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街を歩く, 旅をする

敢國神社 忍びの里で神さま

伊賀国と言えば忍者だろうと思っていたら、神社に着いて地元の人もそう言っているのだと笑ってしまった。忍びの里、伊賀甲賀と看板に書かれている。そもそも甲賀は三重県ではなく滋賀県ではないか。県境を越えた観光政策というのも珍しい。ただ、それに文句があるわけではない。ただ、一宮ですら「忍者」を持ち出しているのが不思議だなと思った。八百万の神様の中には、武ばった髪も多い。筆頭は須佐之男命だろうし、タケミカヅチ命も超絶武神だ。だが、忍者の元祖の守り神がいたとは聞いたことがない。ひょっとすると大国主系列でアンチ大和な神様がいて、その方が「忍者」元祖だったかもしれない。神様の本拠地である伊勢国の北方を抑えているとすれば、忍者守護神はなかなか戦略眼をお持ちのようだ。
おまけに忍者のカシラ(頭領)である服部一族とも関わりがあると書いてある。うーん、伊賀親分ハットリ氏を甲賀忍軍は認めるのだろうか、神社の中立性みたいなものは大丈夫なのか、などと考えてしまう。一宮では期待できない「妄想」の種をお参りする前に見つけてしまった。

おまけにこのボードは「例の」顔抜き写真の場所になっていた。気分は「ニンニン」のハットリくんということだろう。神社の前で、この手の写真を撮る場所があるのは初めてみた。明治神宮や靖国神社のようなところで、この撮影用窓あき看板を出したら、さぞかし「ライトな方々」からクレームが出そうな気がする。
しかし、八百万も神様がいるのだ。中には、アニメの神様もいるだろうし、ゆるキャラ担当の神様だって新しく任命されていそうな気がする。と、妄想が加速した。
元祖キャラとして考えれば、日光東照宮の眠り猫だって建立時に創造されたキャラだろう。奈良東大寺の鹿だって神様のお使い集団だから、NRA48でも結成して奈良を盛り上げる史上初のアニマル・ライブキャラと考えられないか。個人的には、奈良のあの物凄く濃いキャラ「せんとくん」より、鹿キャラ48の方が人気出そうな気もするのだが。神社とキャラは案外相性が良いのかもしれない。

などと、またまたあれこれ妄想を爆発させながらお参りしてきた。敢国神社は静かなお社で、その日は参詣者が誰もいないひっそりとしたものだった。個人的には、この静けさこそが神社には似合いだと思うのだが、古の服部一族も詣でた神社で心を鎮めてきた。
しかし、伊賀国は本当に山深いどころだな。

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伊賀上野城は忍者パーク

伊賀上野に初めて行った。この街は通り過ぎたこともないので、全く初見だった。街の真ん中にお城があるのは、なかなか珍しい。伊賀については忍者の里というくらいしか知識がないので、城の規模の大きさには驚いた。

駐車場に車を停め城の中に入っていくのだが、その入り口にいきなり「スーパーNINJA」アクションショーの掲示板がある。城よりも目立つ「忍術」推しだ。伊賀忍者は普段は何をしていたのだろう。全国に「忍びのもの」として散らばっていたにしても、いかにも怪しい。そもそも治世的に見ると、伊賀の地は完全な盆地だが平野部もそれなりに広い。せめて出るには大変だろうが、守る地として好都合だ。地方豪族が根拠地とするには十分な経済圏だったろう。それが「忍び」を出稼ぎ仕事に送らなければいけないほど貧困だったとすれば、何が原因だったのか。これは悩みどころだ。

案内図を見るとお城の周りに庭園が広がっているような雰囲気だが、これはあくまで平面図で、この地図を鵜呑みにしてはいけない。歩いてみるとわかるが、お城とは当然ながら防衛拠点として造られている。おまけに山城だから場内にもあちこちにアップダウンがあるはずだ。三重県山間部の恐怖ドライブをした後だけに、精神的にすっかりやられていて、元気に山登りをする気力は無くなっていた。そして、場内に入ると予想通り坂だらけだった。

歩きながら「芭蕉祭」の看板を見つけて思い出した。松尾芭蕉忍者説というものがある。世の中には面白いことを考える人がいるのだなと感心したお話で、芭蕉が俳句三昧でのんびり歩いた「奥の細道」旅程は、幕府隠密としてのスパイ旅行だったという話だ。
ただ、幕府のスパイであれば「新徳川」諸藩が多い東国ではなく、潜在的叛乱軍である西国をめぐるはずだろうと思う。少なくとも「西海道飲んだくれ旅」「肥前と薩摩を怪しむ旅」にならなければいけないので、どうにも怪しい。

お城公園の中は予想外に広く、そして予想通りアップダウンもあり、おまけに案内板を読み違い、あちこち迷ってしまった。その度に余計な階段を登ったり降りたりする。精神衛生上は甚だ問題ありな伊賀上野城内散歩になってしまった。ただ、坂道や階段を登ると本丸の姿が見えるのが救いだ。

石垣の高さ、厚み共に戦国以降の城郭の中でトップクラスの重厚さだが、それは幕府直轄統治だったせいだろう。徳川期の治世方針の表れだと思う。武威をもって民を圧する(他家を圧する)というものだが、戦国期を勝ち残り全国平定した直後であれば、武断政治は当然のことだろう。結果的にみると、下克上の風潮が消えるには100年近く時間が必要だったからだ。

