街を歩く, 食べ物レポート

居酒屋 @池袋西口 IWGP

池袋は西口と東口で見せる顔が随分と違う。西口には大劇場があり、その前の公園もイルミネーションで飾りつけられると、どうも異世界感が増してくる。普段の西口のわい雑さはどこに行ったという感じもするのだが、夜は街の顔を美人に変えてしまう。

リアウ昭和がそのまま体験できる「生きた花石」で「生き残った奇跡」

ただ、一本裏通りに入ればそこは当たり前だが厚化粧の美人ではない日常空間が広がっていて、いつもの池袋西口らしい居酒屋がある。この日は長く付き合いのある友人たちと気楽な定例飲み会の日で、ここが会場になっていた。定例飲み会と称して都内あちこちの伝統的居酒屋周りをしている。今回は池袋西口編だった。そして、この店は昭和の空気が連綿と続くThe 居酒屋であり、昭和の絶対空間の生き残りだ。

擬似昭和な飲み屋は大増殖中だ

お目当ての店の横には、大チェーンが運営する二毛作飲み屋の最新バージョンがあった。おしゃれなバーカウンターが売り物だったはずの店が、いまでは暖簾をかけて居酒屋もどきになっている。
どうもこのセンスは、昭和レトロというより文化の揺り返しみたいなものらしい。ミニスカートや厚底ブーツが何十年ぶりにまた流行るみたいなものだろう。当然、昭和を懐かしむジジイを対象にしたものではなく、昭和と江戸時代の区別もつかない若い層向けの新コンセプトだ。昭和のj雰囲気でコンセプトを固めれば、それはもはや怪獣酒場やジャングルレストランと同じ「異空間」を楽しむ場所、テーマレストランの変形になる。そこを勘違いする昭和親父は多いのだが。
どちらにせよ、擬似空間の昭和とリアルな昭和が併存している不思議な池袋西口の光景だ。

まず頼んだのはタコブツとマカロニサラダ。そもそもポテトサラダではなく、マカロニサラダを頼んでしまうのは、我ながら不思議だ。マカロニサラダは炭水化物をおかずに炭水化物を食べるような微妙な肴というかつまみだと思う。マヨとマカロニという組み合わせは、多少なりとも罪悪感を感じさせるヘビーカロリーフードだ。
タコぶつは昔は安い肴の典型だったはずだが、今ではタコはすっかり高級品になってしまった。お気楽に頼める肴ではないのだが。
ダメな居酒屋であれば、細切れなタコが2−3切れしか入っていないこともあり、店によって当たり外れが大きい「困った定番メニュー」だろう。しかし、この店では大正解で、大ぶりに切られたタコぶつだった。タコの存在感がある。えらい。感謝だ。

おかわりの注文も、ど定番ばかりで、オニオンスライスにイカ天Etc. と進行する。いかにもお江戸の居酒屋っぽいものばかりになるが、そもそも目玉商品になるようなご当地名物がお江戸には存在しない。逆に、名物はないけれどドがつく定番があるということか。

最後に注文した煮凝りも、煮魚の残りを気まぐれに出すような店はあるが、メニューにしっかりと載せているところは少ない。自宅でたまにできる鍋の残り物みたいなふやけた柔らかさではない。しっかりとした噛みごたえがあるし、歯応えすらある硬い煮凝りだった。
あまりうまく言えないのだが、この食材の始末の良さみたいなものが、お江戸居酒屋料理なのかもしれない。魚の兜焼きだとか、あら煮みたいなものを食べるたびに感じることでだ。あの手この手で「原料」を使い切る工夫が、うまい物の発明に繋がっている。昭和というより江戸時代から続く、江戸町民の知恵みたいなものではないか。経済都市江戸で生まれた食文化は、その大部分が底辺階級、下級町民向けのものが発祥のような気がする。蕎麦、握り鮨、鰻にどじょうなどなど。貧乏な独身男性向けの立ち売り商売が発祥だと聞いている。お殿様向けの高級料理は、お江戸が京都を越えることができなかった。だが、大金持ちの商人が生み出したお江戸食い道楽は今でも残っているようだ。今ではどじょうもウナギも握り鮨も庶民のものとは言い難いけれど。

