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街を歩く

PARCOのポスター展 

自宅近くのパルコが閉店する。開店から閉店までしっかりお付き合いをしたことになる。ちょっと気になってパルコの沿革を調べてみたら、池袋パルコ開店が69年、渋谷パルコが73年だった。75年に開いた札幌パルコが、自分にとってのパルコ初体験で、自宅近くのパルコが83年開店。振り返れば我が人生はパルコと共にあると言っても過言ではない。
本当か(笑)と突っ込みたいところだが、確かに自分の中のカルチャー・ポップな文化という言葉は、ほぼパルコと同義だった。よく時代が変わるとか終わるとか言われるが、それを自分ごととして捉えたことはない。ただ、このパルコの閉店は、まさに自分ごとのような気がしている。
その閉店間近のパルコでポスター展が開かれているのだが、これがまたしょぼいというかひっそりというか、普段使うことのない「階段」の壁を使っての展示会だ。それでも気になって見に行ったら、懐かしいさに涙が溢れそうになった(笑)

すでに亡くなってしまった津田沼パルコのオープンポスター

エアブラシを使ったイラストは70年代を象徴する画法?だと記憶している。この後、スーパーリアルという技法に進化していきSFチックなイラストが大量出現したはずだが、それも今ではCGに置き換わっている。時代だなあ………
でも、この絵柄はなんとなく懐かしい。実物は見たはずがないのだが。ひょっとすると札幌パルコで張っていたのかもしれない。

この手のシンプルなコピー使いは、パルコの独壇場だった。パルコが文化だと信じていた頃の記憶だ。西武セゾングループが若者文化の発信者、擁護者であった時代で、老舗百貨店の野暮ったさとは好対照だった。サブカルチャーなんて言葉も覚えたし、たまにはエンタメ系ではないメッセージ色の強い映画を見に行ったりしたのも、間違いなくパルコ文化の影響だった。

このパルコ文化と並行して読み漁っていたのが、昭和軽薄体と言われていた椎名誠氏のエッセイだった。相変わらず山に海に出没している元気な高齢者に成長されたようだが、自分の中では椎名諸策とパルコが同じ系統の文化として完全に同期している。
パルコの広告はテレビのコマーシャルでもたっぷり見たはずなのだが、なぜかポスターの記憶しかないのが不思議だ。
自分が広告関係の仕事に関わっていた時、頭の中のお手本はパルコの諸作品だった。いつかはあんなCM作ってみたいなあ、などと思っていたが……………

そういう意味で、パルコのポスターはメッセージが強い。伝達力が桁違いだと思っていた。これに匹敵するのは、全盛期の新幹線広告くらいだろう。それが国鉄期だったかJRに変わってからだったか記憶は曖昧だが。
広告が社会的、文化的なメッセージ力を持っていた最後の時代かもしれない。

階段で連張されているポスターを見ると、妙に悲しいものがある。なんといえない切なさを感じてしまう。どこかの現代美術館で額装して展示してくれないものだろうか。
まあ、実際には広告ポスターなので、消費され使い捨てられる運命にあるものなのだ。だから、それを美術品扱いしろと言うのも仕方のないことだが。
やはり、ちょっと寂しい。

これが40年前の開店告知ポスターのようだ。ガンガンの夏かあ、確かにあの夏は初めて関東に来て体験した亜熱帯な夏だったので、不快な湿度の記憶しかない。ガンガンというよりジメジメという言葉が似合っていると感じていた。早く金を貯めてエアコンを買うのだと決心したのを覚えている。
扇風機の風が全く涼しく感じられない、寝苦しい夏の夜とパルコの記憶はリンクしたままだ。
ポスター展示最終日は閉店日、あと何回か見に行くことになるだろうなあ。

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道後温泉は檻の中

湯築城見学に行ったあと、歩いて行ける距離にある道後温泉を見物することにした。路面電車で一駅分だから、大した距離ではない。お城のある公園から歩いても5分とかからない。
道後温泉に行くのはこれで2度目だが、最初に行った時は車移動だったので頭の中に地理感覚は全くないままの温泉突入だった。だから記憶に残っているのは、道後温泉入り口のクラシックな建物と、思っていたより随分と狭くて薄暗いお風呂の光景だった。

