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断捨離日記3  バリ島の映画

画像はAmazonのDVDサイトから 比較的お安く買えるので驚いたです

映画館で予告編を見るのが好きだ。本編以上に予告編に期待していたりもする。おかしいとは思うが予告編だけ1時間くらい上映してもらえないものかとずっと思っていた。
予告編を見て来月はこの映画を見ようとか決めるので、リピート客獲得には最適な手段だろう。そんな予告編ファンなのだが、予告編でみよ王と決めた映画を何らかの都合で見逃してしまった映画も多い。「神様はバリ島にいる」もその一つで、たまたまBS放送で流れていたのも録画して、そのまま放置して10年経ってしまった。断捨離作業の一つとして撮り溜めていた映画をしっかりと一度見て処分するという上信を決め、しゅくしゅくと進行しているのだが、何でこんな駄作を録画したかと我が意識を疑うようなものもあれば、ああ、これは映画館で見たかったなあと思う秀作も多い。この映画は確かに映画館の大画面で見たかった。バリ島の絵の美しさもあるが、何より主人公「兄貴」のせりふ(強烈な関西弁?南大阪弁?)を大音量で聴きたかったなあ。

このお話には実在のモデルがいて、Youtubeなどで見ることもできる。本当に面白い人らしい。各種動画サイトでも、この映画は有料配信されているので日本映画としては珍しい「優秀作」として常時配信作品として扱われているのだが、これも日本映画としては珍しい第一級のコメディーに仕上がっているおかげだろう。
監督の過去作品を調べてみたら、随分とみたことのある映画があった。この監督のテイストが意識しないまま好みになっていたらしい。

紹介・予告編はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=ku230uuCIxM

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断捨離日記2  ホイチョイ作品

Amazonからの引用です 
連載されていたもののベスト版が出ているのは知らなかった

バブル期絶頂の頃、よく読んでいたコミック作品が「気まぐれコンセプト」だった。当時の若手社会人の日常行動をユニークな切り口で面白おかしく描いていた。同時代人としてなるほどねえ、と感心することも多かった。そのホイチョイプロがこれまたトレンディー(当時の流行語だ)なテーマで映画を撮り、これがヒットしていた。

そのホイチョイ三部作が20年ぶりくらいに放送された時に録画していた。昔懐かしいという理由だったと思う。見直してみると映画の筋よりも登場する風景や物に惹かれてしまった。当時はまだ携帯電話機がハンドバッグのような大きさで、反社会的集団の方くらいしかお持ちではなかった時代だ。
頻繁に公衆電話から電話をかけるシーンが出てくる。ネットが一般的になるのwindows95の発売以降だから、この時期にはまだ出現すらしていない。企業オフィスシーンでは懐かしのフロッピーディスク付きワープロがあったり、プレゼンではスライドフィルムが使われている。ああ、懐かしい。
この後はプレゼンにOHPの投影機が使われ、そしてプロジェクターへと変化していった。パワーポイントが新入社員の必須スキルになって行く10年前のお話だ。

三部作のラインナップは
「私をスキーに連れてって」 主演 原田知世 三上博史
メインテーマはスキー(スノボではない)
「彼女が水着に着替えたら」 主演 原田知世・織田裕二
メインテーマはダイビング
「波の数だけ抱きしめて」 主演 主演:中山美穂 織田裕二 
メインテーマはサーフィン(だが、サーフシーンはほとんど登場しない)

今ではベテラン役者になっている俳優ばかりだが、当時はバリバリのトレンディー俳優で、時代を代表する「タレント」だった。この三部作で一番トレンディーな(笑)テーマは、金持ちの若者たちが遊んでいる何でしょうというものだ。それが第1作のスキーだった。
金曜夜には長野や群馬のスキー場に出かけて行くのがブームになった。そんな時代だったのだが、貧乏人は深夜バスで、金持ちは自分の車でスキー高を目指す。その差は決定的だったし、貧乏人はスキーヤーズベッドといいう仮眠設備に泊まり、金持ちは別荘や豪華ペンションを使う。遊びにもこの辺りの差別感覚が存在した。そんな時代だった。その時代を反映して金持ちサイドを描いているからこそのヒットだったのだろう。
お話もラストシーンのアクションはちょっとやりすぎだが、全体的な時代感がよく出てそんないる。田中邦衛さんもまだまだお元気だったなあ。


