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岡山城

岡山には何度も行ったことがあるのだが、幹線道路沿いにある店舗を見に行ったり、ショッピングセンターを視察したりで、街中を歩いたことがないままだった。お城に関心もなく、名所である公園にも興味がないのだから、お城周りに行く場所はない。
しかし、岡山城を一度も見ていないままでは後悔すると一念発起して、お城見学に行くことにした。ネットでマップを見ると駅前からはなんとか徒歩圏らしいが、近くまで路面電車も走っているので、お城近くまでは電車移動にした。
路面電車はのんびりと走るので(法定速度がかなり低いらしい)、街を覗き見るにはちょうど良い。岡山の城下町らしき繁華街で電車を降りて、そこから10分ほど歩いた。広いお堀を巡らせた立派な城だった。

石垣の積まれ方で、概ね築城された時期がわかる。戦国中期に始まった石垣の上に守備構造物を乗せる形は、戦国が終わった後の江戸初期に新規築城が止められるまで、時代と共に進化して至った。当然、最新兵器の鉄砲に対抗する設計も加えられ水堀、石垣、多層構造の防御拠点(三の丸、二の丸、本丸)による縦深防御などの築城基軸が生まれた。
岡山城は瀬戸内海に広がる高速海上街道の東部拠点であり、また日本海側との陸路の結節点でもあったため、立派な城が建てられた。関ヶ原敗軍である西国諸侯に対する防衛拠点でもある。江戸幕府、西国方面の主力防衛要塞だ。

いつものようにお堀の周辺で攻城作戦を練ってみるのだが、この城も力攻めが難しい戦国末期の傑作城らしい。そもそも山城ではなく平城で防衛拠点には向いていない。それを、人工的に仕立て上げた要塞だ。後背地は川で正面は深い堀になっている。
信州上田城と同じ構造で自然の障害を上手く活用した好立地だし、包囲戦を仕掛けようにも川が邪魔だ。おまけに飲み水も潤沢なので包囲戦を仕掛けた方が、山側から逆包囲も考えられる。守りに優れた名城なのだ。

黒一色の姿はなかなか武ばった感じがする。漆黒の城は精悍な印象を受ける。ただ、事前に全く研究していなかったので、城の中に入ってから初めて知ったのだが、この城は復元城だった。先の大戦で空襲を受けて焼かれてしまったそうだ。
日本の城の大半は、戊辰戦争後に頭の悪い西国革命政府により廃城になり、生き残ったものも大戦の空襲で焼けてしまった。たかが70年ほどの時間で歴史的建造物のほとんどが消えた。負けた大戦の責任を取ろうとしない明治政府の後継者も含め、近代日本失政の象徴とも言える。

城の中は博物館になっていて岡山城の歴史を学ぶことができるが、一番感動したのは城の礎石を復元したものだ。
名古屋城を完全に木造で復元するプロジェクトもあると聞いたが、今では城を再建するほどの国産木材、特に巨木は手に入らないだろう。山奥に入って樹齢100年を超える大木を探しまくれば可能かもしれないが、そんな木を切ることは環境団体が反対するに決まっている。
そもそも、古代から中世にかけて首都が東遷したのは、首都造営に伴い周辺の大木を伐採し尽くしたからだ。すでに本州東部はおろか北海道まで、巨大建築に向く大木は斬り尽くしているはずだ。
だから、礎石の復元で我慢して、あとは想像力を駆使して巨大な城のバーチャルな姿を思い浮かべれば良いと思う。木造大箱建築物が好きな首相がいなくなって良かったと思っていたら、もっとおバカな万博大好き知事が、これまた木材の無駄遣いの極みを趣味しているのだ。
西国の権力者達は上古の昔から本当にどうしようもないおバカな性分らしい。復元岡山城を見ながら、そんな歴史の過ちを考えておりました。

街を歩く, 旅をする

岡山アーケード そぞろ歩き

昔からある城下町では、鉄道の駅とお城近くの繁華街が離れていることが多い。岡山も新幹線が通る大幹線駅なのだが、お城から駅はかなり離れている。お城と駅を結ぶのが路面電車で、これを使ってお城近くまで行った。百貨店を中心としてアーケードが続く岡山の繁華街だが、残念なことにシャッターが閉まった店もかなりある。中心部の衰退は全国土の街で起こっていることだが、岡山も例外とはいえないようだ。このアーケード街が再生することは、おそらくない。そのうちにぽつりぽつりと店が消え駐車場に変わるようになる。そうなるとアーケードは一気に荒廃が始まる。そんな街をあちこちで見てきた。

