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大三島の風景

大三島バスストップで高速バスを待っていた。目の前には生口島につながる大橋が見える。なんともフォトジェニックな場所だ。瀬戸内の海は穏やかで、秋だというのに汗ばむくらいの陽気で、実に快適だった。この穏やかな海を戦国期には海賊が横行していたのだから、なんとも不思議な気がする場所なのだ。

その景色の中を自転車の大集団が通り過ぎていった。しまなみ海道はサイクリング愛好者にとって垂涎の場所らしい。ざっと見た感じで30-40人くらいの自転車乗りが通過していったが、どうもペースメーカーの掛け声、それもハンドマイクを使った大声なので、なかなかにやかましい。
ぺースおとすなとか、あと500M?頑張れとか、必死で漕げとか、壮絶な絶叫モードで号令をかけるのも、自分で自転車を漕ぎながらなのでそれなりに大変だろうと感心はした。が、やはりうるさい。ひょっとするとサイクリングツアーのガイドというか、ディレクターなのかもしれない。大変なお仕事だとは思うが………
都会の選挙カー並みの騒々しさだった。選挙カーといえば、あの候補者名を連呼するたびに、こいつには絶対投票しないと思う。そう考える有権者も多いはずだが、なぜあれほど候補者(というなの騒音源)は叫ぶのだろう。票を入れたくない奴の名前ほどよく覚えるというのは、選挙カーの皮肉だな。

大三島の神社の前に土産物屋が何軒かあり、その中の一軒が「まんじゅう屋」だった。普段は饅頭などに手を伸ばすこともないのだが、この時はちょっと気が変わった。フラフラと店頭にまで引かれてしまった。神の島のおまんじゅうと書かれてある。ちょっと気になるというものだが、ひょっとすると神のお告げだったのかもしれない。
「今日は我が饅頭を食べよ、そして崇めよ」ということかなあ…………

店の看板を見ると、どうやら村上さんの店らしい。ひょっとすると海賊親分たちの何十代後の子孫かもしれないなと思って笑ってしまった。海賊の子孫がまんじゅう屋になるとは、なんとも平和な業務転換ではないか。時代に合わせて人気商売を選ぶのは大事なことだ。
今でも海賊を続けていれば、祖業とは言え水先案内人ではなく水上犯罪者にしかなれない。皆に愛されるまんじゅう屋への転身は大正解だ。

饅頭は出来立てで、2種類あった。白い方は温泉地によくある蒸しまんじゅうみたいで賞味期限が1日限り。茶色い方が神島まんじゅうで、こちらが本命の土産物饅頭のようだ。
久しぶりに饅頭を食べたが、どちらも甘さ控えめで美味い。が、神のお告げは降りてこない。それがちょっと残念ものだった。饅頭一個で神のお告げを願うのは不謹慎というものだろう。
少しは神様にあやかれたと思いありがたく感じるの正しい饅頭のお作法だ。とりあえず、ご利益、ご利益と唱えながら完食した。大三島は良いところだなあ。

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瀬戸内 バスの旅で海賊島を見る

今治から1時間強かけて、島のバスターミナルに辿り着いて、そこから乗り換え

瀬戸内の島というと小舟が通う小さな島がたくさんというイメージがあった。今回、バスを使って移動することになり、まじまじと地図を眺めてみると瀬戸内海には結構大きな島があるのだと気がついた。
そもそも瀬戸内海は太古の時代、大きな盆地だったのが、ある時突然海の水が流れ込み、大きな湖から外海に繋がる内海になった。その時、盆地の中にある高地、山が今の島になったようだ。
だから、広島県尾道から愛媛県今治に続くしまなみ海道の島々は、実は瀬戸内盆地の高山だったということだ。その島の間の潮流は、高山の谷間を流れる急流みたいなものなのだと、地図を見て理解した。
日本の地理は小学校から習っているはずなのに、この歳になるまで瀬戸内をまともに見ていなかったのが明らかになった。(瀬戸内に限らずだけれども)
その島の間を船以外で移動するには、大きな橋でつながったとはいえ鉄道はな。バス移動になる。某旅番組で路線バスの旅を面白がってみていたが、ついに自分でバス旅をすることになるとは思わなかった。