2作目はルパン三世のオマージュ的な冒険宝探しドタバタコメディーで、マリンスポーツという金ら遊びをテーマにしていた。1作目のヒットより監督に遊ぶ余裕ができたのだろうか、金持ちの若者の遊びから富豪の道楽宝探しへと進化??した。主演の原田知世の性格もちょっと強めになっている。
3作目はトレンディー俳優を配置したが、設定は大学生の夏休みであり、ほろ苦い悲恋物という、2作目のエンタメ路線から微妙に離れていった。テレビのトレンディードラマに擦り寄った感が強い。おまけに遊びのテーマはサーフィンという、一段とお手軽なもの、つまり日常的なものに近づけている。
作品的にはどれもヒットしたし、スキー・スキューバダイビング・サーフィンをトレンドとして巻き起こした遊び・スポーツを広めた意義は高い。その後のスケボ、スノボ、ウィンドサーフィンなどへ広がっていっきっかけともなった。
ただ、映画としての完結度でいうと2作目が一番良かったように思う。

映画館でみていたはずだが全く記憶に残っていないので、みていなかったのかもしれない。ほぼ30年ぶりにみた映画だから、お話よりもなつかしさが先にたってしまったが、平成初期の時代背景や文化を学ぶためには良い教科書的作品でありますね。あと20年もしたら某国営放送の朝ドラでこのバブル時代が設定で使われそうな気がする。その時は、俳優にダイヤル式電話の掛け方を誰かが教えてあげないとね。駅前の電話ボックスも再現しないと。

今でも現役らしい、ホイチョイプロのリンクはこちら  ↓
https://www.hoichoi.jp/news.html

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断捨離日記 映像編1

コミック版一巻の凝視画像 アマゾンからのリンクです

現在進行形で断捨離をしているが、最大時は千冊以上持っていた本も残りは五十冊程度になった。年内にはほとんど処分が終わると思う。300枚近く持っていたCDも残りは30枚程度。どちらも一度デジタル化した後で躊躇うことなく処分できた。

問題は撮り溜めてみてもいないまま放置していたDVDなどの映画、ドラマなどだ。これもみないで捨てるのはどうにもやりきれず、一度見たら捨てると決めて、順番に処分している。残っているのは2017年まで録画したものが大半で、それ以降は光学ディスクに保存するのはやめたので在庫はそこで止まっている。
2018年以降はハードディスクで録画していたので、いつでも見ることができるとたかをくくっていたらディスククラッシュが起きて全滅した。まさかの強制断捨離だった。ただ、見損なったとか惜しいとかいう気持ちも起きないので、それで良いのだろう。何のために録画していたのか、そもそもが疑問なのだ。

残った光学ディスク録画ライブラリーを見ると、なぜこんな物を録画がしたのだろうと思う迷作もそこそこある。例えばジャッキー・チェン主演作品はほとんど録画していたが、見直してみるとあまり面白くない。自分の嗜好が変わったとしか思えない。これはまとめて断捨離対象となった。
だが、好みの書籍やコミックが実写化された物やアニメ化されたものが多い。映画館での上映を見逃した作品がほとんどだ。映画は概ね封切りから3-4週間で打ち切られる。それだけの期間があるにも関わらず、封切りタイミングで見損なうほど、当時は忙しかったのだろうかと我ながら不思議でもあり呆れてしまう。

コミックである原作「僕だけがいない街」を初めて読んだ後、しばらくして映画化された。あの長い話をどう映画にするのだろうと思った記憶がある。コミックがアニメ化される場合、概ね3-4巻で1クール分、12話ー13話になることが多い。アニメ作品一話は大体22分程度。オープニングとクルーズ分を除くと中身は18分程度だろう。1クール分を前編とのつなぎ部分も取り除いて、全編をまとめると3時間程度の分量になる。
この原作コミックは全8巻なので、ストーリーを忠実にアニメ化すると最低でも6時間が必要になる。実写映画版は2時間だから内容は1/3に圧縮される。それでは、流石にお話として成立させるのは無理だろう。せめて第一部、第二部くらいにする必要があるボリュームだ。

