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岸和田城と岸和田ボーイズ

岸和田というと、あの勇壮で賑やかな「だんじり」を思い出す。現地で見たことがあるわけではなく、テレビのニュースで見たくらいだ。あの背の高い山車を、暴走というしかない速度で引き回すのだから、さぞかし岸和田ボーイズは血気あふれる(ちょっとこわい)兄さんたちという勝手なイメージがあった。
駅からお城までタクシーでつれてきてもらったが、その運転手さんが実に柔和な方でお城のいわれなどを説明してくれた。岸和田ボーイズ、優しいぞと自分の認識を改めた。まあ、人の思い込みなどこんなものだ。現地に行って確かめてみなければわからないことばかりだ。
その岸和田城だが、お堀に囲まれた小ぶりな本丸がある。その周りをかなり広い範囲で城郭として形成している。外側のお堀まで含まれた城の中には、現在の市庁舎がすっぽり入っている。

本丸は一段高くなった丘の上にあり、堀も深い。これはなかなか攻めづらい城だ。このあたりは戦国期に大都市だった堺の南側で、海賊が支配していた地域のはずだ。愛読書「村上海賊の娘」では、陽気で明るく残虐な泉州海賊の支配地として描かれていた。
今では大阪府と一括りにされているが、当時は摂津、河内、和泉の三つの国だった。これに大和(奈良県)、山城(京都府の南部)を加えた五国が畿内とされ、いわゆる「天下」だった。
つまり、和泉国、泉州は日本の中心部だったわけだ。その日本中枢部の南端を守る拠点だから、戦略的には要衝ということだろう。和歌山につながる街道も押さえていたそうだ。

石垣は戦国中期くらいの作りで、ごろごろとした石を無造作に積み上げたものだから無骨な感じがする。この時期の城はまさに軍事拠点であり、行政的な使命より戦争時に活躍する建物だった。質実剛健、兵器としての築城だったのがよくわかる。

タクシーの運転手さん曰く、この城の周りは車でぐるっと回れる珍しい作りだそうだ。確かに、大手門の手前まで車で行ける城はたくさんあるが、お堀の周りを車で一周できるのは江戸城を始めとした幾つかの平城しかない。城全体ではなく、天守閣の周りをぐるっととなると、確かにこの城くらいかもしれない。

正面から見ると櫓を含めた2棟式の天守閣が美しい。鏡面対称のように天守閣が2棟並んでいるわけではないのだが、大小の規模感がバランスよく見た目がよろしい。黄金比というやつかもしれない。
これもタクシー運転手さんの受け売りだが、背面から見た天守閣の方が美しい(好み)なのだそうだ。そう言われると確かめないわけにはいかない。幸い、天守の背面に続く遊歩道が整備されていた。

確かに背面から見ると、櫓が隠れて天守が一層聳えて見える。堀の向こうから見るとまた違うのかもしれないが、この仰ぎ見る画角はなかなか勇壮な感じがする。貴重なアドバイスをもらわなければ、正面を見ただけで帰ってしまったはずだ。岸和田ボーイズは、やはり優しいのだ。

背面からぐるっと回ってまた正面に戻ってきたら、こちら側から見た正面の姿もこれまた美しい。復元城とはいえ、これだけ見るアングルによって姿を変える城も珍しい。

しばらく端正な城の美しさを楽しんだ後、ぷらぷらと駅まで歩いて帰ることにした。来る時はタクシーで10分もかからなかったが、歩いてみると城の麓からゆるい坂道を登る感じになり、思っていた以上に時間がかかる。駅前商店街のアーケードにたどり着いた時には、ちょいと疲れてしまった。
アーケード内の商店街は少々くたびれた感じはするが、全面シャッター街になってはいない。あちこちに空き家は目立つが、最近開いたような店もたくさんあり、まだこの街は元気なのだなという感じがした。
泉州海賊の末裔たちは、だんじり祭りの勇壮なイメージとは裏腹に優しい岸和田ボーイズになっているようで、昔読んだ岸和田愚連隊のやんちゃな不良少年たちの印象とは違うみたいだった。

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天王寺の風景

自分の中にある大阪地図は、やたらと空白だらけで、おまけに鉄道路線図がほとんど欠落している。脳内マップはほぼ、いや、全く役に立たない。大阪駅(梅田)と難波駅(なんば)を結ぶ地下鉄路線くらいしか理解できていない。
だから、仕事で大阪に来る時も必要なのは地下鉄路線図のみで、それ以外の場所には現地スタッフの同行を頼りにする、全くのお上りさん状態で過ごしてきた。一度だけ、帰りの新幹線までの時間がなく、車移動を諦め電車に乗るために天王寺で降ろされたことがあるが、その時も地下鉄御堂筋線に乗り新大阪まで一直線だった。

