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旅をする

一向一揆と百名城 鳥越城

お城巡りであちこちを旅してきたが、道路に建てられた案内板で、これほどはっきりしたものは見たことがない。街の誇りというか、お城に対する取り組み方が真剣なのだなということが伝わってくる。

山上にある城の跡に上る道がある。そこの入り口には立派な石碑があり、案内図もある。ただ、この夏の豪雨の被害により登山道は閉鎖されていた。なんとも悔しいが、山の下から山上を見ることしかできない。

鳥越城は典型的な山城だが、ここが防衛拠点となった理由が非常にわかりにくい場所だ。交通の要衝というには街道筋や海・川の水運拠点から離れているような気がするのだが。ただ、今の石川県から富山県にかけて、当時は巨大勢力になった「一向一揆」の拠点であったようだ。
応仁の乱以降、全国で下剋上の嵐が吹き荒れたが、北陸から越後にかけては各地で紛争があいつでいて「戦国期のホットスポット」だった。九州や四国で起きた、島内統一のような動きが起きなかったのは、越前朝倉氏と越後上杉氏の間に存在した戦闘結社「一向宗門徒」による宗教共和国の存在が大きい。
現代日本の徴税比率(社会保険費、消費税による間接税強奪分を合わせる)はおよそ収入の4割なので「4公6民」となる。これが、そこそこ生存できる限界税率だろうし、一揆などの反乱を起こさせない限界税率だ。戦国期は6公4民程度が当たり前で、農民は生存限界転移かに置かれていた。当然、反乱は多発する。江戸期になり4公6民が定着したのは、戦費が減ったことと反乱防止が目的だったはずだ。
一向一揆は、その農民反乱が扇動により巨大化したものだが、そこには旧領主の暴虐的な税収奪があったせいだ。現代日本でも革命が起きる一歩手前程度まで税収奪は進んでいる。先の大戦で負けたせいで、明治政府が行った暴政、「過大な戦費による増税」がチャラになったが、敗戦後の社会改革は外国に強制された革命に近い。政治屋たちは歴史に学ばないおバカなので、現代の一向一揆の萌芽に気づいていないようだ。山城に登れなかった腹いせに、そんな現代日本革命構想を妄想していた。

北陸には今でも浄土真宗を受け継ぐ家が多いと聞く。宗教と合体した政体は、徳川期になり骨抜きにされたが、地元の民は宗旨を変えずに生き残ったということだろう。地域の集客施設である道の駅の後ろ側に、一向一揆の歴史博物館があるった。道の駅では、通常は温泉施設や、高齢者介護施設などが設置される場所だ。そこに「一向一揆」の歴史を説明する施設を作る。それほど、地域に根ざした宗教ということだ。
全国に200ある名城認定された城の中でも、この鳥越城は独特な感がある。城を治めた武将、一族が語られない。一向宗門徒の支配におかれた場所であるせいだろうか、〇〇氏が築き▲▲氏が居城とした、というような戦国お城ストーリーがない。

そして、これも今では歴史博物館などではお約束の戦国キャラが、この博物館前にしっかりと鎮座していた。武将と姫様は理解できる。しかし、坊さんがキャラ立ちしているのは極めて珍しい。さすが、一向一揆の博物館だ。
しかし、この戦国キャラ、お城キャラ、武将キャラ達は、どこの城を見に行っても微妙な違和感がある。子供に親近感を持たせて上で、歴史や郷土に興味を引こうという「勝手な大人」の教育的な目論みが透けて見えるからだ。どうせなら若い旅人を取り込む観光振興策として、萌えキャラ制作に振り切った方が良い気がする。
この「怪しいキャラ」こそが、城巡りをするときに感じる一番モヤモヤするものだ。自治体の担当者の皆さん、キャラ作りは是非ご一考を。

