Blog

街を歩く

ちゃんぽんの話

フードコートで子供とちゃんぽんを食べる機会があった。麺の店で「キッズ」メニューが存在するとは知らなかったので、高額のため写真に撮らせてもらった。小さめのちゃんぽんと果汁ジュースにプリンという組み合わせだった。まあ、こんなものかと納得できる。価格も低く抑えられている。それでもマクドナルドのハッピーセットよりはお高い気がする。マクドナルドのキッズメニューの完成度の高さはやはり世界標準だろう。

さて、その後自分が注文したチャンポン普通盛りが登場したのだが、皿の形状のせいかキッズサイズチャンポンとあまり変わりない……………ような気がする。多才は多いがなあ。なんだか微妙で納得しにくい。

いやいや、これはやはりキッズメニューがお得ということだろう。そう思っておくことにする。

ライフタイムバリューということを考えると、子供の時から自社ブランドを子供と親に売り込むのは大事なことだ。ファミリー客にとって子供は最強の拒否権行使者だから、子供に気に入られないと、ファミリ客獲得は無理ゲーになる。
個人営業店の最大の弱点はそこなんだけれども、誰も気がつかないふりをしているのか、本当に気がついていないのか。外食に新規参入する新人向けに、そんなフードサービスの「いろは」を教える学校とか塾が必要なのだと思いますよね。

接客だのおもてなしだのの精神論の前に、消費者・客のリアルな心理を知る方が先だと思うのだがなあ。

街を歩く

キャンプ飯 ディナー編

今年の初キャンプでグリルパンを試してみた。これは一人前の焼き肉にはちょうど良い気がする。ステーキとフランクフルトソーセージが一度に焼ける。まさにワンプレートでお食事準備が簡単なのだ。

追加でもやし炒めも作った。これまたお手軽に出来上がる。

大きめのステーキを独り占めして食べるのは、なかなか楽しい。焼き加減も自分好みで仕上げる。ソロキャンの楽しみとは、この一点に限るのではと思うのであります。

街を歩く

これはいかんぞ と思わせるビジュアル

沈むトッピング事件発生中

蕎麦屋とラーメン屋の共通で抱える問題点について論じたい。(偉そうだな) それは、トッピングのビジュアル問題だ、えへんえへん。
日本蕎麦屋におけるビジュアルの美しい蕎麦といえばおかめそばだろう。種物と言われる温かい蕎麦になんらかのトッピングが乗った蕎麦、例えば天ぷらそばやきつねそばは一点豪華主義で、トッピングの大きさなどで勝負する。天ぷらそばは、やはりどんぶりをはみ出すような大海老が乗っているのが望ましい。
おかめそばは概ね5品程度の色違いトッピングが乗る。赤・緑・白など蕎麦とつゆとのコントラストで旨さや豪華さを感じさせる。ところが、絵心無い蕎麦屋の場合、そのトッピングがつゆの中に沈み込み、見た目がほとんどかけ蕎麦のようになることがある。これはさみしい。そばの中に沈み込んだトッピングを掘り出しながら食べるハメになる。なんて悲しい食事だろうk

同じことがラーメン業界でも起こる。天津麺やあんかけラーメン(広東麺)の場合、厚い餡がトッピングの沈み込みを防ぐ。炒め物が乗ったタンメンなども麺の上に野菜が山盛りというビジュアルがうまさを誘う。
ところが、チャーシューメンなどの扁平トッポピング使用メニューは実に悲惨な状況になりがちだ。スープの中に沈み込み、チャーシューとスープは同系色のため姿を消してしまう。

わかめラーメンのようにスープと対比が可能な色物であれば、それでも痕跡は窺えるが、茶色のスープにに茶色のチャーシューとなると忍法雲隠れの術が発動される。隠れているだけだからチャーシューの量が減るわけではないのだが、見た目にはがっかりとなる。