全く地理感覚もなく、地名もわからないとバスの旅は実に難しいと、バス旅を実践してみるとよくわかる。バスの停留所前で次のバスが来るのを30分、40分と待つのも当たり前だと分かった。
ホームに上がれば五分と待つことなく電車が来る都会暮らしに慣れていると、この待ち時間の長さが気になるところだが、すぐに諦めがつくようになった。お天気が良ければ、バス停の前でぼーっとしていてもあまり気にならない。ありがたいことに、たいていの停留所にはベンチがある。
今治を早朝に出て、高校生の通学バスの中に紛れてこんで島に渡った。ちょっと時間があったので寄り道をしてみた。昔読んだ「村上海賊の娘」で登場した能島を見てみたいと思ったからだ。

能島は大きな島の間にポカリと浮かんで見える実に小さな島だった。こんな小さい島でで城を築き暮らせるのかと思うほどだ。港から見える能島の向こうには大島と伯方島を結ぶ大きな橋が見える。地図で見ると能島は大島と伯方島の間を塞ぐような1にある。ここを海路の関所にするのは当然という感じの場所だ。ここを避けたければ、ちゅごく側に回って尾道周辺に抜けるしかないが、そこには因島の海賊が待ち構えている。村上海賊は海路を完全に押さえ込んでいたのだ。

よく広さを例えるのに後楽園ドーム何個ぶんみたいな言い方をするが、パッとみた感じで能島はドーム1個分くらいの島に見える。

能島をのぞむ位置に立っているのが村上海賊の博物館だった。これがいつ出来たのかはわからないが、「村上海賊の娘」がベストセラーになったことで能島と村上海賊が有名になったのは間違い無いと思う。
主人公の海賊姫は、戦国期の破天荒な人物として描かれているが、人の命が軽い時代を飄々と生き抜く典型的な性格でもあり、人を斬り殺すことにも躊躇いがない。その明るい残酷さみたいなものをベースにして、海賊姫が変転していく様子を描いた時代小説の傑作だ。登場するキャラのほとんどが、人の命などかけらも大事に思わないバトルジャンキーばかりだが、なぜか物語は明るい。
その「村上海賊ストーリー」を知識のベースにして、このミュージアムを見るとなかなか楽しい。村上海賊は、お話に出てくる以上に「正義の味方」になっている。身贔屓と言えばそれまでだが、歴史の一翼を担ったご先祖さまは大切にするものだろう。
やはり全国各地にある戦国期のメモリアルな博物館は、しっかり時代背景を勉強していないと楽しめない。
戦国期ではないが明治の内戦に関しても地域で評価は違う。東北各地の博物館・歴史館では、戊辰戦争は防衛戦争で、官軍は侵略者という立ち位置を取る。これが西国の博物館になると、官軍対朝敵の討伐戦となり、革命ではなく維新であると美辞麗句で語られる。歴史とは声の大きいものによって語り継がれるフィクションだということがよくわかる。

こうした歴史博物館は、舞浜にあるネズミの王国のように、あまり基礎知識なしで楽しめるエンタメ系施設とはちょっと楽しみ方を異にするので、オヤジ向けといえば確かにそうだろう。子供が来ても楽しめるアトラクションもないし。

お決まりのゆるキャラもお出迎えしてくれるが、実は2階の展示室がすごかった。大変お勉強になったし、瀬戸内を中心とした海運と海賊の関係もよく理解できた。ありがたやだ。

ただ、一番感心したのは建物の外に置かれていた海賊船のレプリカで、こんな小さな船でそれも櫂で漕ぎながら航行したというのだから、これはびっくりだった。大きな船であれば漕ぎ手はまさに奴隷みたいなものだっただろう。

バスの乗り継ぎでたどり着くとまさしく秘境への旅みたいな感覚になるが、実は今治市内から自動車で1時間弱で簡単に辿り着ける。自動車で旅するのであれば、しまなみ海道を通る時に、ついでに立ち寄るお手軽スポットだった。
別に不便を求めてバス旅をしたつもりもないが、これまではずうっと飛行機とレンタカーをつなげた便利旅ばかりしてきたので、色々と学ぶことも多かった。だバス旅が、今更というかこの歳になってというか、あたらしい旅の仕方を学んでもねえ。
気分の上だけでもバックパッカーになったような……………島の旅でありました。

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おまけで城見学

今治の街は一度だけ通り過ぎたことがある。車でしまなみ海道を走り松山まで移動した時に所用があり郵便局に寄った。それだけの時間しか過ごしていない。
その街で、たまたま予定外の滞在をすることになった。ポカっと空いた時間を使ってお城を見に行くことにした。
今治城は海を防御帯に使った名城と言われている。戦国期の築城名人と言われた藤堂氏が作ったものだ。