おそらく、その引き金を引いたのは自動車移動中心の生活が始まったことで、それに商店街の対応が遅れたことだ。そして、決着をつけたのが駅前にできた大規模人工都市であるショッピングモールだ。
このショッピングモール対繁華街の戦いは、都市の新陳代謝と見ることもできる。しかし、都市再生というにはほどとおり。ただただ、旧繁華街で起こっているのは、自分たちの街の新陳代謝を起こせずにゆっくりと老衰しているという現実だろう。
その衰えゆく街並みの中で、いやいや、俺たちはまだ負けませんぜというような元気のある看板を見ると、他人様の街でありながらホッとする。例えばこの「漆器雑貨」と書かれた看板の力強さがたまらない。
今の時代に漆器の専門店を続けていることもすごいが、城下町の時代にはさぞかし名門の老舗だったのではないか。漆器とは、今でいうところの高級ブランドであり、嫁入り道具で持っていったり、代々伝わる冠婚葬祭の必須道具だったはずだ。
見た目は古そうな看板だが、定期的にメンテナンスしているように見える。電話番号五十四番とはこれまたすごい。岡山の中で最初期に電話を引いた大金持ち商人だったということがよくわかる。看板に感動するとは稀な経験だった。書体は旧字で右書きであるから、少なくとも戦前、おそらく明治末ごろからの看板だろうか。

こちらは昭和中期の看板だと思うが、今でも「ラジオ」店というのがすばらしい。昭和の始まりごろから続く店だろうか。当時、ラジオは近代家電の代表で、最新鋭の情報機器だった。近代文明の最先端を感じさせるものだったはずだ。
そしてラジオはテレビに置き換わり、パソコン、スマホと時代の主力情報機器は進化を続けた。今ではラジオ専用機を持っているものなど数少ない「趣味」専用の機械だ。(ちなみに、自分はラジオ専用機を持っておりますが、なにか?)
すっかり減少している喫煙者が店の前に集まっていたので、何か特殊なことでもあるのかと興味を惹かれたが、単純に大型の灰皿があるからそこでタバコを吸っているだけだったようだ。ラジオ店の集客がタバコになっているという不思議さには、あれこれ考えてしまった。

店の中では何を売っているのか覗いてみたら、なんとも雑多なもの、おそらく家電製品の一種を含めたあれこれが並んでいる。ドンキの家電売り場のようなカオス状態だった。じっくり時間をかけて眺めてみたら面白そうだったが………

そのラジオ店の先で、これまた不思議な店を発見した。何を売っているのかよくわからない。店頭で飲食業をしているような感じもするが、入り口付近には様々な人形が並んでいる。どうやら骨董品屋というかアンティックショップというか、いろいろな古いものを雑然と並べて売っているようだ。
営業中と書いてあるが、この看板もひょっとして売り物なのではないかとおもってしまう。ちなみに店頭でソフトクリームを注文するにはどうすれば良いのか。従業員は誰もいないので、店内に注文しに行くのだろうか。あれこれ興味が尽きない。

一番すごいのは、この薬品メーカーが作った遊具で、たしか十円入れるとごとごと?動くものだったような記憶がある。ただ、十円玉挿入口は塞がれていた。これも売っているのだろうか。値札は見つけられなかったが。まさしく不思議空間だ。

アーケード探索に疲れて喫茶店でもないかと探していたら、すてきな食堂を発見した。もう少し腹が空いていればノータイムで入ったのだが………
少しくたびれた感じのする岡山繁華街は、実は「私、脱ぐとすごいんです」的なグラマーな魅力に溢れているワンダーランドらしい。もう一度、ゆっくり時間をかけて遊びに来たいものだ。
多分、土曜の午後、人出が多い時間が楽しそうだ。ちなみに岡山は財政破綻都市の手前くらい借金が多いらしいので、アーケード復興の予算はないだろうから、ここはクラウドファンディングを使い、面白い街づくりをするというのはどうかなあ。対イオンとして大正昭和をテーマに全面レトロなテーマパークみたいにするとか。商店街の観光地かは面白いと思うのだけれど。

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高知の駅でプチ観光

高知空港についてt到着ロビーに出ようとしたら、すごい看板を見つけてしまった。自慢は味だけと言われてもねえ。意味深すぎて笑ってしまう。味に自信はあるのだろうが、それ以外がダメだとしたら「接客」が無愛想なのか、店が汚いのか、値段が高いのか………
外食業界の鉄の掟、QSC+Vの手順であれこれ考えてしまった。ただ、これはぜひ確かめに行ってみなければと思うのだから、広告効果は抜群だ。問題はお店ではなく、ひろめ市場が朝から夜まで満席続きということだ。平日の朝早くにでも行かない限り席を確保できない恐れがある。