先月までは日本一高いビルだったが、どこかの新築ビルに抜かされたらしい

天王寺と阿倍野の区別もつかないのだから、大阪地理の無能ぶりは明らかだが、あべのハルカスだけは一度だけ展望台に上りに来たことがある。ただ、タクシーで来たので正確な場所はわからないまま展望台の登り、タクシーで梅田まで戻った。
今回はJRを乗り次いでたどり着いたので、頭の中の白地図はだいぶ鉄道路線で埋め込まれた。まあ、グーグル先生抜きでは無理だろうけれど。
そのあべのハルカスが天王寺駅に隣接していることを理解したあとで、天王寺は近鉄線の始発駅であることもようやく理解した。が、その近鉄電車の行き先がよくわからないので、またGoogle先生にお世話になった。

しかし、なぜあべのハルカスとなったのだろう。天王寺ハルカスではいけなかったのだろうか、という疑問は解けない。そのまま近鉄駅を覗きに行って初めて(ようやく?)理解した。近鉄の駅は天王寺駅ではなく阿部野橋駅だった。
お江戸の感覚で言えば、いくつかの路線がつながるターミナル駅は基本的に駅名が同じだ。違いといえば「JR〇〇駅」とか「小田急〇〇駅」のように、頭に鉄道会社の名称が振られるくらいだろう。
複数路線が接続するターミナル駅であるのに駅名が違う例を考えると、JR有楽町駅と地下鉄銀座駅がこれに近いかもしれない。JR東京駅と地下鉄大手町駅もつながっている駅と言えばつながっているが駅名は違う。ただ、地下鉄大手町駅は丸の内線、千代田線、東西線、半蔵門線が乗り入れている巨大地下鉄ターミナル駅で、東京駅と比較的隣接しているのは丸の内線だけだ。地下鉄大手町駅という大ダンジョンの入り口がIR東京駅と考えても良い。そうすると、JR大阪駅と地下鉄梅田駅の関係がこれに近いかもしれないと気がついたが、ダンジョンとしては梅田の方が圧倒的に凶悪で、まさに迷路だ。
どちらにしてもJRと私鉄各社のターミナル駅については、一度お勉強し直さないと大阪の街歩きは著しい問題が起きる。それを天王寺で学んだ。

そのあべのハルカス前の歩道橋から、多分昔は大阪で一番高かったタワーがみえる。通天閣周辺を舞台にした「大阪コメディ」の最強作、じゃりン子チエを思い出させる勇姿だが、あのちえちゃんも現在年齢を推定すると、もはやおばあちゃんになっているはずだ。
さぞかし強烈な大阪のオカンから、大阪のおばんに成長していることだろう。きっと、子供時代と同じに猫を従え(おそらく十代目小鉄)酎ハイを飲みながらガハガハ笑っているような気がする。「オカンになったちえ」「じゃりばばあ、ちえ」みたいな話を読んでみたいなと思った。

夜になってふと思い出しホテルを出て歩道橋の上に行ってみた。昼とは全然違う通天閣が見えた。コロナの時のライトアップですっかり有名になった感はあるが、どうも夜のお姿の方がシュッとしているというやつだ。
そう言えば、通天閣はゴ◯ラにやられていないのではなかったか。お江戸の名所はできるたびに歴代ゴ◯ラに倒されていた。大阪で怪獣が暴れたのは、ウルトラマンシリーズのゴモラだけではなかったか。東宝映画では記憶にない。大映ではどうだっただろう。ガ◯ラでは福岡と香港と渋谷は壊滅したが、大阪は無傷だったはずだ。
やはり大阪は特撮映画世界において意外と平和な街だったのだな。通天閣を見ながら、そんなことも思っていた。
記憶にないのだがエヴァの世界では、大阪は壊滅していたのだったか。ハルカスの残骸に座り込む夕陽を浴びた初号機、みたいな絵柄はダイナックス社であればやりそうだな。

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はじめての大阪城

大阪には数えきれないほど行っているが、よく考えると勤務先のオフィスとその周り、そして梅田と心斎橋周辺を歩き回った程度でしかない。通天閣は一度登ってみようとプライベート旅行を仕立てて観光客をしたことがある。が、大阪観光体験はそれくらいしかない。USJや大型水族館ですら仕事からみで行ったくらいだから、大阪観光とは縁がない人生だった。
だから、一度くらい大阪城に行ってもバチは当たるまいと、早起きして大阪城見物に行ってみた。地下鉄を乗り継ぎ大阪城最寄りの駅から徒歩で天守閣を目指すことにした。が、大阪城の広さを甘くみすぎていた。