電車ではないのだよね と確認しに行きました

今回は徒歩で温泉入口に到達したので、あれこれ待ちの景色が目に入ってくる。道後温泉の駅前には、これまた有名な坊っちゃん列車が止まっていた。よく考えると、この列車は歴史的遺物というわけでもなさそうだ。感覚的にはサンフランシスコのケーブルカーみたいなものだろうか。それでも観光目的の列車というのは、そのフォルムを含めなかなか美しいものだ。
終点で機関車を回転させて方向転換するパフォーマンスも、ひょっとすると原型はサンフランシスコのケーブルカーにあるのかもしれない。

動物園のおりか鳥籠か、と言いたくなるが………

駅前から土産物屋が立ち並ぶアーケードを通り道後温泉の前に行ったら、まさかのビックリ風景だった。鳥籠、というのが第一印象だった。建物自体のメンテナンス工事らしいのだが、さすが皇室御用達の名建築物らしく、これではほとんど歴史的寺院の修理と変わりがないレベルだ。確か、奈良唐招提寺の大改修もこんな感じで(幕が張られて中は見えなかったが)20年近くかけて工事をしていた記憶がある。唐招提寺の姿を拝むのに、ずいぶんと待たされたものだ。

さすが松山一の観光地なので、歩いている観光客のほぼ半数が外国人だった。この国はもはやローマやパリのように、地元の人間よりも観光客が多いところになってしまったのだなあ。そうなると、看板も日本語だけではいけない時代なのか、とプリン屋の看板を見ながら思った。

はいからさんが通るの時代かな

坊ちゃんとマドンナも松山を代表する名キャラクターだが、彼らも観光アイコンとしてはせいぜい100年程度の歴史しか持たない新参者だし、おまけに日本文学の造形がないと、この二人の関係性は理解できないだろうなと思うのだが。ぼっっちゃんとマドンナのカップル、これは日本人専用の観光ツールなのかもしれない。
そう言えば、この手の顔出しスタンドで写真を撮っているのは日本人だけのような気もする。確かめたことはないが……………

夕日を背景にした道後温泉駅はなかなか浪漫的な風情がある。ただし、この駅の周りで日本語を喋るものはほとんどいない。何やら、異国情緒すら感じる不思議空間だった。
それでも、ここから電車に乗って二つ先の駅からは、スーツにネクタイをしめたジャパニーズサラリーマンが通勤帰りで続々と乗り込んできたので、一気に車内は日本的お疲れ様な雰囲気に満たされたのであります。

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湯築城 名城の影に隠れた名城

大山祇神社、弾丸ツアーのため前泊した松山で、夕方に時間が空いたので松山の大名物「松山城」ではなく、より由緒正しき古城を見に行った。鎌倉時代から戦国時代まで伊予(愛媛)の領主となっていた河野氏の城跡だ。平地に造られ堀と土塁で守られた堅城だった。

夕方の閉館直前、ギリギリのタイミングで資料館に入ることができた。城跡から出てきた陶器などが陳列されている。1000年近く前の人がこの皿を使っていたのかと思うと不思議な気持ちになる。

資料館の後ろが小高い丘になっていて、ここに城、防衛拠点があったようだ。戦国時代前なので天守閣はなかったはずだが、原平時代から室町期にかけての戦闘形態を考えれば(騎馬武者同士の一騎打ち)、ここはなかなかの難攻不落な要塞だっただろうと推測できる。

堀の横の盛り上がりが土塁であり、堀を渡ってくる敵兵にはこの土塁の上から矢を射かけたり槍で突いたりナギナタで切り付けたりと(ああ、痛そうだ)、あの手この手で防衛戦闘をしたはずだ。そして主戦闘は石投げだったに違いない。戦国期の戦闘は、罵り合い(口喧嘩)→石投げ→矢→槍→刀で乱戦という手順で進んだらしいので、この堀と土塁は戦闘初期に有効だった防衛施設だろう。

ツワモノどもの夢の跡、と言えばそれまでだが。この地を長く支配した河野氏も戦国の終わりと共に没落する。そして、そこに進駐してきた加藤氏が、かの有名な松山城を築くのだが、それは戦国期の鉄砲導入による戦闘形態の変化と、城の意味合いが防御拠点としての城から支配力示威のための城に変わったことを意味する。