その後、高知駅行きのバスに乗り込み移動開始で、高知市内中心部の交差点に近づいた。かの有名なはりまや橋が見えてくる。写真左側に柳の木があるが、その木下に見える赤い部分がはりまや橋だ。橋の長さは5mほどか。下を流れる川幅は2mくらい。小川にかかる丸木橋程度で、よほど注意していなければ見過ごしてしまう。
高知市内に電車が走っていない頃はもう少し目立つ場所だったのかもしれないが、いまではゴーグル先生のナビに従ったとしても見過ごしてしまいそうな「かわいらしい」名所だ。

高知駅前に着くと、かなり立派な観光施設兼案内所がある。その壁に描かれているお言葉が妙に引っかかる。確かに、高知県は全県あげて「龍馬推し」だ。龍馬以外にも高知県の名士はいると思うが、その扱い方比率が龍馬95%、それ以外はまとめて5%くらいの感じがする。
高知市内を車で走っていても企業名の入った看板を見ると、龍馬〇〇株式会社が軒並み並んでいる。高知〇〇株式会社よりもはるかに目立つし、多いような気がする。龍馬ラブの街だといっても良いだろう。
もはや高知に殿様がいたことすら忘れられているほどの、龍馬限定都市だ。

それでも駅前には、龍馬の同志であった(多分)お二人が、龍馬先生の護衛をするように並んで立っている。明治の民権運動を率いた板垣退助や東京都の開発を進めた後藤象二郎などは、お供にも加えてもらえないらしい。まあ、この3人は全員殺されてしまったから悲劇のヒーローという扱いなのかもしれない。

そして、この3人をスマホで写真に撮り観光案内所で見せると、記念の絵葉書がもらえるという素晴らしい企画をやっていた。おお、まさにこれはスマホ時代の販促活動だよ、考えた人偉いなあ。と、感心して終わりにしないで、きっちり写真を撮って絵葉書をもらってきた。ありがとう、観光協会の皆さん。

そのついでに施設内にあるポスターの展示を見ていたら、青春18きっぷのポスターがあった。高知県の駅が対象だったせいだろう。今年の夏ポスターだった。青春18きっぷ愛好者としてはなんだか嬉しい気分になる。

それ以外にも、高知県のイベントを宣伝したポスターが展示されていた。この観光ポスターをまとめて見比べてみると、予想以上に高知県デザイナー(多分)のレベルが高いことがわかる。上手いし綺麗だし素晴らしい。展示に選ばれるのだから当然レベルの高いものばかりなのだろうが、高知市の文化レベルというか感性の高さが現れているようだ。
こういう素晴らしいグラフィックデザイナーが存在しているのであれば、一度一緒に仕事をしてみたかったものだなあ、などと昔の仕事を思い返してしまった。
高知駅前で現代美術館にきたような気分になってしまう、プチ駅前観光でありました。

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備前国一宮は山奥だった

一年の初めは神社の話というのがよろしいかと思い……………

石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ)は難読漢字だと思う。一ノ宮には難読漢字のものが多いが、神社というものは古来からお祀りされてきているので仕方がない。
難しい漢字を使いながらなんとなく漢読みで読み解ける「お寺」とは違い、神社や神様の名前は当て字で書かれていて、読み解くことが難しいせいだ。これも、古代日本に漢字が輸入されてしばらくしてカナが発明されるまで「漢字」を表音文字としても使用したせいだろう。
この神社は備前国一宮として祀られているのだが、備前国は岡山県東部、岡山市周辺の地域だ。そして、この神社の所在は岡山から津山(美作国)に抜ける国道から離れた山の中にある。ただ、今の国道から離れているとはいえ、古代にはこの辺りが中国山地と瀬戸内を結ぶ主街道だったのかもしれない。

不思議なのは、備前国には瀬戸内海側にもうひとつ一ノ宮があることだ。そちらは主神が吉備津彦であり、こちらは素戔嗚が収めた神剣であるという。吉備津彦と素戔嗚という中国地方の二大勇名神が南北に対峙する構造のように思えるのだ。
この辺りは古代日本神話の裏側にある大ロマン地帯だ。個人的には、こう考えている。出雲を平定したスサノオが、次の侵攻地を吉備国に定めて吉備國北部から瀬戸内に押し寄せた。その攻防戦の前進基地がこの神社周辺だった。吉備出雲戦終了後、吉備国の首都にあった吉備津彦神社(たぶん、名前は別)を一ノ宮として残し占領政策(治民)とした。ただし、反乱を抑え込む軍事拠点としてこの神社はスサノヲの名の下に軍政を敷いた。
みたいな妄想をすると、古代の歴史と神社の由来が重なり合う。これぞ神社詣の楽しみだ。あくまで個人的な妄想ですよ。