というようなことを考えていて、映画館では見逃して物をわざわざ録画したのだろうと思う。それを10年経ってみたのだが、意外と面白かった。原作コミックを読んだ記憶が薄れていたからだ。曖昧に犯人は覚えていたが、それも定かな物でもなく、映画の筋を追うのに無理はなかった。

主演の二人もなかなか良い演技だったと思うが、有村架純は同時期に主演していたビリギャルの方がうまかったように思う。藤原竜也はどうしてもバトルロワイヤルのイメージが強す流ので、こうしたミステリー物は気分的に落ち着かない。だが、面白い映画だった。

原作コミックはすでにに処分してしまったので、もう一度読み返すにはレンタル本でも借りてくるか、デジタル版を手に入れるしかないのだが(もはや在庫は増やしたくない)、どちらにしても目に優しい読み物ではない。

高齢者向けにA4縦型の軽量なコミック・書籍専用リーダを販売してくれない物だろうか。現在販売されている大きい画面のiPadよりもひとまわり大きい物だ。おまけに重量はKindleより軽いものにして欲しい。

本好きの高齢者向けには売れそうな気がするのだけどなあ。それがあれば、もっと断捨離が進むのだが。

コミック版を読んでから映画を観るのをお勧めします。

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日本の馬のあれこれ

Photo by Zain Abba on Pexels.com
写真を見ればわかるが、明らかに馬が大きい サラブレッド系だろう
日本在来種より速く走れるはずだが、鎌倉時代どころか戦国時代ですら存在していない馬種だ

前回は会津で馬刺しを食べた時の話だったが、それで馬について思い出したことがある。そもそも日本の馬は大陸から半島経由で西日本に持ち込まれたはずなのだが、馬の放牧に適した場所は阿蘇や南九州各地にあったらしい。当然、馬の繁殖を得意とする種族は裕福になった可能性がある。
ただ、古代ヤマトにおいて騎馬戦という戦闘形式がなかったようで、おそらく高位軍人の移動手段くらいだったのではないか。古代ヤマトが唐帝国と新羅に半島戦で完敗した以降に騎馬戦力の充実が始まったらしい。その頃の馬の主産地は現在の群馬県から福島県あたりに移っていたようだ。古代ヤマトにとって東国は有力馬産地として厚遇した。

その古代日本の馬産地の名残が、今の馬刺し産地になっているのだと個人的には納得している。ただ、現代の日本にいる馬は明治以降に軍馬として輸入されてきた大型馬が主流で、アラブ系の大型種だ。一般的に見かける馬は競馬馬とその放出された馬がほとんどだろう。
北海道で細々と飼われている農耕馬はもっと大型で足も太い。競馬馬のように早く走るために改良された馬とは異なり、ヨーロッパで農耕と軍役に使われたものだ。ただ、映画などで騎乗シーンが出てくる時は、洋画邦画のどちらも見た目の良さのためかいつでもサラブレッド系の早く走る馬がほとんどだ。リアルではないのだ。

さて、馬刺しの産地(笑)で生産されていた馬は、ヨーロッパ系の農工場でもなく、アラブ系の軍馬でもなく、東アジアの伝統的な馬、つまり小型種だった。現在では飛騨や与那国で飼われている小型の馬だ。大型馬の肩高は人の背丈に近いものだが、日本在来の小型馬1m程度、つまりポニーと呼ばれる馬程度の大きさだ。成人男子の平均身長が150cm代であった古代日本では小型馬の方が使い勝手は良かったのかもしれない。

ただ、映画で見るような大型馬が一斉に爆走するような迫力はない。かの有名な武田騎馬軍団も現代的な視点で見ればちょっと情けないかもしれない。

鎌倉で行われる流鏑馬(騎乗からの弓射)や京都の葵祭で行われる馬の競争も、現在は大型馬が使われているから、あれは史実とはちょっと異なるイベントだろう

ただ、モンゴル民族による世界征服は、この小さな馬にまたがって行われていたので、小さいから能力に欠けるということはないだろう。現在的な大型場に見慣れていると、小さな馬に人がちんまりと乗っている微妙な違和感はあるが。
ちなみに、この史実を忠実に習い蒙古馬を使ってモンゴル民族帝国の勃興機を描いた映画がある。「蒼き狼」(角川映画だったはずだが)を見ると、小さい馬の騎馬戦が見られるので興味がある方はご覧ください。