伊賀上野城は戦国期築城術の完成形みたいなものなのだろうか。高知城を見た時も石垣の高さに驚いたが、やはり平地、あるいは低い丘程度で城を築く場合、最大の防御策は「高くて、登りにくい」城壁だったのだとわかる。
お金持ちの大名であれば、金沢城のように表面がすべすべに加工された石垣を作ることができる。江戸城は全ての石垣が、金をかけた平面仕上げになっている。多くの城では、荒く削って登りにくくした石積みで済ませているが、それでも防御効果は高い。城の造られた時代によって築城術、設計思想は異なるのだが、それを理解するには古い城、新しい城を見比べてみなければならない。
特に、石垣の質感であったり、積まれた石の大きさだったり(石が小さいと登りやすい)、城壁の角度などで登りやすいかどうか判断できる。おまけにかけた金も推察できる。この石の持つ重量感が写真ではよく理解できない。

復元された本丸は記念館になっていた

当たり前だが、リアルに勝る体験値はない。別に築城学を学ぶつもりもないが、復元された城よりも、長く残されてきた石垣の方が、歴史のリアルを感じられるものだ。ただし、お城によっては石垣も復元されていて、それが古く見えるだけという場合も多いので、勘違いしないことは大事だ。事前に予習しておかなければいけない「お城巡りアルアル」の一つで、何事も学ぶためには努力が必要なんだよね、という教訓。

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伊勢神宮とおかげ横丁

五十鈴川にかかる橋を渡るときは、いつでもちょっと気分が上がる。別に日本人のDNAがとか、日本人の精神世界の原点が、などというつもりはない。単純に電線のない世界に川と森が広がる姿は美しいなと思う。それだけのことだ。
伊勢神宮の周りは、駐車場を探して随分とぐるぐる回った記憶がある。神宮の森の外は、普通に現代日本の住宅地が広がっている。ここだけが、どこか隔絶された感じはあるのだけれど。門前町の賑わいを見れば、やはり現代日本の風景でしかない。

それでも、都市部でありながら清流が流れている川というのは珍しい。生活排水が流れ込まない自然なままの川というのは、今や日本で希少なものになっている。四万十川や仁淀川など、高知県の有名な清流も下流に行けば普通の川になってしまう。昔は天然の難所であった大川である天竜川や大井川も、今では治水対策の成果で、夏には河床が見えるほど水が枯れる。昔ながらの綺麗な川というのは、意外と少ないのだと思う。

拝殿に向かう途中で見かけた光景だ。こもかぶりというか日本酒の樽がドーンと陳列されていた。どれも献上酒なのだろうが、見たことのない銘柄が多い。まだまだ知らない日本酒は多いのだなと、変なところで変な関心をしてしまった。この中に、サントリーとかニッカのウイスキーダルが並ぶと面白いだろうなあ、などと思って笑ってしまった。オーク樽を白い縄で固く縛り……………見てみたいな。
他の神社でもこの樽酒のだいちんれつはみたことがあるが、やはりこれだけの数の酒蔵が並んでいるところはない。諏訪大社でも、これの1/3くらいだったように記憶している。やはり、「The 神宮」の貫禄だろう。

伊勢神宮門前町といえば良いのだろうか、おかげ横丁は初めてみた頃から随分と広がって大きい街になったような気がする。景観作りがうまいのは、琵琶湖のほとりにある長浜黒壁もそうだが、西日本的なデザインセンスのせいだろうか。首都圏というか東国ではこの手の街づくりセンスが欠如している気がする。地元埼玉では小江戸川越などといって観光地化しているところもあるが、トータルのまちづくりとしてはチグハグで物足りない。徹底どの違いであり、街の住民や商売をやるものたちのコンセンサス、合意形成が難しいのだろう。単純に「わがまま」なだけという気もする。
グランドデザインを立てるのが、東国人は下手くそすぎるのか、真面目すぎて遊びが足りないのか、あるいはリーダー不足なのか。
神宮手前の赤福を見るたびに、そのあたりの違いがわかってしまう。

しかし、赤福で新製品が出ていた(らしい)のには驚いた。それもサブレーというから、和菓子ではないのだな、とこれまたびっくりした。和菓子老舗の革新というのは、みるからに戦闘力がありそうだ。ひょっとすると近い将来、「あんバタ赤福」が出現しそうな気がしてきた。老舗も変化を求める、いや老舗こそが進化を求める時代なのだと実感した。

この横丁も夕方になれば人通りも減る。歩いているのは修学旅行に来た中学生の姿ばかりだったが、それはそれでめでたいことだ。修学旅行が復活したのだから、コロナの大騒ぎが終了しつつあるということだろう。
いつもこの横丁でお世話になっている「白鷹」を販売する酒屋に立ち寄った。そうしたら、なんと向かいの店がスタバになっていた。古き良き酒屋とスタバが「ニアリーイコール」なルックスになっている。これも現代の門前町だなとあらためて感心した。できればスタバで赤福とコラボした「あんこラテ」みたいなものが飲めるようになれば楽しいなと思った。(確かめていないので、定かではないが、すでにご当地ラテとかご当地フラペチーノはありそうだ)
ただ、まだスタバのない町からお伊勢参りに来た中学生が、このおかげ横丁で生まれて初めてスタバにはいって、その「赤福ラテ」を注文したら、人生ではそれなりに重大な勘違いを(赤福にもスタバにも)してしまいそうな気がする……
横丁の大人の皆さん、ぜひそのあたりを、特に青少年に対する心遣いをお願いします。

