Blog

旅をする

瓦そば

瓦そばというたべものがある。戊辰戦争の頃、長州に滞在した薩摩軍のために提供された戦場食だったらしい。多数の兵隊に熱い食べ物を一気に提供するということが目的だったとか。
茹でたそばを火で熱したい瓦の上に乗せて温める。それをつゆぬつけて食べる。確かに、大量生産がやりやすい仕組みだ。そばさえ大量に用意すれば、あとは瓦の数で提供数がきまる。
テレビの旅番組で見て一度食べてみたいと思っていた。下関市内でも何店か提供しているようだが、元祖の瓦そば屋は下関から車で30分ほどの離れたところにあるらしい。ちなみに、三人前くらいまでは一枚の瓦に載せるそうだ。

せっかく下関に来たのだからとふぐ(こちらの表記はふく)の唐揚げを合わせて注文した。これはうまい。

ついでにふくの薄造りも頼んでみた。これもうまい。フグを食べるところは全国各地にある。大阪のテッサも有名だし、お江戸でもフグ専門店は多い。ただ、関門海峡のフグが日本のフグ界のスタンダードらしい。下関のフグ漁協の会長に聞いた話だから間違いはないと思う。

ただ、この瓦そばを食べたのは山口県ではなく福岡県北九州市門司港にあるお店だ。関門海峡は、海峡というほどの距離感はない。まるで川の対岸みたいな場所だから、門司港で食べても下関で食べても、関門海峡で取れるフグの味に差があるはずもないし、ましてや焼いた蕎麦の味はどこで食べても同じだろうと、自分を言いくるめた。距離的に言えば、神田の老舗蕎麦屋の銀座支店でそばを食べた程度のことだ。
ただこれでは門司で名物料理を食べたとは言い難い。まあ、それも旅の楽しみ方か。

旅をする

エンタメ2 in MOJI

門司港の名物といえば焼きカレーだと思い込んでいたが、どうやら名物は一つだけではなくあれこれがあるらしい。焼きうどんというのは北九州市全域で食されいるようだ。小倉駅周辺の食堂でも、焼きうどんが一押しされていた。

しかし、門司港といえば思い出すのがバナナの叩き売りだ。これはネタとして激しく古い。昭和の名映画作品である、フーテンの寅さんの商売が叩き売りだが、昔バナナが貴重品だった頃は、門司港に上がったバナナを街頭で叩き売る、つまりセリフで客を喜ばせるエンタメ商売が存在した。
バナナは台湾から日本まで運ばれてくるが、その外洋船(国際航路)と内航船(国内輸送)の接点が門司港だったようだ。台湾から来たバナナが国内輸送用に積み替えられ、その余が叩き売りに出回ったのだろうか。
小学校の遠足にバナナを持って行くと、バナナは弁当の一部か、おやつに入るのかという議論が熱心に繰り広げられた。バナナは甘いフルーツだが、おやつの中に組み込まれると持っていけるおやつの総量が減るので、子供達にとってはおやつの量確保問題としてかなり深刻な話題だった。
今ではバナナはスーパーに行くといつでも特売で売られている日常品だが、そのバナナが高級品だった時代、それが昭和中期だった。だから、高齢者にとっても時効のバナナはいろいろな意味で郷愁を誘う話題でもある。
門司港で出会ったバナナマン1号は、まさにその門司港バナナ伝説の体現者だ。

その隣にいたバナナマン2号は、ちょっとブラックなカラーリングできっとあまり甘くないダメバナナに違いないなどと思ってしまった。どうも、この二体のバナナマンにはもっと深い伝説?がありそうだが、わざわざ調べるほどでもないか。ちなみに漫才コンビのバナナマンは、この二体と何か関係があるのか、そんなことはなさそうだが。