小売外食業の理論

居酒屋DX 予想以上に高度化

平成生まれのオヤジ向け低価格酒場、大衆酒場の元祖というべきこの居酒屋が10年ぶりくらいで店頭イメージの改装を行なった。あまりの変わりぶりに、最初は店が潰れてしまい、後釜が入ったのかと思ったほどだが、よくよく見ると店名は同じだった。
そもそも昭和の大居酒屋チェーンが、平成不況の真っ只中で代替わりというか時代に合わせて変化対応した業態だった。それがコロナの大暴風の中で、令和バーションに進化したようだ。
コロナ期には、流石にこの店もメイン顧客のオヤジたちですら自宅待機やら早期帰宅やらで利用が減っていたはずだ。
おそらく家庭内圧力もあり、帰りに一杯というオヤジ行動は制限されていたはずだ。コロナ時代の「狂気」は過ぎ去ってみれば笑い事だ。が、社会全体が牙を剥いたような魔女狩りをしていたことをエアすれてはいけない。その魔女狩りで滅びつつある業種は多々ある。パチンコ屋などはその典型だろう。夜の商売も元通りに復活するのは無理ではないか。演劇などのエンタメ系ビジネスでは、脱落した演技者やスタッフが業界復帰できるのだろうか。
当時は大多数のオヤジたちが所属する家庭でも、魔女狩りのような行動制限が続いていたことは間違いない。居酒屋はとんだとばっちりを食らった。そして3割が消滅した。

改装された入口周りのイメージチェンジは理解できる。商品のわかりやすさを全面に押し出している昭和や平成ノスタルジーを感じさせるメニューばかりだ。開業当初のコンセプトである「安い」は表面上消えたようだ。安い居酒屋からノスタルジー・郷愁メニューへ転換はマーケティング的には大きな意味がある。「安い」を支えていた若者には期待しないという対象顧客絞り込みの表れとも見える。オヤジ専科として生きていく決意表明みたいな気もする。
店内に入ると、いきなりQRコードを渡され、これでスマホから注文できるという。ただ、「もしよかったら………」という追加ワードがあり、なるほどオヤジの中にはスマホ非対応というかガラケー依存者もいるからなあ、その辺りの微妙な対応が何やら情け深いのか、こちらをデジタル・ダメオヤジと見下されたのか、あれこれ悩ましい。周りを見渡すと、やはり口頭注文も多いから、仕方がないか。
気を取り直して、QRから画面を読み出してみた。なかなか使い勝手は良い。某回転寿司屋や多くの居酒屋に置いてある、注文のしにくいタブレットから比べると数段上のレベルだった。画面遷移もわかりやすい。
蛇足だが、注文用タブレットの開発者(発注企業内担当者だけではなく製造側IT企業を含む)は、本当に店で注文したことがあるのかと言いたいくらい、バカロジック、ダメダメシークエンスの塊が多い。きっと低予算、低開発能力でやっつけてしまうせいなのだろうな。

新メニューとしては揚げ物が増加していた。それと、定番メニューを含め値付けは1割ほどあげたように見える。新製品は旧製品との入れ替えを含めメニューの半分以上になっていた。定番メニューは値上げをしたまま残している。売上点数の低い定番はカットしたので、値上げを目立たせないうまいやり方だ。値上げしても注文したくなる定番を残し、値上げを目立たせないように新商品群を大量投入して新しいプライスラインを作る。上手だなあと感心した。

定番商品については細かく手を入れている。例を上げると定番マカロニメニューは1割以上値上げしながら、見た目で5割くらい増量している。勝手な想像をしてみると、メニューを改定するにあたり、単純に値段を上げたのではない。これまでの販売実績から、一人当たりの摂取重量であるとか注文数や注文の組み合わせなどを分析したのではないだろうか。いわゆるトランズアクション分析だ。大衆居酒屋がそこまでやるか? 考え過ぎかもしれないがと思いつつ、量が増えたメニューもあれば減っているメニューもあり、原価だけで調整したようにも思えない。大規模データ分析は、今後の外食企業における主要分析技術になる……………はずなのだがなあ。メニューのABC分析程度でお茶を濁して生き残れる時代ではないだろう。

新価格コンセプト(と勝手に命名してみた)で、おそらくこれが導入目的の一つ「原価の調整用新メニュー」だと思ったニラ料理だ。目的は、「低価格」「低原価」「高粗利」の実現であるはずだ。
ニラをぶつ切りにして辛いソースをかけるだけ。オペレーション・フレンドリーでもあり、今回の新製品投入では、メニュー体系の見直し、商品のイン&アウトを検討したような気がする。

そして、なぜか店内メニュー札を含め「推しメニュー」になっていた焼きそばの存在だ。これも明らかに低価格・低原価・高粗利商品に見える。焼きそばながら具材はほぼない。キャベツすら存在しない。お祭りの縁日で売られる屋台の焼きそばより簡素だ。これ以上はシンプルにできない究極の「素・焼きそば」だろう。青のりとマヨネーズで食べる「素・焼きそば」は、ほとんど「酒のつまみ」と化している。量も食事というには少ないが、これをつまみに酎ハイを飲むとすれば逆に、多すぎる量かもしれない。
スマホ注文だけがDXではないのだ、としみじみ感心した。メニュー、それも量と価格の再検討をした上で、注文画面のメニュー配列も検討したはずだ。
オヤジ向けの大衆居酒屋で起きている進化こそ、苦境に喘いでいる外食産業各社が学ぶべきことだろうなあ、と焼きそばをつまみながら真剣に考えた。ちなみに日本最大のファミレスチェーンは自社のDXをあれこれ喧伝しているが、実は単純値上げしかしていない。業界的には周回遅れランナーに近いような気もするのであります。配達用猫ロボも役に立っているのかな。