そんなお江戸文化論を頭の隅に置きながら昭和な居酒屋を出てみれば、そこには二十一世紀日本の大都市文化が広がっている。池袋西口は本当に不思議空間なのだなあ。

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枚岡神社にて キャラを学ぶ

ほぼ住宅地にある

クリスマスだが神社の話になる。
近鉄線に乗り小さな郊外駅で降りたらそこが神社の前だった。というより、神社の前に駅を作ったのだから、やはり参拝客の多い由緒ただしき神社なのだ。全国各地にある一ノ宮の所在地は、まず古代の地方中心地、あるいはヤマト朝に征服された古王国の首都付近だったはずだ。
それが中世、近代と時代が下るにつれてその場所の意味合いが変わっていった。依然として経済、政治の中心として残っていることもあれば、中心地が都市ごと移転してしまい一ノ宮は辺境となっていることもある。
そういう意味合いでいけば、この神社は周りを住宅地で囲まれた賑わいのある場所として生き延びた。お参りに来るものも多いだろうから、神様もそれなりに居心地が良いことだろう。
古代の大阪は浅い入江が続く湿地帯だったので、今の平野部は人の住みやすい場所ではなかった。当然、山際に人は集まり住んだからこそ、この場所に神社ができたはずだ。東大阪地域こそ当時の高級住宅地帯だったのだろう。、そこを鎮守するのがこの神社の役割だったはずだ。(多分)

鳥居から続く道はかなりの上り勾配で、その坂を登り切ったあたりに拝殿があった。七五三のお参りに来た家族がちらほらとみえる。晴れ着に身を包んだ我が子を写真に撮っている光景は実に微笑ましい。

神社の入り口にある「縁起」を読むと、古代ヤマト朝が統一事業に取り掛かり、いくつかの大王の治世を経て奈良盆地に王都を打ち立てた時代の先駆けがこの神社であるようだ。やはり古き神社だけに謂れがある。
神社に行きこのような建立の理由が説明してあると、なるほどなあと思うが、実はこの謂れについて語られているのは、いつでも主祭神がヤマト系神族の場合だ。被征服王国の神族の場合は、争って負けたみたいなことでさらりと流されているか、そもそも国神の話が全く語られない。神の世界も厳しい序列と区分があるとは、なんとも世知辛い。

石段を登り切ったところに拝殿があるが、その後ろに広がる山が神域なのだろう。周りは思っていた以上に狭い。諏訪大社の四社も山裾にひっそりと建立されていることに似ている気がした。

お参りを済ませ帰ろうとしたら、屋台が気になった。キャラクターカステラと書いてあるが、これは誰が見てもわかる国民的キャラ「アン◯ンマン」ではないか。これに匹敵するのは、青い猫型ロボットくらいしかいない。それをはっきりと書かずに「キャラクター」と表記するあたりは、現代の知財管理が縁日の屋台にまで浸透したということで、なんとも不思議な気がした。
庶民の知恵というべきか、テキヤの世界の常識なのか。祭りの縁日で売っているキャラクターお面なども同じことだろう。国を治めた神様のお膝元だから、あまり窮屈にしないで貰えば嬉しいなあ。などとおもったのだが……………

そもそも八百万の神様の中には、随分と外国生まれの神様がまぎれていたはずだし、コピーライトを言えば他国から訴えられそうなものだ。天竺生まれで中華帝国経由ならゾロゾロといるからねえ。