幸楽苑の新作海老味噌ラーメンが、まさに見てがっかりする典型だった。

メニューにある写真と見比べて欲しい。まるで別物ではないか。騙されたとまでは言わないが、もう少し店舗にトレーニングは行って欲しいものだなあ。美味しさは全ての体験の総合評価だから、見た目は大事なんだよね。なんといっても、食べる前に「完成品を「見て」、それから「食べる」のだからねえ。

見た目は別にして、海老の味が強く感じられる味噌ラーメンだった。ただし、この原型モデルは行列のできる、あの有名な海老蕎麦屋だと思う。原型の味を知っていれば、その差ははっきりわかるので、好みが分かれるだろうとは思う。
完コピ商品ではいただけないとは思うが、原型からどこを進化させて差別化するかというのは重要なことであります。だから、この商品は進化の途上という気がしましたねえ。来年に出るだろう改良版をまた試してみたいと思うが、その時はぜひトッピングが全部表層に存在を示してもらいたいなあ。

街を歩く

ガストで鶏肉料理

たまたまガストでランチをすることになった。あれこれ悩んだが、結局はチキンにした。ガストにはなんでもあるが、食べたいものがほとんどないという、とても困ったコンセプトになっている。値段も高泊まりしているし、低価格メニューはあまりにしょぼいのだ。なんだかなあ……………

というようなことを考えつつ、チキンを食べていた。似たような料理をサイゼリヤで食べるとそれなりの充足感があるのだが、このチキン鉄板焼きは今ひとつだ。基本的にファミレスのチキンはインへクションされたチキンを使うので、あまり差がないように思うが、食べ比べてみるとわかる。

まあ、元チキン屋としてはあれこれ考えさせられる代物だ。現在は為替の影響もあり輸入チキンと国産チキンの価格差はほとんどないのだから、国産チキンを使って品質改善を図ってみてはどうかと思うがなあ。
大度につける野菜?も、今ひとつ彩りにかける。そうした些細な改良が全体の印象を変えていくと思いますけどね。ファミレス業界でサイゼリヤ一人勝ちの意味をもっと外食企業経営者はもっと考えるべきだと思いますよ。

街を歩く

かき揚げそば 山田うどん食堂の朝

キャンプの帰りに山田うどん食堂で朝食を取ることが多い。早朝から帰り支度をすると、キャンプ場で朝飯を食べるのが面倒ということなのだが、朝の山田うどんは空いていてなかなか快適なのだ。

いつも食べるきつねそばではなく、ちょっとかき揚げでも食べてみようかと頼んみたが、出てきたのがこれだ。すごいかき揚げだった。食べるのも一苦労で、あまり朝飯向きではなかった。反省。

次回は、いつもの狐そばにすることにした。何事も学習だな。

街を歩く

コロナの遺物

2024年の春に撮影しました

2年前に立川のモールで発見したトイレナイのサイン。今でもまだ貼られているのだろうか。そもそも、蓋を閉めて水を流すことに科学的な意味があるのだろうか。感染拡大初期の頃にスーパーコンピューターを使い、ランニング中の呼気がどのように流れて、周辺にウイルスを撒き散らすかというシミュレーションをしていたが、あれとどこか似通ったもののような気がする。
擬似科学信仰とでも言えば良いのだろうか。UFOに乗ってエイリアンが攻めてくるとか、改造人間を駆使して世界征服を図る結社があるとか、そんな与太話と同レベルではないかと思う。トンデモ科学というやつか。

マスクをすればコロナにかからないというのはとんでもない暴論だと思っていたが、マスクをすれば人に移す危険性を下げられるといわれればなるほどなと思う。自分のためではなく、周りの人のためのマスク使用と言ってくれれば素直に納得しただろう。マスクで花粉は取り込めても、ウイルス除去は無理でしょう。くしゃみは咳に含まれる水分を、その中に含まれるウイルスごとマスクの生地で吸い取り拡散を防ぐというのがマスクの効用だろうと思うのだが。などとずっと思っていた。
マスクの効用を正しく説明する代わりに、三密などという「おバカ」な標語を偉そうに言っていた某知事がいた。そんな標語大好きな政治屋を筆頭とする非科学的な似非科学大好き連中は、まさに現代のインチキ祈祷師であり、エセ祭司であったなあ、などと思い出す。

