売っている量産品の最中はサイズが大きすぎる。一つ食べると満腹になってしまうほどだ。それではモナカ道に反するというか、甘味道楽のルールとしてはいけない気がする。できれば最中は白餡と粒餡など、あんこの種類を変えて同時に楽しむ物ではないかと思うからだ。
そうすると、明らかに量産品はオーバーサイズだ。だから、良い最中を売っている名店の条件とは、あんこの質もさることながら小ぶりなものを売っていることだと、個人的に決めつけている。
その点で評価が高いのは、仙台「白松がモナカ」で、大小2サイズを販売している。これはとても嬉しい。(ちなみに白松が最中はなぜか北海道でも有名で、ずっと北海道の和菓子屋だと思い込んでいた) 銀座「空也」の最中も小ぶりで好ましい。

お江戸の外れ、というかもとはお江戸の外にあった吉祥寺に羊羹と最中の名店がある。この店の羊羹は、ほとんど絶滅危惧種的品薄で早朝から並び整理券をもらってようやく手に入れることができる超難関プレミア付きな羊羹だ。味は当然素晴らしいのだが、そんな苦労をして手に入れたものを自分で食べるのはあまりに惜しい。なので、ゲットした羊羹はとてもお世話になった人への手土産などに使われることが多いようだ。もらった人も、羊羹の味に感動するより、自分のために苦労して朝から並んで手に入れた努力を賞賛するという、なんとも悩ましく、ある意味誤った和菓子の楽しみ方になっていると聞いた。
ただ、この店の羊羹を手に入れるのは難関だが、最中であればちょっとした行列に並びさえすれば買える。タイミングによっては待ち時間なしということもある。小ぶりな最中なので5個、10個単位で買うことが多い。(すでに袋に詰められているので、この単位だとすぐに買える)


この「モナカ」こそがお土産にもらうと嬉しい和菓子の筆頭格だ。吉祥寺に所用がある時には、少し時間に余裕を持って出かけることにしている。まず最初にこの「モナカ」を買ってから、用事を済ませるという順番だ。だから、お土産でもらうことよりも自分で買うことの方が多い。5個入りを買うと粒あんが3個、白餡が2個という組み合わせになっている。自分へのお土産というのもおかしなもので、おそらく自分への気まぐれなご褒美というのが正しいだろう。そんな嬉しいお土産をもらって、ちょっと気分が上がったゴールデンウィークでありました。

ちなみにこの店の隣には、これまた行列ができる有名な惣菜屋(肉屋)があって、最中の行列に並んだ後は、メンチカツの行列に並んでしまうのも、我が吉祥寺訪問のルーティンなのであります。

食べ物レポート

連休の昼飯

見た目重視の冷奴ということか

毎月恒例で出かける満洲の月替わり商品探索だが、ここ数ヶ月は好みのものが出現せず、自分としては不作感があった。それでも5月はよだれ鶏と豆腐(冷奴)というサイドメニューが登場して、これはどんなものかなと食べにいったのだが、ちょっと味のインパクトは薄めだった。
おまけにゴールデンウィークを舐めていたので、昼の1時過ぎに行ったにもかかわらず店内はほぼ満席で、おまけに注文を取る暇がないほど忙しいらしく、豆腐だけ食べて出てきた。
この3年間で一番混雑している日に行ってしまったようだ。やはり、満洲は平日の午後に行くのがよろしいと反省した。