食べ物レポート

立ち食い蕎麦を考察 

東京西部に多い 富士そば 朝そばはお買い得 モーニングサービスらしい

立ち食い蕎麦といえば大都市にはどこでもあると思っていたが、よく記憶を辿ってみると意外とそうでもないらしい。北から考えてみると、札幌にはほとんど立ち食いそばが存在しなくなった。今では地下鉄大通駅にある店くらいしか思い出せない。オフィスビルの地下などに数軒あったはずだが、今ではビル丸ごとなくなっている。新しいオフィスビルの地下に一軒立ち食いそばが開いたが、それは酒とそばの二毛作で、どうやら蕎麦は昼専用のおまけらしい。
仙台では路面の立ち食いそばがいまだに現役だ。仙台駅の改札近くには、今でも由緒正しい駅そばが存在する。立ち食いそば界では、明らかに仙台が札幌を圧倒する。新潟ではすでに観光地化した名店「バスセンター」の蕎麦があるが、街中では見た記憶がない。
名古屋であれば新幹線ホームに駅そば(駅きしめん)が威容を誇るが、在来線ホームにもどこかに立ち食い駅そばがあるらしい。これはまだ未見だ。
新大阪では、新幹線構内にある立ち食い蕎麦にたまにお世話になっていた。今回確かめてみたらなくなっていた。その代わりフードコードができていた。記憶が定かではないので、ひょっとすると在来線の方にあったのかもしれない。これは次回、探索だ。
ただ、梅田、難波の繁華街を随分と歩き回ったが「立ち食いうどん・そば」の記憶がない。たぶん、大阪の街のどこかにはあるのだろうが。と思っていたら天王寺の駅入り口で見つけた。やはりちょっとした街っぽい場所には存在するらしい。

天王寺駅のかき揚げ蕎麦

広島でも立ち食い蕎麦を食べたことはない。ただ、アーケード街にあるラー油そばの店がスタンディングだった。が、ラー油そば元祖の「みなとや」も含めて、立ち食いそばとはちょっと違う気もする。今でも営業しているだろうか。これも要確認だな。
下関駅で立ち食い蕎麦を食べたことはある。朝早くからやっている典型的な駅そばだった。やはり、今でも営業しているのだろうか。
福岡ではうどん屋が街中に数多くあるが、立ち食いの店は入ったことがない。博多駅に立ち食い蕎麦の店があったような気もするが、うろ覚えで記憶違いの可能性は高い。
電車通勤者が多くいる大都市圏ではそれなりに生き残っているが、車社会になった地方都市では立ち食い蕎麦屋が生存しずらいのは確かだろう。その代わりに、郊外型の蕎麦屋(ただし立ち食いから座り喰いに変化しているが)をそこそこ見かけるようになった。
どこもコロナ前の記憶なので、今ではすっかり消滅しているのかもしれない。サラリーマンの通勤に特化、依存した業態である「駅そば」の大半は生き残れなかったようだ。繁華街にある簡便な立ち食い蕎麦屋もテレワークが続いていた間に、それなりに店数を減らしたようだ。

立ち食い蕎麦屋はチェーン居酒屋と同じで斜陽産業化しているが、是非生き残って欲しいものだなあ。

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5分で回る名城巡り

三原の駅に降りたのはこれが初めてだった。空港行きのバスを待つ時間調整のためなのだが、思いがけず長居をすることになった。駅前は全国に多くある地方都市と同じように、ちょっと寂しい雰囲気がある。街の中心は郊外のどこかにあるショッピングモール周辺に移ってしまったのだろう。
この街の名物はタコであるらしいことが駅前広場の看板でわかる。たこめしでも食べてみようか、と言うのがまず第一の感想だった。

駅の改札口を出ると、いきなり目につくのが三原城入り口の看板だ。ここは、おそらく全国でもこの城だけだと思うが、駅構内に城がある。正確に言えば、城の中に駅を作ったと言うことだ。明治期に鉄道の建設が続いた頃、普通は城や城下町から離れたところに駅が作られた。蒸気機関車による煙問題や火の粉による火災を懸念してのことだったらしい。
ところが、なぜか三原駅はお城の敷地、それも多分お堀を潰して建てられたようだ。おまけに、山陽本線に追加して新幹線まで乗り入れている。

駅構内(改札外)の入り口を上がると、目の前に石垣がでてくる。これが本丸の石壁だというから、城の端ではなく城の真ん前に駅を作ったと言うことだ。なんとも凄まじいことをしたものだ。