そして、レトロな感覚のバナナマンからちょっと離れたところに、現代風ゆるキャラの丸々した一体がいた。マスコットキャラであることはわかるのだが、緑の頭は一体何を意味しているのか、形状の説明も欲しいところだ。だいたいゆるキャラは設定上、人ではない妖精みたいなことが多いので、これは港のどこかにいる何かが実体化したものだと思うが。
ちなみにバナナマンの写真を撮る観光客は皆無だったが、こちらのゆるキャラは写真を撮る行列ができていた。やはり現代風のアレンジは大事なのだなあ。

観光地門司港はいろいろな意味で、作り込みがしっかりとされたエンタメ観光地だった。全国の港町も、この努力を学ぶべきだろうな。北海道で言えば、小樽や函館は視察団を派遣して学ぶくらいの努力はしてもらいたいものだ。

人気のある観光地は努力の跡がしっかり見えるということでしょうね。

旅をする

エンタテイメントの作り方

波止場を歩いていると突然大きなアナウンスがかかった。これから橋が開くとのことだった。まだ門司港が全力で稼働していた時代に大型船が入港するとき、橋を吊り上げて通したものを再現しているらしい。
アナウンスの内容は事細かく、橋が上がってから元に戻るまでの時間や、橋が開いている間の通行路のなど実に親切丁寧だが、周りの観光客はそれを熱心に聞いている風もない。

それでも橋の両端が通行止めになり、真ん中から橋が持ち上がり始めると、一斉に立ち止まりその光景をながているようだった。

橋はほぼほぼ垂直に立ち上がり、立ち上がるのと同じ時間をかけて閉じていった。だいたい20分くらいだったと思う。その間、橋の上下動をながめているのだから、結構間抜けな光景に見えるのではないか。

しかし、巨大建造物が移動するというのはやはり心を惹きつけられるものがある。ビル建設の大型クレーンで資材を釣り上げたりする光景も、似たような魅力がある。やはり想像を絶するような大きいものが動くのは、心躍る光景なのだ。横浜にあった実物大(?)ガンダムも、動きはほとんどないがそれでも膨大な観客を集めていた。
そのうち実物大ウルトラマンとか実物大ゴジラの展示、それも稼働部分が多いものがあれば、大人気を博すと思うのだが。個人的な経験で言えば、一番大きなキャラは長田駅前の鉄人か須賀川のウルトラマンくらいだろう。それでも身長10mくらいだから、この橋の開閉動作はやはり現代日本ではトップクラスの移動する巨大建造物ではないか。橋が動け場、それだけで立派なエンタメコンテンツだ。

橋が閉まり始めてから、少し離れたところで見ることにした。やはり、すごい光景だ。やはり観光地作りには演出が必要なのだなと改めて思った次第。

街を歩く, 旅をする

まさにレトロなステーション

下関から連絡船で海峡を渡った。船を降りた先に門司駅がある。JR鹿児島本線の始発駅だ。下関まで伸びていた山陽本線から繋がる九州の大幹線がここから始まる。現在のJR新幹線網と高速道路の配置で日本の地理をついつい考えがちだが、実は古代日本から連綿と近代まで続いた幹線道路、幹線経路は今とはずいぶん異なっている。
日本最大の幹線経路は間違いなく瀬戸内海海運で、それに続くのが日本海を北上する北前ルートだろう。現在の東海道も歩いて移動するために使われていたが、物資輸送はもっぱら太平洋沿岸を伝う海上ルートで、これが意外と細いものだった。瀬戸内海雲の拠点である門司下関は海上ルートの一台拠点だったのだから、そこから鉄道が陸路に伸びたのは当然のことだっただろう。
お江戸で言えば東京駅みたいな由緒ただしきターミナル駅だ。

鉄道の起点駅のホームはいつ見ても感じ入ってしまう。海の道につながるターミナル駅としては高松駅も昔は似たような感じがあった。今では随分と変わってしまっているが。青森駅も青函連絡船が通っていた時代は、港と駅のホームが直結する昔ながらの駅だった。
それでも、港直結型駅としてはやはりこの門司港の駅が最も優雅だろう。四国や北海道に渡るのは内国ルートだが、門司や下関は国際港だ。江戸末期に出来上がった、いわば成り上がり者の神戸や横浜とは格が違う。古代日本から続く伝統と栄光の港なのだ。その片鱗が駅のホームにも見られる。