食べ物レポート

恵比寿のラーメン屋 再再訪

久しぶりに恵比寿に出かけた。所用を済ませた帰りに、最近お気に入りのラーメン屋に寄った。コロナの始まりごろに開店した店だが、当時の混雑ぶりは一段落しているようで、昼でも並ばずに入れた。こんなことで日常が戻ってきたなどと感じてしまうくらい、コロナの2年半は面倒臭い時期だったのだな、などと思ってしまった。
電車も昔のように混雑しているし、足早にすれ違う人の多さは大都会が(悪い意味で)元に戻りつつある証拠だろう。コロナの間は他人に近づくのを避けている人が多かったせいか、道を歩いていても誰かにぶつかる(ぶつけられる)ことはなかった。第7波だとマスメディアが騒いでいた頃から、道を歩いているとぶつけられることが多くなった。スマホを見ながら歩く人間が増えたせいだ。
人は本当に何も学ばないものだとしみじみ思う。コロナの時代は、少なくとも、大都会は歩きやすい場所になっていた。今は、元通りで都会のダメな部分が復活している。

店頭にかかっていたお品書き板も微妙に変わっているような気がする。原価上昇で値上げしたのだねとすぐわかる値段の付け替えが痛々しい。つけ麺は麺の量が多いから、小麦が値上がりすると影響は大きいだろう。

らあ麺はいつものように普通に美味しい。スープの味がちょっと変わった気もするが、そもそも開店から2年も経ってスープが進化しないようでは店が潰れてしまう。人気店は麺、スープ、トッピング全てがゆっくりと進化していくものだからだ。老舗と言われるラーメン店ではその努力が続けられているから、老舗になっている。
この店の味は昔と変わらない、などというのは味音痴な客のノスタルジーでしかない。油や小麦の原材料は10年単位でゆっくりと変化、進化している。10年前であれば国産小麦でラーメンを作ることができるグルテン値の高い高い品種はほとんど存在していなかった。今では新品種が普及し、国産小麦で製麺したラーメンが当たり前になっている。
醤油や味噌の原材料である大豆も品種改良が続いているので、同じ工程で同じ味噌や醤油ができるはずがない。原材料のゆっくりとした変化に合わせて、当然ながらスープの作りや製麺するときの粉の配合など、日々変化に対応する必要がある。
進化を忘れない店だけが生き残っていけるのだと、改めて思いながら、進化したらしいスープを啜っていた。恵比寿で働いていて週一みたいなハイペースで来ていたら、きっとわからない変化なのだろうなとも思った。たまに来るから良いこともあるということか。次回は魚介系メニューにしなければなあ。

街を歩く, 食べ物レポート

老舗居酒屋で池波正太郎を気取ってみた

東京のシンボルタワーというより、東京東部、下町地区の象徴という気がするスカイツリーだ。東京駅から東側を歩いていると、アレっと思うようなところからスカイツリーの姿が見える。
鶯谷の駅から歩き始めてふと見上げた先にスカイツリーがあった。スカイツリーが完成してから随分と時間が経った。おやまあ、というか、また会いましたね的な親しみも感じるようになった。街の光景に馴染んできたという感じがする。

JR鶯谷から歩いて10分もかからない、表通りから引っ込んだ住宅街の一角にある老舗の居酒屋で、友人と待ち合わせをした。住所は根岸なので、実に下町界隈に出没した感じがする。そもそも鶯谷の駅で降りたのは、これが初めてかもしれない。浅草からぶらぶら歩いて入谷を過ぎ日暮里まで歩いた記憶はあるが、鶯谷周辺には近付いていなかった。東京にぽっかり空いた未踏地区の冒険に出たような気がする。
山手線の内側を湯島から日暮里まで歩いたこともあるから、やはり鶯谷駅周辺だけ足を踏み入れたことないまま、謎の空白地帯になっていたようだ。