城壁と駅構築物の間には、ほんのわずかの隙間しか残されていない。新幹線に乗っていては気がつくこともないが、線路のちょっと先には天守台がある。おやまあ、と言う気分だ。明治政府のバカさ加減かと思ったが、昭和の日本政府はそれにバカを上乗せして新幹線まで通した。
ちなみに、駅の先には瀬戸内の海があるが、もともと三原城は海に面した海城だったそうで、つまり駅舎から先は埋立地だったらしい。城の北、山側が狭隘だったことから鉄道も道路も城を押しのけ作られたと言うことだ。

城の周りはお堀が巡らされているが、これも海とつながったもので、海の上に浮かぶように見えた勇壮な城だったようだ。今ではその名残しかない。

駅舎自体がお城の敷地内にあるので、お城博物館のようなものは作ることがなかったようだ。改札の中には’ホームからおりる階段脇)に、城の配置図がある。これは改札を出てから気がついた。改札を出る前にしっかりと見ておかなければいけなかったと思うのだが、それに気がつくのが遅すぎた。

もともとこの地を治めた小早川家は毛利家の一族だが、関ヶ原の時に徳川に寝返った因縁もある。戊辰戦争勃発時も西国の要所でありながら毛利側についたと言うこともなかったようで、明治政府にとっては厚遇する意味もなかったのだろう。
明治政府の狂気を後継した昭和前半の軍事国家日本、そしてその直系後継者である昭和民主日本、どちらも江戸時代の匂いがするものは嫌いだったようだ。文化的に劣るものたちは、先人の成果に嫉妬し憎悪し破壊する。万国共通の蛮族の論理だ。
明治という時代は知的蛮族が率いる、文化破壊と文明断絶の時代という視点で見る歴史家はいないものだろうか。司馬史観などと言って明治礼賛をするのは、昭和の時代とともに終わりにして欲しいものだが。三原城の残骸を見ながらそんなことを思っていた。

街を歩く

年の瀬が迫ってきて

12月上旬に感じる年末感

クリスマスツリーをみると門松を見るより年末感がする。世間的にはクリスマスツリーの撤去された後の門松の方が、年の瀬を感じおさせるのだと思う。クリスマスにとクエ別な思い入れがあるのは、長年働いてきた会社の特性というか強制刷り込みのせいなので仕方がない。今年のクリスマスは今までやったことがないイベントを企んでいるのだが。

その年末感に突き動かされて(笑)味噌ラーメンを食べに行った。深い意味はないが、最近はよく味噌ラーメンを食べ比べている。醤油ラーメンはあまり味の変化がないが、味噌ラーメンは店ごとにまるっきり個性が違うものが登場するので「びっくり箱」を開けるような気分があり楽しい。
いつもの埼玉発ラーメンチェーンでは、関東風のオーソドックスな味噌ラーメンが出てくるが、今回はそれにネギを足してみようと、ネギタワー味噌ラーメンなるものを注文してみた。
そうしたら、ネギが別添で出てきた。うーん、これはなんと評価するべきだろう。確かに、このチェーンは夏の冷やし中華もトッピングは別皿で出てくる。合理的と言えばそうだが、手抜きと言った方が正しい気もする。そのセルフ方式で「ネギタワー」と言われても……………

仕方がないので、自分でタワーを作ってみた。やはり予想通り、タワーは直立しない。ピサの斜塔のように傾いている。なんだか微妙な残念感がある。ただ、自作してわかったことだが、タワーを正しく作るにはそれなりの技術が必要みたいだし、手間もかかる。どうせ食べる時はタワーを崩してネギラーメンにするのだから、別添セルフでも同じだろう、ということのようだ。身も蓋もない、というしかない。上手にタワーを作ったとしても配膳の間にタワーが倒れる可能性もある。
仕方がないかあ。と諦めることにしよう。