などと上古の大戦に思いを馳せながら山道を上がっていくと、嫌な気配がする。ここまでもそれなりに上り道だったが、坂の下に竹の杖?らしきものが置いてある。志摩国の一ノ宮に行ったとき、とてつもない山登りの道があり苦難を極めた。そこにも杖が置いてあった。危険だと脳内で記憶が訴えている。前日も山登りをしていて、足はパンパンだ。しばし立ち止まり考え込むが、登るしかない。仕方がなく、手頃な太さの杖を手にした。

拝殿に行くまで何度か立ち止まり息を整えるほど急坂だった。岡山県のお城や神社は山の上ばかりで、すっかり岡山県が嫌いになった。拝殿前にたどり着いた時には、足がブルブル震えていた。ただ、杖はとても役に立った。次からは城・神社巡りをするときには、用心のため折りたたみの杖を持って歩くべきだと決意した。
四国で金毘羅様をお参りに行った時に、2度と山登りをする神社にはいかないと誓ったはずだが、どうもそれは叶わぬ誓いらしい。同い年で山登りを趣味にしている友人の顔が思い浮かぶ。ただただ尊敬するしかない。

拝殿の横には、なんといえば良いのか不思議な建物があった。中には自動販売機が並んでいた。御朱印、お札、お守りは全て無人での提供(販売)だった。どうやらコロナ対策らしいのだが、もう五類に移行しているのだからこんな厳重にしなくてもという気がする。
ただ、自動販売機を導入してしまったので投資回収をする必要があるのかもしれない。神社も人手不足で悩んでいるのかな。神社も経営改革が必要な時代らしい。とりあえず自動販売機を拝みながら御朱印を頂戴(購入?)した。そのあとベンチで休憩。

拝殿の横が社務所で人の気配はするが、姿は見えずだった。社務所脇から本宮に行く道がある。本宮まで行くかどうかを迷っていたら、案内札に本宮まで10分と書いてある。これをみた瞬間断念した。この10分というのは健康な若者向けの標準時間であり、よろよろとしか登れないオヤジにとっては倍くらいの時間がかかるはず……………
決して挑戦してはいけない高い高いハードルだ。筋肉がパンパンになった足を引きずり山登りをするのはなんとかなっても、帰りの下りが危なすぎる。杖を頼りに帰り道についた。神への道は辛くて遠いのだな。

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枚岡神社にて キャラを学ぶ

ほぼ住宅地にある

クリスマスだが神社の話になる。
近鉄線に乗り小さな郊外駅で降りたらそこが神社の前だった。というより、神社の前に駅を作ったのだから、やはり参拝客の多い由緒ただしき神社なのだ。全国各地にある一ノ宮の所在地は、まず古代の地方中心地、あるいはヤマト朝に征服された古王国の首都付近だったはずだ。
それが中世、近代と時代が下るにつれてその場所の意味合いが変わっていった。依然として経済、政治の中心として残っていることもあれば、中心地が都市ごと移転してしまい一ノ宮は辺境となっていることもある。
そういう意味合いでいけば、この神社は周りを住宅地で囲まれた賑わいのある場所として生き延びた。お参りに来るものも多いだろうから、神様もそれなりに居心地が良いことだろう。
古代の大阪は浅い入江が続く湿地帯だったので、今の平野部は人の住みやすい場所ではなかった。当然、山際に人は集まり住んだからこそ、この場所に神社ができたはずだ。東大阪地域こそ当時の高級住宅地帯だったのだろう。、そこを鎮守するのがこの神社の役割だったはずだ。(多分)

鳥居から続く道はかなりの上り勾配で、その坂を登り切ったあたりに拝殿があった。七五三のお参りに来た家族がちらほらとみえる。晴れ着に身を包んだ我が子を写真に撮っている光景は実に微笑ましい。

神社の入り口にある「縁起」を読むと、古代ヤマト朝が統一事業に取り掛かり、いくつかの大王の治世を経て奈良盆地に王都を打ち立てた時代の先駆けがこの神社であるようだ。やはり古き神社だけに謂れがある。
神社に行きこのような建立の理由が説明してあると、なるほどなあと思うが、実はこの謂れについて語られているのは、いつでも主祭神がヤマト系神族の場合だ。被征服王国の神族の場合は、争って負けたみたいなことでさらりと流されているか、そもそも国神の話が全く語られない。神の世界も厳しい序列と区分があるとは、なんとも世知辛い。