駅舎内は今ではきれいに再整備されてほとんど美術館のようなものだが、みどりの窓口は現役の施設だった。JRグループの中で独立独歩なスタイルを貫くJR九州らしい、自ら観光地を作り上げるという意志が感じられる。
ちなみにJR東は東京、首都圏の通勤客が払う金の再配分、JR西は関西圏の通勤客運賃の再配分では金が足りず、ローカル線を徹底的に縮小の方向。JR四国と北海道は、あとはJRグループ東西に吸収されるのを待つばかりなのだが、どちらの会社も上場企業なので赤字会社の吸収合併には及び腰だし、再建プランも持っていないだろう。JR東海は東海道新幹線の上りで食べているだけだし、本来切り捨てるはずのローカルが少ないので我が道を行ける。

そんなJR各社の経営方針の違い、事業戦略の差は歴然としているのだが、JR九州が一番鉄道事業、つまり本来の運輸事業から離れようとしているように見える。首都圏や関西圏で通勤客用の住宅地供給を主力に路線経営を進めた東急グループや阪急グループと似た、鉄道+不動産業+生活産業による総合収益事業を目指しているように見える。

博多駅や鹿児島中央駅の取り組みを見れば、そのあたりはあきらかだ。おまけに子会社は九州だけでなく東京でも支店(レストラン)を出店して広域営業活動をしている。それも駅の外だ。
東京駅や大阪駅の改装後の姿を見れば、JR九州との違いは明らかだ。鉄オタとしてはその辺りがちょっと嬉しい。ちなみにこれは撮り鉄や乗り鉄から派生した、事業鉄とでもいうべき分野で変わった楽しみ方だろうな。これを楽しむものは極めてレアだと思うけれど。

旅をする

波止場の風景

JR門司駅付近は昭和レトロをテーマにしたテーマパークのようだ。タウンマネージメントがうまくいっている事例だと思う。
そういう場所であれば、観光地の鉄板施設、顔穴の空いた写真スポットも実に似合っている。
朝早くだったので家族連れ観光客がいないので、これを使って異写真を撮っている人はいなかったが、昼近くになれば順番待ちの行列ができそうだ。

その大陸航路、国際港であった門司港は、当然のことながら税関が置かれていた。どうも港の入り口で一番目立つところに立っていたらしい。この煉瓦造りの建物は中が資料館になっている。税関の資料館など普段お目にすることもないのでノコノコと出かけて見たが、これはなかなか見応えがある。展示の内容は笑ってしまうようなものだが、ともかく建築物の資料的な価値が素晴らしい。港の反対側から写真に撮ると実に絵になる。

が、この写真は「切り取り」の典型で、同じ場所からもう少し周りの風景を取り込むと、実は赤煉瓦のすぐ隣にタワマンが立っている。最初はオフィスビルなのかと思ったが、どうも高級コンドミニアムらしい。
過去と未来のコントラストといえば確かにそうとも言える。しかし、レトロな街の風景を売り物にする観光地としてはいかがなものだ、という気がしないでもない。
旧港(波止場)は景観を守って整備されている感じがする。パッと見た感じはサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフにも似ている。日本各地で港の再開発、観光地化が進んでいるが、このレトロ門司港が一番上手に仕上げていると思う。だが、画竜点睛というか、このタワマンがちょっと不満だなあ。
勝手な勘繰りだが、港の地権者は旧財閥系企業も多いはずだ。おそらくその中の一社が景観条例などが整備される前に、抜け駆けしてタワマンを作ってしまったのだろう。わざわざ調べる気も起きないので、実態はわかっていない。
確かに京都駅で降りて駅前バスロータリーにある京都タワーを見たときも同じようなことを思った。まあ、美しい風景というのは時代によって変わるものなのかもしれないし、その街に住む人たちには、景色より重要なものもあるはずだ。旅行者がぶつぶつ言っても仕方がない。