愛媛県は100名城が5城もある名城大国なのだが、松山城の名声が飛び抜けているので他の城が霞んで見えてしまう。しかし、伊予国は瀬戸内海上ハイウェイの西側入り口だから、戦略的には間違いなく重要拠点だった。その拠点として古城、湯築城は長宗我部氏の四国統一が始まるまでは重要な役目を長く果たしていたのだ。
乱は常に辺境より起こるので、四国南部と南九州から起こった戦国期の西日本騒乱は、瀬戸内所領を巻き込んで大騒ぎになるのだが。それは湯築城とはまた別のお話なのかもしれない。

ちなみに、このお城から徒歩5分でかの有名な道後温泉だった。全く知らなかった。

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あこがれの神社詣

テレビの旅番組で度々見る「しまなみ海道」は、一度だけ車で走ったことがある。その時は仕事の用事だったので、景色など全く覚えていない。ただただ高速道路を走っただけだった。
ただ、そのしまなみ海道の真ん中、大三島に神社があり、そこには一度行きたいと思っていた。古代日本の歴史の中で、実はこの神社こそが最大のエポックメイキングなポイントだと考えているからだ。
古事記・日本書紀に記載された古代ヤマト朝の伝承は、征服王朝であるヤマトが古代中華帝国の正史に習って書き記したものだから、自己賛美と自政権の正統性を語るのは当たり前だ。だから、日本海側、九州北部にあった有力諸王国を征服併合した後、巧みにそれぞれの国の神をヤマト朝の神話体系に組み込み融和を測った。
出雲王国の神も九州南部の神も(おそらく神の原型はその国を率いた王達であり、最大の抵抗者たち)取り込んだ。それが国譲りだの最高神の兄弟だのと言う形で伝説、神話化されたのだろうと思っている。
その取り込まれた神の一柱が、この大三島の御祭神なのではないか。ずっとそう考えていた。最高神の兄であり、単独でこの神社に祀られている。天照系お付きの神もいない。神格としては最上級だろう。おそらく、出雲よりも強い勢力が瀬戸内の海運を古代日本で牛耳っていた。その一族がここに祀られているのではないか。
ヤマト朝が東進して日本統一を図る上で、瀬戸内の海上交通は現代のハイウェイと同じ高速幹線路だったはずだ。そこをおさめる一族を取り込むために、最高神の兄というほぼ最強の立場を与えたと考えられないか。
そんな古代日本を夢想すると、やはりこの神社には一度行ってみなければならないと思い続けて随分経つ。しかし、この場所は、実に交通の要所から外れている。あまりにも不便だった。しまなみ海道ができて陸続きになったとは言え、交通機関はバスを乗り継ぐしかない。なかなか踏ん切りがつかないまま時間が過ぎてしまった。

ネットでバスの時刻表をいくつも確かめ、松山から高速バスと島内バスをいくつか乗り継ぐと、大三島経由で広島空港に繋ぐことができることがわかった。気分はすっかり某テレビ番組「路線バス旅」になる。
早朝に出発すると夕方の飛行機に乗ることができる。弾丸大三島ツアーが設定できた。

多少のトラブルがあり、松山からではなく今治からしまなみ海道行きバスに乗った

高速バスも島内バスも接続が良いわけでもないので、各所で待ち時間がある。それはそれで、これがバス旅というものだとのんびり楽しむしかない。晴れていて暖かい日だったので良かった。

しまなみ海道を走る高速バスは、各島で停車するため、何度か高速道路から降りてインターチェンジ近くのバスストップ(大型停留所)で止まる。一人二人と乗客が降りていくが、乗ってくる人はあまりいない。
そんなローカル線なのに、外国人観光客は何人か乗っているのが不思議だ。そもそもネット(多分英語版)でバスの時刻表などが乗っているのだろうか。バス停の表示も日本語だけだし。なんだか不思議さたっぷりのバス旅だった。

ようやく訪れた大山祇神社の境内はさほど広いものではなかった。ここに来るまで思い描いていたのは、伊勢神宮より少し小ぶりな程度の大規模造営なお社だった。なんとも拍子抜けしてしまった。