城のお堀には海水が引かれている。堀の幅自体も通常見かけるものより幅広だった。お城を見るときには、いつも考えることだが、自分が攻めての親分だったらどこからどう攻め込むかだ。
今でも残っている城は、当然ながら戦国期に攻め滅ぼされなかった城ばかりなので、防衛思想は凡庸のものではない。散々、他国の城を攻め滅ぼしてきた勝ち残り組の戦国武将が、自分の攻城ノウハウを考慮した上で、自分が攻めても落とせない城として作り上げたはずだ。その難攻な城が現存している。だから、攻城ノウハウなどかけらもない自分が、その堅城を攻めようとしても攻略の糸口さえ見つからない。(素人考えなので当たり前だが)
戦国期前半、鉄砲が実用化されるまでは遠距離攻撃は「弓」と「矢」だった。普通の矢の有効射程距離は50mくらいだったらしい。矢自体はもっと遠くまで飛ばすことはできるが、殺傷能力が十分あるのは意外と短距離だったようだ。
だから堀を作ったとしてもその幅は50mもあれば十分という理屈なのだが、鉄砲の出現により射程距離は最大100mくらいまで伸びた。そうすると、鉄砲対策のため堀の幅は広がるはずで、堀の上には櫓や塀といった防御用構築物が作られるようになる。これが戦国後期に起こった築城思想の変化だ。
そうした戦国後期のノウハウが注ぎ込まれているのが藤堂氏設計施工の城だろう。愛媛県の有名な城、松山城が築かれたのはは戦国が終わった時期だから、設計思想としては松山城の方が新しい。しかし、海を使った防衛構想は現代にも通じる斬新なものだったはずだ。

復元された天守閣は小ぶりであるが美しい。何より石壁が戦国期特有の荒ぶれた見栄えなので、この城の美しさは堀と石垣なのだと、しみじみ思った・

今治から瀬戸内対岸までは大小の島々がつながり海の関所のようになっている。島と島の間を潜り抜ける航路は、朝晩で変わる潮流の流れのために、なかなかの難所だったらしい。
そこを利用した地元の民が、いわゆるみかじめ料を取る海賊になっていた。海賊といえば、某米国映画で有名なパイレーツを想像するが、あれはカリブ海で横行した海の強盗で、れっきとした犯罪だ。おまけに欧州では国家そのものがならず者であった時代だから、当時の欧州王国が勅許状を出して、国家公認の略奪に励んでいた。
瀬戸内の海賊は、それとは違うようだ。元々は有料で海路のガイドをする職業が、いつの間にか海峡通過のために関所代を払わなければ、暴力的に徴収するという発展的進化を遂げたらしい。海の民にとって生活の糧がガイド料だったはずだが、それが暴走して年月が経つとすっかり海上武装団になった。
室町時代、全国に張り巡らされた関所が交易と通行の阻害要因になったように、海賊の存在も交易にとっては邪魔になる。豊臣氏の天下統一後、海賊は禁止されるのだが、それは織田信長の楽市楽座から続く、商業自由化の流れの中で起こるべくして起こることっだったのだろう。
海賊時代の最後の頃に築城された今治城は、わずかにその頃の名残を残しているような気がする。

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クラシカルディナーin松山

松山に滞在した時間は極めて短いのだが、妙に印象に残る街だった。大街道から松山市駅に続くアーケードを散歩して、かなりくたびれたところで遅めの晩飯に選んだのは、なんとも風流な?、いや、見た目賑やかな居酒屋だった。
店名がなかなか笑わせてくれる。これが自◯党だったら、入るのを躊躇ったと思う。店名の頭に「立憲」の文字がついたら、随分嫌な感じがして入らなかったかもしれない。
しかし、民の酒なのだから、それは歓迎するべきだ。

商店街を歩く中で散々見かけてきた鯛めしの看板にひきずられて、まずは鯛の刺身を頼んでみた。面白いなと思ったのが、醤油が甘い濃口だったことだ。海を隔てた大分の醤油、いわゆる九州醤油に似ている。大分と愛媛は瀬戸内の端というか伊予灘を挟んだ向かい合いの地なので、一部の食文化は同化しているのかもしれない。
鯛の刺身は好物なので美味しくいただいた。お値段を考えると、これはすごい値打ちがあるような気がする。

