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駅弁

金沢駅の駅弁 観光戦争の引き金

金沢駅の駅弁の中で、頭一つ飛び抜けて高額なものが「越前朝倉物語」弁当だ。そもそも金沢は加賀国なので、なぜ隣国、隣の県の駅弁が売られているのか微妙な感じもする。東京駅で横浜名物のシウマイ弁当が売られているようなものか。その違和感はあるが、見るからにうまそうな弁当で、これは挑戦しなくてはならない、マストバイだと意気込んで購入した。
しかし、食べてみると越前朝倉氏と弁当の中身は、あまり関係がないような気もする。だが、福井県が誇る歴史的遺物としては、滅亡した朝倉氏根拠の一乗谷と現存する永平寺が二大巨頭だろう。福井県が誇る永遠の2トップだから、朝倉氏の投入は仕方がない。そもそも現存する永平寺は「刊行物名称」として使いにくい。「永平寺〇〇弁当」などとネーミングして駅弁を作れば、お寺の法務部?からクレームがつけられ知財訴訟に巻き込まれそうだ。少なくとも、お偉いお坊さんからやんわり説教されるのは間違いない。

弁当のふた?を開けると下から出てくるのが、九つに分かれた「ちまちま系」の松花堂弁当的な品々だった。その一つ一つにメニューの解説付きという、いたせりつくせりの心配りがある。これは、全国でもあちこちに見られる、少わけにした幕内、松花堂弁当系を販売する駅弁屋は、みんな見習ってほしい。素晴らしいアイデアだ。
青森の駅弁にもこれと似た、少区分の説明書きがついたちまちま弁当があった。ただ、青森版はメニュー名が印刷された別添のものだったので、わかりやすさから言えば福井版の方が上手にできていると思う。

お品書きを取り払うと下から出てくる、小料理の数々。ああ、これは絶対うまいやつだと見ただけで思う。ビジュアル的にも優れている。駅弁は見た目が茶色っぽくなりがちだ。煮物と揚げ物では色が出しにくいこともある。生物が使えないせいもあるだろう。だから、にんじんや卵焼きが色付け要員として多用されるのだが、この朝倉氏弁当は、色使いにも果敢に挑戦している。お値段以上の価値がある。(笑)
個々の料理の完成度も高いが、全体で構成した時の味の満足、量の満足、など駅弁界の至宝のようなものだ。肉だけ乗せた、蟹だけ乗せた、豪速球一本勝負的な駅弁が主流になりつつある駅弁業界で、製造効率も悪い幕の内弁当系で勝負しようという、越前福井県の意気込みには惚れ込んでしまう。
ただ、一乗谷に行っても、朝倉氏ゆかりの名物食べ物があるとは気が付かなかった。福井名物といえば、カニとサバ(へしこ)と油揚げくらいしか思い出せないのだが(勉強不足だな)、それが弁当の主力になっている感じもしない。
とても美味いが、浅倉氏との連携が今ひとつピンと来ない。まあ、それでもこの弁当の旨さに変わりはないのだが。ということで、この駅弁はマイベスト駅弁でトップ5認定とした。ちなみにトップ5は秋田県大館のとりめし、山形県米沢の牛肉ど真ん中、横浜の崎陽軒シウマイ弁当、長野県横川の釜飯。惜しくも次点が、青森の「ひとくちだらけ」になる。

ちなみに、以前購入した加賀「百万石弁当」も、九つに分かれたちまちま系駅弁だったが、どうもこちらが先行していたのではないかと思われるのだ。加賀百万石に対抗するべく、後発の朝倉氏弁当が開発され、おまけに値付けも百円高く設定するというにくい戦略をとったと推測できる。現代の越前国対加賀国、駅弁戦争勃発というストーリーが思い浮かんでしまった。

観光大国である加賀国が、越前国が仕掛けた駅弁戦争、そしてこの先の全面的観光侵略にどう対応するのかについての考察は、また別稿で考えてみることにしよう。北陸観光戦線勃発だな。