一番簡素なつけ麺標準タイプ 麺を小にしておけばジャストサイズだった

店を出た後、流石に豆腐だけの昼飯はダイエット強化中でなければしんどいので、近くのつけ麺屋に行くことにした。こちらは、昼の一時をすぎると程よい混み具合になっていて、さほど待つことなく定番つけ麺が出てきた。
何も考えずに券売機でつけ麺を選んだのだが、あとから気がついたのが「麺の量」の選択間違いだった。つけ麺屋は大多数の店で麺量が多い。普通のラーメンで言えば5割増から倍量くらいに麺が増量されている。この店も、いわゆる普通盛りが麺量5割増だった。目の前に出てきてから、あちゃーという気分になったが、これは完食するしかない。
まあ、想定通りだったが、半分食べたあたりで厳しさを感じ始める。まだいけるはずだが、満腹中枢が危険信号を発している。おまけに、だいたいこの時点でスープの温度が下がっている。不味いとは言わないが、熱々のスープとは味の感じが違ってくる。冷めたスープでは麺がもたれる感じになる。
こうなると、時間をかけず一気に口の中に放り込むしかない。しかし、それが「食」を楽しむではなく、「生存のための給餌」的な感覚になってしまうのがどうにも悲しい。
つけ麺を頼むときは、麺量注意なのだが、ここしばらくつけ麺屋に行ってなかったせいもあり、不用意な選択(選択を忘れた?)をしてしまった。それでも無事完食したが、腹が膨らみすぎてすぐ動く気にもなれず、しばらく食休みをしていた。
先ほどいた店であれば、あの混雑ぶりの中で食休みなどできなかったなとホッとしていたが、よく考えれば、食休みが必要なほど大量に食べることもなかったはずだ。混み合っている店では注文ができず、空いている店では食べ過ぎで苦しむ羽目になる。どっちが良かったのか。
人生、あれこれ起きるものだ。

街を歩く

20年ぶりの原宿

原宿にあるオフィスで打ち合わせがあり、なんと20年ぶりくらいで原宿駅界隈を歩き回った。一時期、原宿から千駄ヶ谷に向かったところにある会社で仕事をしていたことがある。原宿駅で降りてから竹下通りを抜けるのが通行動線だった。その当時も竹下通りは若者(Teen’s)で賑わう元気な街だったが、仕事の途中で通り抜けて歩くのはしんどい感じがあり、竹下通りの途中から横に抜け出して東郷神社の境内を歩いていた。当時の東郷神社は都内にある割に静かな場所だなと思っていた。
その静謐エリアだった東郷神社が、なんとビジネスビル複合体に大変身していた。うっすらと覚えていた東郷会館(結婚式によく使われていたはずだが)は影も形もなくなり、巨大高層ビルに変化していた。それだけでもびっくりなのだが、なんと神社自体もお引越したようで、妙に現代的な造形の社殿に変わっていた。知らないうちに時代は変わるものなのだなあと感嘆した。遷宮という言葉は知っているが、神社が物理的に引っ越したのを見たのは初めての経験だった。

その東郷神社の前を明治通り沿いにしばらく行ったところに、おしゃれな外観のマンションがある。オフィスビルとしても使われているとは思うのだが、原宿で住むならこんな場所がいいなと、20年前から思っていた。真四角なオフィスビルが並ぶ明治通りだが、このお瀟洒なデザインは、まさにThe Harajukuという感じがする。
都会的な住居というのは、居住性も重要だが、それ以上にルックス、見栄えが大切だ。こんなところに住んでいる自分は、なんて都会的なんでしょうと自己陶酔できるかどうかが、都市居住民の虚栄を満たす重要な要素だ。
埼玉県の端っこに住む我が身を思い返せば、こんな都会的でセンスの良いところに住んだ記憶がない。北の街では高級住宅街の端っこの隅っこあたりでワンルームマンションに住んでいた。それが唯一の都会暮らしで、それ以降引っ越したところを順番に思い出すと、まず埼玉県辺境都市で茶畑の真ん中に住んだ。そのあとは、川崎の工場地帯で電機メーカーの大工場の近くに住んでいた。2年ほど、ほぼ年中出張中という自宅がなくても生きていけるホテル暮らしを経験して、また埼玉県の辺境に住むようになった。さすがに茶畑は家の周りから亡くなったが、それでも車で5分も走れば周り中がさと芋畑と茶畑になる。首都圏によくあるサラリーマン(都市下層民)と農民の混成地帯だ。
ちなみに、アッパーなサラリーマン(彼らは自分のことをビジネスマンというと思う)は23区内のオシャレ系地域に住んでいるはずだ。例えば、原宿にあるこんなオシャレなマンション(コンドミニアムと言いそうだな)に、夫婦に子供一人、犬一匹で住んでいますみたいなことを想像してしまう。みんなが憧れる都会暮らしだろう。
だから、都会暮らしとは本当に縁がない人生だったなあと我が身を振り返りつつ、大変貌した原宿を散歩しながら思っていた。