最高神の兄様だというのになあ、もう少しなんとかならんもんかい、というのが素直な感想だった。感覚的には、三番目の弟のお住まい、程度な感じがする。

それでも、これまで日本の古社を随分と回ってきたけいけんからすると、このお社は隅々まで掃き清められ手入れがなされている。一宮とは言え寂れてしまっている神社も多い。それと比べるとしっかりと保持されている。参詣者が多いこともあるのだろうが、神社を支える氏子の方々の努力が伺える。

平日の昼下がり、参拝者はさほど多くないのだが、これまた外国人旅行者が目立つ。境内の中だけを見れば日本人より多い気がする。
日本人観光客がローマに行って、バチカン見物に行くようなものなのだろうか。しかし、この場所に来る手間暇を考えると、実に不思議に感じてしまった。伊勢神宮を筆頭に西国には大社が多い。それなのに、わざわざここに来るとは、相当な神社通ではないか。

あれこれ考えながらお参りをした。1500年以上も昔に、この場所でヤマト朝の親分と瀬戸内海運の統領が会談したのかもしれないと思うと、なんだかむずむずしてくる。うーん、歴史は浪漫だ。

その古代日本に植樹されたという御神木があった。実年齢は不詳だが、確かに神木と言われる風格は備えている。これもまた歴史がある神社でしかお目にかかれない。伊勢神宮はお社内のあちこちに巨木、長命木はごろごろしているが、あれは伊勢神宮限定で、別格というものだ。

樹齢500年を超える樹木は確かに神の領域に近づいている気がする。この大木も1000年以上昔から、瀬戸内の主として人の生き方を見てきたのだろうか。さぞかし愚かしく感じたのではなかったか。

一番行きたかった神社でついにお参りを完了して、とても満足した弾丸ツアーでありました。でも、また行くことはないだろうなあ。

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おいでよ 久礼と誘われて

仕事柄あちこち旅をしてきた。一度っきりの町もあれば、何度も繰り返し訪れる町もある。年によっては2回3回と繰り返し訪れる場所もあった。そういう町では、何軒か馴染みの居酒屋ができたりもするのだが、おそらく自分の人生で一番長く繰り返し訪れているのがこの町だろう。
ずいぶん昔のことだが、仕事で使う食材を国産化しようという計画があり、その時に「ツナ」の調達先として考えたのが、高知県でも有名なカツオの町だった。なんのコネもなく、いきなりネットで探した相手に電話をかけ面談の約束を取り付けた。
その後、一人でノコノコと出かけて行って名刺を出したが、実は全く信用されなかったらしい。名刺の肩書きと風体がそぐわないという理由だったそうだ。後から聞いた話だ。確かに名刺の肩書きを信じてもらうには、それなりにTPOに合わせてスーツとネクタイは必要だったようだ。
ちなみにその時はチノパンにジャケット、背中にリュックサックという、全くビジネスマンらしくない軽装だった。(だそうだ、本人はあまり記憶にない)

この先は中村、宿毛と高知県西部まで到達する鉄路

JR四国、土讃線で高知駅から普通列車であれば1時間強。列車を降りれば駅前に商店街も見当たらない地方都市だ。すでにJR四国管轄にある駅の多くは無人化されている。この駅も特急が止まるにもかかわらず無人駅だ。

駅の中には昔の切符窓口が残っているが無人駅

駅前にはいつもタクシーが一台止まっている。駅前からコミュニティーバスも発着しているので、時間によっては発車時間待ちのバスが止まっていることもある。
5-10分おきにバスが来る都会の感覚からすると、3時間に1本という運行ペースに驚いてしまうが、田舎暮らしに慣れればそれはそれで使い方の問題らしい。
この町で月に一度のペースで仕事をすることになった。友人たちのおかげで、楽しいお仕事になりそうだ。長く生きていると良いことがあるものだ。

駅の構内に(改札口のすぐ外に)鳥居ができていた。八百万の神様がいるのだから、そのうちの一柱がカツオの神様であっても不思議ではない。御神体はなんなのだろうと不思議だったが、まさかカツオの頭ではないだろうなどと不謹慎なことを考えてしまった。