馬刺しから連想する古代ヤマトとモンゴル帝国、実に雄大で歴史的なテーマでありますよ

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会津で御膳

料理の中身より、様式美をいうものに気をつけている …………… そんな気がした

馬肉といえば熊本と思い込んでいたが、よくよく考えると馬産地は東北こそ本場であったはずだ。会津には蕎麦を食べに行ったことがあるが、馬肉料理はすっかり失念していたので、思い切って会津の名物を食べに行った。3年前の夏だった。
何年か前の春先に会津に行った時、会津の居酒屋は不埒と入れる場所ではないと勉強した。観光地であることも理由なのだろうが、ちょっとなのしれた店は予約なしでは入れない。週末だけではなく平日もほとんど不可という状態らしい。ふらりと入れるのは全国チェーンの店と回転寿司くらいしかない。
馬刺しが名物の店は一ヶ月前から予約して、開店早々にタクシーで乗りつけた。それでも15分後には満席なっていたから、やはり人気店は予約が絶対必要だ。

その馬刺しの店で、まず最初に出てきたのが、お通しというにはあまりに立派なお膳だった。これだけで十分に酒が飲める。これが会津的なもてなしなのかはわからないが、岩手の居酒屋に行った時も似たようなお膳が出てきたことを思い出した。

うまく言えないのだが、これが東日本的なもてなしの原型なのではないか。あるいは昔の風習が今でも残っていると考えるべきか。
大阪以西のあちこちでいろいろな物を試してきたが、この手のお膳でご飯みたいなスタイルはお目にかかったことがない。長崎でであった、卓の上にご馳走が並ぶしっぽく料理みたいな物はある。あるいはこつの皿鉢料理のような、全てをてんこ盛りにした大皿料理もある。順番に料理が出てくる懐石料理も当然ある。


ただ、この会津スタイルのお膳は見たことがない。どこからのこの東西食文化??の違いが生まれているのかはわからないが、おそらく西国の方が明治以降、合理的な生活様式を先進的に取り入れ、旧来型の食文化みたいなものは変容、進化させたのではないか。東日本、特に東北は、そうした変容から取り残された疑いがある。
東北、北海道には西日本ではありえない冷害が頻繁に起きていた。西日本の災害といえば大雨かひでりになるが、 日照りに不作なしというように例外のような酷い事態は起こりにくかったようだ。そうした農業の違いが経済格差となり文化的な違いを生み出す。

さっぽろ味噌ラーメンと博多とんこつラーメンの差を考えるとわかる。ラーメンという渡来文化でさえ、これだけの南北地域差を生み出すのだから、お膳の有無くらいの差はあって当たり前なのかもしれない。などと、馬刺しを食べながら歴史的考察に耽っておりました。

会津の馬刺しはうまいぞ。。

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七夕は旧暦で>

3年前の夏、7月の渋谷で七夕イベントが

学生時代に知ったことだが、旧暦での行事は中国大陸の指揮に合わせて設定されているということだ。旧暦の正月、新年が現在の暦で言うと2月上旬になる。つまり全ての月で1ヶ月ほど遅い。一年で一番寒い時期を正月に設定していることになる。立春や立秋という季節の変わり目が感覚的にちょっと違うなと感じるのも、そのせいなのだろう。七夕は旧暦7月なので、秋の始まりのイベントのはずだが、現在の日本の気候で考えれば猛暑の時期にあたり、夏のピークにも感じられる。

七夕を暦通りに7月に行う地域(例えば東京周辺)と旧暦で行う地域(東北や北海道)の違いはなんだろうと考えたことがある。明治新政府の方針で新暦が始まった時、おそらく政府のある東京では全ての旧暦イベントが1ヶ月変更されてしまったのだろう。政府の強権発動というやつだ。(自分の勝手な推測です)
そしてアンチ明治政府であった東日本(戊辰戦争の敗戦地域)は、それに従おうとしなかった……………みたいな歴史があるのではないかと思う。一度、戦勝地域である西日本の七夕がいつ行われているか調べてみるのも面白いか。