帰り際にJR原宿駅竹下通り口から改札を抜けて気がついたのが、何やら怪しげな立て看板というか、お姉さん?の描かれた看板だ。最近は観光地に行くとこういうキャラ看板があちこちに立っている。どれどれと見に行ってみたら、どうやら「鉄キャラ」で、おまけにどうやらお兄さんらしい。

気になったので調べてみたらJR東日本の協力で進行中のプロジェクトのメンバー・キャラのようだ。山手線30駅で働く駅員さん(架空の人)が構成するアイドルグループで、某私鉄の駅キャラ(女性)のように、「駅」が擬人化されたものではない。あくまで「駅員」さんだ。「駅」が擬人化されれば、それは神様や妖怪の系統に属するものだが、あくまで「駅員」さんだからヒト族、人類の一員、それも日本人ということだ。この違いは、キャラ展開をする上で重要だ。
ちょっと前に騒動になった「温泉むすめ」のように、ジェンダー問題が起きない(起こさない)のは、キャラ全員が男性であることが重要だろう。(全員を確かめてはいないが、多分男性オンリー)これはキャラ業界でもジェンダー問題が周知されてきているということだろうか。少なくとも「萌」を中心とした女性キャラは、フェミニズム対アンチフェミの対決構造になりやすい。が、「イケメン」を主軸にした男性ユニットの炎上騒ぎは耳にした記憶がない。
おそらくフェミニズムに対応する男性主義(適切な対応語が見つからない)は、存在し得ないのだろう。男を謳歌する思想体系(で多分あっていると思うが)は、一歩間違うと旧来の男性中心社会、男尊女卑的な思想とみなされるから、現代では存在し難い。
おそらく、男性「萌」キャラの支持層・ファン層を考えると、一部の生物学的男性を加えたとしても、生物学的女性の方がはるかに多い感じがする。韓国系男性ユニットの例を見ても、支持層は年齢の幅が圧倒的に広がった(10代から60代くらいまで)生物学的女性層であり、まさに「軍団」規模の勢力だ。その例を見ると男性キャラでしたてあげるほうが、ジェンダー問題とは関わらずに行けそうだと思える。そういえば女性の地下アイドルと対応する男性地下アイドルは存在しているのだろうか。これも微妙なジェンダー問題になりそうだが……………


通行人には圧倒的に女子高生が多い竹下通りという場所を考えると、この「竹下」君は人気がありそうだ。竹下口の通路に貼ってある意味がよくわかる。ちなみに、池袋や上野の担当駅員はもう少しワイルド系かなとサイトを覗いてみたら、メンバーにマッチョ系は皆無で(マッチョなアイドルは存在しないのか)、ちょい悪というか少々ヤバそうな雰囲気があるキャラは御徒町と田町のお二人だった。(個人的な感想です)
若者で溢れかえる原宿竹下通りと東郷神社のアンバランスを楽しみながら、最後には現代キャラ考察とジェンダー問題に思いを馳せる、大変有意義な原宿ぶらぶら歩きだった。
たまには、知らない街をぶらつくのも大事だと思う。コロナの間、家に篭りすぎていて世界の動きについていけていないのだなあ。