門司港についてはもう少し続く。

旅をする

海峡というよりも大河だった

関門海峡を船で渡りたいと思っていた。この海を舞台に商売を広げた石油商人の小説を飛んで以来だ。映画化もされたベストセラーで国産最大手石油会社の成長話だが、海上で石油を販売する移動船でのゲリラ商法から成り上がっていくストーリは実に面白いものだった。
その商売の場所を見てみたいということだったのだが。実際に海峡を下関側から眺めてみると、これは海というよりほぼほぼ川ではないかとおもった。対岸の九州はあまりに近い。
海峡を渡るフェリーはおよそ10分ほどで対岸に着くし、1時間に何往復もしているから、市内を走る路線バスよりよほど便が良い。

船着場から対岸を見れば、あまりに近い。最初は山口県側が海に迫り出して湾のようになっているのかと思った、海面も穏やかだから、どうも川としか見えない。対岸に渡る船を待っていたら、巌流島に行く観光船?が先に到着した。ただ、巌流島行きの船に乗り込む客の大半は大きなクーラーボックスを抱えている。どうやら魚釣りに行くらしい。外国人観光客がちらほらという感じで、ほとんど釣り船だった。

船で海上移動を楽しんでいたら、外には海峡を渡る大橋が見えた。この橋は何度か渡ったことがある。すばらしい景色が堪能できるはずだが、ほとんど記憶にない。瀬戸大橋もそうだが自分で運転していると、景色はあまり見えないせいだろう。

船が対岸について、改めて橋の姿を確認してみた。これはこれでフォトジェニックなものだが、どうも「川」にかかる橋という感覚が抜けない。
それでも、1000年近い昔には、この「大河」の上で、赤い旗と白い旗を掲げた軍団が手漕ぎ船で戦をしていたのだと思うと、それはそれで感慨深い。白い旗の軍団が勝ったのは、船の漕ぎ手を矢で射殺すという、当時は暗黙の了解で禁じられていた戦術をとったせいらしい。いつの世も常識を覆す革命児はいるものだ。ただ、その革命的な戦術も、戦に負けてしまえば世に例をみない蛮行で虐殺だと言われるのだが。戦は負けたものが金も名誉も歴史的評価も、全て失う大ギャンブルだと改めて思った。

この海峡は歴史ポイントというより観光名所だとは思うが、実際に来て見てみると実感できることがある。まさにこの地は、古代日本から大陸航路の出発地として栄えてたのが理解できる。

お勉強になったなあと感じた10分間の船旅だった。船の旅はいつでも楽しい。

旅をする

おそらくこれが最後の

厳島神社には何度かお参りに行った。行くたびに、ここは日本一美しい神社ではないかと思う。観光地として有名だが、歴史的には瀬戸内海交通の要所でもあり、軍事・戦略的見地からするとこの島の支配は極めて重要だった。
そこに霊験のある神社がおかれるのは当たり前といえば当たり前なのだが。

しばらく改修工事で周りを囲われていた大鳥居も今ではスッキリしている。たまたま潮目の時間が良かったので、綺麗な姿を見ることができた。

周りを海で囲まれた神社の廊下は実に絵になる。早朝だったのでまだ観光客も少なく、良い写真が撮れた。日中であれば、渋谷の雑踏かと思うくらい人がいるみたいだ。すれ違うのも大変な神社というのもなんだかなあと思うが、伊勢神宮や日光東照宮、浅草寺や善光寺などのスーパー人気スポットに引けを取らない人気ぶりだから仕方がない。

たまたま窓枠が写真のフレームみたいだなと思ったので、それっぽく撮った一枚だが、対岸(本土側)のビル群と鳥居の対比は、あまり良い絵柄にならない気もする。ただ、この辺りは海側に突出した箇所で、外国人観光客の集団撮影会場のようになっているところだから、ちょっと離れて写真を撮ろうとするとこんなアングルになるのだなあ。