食べ物レポート, 旅をする

金沢の居酒屋 おでんとへしこ

金沢でおでんが有名だ、という記憶は全くない。金沢には何度も仕事で行っているし、それなりに金沢名物など食べてきたつもりだが、その中に「おでん」という単語はなかった。たまたまテレビ番組でやっていたおでん特集の中に金沢おでんがあったので、あーそうなんだと思ったくらいだ。
それが、今では冬の金沢を代表する料理扱いになっている。天むすは名古屋の伝統料理ではなく、創作料理だと聞かされた時もびっくりしたが、金沢おでんもその手の新造名物なのかもしれない。
まあ、とりあえず実食してみなければと駅のおでん屋に入ってみた。金沢駅の中で長年居酒屋をやっていて、駅が改築されたことで現在の場所に移ったとのことだが、やたらと長い行列ができている。居酒屋に入るのに30分以上も待つ事などあり得ないと思うのだが、今回はしっかり我慢することにした。繁華街のおでん屋に行っても、おそらく同じように待たされるに違いないと自分に言い聞かせて、ようやくゲットした金沢おでんだった。
結論を言えば、薄味のおでん。出汁が効いていると言えば、それはそうだと思う。関東風の「がつん」とした濃い味ではないから、全体的に優しい仕上がりになっている。金沢特有のおでんネタもあるので、それを中心に頼むという楽しみ方もある。

おでんよりもワンダー体験だったのが、この店の名物だという「どじょうのかばやき」だった。想像を超えるものだった。うなぎとどじょうのサイズを考えれば、この串に刺さったどじょうはうなぎの蒲焼きのミニチュア版として納得できる。ただ、よく手間をかけてどじょうを串に刺すものだと、そこが感心したところだ。
味は、今一つどじょうっぽさみたいなものがわからなかったのだが、おそらく3-4本注文して、一気に食べるとどじょう「らしさ」がわかるのではないか………浅草あたりのどじょう鍋と比べてみるのも良い。ともかく、珍しい食べ物としては挑戦する価値がある。

白味噌仕立ての「どて焼」は、ふんわりとした歯応えとあっさりとした味付けだった。これも、できれば10本くらい頼み、一気にワシワシ食べる方が良い食べ物だ。名古屋のどて煮が原型だと思うが、それと比べてみると食文化の変化というかご当地アレンジが楽しめる。

北陸の名物といえばこれでしょう、と言いたくなる鯖の「へしこ」は、日本酒に合わせると最高の肴だと思う。ただ、金沢アレンジというべきなのか、微妙に上品な仕上がりなのだ。へしことはサバなどの糠漬けのようなもので、極めて塩味が強いという印象があった。おまけに強い発酵臭がある。味は全く違うが、ほやの塩辛のような独特の匂いと塩味が特徴だと思っていた。
だが、この日食べたものは、塩味がだいぶ控えめで、おまけに身が柔らかい。まるで刺身を食べているかのような柔らかさ(ちょっと大袈裟か)だった。以前食べたものとは随分変わっている。「へしこ」概念が根底から変わってしまった。良い意味で、洗練された旨さだった。
次回は何軒か居酒屋を回って、「へしこ」の違いを試してみたくなった。そうしたら、マイベストへしこが見つけられるのではないか。次回、金沢のテーマは「へしこツアー」だな……

ソロキャンあれこれ, 街を歩く

ソロキャンプ 何をする?

ソロキャンプの何が楽しみかというと、誰にも気を使わずに自分のしたい事をする。それに尽きる。それが料理であれ、昼寝であれ、誰にも何も強制されないことが重要だ。ファミリーキャンプとの違いは、あるいは友人とのキャンプと異なるのは、その「一人でわがまま」できることにある。
そして、自分がしたい事と言えば一択で「焚き火」になる。火遊びといっても良い。3時間でも4時間でもただただ薪を燃やし続ける。それだけだ。
ただ、陽が落ちて暗くなってくると、焚き火の灯りしかない暗闇の中で、ヒト族が原始の時代に刷り込まれた「火の記憶」が戻ってくる気がする。ひ弱だったヒト族が強靭な捕食動物から逃れる術、「火」を手に入れた。そんな時代の記憶がDNAに刷り込まれているのではないか、などと焚き火をしながら考えている。

その焚き火の脇に置くか細い照明がオイルランプだ。現在のキャンプギアであれば、もっと明るい照明はたくさんある。LEDライトなどは簡便でかつ明るい。ただ、照度の足りないオイルランプの、揺らぐ灯りが焚き火によくあう。生理的に心地良い。このあたりはソロキャンプ達人の受け売りに近いが、楽しみ方は達人から学ぶのが一番効率良い。遠慮なく真似をさせてもらう。