チャー酒の代わりに追加で頼んだ焼き鳥も、なんだかパックに入っていたのをそのまま袋から出しました感があり、世の無情を感じてしまう年の瀬であります。

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もう一つの吉備国

吉備国の祭神の近くに、なぜか古代ヤマト朝神族の中で最強の荒ぶる神、素戔嗚(すさのお)を祀る神社がある。これはなかなかに興味深い。
そもそも素戔嗚は第一神である天照大神の弟という設定だが、まさにこれは古代ヤマト朝神話の中で最大のフィクションだろうと思っている。古代ヤマト朝の統一過程で最大の敵国を率いていたのが、素戔嗚王だったのではないか。その「すさのおの国」を下した後、懐柔と反乱抑止のために「亡き王」を第一神の弟という高いポジションに祭り上げた。
だから、素戔嗚は高級神らしからぬ荒事に投入される。出雲国平定にも出動させられ、八岐大蛇と怪獣大決戦を繰り広げた。その荒ぶる神が次に出動したのが吉備国制圧戦争だったのだろう。史書的には吉備国が大乱を起こしたことになっているようだ。
そして、吉備国併合の後は、反乱分子になりかねない地方神「吉備津彦」の押さえとして、この素盞嗚神社が置かれた。だから吉備津神社と素戔嗚神社が近距離に置かれ、どちらも備後国一宮になっている。ヤマト神族の中の冷戦状態、みたいなものだろうか。そんな妄想をしてみた。ただ吉備津神社は一箇所だけではなく他の地(備前)にもある。そこが謎だ。

神社の境内はそれなりに広いが、一ノ宮として考えると少し手狭な気がする。人心掌握よりも反乱防衛拠点として置かれたとすれば、大きさよりも鎮圧時における初動の速さが求められていたと考えられないか。
出雲国の亡国主神である大国主がはるか東、諏訪の地まで移動したことを考えると、この素戔嗚も元は九州あたりにいて(高千穂付近かも)、それが東の吉備国まで転勤させられたと考えても良さそうだ。
古代ヤマト朝は、征服した国の神様をブラックにこき使う厳しい国、パワハラ国家だった。そう思って古事記を読み解くと、なるほどなあと納得できる事件が多い。(笑)

この国は、神代の時代からブラック体質だったのだ。その勤勉なブラック体質(そんな存在自体が嫌だが)である古代ヤマト朝が、堕落してのんびり体質に変わったのが平安期だから、ざっくり言って1000年近くも、古代日本は神ですらこき使うブラック国家だった。そのブラック雇用で一番酷使された神様が素戔嗚さまだったのだね。(個人的感想です。宗教的な意味合いはありません)

荒ぶる神のオヤシロは、朱色に塗られることもなく簡素なもので、それはそれで好感が持てるものだった。古いお社は朱に塗られていない方が良い。朱が薄れたり禿げたりしているのをみると悲しくなるというのもあるが、地元の民に崇敬されているのは、こうした地味な木の色ではないか。

古代ヤマト朝の征服と統一の過程を思えば、東の国は統一最終行程で一気に攻められ併呑されたので、地方神などかけらもなくなっている。西国ではそれより古い時代に征服戦争起きた。統合過程も時間がかかっていたためか、元の姿とは微妙に変形しながら「国神」がのこされているようだ。

1000年以上前にこの地を歩いていた人がいると思えば、神社詣も色々と感ずることがある。素戔嗚と呼ばれた人がここを歩いたとは想像できないが、その子孫の誰かがここにいた可能性はあるのだし。
2000年を経た後世で皇国史観という歴史と神話と伝説を混同したものが猛威をふるい、その信者が国を率い亡国寸前まで暴れ回ることになるとは、さすがの荒ぶる神スサノオ様でも思いはしなかっただろう。


どの時代でも狂信者は生まれ、世界を混乱の中に落とし込み、正義の名の下に不幸を再生産する。そんなに神を崇めるのであれば、自分の命を糧にしてさっさと一人で神の国へ行ってしまえ、周りを巻き込むなと思うのだが。
贄を求める神など堕神であり邪神でしかないだろうに。そんな堕神を崇める宗旨は、崇められる神様自身が「おいおい、俺はそんな酷い神ではないぞ」と迷惑しているだろうと思う。
地の塩、世の光と言ったのは異国の救世主だったが、我が国の荒ぶる神は今何を思っているのだろうか。やはり地には平和を、と願っているのではないか。少なくとも、昭和日本の亡霊に操られているような愚か者は、助けてやる気にもならないということだろうなあ。