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食べ物レポート

冷やし中華の季節が来た

今年は幸楽苑の冷やし中華でスタート

5月になると気温が上がる日が増える。飲食店でも初夏向け商品が並び始める。温かいラーメンのルックスは、基本的に平面だし色味にも欠けることが多い。めんまとチャーシューは同系色で、味噌ラーメンともなれば全面的に茶色になる。色味を加えるにはゆで卵の輪切りで黄色と白などが簡単な変化になるが、味と食感で言えばなんだかなあという感じだ。
ところが、冷やし中華となるとその貧しい見栄え事情が一変する。まず平皿に盛り上がった麺の立体感が魅力的だ。その上に、色とりどりのトッピングが乗る。赤、白、黄、緑と色の変化がこれまたゴージャス感を盛り上げる。実に素晴らしい。おまけに味付けが自分好みの酸っぱい系つゆなのだから文句をつける部分がない。
毎年、その年初めての冷やし中華を食べると、今年の夏は何回冷やし中華を食べるだろうと思うのだが、数えてみたことはない。ただ、自作して食べる冷やし中華を加えると50回くらいは食べている気がする。特に気温が上がる時期には、冷やし中華とそうめんの超ヘビーローテションになる。家人にはよく飽きないねと言われるが、麺類は好物中の好物だし、気温と麺の関係で言えば暑い時期の冷やし中華こそ「麺類の王」とまで言いたい。
とくに、醤油系のシンプルな味付けと胡麻味のつゆバリエーションがそそる。そして追いがけして使う柑橘系果汁との組み合わせは、レモン・酢橘・カボス・ゆず・シークワーサーと最強ラインナップが揃う。つゆと果汁とトッピングの組み合わせはほぼ無限だ。
薬味に至っては絶対定番の紅生姜を筆頭に、山椒の実やミョウガの細切り、大葉やなどの香味野菜、それに加えて変わり種でバジルの葉なども楽しみだ。また、辛味としては定番の和芥子の代わりにタバスコソースなどの酸っぱい辛い系洋風ソースも捨てがたいし、最近の好みで言えば山ワサビ(ホースラディッシュ)もワイルド系スパイスではおすすめ筆頭株だ。

幸楽苑の餃子はmちょっと変わったような気がするのだが……気のせいか

普段はラーメンの付け合わせとしてあまり注文しない餃子だが、冷やし中華となればついつい注文してしまう。「熱」「冷」のコンビがこれまた嬉しい。餃子は冷やし中華との食べ合わせを考え、浜松式の「酢+こしょう」で食べることにした。ただし、最後の一個だけは醤油+ラー油にする。
冷やし中華発祥の地と言われる仙台で、それも元祖の店で冷やし中華を食べたことがあるが、流石に元祖だけあり「お手軽系麺類」ではなく、冷たい中華料理としてしっかりしたものだった。ちょっとかしこまって食べたが、冷やし中華は夏の大衆食筆頭格だから、あまり気取らずにガシガシと食べるのが良い。仙台の違う中華料理屋で食べた細切りチャーシュー山盛りの冷やし中華は、まさに大衆のご馳走だった。
気温がもっと上がってきたら、食べる前に生ビールでプハーっというスタイルもありだし。食で季節の到来を知るというのはありですねえ。

書評・映像評

コロナとの暮らしを振り返ると

写真はイメージです (笑)
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「深夜食堂」の最新刊(二十六巻)を読んであれこれ考えてしまった。このコミックはテレビ番組として何シーズンも映像化された。その後、映画にもなり、最新版はNetflixで放映された。新宿ゴールデン街にある(と言う設定)、深夜に開店する飯屋に出入りする人々のあれこれを描いた作品だ。物語の中で季節はうつろうが、年月は変わらない「永遠のサザエさん」状態にある。基本的に社会の変化は感じにくい、あるいは表現されない類の作品だろう。ところが、時事ネタどころか社会変化が重要なテーマになってしまった。

深夜開店する店だから、当然のようにコロナの初期は休業、あるいは昼間営業をするしかない。その当時のドタバタは前巻に描かれている。後々コロナと言う狂騒社会を検証する時には新聞や雑誌の記事などより、こうしたコミックの方がよほど参考になるだろうと思う。(テレビや新聞会社では最近流行りの捏造騒動が起きそうだ)