シンプルなキャンプギアしか持っていかない

カセットコンロはキャンプギアとしては邪道のような気もするが、防災用にやたらと買い込んだカセットボンベが余っているので、スタイルなど拘らずに使っている。登山用のプロ仕様ギアに憧れたこともあり、コンパクトなガスストーブも道具としては持っているのだが、あまり使う気にならない。徒歩でキャンプに行くのであれば、ガスストーブも小型化を考えるのだが、車で行くお気楽キャンプしかしないので、最近は埃をかぶっている。
あとは、焚き火台とガス照明がキャンプギアの全て。簡素というか怠慢というか、道具にこだわりがないというか。

100均ショップで買った簡易型のボール(鍋ではないと商品説明には書いてある)で湯を沸かし、カップ酒を温める。ソロキャンプを楽しむのには、これだけあれば十分だ。こった料理をする気もしない。この日は、小型のスキレットで作ったコンビーフのアヒージョと、魚肉ソーセージをケチャップで炒めたものでおしまい。翌日の朝は、その残りをパンに挟んでホットサンドにした。コーヒーもドリッパーなど持っていかない。瓶入りインスタントコーヒーで十分と思うようになった。

もう少し幅が広ければ、80年代SFの傑作、リングワールドに見えるかもしれない。

サイトの上に荒川を渡る歩行者専用の橋がかかっていた。橋を下から見上げていると、「荒川アンダーザブリッジ」を思い出した。あの物語に出てくる、元気なホームレス住人になったような気がしてきた。確かにキャンプをしているつもりではあるが、周りから見るとホームレスぐらしとほとんど同じことをしているような気もする。
このキャンプ場も荒川沿いにあるから、「荒川」アンダーザブリッジという意味では同じだ。キャンプ場があるのは、荒川でも相当な上流に当たるが、荒川を流れ流れていけば東京と埼玉の境目くらいで、あの物語の場所にたどり着く。「荒川上流アンダーtheブリッジ」と「荒川下流アンダーtheブリッジ」みたいな違いしかないなと笑ってしまった。

日が暮れると、たかが歩道橋なのに、なにやら切ない景色に見えてくる。写真には写っていないが、背景には綺麗な星空が広がっている。そして、反対側の川岸には秩父鉄道が通っているので、列車が通過する音が聞こえてくる。都会であれば騒音にしか聞こえない通過音が、妙に心地よく聞こえてきたりするのが不思議だ。

キャンプ場の受付はハロウィーンの飾り付けでお出迎えだった。いつの間にかすっかり定着したハロウィーンだが、キャンプ場にお化けが出るとは思わなかったなあ。

ハロウィーンの後は、一気に冬キャンプになるのだが、この日からライトアップが始まったようだった。自分のサイトで焚き火の準備をしていた時に、工事の人たちがトラックでやってきてなにやら作業をしていた。木の伐採でもしているのかと思っていたが、ライトを設置していたらしい。

これはこれで綺麗なものだが、夜でも明るいキャンプ場というのは不思議な気がする。アウトドアは自然のままの暗闇を楽しむものだと思っていたが、どうやら最近のアウトドアは外で「明るい文明」を楽しむようだ。それも時代の変わり目に立ち会っていると思えば、一緒に楽しむべきだろう。おそらくクリスマスや大晦日も、ここは結構賑わうのだなと気がついた。

秩父には、今風のファッショナブルで楽しいキャン場もあれば、昭和中期で時間が止まったようなワイルドキャンプ場もあるようなので、次回はワイルド路線を楽しんでみようか。ワイルド路線は得意のつもりだが、課題はトイレだろうなあ……………

旅をする

越中国 一宮はたくさんある

高岡の北にある「氣多神社」は、富山湾を見下ろす山の上にある。海沿いの道から山に登る途中が、昔の国分寺が置かれていた一角にだった。その古代・中世の行政地に氣多神社は分祀されたようだ。もともと越中国は能登国の一部だったのが独立して、この高岡北部を行政地にした。そこに、能登国一ノ宮である気多大社の「支店」が開設されたということのようだ。となると、この神社は大和朝廷行政府の一部として新設されたのだから、元々の越中国の神様とは言えないのだろう。
越中土着の神様は、山側にある雄山神社と平野部にある高瀬神社におわすというべきか。古代朝廷の日本海沿岸統治の跡が、この氣多神社という理解で良いのだろうか。古代富山の謎は深い。(自分の勉強不足のせいだとも言える……………)