帰り際に見つけた光景だが、どうもこの島の主人たちは、春の権力闘争トーナメントの時期になっているらしく、結構な音を立てながら頭突き合戦をしていた。これぞまさに文字通りの頭突きだなと感心した。ツノが生えてくるまでの時期にしかできそうもない荒技だった。
この神社に来るのは今回が最後になりそうな気がした。美しい光景に出会えたし、とても満足だった。なんだかこの先も、これが最後という感覚が増えていきそうな……………

駅弁

かしわの街へ

今回は旅の途中でできるだけ駅の立ち食いそばを食べてみようと思っていた。ところが、今や立ち食いそば、駅そばは滅びゆく業種のようで、そこそこ大きな駅のどこに行っても見当たらない。
ようやく下関駅で見つけたが途方もない混雑ぶりで入るの諦めた。あの混み具合は最盛期の渋谷駅そばに匹敵する。下関市民はそれほど立ち食いそばが好きなのだろうか。
そこで、海峡を渡り巨大駅小倉に辿り着くと、なんとホームの間の通路に「駅うどん」を発見した。やはりうどん文化圏の北部九州らしく、蕎麦はおまけだった。ただ、あいにくと北部九州のコシのないうどんが苦手なので、あえてうどん屋でそばを注文した。
普通にうまい。出汁がカツオではなくアゴ出汁のようだ。食文化の東西さを味わう。ちなみに蕎麦はツルツルと啜るのではなくワシワシと食べていった。
いつもであれば天ぷらそばやきつねそばを注文するところだが、やはり九州に来たのだから、それなりのものにしなければ遠征した甲斐がない。
九州には燦然と輝く「かしわ」トッピングが存在する。九州各地にあるかしわ飯も美味いが、この甘辛く煮た鶏肉トッピングが実にうまい。お江戸でも是非取り入れて欲しいものだ。

全面的うどん推しの店でそばを頼むのはいささか気が引けたが、周りを見ていると次々とくる客の三人に一人くらいはそばだったので、あまり申し訳ないと思わなくてよさそうだった。

かしわそばを食べてとても満足した後、改札口を出る手前でトラップに引っかかってしまった。あー、これこれ、有名なかしわ飯駅弁ではないか。これを素通りするのは難しい。が、今買ってしまうと荷物になる。在庫がたっぷりあるようであれば、帰りに買いたいところだ。
時間は午後に入っていたが、昼飯のピークは過ぎている。それでも棚には山積みだった。これだけあれば、帰りでも大丈夫だろう。鹿児島本線には、これまた有名なかしわ飯駅弁もあるが、今回はこちら、小倉駅バージョンにしておこう。

ホテルに戻り本日の晩飯になったのがこの駅弁だった。問答無用でうまい。好みだ。日本駅弁における我が個人ランキングで、不動の123は横浜崎陽軒シウマイ弁当、長野県横川の釜飯、山形県の牛飯ど真ん中、これが3トップだが、それに勝るとも劣ることはない。
九州は「鳥料理の王国」だ。だが、その中でも鳥の出汁で炊いた米の旨さは、別格というべきだろう。駅弁界には全国各地に美味い鳥弁がある。こと鳥弁に限定すれば、秋田県大館の鳥弁が筆頭格だと思っていたが、今後は西の横綱、東の横綱と東西の巨頭を呼び替えるようにしなければいかない。もちろん西の横綱は「かしわ飯」だ。

かしわはうまいぞ、の北九州だった。

旅をする

西国の果てで思うこと

下関には何度か仕事で来たことがある。ただほとんどが通過点での旅だった。まともに飯を食べたのは一回くらいだろうか。フグ屋の社長にご馳走になったのだが、なぜかフグより美味いよと、おこぜの薄造りを勧められた。確かにおこぜはうまかったのだが、なんとなくモヤモヤした気分になったのを覚えている。
その下関がJR西日本の終点かというと、どうやらもう少し先の小倉までのびているようだ。山陽線の目的地表示に駅名ではなく「九州方面」と書いてあるのがなんだか微笑ましい。
下関から小倉に行く電車はほぼ満員だった。大都市である北九州・小倉に遊びに行くのだろうか。中高生が埼玉県の街から東京へ繰り出すみたいなものかもしれない。下関は山口県というより、経済的には北九州市に飲み込まれている感じもする。