ただ、お盆時期が旧暦通りに8月中旬になっているのは全国的な風習で、日本民族大移動の時期でもあったが、今では等なのだろうか。帰るべき田舎はすでに高齢化と過疎化の波に飲み込まれ、昭和初期の山里風景など消滅寸前だろう。
ふと気がつけば、今年のお盆時期にテレビCMでは、田舎に家族が集まってのイベントみたいな話は全くみなかった。すでにお盆の持っていた記号性、親戚が集まり先祖を偲ぶイベントというアイコンは消滅してしまったらしい。

まあ、大陸中国、それも中原の気候に合わせた暦など、現在進行形で気候変動を起こしている日本には、全く意味がないのも間違いない。長くて暑い夏とどこかに行ってしまった春と秋、そして梅雨の時期にはゲリラ雷雨の襲撃という、怪獣映画に出てきそうな激烈な気候だ。

七夕に夜空を見上げて天の川に思いを馳せるなどというイベントは、もはや歴史書の中にしか存在しない。

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居酒屋のおにぎり

居酒屋に行って、締めのおにぎりなどほとんど頼んだことがないのだが、3年ほど前にある本の影響を受けて、炭水化物で酒を飲むということに凝っていた。
酒のつまみとして、チャーハン、焼きそばを頼むというもので、これは腹が膨れて酒が飲めないではないかと、酒飲みの思い込みでバカにしていたのだが……………

やってみると意外といける。流石に白飯で酒を飲むのは難しい気もするが、焼肉屋でビールを飲む時は白飯が必ずテーブルに乗っているのを思い出した。牛丼でビールを飲むのはしんどいが、カツカレーであればいけそうな気がする。勝つとルーを楽しんだ後、残ったカレールーと白飯で占める感じが良さげに思える。

そんなことを思っていた時期、古い友人と居酒屋に行ったら、まだ締めの時間には到底届いてないタイミングで、いきなりおにぎりを人数分注文したので、おやまあ、と呆れていた。彼は酒を飲む時にあまり物を食べないタイプだったので、余計に驚いた。
おにぎりの研究でも始めたのかと思って尋ねたら、普通に食べたくなっただけだという答えが返ってきた。

結局、付き合っておにぎりを食べ、そのあとものみつづけたが、なぜか翌日の体調が良い。どうやら酒を飲む途中で炭水化物を適度に摂るのが良いみたいなのだ。カロリー接収を考えると決してお勧めできない手法だが、それであれば最初から酒など飲まない方が良い。何事にも次善の策というものはある物だ。

このおにぎりを焼きそばや炒飯に置き換えて実践してみたのだが、確かにうまい。ただし、翌日の体調は良いのだが体重は確実に増える。困った飲み方なのだ。

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Street smart 実践編 in Hawaii

Teacher and students learning Hawaiian English beside a beachside whiteboard
Students practice Hawaiian English phrases during a lively outdoor lesson by the sea.

お盆も終わり、夏もピークを過ぎたかなと残念に思う時期になって、少しばかり昔のことを思い出していた。常夏の南国暮らしをしていた頃のことだ。


25歳の時、語学研修ということでハワイに1年間行った。働きながら実践的に英語を覚えるという趣旨だったはずなのだが、週5日は店舗勤務、2日休みという日本にいるよりも良い労働観だった。結果的に随分と怠惰な南国暮らしをしていたのだ。だが、憧れのハワイと言って浮かれていたのは1ヶ月だけ。すぐに飽きた。

