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国境で越前手前の蕎麦

普通に美味しい山菜そば 乗っている山菜は東西同じもののようだ

柴田・羽柴の織田氏後継者争い決戦の場、賤ヶ岳のそばに余呉湖という小さな湖がある。某国営放送のぶらぶら地域を歩き回る番組であれば、「おお。この湖は噴火で琵琶湖から切り離されたカルデラ湖で………」などと言われそうな地形だった。(本当にカルデラ湖かどうかはわからない)
ワカサギ釣りでにぎやかになるところらしく、天女の羽衣伝説もあるようだ。その湖水のほとりに観光施設があり、いわゆるビジターセンターになっている。そこが名城スタンプの設置場所で、こんな機会でなければ一生訪れることもないような観光地だった。確かに名城スタンプの設置場所は、城のそばにはないことも多い。山城の跡のようなところは駐車場もなく歩いて登山するしかない。その登山客の休憩場所、トイレ脇にスタンプが置かれていることもある。
そういうハードなスタンプ場所に行くことは、城に対する地形的理解が深まり、肉体的鍛錬もできるというメリットは「ある」。が、決して望んでそんなことをしたいわけでもない。だからスタンプ設置場所が、それなりの施設(平地)であるとホッとする。歴史博物館やお城資料館のような展示施設に置かれている場合は、できるだけ時間をとって観覧するようにしている。
しかし、中には鳥の巣箱みたいな箱の中に、扉を開けるとスタンプがぽつんと置かれていることもあるので、そんな時は弁当持参でピクニックに行くくらいの気概が必要だ。ここは、土産もの販売所と食堂が併設されている「立派な施設」だった。食堂からは湖の景色も楽しめる。
この湖は越前と近江の国境にあたるが、所属は近江だ。現在は滋賀県長浜市になる。つまり、あの有名な越前そばの場所ではない。だが、気分的にはほぼ越前だし、「うどん」の場所ではないだろうと、山菜そばを注文した。関東の醤油で真っ黒と形容される色濃い蕎麦つゆではなく、透明感のある淡い色の蕎麦つゆは、やはり西国に来たのだなという感じがする。

メニューをみてあれこれ思ったが、まず値段の安さが目立つ。場所が場所だけに、観光地値段でも良さそうなものだが、どうも一般的な食堂と比べて2ー3割安い感じがする。おまけに、注文が入ってから調理する普通の食堂スタイルだった。
メニューの中で興味を引いたのが「おかんのカレー」で、味はなんとなく想像できる。それもどろっとした黄色っぽいカレーではないだろうか。そして150円足すとカツカレーになるのか。そばに追加して「カツそば」を注文したくなる。
興味深いのは、わざわざ『白ごはん』と書いてあることで、ライスではない。白がつくということは、味付きのご飯もあるのかと思うが、それはないみたいだ。
きつねうどん・そばはあるが、たぬきうどん・そばはない。カレーうどんと肉うどんはうどん限定らしい。親子丼、牛丼はあるが、カツ丼はない。しかし、かつ定食はある。
文句をつけるつもりは全くない。おそらく東西食文化の違いが、このメニューに綺麗に現れているなと思っただけだ。
久しぶりにきちんと昼飯を食べたような気がする。美味しい蕎麦をごちそうさまでした、と食堂のおばちゃんに言って店を出た。背中で聞いたのは、お江戸とは違うイントネーションでの「ありがとうございます」の言葉。遠いところに旅して来たのだなという、小さな感動だった。越前そばは、その後にしっかりと食べました。

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越前国 一ノ宮

越前国一ノ宮は大きな神社だった。敦賀は古代から日本海沿岸航路の要衝であり、京都から北陸道を目指すとき、陸路では最初の入り口にあたる。海路と陸路との結節点でもあった。瀬戸内海航路が古代日本のメインルートだとしたら、日本海ルートは最大のサブルートであり、日本海沿岸諸国こそが大和朝に対する最大脅威だったはずだ。北陸統治は初期大和朝廷にとって重要な戦略課題だったと言える。
その北陸統治の出先機関が敦賀に置かれていたのだから、一ノ宮は大和本国式神社でそれも大きなものでなければならなかった。その名残は鳥居前に置かれた官幣大社と記された柱でわかる。ただ、官幣大社の称号は大和朝廷のものではない。明治初期に制定された国家神道における階層付の名残だ。古代大和朝で統治機構の一部として活躍した大神社は、延喜式による神社一覧に設定されているが、官幣社とはあまり関わりがないようだ。
しかし、「官幣大社」に認定された神社は、古代から日本海沿岸地域の最重要拠点であったことに違いはない。