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南宮大社と真清田神社

関ヶ原の近くにある南宮大社は、美濃国の一ノ宮だ。美濃国の一ノ宮としてはずいぶん西に偏った場所にあると思ったが、美濃国とは現在の岐阜県西部にあたる。岐阜県東部の山間地帯は、美濃国ではなく隣国である飛騨国なので、その分を割引して考えるべきだろう。
関ヶ原を抜けて畿内に至る旧来の街道筋にあたる場所だったから、現在の周辺都市の散らばり具合から見ると理解しにくいが、当時は交通要所にあったはずだ。全国にある一宮の大半が僻地にあると感じるのは、現在の交通網から考えるからで、当時は一宮が交通の要衝にあたる場所だったはずだ。
現在は、東海道新幹線や名神高速道路などが通っていいるため、昔の交通の要衝が分かりにくい。旧東海道や旧中山道などの大街道の跡地が寂れて見えるのは、明治以降に進んだ鉄道延伸とそれに伴う陸運の劇的変化のせいだ。当時の鉄道敷設は、城下町(都市部)を迂回して作られたバイパスというか本街道から離れた田舎道でしかなく、田んぼや畑の真ん中を突き抜けていた。(それは今の高速道路と同じだが)鉄道駅周辺が街の中心部に移行するまでは相当な時間がかかった。
ところが神社仏閣は鉄当駅近くに引っ越すこともないので、時が経つと街の真ん中から外れた場所になってしまう。この南宮大社も、そうした昔の拠点跡地立地の典型のようだ。ただ、オヤシロの周りにはびっしりと住宅が密集しているので、やはり門前町としては残っていたのかもしれない。

ちょうど七五三の時期にあたり、境内には子供(孫)を連れた家族がたくさんいた。これはなかなか和む光景で、正月の初詣に並ぶ「神社の賑やかさ」の象徴だと思う。
ただ、現代日本らしいなと感じるのが、七五三ファミリーの大半が大型のワンボックスカーで来ていることだ。完全な車社会になっている地方都市では、ファミリー外出用大型車+個人の専用移動手段としての軽自動車の組み合わせが徹底していることがわかる。境内の駐車場には軽自動車がほとんど見当たらなかった。ファミリーイベントには1ボックスカーで三世代が集合という現代日本の姿だ。大都会にいると、わかりにくい、平均的日本人の社会ということだろう。しかし、ベストセラーカーであるはずのセレナではなく、トヨタ系の大型車が多い気がした。やはり中京圏におけるトヨタの支配力がなせり技だろうか。
この神社に来るまで通ってきた生活道路では、すれ違う車両の7−8割が軽自動車だった。個人ライフは軽自動車で十分ということだろう。神社巡りをすると、日本経済がわかるなどと威張るつもりはないが、商業統計などではわからない地域社会と「人の暮らし」が見えてくるものだ。

神社巡りをするときには、拝殿の屋根の形に気をつける。神社の建造物に詳しいわけではないが、いわゆる天照系大和王朝スタイルと大国主系出雲王朝スタイルは、屋根の形が違う。この系統違いの神様を感じるのが、一宮を見るときにはポイントになる。大和王朝が周辺国を征服する過程で、自分達の神を押し付けないで地元の神を残した地域と、自分達の神で覆い尽くした地域がある。歴史の暗い部分が、社殿の形で現在に残されているというのは、なかなか興味深い。
ちなみに、関東圏から見ると美濃は西国のように感じるが、京都の東になるので歴史的には東国扱いだろう。ちなみ尾張(名古屋)の熱田神宮は日本武尊の東征時に立ち寄ったのだから、やはり東国で間違い無いだろう。
東国は、古代日本において基本的に被征服国家群であるせいか、国神が残されていないところが多い。だから祭神の確認も屋根の形と同様に、神社を見る上でポイントが高いところだ。

美濃国の隣、尾張国には一宮が二つある。一つは「大神神社」で、こちらはすでにお参り済みだった。住宅地の真ん中にあり、ナビを使うと神社の裏側に連れて行かれるというひどい目にあった。(古いナビは神社仏閣の位置指定が本当に酷すぎる)こちらの神社も、ナビのいう通り目的地に到着してみたら(神社敷地内にあるのだろうが)、なんと結婚式場だった。車のナビなのだから、神社の駐車場を第一優先に設定してほしい。ブツブツ………
などと文句を言いながら、駐車場探しをして神社の周りをほぼ二周した。その結果わかったのが、この神社は大通りに面しているが、周りはびっしりと住宅に囲まれた都市立地ということだ。昔からの交通の要衝、町の象徴としての位置が長い間変わっていない。その割に門前町というか土産物屋が少ないなという気がしたが、どうもコロナの間で休業したままの店が多いようだ。
確かに、コロナの時期に神頼みで神社詣をする人は少なかったのだろうな、と理解はできる。が、ちょっと寂しい。

門前にすごい物が立っていた。鎮座2650年とは、これまた凄まじい歴史だ。歴史に詳しい人はわかるだろうが、古事記や日本書紀に書かれている「神道国家」大和王朝の系譜でいくと、ほぼほぼ王朝樹立の最初期に開かれた神社ということになる。熱田神宮も日本武尊の東征時代からあったのだから、尾張国にはとても古い時代からいくつも神社があったということだ。伊勢志摩も含めて、尾張は大和王朝勃興期に、少なくとも対立関係ではなく同盟関係にあったということだろう。だから神社が置かれた時期がとてつもなく古い、ということを意味している。あちこちの一ノ宮をおとずれたが、 これだけの歴史があるところは初めてだ。