先の大戦で「鬼畜米英」などという標語を編み出したのは、当時の有力メディア「新聞」を筆頭としたお先棒担ぎの面々だった。戦意高揚という名目で戦争翼賛すると販売部数が伸びたそうだ。戦争賛美が商売のネタだったから、どの新聞も戦争を煽った。大本営発表に一番喜んでいたのは真武屋だろう。
コロナの時も同じで、コロナは怖い、みんな死んでしまうぞ、と煽れば視聴率は爆上がり。恐怖を煽ることこそ最上の商売ネタになった。
「戦争」も「大規模感染」のどちらの場合も、メディア業界の先頭に立って騒いでいたのは「おひさま」マークのメディアだったというのが笑える。企業の体質などなかなか変わらないものだ。まあ、それに踊らされて新聞を買ったり、特定なテレビ局の番組を見ている者の責任を問わないというのが、お役ソックごとではあるのだけれどね。本当のバカはどいつだろうか。踊る阿呆に見る阿呆……………だよね。

今年はコロナの代わる新ネタが登場した。海の向こうの戦争で石油が足りないと騒いでいるのだ。もう少ししたら節電とか省エネとか言い始めるのは間違いない。最大の省エネはテレビを見ないことだろうと言いたくなるが。
人とは変わらないものだ。特に、怪しい政治屋や泡銭を稼ぎたい連中は、いつの時代でも同じ手法で、大衆の不安を煽ることで金儲けをするのだなあ。

ということを考えさせてくれる「良いサイン」が、まだ貼られているか確かめに行ってみようかな。このショッポングもールの蕎麦屋は美味しいので、そのついでにでも。

街を歩く

今年の桜も見納め

世間的には入学式が行われる頃、自宅近くの公園で桜が散り始めていた。今年の桜ももう見納めかなと少し寂しくなる。ここ数年は関東の桜を見終わった後、北国へ移動して時期をずらした花見をしていた。桜前線と共に北上旅行を企んだこともあるので、桜は年に何度も見るものだと思っていたが、今年は移動が少ない定住生活をしているので(笑)、これが桜の見納めになるはずだ。

桜の時期、花見をしたりしなかったりだが、記憶に残る花見はやはり一人で自転車に乗って遠出した時だろう。不思議と家族で花見をした記憶がないが、子供達が小さかった頃は花見の季節こそキャンプ始めのタイミングだったから、キャンプ先で桜を見ていたのだと思う。

折り畳みの椅子と総菜屋で買った弁当を持って、あまり人が来ない川沿いの桜を見に行く。桜を見ながら弁当を食べ、ゆったりとする。こんな花見は自分だけではないと思う。おそらく昔から、この時期はゆったりとした時間を日本人は過ごしていたのではないか。

桜の花の下で宴会をするという文化が生まれたのはいつの頃からなのかわからないが、平安時代にはすでに高貴なる方々が花見をしていたらしい。花見の話が落語にも出てくるのだから、少なくとも江戸時代には庶民の楽しみになっていたはずだ。
今では幼稚園でも花御をするらしい。老若男女、花見が大好きだから、春は平和だなあ。

街を歩く

記憶にない不思議な食べ物

さっぱり思い出せない幻の味だ

自分で撮った写真を見て、これは一体なんだったのだろうと思うことがある。記憶力の無さの現れだが、これまでは写真を見れば思い出せると思い込んでいた。最近は、それが怪しくなってきている。スマホのアプリに日記帳的なものがあり、それに記録すれば良いのかもしれない。
それほど大袈裟なこともせずに、できれば写真のファイルにメモを書き込めれば良いのだがなあ、などと思っている。

この写真をじっと見ていて、どうやらコーンちゃんぽんのようなものだったのではないか。麺の姿が見当たらないが、かまぼこやさつま揚げみたいなものが載っているので、きっとリンガーハットで食べた季節限定商品だったのだろう…………どこか他の店でちゃんぽんを食べたかなあ?