石段を登り切ったところに拝殿があるが、その後ろに広がる山が神域なのだろう。周りは思っていた以上に狭い。諏訪大社の四社も山裾にひっそりと建立されていることに似ている気がした。

お参りを済ませ帰ろうとしたら、屋台が気になった。キャラクターカステラと書いてあるが、これは誰が見てもわかる国民的キャラ「アン◯ンマン」ではないか。これに匹敵するのは、青い猫型ロボットくらいしかいない。それをはっきりと書かずに「キャラクター」と表記するあたりは、現代の知財管理が縁日の屋台にまで浸透したということで、なんとも不思議な気がした。
庶民の知恵というべきか、テキヤの世界の常識なのか。祭りの縁日で売っているキャラクターお面なども同じことだろう。国を治めた神様のお膝元だから、あまり窮屈にしないで貰えば嬉しいなあ。などとおもったのだが……………

そもそも八百万の神様の中には、随分と外国生まれの神様がまぎれていたはずだし、コピーライトを言えば他国から訴えられそうなものだ。天竺生まれで中華帝国経由ならゾロゾロといるからねえ。

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5分で回る名城巡り

三原の駅に降りたのはこれが初めてだった。空港行きのバスを待つ時間調整のためなのだが、思いがけず長居をすることになった。駅前は全国に多くある地方都市と同じように、ちょっと寂しい雰囲気がある。街の中心は郊外のどこかにあるショッピングモール周辺に移ってしまったのだろう。
この街の名物はタコであるらしいことが駅前広場の看板でわかる。たこめしでも食べてみようか、と言うのがまず第一の感想だった。

駅の改札口を出ると、いきなり目につくのが三原城入り口の看板だ。ここは、おそらく全国でもこの城だけだと思うが、駅構内に城がある。正確に言えば、城の中に駅を作ったと言うことだ。明治期に鉄道の建設が続いた頃、普通は城や城下町から離れたところに駅が作られた。蒸気機関車による煙問題や火の粉による火災を懸念してのことだったらしい。
ところが、なぜか三原駅はお城の敷地、それも多分お堀を潰して建てられたようだ。おまけに、山陽本線に追加して新幹線まで乗り入れている。

駅構内(改札外)の入り口を上がると、目の前に石垣がでてくる。これが本丸の石壁だというから、城の端ではなく城の真ん前に駅を作ったと言うことだ。なんとも凄まじいことをしたものだ。

城壁と駅構築物の間には、ほんのわずかの隙間しか残されていない。新幹線に乗っていては気がつくこともないが、線路のちょっと先には天守台がある。おやまあ、と言う気分だ。明治政府のバカさ加減かと思ったが、昭和の日本政府はそれにバカを上乗せして新幹線まで通した。
ちなみに、駅の先には瀬戸内の海があるが、もともと三原城は海に面した海城だったそうで、つまり駅舎から先は埋立地だったらしい。城の北、山側が狭隘だったことから鉄道も道路も城を押しのけ作られたと言うことだ。

城の周りはお堀が巡らされているが、これも海とつながったもので、海の上に浮かぶように見えた勇壮な城だったようだ。今ではその名残しかない。

駅舎自体がお城の敷地内にあるので、お城博物館のようなものは作ることがなかったようだ。改札の中には’ホームからおりる階段脇)に、城の配置図がある。これは改札を出てから気がついた。改札を出る前にしっかりと見ておかなければいけなかったと思うのだが、それに気がつくのが遅すぎた。

もともとこの地を治めた小早川家は毛利家の一族だが、関ヶ原の時に徳川に寝返った因縁もある。戊辰戦争勃発時も西国の要所でありながら毛利側についたと言うこともなかったようで、明治政府にとっては厚遇する意味もなかったのだろう。
明治政府の狂気を後継した昭和前半の軍事国家日本、そしてその直系後継者である昭和民主日本、どちらも江戸時代の匂いがするものは嫌いだったようだ。文化的に劣るものたちは、先人の成果に嫉妬し憎悪し破壊する。万国共通の蛮族の論理だ。
明治という時代は知的蛮族が率いる、文化破壊と文明断絶の時代という視点で見る歴史家はいないものだろうか。司馬史観などと言って明治礼賛をするのは、昭和の時代とともに終わりにして欲しいものだが。三原城の残骸を見ながらそんなことを思っていた。