かわうそのしんじょうくん

この久礼の隣町は、最後の日本カワウソが目撃された町で、今でも生き残っているだろうカワウソの復活を応援している。個人的にも、四国山地の山奥でカワウソはひっそりと生き延びていると信じたい。
そのかわうそキャラ「しんじょうくん」をあしらった土産物をこのコンビニで買ってきたが、なんだか食べて良いものか気になって仕方がない。
次回行った時には、もう少し大量に買い込み罪悪感なしで食べてみたいものだなあ。

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高知といえば……どちらでしょう

一年振りくらいで高知に行った。高知空港でのお出迎えはいつも通りの龍馬さんだが、このかたの業績を存じ上げる人は旅行者の中にどれくらいいるのだろう。幕末期の人物では破格の人望を持つ方だ。幕末を描いた時代劇でも、大体は「良い人」として描かれる。主人公との絡みを約束された名脇役でもあり、認知度もそれなりのものだとは思うが。平均身長が150cmくらいだった江戸時代末期に170cmくらいの高身長だから、町を歩けば目立った人だったにちがいない。

もう一人、高知を代表する(のかなあ)人気キャラはこの方で、おそらく全国的な知名度、知っている年齢層の広さからするとこのかたの方が圧倒的かもしれない。少なくとも現時点で5歳から80歳くらいまでの日本人で、この方を知らないという人の方が珍しいのではないか。自分が子供の頃に見て育った世代もすでに孫が生まれるくらいの歳になっているはずだ。少なくとも増税大好き総理大臣より遥かに知名度が高いことは間違いない。もちろん人気度で言えば雲泥どころか天国と地獄くらいの違いがある。
あの世界的に有名なネズミキャラよりもある意味で浸透度は高いかもしれない。作者の故郷が高知という関係で、高知を代表するキャラとなっているはずだ。

JR高知駅に行けば、当たり前のようにキャラ列車が待ち構えていた。これが季節限定などではなく定時運行しているのだから、やは高知の人気者はすごい奴なのだ。

決して不味くはないが、高知に来て食べても満足度が上がらないなあ

高知のキャラについてあれこれ考えながら、駅で列車の時間待ちをしていた。中途半端な時間だったので、駅で軽く昼飯と思ったが、なんとこの日は駅の食堂(カフェ)が定休日だった。駅の飲食設備が休業とは、おそらく正月を除けば生まれて初めての体験だ。JR四国はどういう考えなのか、ちょっと不思議に思ったが、コロナの後は売れない日は休むという新しい慣習ができつつある。仕方のないことだろう。
結局、全国チェーンのベーカリー店舗でイートイン利用してパンで早めの昼飯にした。なぜ、高知に来てまでカレーパンだと言いたくなるが、ここは例の高知キャラに免じて許すことにした。流石に、あんぱんはあまりに失礼なので食べる気にはならない。カレーパンに追加してピザパンにしてみた。ピザパンマンはいたかなあ。しかし、この組み合わせではボリュームがありすぎ、軽食とは言えないレベルだった。
後で気がついたが、駅弁を買って列車の中で食べればよかったのだ。久しぶりに旅に出たせいか、あまり頭が働いていないようだった。やはり高知に来た時は、のんびりな時間を過ごして、昼飯はひろめ市場に行くべきなのだと反省してしまった。あのカオスな市場で食べる昼飯(夜メシもだが)は、エイジアの屋台メシ的興奮がある。次回は忘れずに行かなければ………