まあ、この写真がなければ、このメニューの存在自体思い出せないはずで、(思い出す必要もないかもしれないが)忘れてしまって良い短期記憶なのだ。

などとあれこれ考えていたが、肝心なことが思い出せない。このメニューの味はどうだったか、うまいと思ったのか、もう2度と食べないと思ったのか。味に関する記憶がすっかり抜け落ちている。忘れているくらいだからあまり感動もしなかったのだとは思う。都合の悪いことはすぐ忘れるのは、案外と便利なことなのかもしれない。

街を歩く

かもせいろ

2年前に食べて、それ以来食べた子はない、多分一生のうち、最初で最後のカモせいろ

かもせいろというものを初めて食べたのは3年ほど前もことだった。蕎麦屋で食べるといえば、もりそばかざるそばがほとんどで、せいぜい冬場におかめそばを食べるくらいのバリエーションのないそばライフを送っていたせいだ。
かもせいろの存在を知らなかったわけではないが、注文する気が起きなかっただけだ。ただ、ここしばらくかしわぬきや天抜きで酒を飲むことが増えたせいで、暖かい梅雨のそばを食べても良いかなという気分になっていた。

蕎麦屋のカレー丼は好きでよく食べていたが、あれも考えればカレー南蛮の頭を白飯の上に乗せたものではないかと気がつき、蕎麦屋の使い方というか注文の仕方を変えようと思った。少なくとも、一度も食べたことのないそばを一度は試してみようかと思うくらいにはなった。

その第一弾がカモせいろだったのだが、これはなかなか贅沢なそばだなと感心した。武蔵野うどんの肉汁うどんというメニューが好物だが、それのそばバージョンというところだ。というか、こちらが原型なのではないかな。

まだ食べたことのない蕎麦シリーズでいえば鴨南蛮が筆頭だが、カレー南蛮もチャレンジ対象だ。餅の入った力蕎麦も食べたことはない。ということで本日は蕎麦屋に行くことに決めました。

旅をする

思い出の一品 土佐カツオ

これは24年の夏鰹 脂が腸と良い具合に乗っている絶品でした

高知県の漁師町に一軒の魚屋がある。そこの大将とは長い付き合いになる。その街に行く旅に美味いカツオを食べさせてもらうのだが、何年も通い続けるうちに季節によりカツオの味が変わると伊野尾は理解できるようになった。

漁師町の人たちは毎日?のように立派なカツオを食べているので、どうやら舌が繊細すぎるらしく、自分が上手いなあと感度王しているカツオでも、あれこれと微妙な批評をなさってくれるので、こちらはカツオに関してバカ舌しか持っていないと思い知らされる。ちょっと悔しい。
おまけに、毎日?のように食べているせいか、食べるとしてもせいぜい一切れか二切れでおしまいになる。

かくして、自分を艦隊してくれて出されてきた、大盛りの鰹刺身と藁焼き叩きの大皿を黙々と食べることになる。これは至福の時だが、流石に大皿の半分も自分一人で食べると、もうしばらくはカツオは勘弁ねという、大変贅沢な心持ちに達する。まさにカツオ三昧を実感する。
この大皿を半分食べると、おそらく500g程度の鰹を平らげたことになる。ステーキで言えば1ポンド超の巨大左に匹敵する。

お江戸では絶対に味わえない鮮度よく選別された鰹のエリートを、飽きるまで食べるという贅沢を味合わせてもらえるのだから、文句を言ってはバチが当たる。その名を聞けば誰でも知っているというようなシェフたちが噂を聞きつけ、この片田舎の漁師街に鰹を食べに来るのだから、やはり本物の一品だろう。

春が来てカツオが上がり始めているという、魅力的なお話も伝わってきたし、そろそろ今年のカツオツアーに行かなければなあ。