オアフ島は東京23区くらいの島なので、2-3回休日に出かけるともう見るところもない。サーフィンでも趣味にしていれば別なのだろうけれど、ハワイで楽しめるような趣味は持ち合わせていなかった。2ヶ月もしないうちに日本語の活字恋しさが募り、ハワイ発行の日本語新聞を購読するようになった。今であればネットで同時的に日本の情報も手に入るし、ネット版で本も読める。当時を思うと夢のような話だ。
日本語の活字に飢えてあれこれ探していたら、ワイキキの観光案内所とJAL支店に併設されている観光案内コーナーで1日遅れの新聞や雑誌が読めることがわかった。
また、古本屋に行くと英語のペーパーバックと一緒に日本の文庫本もあった。どうやら日系人の放出品らしい。それでも足りずに英語のSFペーパーバックにも手を出した。
そんなこんなでハワイ暮らしになれたのは滞在3ヶ月後あたりで、すでに観光名所など全部征服しているので、休日には地元のフィッシュマーケットに行くとか、地元の博物館に行くとか、ロコ的な楽しみ方に変わっていた。食生活もすっかりアメリカ風に染まり体重は10Kg増え、日本から持って来た服は着られなくなり全て買い直した。

肝心の語学だが、これは働きながら従業員と話をするのが一番良いと思っていた。それなりに話す語彙も増えたのは良いのだが、基本的に店舗で勤務しているのは大多数が高校・大学生のアルバイトであり、いわゆる若者言葉しか話さない。英語の教科書には出現しない言葉やフレーズのオンパレードだった。日本で言えば、「チョーすげぇー」「マジ??」「やばくね」みたいなものだろうか。Fではじまる4文字言葉は最頻出現語だった。

おまけに、サモア語が多数混在している。Aloha こんにちは や Mahalo ありがとうは当たり前に使われるので英語の単語に追加してサモア語も覚えなければいけない。おまけにハワイ独特のイントネーションやアクセント、語尾にはyeahをつけるなどなど、これも英語なのかと驚いてしまう。そして、ハワイは移民文化なので、インド訛りとかフィリピン訛りが多い。まあ、おかげで自分の日本訛りも受け入れられたのだろう。結局、日本の学校教育で習ったことはほとんど役に立っていない。
一年もそんな暮らしをしていると、完全にハワイ訛りの英語を喋るようになっていた。日本でも山形弁を話すアメリカ人がテレビに出演していたが、おそらくあんな感じだったのだろう。

その後、アメリカ本土にいるアメリカ人の友人に指摘された。まあまあ、英語はしゃべっているが、訛りがあるねえ……………それに、随分と乱暴な言葉遣いだなと。

どうやらハワイ訛りの不良学生的な英語を覚えてしまったらしい。ハワイでガールフレンドはできなかったが、何店舗か勤務先が変わり、そこでは若い女性従業員たちちが日本人を面白がられてよく話しかけられていた。何人もが熱心に英語を教えてくれた。彼女たちには感謝しかない。思い返せば、まさにストリート・スマートな英語学習法だったのだと。

ハワイ訛りが取れるのには5年ほどかかった。乱暴な言葉遣いは、注意しているのだが、いまだに治っていないらしい。日本語を理解するアメリカ人によく揶揄われる。日本語で喋る時はすごく丁寧に話すのに、英語で話すときは随分と乱暴だねと。うーん、ストリートスマートの限界だろうな。ビジネス英語はやはりアカデミックに学ばないといけないらしい。

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生きた英語を学ぶ時 Street smart

Lavender-haired anime student with spiral eyes, sweating and looking dizzy
A lavender-haired anime student appears overwhelmed, surrounded by swirling stars and colorful motion effects.

まだ大覚醒の頃の話だが、当時付き合っていたガールフレンドのいとこがアメリカからやって来た。女の子二人で、どちらも小学生だったと思う。二人ともアメリカ生まれアメリカ育ちで日本語は話せない。
なぜか、その二人の面倒を半日ほど見ることになった。母親が用事があり出かけてしまうのだが、その間に面倒を見る英語が話せる人間がいないということだった。
こちらが英語を話せると勝手に思い込まれてしまったらしい。英会話の講義はとって入るが、それで英語が話せるので、世の中に英語で苦労するものはいないだろう。おまけに昼飯代を渡されると、二人を連れてどこかへ行けと追い出された。

まあ、子供好きなのでなんとかなるだろうと鷹を括っていたが、相手はアメリア歌人の女の子で、おそらく人生で一番話好きな年頃だろう。日本の世界が面白いのだろうか、ノンストップでアレは何、これはなにの連続だった。念のために持っていた辞書など役にたつはずがない。