どうも大阪城をおみそれしていたと反省したのが、お堀の幅の広さだ。このお堀は江戸城より幅広ではないか。堀沿いに大手門まで歩いていく間、ずっと考えてしまった。大阪城の歴史を振り返ると、織田信長対門徒の戦いまで時代が遡る。信長に屈服した一向宗が大坂(当時)から退去した後しばらくして、信長の後継者となった秀吉が築き上げた大城だ。だが、それも豊臣が徳川に敗れた後に徹底的に破壊され、その破壊後に再度盛土をして建てられたのが徳川大阪城になる。
その徳川版大阪城の天守閣が燃えてしまい再建されたのが現在ある大阪城(昭和版)だ。秀吉版の大阪城は、徳川版よりはるかに大きかったようで、それを再現すれば今の大阪城公園全体が、大城郭になるらしい。昭和版は予算の都合で限定サイズになったのだろうか。それでも残された石垣や堀を見ると、これが人力で建てられたものかと感嘆してしまう。

大手門が黒塗りになっていて、なんだかしょぼいなと思ったが、よくよく考えればこれは戦国期の最先端技術で、門を鉄張にしたものだ。どうもこれまで城廻で木製のもんばかり見てきたせいで、黒塗りの意味を間違えてしまった。下手な現代流デザインだと勘違いしてしまった。勉強不足はいかんなあ。

石積みされた巨石を見ると、どうもエジプトでピラミッドを作ったファラオたちを思い出してしまうのだが、この大阪城の石の大きさはピラミッドのそれに匹敵する。コロと縄を使ってどこから運んできたのか。
ちなみに江戸城の石垣にはこれより大きな石が使われていたから、間違いなく石の大きさによる威信が重要だったのだろう。千代田城(江戸城)は徳川本家、大阪城(建て直し版)は徳川出先だしなあ。

天守閣の周りは大賑わいだが、感覚的に半数は日本人、半数は外国人だった。ただ、近づいてみるとアジア系の顔立ちで異国語を喋る人間ばかりだったから、外国人比率はもっと高そうだ。ここは城、それも再現建築だから宗教的意味合いはない。身もふたもない言い方をすれば、舞浜にあるネズミの国の姫様の城となんら変わりのないエンタメ建築だ。(再建に努力した大阪市民には申し訳ない)
歴史的建造物と言えるのは石垣くらいだろう。まあ、それでもすごいものはすごいと単純に喜ぶべきだとも思う。エレベーターで上に上がれるのだが、待ち時間は20分を超えるらしく、長い行列ができていた。その行列からはほとんど日本語が聞こえてこない。インターナショナルな大阪だった。

強者どもが夢の跡、とはまさに大阪城のことだと思った。信長なき後に身内に焼き払われた安土城も不憫だと思ったが、戦に負けて土の中に埋められた跡地に再建された大阪城は、もっとすごい。徳川の怨念みたいなものも感じられる。
少なくとも、戦国期に攻城戦を戦い抜き、敗れ去り、廃城になった城は多いが、大阪序はその中でも最大級のものだ。現在でも残っている城は、戦国期を通じて負けなかった(攻城戦にならなかった)城が大半だ。あるいは戦国期が終わった後に築城されたものだ。となれば、現存の城郭で大阪城の存在は大きい。

そして徳川最後の将軍は、自分たちに反逆する西国軍をこの大阪城で迎え撃つこともなく江戸まで逃げ帰った。兵力数は徳川側が多かったにもかかわらずだ。滅亡する政権とはそういうものであるらしい。徳川政権始祖の忍耐強さ、粘り強さ、最後まで執着して望みを捨てない「強者」の倫理は、十五代もすると擦り切れてしまうのだなと、大阪城の堀を見ながら思い起こしていた。大阪城、3度目の活躍があれば歴史も変わっていたことだろうに。

大阪城は、歩き回ると本当に疲れるくらい広い。あまっくみすぎていた。もっと若い時に行っておけばよかったと心の底から後悔した。後悔先に立たず、大阪城の教訓であります。

街を歩く, 旅をする

大阪そぞろ歩き看板コレクション

よく晴れた日、それも気温があまり高くない日に街歩きをするのが好きだ。今年の夏のように、日中歩くと人死にが出そうな暑さでは街歩きもできない。おまけに今年は暑い時期が長かったので、お散歩にちょうど良い気候になったと思ったら、そのまま一気に肌寒く感じるようになり、あまり街歩きをしていない。
そこで、今回は大阪の街に朝早く乗り込んで、都心部を歩き回ってみることにした。あちこちで面白そうな看板や店構えを写真に収めるのは、お気楽な趣味だろう。