当然のように、追加したのが宇和島じゃこ天で、まずは何もつけずに一口。続いて醤油をつけて味変。魚の練り物としては宮城の笹かまぼこがまず思い浮かぶのだが、あれとは違う魚の揚げ物の代表だ。全国各地に、魚の練りものを揚げた「天ぷら」「〇〇揚げ」「〇〇天」は数多くあるが、個人的な好みで言えばじゃこ天が一番だ。
特に揚げたて、熱々を食べるとほんのりと人生の幸せを感じる。普段はほとんど練り物を食べないのだが、これだけは別格だ。これに続く揚げ物といえば、宮崎の飫肥天だと思うが、あちらはかなり甘い味付けなので同じ魚の揚げ物として種族は異なる。飫肥天も揚げたてはとてつもなく美味い。

サーモンのカルパッチョとは………

こういう大衆居酒屋では、それなりの定番がある。モツ煮であったり串焼きであったり、おでんであったりする。ただ、その大衆居酒屋にも技術革新の波は押し寄せてきているのだ。
なんと、メニューに当たり前のようにカルパッチョがある。ちょっと興味を惹かれて注文して見た。瀬戸内魚のカルパッチョに違いないので、どんな魚が出てくるか楽しみだった。
答えは、サーモンだった。なんだか肩透かしを喰らったような気もする。善意に解釈すれば、カルパッチョは洋物メニューなので、洋物の魚にしたということかもしれない。しかし、まさか、瀬戸内の街でサーモンを食べることになるとは。まあ、その個人的な期待を除けば、おいしいカルパッチョ松山版ではありましたよ。

熱燗を頼んだら地元の酒がコップで出てきた。これが、まさに大衆居酒屋の大衆居酒屋たるところで、銚子ではなくカップ酒というのが素晴らしい。ただ、周りを見渡してもほとんどがビールとサワーだったから、コップ酒はすでに廃れゆく酒文化なのだと、この地でもまた改めて確認できてしまった。残念。

ドリンクメニューの端っこに書いてあった注意書きが、果てしなく悲しみを呼ぶ。居酒屋に来て飲み物(酒とは言わない)を注文もしない客がいるのか。確かに駅前の居酒屋だから、飯を食べにくる客もいるのだろう。ただ、居酒屋は飯では儲からない。酒を頼み、つまみを頼み、締めで食べてもらうために安価な飯を置いている。それを、水と飯で注文されると儲からないどころか赤字かもしれない。
俺は客だぞ、飯だけ注文して何が悪いと言い張るクレーマー客が大量発生したのだろうな。
不文律とは書かれていなくても守るべきルールはあるということを言う。それが通じなくなれば文化は破壊される。ジジババは若い世代にそれを教え伝えなければいけないと思うのだが、ふと心の中をよぎる疑惑がある。この水だけ飯食い客は、いい歳をしたオヤジやオバン、いや、もしかするとジジババではないのか。多分、そうんだろう。
最近の若いものは……………というセリフは、なんと3000年以上昔のバビロン帝国の記録に残っているそうだから、ほぼ人類が誕生して以来ずっと続いている悪習だろう。ただ、最近のジジババは、道徳律が崩壊したクズ人間が多いのも事実で、若者をあげつらう資格などかけらもないとは思うのだ。
世も末だな。

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駅そばを食らうはずが

福山の駅前というか駅に直結した場所で駅蕎麦を発見したのだが、実はこの店の屋号が店頭ではよくわからない。お江戸でよく見かける駅そばは、店頭の看板や暖簾でしっかりわかるのだが。

店内に入ると、どうやら屋号は「めん」らしい。いや、「あじわい処 麺」らしい。多分、広島県のJR駅のあちこちに支店があるのではないかという気もするが、実際に確かめてみるつもりはないので、あくまで憶測だ。

その店の入り口に大きなラーメンの看板があったので、最初はラーメン屋なのだと思った。瀬戸内のこの辺りでは尾道ラーメンが有名だが、見た目にはちょっと似ているような気がする「福山ラーメン」だ。
説明書きを読むと、ますます尾道ラーメン的な雰囲気も感じるが、ここはお店の気合を信じて福山ラーメンを頼むことにした。