結局、身振り手振り、鳴き声、モノマネなど語感に訴えるジェスチャーが最強兵器だと理解した。ただ、これが通じるのは単語まで。例えば、腹が減ったとか歩き疲れたとかトイレに行きたいとか、まとまった表現になるとあまり通用しない。例えば、お腹を抑えても腹が減ったのか腹が痛いのかがわからない。

そんな半日の間で覚えた言葉くを一つだけ鮮明に記憶している。目が回る → I am dizzy というのだ。二人の前で立ったまま数回転してフラフラと歩く姿を見せて教えてもらった。そのと時におそらく自分はこの言葉は一生忘れないと思ったが、その通りで、今でも覚えている。

後に、英語を覚えるには英語を喋るガールフレンドを作るのが一番だと教わったのだが、やはりそれは正解だろう。この時の小学生二人は、まさに熱心にこちらがわかるようにお話しするガールフレンドだった。学校の授業などより数十倍効率の良い勉強法だ。

ちなみに学校ではなく、体験で、つまり街頭で育った頭の良いやつをStreet smartというのだが、確かに人生に役立つという意味では、そいつには敵わないなと思う。

この時の経験が生かされるのは、それから5年くらい後のことだ。

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日本橋三越

ずいぶん昔になるが、オーストラリアから客人が来た時に、東京都内の案内役をすることになった。お江戸界隈に住んで数年経った頃で、ようやく路線図があれば都内のあちこちに行けるようになった頃だ。当然だが、銀座などほとんど行ったことがない。もちろん日本橋も浅草も未体験であり、せいぜい渋谷と新宿が地図なしで歩ける程度の土地勘しかない。原宿は竹下通りに一回だけ行ったくらいで表参道など歩いたこともない。そんなウブというか無知な頃だ。
観光案内などできるはずもないが、仕方なしにお江戸のガイドブックを数冊買って来て、受験勉強並みに集中読破した。名所とその場所を大まかに地図で確認して。
当時は、当然ながらネットなど存在もせず、すべての情報は紙と口コミがすべて、なんとおおらかな時代だったことか。

そのオーストラリアからの客人が、なんと盆栽が見たいという。調べてみると大宮の盆栽村が有名らしいが、そもそも大宮にも行ったことがない。幸いに会社の方で運転手付きの車を用意してくれることになり(自分が都内の運転はできないと直訴した)、盆栽は日本橋三越の屋上に立派なうりばがると言割れた。
また、日本情緒あふれる土産を買いたいという要望もあり、それは原宿表参道にある「外人向け土産物店」を教えてもらった。その日のコースは原宿経由日本橋と決まった。

現地案内人兼通訳みたいな役割だったのだが、情けないことにほとんど役に立てなかった。原宿では日本史の知識がないと、並んでいる土産物の説明が難しい。特に陶磁器や書画については、歴史的知識が必須だ。反省した。日本人でありながらあまりに歴史を知らない。高校時代に日本史の時間は寝てばかりいたことを深く深く後悔した。

盆栽に関しても同様だが、こちらは売り場の担当者が専門的な知識を持っていたので、なんとかこなせたと思う。専門用語は全部そのまま翻訳せず(出来ずに)説明したが、それで結構満足してもらえたようだ。盆栽の英語での発音は「ボン・サーィ」という感じなのだと初めて知った・

さて、そのボンサーィこーないに行く前に、かの有名な天女を初めて見た。おお、これが日本橋三越のシンボルか、と感動したのだが、これまた説明できなかった。天女を説明するにはかなり深い仏教知識が必要だ。最低でも真言宗に代表される曼荼羅世界と天界・極楽のヒエラルキー制度を理解していなければ無理だ。苦し紛れに仏教における天使のようなものという、全く珍説を披露してしまった。

以降、猛烈に反省し、お江戸の名所・宮跡に関しては相当お勉強をして嘘をつかない程度の知識は手に入れたが、受験勉強以降であんなに勉強した記憶はない。若気の至りなどと忘れることはできない苦い思い出だ。

来週は久しぶりに日本橋にでも遊びに行くとしよう。