祭神の系譜を読めば、気比大神が地元の神、つまり日本海沿岸国家の伝承神であり、非征服国家の主神であったようだ。そして大和朝の統治が進むにつれ大和系神族が合祀されていく。古代日本の征服と統治と融和の歴史がよく見える。
地域の主神が、その他大勢の神になっていくのは何世代にもわたる統治と順地が必要だっただろう。大国出雲ではそれに逆らい続けていたから、出雲大社の独特さが残せたのではないかと思っている。まあ、それも明治政府による国家統制された神道という強化策で、日本の「地の神」は大和系神族の一味にされてしまったという感が強い。
江戸期以降、宗教の統制が緩んでいた時期が長かったせいか、明治政府時代の狂信的とも言える国家宗教がかなり異質に見える。その後、敗戦で国家神道が全否定されたこともあり、今の日本では「歴史」と「宗教」を捉え直すことすら行われていない。
大多数の一般人にとって、神道とは結婚式の時と七五三のお祝いに使われる伝統イベント主催者程度の認識しかないだろう。信ずる神の違いで弾圧されたり、非国民扱いされたりする暴虐の時代よりよほどマシだとは思うが。
よく世間の話題に上る「閣僚の靖国神社参拝」についても、隣国からのクレームがなければ、誰も関心を持たないだろう。まさに信教の自由だし、個人の信念の自由だ。隣国の宗教問題に口を出すのは、古代から中世にかけて起こった歴史的事件でしかない。
現代世界で問題なのは、隣の国がどの神を信じているかではなく、どんな兵器を持っていて自国の脅威になるかでしかない。ただ、それを「宗教」と絡ませようとする国があり、問題をややこしくさせている。
というように、神社の縁起を読むと、国際関係まで考える羽目になるのだが、現代日本人的にはもう少し軽い態度でお参りしても、神様は怒りはしないだろうと思う。

拝殿も立派だった。やはり、一宮はこれくらいの大きさであってほしい、というのは個人的な勝手な思いだが、どこの一ノ宮も歴史が長いだけにやはり地域の方に尊崇されている。
まあ、神社も見た目が大事なのは今にはじまることではない。神代の昔から、大きくて広い神社ほど大切にされていたのだ。屋根の形を見ると、どうやら日本海沿岸方式とはちょっと異なるので、ヤマトと越の両タイプがミックスされた融合型なのだろう。

ここにお参りした時期は、日本全国の神様が出雲出張されているはずで、お参りしても神様は不在かなとは思ったが、出雲は越前、若狭から案外近いので日帰出張している可能性もありそうだ。とすると、やはり真面目にお参りしなければな、などと馬鹿なことを考えていた。

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安土城を学びましょう 

JR安土駅のそばに「安土城城郭資料館」という立派なものがある。駅の出口を出るとすぐ脇にあるので、この手の博物館としては珍しいとても便利な場所だ。織田信長というよりも「安土城」に焦点を絞り切り、小ぶりながらキレの良い歴史博物館だと思う。
どうも地方にある歴史博物館は、そこに地域の歴史的遺物をなんでも押し込めてしまう傾向があり、整理が悪いというか何が言いたいのかわからないものが多い。夾雑物の多さを史料の豊富さと勘違いする「学芸員」が多いからなのかもしれない。あるいは、歴史的センスのない、派遣されてきた腰掛け管理職の横車という可能性もある。
個人的に思うことだが、その混乱が少ないほど、観覧者は理解がしやすい。その点、この資料館は実に素晴らしい。「安土城」一択だからだ。

安土城の再現モデルを見ると、なるほどこんな城だったのかと、感覚的に分かりやすい。ただ、こんなに真っ黒な城だったのだろうかという疑問も残る。たしか、安土城はかなりきらびやかな外観、内装だったと読んだ記憶があるのだが。真っ黒がルックスとして良いとされたのは、江戸期に入ってからではなかったか。
この黒塗りの壁と瓦では、山の中に溶け込んでしまうだろうと疑問が湧く。開城時には信長自身が入り口で入場料を取って領民に見学させたという、賑やかさというか晴れやかさはどこに行ったのだろう。

この安土城再現モデルが実に素晴らしいのは、係員の操作で二分割され(モーターで動く)内部が見えることだ。驚くことに、エレベーターまであったらしい。信長はこの屋上階付近に居住していたというから、階段では恐れ多いということだったのか。エレベーターの動力は、当然ながら人力だったのだろうなあ。
しかし、追い詰められたとはいえ、自分の親父が建てた立派な城を焼いてしまうのだから、信長の息子はやはり後継者にはなれない凡庸な二代目未満だったのだ。(二代目は信長と一緒に京都で敗死した)

地味に素晴らしい資料が、この安土城周辺のジオラマモデルで、当時の琵琶湖湖岸線を含めた、地政学的要素が一目でわかる。左が安土城なのだが、ここを攻めてこようとすると、右側の山上にある観音寺城から腹背を取られる。琵琶湖を船で渡って安土山西岸や北岸に取り付いても、それは敵前上陸作戦になり、当時最強の砲師団を持っていた織田軍に山上から撃ち降ろされるので、現実的には攻略が難しいだろう。そもそも琵琶湖周辺は織田領なのでどうやって大量に兵団輸送をする船を調達するか(造船するか)を考えれば、全く実行が無理な作戦になる。
普通に考えれば、当時の日本で最大級の防衛拠点だったはずだ。琵琶湖水運を使った用兵基地として使われていただろうし、織田信長直営の常時軍もいたはずだし、この安土城から信長を引き出さない限り、彼の治世は終わるはずがなかったのだが。そういう意味で、安土城から引き摺り出した明智光秀は反乱軍として賢かった。