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山中城で思うこと

個人的な事情であるが最近、北条一族サーガを延々と読んでいたので、じつは小田原北条氏贔屓なのだ。そして戦国期の西国武将に思い入れがないこともあり、城巡りでも西日本方面はさっぱり進まない。
伊豆、相模、武蔵を支配した北条氏が、首都小田原を西国武士の侵攻から守るため築城したのが山中城だ。箱根の峠道を三島寄りぬ下った山の中腹にある。箱根越え街道を城の中に抱き込んだような形に作られている。街道の左右から攻勢防御が可能なように、両翼展開している。想像していたよりはるかに大規模な山城だった。
が、この堅城と思われる山中城も西国軍の猛攻にはわずか半日しか持たなかったそうだ。数任せの力寄せだったから、拠点防御に失敗すると一気に前線全体が崩壊したのかもしれない。
この大規模な城を構築した北条氏の財力もすごいが、それを人数任せで攻略した西国武士団は、まさに戦国最後の戦闘で功を上げる焦りがあったのではないか。実際の歴史でも、小田原攻略の後は小規模反乱が多少起きた程度で、一旦戦国は終了した。
戦国最後の戦闘は、武力というより経済力の戦いだった。そして、箱根の坂は防衛拠点として実に脆かったという事実が、徳川の治世になり東海道をつかった縦深陣地構築につながる。江戸城の構造も、小田原城攻略戦の反省から生まれたようだ。ただ、徳川政権で山中城は防衛拠点として使われることはなかったようだ。
そして戊辰戦争の時代になり、徳川の大戦略であった東海道縦深陣地は身内の裏切りにより崩壊し、西国軍は簡単に江戸まで進駐する。歴史は繰り返すというものか。かつ西郷の会談による無血入城となった江戸攻防戦だが、江戸城に籠り西軍が江戸試遊に入場したところで、都市部を放火する作戦をとれば、兵糧を現地調達に頼っていた西軍は崩壊した可能性が高い。そこに東北、北関東からの徳川配下の増援があれば戊辰戦争はどうなっていただろう。腰抜け将軍を廃し戦闘意欲の高い第十六代将軍が担ぎ上げられれば………とおもってしまうのだなあ。歴史にIFはないのだが、太平洋戦争敗戦まで突き進むおバカな明治政府は生まれなかったに違いない。

城址には遊歩道も巡らされているので、元気に山歩きをしたい方には良いハイキングコースになるようだ。この日は雨混じりの悪天候で、入り口付近をうろうろしておしまいだった。
それでも土壁の高さを実際に見ると、この城を攻めるのは大変だっただろうということはわかる。それを力押しで落としたのだから、やはり圧倒的な兵力差だったに違いない。攻め手の武将がとても優秀だったというより、北条側が敵の数に圧倒されていたと思える。

城の脇を箱根峠越えの旧道が通っていた。石畳の道は当時からあったのだろか。おそらく江戸期の普請だと思う。ただ道路表面の滑らかさを見る限り、実物ではなく復旧したもののようだ。歩いてみるとなかなか急勾配の坂道で、今では道沿いに民家が立ち並んでいる。城が攻め落とされた後に住み着くようになったのだろうか。
まさに旧道は城の真ん中を通るような形だから、江戸期以降に住みはじめたはずだが、この山の中に住み着いた理由はなんだったのか、まったく想像の外だ。

山中城入り口には路線バスも止まる。案内所兼軽食の店もある。観光地でよく見かける茶屋という感じだが、中はさほど広くはない。テーブルが3卓ある程度の小体な店だった。雨降りの日ということで客は他に誰もいなかった。
箱根がそばの名所だとは記憶していないが、とりあえず茶屋に入ったら蕎麦を注文するだろう、と勝手に決めつけ山菜蕎麦を頼むことにした。しばし、天ぷらそばにするかどうか迷ったが、やはりいつものマイ定番である山菜蕎麦にして正解だった。

そばの上に山菜の漬物を乗せることを考え出した人は天才だと思う。天ぷらを始め蕎麦のトッピングは濃厚で脂っ気の多いものが使われる。かき揚げ、海老天、イカ天などの揚げ物や、豚肉やカレーなど濃厚系が多い気がする。サッパリトッピングではわかめをたま発見するくらいだが、やはりサッパリ系の代表は山菜だろう。(秩父でシャクシ菜の漬物が乗っている蕎麦を見かけた。あれはうまい)
お江戸伝統の花巻もサッパリ系蕎麦だが、あの海苔だけが乗った蕎麦では、海苔の役割がトッピングというより風味づけという感がする。ちょっと物足りない。

この茶屋の山菜そばの優れたところは、お麩が乗っていることだ。お麩はそれ自体食べると全く味がしない。鯉の餌になるのも仕方がないという、味のなさだ。ところが蕎麦つゆを中に染み込ませると抜群の旨さに変質する。存在感がいきなり爆押しになる。昔のラーメンにはよくお麩が乗っていたが、あれはさほどうまいと思ったことはなかった。つまり、蕎麦のつゆとお麩の相性が抜群に高いのだ。
お麩を発見してホクホクしながら蕎麦を食べ始めた。食べるとわかるが、普通の蕎麦屋と変わらない。茶屋のそばと馬鹿にしてはばちがあたる高いレベルだった。蕎麦のうまい街は文化度が高いと勝手に思い込んでいるので、三島は食文化レベルが高い町に違いない。
蕎麦を食べながら、北条氏の栄華と没落に思いを馳せた。お城にも感動したが、茶屋にも感動した。