今風の無国籍な料理が並ぶチェーン居酒屋とは全く趣が異なる、シンプルなメニューだった。かまぼことかたたみ鰯とか、時代劇に出てきそうな食べ物が並ぶ。まさに池波正太郎的グルメ世界なのだ。というよりストイックな美食空間とでも呼びたい。
池波正太郎が今でも生きていたら、江戸風物の古典料理以外にエスニック料理や昆虫食まで手を広げていたとは思う。知性の高いグルメ探求者は、知的探訪というか興味本位で悪食になるはずだからだ。オムライスを楽しんだ翌日には、タイ飯でグリーンチリとココナッツミルクにした図済みを打つような暮らしは悪くない。池波正太郎氏にはナンプラーとニョクニャムの違いを熱く語ってもらいたいものだ。
ただ、そうした現代版拡張グルメを楽しんだ後は、やはりこの店のような古典的居酒屋で休憩するのではないかと思う。新と旧を取り混ぜ、伝統と新進気鋭を気ままに楽しむのが、正しい食い道楽のお作法であるとも思う。

最初に出てきたのはお通しというより突き出しという感がある、シンプルな「煮豆」だ。ちょうど10粒あるなと思ったが、これはひょっとするときっちり数を揃えて出しているのだろうか。そうかもしれない。ありそうな話だ、と豆をつまみながら思った。味付けはほんのりというかほとんど味がしない。ただ豆を食べたという充足感がする。

鳥もつ焼は、一人一本ずつに分けて出してくれた。一皿に盛り付けて勝手にシェアしてねという一般的な居酒屋とは一味違う心遣いなのだが、それを堪能するのは客側にもそれなりの素養というか、理解度の高さが必要だ。
ここしばらくの我が生活を振り返ってみると、コロナで在宅時間が伸び、テレビ視聴時間が増えたせいで、旅番組(過去放送したもの)と酒番組には詳しくなった。その影響で熱燗を飲むようになったのだが、確かに燗酒には冷酒とは違う旨さがあるなと感じるようになった。どうやら基礎代謝量が減ったせいで、色々と味覚にも変化が起きているようだ。まあ、普通はこれを老化と呼ぶ。ジジイ好みの味に傾いてきたというだけの話だ。だから伝統的な居酒屋、ほとんど会話が聞こえてこないような静かな店がありがたい。居心地が良い。
白鷹の熱燗で湯豆腐を食う的な池波正太郎世界が目の前に広がっているなあ。ちなみに、都内で白鷹を飲める店は本当に少ないのだよね。池波正太郎の世界で、日本酒の銘柄に言及していたかは全く思い出せないのだけれど。

旅をする

一乗谷 栄華のあと

一乗谷といえば、戦国期に花開いた徒花というか、北陸入り口の強豪「朝倉氏」の居住地であり、滅びた場所だ。地図で見るとわかりやすいが、福井平野から山の中に向かってしばらく行ったところで、川沿いにひらけている南北を山に閉ざされた狭隘な土地だ。
一乗谷の名の通り谷が開けた場所であり、右も左も山に囲まれている。防衛拠点としては、西側である川下方面だけ考えれば良いので(山越えをしようにも、山の広がりが南北に深い)、優れた場所だろう。実際の核として、城は南側の山上に建てられていたから、備えは万全ということだった。
それでも、織田氏との北陸戦争で負けた後は、焼き払われ廃墟と化した。その遺構が発掘されて再現されているのをテレビ番組で見て、これは一度行ってみなければと思っていた。滅んだ文明?には、なぜか好奇心を煽られる。

当時の街並みを再現している施設があった。その街並みで土塀沿いの道を歩く。門をくぐると武家屋敷があった。当時の様子を再現している。
石垣の上に土塀を作っているのは都市防衛戦を意識したものかなと思った。しかし考え直した。おそらくこれは戦争ではなく、当時はやたら存在した野盗、つまり傭兵としての足軽予備軍みたいな悪党集団との戦闘を意識しているのだろう。

再現された武家屋敷を見ると、思っていた以上に狭い。2k+sみたいな間取りだった。居室と寝室の外に小さな茶室が一つ。キッチンは土間で、カマドが大きい。あかりとりの窓はない。障子が大きく開放的で、日中は明るい部屋のようだが、冬は寒そうな作りだった。
三畳の茶室が一番日当たりの良い場所にあるというのが、当時の一乗谷文化は高いレベルにあったことを表している。

しかし、一番文化的にレベルが高いと思ったのは、戸外にあるトイレだった。扉はないが展示よのためだろうか。実際にはムシロくらいはしきりに使っていたのではとも思う。あるいは、トイレで尻を出していても恥ずかしくない風俗だったのか。