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もう一つの吉備国

吉備国の祭神の近くに、なぜか古代ヤマト朝神族の中で最強の荒ぶる神、素戔嗚(すさのお)を祀る神社がある。これはなかなかに興味深い。
そもそも素戔嗚は第一神である天照大神の弟という設定だが、まさにこれは古代ヤマト朝神話の中で最大のフィクションだろうと思っている。古代ヤマト朝の統一過程で最大の敵国を率いていたのが、素戔嗚王だったのではないか。その「すさのおの国」を下した後、懐柔と反乱抑止のために「亡き王」を第一神の弟という高いポジションに祭り上げた。
だから、素戔嗚は高級神らしからぬ荒事に投入される。出雲国平定にも出動させられ、八岐大蛇と怪獣大決戦を繰り広げた。その荒ぶる神が次に出動したのが吉備国制圧戦争だったのだろう。史書的には吉備国が大乱を起こしたことになっているようだ。
そして、吉備国併合の後は、反乱分子になりかねない地方神「吉備津彦」の押さえとして、この素盞嗚神社が置かれた。だから吉備津神社と素戔嗚神社が近距離に置かれ、どちらも備後国一宮になっている。ヤマト神族の中の冷戦状態、みたいなものだろうか。そんな妄想をしてみた。ただ吉備津神社は一箇所だけではなく他の地(備前)にもある。そこが謎だ。

神社の境内はそれなりに広いが、一ノ宮として考えると少し手狭な気がする。人心掌握よりも反乱防衛拠点として置かれたとすれば、大きさよりも鎮圧時における初動の速さが求められていたと考えられないか。
出雲国の亡国主神である大国主がはるか東、諏訪の地まで移動したことを考えると、この素戔嗚も元は九州あたりにいて(高千穂付近かも)、それが東の吉備国まで転勤させられたと考えても良さそうだ。
古代ヤマト朝は、征服した国の神様をブラックにこき使う厳しい国、パワハラ国家だった。そう思って古事記を読み解くと、なるほどなあと納得できる事件が多い。(笑)

この国は、神代の時代からブラック体質だったのだ。その勤勉なブラック体質(そんな存在自体が嫌だが)である古代ヤマト朝が、堕落してのんびり体質に変わったのが平安期だから、ざっくり言って1000年近くも、古代日本は神ですらこき使うブラック国家だった。そのブラック雇用で一番酷使された神様が素戔嗚さまだったのだね。(個人的感想です。宗教的な意味合いはありません)

荒ぶる神のオヤシロは、朱色に塗られることもなく簡素なもので、それはそれで好感が持てるものだった。古いお社は朱に塗られていない方が良い。朱が薄れたり禿げたりしているのをみると悲しくなるというのもあるが、地元の民に崇敬されているのは、こうした地味な木の色ではないか。

古代ヤマト朝の征服と統一の過程を思えば、東の国は統一最終行程で一気に攻められ併呑されたので、地方神などかけらもなくなっている。西国ではそれより古い時代に征服戦争起きた。統合過程も時間がかかっていたためか、元の姿とは微妙に変形しながら「国神」がのこされているようだ。

1000年以上前にこの地を歩いていた人がいると思えば、神社詣も色々と感ずることがある。素戔嗚と呼ばれた人がここを歩いたとは想像できないが、その子孫の誰かがここにいた可能性はあるのだし。
2000年を経た後世で皇国史観という歴史と神話と伝説を混同したものが猛威をふるい、その信者が国を率い亡国寸前まで暴れ回ることになるとは、さすがの荒ぶる神スサノオ様でも思いはしなかっただろう。


どの時代でも狂信者は生まれ、世界を混乱の中に落とし込み、正義の名の下に不幸を再生産する。そんなに神を崇めるのであれば、自分の命を糧にしてさっさと一人で神の国へ行ってしまえ、周りを巻き込むなと思うのだが。
贄を求める神など堕神であり邪神でしかないだろうに。そんな堕神を崇める宗旨は、崇められる神様自身が「おいおい、俺はそんな酷い神ではないぞ」と迷惑しているだろうと思う。
地の塩、世の光と言ったのは異国の救世主だったが、我が国の荒ぶる神は今何を思っているのだろうか。やはり地には平和を、と願っているのではないか。少なくとも、昭和日本の亡霊に操られているような愚か者は、助けてやる気にもならないということだろうなあ。