食べ物レポート

カルパスのお勉強しました

左から ファミマ、イオン、セブン、西友のPB

たまたまダイソーで買った100円のカルパスがきっかけで、あれこれとカルパスを買い集めてみた。ダイソー製品は当然ダイソー専用品のはずなので、それに対応するNB品があるに違いないと思った。そうすると味の違いを確かめてみたくなった。ただ、調査(大袈裟な………)を続けていくと、流通大手各社もPBを作っている。
というよりPB以外のカルパスを置いていないという徹底ぶりもあり、面白くなってあちこち買い漁ってしまった。

さて、発見は二つある。(これまた大袈裟だ)
製造している会社は三つであり岩手県花巻市と北海道に二か所ある工場で、全てのカルパスは作られている。同じ工場で自社製カルパスと合わせて他社PB製品も製造しているということだ。予想外に工場が集中している。ただ、各社のカルパスを食べ比べると、味を含めかなりの違いがあり、それなりに差別化?しているらしい。

二つ目は価格だが、流通業大手のPBは90円前後、NB製品は110ー120円程度なので、価格差は3割近くある。これでPBの価格優位ははっきりしている。ただし、一個当たりの重量がずいぶんとばらつきがあるので、一概にどれがお得とは言えない。
また、味の違いの中ではっきりとわかるのが脂肪分(脂身)の多さ少なさだ。食べていて油っぽく感じるものは、お値段が安いようだ。また香辛料の配合、いわゆる味付けは食べ比べるとはっきりわかるが、単体でこれっという特徴があるものでもない。
同じ工場で作られていてもブランド違いとなれば、当然ながら味も違うので、製造工場で選ぶわけにもいかない。細身が1本または3本入っているタイプは、太めの商品とは加工度合いが違うせいか、重量比でg単価を計算するとそれなりにお値段が高くなっている。

左から プリマ 丸大食品 春雪のNB セコマPB セブンPB

個人的な好みで言えば、味とお買い得感で選べば西友PBなのだが、これの欠陥は1本ではなく3本のセット売りしかない。酒のつまみの常備品として買い置きしておくのであれば問題はないだろうが、今日は1本だけ食べたいという要求には「西友」製品は応えられない。
味で気にい言ったのはファミマPBだが、ちょっと脂もおおめだ。各社製品の中でかなりお高いのでコスパは悪い。西友PBがバランスが良いように感じた。
細いタイプのカルパスは珍味コーナーに並ぶ、一口サイズに個包装されたものが大量に入った大袋用の製品を流用したもののように思えるが、やはりコスパは悪い。
そして実に予想外だったのは、NB製品がそれほどうまいと思わなかったことだ。PB製品は多少味を犠牲にしても単価を下げるという認識でいたのだが、ことカルパスに関してはPBの方が上手に作られている気がした。あくまで個人的な好みの問題だが。

駅弁

駅弁 たこめし

瀬戸内海に面する街は蛸の名所が多いようだ。タコ飯といえば明石で買った蛸壺入りの弁当を思い出すが、それ以外にもあちこちで各種さまざまなたこめし弁当がある。そのうちの一つを旅の帰りに調達した。紐で縛ってあるのがなんとも嬉しい、今ではすっかりみかけなくなった包装形態だが、いかにも弁当という感じがする。

しみじみと蓋を眺めていると、あれこれ気がつくことがある。瀬戸内名物たこめしなのだ。そして元祖を名乗っている。元祖珍辨 とあるからうまいに違いない。「辨」が読めないので調べてみたら「べん」という読み方だった。辨天(べんてん)などという使い方もあるので「弁」と同じなのだろう。珍弁と読み替えれば、珍しい弁当の意味になるようだ。 おまけに明治創業とあるから100年越えの老舗になる。期待は高いぞ。