駐車場から拝殿まではかなり厳しい登山になる。国分寺は山の麓につくられ、神社は山の上というのは、なにやら大和朝廷の陰謀かと恨みたくなる。勘繰ってみれば、便利の良い一等地は「寺」に、山そのものや大樹を御神体にすることが多い「神社」は山の上に。そんな古代行政の「忖度」があったのではないかと、山登りをしながら八つ当たり的に考えていた。当時は国家仏教が前世になっていく時代だ。寺重視政策が取られていて不思議はない。
初詣には、この急な坂道を高岡市民が行列して登るのかと思うと、気の毒な気もする。古代の陰謀が現代に及ぼす影響だ。

山の中腹にまで登ると(おそらく中腹だろうなと思っただけだが)、拝殿にたどりつく。ただ、中腹のあちこちに平らな場所を作り、そこを階段で結ぶような格好になっているので、境内が平たいわけではない。斜面に配置された分譲別荘地のような散らばり具合だ。

お参りをしてから御朱印をもらうには、また山道を降りて駐車場の下にある社務所にいかなければならない。社務所がこれだけ離れた場所にあるのも珍しい。志摩国一宮「伊射波神社」ほどではないが。越中国には色々微妙な事情がありそうだなあ。

小売外食業の理論, 旅をする

もう一つのうまいものin金沢

金沢駅の正面に立つと、一際目立つ華麗な門に出会う。日本の駅で一番美しいと感ずる金沢駅の入り口だ。同じような観光都市であっても、新幹線を降り立った場所は実にがっかりすることが多い。その典型が京都駅で、南北どちらの入口も「らしさ」などかけらもない。
東京駅は、オフィスビルこそ首都の景観だと言い張れば、なんとなく説得ができそうだ。特に丸の内は、丸ビルなどの風景こそ首都のあり方であり、お江戸風情など全く昔語りのノスタルジーと切り捨てている。そう思えば良いことだ。改装後の東京駅丸の内側は、その首都のあり方を伝えている「名所」だろう。たった150年前の建物すら保存しようとしない、近代日本の潔さだ。
逆に中途半端なのが、新大阪や新横浜、新神戸などの「新」がつく駅で、これはいわばどうでも良い駅の象徴だ。昭和中期の文化とは、こういうものだったという反面教師なのかもしれない。東北新幹線の駅は、どこの駅も同じ見栄えだし、九州新幹線では駅舎が街から浮いている気がする。
だから、やはり、金沢駅はすごい。

そのすごい(と想う)駅の近くにあるホテルで会食をする機会があった。レストランの入り口には、ドーンと大皿が飾られている。この皿には実用的価値はない(と思う)。美術品として作られたものだ、この皿の上に料理を乗せたりしないはずだと思うのだが………
それにしても、この状態をなんといえば良いのだろうか、言葉を選ぶのに困る。皿を陳列している、では正しい意味にはならない。飾るというのとも違う気がする。訪れた客に美しいものをお見せする、ということだろう。押し付けがましさはない。美しいものは、隠してしまうのではなく、見せるものだという意識だろうか。
やはり、古都というものが作り出す文化は、たかが100年程度では仕上がらないということがわかる。お江戸でも江戸文化が完成するまで200年余りかかった。そのお江戸を継承していない文化強奪都市「東京」は、強奪後150年経ったいまでも古都を名乗る貫禄はない。

ビルの中隔に庭園を作ろうとする試みは、文化強奪都市東京でも見かけることはある。ただ、規模で見ると箱庭程度の貧相さだ。京都の町家改造レストランで見かける小ぶりのものがよほど立派にみえるものだ。設計思想の根底に、あざとい経済効率が入り込むから東京の箱庭は貧しく見える。それなら盆栽でも並べておけば良いのにと思う「なんちゃって箱庭もどき」がほとんどだ。
この金沢のホテルでは、レストラン面積の1/3程度が空中庭園になっていた。席効率だの回転率だのという、レストラン経営の公式からすると、無駄の極みというしかない。その不経済な代物が平然と存在することが、古都の古都たる所以なのかと思いしらされる。