その本州西の果て、下関市にある神社は、大阪の住吉大社と同系列らしい。海神を祀る神社は日本に何ヶ所もあるが、福岡、下関、大阪と続く海神ルートは明らかに過去の海上交通の主導線を想起させる。
福岡線は壱岐・対馬とつながる大陸航路の入り口だったはずだし、ここ下関は瀬戸内ルートのスタート地点だ。大阪南部は奈良に通じる公式港だったのも間違いない。神様の縁起を辿るとなんとなく古代史が見えてくるものだ。天照系神族と地方神の関係も面白いが、瀬戸内海岸諸国と天照系神族の配置も面白い。天照系神族は征服と統治のバランスで配属先が決まったのだと思う。現代で言えば、支店を開設するたびに転勤させられる営業部長(優秀)みたいなものだろう。
天照系神族では乱暴者扱いされている素戔嗚は、実は敏腕な営業本部長で、配下に幾多の営業部長(地方担当)を従えていたのではないか。

そんなことを考えながらお参りしてみたのだが、この神社は実に真当というかオーソドックスな佇まいだった。

一宮としては少し小ぶりな気がする。おまけに海神様なのに山の上に立っているのが不思議だが、古代はこの辺りまで海岸線が近づいていたのかもしれない。

本州の西の果ては、そのまま九州への入り口になる。古代から人の行き来は盛んだったはずだが、関門海峡から九州サイドを覗いてみるとあまりに近い。感覚的には利根川の両岸に広がる街みたいな感じすらする。
古代から中世にかけて海運が主流であった社会・時代に、この海峡は文化的な境界としてはなんの意味もなかったのだろうなあ。そう思うくらいの幅しかない。下関と北九州では使う言葉も同じような気がするのだが。違うのだろうか。よくわからないまま、川のような海峡を渡ってみた。

街を歩く

NYT おすすめのリアル

どこかでみたようなカラーリングの車体は山陽本線の列車だ。広島から岩国まではそれなりの本数が走っている。大都市圏の通勤列車だ。編成車両数も多い。ただ、この色は妙に懐かしい感じがする。今でも多少は走っている西武線の旧式車両と同じ色に見えるせいだ。
だが、同じ電車が岩国から先はほとんどローカル線扱になる。運行頻度は激減して、一時間に一本しか走らない。思い返せば、仙台を過ぎた東北本線も似たようなものだから、JRの都市近郊線以外はみんなこの程度の運行形態なのだろう。奥羽本線はもっとひどかった。
もはや鉄道は地域の主要交通網とは言えない。運転が出来ない交通弱者の限定利用しか考えられていない。すでに長距離移動は新幹線、そこから短距離移動は自動車でという分業も成り立ってはいるのだが。短距離移動用のローカルバスは、ほとんど病院に通う老人向けという扱いだ。
つまり、田舎町を旅行する者にとって、今や日本は結構不便な国になっている。すでにアメリカのように、飛行機で移動した後はレンターカーでという世界になってしまった。
世間に溢れるインバウンド客は流石にこのローカル線には乗っていないだろうと思っていたが、しっかりと数組乗り込んでいた。面白いことに西に進むにつれて、インバウンド客の人種が変わる。近さもあるのだろうが、半島からの旅行者が目立ってくる。もう一つの気づきだが、アジア系旅行者は車内でもうるさい。欧米系、インド系と思われる旅行者は大概がおとなしい。東南アジア系の集団も人数が多くなればうるさくなる。国民性なのか、乗車時のマナーが国によって違うのかはわからない。コロナの時と同じように、いきなり電車の中で殴りかかる暴力ジジイが出現しそうな雰囲気だ。飛行機で来れば東京も大阪も福岡もほぼ変わらないだろうに。なぜ、西にくると旅行者の構成が変わるのか、この辺りが実に不思議だ。