見た目は背脂ちゃっちゃ系みたいだが、味はさっぱりしていた

出てきた福山ラーメンは、もろに店頭看板と同じルックスで、まさに看板に偽り無しだ。実食してみると、これまた看板に書かれている通りで、個人的にはちょっと懐かしい昭和の醤油ラーメン的な味わいを感じた。
最近の人気店では豚骨ベースが当たり前の濃厚味が中心だから、鶏ガラスープでさっぱりと……………などとくると、これぞ昔の王道だったのだよ、と言いたくなる。が、今では、これがすっかり変化球扱いになっている。
朝から美味しくラーメンを完食したが、周りで食べているサラリーマンは皆うどんだった。どうやら、福山はうどん文化圏みたいな気がする。瀬戸内の反対側は愛媛県なので、うどん県香川の影響は薄い気もするが、そもそも瀬戸内全域がそばよりうどんなではないかと思う。
広島名物お好み焼きでも中に入れる麺は、中華麺よりうどんを好む人が多いと聞いたこともある。うどん県のラーメンはどんな変化をするのだろうか。そういえば、香川でラーメン屋に入った記憶は全くないから、それもいつかは確かめてみたい。
旅先の街に行ったときには、駅そば探しで少し時間をかけてみようかと思った。また面白いものにお目にかかれるかもしれない。
旅するときにテーマは大事だよね。

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ソフトクリームを食べに行った訳ではないけれど

松山城を見るときのベストアングルはここかなと思った場所がお茶屋になっていた。朝早い時間だったのでちょっと肌寒い感じはあるが、せっかくのお茶屋から観光しているので、ここは一念発起して食べるべきものがある。

ご当地ソフトクリームを、これまではバカにしてきた。失礼極まりないとは思うが、観光地の味変ソフトではないか。中身はどれも一緒だ、みたいな気分だった。ソフトクリームは気温が高くても、低くてもうまさに影響するせいもある。暑すぎる時はソフトクリームではなくかき氷が良いし、寒くなるとお汁粉とかホットココアが飲みたくなる。
ソフトクリームをおいしく楽しもうとすると実に温度帯が難しい、などと言う手前勝手な屁理屈を捏ねていたのだが……………

突然、改心した。回心した。そして、イヨカンソフトを食べて見て会心した。なんとお城の上で「かいしん」三部作を成し遂げた。
それを引き出したのが、販売窓口に貼ってあった一枚のポスターだ。ソフトクリームミックスを味付けして味を変えるのではなく、トッピングとソースで味変をしている。これなら味のバランスがとりやすい。ソフトミックスを上級なものにすれば、味も良くなるはずだ。
昔、どこかのご当地アイスで薔薇の香りをつけたものがあった。その人工的な着香がどうにも鼻について、以来、ご当地ソフトクリームを苦手とするようになった。こんなヘンテコな味のものを売り物にするとは、観光地とはいえ食い物屋としての矜持はないのかなどと、勝手なことを考えていた。
ただ、この伊予柑ソフトを見て考えが変わった。これからは、機会があればご当地ソフトを食べても良いなと思う。歳を食って少しだけ寛容になったのかもしれない。
ちなみに伊予柑ソースをつけて食べると、とてもうまい。ソフトクリームではなくフローズンヨーグルトにすると夏向き商品になりそうだ。抹茶あずきも美味そうだが、これを松山で食べる理由が難しい。静岡とか京都であればお茶の産地として成立しそうだが。ソフト道の奥は深いぞ、と気を引き締めることにした。

この松山城を築いたのは、戦国武将では成り上がり最終組の一員だった加藤嘉明だ。ただ、このような立派な城を築いた豊臣政権の成り上がり武将だが、その後彼らは皆、徳川との抗争の中で没落していく。武士の哀れということだろうか。それでも城は残る。

伊予柑ソフトは松山城で食べるから美味いと思うのだ、という気もするが、松山市内のどこかでも売っていそうだ。お城見学のついでに食すということであれば、春か秋の気温の穏やかな時にロープウェイで山上に行くことをお勧めする。
松山市民の中には、毎朝お城に歩いて登る人もいるそうだから、軽い登山のつもりで行くのも良いと思うが、自分であれば山上に着くと疲労困憊して、ソフトクリームを食べる気力などかけらもなさそうな気がする。(うん、間違いないな)

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松山城

天守閣の入り口で団体ツアーのガイドさんがツアー客に入場券を配っていた 親切だな

松山城に行った。朝早く起きて、朝一番のロープウェイに乗った。山上の城閣を見る位置に一番乗りしたと思ったら、いきなり団体観光客の中に飲み込まれ、その後は外国人観光客グループに取り囲まれ、なんと朝から賑やかなことだと驚いた。