おいしく懐石料理をいただき、ゆったりとした時間を過ごした。おそらく、贅沢というものは、こういうことを言うのかと思う。レストラン、飲食店、外食産業、いろいろな言い方はあるが、食べ物を提供することを生業とする者にとって、味という無形のもの、雰囲気という無形のもの、過ごした時間の満足度合いという計量できないものをどうしつらえるのか。その一つの答えが、ここにあるなあとぼんやり感じていた。

味の嗜好は個人差がある。万人がうまいというものは無い。それでも、見た目や盛り付けや器で楽しませることができる。料理は舌で味わう前にも目で楽しむものだ、というのは人類にとって不変の事実だ(と勝手に思っている)。
それは日本料理だけのものでも無いので、日本料理文化礼賛論者とは一線を画しておきたい。なんでも日本が一番という文化的狂信者はどうにも好きになれない。
どこの国の料理にしても、器と料理のバランスこそが、美味しさの秘密であることは確かで、家庭料理とプロの料理の一番の差は味付けではなく「豊富な器」が可能にする美なのだと思う。

最後に出てきたいちごのシャーベットの器に一番驚かされた。シャーベットの出来栄えは素晴らしい。甘さ控えめなのが、和食の締めとして調和している。ただ、この華麗な皿が伝えてくるものが、金沢のご飯を「目で楽しんで」いただけましたか、と言うメッセージのような気がした。すごいな金沢。
金沢発のファストフードチェーンができれば、なんだか日本食文化の革新になりそうな気がしている今日この頃。金沢カレーが進化すると、何か革命的なことになりそうなのだけれど。

旅をする

金沢の知らなかった旨いもの

金沢駅で土産物を探していたら、目に飛び込んできた看板だが、思わず何度も読み返してしまった。「ブリのたたき」と書いてある。「タタキ」といえば、まず思い浮かべるのは「カツオ」であり、その高級品は藁で焼いている。焦げ目がびっしりついた鰹のたたきは大好物だ。
もう一つのたたきといえば、「アジのたたき」になる。これは刺身の変形番みたいなもので、火で炙っているわけではない。なぜ、この料理形態が叩きと言われるのかは分からないが、千葉あたりで食べる「アジのたたき」は極めてうまい。細かく包丁でたたいて(細切れにして)香味野菜と味噌で混ぜた「なめろう」もアジの食べ方としては絶賛するが、どちらにしてもアジは大ぶりに切りつけた刺身より細かく切った「たたき」の方がうまいような気がする。
という「常識的たたき感」をぶち壊す?鰤のたたきとは、一体なんだ。初めて聞いた言葉だ。写真を見る限り、鰹のタタキのように表面を炙っている感じがする。

ということで、ノコノコと土産物売り場に行って「鰤のたたき」を探してみた。簡単に見つかった。魚コーナーで山盛りになって売られていた。人気No.1らしい。値段を見ると、それなりにお高いものだが、金沢の鰤なのだから一級品だろう。

見た目は、鰹のタタキによく似ている。おそらく、製法は同じだろう。カツオより鰤の方が脂が乗っていそうなので、焦げ目もつきやすいかもしれない。味は、実食してみないと分からないが、やはりブリはぶりだよねという気がする。
おそらく西日本のブリ好き人種にとっては、北陸のブリが至高の「鰤」に思えるのではないか、と勝手な想像を巡らせてしまった。東国で鰤料理といえば、ブリ大根一択みたいなところがある。ブリ後進地帯という自覚もあるので、ブリのうまさなど語る資格もない。
から、やはり金沢観光の主格層は西日本からきているのだろうから、「ブリ」推しは効き目がありそうだ。

そんなことを考えながらスーパーの魚屋を覗いていたら、これまでみたことのない「ぶり大根」を発見した。ぶり大根寿しと書いてあるから、糀で漬け込んだ甘酸っぱい食べ物だと想像がつく。これの方が、北陸伝統食という気もする。金沢からもう少し北に行けば、鰤と鮭の食文化境界線になり、新潟にいくと、このブリ大根も「さけ大根」が主力に変わるだろう。

ぶり大根の隣には、これまた北陸定番である「鯖」がいた。個人的にはぶり大根よりサバ大根の方に惹かれる。やはり、日本海沿岸は発酵食文化圏なのだ。
北海道の飯寿司のルーツは、この北陸辺りにある「魚の麹漬け」なのだと改めて思った。しかし、ブリ、サバ、鮭、どれもうまそうだった。