この店は夜になると、お祭りの縁日屋台のような感じになるのでは

ブランニュー酒場とは一体どういうものだろう。大阪に来てよく感じるのが、この大阪系造語力だ。お江戸にもあれこれ不思議な言語感覚を発揮する店は多いが、どう言えば良いのだろう、大阪は街全体が「造語」で溢れている。日本語の使いまわす能力がお江戸より2段階くらい上なのではないかと思っている。
店名から察するに、鰹のたたきと馬肉の店かなという感じがしたが、ひょっとするとサザエさんの弟の方かも。だとするとワカメが登場していないのはおかしいか。そうなると、この店の社長夫妻の名前なのかもしれない、などとあれこれ想像してしまう。夜に来ると楽しそうだが。大阪でカツオを食べるのもなあ。

この漢字二文字の店名は実に潔い。炭酸飲料水の赤いロゴも良さげだ。この赤い看板は目にすることもすっかり少なくなった希少ものだ。こういう店にはふらりと入ってモーニングセットでも注文してみたくなる。多分、いやきっと、緑色のソーダ水もあるに違いない。クリームソーダ、飲んでみたかったなあ。エビピラフという名前のチャーハンもありそうだし。

天王寺の裏通りで発見したインパクト抜群の居酒屋看板。置かれている提灯には大阪下町焼き鳥と書いてある。大阪下町の風情はこの賑やかさなのだろうか。確かに、横丁から下駄履きのちえちゃんが出てきても不思議ではない。
しかし、提灯をよくよく眺めてみると、全国の有名チキン料理がずらっと並んでいて、大阪下町名物とはいったいどれのことだろうか。不思議空間だが、言ったもの勝ちというのが大阪下町なのかもしれない。
そもそも居酒屋に自転車で来ているのがすごい。帰りは押して帰るのだろうなあ。乗って帰れば間違いなく道交法違反でありますよ。いや、客の自転車ではなく従業員のものかもしれない………

その近くにあった、これまた魅力的なファサードの店で、入り口から入ったところにあるのがスタンド、要するにスタンディングで飲む店。つまり立ち飲み屋だ。ふらっと入ってみたくなり中をのぞいてみたが、満員だったので諦めた。
このスタンドという言い方は、お江戸では見かけた記憶がない。京都の錦市場の近くでたまに立ち寄る店もスタンドと書いてあったが、着席できた。やはり酒飲み文化も東と西では違うのだなあと、改めて思う。
2階にある台風飯店は、その名前だけで入ってみたくなる。ここでも大阪人的日本語造形センスに凄さを感じる。お江戸であれば四谷三丁目の裏路地あたりにありそうな店だが、天王寺では居酒屋ストリートのど真ん中にある。この辺りの店を回って歩くだけで、一週間くらい楽しい大阪滞在ができそうだし、ぜひ、してみたい。

そして、今現在の大阪で最も際物、最もあれこれ言われているキャラも現物を見つけた。テレビのニュースで見た時には、げげげの鬼〇〇に出てきた、目が100個ある妖怪を思い出した。ちょっと前の時代であれば、キモカワとか呼ばれたかもしれないが、どうも令和のセンスではないような気がする。
万博が中止になれば、レアもの扱いになり人気沸騰するかも……………いや、しないだろうなあ。やはりキャラはゆるいだけではなく共感を得られないといけないと思う。キャラ関連はグッズ商売ネタとして有象無象が集まってくる集金装置なので、どうしても利権に結びつきやすい。主催者が威張れば威張るほど、そんな感覚がしてしまうものだ。
どうも、大阪庶民の言語センスの良さと、官僚組織のセンスのなさ、頭の悪さのギャップが大きすぢて理解できない。大阪自治体官僚も、プライベートな時にはおもろいおっさんなのだと思うが、仕事中は真面目スイッチ、いや、つまらんスイッチが入ってしまうのか。知事の発言を聞くたびに、不思議な街だと思う。
まあ、官のセンスの無さは大阪に限ったことではなく、全国共通ダメダメだから仕方がないか。知る限りではあるが日本全国ほとんどの地方自治体でも、霞ヶ関の劣化コピーばかりが蔓延っている。ただ、お江戸も浪速の街も、劣化度は全国トップクラスだということか。