入り口には信長愛用の南蛮具足が置かれている。これは、もう少しなんとかならないだろうか。せめて人型マネキンに着せるとかできないものか。そこがちょっと惜しい気がするが、ここは「織田信長資料館」ではなく、「安土城資料館」なのだ。だから、信長すら添え物というのであれば、それはまた正しい姿勢かもしれない。

初めて訪れた安土は、こじんまりとした地方都市だった。今では彦根や近江八幡のベッドタウン的位置付けにあるのだろうか。城巡りをするといつも思うことだが、お城とは戦国時代にはじけたウタカタの夢、その跡というのに一番ふさわしい場所だ。

駅前から安土城まで歩くと2-30分かかるようだが、次に来る時は戦国足軽の気分で歩いていくことにしよう。せんご

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安土城 首都だったはずの場所

安土城跡に初めて来た。織田信長好きとして一度は訪れてみるべき場所だとは思っていたが、やはり順番というものはある。信長の拠点が変遷した順番に、小牧城、岐阜城、安土城と信長のライフラインに沿って訪れるべきだろうという、変なこだわりだ。ちなみに清洲城は例外として残してある。

安土山に沿って地形を生かした作りの安土城は、城の入り口に手下武将の住居を配置し、強固な防衛線を構築していた。安土山の麓からみれば、重厚な縦深陣地そのものだ。その武将の家(実質上の防衛砦)の手前が琵琶湖に面する平地になっている。今ではすっかり田圃と畑になっているが、当時は琵琶湖の湖岸線となっていた。要するに巨大な天然の水堀のようなものだ。現代の地形から考えると誤解してしまうが、安土城は巨大な要塞という側面が強い。まさに、天下布武の象徴だろう。水際防衛が可能な交易と用兵の一大拠点だった。それも莫大な資金がなければ築城できない戦略立地だったはずだ。
安土山の隣にある山にも、織田氏後継者である信忠の城があり、親子二人で巨大山城群を押さえていたのだから、戦国期最大の防衛拠点だったはずだ。これに匹敵するのは、城内に門徒を居住者としてを抱え込んだ「石山本願寺」城砦群くらいだ。
全国に割拠する戦国大名勝ち組は、近隣諸国を攻めるのに忙しく、金も足りなかったのか、居城を大要塞化できたものは少ない。北条氏の小田原城は、関東一円の支配が叶ったからこそできた。武田も上杉も本拠地は意外と簡素な城しかない。
大きな城を作るには金がかかる。城作りは金持ち大名の道楽と言っても間違いない。周りの国とドンパチやっている最中は、兵士を雇い弾薬をそろえる方に資金が回る。
安土城を作った信長ですら、城造りに回す金は足りなかったようだ。安土転居前の岐阜城は、山の上にある優秀な防衛目的の城だったが、その規模は驚くほど小さい。小牧城は砦程度の小規模なものだった。やはり成り上がり・出世すごろく的に、成功すると城が大きくなる。
巨城といえば、徳川期に作られた徳川製大阪城、名古屋城、江戸城が挙げられる。この徳川城砦群を見慣れていると「城の規模感覚」がおかしくなる。戦国期の最終勝者だからできた大盤振る舞いだ。それも、金のかかる基礎工事は全て支配下に入った元・敵将に貢がせた物で、自分の懐は傷まず、相手の懐は大打撃という一石二鳥の大技だ。
そんなこともあり、現存する戦国期の城・城跡は意外と小ぶりだ。その中で安土城は飛び抜けて大きい。

この安土城の周りが、織田日本の首都になるはずだった場所だ。どうも信長は京都を都とするつもりはなかったようで、東西の要衝という点と琵琶湖水運を活用した軍事拠点として、安土城が織田日本の首府になるはずだったと思う。
その後、西国討伐が長引けば大阪城(石山本願寺跡地)に臨時首都が移る可能性もあったが、それもあくまで戦時限定拠点だっただろう。すでに瀬戸内海運を抑えるべく「堺」は調達済みだった。西日本を抑える拠点として、播磨(平清盛が福原に本拠を構えたように)に新首府を移したかもしれないが、その頃には信長も流石に寿命が残り少ないはずで。そうなったとしても、織田家本拠地はこの安土に残っただろう。

現在は門で閉じられた入り口だが、当時は安土城大手門までまっすぐ伸びていたらしい。最もすぐ手前が琵琶湖になっているのだから、安土城を攻めようとしても敵前上陸しなければ攻略のしようがない。陸路で攻めるには、信忠の抑える城の真下を通る必要がある。織田信長近衛軍は常備兵員数も十分で、最新兵器の鉄砲も武田を滅ぼした後は、溢れていたはずだ。おまけに安土山の裏側には織田軍専用軍港も持っていたのだから兵站を遮るのも難しい。この城を守りきれなかった信長の息子は本当にグズだったのか、手下がお馬鹿すぎたのかといいたくなる。