食べ物レポート

自宅近くに開いたラーメン屋#1

このラーメン屋で初めて入った店は川越にあった。車旅の帰り道でなんとなく看板が目に入ったラーメン屋というだけだったのだが。予想外にうまいラーメンだったので、それから何度か通った。埼玉県内に何軒か支店があるので、自宅近くの店にも行ってみた。そのお気に入りになったラーメン店の支店が自宅近くの街道沿いに開店したのは、今年の夏頃だった。
たまに通る道に何か新しい店が建築中だったのは気がついていたのだが、看板が上がるまでなんの店なのか分からなかった。遠くから見て味噌ラーメンというのはわかったが、例の店だとわかるには店に近づいてみなければならない。通り過ぎるだけでは、なかなかわからなかった。いざ出来上がった店に行ってみると、コロナ対応なのか餃子の無人販売が設定されている。あれこれ考えるものだと感心した。

入り口から店内に入ると、ちょっと暗めの内装で、ラーメン屋というよりバーっぽい感じもする。オシャレ路線のラーメン屋にチャレンジしたかと思ったが、メニューはいつも通りの「ド」がつく「味噌ラーメン」だった。価格表記が税込みに変わったせいで、ちょっと値上げしたようにも見えたが、多分値段は変わっていない。
最近、外食では税込み表記にする店が増えている。おそらく、値上げのタイミングで「えいや!」と、わかりやすい税込み表記に変えているのだろう。流通・小売のインチキ価格表示(?)と比べると、明らかに外食は潔い。

普通の味噌ラーメンでも、ボリュームたっぷり

ガツンとくる味噌味がいつも通りだった。この店はトッピングアレンジで、何段階か異なるメニューがあるようにみえるが、基本は味噌と辛味噌ベースなので、その日の腹具合でトッピング量を変えれば良い。夏だろうが、冬だろうが、腹ペコの日に「ガシガシ」と熱い麺をかき込み、額に汗をかくというのがこの店での正しい食べ方だ。最近はメンマ追加の代わりに、野菜マシにすることも多い。体に気を使う歳になったとは言わないが、野菜がうまいと思うことも増えてきたからだ。次は海苔追加にしてみようか。
世の中に元気なラーメン屋が増えると人生は少しだけ楽しくなるのだ。と、満腹になってしみじみ思った。小市民的よろこびはここにある。

旅をする

若狭国 行けない城だった

この城も典型的な山城で、城跡にたどり着くのは難儀な登山になるようだ。城への登口には、誘導するようにノボリが立てられていた。ちょっと前であれば、このノボリに釣られてどんどん山の方に行ってしまったが、最近は「疑う」ことを覚えたので、このノボリは怪しいという危機察知ができるようになった。おそらく、探すべき場所はここではない。

駐車場に車を停め、なだらかに続く坂道を200mほど上がっていくと、そこに資料館らしきものが見えてきた。お決まりの城キャラ撮影ボードもあるので、ここが目的地らしい。危なかった。危うく山中彷徨をしてしまうところだった。しかし、駐車場には案内板を置いて欲しいものだなあ。

この建物は、元の奉行所を再現したものらしい。詳しいことが書いてある説明板はありがたい。特に、城周りの地勢を描いてある図が素晴らしい。これを見れば、城跡に行くのがどれだけ難儀かよくわかる。

気分的には城周りの柵を模したようなディスプレイがあった。確かに戦国期の城はこんな感じだったのだろう。城壁が石垣とは限らない。泥で作った土壁でも、粘土で固めて上から水をかけ泥状にされたら、城攻めで登ることも容易ではない。下手をすれば滑り落ちて味方を巻き添いにするコメディー詠歌のワンシーンみたいなことになる。昔々に見たドリフターズのコントや、風雲たけし城そのままの後継だろう。
確かに、山城周りは木も切り倒されツルツル斜面になっていたはずで、この場所は史実に基づいた再現ではないかと興奮したのがだ、どうもその手の説明書きが見当たらない。ひょっとすると山の斜面を造成するときに無造作に放置された跡かもしれないなと気がついた。うーん、正解はどちらだろう。
やはり城周りは気がなかったと思いたいのだが。そして山城が放置されて百年も経つと生えてきた木々に埋め尽くされているというのが、今の城跡ではないのだろうか。この辺を某国営放送で解説してくれないものだろうか。