食べ物レポート, 旅をする

たぬきそばの衝撃

最近めっきり姿を消した商売が、駅近くにある立ち食い蕎麦だろう。ハンバーガー以上な性能を誇る、ジャパニーズ・ファストフードの筆頭だが、コロナの間は通勤サラリーマンの激減で廃業に追い込まれた店も多い。
コロナ後にサラリーマンが戻ってきて、おまけに同業者がそこそこ廃業してしまったせいか、生き残り組の混み具合は凄まじい。前日見た時は、午後2時、午後5時、どちらも券売機の前に行列ができていてカウンターは満席(?)だった。
そこで朝早く来てみれば大丈夫かと午前7時前に来たのだが、すでに満席でカウンターのあき待ちになった。

とりあえず券売機でかき揚げ蕎麦を買い、蕎麦が出てくるのを待っている間にメニュー表を眺めていた。何か大阪特有のメニューがないかなと思ったのだが、並んでいるものはサイドアイテムを含めお江戸と似たようなものばかり。やはり並行進化というか、立ち食いという業種でそれほどユニークなものは出てこないのか。などと思っていて、気がついたことがある。
きつねそばがない。たぬきそばが変だ。

買い上げ蕎麦だが、なぜかネギダクな気がする

うっすらとした記憶で、大阪では油揚げが乗ったうどんはきつねうどん、油揚げが乗った蕎麦はたぬきそばというのだったような……… 記憶はあまり定かではない。それでは油揚げではなく、揚げ玉(天かす)が乗った蕎麦を探してみたが、そんなものは存在していないらしい。
そもそも、麺の選択が、「うどん」「蕎麦」までは理解できるが、その後に続く「黄麺」とはなんだ? 語感からすると中華麺のような気がする。和風出汁の蕎麦つゆでラーメンを作る文化は日本のあちこちにあるのは知っているが、浪速のターミナル駅蕎麦でそれが存在とは。
さりげないが、ある意味とてつもないカルチャーショックを受けた。大阪南部、下町地区はもう少し探訪してみる価値がありそうだ。次回は、黄麺に揚げ玉をのせられるか聞いてみようか。

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早朝の新幹線で大阪へ

埼玉の郊外駅から始発の電車に乗り込み出張に出かけることが続いている。今では時間に余裕がある(ありまくる)ので、もっと日程をゆっくりと組み立てれば良いのだが、貧乏性から抜けきれず、目いっぱいスケジュールを詰め込んでしまう癖が治らない。
始発で出発すると、都内に出たあたりで腹が減り始める。羽田空港から空路の場合は空港まで我慢するのだが、今回は東京駅から新幹線なので(おまけに満席)、事前に早朝飯をすることにした。ただ、空いている店はごく僅かで選択肢は牛丼店Aか牛丼店Bしかない。渋々、ほぼ2年ぶりに牛丼店Aに入った。
朝食メニューをと思ったが、なんと今では大判の紙メニューに各種定食、丼が並ぶ。ほとんど小ぶりなファミレスもどきだった。もはやファストフードとは言えないレベルだ。さほど時間があるわけではないので、ノータイムで「牛丼 並」と注文したら、30秒で出てきた。GJだ。
ちなみに、隣の席では推定年齢五十代後半、髪の毛真っ白なオヤジがカウンターに頭を乗せて熟睡していた。従業員は起こすわけでもなく放置してる。優しいのか冷たいのかよくわからんが、深夜から早朝に変わる時間帯の牛丼店特有な風景ということにしよう。路上ではなくファストフード店のカウンターで寝ている老人、大都会だなとしみじみ感じました、はい。

新幹線改札構内では、予想とは違い早朝にもかかわらず駅弁が売られていた。駅弁を買って旅情を楽し目ばよかったとちょっと後悔したが、満席の新幹線、それも3列席の真ん中では、やはり何も食べる気にはならない。
と思っていたら、両サイドの乗客が発車すると同時に弁当を食い始めた。うーん、考えすぎだっらしい。

新大阪の駅から、真っ直ぐに一ノ宮参りに出かけた。大阪の都心部は碁盤の目に仕切られているので方向を間違うことはないと、妙な自信があったのだが、地下鉄から地面に上がってきた時点で、すでに東西南北を間違っていたらしい。グーグル先生のお世話になり、ようやく進行方向が真逆だったことに気がついた。残念。