土塀の外は、全部に武家屋敷が再現されているわけではない。野原のまま放置されているが、当時の区画や井戸(給水口)の跡がわかる。山際まで街が広がっているように見えるが、戦国時代から江戸時代は、里山がほぼ禿山になっていた。燃料として、伐採できるかぎり山の木は刈られていたので、当時の一乗谷は意外と解放感がある谷間だったのかもしれない。

この発掘され再現された場所を見ると、一乗谷の城下町は町割計画に沿って作られた人工的な都市で、おまけに給水網もあるのだから、明らかに当時の京都を越えるレベルではなかったか。応仁の乱から逃げ出してきた公家や坊主たちが、一乗谷に持ち込んだ文化の高さと相まって、この地は地方権力者の居住地というレベルを超える繁栄ぶりだったのだろう。

それにしても感心するのは、ここまでの大規模都市が数百年に渡り、田んぼや畑の下に埋もれていたということだ。織田軍により朝倉氏が滅亡し、町が焼き払われた後、誰も住もうとしなかったということだ。
確かに織田氏による朝倉氏殲滅以降、戦国期は急速に終わりに近づく。江戸期に入り戦争がなくなれば、山間部にこもっている必要もない。交通の便が良い平野部に街を築いた方が良いのは明らかだ。一乗谷は滅びたまま静かに400年近く埋もれていたと思えばなかなか感慨深い。

武家屋敷の他に民家というか商家も復活再現していた。これは、武家屋敷と違い小さな窓があるだけのワンルームなので、中は相当に暗い。昼でも作業ができるのかと思うほどだ。あんなに暗い中で作業をしていたのだろうか。戦国期の人間は、暗闇特化型の視力を持っていたとも思えないのだが。それとも猫族のような夜向け視力があったのか。

商家の跡は、専業店舗と専業工場ができるくらい分業が進んでいた文化都市の証として考えられる。ただ、この家で冬を越すのは考えたくもない。毎年冬が来るたびに、死人が出そうなくらい寒そうな家だ。寒さは人を殺す。それに耐える生活は勘弁してほしい。本当にどうやって冬を越したのだろう。

そして最後に発見したこのアニキャラパネルが、一乗谷の異世界感をマックスにしてくれた。うーん、これはご当地キャラでもなく、町おこしキャラでもなく、聖地巡礼向けキャラなのだろう。
ただ、あちこちのお城にいる違和感を感じる武将キャラと比べても、このキャラと朝倉遺構とのギャップはありすぎのような気がする。
歴史遺跡でギャップ萌えというものがあるのかどうかはわからないが、福井市の関係者の方々には展示場所の再考を願いたいものだなあ。せめて武将キャラ、朝倉義景くんあたりで勘弁してほしい。

食べ物レポート

最近食べた変わりもの

石焼チゲではない

北陸を旅している途中で駅前のホテルに泊まった。地方都市ではありがちなことだが、繁華街が駅から離れた場所にある。居酒屋や食堂などはそちらにあるのだが、駅前にはほとんど店がない。駅ビルらしいものもあるのだが、ほとんどの店が休業中らしい。コロナの影響は地方都市の方が大きいようだ。
そこでホテルの近くにあるチェーン居酒屋に入った。店内にはそれなりの一人客とグループ客がいて、会話の様子から想像するに自分と同じホテル宿泊者で、夕食難民のようだった。チェーン居酒屋だから「地のモノ」など期待もできず、東京と同じメニューが並んでいる。旅行者にはなんとも辛いモノだが、地元の人にとっては東京のメニューで問題ないだろう。
その見慣れた?メニューの中から、なんとか見慣れないものを探し出して注文してみた。豆腐チゲと言われればそうだろうなあというルックスの料理だが、メニュー名は辛い肉どうふだった。
中にはキムチも入っているのだが、全体的には甘い味噌仕立てという感じで、これが予想をはるかに超えていてうまい。自分で作ってもできそうな気がする。冷蔵庫に入っている豆腐と豚肉とキムチを石鍋で煮込む。野菜はニラや長ネギ、白菜など適当に投入する。味付けは中華鶏ガラスープと味噌で仕上がれば良さそうだ。甘さ強調のため黒砂糖を放り込むと一段と上手くなりそう。
これは旅先での「みっけもの」だった。東京にいたら、まず入ることはないチェーン店だけに貴重な経験になった。

回転寿司ネタの極北?