今回の巻では、そのコロナ社会が少し落ち着いて深夜営業を再開できるようになった時期、それでも客はマスクをかけているという微妙な時期にあたる。
一話ごとに、コロナの前と変わることのない庶民の暮らしぶりを切り取っている。人情噺が中心で、コロナに影響を受けて人生を棒に振ったような登場人物はいない。それだけに、マスクをかけている客たちの姿は、のちの時代になってこのコミックを読む読者には、コロナの時代にみられた特殊な社会状況を解説しておく必要があるだろう。
同じ社会混乱期の中で制作されたテレビドラマや映画をみてみると、マスクをつけた登場人物はいない。コロナなど全く起きていないパラレルワールド(並行世界)の話かと思いたくなるほどだ。確かに、演者たちがマスクをかけて登場すると、半分覆面状態だから顔がわかりにくいと言う物理的演出の問題もあるだろう。

ただ、マスクをつけてもドラマを成立させることは可能で、仮面ライダーなど主人公の戦闘シーンでは顔が全く見えない。敵役に至っては最初っから人の顔をしていない。また、アニメ的な演出をするのであれば、正義の味方(良いもの役)は青いマスク、悪者は赤いマスクなどで見分けをつけることもできるだろう。
だからこそ、コロナ時代の映像制作ではあえて意図的にマスクなしの社会を描いていたはずだ。撮影現場では政府の諸注意を守って撮影しています、などと言うテロップも入っていた時期がある。記憶にある限り、マスクをつけたり外したりするリアルな社会を映し取っていたのは、「孤独のグルメ」くらいではないだろうか。旅番組などではマスクをつけた出演者が動き回っていたが、あれはドラマとは違う類の番組だろう。
だからこそ、コミックというメディアの中で「マスク社会」のドタバタをリアルに記録した作品は貴重だと思う。10年後に紙媒体での出版が事業として残っているかは微妙な感じがしているが、電子出版は紙媒体と比べてはるかに作品の生存性は高いから、この作品が電子媒体ですら読めなくなることはないだろう。未来の読者に向けて「コロナの社会」とはどんなものであったかの解説文を、ぜひ巻頭に付け加える改定を行なって欲しい。

そんなことを考えていて思い出したことがある。先の大戦で宣戦布告が遅れたまま戦争を開始して、散々国民を煽っておきながら、最後には無条件降伏を受け入れ終戦するまでの期間が3年半あまりだった。コロナの狂騒期間は3年ほどだったから、大戦後に戦時の社会を振り返ってあれこれ議論が湧き上がったのと同じように、コロナ時代のあれこれ、馬鹿馬鹿しさを振り返るべき時がすぐにやって来る。
特に政治屋のバカっぷりと、一部医療関係者の売名行為、テレビメディアを中心とした扇動行為があったことを歴史の事実として記録し忘れないようにしなければいけない。ただ、このリアルな歴史が捏造され改変され記録されるのも目に見えている。昭和20年代に起こった右派左派それぞれの戦争の記録を読み返せば、同じことが起こることは容易に予想がつく。そして、悪徳政治屋はいつでも自分たちに都合の良いように歴史を書き換える。というか、都合の良い歴史を記録する。
別にこれは日本だけに限ったことではなく、人類が文字を発明した頃から延々と続く種族的な性向だ。人類は「嘘つき」がデフォルトな状態の生物であることに間違いはない。

とすれば、このような「コロナの日常」を設定にして、同時代性の高い情報を切り取っている作品は大切に保存しておくべきだと思うのだ。少なくともコロナ社会の狂気は、歴代の自民党政権・内閣で最強最長だった総理大臣、そしてその後継内閣を叩き潰したのだ。だからこそ、後世で語られるべき歴史的時代だったとも思う。
ついでに言えば、アフターコロナの自民党内閣は、先代の強さもなく日和見のくせに、戦後処理もまともにできない、歴史に残らない有象無象であるとも思うので、すぐにみんな忘れてしまうだろうなあ。