蓋を開ければそこにはタコがいた。大好物のタコだけにテンションが上がる。甘辛く煮あげた蛸は期待吐通りのうまさだった。感動だ。
その上にエビが乗っているが、これはご愛嬌というか、すでにタコを拝んだ後ではおまけみたいなモノだ。なんと言ってもメインはタコ。
卵焼きと椎茸の煮物は華やか系駅弁では名脇役だ。崎陽軒のシウマイ弁当で言えば、たけのこに当たる名バイプレイヤーにあたる。崎陽軒のたけのこは、それだけ買いたいという人もいるくらいの人気者だが、このたこめしの椎茸も負けてはいない。
名脇役は、全面的に肉、全面的にあなごみたいなストロングスタイルの強面駅弁では登場しない。類似形態で言えば、横川の釜飯に乗っている椎茸がこれに近い。(あれも超絶にうまい)
たこめしにおいて、このしいたけの存在は、味に「やわらかさ」や「細かさ」を感じさせる。タケノコも良い味を出していた。蛸だし?で炊き上げたらしい飯をふくめ、全体には薄味の弁当だった。
どうも広島といえば牡蠣飯、あなご飯のような味付けの濃い弁当が記憶にあるせいで、勝手にたこめしも濃い味だと思い込んでいた。実際に食べてみると、蛸壺弁当より上品な味付けと認定するべきだろう。あの蛸壺の底から飯をかき込むのもなかなか趣があるが(スプーンが欲しくなる)、こちらのたこめしは列車旅の途中で、車窓の景色を眺めながら食べるのが似合っていると思った。まさに、駅弁らしい駅弁だ。


次はどこでタコ飯を試してみることができるだろう、ちゃんとしらべておかなければ。

ソロキャンあれこれ

ハロウィーンキャンプでかぼちゃ

完成品 自画自賛だが、とてつもなくうまかった

キャンプに行っていちばんの楽しみは焚き火。野遊び=焚き火と言いたいくらいだ。その焚き火でのんびりと調理を楽しむ。最近手に入れた一人用ダッチオーブン、要は蓋付きの鉄鍋でかぼちゃを焼いて見ることにした。
たまたまハロウィーンに近い日だったこともあるが、昔あれこれお世話になった小型のかぼちゃ「坊ちゃんかぼちゃ」を手に入れたからだ。サイズがダッチオーブンにちょうど良かった。

まずは坊ちゃんかぼちゃの上部1/4くらいを切り取り、蓋がわりにする。中身・タネをくり抜いて、そこに具を入れてダッチオーブンでのんびり仕上げるという、実に怠け者向きな料理だ。テクニックは全くいらない。これぞ野遊び料理の真髄と言わずしてどうする!! とテンションだけは上げまくりだった。

ひき肉は豚肉にした。かぼちゃの甘味と合わせるには鳥より豚が良さそうだ。挽肉を醤油と砂糖で味付けをして炒めたものを、くり抜いたかぼちゃの中にぎゅうぎゅう押し込む。それをダッチオーブンに入れると、かぼちゃの直径がわずかに鍋の内側より大きいので、かぼちゃがダッチオーブンの中で宙吊り状態になる。これが良い結果になった。

かぼちゃに火が通るに従って、挽肉の具から油と醤油がかぼちゃの底部に染みこんでいく。ダッチオーブンにも多少こぼれ落ちたようで、カボチャを取り出したら鍋底にコゲができていたい。
かぼちゃが焦げ臭くなる前に火から下ろしたのは、たまたま偶然の結果オーライだったが、それでも1時間以上は火にかけていたので、タイミング的にはあまり難しくない。
かぼちゃに箸を刺してスルッと通れば出来上がりという、適当な火加減などわからなくてもなんとかなる。野遊び料理だし。
ダッチオーブンから取り出したカボチャを、スプーンで具と合わせながらホジホジして食べる。予想通り、甘辛系の挽肉がかぼちゃの甘い身と合わさって、思わずうまいと叫んだが、周りには誰もいないのでOKだ。
一人で食べ切るにはちょっと多いかなとも思ったが、ビール片手に完食してしまった。秋の夜長に熱々のダッチオーブン料理、空を見上げれば丸いお月様が…………気分はすっかりワイルドなのでありました。