確かに、尾張国は天照大神の本拠地である伊勢神宮に近い。また、大和王朝の初期本拠地であった奈良盆地にも近い。当然、歴史的に大和王朝最初期から関わっていたことも確かだろう。京都は平城京から遷都してほぼ1000年の歴史を持っているが、その前は田舎町だった(たまに現在の京都周辺に「みやこ」が移った時期もあるが)。
その田舎町京都が開かれる1000年以上前から、この周辺は栄えていたということになる。愛知県一宮の皆さんは、もっと鼻を高くして威張っていても良いのでは、などと不遜なことを考えていた。
京都の一ノ宮は、平安京遷都時にともない政治的に、元の都、平城京にある大寺院や大神社を排除したこともあり、意外とこじんまりしている。それと比べると、この神社は昔の威容を残しているのだろう。宗教と政治は、いつの時代も密な関係なのだな。

食べ物レポート, 旅をする

伊勢の夜で見つけたうまいもの

伊勢志摩、お城巡りの旅で宿泊地を伊勢のホテルにした。ここまできたらお伊勢参りをしないで済ませるという選択はないと思ったからだ。「伊勢へ七度、熊野へ三度」というらしいが、これで伊勢神宮へは5度目のお参りになる。7度目までもう一息だぞ、とちょっとやる気が出てきたりもしたのだが………
そんなに何度も通ってきている伊勢だが、実はいつも通過するだけで泊まったことがなかった。今回は車旅なので、駐車場付きのホテルを選んだが、思っていたより駅前繁華街より遠い。ホテルの方に聞いて近場の居酒屋を訪ねることにしたが、それでも徒歩10分ほどの距離だった。知らない街で暗い夜道を歩くと迷いやすい。案の定、通りを一本間違えたらしく、ホテルでもらった地図を何度も見返すことになってしまった。
ようやく辿り着いた居酒屋だが、この通りで明かりがついているのはこの店くらいで、他の店は休業日らしい。

手書きのお品書きを眺めながら、熱燗で一杯やり始めた。できればその土地のものを食べたいなと思っていたが、伊勢といえば「うどん」と「てこね寿司」くらいしか思い浮かばない。とりあえず海の近くだし、魚はうまいだろうと信じるしかない。

刺身の盛り合わせを頼むと、一人前にちょうど良い量が出てきた。マグロは「生」のようで、ねっとりとした歯触りがある。この日はカンパチ推しの日だったようで、いろいろなカンパチメニューがあった。その刺身を食べてみると、弾力のある歯応えがしっかりしたプリプリだった。名前だけ見れば全国どこでも食べられそうなものだが、これはこれでうまい。

品書きの中に「伊勢の地物」的説明があったのが「さめのたれ」だった。房総では「くじらのたれ」というビーフジャーキーのような干物を食べたことがある。伊豆のどこかでは「いるかのたれ」と言って、やはり似たような味のジャーキーが名物だった。
「さめ」だから、それと似たようなものかと思ったが、食べてみるとぎっしりと身の閉まった、半干物というか適度に水分の抜けた塩味の白身魚という感じだ。一言で言えば、味が濃い。濃縮された魚の旨味という感じだろうか。さめという言葉で連想していた臭みは全くない。熱燗によくあう酒の肴だ。鮫は全国どこでも取れそうなものだが、名物料理としてはあまり聞かない。
食べていると店主が説明してくれた。サメの肉は柔らかいので、竿で干していると身がだらりと垂れるから、タレと呼ぶそうだ。伊勢では普通の食べ物でスーパーでも売っている日常品らしい。伊勢参りに来る参詣客をもてなす「伊勢料理」の中に組み込まれているそうで、サメのような見た目の悪い魚でも、おもてなしのために美味しく仕立てるということが、「伊勢ホスピタリティー」の表れだという。
疲れた旅人を待たせずに食べさせるよう開発された「伊勢うどん」と似たような発想のようだ。根底にある「もてなし」の心が、伊勢参りの人気を支えた、伊勢の人の心意気だろう。同じもてなし精神が商売に向かえば、顧客重視の視点で商品開発、提供法の改善といったところにつながる。中世日本で商業を支えていた近江商人や伊勢商人の商業観、そして商道徳は、そんな「もてなす文化」にあったように思えてきた。
改めて言うまでもないが、全国あちこちにまだまだ知らない「絶品な食べ物」があるのだなあ。グルメ番組よりも居酒屋店主の目利きが信用できる。伊勢の夜はなかなか幸福でありました。

旅をする

一之宮 最大の難所と遭遇

志摩国一ノ宮は、海の近くにあり、それも崖の上にあるらしいと、事前の下調べで分かった。参詣するのにどこで駐車をすれば良いかとか、そこから歩いて30分かかるとか、色々と勉強したつもりだった。ただ、「一宮」であり、古代中世を含め、その国の住民が皆参拝に行った由緒正しい神社なのだから、そんな僻地、難所にあるはずがないと思っていた。難所にある唯一の例外は、富山の立山山頂付近にある雄山神社くらいだろう、と思っていた。その雄山神社でも麓の方に、別の社を備えていて、足弱な参詣者に対して便宜を図ってくれている。よもや国を代表する一宮が、お参りするのもたいへんな不便な場所に、それも修験者しか行けないような場所にあるはずがない………などと甘く見ていた。

山道を行くのは分かっていたが、参道?入り口近くの表示を見て、もう少し慎重に考えるべきだった。片道30分かかるということだが、平地で普通に歩けば30分で2kmくらいは歩けるはずだ。それが、1kmに満たない距離なのに30分かかるというのだから、当然のように歩きづらい、歩行距離が出ない場所だということだ。
富士山だって、高さは4kmに満たない。平地で4kmを歩くのはのんびり歩いても1時間程度のはずだ。山登りであり、距離だけで言えば斜面を登るのだから、直線の4kmより長くはなる。距離が倍になったとしても8kmだ。しかし、富士山を登るためには何時間かかるか。山を登るということに対して、その手の想像力が足りなかった。