深夜食堂のサイトはこちら→ https://www.shogakukan.co.jp/books/09861634

街を歩く

締めのラーメンで地域性を考える

かなり長くなった北の街滞在だが、今回は蕎麦屋に行くことが多かった。いつもは空港で締めのビールを飲むためにビアホールに行くのだが、今回は体力不足というか蓄積疲労というか、ビアホールに行く元気もなく、蕎麦屋で軽く一杯という気分にもなれず、結局はラーメンで締めることにした。
空港のラーメン道場は北海道各地の名店が集結しているのだが、意外と味噌ラーメン専門店は少ない。札幌出身の店が2軒、十勝の店が一軒がみそ専門店だ。ただ、このラーメン道場各店は味噌、塩、醤油の定番は全店が提供しているから、味噌専門店でも塩ラーメンは食べることができる。
専門店というより、どのラーメンが一番得意かという差だと思えば良いのだろう。それが北海道的おおらかさであり大雑把さでもあるのだが。

この店の本店は、確か北の街の南部山間部にあったはずだ。はずだというのは、本店に行ったことがないからで、車で近くを走っている時に誘導看板を見た程度の記憶しかない。ニューウェーブな味噌ラーメン専門店は豚骨ベースで味噌たっぷりの濃厚なものが多いが、この店はその先駆けだったと思う。
味噌ラーメンでは珍しくチャーシューが乗っているが、実はチャー主も渦巻き型の薄切りタイプとサイコロ状にカットした角切りタイプの2種類が使われている。(角切りはスープの中に沈んていた)
ひき肉と野菜炒めトッピングという札幌味噌ラーメンの伝統は守っているので、この新旧混合レシピーが人気の秘密なのではないか。
締めに食べるラーメンとしてはちょっとヘビーだったが、北海道的ソウルフードはまたしばらく食べることができないのでありがたく噛み締める。お江戸には北海道から進出してきた店がたくさんあるから、北海道フードが食べられないことはない。ただ、おそらく気温と湿度と空気の匂いの違いのせいか、お江戸で食べるものは「北海道風テイスト」に感じてしまうことが多い。その「風な味」の典型がラーメンとジンギスカンだ。
逆にいえば、お江戸周辺発祥の無国籍的な料理、例えばナポリタンや黒カレーのような都会で生まれ育った食べ物は、北海道で食べてもピンとこない。料理の地域性、地域適合性みたいなことは、それなりに考えるべきだろう。レシピーだけで料理の味は決まらない、そんなことをうすぼんやりと考えながら、味噌ラーメンを食べ終わって実に満足しておりました。次は南区にある本店まで行って食べてみよう。きっと味が違うに違いないと期待して。

街を歩く

インフレの時代 あれれな結末

高級ネタの真イカ

またイカの握り寿司が食べたくなり、のこのこと行列のできる回転寿司(郊外型)に出かけてしまった。この店が人気の秘密はシャリとネタのアンバランスにある。つまりネタが大きすぎるところにあるのではないかと常々考えている。実食するとわかるのだが、握り鮨を口に放り込みもぐもぐしていると、コメから先になくなっていく。ネタが大きいので、口の中に残るという感じになる。
お江戸にいるうるさい鮨の評論家に言わせると、あれこれ難癖つけられそうな自分の分析だが、このネタ大きめ鮨はいつ食べても美味いと思う。理屈は抜きで旨いもん勝ちだ。
特にマイカは肉厚で、甘みがあり歯応えもガツンとくる優秀品だ。わざわざ食べにくる価値がある、並んで待つ価値があるといつも感心するのだが、ふと気がつくと一皿の値段がずいぶん、いや、驚くほど上がっている。マイカはすでに大衆ネタから高級ネタの仲間入りをしていた。ちょっと悲しい。いや、とても悲しい。

昔は、サバが5割くらい大きかったような(大袈裟な)記憶がある
(あくまで記憶です)