気分はすっかりお殿様だ

城の端、山上からの景色は絶景だった。さぞかしお殿様はこの光景が気に入っていただろう。山の上にあり、眼下に街並みが広がるといえば岐阜城が思い浮かぶ。越前大野城も似たような光景だったが、もう少しこぢんまりとしていた。城下に広がる街並みで言えば、松山城が一番の景色かもしれない。

しかし、その風景よりも感心したのが、山上にある井戸だった。城は長期間籠城することもある「防衛要塞」だから、当然ながら食料の備蓄と飲料水の確保が絶対条件だ。しかし、この山の上に自然な井戸があるはずもない。山中のどこからか水を引き貯める仕組みを作っていたはずだ。それがすごいと思う。

天守閣に至るまでにこの防御施設 櫓から攻撃される 城攻めは辛いと、この段階で心が折れる?

もう一つの感心したことは石垣の高さだ。一体どれだけの手間をかけてこの大量な石を山の上まで引き上げたのだろう。完成まで20年近くかかったそうだが、おそらく石を運び上げるのが工期の大半だったのではないか。
石積みの棟梁がいたとして城が完成する頃には、後継が次の棟梁になっているはずだ。20年とはそれほどの時間だ。親子二代の職人などゾロゾロいたに違いない。すごいなあ。

あちこちの城を見て回ったが、銃眼をしっかり見たのは初めただった。確か小さい穴は鉄砲、縦に長い穴は弓を打つときのものだったはずだ。実際に銃眼から外を覗いてみると、予想以上に視界が狭い。ただ、この城は城攻めをしようとすると敵兵が門や塀に誘導され、必ず銃眼にさらされる仕組みになっているから、ある意味誘導路と多重の罠とみれば良いのだろう。そして銃眼の多さは、建築主、設計者の執念を思い起こさせる。

日本にある数々の城だが、こと天守閣に関しては現存(戦国期・江戸期前期に建築されたまま残っている)しているものはたったの12しかない。ほとんどのお城は、先の大戦において空襲で焼けたものも含め、戦後しばらく経ってから再建されたものだ。
江戸期に徳川政権が成立したとき、かなりの天守閣は廃棄されたし、戊辰戦争後の明治政府は反乱拠点となることを恐れて、多くの城を打ちこわした。(忖度して壊した藩主も多い)
明治政府は革命政府である以上に文化の破壊者だったのは間違いない。文化的素養の低いものが政権を取ると、繰り返し起こる文化破壊だが、これは日本だけでなく世界的にありとあらゆる時代で起こっている。人類という種の蛮性だろう。

城壁の角を見ると優雅な曲線が現れれいる。この幾何学的美しさは、当時の石積み職人の素養の高さの表れだろう。現代建築には見られない美しさだ。

お城廻をして歴史に思いを馳せるのは、なかなか高尚な趣味だと思っているのだが、まあ、普通に観光している人となんの変わりもなく「おー、すごいなあ」と言っているのが実態であります。 (超特急で松山城ツアーは終了した)

街を歩く, 旅をする

松山の街歩きで疲労困憊した

JR松山駅は繁華街から離れたところにあるのでちょっと不便かもしれない

松山の話が続くが、この街には何度かきている。しかし、街の記憶が全くない。四国随一の大都市なのだが、仕事の時は空港から打ち合わせ先まで車で直行し、そのあとは会食場所にまっすぐ行ってホテルに泊まり、翌日は他の都市に移動をするか空港から東京に戻る。そんな行程ばかりだったから、街の景色など全く覚えていない。それは松山だけに限ったことではないので、全国あちこちの街に行ったが、記憶がしっかり残っている街は意外と少ない。
どうもそれではいけないと思い、今回は夕方から街歩きをするべく、ホテルもアーケードのある繁華街の入り口付近にしてみた。ただ、松山は二拠点都市というか、お城の下にある商店街と私鉄の駅前が賑やかな場所で、その二点を結んでいるのが「都心部」アーケード商店街に当たるようだ。
その上に、ややこしいことにJRの松山駅は、この2拠点から離れたところにある。交通結節点が街の中心地になるというシンプルな都市構造ではない。複雑系な街だった。