回転寿司の軍艦が好きで、特にトッピングが代変わっているものを「お試しチャレンジ」と称してよく食べる。マヨコーンやツナが乗っている軍艦巻はもはや定番になってしまった。ハンバーグや牛カルビが乗っていて驚いたのは10年以上前だが、今ではイベリコ豚や炙り焼肉も定番になった。生ハムなど変わりメニューにもならない。
ところが、最近の原材料高騰のせいか、軍艦巻から海苔が消えた「変なトッピングにぎり」がのさばってきている気がする。せめて海苔で巻くという「変わりずし」のお作法は捨てないでくれ、と言いたいのだが、変わり者のくせに我はスッピン勝負なりみたいな乱暴者が増えている。
その筆頭がこれ、チャンジャ乗せだった。イカの塩辛が乗った軍艦巻きは好物だし、寿司の領域を守っていると思う。少なくとも和食のカテゴリーには収まっている。ところが、イカの塩辛が韓国風鱈の塩辛に変形し、周りを守る海苔を放棄してストリップ状態になる。これは、和食から卒業したインターナショナルな The sushiの世界だろう、とあれこれ考え込んでしまった。
この先に待ち構えているのは、海苔の代わりにチーズで巻いたヘビー級な新軍艦巻きだったり、シャリを握りではなく円盤状に伸ばしたカナッペ風寿司みたいなものだ。(多分)
それを回転寿司大手が取り組むのか、海外から侵攻してきた寿司チェーンが取り組むのかの違いはあれ、グローバルな展開を考える「日本発」の寿司屋は、そちらに進化していくのだろう。
逆に香港発や台湾発の海外発祥寿司屋が「正しい懐古趣味の鮨屋」に進化していくような気もする。食のグローバル化とはそんなこと、つまり本家日本が怪しげに変化して、イミテーションで始まった海外勢が本格和風に進化する。それが、食の世界の平行進化ではないのだろうか、とチャンジャを味わいながら考えていた。ちなみに、チャンジャの臭みは寿司のシャリに結構あっていて予想外にうまいのだ。次回からはマイ定番候補に昇格決定。

旅をする

雲の上の城 大野城

越前大野城という名前だけは覚えていた。天空の城という、どこかで聞いたアニメの題名みたいなキャッチフレーズだけが記憶に残っていて、誰のお城だったのかとか具体的にどこにあるのかとか、全く知識がなかった。この城のある大野から程近い勝山にある恐竜博物館の方がよほど知識があった。城巡りを初めて、一度行ってみたいと思いながらも、不勉強のままだった。
お城の前に立って改めて戦国の城だなと感心した。小高い山の上から領地を全てを見渡し、他国からの侵略に備えるという、まさしく山城の名にふさわしいものだ。最終防衛線である本丸の石垣もやたらに高い。城が立つ山の下から見上げると、あそこまで攻め上るのかと嫌になる。岐阜城ほど高い山の上ではないが、攻め手をうんざりさせる効果はあるなと思った。

お城の下には大きな観光施設と駐車場がある。そこから登山開始するのだが、お城巡りガイドによると登りに20ー30分ほどかかるとある。お城の下にある案内板で見ると800mなので、それなりの山道だとわかる。
今回のお城回りの旅では、これが何度目の登山になるのか。ジジイになってから城巡りをするのは肉体的にハンディがありすぎるなと改めて思う。四国の金比羅さんも絶望的な登山参詣だったが、山城巡りもほとんど苦行みたいなものだ。途中まで車で上がれるお城はまだ良い。麓から山道を登れと言われたら、逃げ出したくなる城も多い。郡上八幡城などまさに修行登山だ。

苦行の予感とは裏腹になだらかな坂がダラダラと続く。思っていたほどきつくはない。途中で何組かの高齢者カップルとすれ違ったくらいで、高齢者にも優しい登り道だった。要所要所にショートカットする階段がある。ぱっと見では五十段から百段くらいかだが、それは遠慮して坂道を登り続けた。

お城周りの全体像はこの案内板でわかるのだが、麓からお城までの直線距離は非常に短い。おそらく100mくらいだろう。ただ、そこを十重二十重につづら折りになった坂道があるということだ。登りながら下界を眺めると意外なほど高低差が感じられる。登ってきて高さが増した感じが体感できるのは嬉しい。

観光施設にあったポスターを読むと、大野城のあらましがよく理解できる。越前の王者だった朝倉氏を滅ぼした後、越前の中心は平野部に移った。防衛戦が必要なくなり、経済中心の治世が始まったからだ。その時に、越前山間部の押さえとして大野城が築かれたようだ。信じられないことだが、この大野の盆地に対して山越え(現在の岐阜県、富山県方面)の侵攻があると想定されていたということだ。戦国時代の雑兵は、なんと健脚だったことか。現代であればハイキングのレベルを超え、重登山に近い山道を何日もあるいて行軍したのだ。