案内板がやたらと詳しいのは良いことだが、これを読んで理解するのは相当な「戦国知識」が必要で、その辺りは観光施設として見た場合、どんなものだろうかという気もする。

滋賀県と岐阜県で信長ゆかりの地の張り合い合戦みたいなものがあるのかという感じもしているが、愛知県はそれに参加していないようだ。尾張は城で持ついうが、名古屋城は家康直下の城だし、やはり江戸期は徳川に占有されていたためだろう。尾張が信長政権発祥の地とは今でも言いずらいのかもしれない。滋賀県でも有名な城は安土城ではなく彦根城だから、同じ県内でも「推し」武将が微妙にねじれているのかもしれない。岐阜県は信長推し一本で行けるところが強みだ。
彦根城が移る前の佐和山城は、石田三成の居城だったし、琵琶湖西岸の拠点であった坂本城は明智光秀の所領だった。琵琶湖周辺は、没落武将の消滅したお城がオンパレード状態で、その筆頭が安土城かもしれない。

JR「安土駅」にある安土城資料館では、お城の再現模型もあり、安土を学ぶには便利な場所だ。その話は別項で。

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若狭一ノ宮

城巡りをしていると、城址という言葉がぴったりとあう「城の跡」がある。古城跡とわざわざ言いたくなる風情があるからだ。ところが、それと異なりしっかりと整備もされて観光地化された「城」もある。国の記念物やお宝に指定されて、おそらく築城当時よりも賑やかしくなっている。
同じように、一ノ宮巡りをしていると、今でも地域最大の信仰拠点となり賑やかな「大きい神社」もあれば、昔の街道筋に建てられて今ではすっかりおとなしくなった「古宮」とでも言いたくなる神社もある。
この「若狭国一宮」は、まさしく典型的な古宮という感じがした。境内がただただ静かで、凛とした気に包まれている。参詣する者もほとんどいない。しかし、境内はきれいに整えられている。

これぞ古式ゆかしい神社だろうと思って境内に入って行ったら、おやまあ、なんとも今風の看板が見えてきた。パワスポ宣言だった。なるほど、これは……………確かに若い方向けの親切なご説明だが。

本殿に向かう道は実に清潔な神社の境内なので、なんだか「ぱわすぽ」とひらがなで書いてほしい感じがする。カタカナで「パワスポ」だと、だいぶ印象が違うと思うのは、個人的な感性の問題だろう。

門を抜けると拝殿がある。その背後にある本殿は、これまた当たり前だが、隠されていてよく見えない。

その拝殿の手前に、学習コーナー?が設置されていた。これは、神社巡りをしていて初めての経験だ。鳥居の手前あたりに、神社の由来やら祭神に関わる説明が置かれていることは多い。拝殿までの参道が長ければ、そこに境内の案内板があったりする。出雲大社のように拝殿・本殿に行く手前に、たくさん取り巻きの「お社」が置かれていることもある。
しかし、お参りする前に学習させる専用場所があるのは、すごいことだ。神様というより宮司の熱量が違うらしい。

千年杉が本殿脇にそびえていた。巨木という形容詞が似合っている。木も千年生きれば神様になるということで良いのだろう。巨木揃いの伊勢神宮でも樹齢千年という木を見た記憶がない。
これはなかなかすごいものを見せていただいた。

神仏習合が進んでいた江戸期には、衰退した神社も多かったようだが、明治になり国家神道が始まると、神社のランキング制度も整備され「古の神社」が軒並み復活した。その時の面影みたいなものが感じられる。
ヨーロッパや中東にある一神教の教会は石造りが多いので、百年単位で続く建造物だが、日本の神社は木造であり、建て替えが頻繁に起こる。遷宮は再生と復活の象徴みたいなもので、長く続くことに執着している風はない。潔さ、みたいなものが「神道」の本質の中にあるような気がする。
ただ、古くからある神社に対して「古びた」という形容をすることもない。「ふるい」ものと「新しい」ものが共存している世界が、神社の中にはあるのだと気付かされるのは、こうした「古くてきれいな神社」にお参りした時だ。宗教心とは少し異なる。原初からの「人に在らざるもの」を畏れ敬う気持ちとは、こういうことなのかもしれない。

日本海沿岸の古王国で敬われてきた祭神と出会う機会は、東国に住んでいるとなかなか少ない。だから、こんな西の場所にわざわざ来ることになるのだな。全国に「系列神社」を持つ大神ではなく、その地域限定で敬われる神様と会うのも貴重な体験だろうとは思うが、そこがパワスポ扱いになると、ちょっと微妙な気分になるのも確かだ。