アーケードを入ってすぐのところにMのマークのバーガー店があるから、ここは一等地とわかる

地図を見るとわかったのだが、松山の街はお城のある山をぐるっと回る路面電車の環状線があり、そこから放射状に支線が伸びている。時計で言えば3時方向にちょいとはみ出して伸びているのが道後温泉に向かう支線だ。9時に当たるところから伸びているのがJR松山駅につながる線。そして6時に当たる方向に伸びているのが伊予鉄松山市駅につながる線になる。
だから路面電車を上手に乗り継ぐには、ちょっとコツがいる。おまけに市内の各所にバス路線が張り巡らされているから、松山市民には住み心地は良さそうな街だと思った。
しかし、その複雑な交通動線が観光客にはなかなか難度が高い。にもかかわらず、電車の中には外国人観光客も多い。なんとも不思議な光景だった。おまけに、外国人観光客はあまり迷うこともなく電車を乗り継いでいるらしい。スマホの中にとてつもなくスーパーな旅行アプリでも入っているのだろうか。見せてもらいたい気もする。

アーケードは長い。実に長い。おそらく端から端まで歩くと1km以上ありそうだ。遅めの夕方だったが、それなりに人通りも多い。地方都市で見かけるシャッター街とは無縁のようだった。それでも7時近くになるとほとんどの店が閉店しているので、夜の引けは早そうだ。

松山には先の大戦の終末期に米陸軍による都市空爆を防衛するための航空部隊が置かれた。最後の傑作機「紫電改」を配備した部隊で、パイロットは全国に残っていた名人級をかき集めたそうだ。
その部隊を松山の人々は支えてくれたのだが、敗戦と共に全ての紫電改は米軍に接収され、松山に紫電改のかけらも残っていなかった。
それが昭和の後期、墜落して海中にあった紫電改が発見され引き上げられた。それが亜媛県南部の街で展示されている。今では紫電改のことなど覚えている人も少ないだろうが、街中の商店街にそれを記録するものが掲げられていた。これは尊いなと、思わず頭を垂れた。

もう一つ、面白いなと思ったのが、街中のあちこちで「鯛めし」を推しまくっているのだが、推しの鯛めしは松山名物ではなく宇和島名物らしい。なので、この辺りの地理的距離感というか松山と宇和島の関係性はどうなっているのだろう。お江戸で言えば埼玉県大宮の名物を千葉県千葉市で売りまくっているみたいな感じがするのだが。
伊予国ということで一体感があるのかなあ。ただ、宇和島と松山ではお殿様も違っていたはずだから歴史的には違う街なのだと思う。まあ、美味いものには国境なしでも良いけれど。

アーケードの端っこにある伊予鉄の駅には大手百貨店も入っているので、まさに大都市の駅前という風格がある。駅周辺にはさまざまな飲食店やエンタメ系の店が立ち並んでいた。どうも、この都心部散歩をした感覚で言うと、松山の街は観光客相手の土産物屋も少ない、松山に住む人に向けた街という印象だった。
街の規模感としては政令都市のような超大都市と比べて、ちょうど良い賑わい感がある。気候も温暖で、海の幸にも恵まれ、きっとこのあたりは昔から過ごしやすい国だったのだろうという気がする。

松山といえば、夏目漱石の坊ちゃんが思い浮かぶが、実は司馬遼太郎氏の大作「坂の上の雲」で語られた秋山兄弟も、相当に力を入れた地元の推しキャラになっている。この二人は坊ちゃんとは違いリアルな人物なので、推しやすいのかもしれない。
土佐では明治革命期の坂本龍馬推しで、伊予では明治の大戦で活躍した秋山兄弟推しになる。その辺りの違いが明治期四国の時代感というか、土地柄の違いというか、微妙さなのだな。松山での一番の気づきがこれでありました。

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道後温泉は檻の中

湯築城見学に行ったあと、歩いて行ける距離にある道後温泉を見物することにした。路面電車で一駅分だから、大した距離ではない。お城のある公園から歩いても5分とかからない。
道後温泉に行くのはこれで2度目だが、最初に行った時は車移動だったので頭の中に地理感覚は全くないままの温泉突入だった。だから記憶に残っているのは、道後温泉入り口のクラシックな建物と、思っていたより随分と狭くて薄暗いお風呂の光景だった。

電車ではないのだよね と確認しに行きました

今回は徒歩で温泉入口に到達したので、あれこれ待ちの景色が目に入ってくる。道後温泉の駅前には、これまた有名な坊っちゃん列車が止まっていた。よく考えると、この列車は歴史的遺物というわけでもなさそうだ。感覚的にはサンフランシスコのケーブルカーみたいなものだろうか。それでも観光目的の列車というのは、そのフォルムを含めなかなか美しいものだ。
終点で機関車を回転させて方向転換するパフォーマンスも、ひょっとすると原型はサンフランシスコのケーブルカーにあるのかもしれない。