山頂に着いた頃には日も高くなり、雲海が消え始める時間だったようだ。それでも街の半分を覆う雲が見えた。街に着いた時は空が雲で覆われていたから、そのときに山頂にいればまさしくポスターのような光景が見えたのだろう。

土産物とトイレを兼ねた観光施設は、正直にいうと「道の駅」より立派だった。越前大野の名物はなんであるかも知らなかったので、ちょっと時間をかけて店内を見て回った。どうやら「けんけら」という干菓子というか煎餅のようなものが名物らしい。これは一つ買ってみて試食した。甘さ控えめでやたら硬い。京都の生ではない方の八ッ橋みたいな感じだたった。

この手ぬぐいをぶら下げている?ディスプレイはきれいなものだったが、越前は手ぬぐいの染め物が有名なのだろうか。加賀の有名な染め物くらいは自分でも知っているが、越前で木綿手ぬぐいの染め物とは、全く知見がない。反省した。

天守閣の下にあった築城主金森さんの銅像を見て、これまた頭の大きい人だったのだなと思った。限りある戦国武将知識の中で「金森長近」の業績はほとんど記憶にない。大好物の戦国趣味レーションゲーム「野望シリーズ」でも、能力は平均以下の文官で戦闘向けではないくらいしか覚えていない。放置しておいらたら彼の領土からよく侵攻開始されたという要注意人物程度の記憶だ。
ところが、この白にきて色々と見てみると、なかなかの優秀な知性かだったようで、認識を改めた。良い殿様だったようだ。

などと思いながらお城の一番上に上がったら、お約束のお城武将キャラがいて、おやまあ、この方が銅像と同じ方だとは……… キャラ作成に関わる方たちの、なんというか、すごい想像力に、感銘したというか、呆れてしまった。お城も若い人を観光客として惹きつけなければいけないから、色々と大変なのだろう。あの銅像を感心してみるのは、やはり城好きジジイくらいだろう。

食べ物レポート

町中華でアレンジメニュー

いつものお気に入りの中華料理屋で「ネギチャーシュー」を注文して、ちびりちびりと酎ハイを飲んでいた。このネギチャーシューという料理?は、店によってチャーシューの比率がずいぶん異なる。
だいたいの店ではネギ8対チャーシュー2くらいの割合で出てくる。ネギが値上がりする時期になるとネギの量が減る店が多いような気がする。簡単なつまみとしてお手軽価格で提供されていればネギ中心で良いのだが、中には単品料理としてもかなり高額な値段を取る店もあり(酢豚より高かったりする)、そうなるとぼったくりメニューだなと敬遠してしまう。
この店はラーメンやチャーハンよりお安い「適正価格」なので安心して注文できる。しかし、ネギの量が多いので、これだけを完食するのはちょっとな、ということにもなる。そこで、半分ほど食べたあとで、おもむろにシンプルな味噌ラーメンを注文する。

この店の味噌ラーメンはシンプルにもほどがあると言いたいくらい、トッピングが少ない。炒めもやし、That’s all !!という潔さなのだ。お値段が味噌ラーメンとしては破格にお安いので仕方がないが、メニューには味噌チャーシューメンとか味噌スタミナ麺などというアップグレード版はない。
そこで、その簡素な味噌ラーメンに半分残したネギチャーシューを乗せると、あら不思議。あっという間にネギチャーシュー味噌ラーメンというゴージャスなラーメンに大変身する。
同じようなことを、塩味のタンメンに海苔(ラー油をかけて味変したもの)とメンマ追加とか、醤油ラーメンに餃子+大量の胡椒など、セルフアップグレードで楽しんでいる。
普段から料理は創意工夫だと威張っているのだが、調理人からすると「出したものは、そのまま食えよ」と言われそうだ。町中華の味変はこっそりやった方が良いのかもしれない。