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琵琶湖の横でイカを食べた

近江八幡という街に来たのは初めてで、地理感覚も全くないまま、駅前に彷徨い出てみた。晩飯をどこで食べようかという、いつものお気楽な夜散歩だった。ホテルに行くまで近江八幡市郊外から中心地に向けて車で走ったので、やはり郊外型展開をしている小売、飲食店が多いのはわかっていた。
この街が典型的な車社会の地方都市だとすると、駅前はあまり期待できない。地方都市で駅前繁華街に次ぐ2番目の飲食店候補地は、市役所周辺と相場が決まっているが、市役所はホテルから見て駅の反対方向にあった。あきらかに、市役所も車社会対応立地にあるということだ。当然、市役所周辺に居酒屋、飲食店はありそうもない。
J近江八幡駅はJRと近江鉄道の駅が併設しているので、乗降客数は多いはずだ。小規模であるがターミナル駅であり、そして商都近江八幡なのだから、それなりの繁華街はあるのだろうと期待していた。
結果的に分かったことは、この街は南北に広がる琵琶湖東岸でベッドタウン化しているようだということだった。首都圏で言えば、都内ターミナル駅から私鉄で30分程度の町という感じだろうか。全国チェーンは大体揃っている程度の賑やかさがある。そんな駅前をうろうろして、結局は駅に一番近い店を選んだのは、単純に店名が気に入ったこと。そして、看板にある「肉炉端」の文字が気になったことだ。隣に焼き鳥屋があったら、そちらにしたかもしれない程度の軽い動機だった。

琵琶湖周辺で地のものと言ったら鮒寿司くらいしか思い出せないほど、馴染みのない土地だ。それでも日本酒は地場にある酒蔵のものを置いていた。すかさずそれを注文することにした。近江の酒を飲むのは初めてだった。

最近、飲むことが多くなった熱燗を注文してみた。やはりというか、またかというか、燗酒の温度が熱すぎる。おそらくレンジアップでお燗をするのだろう。それが悪いとは言わないが、銚子にいれる酒の量と温度はほぼほぼ一定なので、レンジアップの時間設定をもう少し考えてほしい。
この店だけに限らず、おおかたの居酒屋では熱燗が「超熱い」温度で出てくるので、辟易しているのだ。これは日本酒を熱燗で飲む人が減ってしまった弊害だなと思う。
ちなみに熱めのお茶は60度を超える。それはフーフーいって飲む熱さだ。ごくんと飲み込むのはしんどい。しかし、超熱燗はその熱々お茶に近い温度なのだ。日本酒をフーフーしながら飲むのは、あまりに情けない。(フグのヒレ酒は例外的に熱い酒だが)

食べ物のメニューを見てみたが、やはり「近江国名物」みたいなものは見つからない。まあ、駅前居酒屋に入って観光客が食べたいようなご当地名物を探す方がおかしいと言えばおかしい。北海道であれば、毎日イクラや蟹を食べているはずだという思い込みみたいなもので、実際にはそんな食生活を送る現地民はいない。観光客の誤解というか「あるある」
地元の客が普通に食べているものの中に、何か珍しいものがないかと探してみたが、やはり見つからない。普通の居酒屋メニューが並んでいた。それに文句をつけるのもおかしなものだ。
その中になぜか、名古屋名物だと思っていたどて焼きがあったので、それを注文した。味噌味が普通に美味い。食文化の東西分岐点みたいな言葉が頭の隅を掠めたが、それは無視することにした。

次に本日のおすすめと書いてあった、イカのお造りを頼んでみた。(ちなみに西ではお造り、東では刺し盛りと呼び方が変わるようだ)琵琶湖でイカが釣れるはずもないから、おそらく北陸からくるのだろう。ひょっとすると大阪湾からかもしれない。海のない滋賀県で、海産物を食べるというのもこれまた奇妙なものだが、現地で暮らす人にとっては普通の注文だろう。
筍のような土器の上にイカが盛られているのは初めてみた。これはこれで確かに美しいという気もするが、イカに見えないというよりイカらしくないと思うのは文化的偏見かもしれない。琵琶湖のほとりの駅前居酒屋で、まるで新宿や池袋あたりで飲むような感じがした。これは、日本社会が均一化している象徴だな、とちょっと寂しくなった。
酒も肴も普通に美味いのだが、旅先だと変な感傷を持ってしまうのは、旅の多い人生を送ってきた代償のようだ。そのせいか、いつもであれば一杯やった後、駅前でご当地ラーメン屋を探すのだが、今回は大人しくホテルに引き上げた。
ちなみにこの店の看板メニューはステーキだった。もし機会があれば、あのスタミナステーキを食べてみたいものだ。そう言えば、近江牛って有名だったような。

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近江国一宮で考えたこと

近江国一宮は琵琶湖南岸、京都に程近い場所にある。古代日本の中心が奈良から京都に移って行った頃、琵琶湖周辺から尾張にかけての地域は大和朝廷の勢力限界だったようだ。大和朝成立時には、尾張の豪族連合が支援したという説を読んだことがあるが、この地域を回ってみるとなるほどなと思う。
今回、愛知県東部と三重県を車で走ってわかったのだが、尾張・伊勢・近江は意外と近い。おそらく首都である奈良や京都と、徒歩2−3日で行き来する朝廷直轄地、支配地域だったのだ。
その首都周辺で防衛拠点を担った、あるいは東征の進発拠点になったのが、琵琶湖南岸であったと考えられる。そこに近江一宮が置かれたのだろう。
この先の場所から東に進むと、関ヶ原近くで美濃国一宮があり、そこから徒歩一日もかからない場所に尾張一宮がある。古代日本の大動脈は瀬戸内海路だったが、陸の要路は奈良から伊勢に抜ける山道(現在の国道1号)と琵琶湖東岸から関ヶ原を抜け尾張に至るルートだった。それが東海道と中山道だ。この神社は中山道方面の拠点だったということだ・