かなり高い丘を上り下りをすると、すっかり息が切れていた。そこには綺麗な海水浴場があった。防波堤があるが、それ以外には何もない。海水浴をするために、この山登りをするのかと思うと、気が遠くなる。海水浴をする前に登山などしたいものはいるのだろうか。確かに、プライベートビーチっぽい隔絶感はある。ただ、あたりを探しても見当たらなかったのだが、トイレはどこにあるのだろう。しかし、ここまでの道のりはまだまだ前哨戦だった。

海水浴場の脇が、正式な参道にあたるらしい。その入り口に、なぜか竹の杖が無造作に置かれていた。最初は何があるのか分からなかったくらいだが、よくよく見るとさまざまな長さの使い込まれた竹の杖のようだ。じんわりと嫌な感じがしてきた。杖が欲しいほどの急坂なのだろうか。とりあえず「転ばぬ先の杖」と思い、長めのものを一本持っていくことにした。

ここから、高さが不揃いな石段というか登山道を登ることになった。二百段くらいまでは数えていたような気がするが、その後は数えるのを諦めた。高さで言えば100mくらい登ったような気もするが定かでない。途中から杖を使い始めた。よく見る登山映像のように、両手に杖を持った方が登るのには良いという気がしてきた。杖一本は平地の補助、登山の補助には両手持ちだと、初めて理解した。
石段の高さが不規則で、おまけに滑りやすい。昔の街道はこんな感じだったのかなと思う。熊野古道歩きがブームになっているようだが、こんな道を登り降りするのであれば、古道巡礼はしっかりお断りしなければと確信した。
何度も立ち止まり、ここから帰ればずいぶん楽ができるのでは、という誘惑にもかられた。1km弱の距離を30分かかるというのは、こういう意味だったのだ。結局、神社前にたどり着くまで30分以上かかった。杖がなければ、途中で逃げ出したような気もする。

ほぼ、息も絶え絶えという感覚で辿り着いたのが山頂というか崖の上にある鳥居前だった。本当に、志摩国の領民はこの山登り、崖上りを延々と行ってきたのだろうか。そもそも、これは修験者のための神社ではないか……………

ようやく辿り着いた拝殿は、予想以上に簡素だった。確かに、この山の上に社を建てるのは、材料運びもしんどいが、建築する大工も毎日登山になるのだから、さぞかし難儀な現場だろう。などと変なことに感心してしまった。ありがたいことに、この鳥居の正面にベンチが置いてあった。お参りする前にベンチで休憩しなければ気力も湧いてこない。せめて水くらい持ってくるのだったと、また別な後悔をすることになった。
当然のように宮司さんは常駐していない。中に入ると、御朱印のもらい方が掲示されていた。まず電話で別な場所にいる宮司さんに連絡を取り、山を降りてから指定の場所に行く。そこで、御朱印をもらうという手順だった。

また、30分かけ山を降り(このときには足がガクガクでひさが笑う状態だった)、車の運転をする前に足を揉み解し、乾き切った喉を潤すべくたっぷり水を飲み、それから気力を振り絞りつつ慎重に運転した。5分もかからずに指定場所に着いた。御朱印はすぐにもらえたが、その後は移動するのが嫌になった。

目の前が小さな港になっていて、漁船が何隻か泊まっていた。湾の中なので波もなく穏やかな志摩の海だった。しばらくぼうっと海を見ていたが、そのままでは動けなくなりそうなので、無理矢理に車へ乗り込んだ。
おそらく一宮巡りでは、ここが最難所だろう。もう一度行けと言われたら、はっきり断りそうだ。秩父札所巡りをした時も、登山しなければいけないお寺があったが、アレの数倍のしんどさだ。感覚的には金毘羅様を登った時に近いが、あれと比べても倍くらいしんどいかもしれない。古代の日本人は、あんな山登りが当たり前だったのだろうか。
大和朝時代や中世に志摩国でお住まいだった方々に、この辺りを是非聞いてみたい。現代人はひ弱だと言われるだけのような気もするが。

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戦国 夢の跡 長篠城跡

東海地方をめぐる名城旅で、取りこぼしていた長篠城に、ほぼ3年ぶりで辿り着いた。コロナの流行であちこちの公共施設、博物館や歴史に関わる記念館などは休業、受け入れ停止など厳しい対応が続いていた。流行波の間でも、開けたり閉めたり対応はバラバラで、一筆描きのようなコースを決めて一気に城をめぐるということが、事実上できなくなっていた。
疫病退散を願いお参りに行くにして、神社仏閣では御朱印の受付をしないところが多くなった。書き置きしたしたものを配布する形に変わっていた。そのうち祈祷がリモートになる時代が来るのかもしれないが、現代日本を守護している八百万の神様たちにデジタル適応をお願いしても良いものか、甚だ疑念が残る。天竺由来のお釈迦様だと、空の上からデジタルな糸を垂らしてくれるかもしれない。ただ、少なくとも閻魔大王は直接面談を諦めそうにない気がするが。
城巡りの間に、あれこれと妄想してしまった。

長篠城記念館が建っているところは、城の内堀脇に当たる場所で、目の前には堀の跡と広場が広がっている。この広場に本丸を含めた城の建造物が建っていたのだろう。
城址というものは、その場で昔の姿を想像してみないといけない、想像力が要求されるゲームだ。城址に行って今の姿を見れば、そこは芝生を植えてある公園だったり、散策用の道が広がる庭園だったりする。しかし、当時は戦闘施設であり無駄のない合理的空間だったはずだ。防御施設であるから、防衛目的で建物が配置されていた。それを、現存する石垣や地割りなどから想像するのが楽しい。