この神社は芸能、落語の神様らしい。新年には上方落語のイベントもあるみたいなのだが、年明け早々から落語を聞きに西の街に来る元気はないな。そもそも今回の大阪も5年ぶり(間にコロナの3年があるのだが)だから、意外と大阪は近くて遠い。
船場から西の方は、昔の大阪では海というか入江が複雑に入り組んだ土地だと記憶していたので、この神社の一帯も干潟にぽっかり浮かぶ島のような場所だったと思うのだが。今では埋め立てられ堀が引かれ、地下鉄まで通っているので、昔の姿を思い浮かべることも難しい。
大阪の神社の元締めらしいのでもっと賑わっているかと思ったが、思いの外、静かな場所だった。周りはぐるっとオフィスビルだから門前市があるようにも思えない。まあ、大阪は町中が門前町みたいな賑やかさなのかもしれないが。
神社の周りの静かな空間が、自分の中にある活気ある街、賑やかすぎる街大阪というイメージとマッチしない。朝の大阪は静かで、なかなか良いなあと思ってしまった。

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吉備国で 古代日本を思うこと

吉備国とは備前・備中・備後を合わせた瀬戸内中国地域の中心にあたる古代国家だ。今で言えば岡山から福山にかけたあたりに広がっている。古代日本でヤマト朝が日本征服事業を進める中で侵攻を受けた、中国地域でも大勢力の一つだったのが吉備国だろう。ここを落とさなければ瀬戸内海交通を抑えることはできない。古代ヤマト朝が押し進めた東征における、エポックメイキングなイベントが吉備制圧だったのではないか。
ただ、吉備の神さまは出雲の神様のように国から追い払われたりしていない。現地で生き延びることができた。国神として信仰が許されたのだから、吉備は武力制圧ではなく非戦のままで降伏による併合だったのかもしれない。
ヤマト朝建国ストーリーでは、いく柱もの神様が東国に追いやられている。大国主、素戔嗚、武甕槌大神などなどは、強大な抵抗勢力の表れだろう。ヤマト朝の大将軍が征服の成功により、ご褒美として神格化した(古代の勲章みたいなモノ)のではなく、亡国の王族が追放された先で神として存続したと考える方が辻褄が合う。
征服のご褒美組の筆頭は日本武尊(やまとたけるのみこと)だろうし、最強の亡国王は大国主だ、と思っている。

備後国一宮、吉備津神社は海からずいぶん離れたところにあった。どうもそれが腑に落ちない。吉備国は瀬戸内海海運を抑える海洋王国だったのではないか。その国の中心地である一宮が内陸部に引っ込むということは、海岸防衛戦に負けて陣地後退したということだろうか。
そう考えれば、川沿いに内陸に引きこもり、防御縦深を深くしたとも考えられる。ヤマト朝が西から攻略してきたとすれば、この地が第一次防衛線で、岡山あたりにある本拠を守るため、あえて拠点を内陸部に移動したと推測もできる。
神社にお参りに来て古代日本の戦時状況に思いを馳せるというのもずいぶんと物騒な話だが、吉備津彦さまであれば許してくれるだろう。

古代の神社、特に一ノ宮と言われる歴史の長い神社は、その立地が当時の、つまり古代ヤマト朝成立前の時期に、その地域の中心地だったはずだ。今では無くなっている地方王国でも政庁は一宮周辺にあったはずだ。だから、一宮周辺の地形は防衛拠点、要塞跡地と思って眺めるとなかなか興味深い。
そして、古代ヤマト朝最盛期に建立された各国の国分寺跡は、ヤマト朝が意図して作り上げた軍事拠点、武力拠点、行政支配拠点であるから、一宮と国分寺の位置を比べると、これまたあれやこれやの歴史妄想が湧き出す。
今ではすっかり平和の象徴で信仰の中心になっている一宮も、建立当時は政治的軍事的要所であったはずだが、今では戦も起きない。すっかり七五三を祝う平和な場所に変わっている。

神社の外装といえば「朱」と決まっているようだが、これも時代がだいぶ下った時からの「豪華色」らしい。この「朱」の塗料を作るのには膨大な資金がかかるそうだ。いわば金箔を張り巡らした金満建造物ができる前の時代に、一番金がかかる豪奢な建物が朱塗りだった。つまり、建主が権力者であることを示す意味があった。
だから、朱色に塗られた神社は征服者の証であるはずだとずっと思っていたのだが、吉備津神社が朱色とはちょっと意外だった。土着の神が征服民族の神に置き換えられた(昇格した)ということか。

しっかりと古代日本史や神社の様式をお勉強したわけではないので、勘違い、思い違いなのかもしれない。ただ、この地に住む人に2000年近く前から「我らが神様」と信仰されてきた吉備津彦(これも別名であったのが改名させられた可能性もあるが)さまにとっては、どうでも良いことなのかもしれない。