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沼津駅の風景 蕎麦とガチャとキャラ

今や滅びゆく昭和の風景の一つ、駅のホーム内にある立ち食い蕎麦屋はそろそろ天然記念物指定をしないと絶滅してしまう鉄道遺物だ。首都圏山手線という日本屈指の乗降客数を誇る路線であっても、ホームにある蕎麦屋はほぼ壊滅している。
そんな駅そば情報を集めた本が何年かに一度発行されるが、すでにホームの蕎麦屋は残り少ないようで、その数少ない生き残りが、この沼津駅にある。駅弁の製造会社が運営しているようだが、営業時間が朝8時から午後の2時までという変則的な物だった。
夜は立ち食いそばを食べて帰る人はいないのだな。

駅弁のラインナップを見ると、なかなかうまそうなものが並んでいる。中でも、抹茶あじ寿司がうまそうだ。シンプルな抹茶めし弁当にも心惹かれる。販売しているのは改札口の脇にあるお店のようだった。

その立ち食い蕎麦屋の裏側に、なんとも不思議な自動販売機があった。最初は懐かしのオレンジカードのようなものかと思った。ぱっと見では商品券を売っているようにも見えた。
よくよく眺めてみると、なんとガチャ、つまりカプセルトイの自販機らしい。なぜ、ホームに………という疑問と、なぜこの商品ラインナップという疑問が湧き上がる。

そもそもガチャは基本的に均一価格で出てくるまで中身がわからんという射幸性の高い商品のはずだが、 なんとこの自販機では中身がわかるし、値段はバラバラ。ガチャマシンとは似て非なるものだった。しかし、なぜ駅のホームにある?という疑問は解消できない。沼津駅の不思議ではなく、ひょっとするとJR東海のあちこちに存在するのかもしれない。
東海道線を各駅停車で旅をして、それもそこそこ大きな駅で降りて、ホームを見て回らないと確認のしようがない。ほぼほぼミッション・インポシブルな使命だが、知りたいなあ。静岡家機とか浜松駅であれば、このガチャもどきマシーンが置いてありそうだ。

そして、沼津といえばもはや絶対ブランド化しているアニメキャラが駅ビルの入り口でお出迎えしてくれた。全国あちこちで町おこし、地域おこしをやっているが、おそらく一番成功率の高いのはアニメコラボだ。成功例も数多い。
ただ学びとして、単発でのアニメコラボはおおよそ3-4年で経済効果は薄れる。浮気なアニメオタクは、次々と新しい対象に惚れ込んで昔のキャラを見捨ててしまう傾向が強い。だから、制作サイドと連携してシリーズ化を強く押さなければいけない。
映画でも行われている地域コミッション制を軸に、継続的なタイアップ、イベント、情報発信を続けなければいけないのだが、これが地域活動グループにとって、そして地域行政にとって、一番苦手なもの「継続性」らしいのだ。
なぜ、ポケモンやマリオがグローバルキャラクターに仕上がったかを研究すれば、地域キャラの育成戦略は自明なことなのだが。
各駅停車の旅をすると、あちこちで日本の今抱える問題が見えてくる………ような気がします。

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鳳で大鳥大社

大阪の南部に鳳という地名があることは知っていた。その地名と大鳥大社が全く結びついていなかった。そもそも大阪南部から和歌山に至る鉄道路線の知識は、ほぼ皆無に近いので、どの路線を使ってどこに行くかをGoogle先生に聞くしかない。JR阪和線も生まれて初めて乗ったが天王寺の駅が始発になることも知らなかった。
阪和線の沿線風景は都市部がずっと続いていた。大都市はどこでも同じだなとも思うが、大阪南側の街では密度、住宅地の密集度が首都圏を超えているかもしれない。車窓から眺めるマンション群が少し減ってきたくらいで鳳に着いた。

神社と大社は規模の差だけではなく、社格もあるようだが、少なくとも歴史ある神社はどこも大木が生い茂る広い境内になっている。その境内の中をそれなりの距離を歩いて拝殿まで辿り着くと、これは大社だなあなどと思うものだ。その道が一直線であることも多いが、曲がりくねっていることもある。
伊勢神宮は典型的な曲がりくねった構造だ。熱田神宮は、実に一直線で長い。出雲大社は概ね一直線だったが、最後でひと曲がりする。由緒正しい神社は建立されてから1000年を超えるものも多いので、その間には色々な事件があり、拝殿の位置が変わったりしたこともあるはずだから、境内の、そして参道の成り立ちもいろいろ変化しただろう。戦国期の城のように攻城戦を考えて、神社の境内を長陸練った道にした、そんなことはありそうもない。おそらく火事で焼けた建物を避けて増築改築を繰り返した結果、道がクネクネになってしまったということではないか。
大鳥神社の境内は、そんなことを考えながら歩くにはちょうど良い距離だった。