食べ物レポート

帰ってきた鳥唐揚げ@満洲

いつもの満洲へ、いつものように味噌ラーメンを食べに行った。満洲の味噌ラーメンは、野菜炒めしか乗っていない。そこがちょっと物足りないのだが、味噌チャーシューメンとか味噌焼肉ラーメンとか作ってくれないものだろうか。
ちなみに満洲のチャーシューはテイクアウト用も売っているので、自宅でお気楽にチャーシューメンを作ることができる。スーパーで売っているお手軽値段のチャーシューは、チャーシューという名のハムみたいなもので、どうにも頼りない。満州では、ハムではない力強い系のチャーシューを売っているから、ちょっと贅沢をしても買う価値はあると思う。餃子もうまいがチャーシューも美味いだ。
満洲の味噌ラーメンは、自分でトッピングを追加して作り上げるアレンジメニューのベースと考えるべきなのだろうな。

その満州で、お気に入りだった鳥唐揚げがメニューから消えていた。お値段が安かったせいで原材料費高騰に対応できなかったのだろう。3−4ヶ月ほど唐揚げがなくなり、その間はよだれ鳥(冷製の鶏肉)だけになっていた。
それがいきなりというかモデルっチェンジというかして復活してきた。今回は油淋鶏(ユーリンチー)としての登場で、揚げた鶏肉の味自体は昔と同じような気がする。唐揚げの上にかけられたソースが、今回のモデルチェンジ最大の目玉だろう。甘酢ソースは、確かに美味い。バージョンアップと言っても良い。ただし、お値段もバージョンアップした。
それでもこれはめでたい。満州で餃子を食べたい日と唐揚げが食べたい日がある。(両方という日は、ほぼない)唐揚げとネギチャーシューと回鍋肉でローテーションが組める日が戻ってきたのだ。
油淋鶏導入は唐揚げの単純値上げを避けるための苦肉の策という気もするが、とりあえず唐揚げが戻ってきたことを素直に喜びたい。満洲の商品開発チームの皆様、次回は酢豚の投入をぜひ検討ください。

街を歩く

福井城 地味にすごい

県庁所在地にお城があるとき、そこには公共施設が設置されていることが多い。あとは神社もよく勧進されている。明治政府の蛮行、廃仏毀釈の影響が大きいようだ。富山のように市民が散歩できる無料の公園になっていることもあれば、名古屋城や彦根城のように入場料を取るところもある。それぞれの自治体の考え方だから文句をつけるつもりはない。整備にも金がかかるし、文化財の保護を税金でやると文句をつける市民も多いだろう。
福井県福井市にある福井城は、お城の真ん中に県庁と県警本部がある。これは……………相当にすごいことだ。お城は堀で囲まれているので、入り口の橋が落ちたら県庁へはどうやっていけば良いのだろう、などと馬鹿なことを考えてしまった。
そして、その県庁の入り口に大きな垂れ幕がかかっていて、これはなんと感想をいえば良いのだろうと悩んでしまう、不思議な標語というかスローガンだ。今風に言えば、エモいスローガンみたいなことを狙ったのかな。

福井城は悲運の名将、結城秀康が築いたものらしい。徳川一族は、あちこちの防衛拠点に派遣され幕府の守りを担ったのだが、この家康の息子はかなり大変な人生を送った一人だ。本来であれば、二代目将軍になるはずだった……………
福井城は典型的な平城なので、堀が広い。防衛拠点というより、地域支配の象徴という観点で建てられたような気がする。

福井は地勢的に京都から日本海沿岸、越中越後にいたる北陸支配の前哨基地にあたる。重要拠点だったのだが、支配者は戦国後期にコロコロ変わった。最後の支配者、徳川政権になって大きな城が造られたのは、戦国期の終わりという意味合いがあったように思う。

北陸新幹線が福井まで延伸する前から福井駅は新幹線対応を進めていた。その気の早いとも思える駅改良工事を見たのは5年前だっただろうか。今では駅前もすっかり整備完了して、あとは新幹線の入線を待つだけと思っていたら、なんと大阪延伸を望んでいる。福井人は気が早いというか、せっかちというか、野望に満ちているというか、ちょっと意外な気がした。
確かな記憶ではないが、JR東日本の新幹線は雪対策で車両が重くて、東海道新幹線は走れないのではなかったか。大阪延伸のためには、東海道新幹線に乗り入れするのが早道だが、そこで直接乗り入れることができるのだろうか。
乗り入れができずに、米原や京都で東海道新幹線に乗り換えるとしたら、つながる意味もなさそうだが。米原で繋がるのであれば、「のぞみ」接続はむりだろうし。京都駅乗り入れだろ、どこにホームを作るかだなあ。在来線の上に立体化したホームを作るか?

このあたりは福井県庁の方にご意見を伺ってみたいものだ。地味にすごい、福井についても、色々と面白い話が聞けそうだし。はやくて、つよい決意を語ってほしいなあ。