その近江一宮「建部神社」の参道に、何やら今風な看板があった。神社の由来をイラスト物語で解説している。妙にリアルな現代イケメンと現代風美女イラストに、なんと感想すれば良いのか微妙すぎる。若い人向けには「映え」狙いの神様として受けそうだ。
しかし、ルックスより重要なのは、祭神が「日本武尊」と「大己貴尊」という、これまたなんとも微妙な神世界のバランスをとったものだ。征服王朝のシンボルであるヤマトタケルとあわせて、出雲系神族のボスであるオオナムチもまつるという。古代大和王朝の占領政策が露骨に現れている感じがする。やはり近江国一宮は王城の地に近いだけあり、軍事拠点でありながら政治都市だったのだと思わせる。

ドローン空撮の写真もあり、おまけにイラストを使った大津絵変化キャラも登場しているので、建部神社はなかなかビジネスセンスがある「オヤシロ」らしい。個人的には、一ノ宮が賑やかしいのは良いと思うので、若い人向けにパワースポットとしての人気を盛り上げる努力は是非進めてほしいものだ。神社の維持にも金はかかる。寄付だけではなかなか大変だろう。

そんな参道を抜けると、正統な神社と言っては失礼だが、実に伝統的な建築物が登場する。

拝殿も屋根の形からすると、正統大和朝系のもののようだ。心を沈めお参りしようという気になる。神社の屋根を見て厳かな気持ちになるというのも変なものだが、神社や寺をみて「美」であったり、「安らぎ」などを感じるようになるまでにはずいぶん歳をとる必要があった。高校生の修学旅行でこの感覚を理解しろというのは、「ヒト族」の生理として無理だろうと思う。

ちなみに、この神社の駐車場は社務所の裏手にある。大変便利な場所なのだが、入り口が分かりにくい。おまけに、再三書いているが、古いナビでは神社の裏手にある山沿いの住宅地に連れて行かれた。どうも同じ被害に遭う人は多いようで、住宅地のあちこちに注意書きが貼られていた。地図屋が悪いとは言わないが、ナビ制作会社はロジック見直したほうが良いと思うぞ。そのうち、みんなGoogleマップしか使わなくなり、車載ナビは音楽業界のCDみたいな「存在するが売れない」商品になってしまう気がする。

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彦根城 残念ながら入り口まで

おそらく琵琶湖周辺で最大の城は、この彦根城だろう。琵琶湖湖岸に築城され、水運の拠点であり、東近江の防衛拠点でもある要所だ。大阪から琵琶湖、東海道、中山道と江戸へ続く徳川防衛ラインの第一次防衛陣、琵琶湖決戦場の要だ。
城も大きいし、ここを担当したのは徳川家臣でもトップ4の一角を占める井伊氏だ。武田のあとを継ぐ赤備は、戦国期屈指の武装集団だった。などなど、お城を訪れる前の基礎知識はそれなりにある。予習の成果が出ていたのだが。

お城の記念館が開くのは9時だということは下調べでわかっていた。だから、開館前に城内を早朝散歩をしようと意気込んで行ったのだが、なんと城内に入るところが「有料ゲート」になっていて、開館前は入れない。結局、日程の都合上、外回りをちょっと歩いておしまいになってしまった。

あちこちの城巡りをしてきたが、この彦根城ほど、何もしないままで立ち去ったところはない。残念無念というしかない。もっとたっぷり時間をかけて見てみたい。某有名な陸軍大将のように、I shall return と捨て台詞を残して城入り口から立ち去る羽目になった。次回は、春先に鉄道旅で戻ることにしよう。 彦根の町は賑やかそうだし、たっぷり時間をとって「観光旅行」してみたい。

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津城・松坂城・田丸城 三重の三名城

津城跡を見ると堀の広さが目立つ

三重県の名城シリーズを一気に回ることにした。最初は「津城」だ。県庁がある津市では、築城名人といわれた藤堂氏による「津城」跡がある。場内はお決まりのように公園になり変わっている。広い堀と高い石垣だけが当時を偲ぶものだ。津城は典型的な平地に建てられた平城だが、それでも統治というより防衛のための拠点だったのだろうと思う。特に、堀の幅の広さが圧倒的だ。
城を見る時には、現在の市街地ではなく、当時の海岸線を想像して考えなければならないのだが、やはりこの地は伊勢湾に面した港湾都市であり貿易拠点だったのだろう。そこに睨みを効かせるには、港の近くに城が必要だったのではないか。
伊勢と尾張境界地で怒った長島一向一揆を収束させた後でも、伊勢北部は織田氏にとって物騒な地域だったはずで、その前線に反乱鎮圧拠点を作る必要があったということだろう。