堀の跡も、一見すると水もなくなり雑草や樹木が生えている。しかし、当時は身を隠したり登る時の手がかりになる「木」や「草」を放置したはずがない。石垣ではない堀の壁は、滑りやすい粘土で覆われていたはずだ。そもそも、城の周りは全ての樹木を伐採して禿山にしていなければ、夜襲の時など隠れ場所を放置することになる。そんなことをするおバカ武将は戦国期を生き延びられるはずがない。いま現在で見る公園とその樹木を、全て取り払った姿を脳内CG?で再現する。それが城巡りの楽しみというか必要能力だ。

戦国期に建てられた城のほとんどは、徳川の治世になると廃城になっている。わざわざ城を壊した場合もあるが、大半の城は戦闘状態に備える必要がなくなり、朽ちて無くなるままになった。勝ち組の徳川支配下の城のいくつかは、あきらかに占領政策の道具として、あるいは権威誇示と居城目的で立派なものに建て替えられた。防衛施設から治世の象徴への転換だ。
しかし、負け組の城は破却されたものがほとんどだ。大阪城のように、豊臣氏製の城をわざわざ埋め戻し、その上に徳川版大阪城を再建したのは、豊臣家の滅亡を強く印象付けるための「占領政策」だったに違いない。
安土城のように織田氏が滅亡した後は寺院になったり、豊臣ゆかりの城は放置され消滅したりで、負けてしまえばただのゴミ山となった城も多い。巨大土木建造物が、治世者の権威を示す時代は戦国期と共に終わったのだろう。唯一の例外は日光東照宮くらいか。
ただ、江戸期になると関東以西の山で、巨木は既に切り倒し尽くされ、神社仏閣あるいは城などの巨大建造物は材料不足で建造できな区なっていたらしい。江戸城を作るためには、関東以北の木が使われたようだが、それで日本の巨木は在庫一掃されてしまったようだ。
樹齢何百年という立派な木が残っているのは、もはや古から続く神社の境内くらいだろう。流石に徳川家でも、その手の木はおそらく御神木だから畏れ多くて伐採もできない。
長篠城も歴史的役目を終えると、建造物はなくなり静かな場所になったようだ。あちこちで行われた復元城を建造するという話もないようでで、昔を偲ぶものは堀と石垣だけだ。
ここは三河・遠江と甲斐の衝突地点に当たり、徳川と武田の死闘が繰り広げられた場所だが、今は静かな地方都市で、昔の戦争など思い出すこともない「戦国 夢の跡」というにふさわしい。

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戦国 夢の跡 大垣城

大垣城と言われて何を思い出すかといえば、やはり関ヶ原の戦いで西軍の拠点となったことだろう。斎藤氏から織田氏へ支配が変わった統一美濃も、徳川期になり街道防衛目的だと思うが、細分化された小国群になったと記憶している。その美濃国で、関ヶ原から近江、京都へ抜ける回廊の拠点となったのが大垣だろう。ここから西に進むと左右に山が迫る狭隘な地になる。現代では意味がない「軍事拠点」も、当時は濃尾平野の支配権を確保するためには要の場所だったはずだ。

西国からの江戸防衛戦略が、徳川家康が行った領国の地域割で明らかになる。大垣城は琵琶湖脇の彦根城と共に、西国からの侵攻を防ぐための前拠点であり、最終防衛線は家康自ら築城した名古屋城になる。
そこを抜かれた場合は、東海道筋に巨大な築城は行われていないので、箱根が自然障壁を生かして活躍する最終防衛陣地として使われることになったはずだ。織田氏の行った方面軍活用による中央集権体制は攻めの軍政組織だった。豊臣氏は統一国家体制を構想する前に滅亡した。戦乱が終わり平和が訪れる時代に起こる大軍縮に耐えられなかったとも言える。そこで外征に解決を求めた。(膨大な軍を戦乱で消費しようとした面もあると推察するのだが)
強権を持って平和体制に移行しようとした徳川政権は、江戸という新興首都の防衛策として、全国の要衝を一族で支配した。その分布を見れば、偏執的と言いたいくらいの街道防御拠点だ。そういう視点で城跡の地政的要因を探るのは、なかなか楽しい。
ただ、大垣城は城跡を見る限り、防衛拠点としてより徳川政権の威力伝達という色合いが強い気がする。一面が平らな田畑が広がる農村地帯に突如そびえる天守閣を要する城は、今で言えばスカイツリー的な目立つ存在だったろう。
防衛施設としての面影は、再現された門の辺りにしか伺えない。彦根城とはその点がちょっと異なっているようだ。

お城の謂れは本丸内の資料館などで学ぶことができる。東海地方の城址はどこでも資料館が設置されているので、戦国期の歴史に興味がある人向けによく整備されている。東日本の城址では、東海筋が一番お勉強できる。逆に関東以北になると、戊辰戦争の動乱期後に政治的に廃城にされたり破却されたりしたせいか、資料館などの施設は手薄だ。源平の争い以降、延々と続く東国と西国の争いは今でもあちこちに爪痕が残っているということだ。
数年前だが、西国では明治維新150年といってあちこちで祝賀の展示やイベントをやっていた。同じ時期、東国、特に東北では戊辰戦争150年を振り返るという趣旨で、東北における戊辰戦争の意義を見直すというものだった。明治政府統治下では敗軍として発言できなかった東北の怨念が、一気に噴き上げた感じがあった。そもそも西国軍は維新などという言葉は使わなかったはずだし、自分達が革命軍などとも思っていなかっただろう。全体的な認識として武力による政権交代程度でしかなかったし、動乱の中心だった下級武士からすると、出世の機会、栄達の足がかりくらいだったはずだ。そういう勝ち組である西国軍に蹂躙されたはずの東海道諸藩だが、戊辰戦争時には各藩ともさっさと降伏したので、大きな戦闘が起きていない。だから、敗軍の城であったはずが諸城が今では歴史遺産として整備されている。東北諸県の城とはずいぶん違う。
そして大垣城では、徳川期に治世を担った戸田氏をほめている感じがするので、東国西国の争いには巻き込まれなかった中間ゾーンというところだろう。