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沼津駅の風景 蕎麦とガチャとキャラ

今や滅びゆく昭和の風景の一つ、駅のホーム内にある立ち食い蕎麦屋はそろそろ天然記念物指定をしないと絶滅してしまう鉄道遺物だ。首都圏山手線という日本屈指の乗降客数を誇る路線であっても、ホームにある蕎麦屋はほぼ壊滅している。
そんな駅そば情報を集めた本が何年かに一度発行されるが、すでにホームの蕎麦屋は残り少ないようで、その数少ない生き残りが、この沼津駅にある。駅弁の製造会社が運営しているようだが、営業時間が朝8時から午後の2時までという変則的な物だった。
夜は立ち食いそばを食べて帰る人はいないのだな。

駅弁のラインナップを見ると、なかなかうまそうなものが並んでいる。中でも、抹茶あじ寿司がうまそうだ。シンプルな抹茶めし弁当にも心惹かれる。販売しているのは改札口の脇にあるお店のようだった。

その立ち食い蕎麦屋の裏側に、なんとも不思議な自動販売機があった。最初は懐かしのオレンジカードのようなものかと思った。ぱっと見では商品券を売っているようにも見えた。
よくよく眺めてみると、なんとガチャ、つまりカプセルトイの自販機らしい。なぜ、ホームに………という疑問と、なぜこの商品ラインナップという疑問が湧き上がる。

そもそもガチャは基本的に均一価格で出てくるまで中身がわからんという射幸性の高い商品のはずだが、 なんとこの自販機では中身がわかるし、値段はバラバラ。ガチャマシンとは似て非なるものだった。しかし、なぜ駅のホームにある?という疑問は解消できない。沼津駅の不思議ではなく、ひょっとするとJR東海のあちこちに存在するのかもしれない。
東海道線を各駅停車で旅をして、それもそこそこ大きな駅で降りて、ホームを見て回らないと確認のしようがない。ほぼほぼミッション・インポシブルな使命だが、知りたいなあ。静岡家機とか浜松駅であれば、このガチャもどきマシーンが置いてありそうだ。

そして、沼津といえばもはや絶対ブランド化しているアニメキャラが駅ビルの入り口でお出迎えしてくれた。全国あちこちで町おこし、地域おこしをやっているが、おそらく一番成功率の高いのはアニメコラボだ。成功例も数多い。
ただ学びとして、単発でのアニメコラボはおおよそ3-4年で経済効果は薄れる。浮気なアニメオタクは、次々と新しい対象に惚れ込んで昔のキャラを見捨ててしまう傾向が強い。だから、制作サイドと連携してシリーズ化を強く押さなければいけない。
映画でも行われている地域コミッション制を軸に、継続的なタイアップ、イベント、情報発信を続けなければいけないのだが、これが地域活動グループにとって、そして地域行政にとって、一番苦手なもの「継続性」らしいのだ。
なぜ、ポケモンやマリオがグローバルキャラクターに仕上がったかを研究すれば、地域キャラの育成戦略は自明なことなのだが。
各駅停車の旅をすると、あちこちで日本の今抱える問題が見えてくる………ような気がします。

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鳳で大鳥大社

大阪の南部に鳳という地名があることは知っていた。その地名と大鳥大社が全く結びついていなかった。そもそも大阪南部から和歌山に至る鉄道路線の知識は、ほぼ皆無に近いので、どの路線を使ってどこに行くかをGoogle先生に聞くしかない。JR阪和線も生まれて初めて乗ったが天王寺の駅が始発になることも知らなかった。
阪和線の沿線風景は都市部がずっと続いていた。大都市はどこでも同じだなとも思うが、大阪南側の街では密度、住宅地の密集度が首都圏を超えているかもしれない。車窓から眺めるマンション群が少し減ってきたくらいで鳳に着いた。