2番目のお城は、松坂城だった。この城は戦国後期の築城らしい。平野部にぽこんと突き出た丘の上に建てられている。明らかに防衛拠点としての立地だ。敷地も広い。山の地形を生かした立体的な構造で、規模も大きい。やはり伊勢は反乱の地という認識だったのか。
ただ、江戸期には紀州藩直轄になったようで、これは西国からの侵攻路を塞ぐという意味合いもあったのではないか。福井から名古屋、津と南北に続く徳川・松平系城郭を西国一次防衛線と見ると、徳川政権が西国の反乱をどれほど危険視していたか推測できる。和歌山から津にかけて、徳川家支配にしたことで、紀伊半島周りの海路封鎖が可能になる。どれだけ西国を脅威に感じていたかがわかるが、それでも2世紀も経ってから西国動乱は起こった。いや、これだけ防衛戦略を立てていたから、2世紀持ったと考えればそれなりの意味がある。

松坂城を見て思うのが、やはり金持ちの殿様が作る城は立派になるという典型的な例だ。まず石垣の厚みが違う。また、丘の南北両面を使った立体構造というのも金がかかる作りだ。松坂は戦国後期から江戸初期にかけて商人の町として成長を始めたらしく、文化水準も高い「豪商都市」だったようだ。
戦乱は破壊しか生まないが、平和は文化を生む、という教訓が実現した場所だし、近江商人と並ぶ伊勢商人の拠点でもあったらしい。交易路は海路が中心だったので、今の東海道ベルトラインとは違う場所が栄えていた実例だろう。

石垣の厚みと高さは城の建設値段に直結する要素だ。大きな石を使えば移動に金も手間もかかる。そもそも大きな石は山の中にしかない。それを平地まで人力で持ってくる。金がかからないはずがない。石垣を作るのに小さな石だけでは防御の能力に限界がある。殿様が金持ちだったか、その辺りも城の見どころなのだ。松坂城は残っている石垣が多すぎて、丹念に見て回るととても時間がかかる。そのせいで、昼食に食べるはずだった松坂牛がコンビニランチに化けてしまった。残念至極、無念だ。

三つ目の城は、伊勢国南端部に残る田丸城だった。ここも松坂城と同じ平山城だった。ぽこんとした小さな山というか丘の上に建っていた。山の上に城跡を見に行こうとしたが、なんとそこは学校になっていた。今時のご時世で、平日昼間にノコノコとよそものオヤジが学校に入って行けば、間違いなく不審者、いや、犯罪者扱いされる。学校の正面玄関手前まで行って、引き返すことにした。
しかし、その学校に登る道も車はすれ違えないほど幅が狭い。注意して運転しないと脱輪しそうな道幅だった。やはり、伊勢国の道は軽自動車向きだとしみじみ思ってしまう。

お城の跡は学校になっていた

石垣は、それなりに大きな石を使ったものだった。今は石垣の上に建造物がないから、単なる低い塀にしか見えないが、当時はこの上に矢間を備えた防御壁が立っていたはずだ。曲がりくねった石垣の間を通ろうとすると前後左右から矢を射かけられる。計算尽くされた構造なのだが、今では車で通るときに、大型車だと面倒な切り返しも必要になるクランク道路だ。時代によって道の意味も変わる。

城巡りをしていつも思うことだが、石垣の上に大きな木を植えるのはやめてもらいたいものだ。城跡を保護するというのであれば、公園としての植樹など勘弁してよというもので、もし木を植えるなら、その意味をきっちりと説明してほしい。史跡保護という観点で言えば、全国の城跡は、明治政府による暴政、城の破却政策の結果、原型をとどめていない。それが100年も続き、勝手に生えた木が大きく育ってしまい、まるで昔から城には木を植えていたような勘違い?が起きているのではないか。少なくとも殿様が本丸周りに居住していて、そこに庭園を作っていたという場合以外は、城の中に木を植える必然性はないはずだ。

三重県にある三名城は、それぞれ築城された時の目的や用途が違うので、規模も立地も異なる。それを日帰りで見比べることができる三重県民はなかなかの歴史遺産持ちだと、ちょっと羨ましくなる。
琵琶湖周辺と京都周辺は戦国期の大規模騒乱地区だったせいで、名城跡が多い。そこからちょっと離れた場所に残る城址も、畿内の政治闘争と関連で見てみるとなかなか面白い。歴史的な意味が築城の謂れにあるので、もう少し歴史のお勉強をしてからこの三名城を再訪してみたいものだ。

旅をする

多気北畠城館跡 恐怖ドライブ

織田氏の領国拡大初期に征服された伊勢国。その親玉だった北畠氏の居城跡に行ってきた。織田氏の伊勢侵攻は一向一揆と合わせて語られることが多い。ただ、伊勢国で言えば、北部にあった小豪族の里「伊賀」が忍者関連で話題になることも多く、伊勢国国主「北畠氏」の物語というのはあまり目にしない。
その北畠氏の拠点に行こうとして車を走らせていたら、どんどん山奥になっていく。なぜ、こんな山奥に拠点を置いたと言いたくなるほどだ。埼玉や群馬の山際にある山村地区と比べても、その秘境ぶり?は、群を抜いている。ただ、そこに至る3桁国道自体は相当に整備されていて、走りにくいほどでもない。
城跡周辺には道の駅もあったので、それなりの通行量があるということだ。