再現された本丸を見るには、公園側の広場からの方がよく見えるようだ。お城の規模も影響しているのはずだが、大垣城の中は広々とした公園になっていた。神社や学校になってはいない。

考えてみれば、徳川期にあった名城、居城は全て徳川親藩譜代の領国に置かれていたはずだから、戊辰戦争後には潰されるのも当たり前だ。徳川系列以外で巨城を所有していたのは加賀国前田家の金沢城、陸前伊達家の仙台城(天守閣はない)、肥後細川家の熊本城くらいではないか。
当然、戊辰戦争(西国動乱)から起こった明治政府は、城に対する関心が薄かったはずだ。西国軍は、自分達の根拠地に大きな城がないところから出てきたものばかりだし、おまけに参加人員の大半は下級武士だから登城する機会も少なかっただろう。城に対する「何か」を持ち合わせていないものが大半だったはずだ。
いつの世もどこの世界でも、反乱軍や革命軍は伝統破壊に熱心だ。昔の権威を破壊することで、自分達の権威を「可視化」させようとする。
確かに平和な時代は「武装拠点」としての城は不要だし、城を解体すると良質な建築資材が入手できる。明治初期に日本中から城がなくなったのも無理はない。歴史に学ぶというのは、こういうことだなと、大垣城の再建本丸を眺めながら思っていた。

旅をする

椿大神社と都波岐神社

伊勢国の一宮は伊勢神宮だろうと思い込んでいた。だが、この椿大神社が伊勢国一宮であり、もう一つ同じ名前を持つ(つばき)都波岐神社がある。二つの一宮は山の神と海の神のような補完関係にあるようだ。古代日本で、大和政権中枢がある奈良盆地に東国から入る街道は、鈴鹿を抜けて山越えだった。現在の国道1号線と同じルートだろう。山間を抜ける道には、昔も今も差がありはしない。だから、この椿大神社の位置は首府に入る手前の交通及び防衛の要衝だったはずだ。また、伊勢湾を海路で渡るルートもあったはずで、それの抑えの場所が都波岐神社あたりの海沿いにあったのだろうと推測してみた。だから一ノ宮が二つあるのかもしれない。
ちなみに伊勢神宮は通称で、正式名称は「神宮」なのだそうだ。つまり、日本の神社の大元締めであり総本山みたいなもので、伊勢国を代表する神社というより大和朝廷率いる古代国家の中心という意味合いを持つということだろう。

そんなことを考えながら駐車場から参道を歩いていた。全国に散らばる一ノ宮でも有数の規模だなと思う。山の中に祀られている神社は、規模が大きいものが多い。山全体を神域とするほどでは無いが、少なくとも麓から登って行ったあたりは全域が神社の敷地になっている。
その大規模神社の中でも、椿大神社は一際おおきい。奈良にある大神神社より広いかもしれない。

ちょうど秋の祭礼の時期だったようで、参道周りには燈明というか明かりが並べられていた。古代から続くライトイルミネーションみたいなものだろう。現代ではほのかに感じる明かりも、昔はさぞかし眩いものに思えたのではないか。闇を照らす灯りとは、神がもたらす平和と安寧の象徴のような意味合いを持っていた、そんな気がする。

拝殿正面を見ると、やはり日本海沿岸の海神系統神社とは様式が異なるようだ。古代ヤマト王朝の統一様式みたいなものだろうか。巴の印は初めてみた。やはり神道本家筋である伊勢国では、神社巡りをしていても、いろいろと初めてに巡り合うことが多い。

帰り際になると山道に明かりが入っていた。もう少し遅い時間であれば、さぞかし幻想的な光景になるのだろう。明かりには寄進した方の名前が入るようだが、やはり皆さん願うのは、家内安全に商売繁盛らしい。これも古代から変わらぬ願いだろう。

お参りが終わって帰り際に気がついたが、神社の入り口までバスが来ている。これも一宮巡りでは初めての経験だ。定期バスが運行するほど参詣者が多いということもすごいことだが、観光客向けというよりは。バスを通わせるほど「神社」に詣でる地元民が多いということだろう。観光客的な参詣対応であれば、駐車場を整備すれば足りることだ。やはり伊勢国は「神道の国」なのだろう。

都波岐神社は、海岸に近い場所の住宅地の真ん中にあった。というより神社の周りに住宅が密集したという感じだろうか。道幅も狭く、車がすれ違うのも難しいような、生活道路というより抜け道と言いたいくらい狭い道だった。
確かに一宮は古くからある神社ばかりなので、神社周りはどこもみな同様に狭い道、通り抜けが難しい道に囲まれている。代々続く、そして長年暮らす人には、すっかり慣れ親しんだ道で格別問題も感じないのだろう。
ナビに誘導されて神社に向かうときにいつも思うことだが、一生に一度の参詣者としては、神社周りで駐車場を探しさまようことが多い。いやほとんど迷う。ヘタをすると15分程度は彷徨することが多い。この日も、駐車場探しで朝から時間がとられた。結局、見つけた駐車場は社務所の裏側だった。