神社と大社は規模の差だけではなく、社格もあるようだが、少なくとも歴史ある神社はどこも大木が生い茂る広い境内になっている。その境内の中をそれなりの距離を歩いて拝殿まで辿り着くと、これは大社だなあなどと思うものだ。その道が一直線であることも多いが、曲がりくねっていることもある。
伊勢神宮は典型的な曲がりくねった構造だ。熱田神宮は、実に一直線で長い。出雲大社は概ね一直線だったが、最後でひと曲がりする。由緒正しい神社は建立されてから1000年を超えるものも多いので、その間には色々な事件があり、拝殿の位置が変わったりしたこともあるはずだから、境内の、そして参道の成り立ちもいろいろ変化しただろう。戦国期の城のように攻城戦を考えて、神社の境内を長陸練った道にした、そんなことはありそうもない。おそらく火事で焼けた建物を避けて増築改築を繰り返した結果、道がクネクネになってしまったということではないか。
大鳥神社の境内は、そんなことを考えながら歩くにはちょうど良い距離だった。

拝殿の形式にはいろいろとあるらしい。お祀りされている神様の違いであったり、地方特有の様式であったりする。不勉強で詳しいことは知らないのだが、古代ヤマト朝の統一過程の中で併合された古王国は、時には自前の神様や神社の形式を残すことができたようだ。出雲大社はその典型だ。
この大鳥大社は征服王朝であるヤマト本国形式なのだろうか。屋根の形が少し変わっている気がする。建物が高床式になっていないのは珍しいので気になった。田舎の神社には簡素な建築のせいか平屋式もたまに見かけるが、大社の格式がありながら随分とこじんまりとしたものに見える。

やはり神社には青空が似合う。この日も気温が低いせいか空気が澄み切っていた。夏の青空とは違う透明感がある。お参りするには絶好な日だった。

神社には駅から歩いて10分ほどかかる。街の中心地とは違う場所にあるようだ。神社の周りはびっしりと住宅が連なっている。昔は門前町だったのかもしれないが、今では都市近郊のベッドタウンのように見える。
八百万の神様は閑静な場所がお好みのようで、いまでも歴史のある神社は山の奥や岬の先など、なかなか秘境っぽい処にあることが多い。が、人の営みに巻き込まれ神社の周りがびっしり住宅に囲まれる「超繁華街」立地の方が多くなってしまった。
こういう賑やかな場所にお祭りされていると、神様も賑わいを好むようになっているのだろうか。神罰も当たっていないから、天岩戸でのダンスパーティー(世界を救う大戦略だったのだけれど)以来、案外と神様もノリノリな暮らしが好きなのかもしれないな。

食べ物レポート, 旅をする

お好み焼き 三原流

三原での待ち時間の間、昼飯を食べようと駅前の街を歩いていた。平日昼のせいか、ほとんどの店が営業していない。駅前の飲屋街は夜にならないと活気づかないようだった。仕方がなく、ネットでランチ営業店を検索してみたらお好み焼きの店が見つかった。行列ができる人気店らしい。この日は20分ほど待たされたが、店内に入ると予約の電話が次々とかかってきていた。
三原は広島県の街なので、広島スタイルのお好み焼きだと思っていたら、どうも「麺抜き」が三原流のようで、広島風お好み焼き、つまりうどんか中華そばが入っているものはモダン焼きとして区別されている。
周りの注文を聞くと、モダン焼きとお好み焼きは半々くらいだった。待ち席がカウンターの鉄板の前で、目の前で次々とお好み焼きが焼かれていく。それを見物しながらの待ち時間は、待たされているのが全く気にならない。
水溶きの粉を鉄板の上に乗せて焼くのはクレープみたいなものだ。そこにキャベツを乗せ麺や具材を乗せる。火が通ったところで、鉄板に卵を割り薄く伸ばした上に、焼けた粉と蕎麦と具材を裏返しにして乗せる。なかなかリズム感を感じる見た目が美しい調理作業だ。

出来上がったお好み焼き、イカ入りのモダン焼きをヘラを使って食べる。炭水化物の塊だが、実に美味しく食べられるのは、ソースの濃い味付けのおかげだ。ただ、中に入っているそばにはほとんど味がないので、濃いめのソースが良いバランスになる。
大阪式お好み焼き、つまり麺抜きのお好み焼きも、それはそれで美味いので広島式、大阪式のどちらがお好み焼きとして本物かというつもりはない。
家庭で作るお好み焼きは火力が弱いせいが、仕上がりが水っぽくベタついてしまうので、お好み焼きは専門店で食べる方がはるかに美味い。麺入りになればなおのことだ。
三原流の麺なしお好み焼きも食べてみたかったが、2枚食べるほどお腹に余裕はなかった。