動物園のおりか鳥籠か、と言いたくなるが………

駅前から土産物屋が立ち並ぶアーケードを通り道後温泉の前に行ったら、まさかのビックリ風景だった。鳥籠、というのが第一印象だった。建物自体のメンテナンス工事らしいのだが、さすが皇室御用達の名建築物らしく、これではほとんど歴史的寺院の修理と変わりがないレベルだ。確か、奈良唐招提寺の大改修もこんな感じで(幕が張られて中は見えなかったが)20年近くかけて工事をしていた記憶がある。唐招提寺の姿を拝むのに、ずいぶんと待たされたものだ。

さすが松山一の観光地なので、歩いている観光客のほぼ半数が外国人だった。この国はもはやローマやパリのように、地元の人間よりも観光客が多いところになってしまったのだなあ。そうなると、看板も日本語だけではいけない時代なのか、とプリン屋の看板を見ながら思った。

はいからさんが通るの時代かな

坊ちゃんとマドンナも松山を代表する名キャラクターだが、彼らも観光アイコンとしてはせいぜい100年程度の歴史しか持たない新参者だし、おまけに日本文学の造形がないと、この二人の関係性は理解できないだろうなと思うのだが。ぼっっちゃんとマドンナのカップル、これは日本人専用の観光ツールなのかもしれない。
そう言えば、この手の顔出しスタンドで写真を撮っているのは日本人だけのような気もする。確かめたことはないが……………

夕日を背景にした道後温泉駅はなかなか浪漫的な風情がある。ただし、この駅の周りで日本語を喋るものはほとんどいない。何やら、異国情緒すら感じる不思議空間だった。
それでも、ここから電車に乗って二つ先の駅からは、スーツにネクタイをしめたジャパニーズサラリーマンが通勤帰りで続々と乗り込んできたので、一気に車内は日本的お疲れ様な雰囲気に満たされたのであります。

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湯築城 名城の影に隠れた名城

大山祇神社、弾丸ツアーのため前泊した松山で、夕方に時間が空いたので松山の大名物「松山城」ではなく、より由緒正しき古城を見に行った。鎌倉時代から戦国時代まで伊予(愛媛)の領主となっていた河野氏の城跡だ。平地に造られ堀と土塁で守られた堅城だった。

夕方の閉館直前、ギリギリのタイミングで資料館に入ることができた。城跡から出てきた陶器などが陳列されている。1000年近く前の人がこの皿を使っていたのかと思うと不思議な気持ちになる。

資料館の後ろが小高い丘になっていて、ここに城、防衛拠点があったようだ。戦国時代前なので天守閣はなかったはずだが、原平時代から室町期にかけての戦闘形態を考えれば(騎馬武者同士の一騎打ち)、ここはなかなかの難攻不落な要塞だっただろうと推測できる。

堀の横の盛り上がりが土塁であり、堀を渡ってくる敵兵にはこの土塁の上から矢を射かけたり槍で突いたりナギナタで切り付けたりと(ああ、痛そうだ)、あの手この手で防衛戦闘をしたはずだ。そして主戦闘は石投げだったに違いない。戦国期の戦闘は、罵り合い(口喧嘩)→石投げ→矢→槍→刀で乱戦という手順で進んだらしいので、この堀と土塁は戦闘初期に有効だった防衛施設だろう。

ツワモノどもの夢の跡、と言えばそれまでだが。この地を長く支配した河野氏も戦国の終わりと共に没落する。そして、そこに進駐してきた加藤氏が、かの有名な松山城を築くのだが、それは戦国期の鉄砲導入による戦闘形態の変化と、城の意味合いが防御拠点としての城から支配力示威のための城に変わったことを意味する。

愛媛県は100名城が5城もある名城大国なのだが、松山城の名声が飛び抜けているので他の城が霞んで見えてしまう。しかし、伊予国は瀬戸内海上ハイウェイの西側入り口だから、戦略的には間違いなく重要拠点だった。その拠点として古城、湯築城は長宗我部氏の四国統一が始まるまでは重要な役目を長く果たしていたのだ。
乱は常に辺境より起こるので、四国南部と南九州から起こった戦国期の西日本騒乱は、瀬戸内所領を巻き込んで大騒ぎになるのだが。それは湯築城とはまた別のお話なのかもしれない。

ちなみに、このお城から徒歩5分でかの有名な道後温泉だった。全く知らなかった。