旅をする

八幡山城は恋人の聖地だった

琵琶湖東岸に散在する百名城の中で、とびきり変わっているお城が八幡山城だ。織田から豊臣に政権が移った後に築城された。それもとびぬけて高い山の上で、似たような城は織田氏の岐阜城だろうか。岐阜の郡上八幡城も似たような山上の城だった。
城に上がるには、登山道を登るかロープウェーを使うかだが、そもそも歩きで山登りは選択肢にない。ロープウェーの乗り場手前には八幡宮がある。それなりに由緒正しい場所なのだ。

平地からぽこりと立ち上がっている山なので、ロープウェーで登っていく時に琵琶湖東岸の平地が見渡せる。ここが商人の街、近江八幡だった。地面を車で走っていても分かりにくいが、山の上から見渡すと琵琶湖東岸地域の地政学的な意味がよくわかる。
普段はマップを見ているだけだが、グーグルアースを使って鳥の目視点になると、地形と地政がよくわかる。それが自分の目で「リアル」に見えてくるのは、なかなか感動の体験だった。

何枚か写真を撮っていたのだが、この写真の右側にあるのが安土山周辺部で防衛拠点として眺めると、なるほどなあという気分になる。

ロープウェー山頂は散歩コースになっている。登ってくる時に見た琵琶湖東岸とは反対側に回って行けば、眼下に琵琶湖が一望できる。確かに、これは城巡りとは別格な「普通の観光地」だった。秋には紅葉が楽しめるそうだ。しかし、羽柴政権になり、戦国時代が終わりかかっている時に、こんな山の上に城を立てる意味があったのだろうかという、ささやかな疑問が浮かんでくる。

石垣の石は小ぶりなものが多いが、この山の上まで運んだのだから、大きな石を使えるはずもない。微妙に形が平たいものに偏っているが、これも運搬の都合上だったのだろうか。今の時代に同じものを作ろうとしたら、石の運搬だけで専用道路を作ったりするはずで、10億円単位で金がかかるの建造物になるだろう。などと山頂の石垣を見て思ったことだ。

その石垣の隣のコンクリート製ロープウェー駅が、なんだか不思議なものに見えてくる。そういえば、この駅を建てる時に資材はどうやって運び込んだのだろう。昔の漫才ネタ、地下鉄車両はどこから入れるかみたいな話だなと、セルフツッコミしてしまった。

山頂駅からちょっと登ったところに展望台がある。その展望台に、あまりに秀逸というか「すごい」ことが書いてあった。幸せひろがれプロジェクトは良いと思う。綺麗な景色を見れば、誰でもそれなりに良い気分になる。しかしだ、なぜ恋人の聖地? という疑問が沸々と……………
まあ、日本全国に恋人の聖地を名乗るところはたくさんある。鐘を鳴らしたり、鍵をつけたり、愛の誓いのやり方も色々だ。
だから、琵琶湖の西に沈む夕日を見て、愛を語るというのも、多分「あり」なのだろう。しかし、ベタすぎる場所という気もするのは、こちらが歳を取りすぎたせいに違いない。

恋人の聖地についてあれこれ考えた後、あたりをぐるっと歩き石垣をみると、やはり恋人の聖地というより戦国武者の夢の跡という気がしてきた。恋人たちも、殿様も高いところがお好きなようだ。

この石垣を作った人たち、石を運んだ人たちにとって、この山は愛しい人を想うよりも、石の重さに辟易したのではと、ちょっと意地悪く考えた。愛の形も時代で変わるのだね。

旅をする

琵琶湖北岸 辿り着けない名城

琵琶湖周辺は戦国時代の合戦頻発地なので、攻防に合わせての名城が多い。が、当然ながら紛争地、係争地の最前線でもあり、「城」の重点は居住地、行政府というより防衛拠点だった。となると築城される場所は守りやすい場所であり、自然障壁を活かせる場所になる。
湖や川を使って天然の水堀にする場合もあるが、一番多いのは山の斜面を利用した山城だ。そして、一戦ごとに使い捨てる野戦築城というインスタントな城も多くあるくらいなので、名城扱いされている城でも、今は自然に帰っているというか、見放されて荒れ放題となっている場所も多い。
柴田・羽柴決戦の地で有名な「賤ヶ岳」だが、そんな重要な決戦場が山の上にあるとは思ってもいなかった。賤ヶ岳という地名で平地の決戦だと思い込んでいた。琵琶湖の北岸にある小高い山が賤ヶ岳で、決戦は山岳戦だったのだ。まったく知らんかった。