続いて我が絶対定番であるしめ鯖を注文する。出てきた品物を見ると鯖がちょっと小さくなった気がするが、その分身が厚みをましたようだ。この店のしめ鯖は自家製らしく(北海道のローカルすしチェーンは大体が自家製しめ鯖のようだ)、大手全国チェーンで提供される「しっかり工場で作りました」的なものとは歴然と違う。
日本海側の各地にあるローカル鮨チェーンでも、大概は自家製しめ鯖を出しているので、これは日本海沿岸圏特有のすし文化なのではないかと疑っている。(笑)
工場製の「シメサバ」は酢が効き過ぎている。単純に酸っぱすぎる。しめ鯖は塩で締めて酢で洗うのだから、酢の味は控えめであるべきだろう。お江戸で自家製しめ鯖を楽しむには、高級鮨屋に行くしかないが、北海道では回る寿司屋で大丈夫だ。この差も大きいなあ。

大好物なので、これだけを5皿くらい食べても良いと思うさばしそまき

そのあとは、サバの巻き寿司を注文する。いつもであれば最低2皿は注文する、これまた我が絶対定番ネタなのだが、今回は一皿だけにした。こちらも、大衆ネタだったはずの鯖系鮨が高級ネタに昇格して値上がりしていた。ちょっと悲しい。

鯖系巻物に新作が登場していた。なんと、サバのハラミを巻いたもの、それも裏巻きにしたものがデビューしていた。これはぜひ試食しなければと、通常版を一皿、新作を一皿頼んで比較調査をした。結論として言えるのは、どちらも美味い。ただ、ハラミ使用と言われても通常版との差はほとんどわからない。(自分がバカ舌の持ち主だというだけのことかもしれない)
そして、問題にしたいのは新作が5割程度お値段が高いことだ。明らかにインフレ時代に生まれる対応策、つまり新商品投入による値上げの典型例だろう。そこがちょっと残念だ。
値上げをするには中身の原料を変えるだけではなく、見栄えも変える必要があるので裏巻きにしたのは理解できる。ただ、味はもう少し定番から変化させた方が良いかなあ。
あとは、定番は醤油で新作は塩で食べようと提案して食べ比べ商品に変えてみるとか。もう一息、細かい芸が欲しいところだ。ただ、こんなことを言い出すのはよほどの鯖好きしかいないから、放置しておいて良い愚案だと思う。

最後に、これぞ北海道ローカルの極地、新香巻きを頼んだ。以前にも書いたことがあるが、北海道では中身が奈良漬の巻物を新香巻きという。お江戸あたりでは、新香巻きといえば中身が大根の漬物(黄色いたくあんもどき)が入っているものが多い。そもそも野菜入り巻物でポピュラーなのは新香巻きではなくかっば巻きだろう。
結局、この日は握り2皿、巻物3皿の注文だった。昔であれば全部百円皿の超低価格注文だったはずだが、今ではイカも鯖も高級魚扱いになり、お値段は倍くらいになっていた。もう2度ど来ないというほどの値上がりではないし、味が変わったわけでもないから、相変わらず満足度は高い。ただコスパがちょっと悪くなっただけだ。観光客であれば笑って見過ごす程度の値上がりだし、今やインフレの時代だからと諦めるしかない。できれば値上がりに合わせて接客要員なども調整してくれれば良いと思うことにしよう。
そういえば他の店でも鮑は5割近く値上がりしていたから、サバ系握りの値上がり額は順当なものかもしれない。ただ、インフレ時代には逆張りの成功者が出てくる時代とも考えられる。そのうちに値上げのなかった(できなかった)平成時代にノスタルジーを感じる世代を対象にした、新しい業態が開発されそうな気がする。キャッシュレスの時代に、ワンコイン、1000円札一枚ポッキリといった、これまでに使用されてきた安さのキーワードが変わるのも間違いない。新しいキャッチフレーズ、新しい販売方法がどうなるのか楽しみだ。外食産業の新しい息吹が生まれるかもしれない。と、インフレを肯定的に考えることにしましょう。