三原駅から瀬戸内の島につながる連絡船が出入りする港まで、歩いて行っても5分程度だった。その港に続く道が飲屋街になっているのは、ある意味必然だという気もする。島から酒を飲みに来る人が多いのだろう。そのためなのか、宴会場的な居酒屋より二次会向けスナックが多い感じがする。
ただ、雑居ビルもあちこちが空き家になっているのが目立つ。コロナのせいか、人口の変化のせいかはわからないが、瀬戸内の島から人が集まってくる「夜の社交場」としての役割はだいぶ減っているように見える。
三原の隣には広島県第二の都市、福山があるのでそちらにいく人も多いのかもしれない。しまなみ海道を使えば、福山と大きな島は陸続きだしなあ、などと思い裏通を歩き回ったが、人とすれ違うことはなく、猫すら見かけなかった。なんだか不思議な街だなあ。

街を歩く

休日の渋谷はごみだらけ

祝日の朝早くから渋谷に用事があり出かけた。朝早くだというのに、というか朝早くだからというか、渋谷の街中を酔っ払った若い方がたむろしていたり、奇声を上げていたり、なかなか賑やかだった。
おまけに路上がゴミだらけで、まるで20年前に行ったNYCを思い起こさせる。このゴミだらけの道路も道沿いにある商店の営業が始まる頃には、街の人たちが掃除をしてくれているから、ゴミも目立たなくなるのだろう。
酔っ払いが汚した朝の街をまともに見るのは初めてだったせいもあり、なんともいえない気分になる。おまけに、ゴミとして散らかっているのが缶チューハイやビールの空き缶と弁当の殻・箱で、路上で二次会、3次会をやったことがわかる。
若い方?は、飲み屋に行って酒をのむ金がないのだろう。(多分)おまけに飲んだ後、飯屋に行って何かを食べる金がないのだ。ということがわかった。コロナの間に流行した路上飲みは、飲む店が空いていないせいだったはずだが、今では通常営業している飲み屋に行かず路上で飲むらしい。これは単なる貧乏の現れのように思える。
深夜の路上飲みはコロナの落とし子で、もはや見栄を張ることなく路上飲みができる文化?態度が出来上がったみたいだ。もはやホームレスの宴会と深夜の路上飲みには境目がない。文化の退廃というより、美意識の変化なのか。
増税メガネのおっさんは日曜の朝、渋谷の街でゴミ拾いのボランティアでもしなさい。そうすれば、いかに国民が貧乏になったか実感できるぞ。と思いました、はい。
高級マンションが立ち並ぶ某公営放送の搬送口あたりでも、コンビニ込みと空き缶は散乱していた。この辺りの住民は、高い家賃を払いながらゴミにまみれた町に暮らすことを納得しているのだろうか。

その渋谷の高級マンションが立ち並ぶ一角で、まさかの昭和アパートを発見した。雨戸が締め切っているので、まだ誰か住んでいるようには見えないが、深夜の喧騒(路上飲み会)が嫌で雨戸を締め切っているのかもしれない。やはり東京という街は、まだまだあちこちに不思議空間が残っているのだなあ。

その昭和が取り残されたようなスペースから5分も歩くと、超絶大都会の渋谷109前にたどり着く。そこでは、なんとこれまた平成前期カルチャーの落とし子、たまごっち復活のイベントがやっていた。なぜ、109前でこれだよと頭を捻ってしまったのだが…………
イベントを仕切っているらしいおっさんが、ベビーカーに乗っている子供に、何やら渡していた。たまごっちの英才教育を2歳児くらいから始めるつもりかと思ったが、おそらくターゲットはベビーカーを押している母親で、まさに彼女はリアルにたまごっちで遊んだ第一世代だ。それに気がつくと、イベントおっさんが急に頭が良い人に見えてきた。また、たまごっちが流行るのかな。確か第一世代では過剰在庫で販売会社が潰れかかったはずだが。


渋谷には昭和と平成と令和のカオスが共存しているのだな。