城は山の上にあったようで、麓には「北畠神社」があった。なかなか広い境内と、巨木があちこちにある由緒正しい神社のようだ。城巡りのついでにお参りしてきた。その境内の中に、一体の像があり、北畠氏をしのぶものだった。まさに中世武家貴族の代表的な姿に見える。

戦国初期に覇を競った旧守護大名は、ほとんど没落してしまった。室町幕府の中枢を占めた高級武家貴族も、戦国期を生き延びたものは極めて少ない。高級官僚ほど京都駐在が長く、領国経営を部下に任せたため、何台かすると乗っ取られたという室町幕府の政治構造が原因だったようだ。成り上がりで急成長したオーナー企業が、2代目3代目で従業員上がりの部下にのっとられるのと、全く同じ構造だ。人の愚かしさは1000年経っても変わらない。歴史に学ぶことはないダメ生物らしい。
北畠氏は織田に攻め滅ぼされ、織田に吸収され歴史から消えた。戦国期の没落守護一族の典型だろう。琵琶湖周辺で勢力を広げていた守護、守護代も皆織田に滅ぼされた。ほとんど一山いくら状態で消滅していった。北畠氏はその先頭だっただけだ。
しかし、尾張からこの伊勢の山奥まで攻めてくるとは想像を絶する。あの山道を何千人もの兵士が歩いてきたのだと思えば、気の遠くなりそうな大事業ではないかと改めて感心した。

戦国期に、互いに攻め合っていたことで戦闘技術や築城技術が一気に向上した。また火縄銃が取り入れられることで、戦略レベルの変化(いかに高価な鉄砲を買い揃えるかという経済力)と戦術レベルの変化(平地戦では鉄砲隊の数を揃えた一斉射撃、城の守備戦では防壁からの十字射撃など)が著しい。
この北畠氏の居城は、そうした時代の流れの中に飲み込まれた典型なのかもしれない。

中世最古の石垣とはこのことだろうかと、神社で見つけた石積みを眺めてみた。築城術に詳しいわけではないが、確かに石の積み方が素人目に見ても適当すぎる、というか洗練されていない。だいたい段差のある石積みだと、敵兵が簡単に登って上がれるわけで、防壁としての意味合いは低くなる。木で作った柵よりはマシという程度ではないか。
やはり戦闘術や築城術は実戦でその効果が証明されて、初めて普及するのだから(命懸けの検証だから当然だが)、この北畠式石垣が戦国標準にならなかったのは、一族滅亡という結果で検証された「ダメ出し」の証だったということか。朝早くの神社でそんな物騒なことを考えていた。

よく考えれば、伊勢国をめぐる戦いがあったのは、今から500年以上も昔のことで、その時に戦火で焼け野原?(はげ山?)にされた森もすっかり再生するだけの時間はあった。この樹齢50年、100年という大木を景色から消去してみれば、当時の北畠氏居城の有様が見えてくるのだが。
あまりに木が多すぎで想像力が追いつかない。

この後、伊賀に抜ける山道を走った。どうやらナビが古いせいで、旧道に迷い込んだらしく、ガードレールもない、すれ違うこともできない細い道を走る羽目になった。死にそうな気分だったし、後ろからダンプカーに圧迫された。(だいたいダンプカーのような大型車は通行禁止のはずだが、三重の山の中は無法地帯なのか)
散々な経験をしてようやく広い道に出たと思ったら、なんとダムの上流の道だった。ダムというのは交通の不便なところに、わざわざ建設用の道路を敷設して作るものだ。道なき場所に道を通して初めて出現する巨大建造物だ。その道なき場所のもっと奥を通ったのだから、危険で危ない道だとしても不思議ではない、というべきなのだろう。ただ、2度とあの道は通りたくない。


三重県山間部を走った教訓として、
①  山道では古いナビを使ってはいけない、特に最短距離モードは絶対不可 
② 山道の3桁国道は信じてはいけない。できれば通ってはいけない 
③  国会議員に力がない県では山道は細いらしい (新潟県と長野県の山道を通った時の経験だが、県境から露骨に道幅や舗装状態が変わる) 
次からの城巡りでは、できるだけ有料道路、高速道路を使って道幅の広いところを走ることに決めた。後は過去の国会議員をよく調べることにしよう。道路族であれば、多分安心だ。文科省とか環境省などと仲良しな議員は、道幅改善、安全安心道路の建設には役に立っていないはずだ。お城の保存には多少貢献するかもしれないが、お城を観光資源化するのであれば国交省の管轄だから、やはり道路改善はダメだろう。
人は体験からしか学べない。特に、ナビから危険度は学べない。一つ賢くなった気がする。しかし、この道は伊勢街道の本筋らしいので、昔の人はさぞかし大変だったのだろうなあ。