くどいようだが、この神社のある場所は、後背にある山を合わせて防衛拠点として見るとなかなか興味深い地形なのだ。瀬戸内海運国であったはずの吉備国で、神社を築くとしたら鹿島神宮的な海辺になるはずなのだ。それがなぜこんなな海から離れた山の中に………
歴史をネタにした妄想は楽しい。それはさておき、吉備津神社は清々しい神社でありました。

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興国寺城とキャラの街

戦国時代を通して関東の覇権を争った北条氏の開祖、伊勢新九郎が最初の居城としたのが興国寺城だ。現在の沼津市にある。沼津といえば相模湾有数の漁港だが、東海道の交通結節点として重要な場所だった。富士山の麓を周り甲府から東海道に出てくると、この場所にあたる。その戦国時代の重要防衛拠点を任された伊勢新九郎・宗瑞が作った城を、その後何代かの領主が改築増築して大規模な山城とした。
伊勢氏(北条氏)が拠点を、伊豆韮山、相模小田原へと移したこともあり、興国寺城の城主はめぐるましく変わったようだ。
その北条一族の話を大河ドラマにする運動が起こっているみたいなのだが、そうなるとメインの舞台は韮山か小田原になるのではと思う。この沼津の町に及ぼすインパクトはあまり大きくないような気もするが。

興国寺城跡には神社がある。神社の後ろは高い土塁というか土壁だった。城といえば石垣というイメージがあるが、戦国初期の城はほとんどが土壁、土塁で構成されている。
土壁もこれだけの高さがあれば、石壁に劣ることない防衛施設だし、攻め手から見れば難攻不落に近い。この傾斜度の高い斜面を草鞋で登ることを想像するだけで、うんざりという気分だろう。おまけに、壁の上からは石を投げたり、矢をいかけたり、丸太を落として嫌がらせをするのだ。

城の入り口手前は平らな場所になっているが、これはおそらく戦国時代の後で廃城になった時期に、農地にされていた跡ではないか。防衛施設にこのような見通しの良い平地は必要ない。あるいは、防御柵などが張り巡された一次防衛施設だったのかもしれない。
ただ、普通はそのために一次防衛施設として水堀あるいは土掘をつくる。やはり戦国時代終了後の改修ではないか。
土壁の上まで登れば小高い丘になっているので、沼津市街が見渡せる。東海道の防衛拠点としては優れた場所だ。やはり、歴史は現地に行って観察しないとわからないことも多い。
例えば、安土城跡に行って地形と地勢を理解すると、戦国時代の歴史・歴史小説がよくわかるようになる。新幹線で関ヶ原から京都まで通り過ぎる旅ではわからないことだ。各駅停車の旅で城を目指して転々と移動すると、その昔、東海道を歩いた軍隊や徒歩旅行者の視点で景色が見えてくる。

その戦国時代の貴重な名残をとどめる沼津市で、今は二次元乙女たちが成功を収め、全国から観光客を吸引している。情報が財をなす現代で、戦国時代より効率的に街の経済を支配するアニメキャラ。
伊勢新九郎も、こんな未来は夢見ていなかっただろう。興国寺城跡から「絵」で全国を制覇するものたちが生まれるとはね。
ただ、この現代の経済戦争における戦闘乙女たちに一番喜んでいるのは、JR東海かもしれないなあ。

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自由に使える 自由軒

晩飯にはB級なグルメが良いと思いネットであれこれ定食屋を検索して発見した一軒がこの店だった。表に立つと、実に味があるルックスで、おお、これはタリを引いたと思った。暖簾にかかる「おでん」が、実に期待を持たせてくれる。

引き戸を開けて店内に入ると、すかさず「お帰りなさい」と言われた。これはちょっと嬉しい。長く通っていた恵比寿にある居酒屋でも、入店の一声が「お帰りなさい」だったが、それを遠く離れた西国の街で聞くとは。

カウンターに座ると、目の前にはおでんの鍋が見えている。壁の品書きを見回すが、おでんの具材は何も書かれていないので、現物を見て注文するようだ。豆腐とちくわ、そして巾着を注文した。ただ、おかみさんによると巾着とは言わないらしいが、よく聞き取れない。餅入りなんとかと言っていた。
構わずに、食べてからの楽しみとそれを頼んだ。おでんの上には甘い味噌がたっぷりとかけられて出てきた。味噌おでんは東北、青森でも定番だが、この赤味噌系のルックスは初めて見た。味噌田楽はこんな見栄えだったか。
出汁が染み込んだおでんは美味いものだが、濃いめの甘味噌もそれを引き立てる。巾着だと思っていた油揚げの中身は餅だった。ああ、これも美味いなあと感激した。酒の肴として餅はどうよという気もするが、出汁が染みた油揚げと合わされば、すっかり気分は天国だろう。