岩国での新発見は、コンビニで見つけたヨーカンパンだ。初めてみるタイプだが、高知の宿毛で作られているものに似ている。味付けはそれなりに甘い。一度、某ケンミンショーでヨーカンパン特集でもしてくれないものだろうか。

いや、某公営放送でブラ◯モリの後継番組として、珍しい食べ物行脚を仕込んでもらっても良いのだが。商品名が出せないから無理か。

延々とローカル線を乗り継ぎ、山口県県庁所在地に初めて辿り着いた。これで、日本47都道府県全ての県庁所在地を踏破したことになる。47都道府県全部に足を踏み入れたのは随分前のことだが、福井市と山口市は47都道府県達成後も行く機会がなかった。個人的な感覚で言えば、山口市は鹿児島市より遠い。そもそも元・長州には本当に来る用事がなかったせいだろう。初めて山口県で訪れた場所は大島にあるジャム屋で視察だった。福井市に行ったのは恐竜博物館を見に行くついでだったが、山口市にはついでに寄る場所もなかった。

西国武士が全盛を極めたのは平安末期から平氏勃興の時期だろう。その後、東国武士に擁立された反乱軍が、平家と共に西国武士連合を蹂躙し、しばらく軍事政権は東国にとどまった。都落ちした初代将軍は、よほど京が嫌いだったのだろうし、西国武士集団を恐れていたのだ。その後を継いだ東国武士団の首領も東国の田舎出身でありながら、一度負けた内乱を西国武士の支援を受けて制した。そのため、本拠地を京に移した。これが失敗だったのは脆弱で短命な政権だったことで証明済みだ。
それでも一時期は勢力を強め、東西で二政府体制をとった室町政権が急速に弱小化する。それにつれ、東国政権による支配から頚城を解かれた西国武士団は、大規模な地方軍閥状態を迎える。東国武士が鎌倉以来の正統性であれこれ諍いをしているうちに、西国武士集団は実力本位の争いと統合を仕掛けていた。

ただ、それも最後は東国をまとめ上げた徳川政権に臣従することになる。西国武士雌伏の時期は、また300年近く続くことになる。なぜ武家政治が続いた1000年近くの間、西国武士が東国武士に従えられていたのか、その理由を考えると面白い。おそらく要因は西国農業の生産性が東国と比べて高かったことにあると思う。中世から近代にかけて東国は常に貧乏地方だった。そのために、金の持っている西国を略奪するしかなかった。
小京都を作った大内氏のように栄華を極めた豪族は、東国の歴史を眺めてみても奥州藤原氏くらいしかいない。関東以北で強大な軍事政権ができなかったのは、戦争を続けるだけの資金を持てなかったせいだろう。
国というものは金がないと凶暴化する。いつの時代も、それこそ今の時代でも同じことで、ユーラシアの西で起きている戦争も同じ構造だ。貧乏が嫌になった国が、自分より先に金持ちになりそうな国に強奪を働く。金目当ての戦争に正義などあるはずもない。

ところが、比較的金持ち揃いだった中世日本の西国では、そんな弱肉強食的思想を持つ大名が少なかった?ようで、西国武士は文化的であったのかもしれない。

ニューヨークタイムズでおすすめの観光地指定された山口でそんなことを思っていた。しかし、この街、観光地にするならもっとあれこれ改善しないと悪評が立ちまくりそうだ。
少なくとも、JRの駅に早くコインロッカー整備してくれないか。県庁所在地の駅でコインロッカーないなんて見たことないぞ。駅前にタクシーもいないし。バスは一時間に一本やってくるみたい超間引き運転だ。せめて観光資源のある県庁付近までシャトルバス運行くらいしてくれよ、と言いたい。

うーん、やはり金持ちのお殿様の血を引く気性ののんびりした一族が多いのだな、きっと。