しかし、柴田勝家はなぜ自分の本拠地近くに羽柴軍を引き摺り出して戦おうとしなかったのだろうか。北陸は柴田領のようなものだし、信州から関東にかけては滝沢が逃げ出した後、徳川が暗躍していた。羽柴軍が掌握できていたのは、織田本拠地と言える尾張、美濃、伊勢を除いた畿内と備前、備中。そして明智の旧領である丹波くらいだ。最大勢力とはいえ、信長の遺児を中心とした反羽柴連合が組まれれば、相当に苦戦したはずだし、毛利が反羽柴連合に加わる可能性は大きい。柴田は織田家家老筆頭だったはずだから、人心を纏める器量くらいあっただろうに。
決戦場として、賤ヶ岳は秀吉の根拠地長浜に近すぎる。自他の兵站線を考えても、決戦場としては不利だ。北近江を抑えたとして、琵琶湖西岸は反逆者明智氏の本拠地であり、美濃は横死した織田信忠の根拠地でもあるから、織田氏後継者を目指すのであれば、まだまだ地続きで制圧しなければならない土地は多い。大戦略的には伊勢、尾張、三河あたりの勢力と連合して羽柴軍に当たると考えるものだろうに。
織田信長の使えない次男三男を担いて、合議制諸家連合政権にする。その時、一番目立つ羽柴は、毛利と組んで日干しにするみたいな長期戦略を立てればよかったのになあ。
賤ヶ岳の戦いは攻城戦ではないので、あたりに城もないかといえば、準備のために作った城がある。ただ、そこは旧北陸道沿いでいくのも大変な場所だから、この余呉湖にスタンプがあるといいうわけだった。

その賤ヶ岳から20kmほど南下したあたりが秀吉の本拠地があった長浜になる。ただ、長浜は浅井氏の居城であった小谷城から程近い湖岸にある人工都市だ。浅井氏滅亡後、北近江支配の拠点として作られた。信長存命であれば、琵琶湖沿岸近くで起こる紛争時の、戦略予備として明智、羽柴を配置したはずだ。朝倉亡き後の北陸侵攻軍後詰めとしての意味合いは薄いだろうし、そもそも羽柴軍は全力で西国調略を行っていた。だから、長浜は軍都としての性格は薄い。

小谷城も山の上に造られた山岳要塞みたいなものだが、いくつかの峰をつなぐ立体要塞で、おまけにそこに城主が居住していた。当然ながら、防衛拠点としては重厚になる。自分が住むところを攻められて簡単に諦めるわけにはいかないだろう。実査に、小谷城攻めは随分と難航した。最後は物量戦で押し切られるが、織田に反抗した諸将の中では、大健闘した部類に入る。

今では登山すると城跡が見られる。この日も登城ならぬ登山客が何組もいた。やはり山上にスタンプを置くと、百名城屈指の難関スタンプ置き場になることは間違いない。麓にある記念館に置かれていた。。
そこには土産物も売っている、なんとも有難い場所だ。しかし、この小谷城址の穴あき撮影板は、なんとも言い難い。小学生の修学旅行にでも使われているのだろうか。それとも最近増えた城巡り女子への対応だろうか。小谷城もたどり着くのが難しいお城だった

近江地域のたどり着くのが難しい城三つ目は鎌刃城だ。米原から車で20分程度の山の中にある。旧中山道の宿場だったらしいところに、スタンプは置かれている。地域のボランティアらしき団体が、あれこれの管理をしているようだが、建物の中には人の気配がない。週末だけ開館するのかもしれない。お城は、この町からほど近い山の上にあるらしいが、行き方がなかなか面倒だ。この手の場所はナビが信頼できない。ナビ城では通行可能な道になっているところが、ガードレールもない崖沿いの獣道的道路であることは度々経験している。
城巡り、神社仏閣巡りをしていると、そんな無駄な経験値だけは積み上がっていく。この歳になって危機察知能力が磨かれるのは、良いことなのか甚だ疑問ではあるのだが。

というわけで、近江地区はお城の近くに行って雰囲気を味わうだけのダメな「城巡り」になってしまった。次は、登山の覚悟と装備を固めてやってくることにするか、と思ったが、次の機会はないような気がする。