一宮が複数箇所ある国は、おそらく古代日本において複数勢力が対抗していた地域、國だったのだと思う。例えば海側の民と山側の民のような、居住地の違い、つまり生計の立てる手段の違いは、地域差別を生む大きな意味合いがあったのだろう。漁師は海での安全と大漁を願う。山での暮らしは、穏やかな天候を望み、台風や旱魃などの被害を嫌うだろう。当然、漁民と農民とではお祭りする神様も違う。そんな太古の暮らしに想いを馳せるのも神社巡りの楽しみだ。

こちらの神社は、なんと見るからに現代建築で、一見するとあちこちによくある都市型の寺のようにも見える。神社のありようも、時代に合わせて変わるものだなと感じた。東京赤坂の日枝神社を見たときに思った「都市型神社」という言葉が脳裏に蘇った。同じ一ノ宮でも、ところによっては古代から続いているような巨大木造建築もあれば、コンクリート製現代建築もある。色々と違ってくるものだ。
神社の地域差を痛感したのは、次に回った志摩国一ノ宮を訪れた時のことだ。

街を歩く, 小売外食業の理論

ファストフードDXと古典的手法

所用があり朝早くから渋谷に出かけた。用事が済んで軽く朝食でもとろうと、久しぶりに和風ファストフードに入った。ツルッとうどんでも食べようと思った。券売機で食券を買ったあと席についてみたら、あれあれ?と気がついたことがある。
マクドナルドではモバイルオーダーアプリを使うことで、テイクアウト注文をするとカウンターに並ばず座席まで注文した商品を持ってきてもらう(店内配達というべきか)仕組みがある。コロナ流行の初期に開発完了して実用化されていたが、実際に使ったことはない。それが、この和風ファストフード店でも導入されているのに気がついた。
確かに、これは客にとっても従業員にとっても便利だろう。客の立場からすると席に座ってゆっくり考えて注文できる。券売機での注文は商品を選んでいる時に、後ろに次の客が並ぶと、無言のプレッシャーがかかるという致命的な弱点があるからだ。後ろの客を気にして慌てて注文を決めると、追加注文の機会が消える。店側からすると買い上げ点数増加、単価アップの機会が失われるマイナス要因になる。
従業員の手間を考えると、スマホアプリ注文では現金管理がいらなくなる。釣り銭の確保や現金の残高チェックなど雑用が消える。客とは非接触になるので注文時のトラブルも減る(少なくともスマホアプリの不具合は従業員のせいではない)。
客がどこの席についたかもわかるので、無駄に「いらっしゃいませー」などと言いながら客席管理をする必要もない。そもそも、日本語を喋らなくても商品提供が完結する。これは都心部の店舗で究極の救いだろう。

素うどんではなく、ハイカラうどんを頼んだ。いつも思うことだが、なぜあげ玉の入ったうどんが「ハイカラ」と呼ばれるのだろう。確か京都あたりでの呼び方だと思ったが。関西圏というか近畿というか、あの周辺の言語感覚は東国とは随分と異なる。東京を中心とした東国文化が優れているとは言わないが、近畿圏、西国の言語や食文化は、東国から見る時には異文化として捉えないと、無用な差別意識や優越意識を呼び込む。差別の発端は宗教や思想などではなく、食べ物や見た目で始まるものだろう。プロ野球やサッカーの贔屓チームの違いですら喧嘩が起きるこの国で、食べ物の嗜好が違うと文化差を言い連ねるバカたちがどれだけいることか。
ハイカラうどんと、たぬきうどんの違いを考ているうちに、東西異文化と差別意識に思いが至った。朝から高尚な知的活動をしてしまった。

異文化ついでに、おそらくほとんどの人はこんなことをしないだろうなと思う、「文化の果て」的行動をしてみた。牛丼に乗せる紅生姜をうどんの上に乗せてみた。紅生姜好きの衝動的行動だったが、あれれと思うほどうまい。牛丼文化とうどん文化の奇跡的合体だ、麺と丼飯のマリアージュだと、文化論考察の第二弾をしてしまったほどだ。
ちなみに大阪府南部では、紅生姜の天ぷらというものが標準で存在しているが、大阪北部になると見かけることが少ない。大阪の南北ですら食文化が異なるようだ。人と人が仲良く暮らしていくためには、異文化探索は重要だなと改めて思う(笑)

朝のハイカラうどんを食べたあと、渋谷駅に向かって歩いていて見つけた立ち食い蕎麦屋の店頭ポスターにまたまたびっくりさせられた。左側のつけ汁そばは「酢辛」だから、これはラー油そばの進化系だろう。「酸辣湯麺」の応用なのかもしれない。豚肉とニラというパンチのある組み合わせだから、明らかに「みなとや」インスパイア系を上回る進化だ。
ところが、それよりもびっくりなのが「時価の松茸そば」だった。時価って何と言いたくなる。鮨屋のマグロでもあるまいし…… この二枚のポスターでわかるのは、立ち食い蕎麦は異形な方向へ進化しているようだということだ。
原材料高による値上げの欲求と高級化路線は相性が良い。松茸蕎麦は、その現実的な対応ではあるが、一体どれくらいの注文があるのだろうか。逆に左の新つけそば、一杯五百円というのはなかなか巧妙な作戦で、盛りそば380円や天ぷら蕎麦450円?(きちんと値段を確認してはいないが)を、500円に引き上げる効果は明らかにある。
なんだか、古典的なマーケティング・テクニックだが、意外とこれが効き目がありそうで、うどんファストフードのデジタル対応と比べて、あれこれ考えさせられてしまった。
早朝の渋谷は、なんとストリートで学ぶ、発見と考察の研究機関みたいなところだった。