拝殿の形式にはいろいろとあるらしい。お祀りされている神様の違いであったり、地方特有の様式であったりする。不勉強で詳しいことは知らないのだが、古代ヤマト朝の統一過程の中で併合された古王国は、時には自前の神様や神社の形式を残すことができたようだ。出雲大社はその典型だ。
この大鳥大社は征服王朝であるヤマト本国形式なのだろうか。屋根の形が少し変わっている気がする。建物が高床式になっていないのは珍しいので気になった。田舎の神社には簡素な建築のせいか平屋式もたまに見かけるが、大社の格式がありながら随分とこじんまりとしたものに見える。

やはり神社には青空が似合う。この日も気温が低いせいか空気が澄み切っていた。夏の青空とは違う透明感がある。お参りするには絶好な日だった。

神社には駅から歩いて10分ほどかかる。街の中心地とは違う場所にあるようだ。神社の周りはびっしりと住宅が連なっている。昔は門前町だったのかもしれないが、今では都市近郊のベッドタウンのように見える。
八百万の神様は閑静な場所がお好みのようで、いまでも歴史のある神社は山の奥や岬の先など、なかなか秘境っぽい処にあることが多い。が、人の営みに巻き込まれ神社の周りがびっしり住宅に囲まれる「超繁華街」立地の方が多くなってしまった。
こういう賑やかな場所にお祭りされていると、神様も賑わいを好むようになっているのだろうか。神罰も当たっていないから、天岩戸でのダンスパーティー(世界を救う大戦略だったのだけれど)以来、案外と神様もノリノリな暮らしが好きなのかもしれないな。

食べ物レポート, 旅をする

お好み焼き 三原流

三原での待ち時間の間、昼飯を食べようと駅前の街を歩いていた。平日昼のせいか、ほとんどの店が営業していない。駅前の飲屋街は夜にならないと活気づかないようだった。仕方がなく、ネットでランチ営業店を検索してみたらお好み焼きの店が見つかった。行列ができる人気店らしい。この日は20分ほど待たされたが、店内に入ると予約の電話が次々とかかってきていた。
三原は広島県の街なので、広島スタイルのお好み焼きだと思っていたら、どうも「麺抜き」が三原流のようで、広島風お好み焼き、つまりうどんか中華そばが入っているものはモダン焼きとして区別されている。
周りの注文を聞くと、モダン焼きとお好み焼きは半々くらいだった。待ち席がカウンターの鉄板の前で、目の前で次々とお好み焼きが焼かれていく。それを見物しながらの待ち時間は、待たされているのが全く気にならない。
水溶きの粉を鉄板の上に乗せて焼くのはクレープみたいなものだ。そこにキャベツを乗せ麺や具材を乗せる。火が通ったところで、鉄板に卵を割り薄く伸ばした上に、焼けた粉と蕎麦と具材を裏返しにして乗せる。なかなかリズム感を感じる見た目が美しい調理作業だ。

出来上がったお好み焼き、イカ入りのモダン焼きをヘラを使って食べる。炭水化物の塊だが、実に美味しく食べられるのは、ソースの濃い味付けのおかげだ。ただ、中に入っているそばにはほとんど味がないので、濃いめのソースが良いバランスになる。
大阪式お好み焼き、つまり麺抜きのお好み焼きも、それはそれで美味いので広島式、大阪式のどちらがお好み焼きとして本物かというつもりはない。
家庭で作るお好み焼きは火力が弱いせいが、仕上がりが水っぽくベタついてしまうので、お好み焼きは専門店で食べる方がはるかに美味い。麺入りになればなおのことだ。
三原流の麺なしお好み焼きも食べてみたかったが、2枚食べるほどお腹に余裕はなかった。

三原駅から瀬戸内の島につながる連絡船が出入りする港まで、歩いて行っても5分程度だった。その港に続く道が飲屋街になっているのは、ある意味必然だという気もする。島から酒を飲みに来る人が多いのだろう。そのためなのか、宴会場的な居酒屋より二次会向けスナックが多い感じがする。
ただ、雑居ビルもあちこちが空き家になっているのが目立つ。コロナのせいか、人口の変化のせいかはわからないが、瀬戸内の島から人が集まってくる「夜の社交場」としての役割はだいぶ減っているように見える。
三原の隣には広島県第二の都市、福山があるのでそちらにいく人も多いのかもしれない。しまなみ海道を使えば、福山と大きな島は陸続きだしなあ、などと思い裏通を歩き回ったが、人とすれ違うことはなく、猫すら見かけなかった。なんだか不思議な街だなあ。