壁に貼られたメニュー(品書き)にシャコ酢があった。ひょっとすると、ジャコ酢、つまりちりめんじゃこの酢の物かという疑念も頭を掠めたが、注文してみれば大好物のシャコだった。確か、ここから岡山寄りにある町はシャコの名産地だから、そこから届いているのかもしれない。
なんだか、とてつもなく贅沢をした気分になったのは、最近めっきりシャコが食べられなくなったからだ。確か江戸湾でもシャコはよく取れるはずなのに、食べる機会がない。お江戸のシャコはどこに行ったのだろう。
これは思わずおかわりがしたくなるほどの美味さで、旅先で拾った儲け物で美味しい肴だった。瀬戸内の海に感謝だ。

そして、締めのメインに選んだのがオムライスだ。最後の最後まで「やきめし」とどちらを注文するかで迷った。が、やはりオムライスがあれば、頼まないわけにはいかない。ひょっとすると飲み屋的に小ぶりなサイズであれば、ちょっと無理をして「やきめし」をおかわりしても良いかと思っていたが、出てきたモノをみてすぐに諦めた。どう見ても普通サイズの1.5倍、いや厚みを入れたら2倍くらいのボリュームがある。これでは一皿完食するのも難しそうだ。
味付けは昔ながらのケチャップ味チキンライスで、予想通り、期待以上で満足度120%のオムライスだった。おまけに、添え物の福神漬けがサイドアイテムといいたいくらいの盛りの良さ。これにも感謝だ。
感服しました「自由軒」さま、ありがとうございます。全てが美味しい・嬉しい・楽しい定食屋であり居心地の良い居酒屋でありました。

帰り際に覗いてみたら、お城がライトアップされていた。良い町だな、福山。

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福山城

福山城に着いたのは夕刻だった。城が夕日にさらされる頃で、自然のライトアップとでも言いたいくらいに夕日に染まる城壁は美しい。ちょっと感動してしまった。
城を見る時に一番気になるのは石垣で、それが野面積みという凸凹感がはっきりしたものほどワクワクしてくる。
戦国後期以降の、綺麗に石を整形して真っ平にされた石壁は、それはそれで美しいのだが、なんとなくちょっと残念な気分にもなる。城が要塞としての実用美を誇っていた時代から、権威の象徴として様式美を追求するようになる。そんな切り替わりがわかってしまうからだろう。

再建されたコンクリート製の城も、現代的な様式美の現れで、それは美しいフォルムだが、建築当時からの天守が残っているものと比べると、やはりちょっと残念な気分になる。
そういう意味では、戦国終了後の最終形態である千代田城(江戸城)が復元されないのは良いことだと思う。現実問題として、皇居を一時移転しなければ江戸城復元は難しいから、そんなことを発案できる自◯党政権は、まあ、ないだろうなあ。

福山城は平城なのだが、お城の基盤はかなり盛り上がっているので、城下町から仰ぎ見るお城になっている。江戸から明治にかけて町が平面的だった時代は、さぞかし豪壮な光景で領主の権威を高めたに違いない。
天守を取り巻く石垣とその階段は当時のままのようだが、城が要塞であった時代の実用性みたいなモノが感じられる。この高さが不揃いの石段こそ、まさに戦時施設であることの証明だ。などと思っているが、ひょっとすると後代に改造されたものかもしれない。お勉強不足だ。

今ではすっかり公園になっているが、築城当時は木など一本も生えていなかっただろう。敵兵が侵攻してくる時に、防御に利用されるものなど残しておく意味がない。そもそも城壁から鉄砲や弓矢で攻撃するのだから、敵兵が利用できる遮蔽物など残してはいけないだろう。

お城の中を散策していると、お城デートをする何組かのカップルとすれ違った。こちらは城の石垣を見て、この出っ張りの上には櫓があったはずだとか、落石用の壁はこの辺りに作ったら効果的だななどと、危ないことを考えているのだが、そぞろ歩く男女はそんな怪しいことを思うはずもない。
漏れ聞こえる会話も、平和で微笑ましい話題だった。400年以上も前、この城を建てた軍事技術者たちは、戦闘効率に頭を悩ませ、今、この城を歩く人たちは今日の晩飯に頭を悩ませる。城の役目がデートの場所になったのは、きっと人類にとって素晴らしい進化なのだ。夕日に染まるお城はそんな、ちょっと感傷的な感想を抱かせてくれるのでありました。