街を歩く

研究 味噌ラーメンの変化

札幌 味の三平 味噌ラーメン(これが元祖味噌ラーメンらしい) チャーシューあり

味噌ラーメンというと思い浮かぶレシピーがある。それは味噌ラーメンの元祖と言われる店のものだ。もともと醤油ラーメンを客の注文で味噌汁仕立てにしてみたのが始まりで、そこから改良を続け完成したものだそうだ。原型である醤油ラーメンとの違いは、醤油ダレの代わりに味噌を使ったことと、炒めたもやしをトッピングにしたことのはずで、そのバリエーションにチャーシューを抜いて、もやしと挽肉いためを載せた。
こんな感じに理解をしていた。ところが、その後も味噌ラーメンは全国に拡散し浸透する中で、変質というか進化というか、原型とは全く異なる異形に変わっていったらしい。
その異形への変化についてお江戸に出てきた我が身の感覚で申し上げると、初期のお江戸作り味噌ラーメンは間違い無く劣化コピーで食べる価値なしだった。それが、西国のとんこつラーメンの侵略と融合の時代に、なぜか豚骨スープが触媒となり、お江戸を中心にラーメンの大革命が起こった。それに合わせて、味噌ラーメンも百花繚乱の時代を迎える。

満州の味噌ラーメン チャーシューなし

関東系町中華チェーンである「満洲」は、お江戸の周辺部に拠点を置くだけあり、埼玉ラーメン的な要素もあるが、ひき肉もやし炒め、チャーシューなし属の中ボス的存在だ。
濃いめの味噌味は「元祖」とはずいぶん異なっている。どちらかというと麻婆ラーメンや焼肉ラーメン的な「濃いめ焦味噌」風な仕上がりになっている。もやし炒めにさまざまな野菜が加わり、野菜増し増しにもなっている。濃い味な味噌ラーメンでありながら野菜により健康的イメージを押し出し免罪符を得ようとする健気さがある。まさにお江戸風な、小洒落たアレンジかもしれない。

餃子の王将 高知駅前 チャーシューなし

その系譜に繋がるのが、最強町中華チェー(全国)である王将の味噌ラーメンだ。見た目は満洲系味噌ラーメンに酷似しているが、味付けはちょっと変わっていて辛味がきいている、野菜のアレンジも違うが、これはもやし炒めというよりは八宝菜系のアレンジのようだ。満洲と王将は、それぞれルーツの地が東西と別れているので、どちらかが早い時代にパクったか、それとも東西で並行進化したものかはわからない。ただ、味噌ラーメンの侵略経路を考えると、北から南へ進んでいったはずなので、満洲が早い時期に先行導入し、、王将が東国侵攻を進めるときに導入したと思うのが自然だろう。お江戸の味噌ラーメンは、元祖インスパイア系濃い味属とでもしておこう。
東西の中間点である静岡県で味噌ラーメン調査を進めるべきだとは思うが、東海の覇王「五味八珍」では餃子に気を取られてラーメンはなおざりにしていた。再調査が必要だ。

札幌 羅妃焚 特製味噌ラーメン チャーシューあり 生姜あり

味噌ラーメン発祥の地札幌では、元祖の跡をついで(暖簾分けではなく独立系のようだが)、次々と味噌ラーメンの名店が生まれている。一番大きな変化は、豚骨スープを導入したもので、濃厚を超えたトロミさえ感じられるものも多い。
面白いのが、豚骨スープ発祥の地である九州でも豚骨味噌ラーメンを見かけるようになったが、どうもその味は北海道豚骨スープ属には負ける。九州豚骨スープ属は更なる進化を遂げてほしいものだ。
付け加えておくと、札幌味噌ラーメン界に高く聳える孤峰「彩未」は自ら「すみれ」の継承者であるといっているが、味噌ラーメンにおろし生姜をトッピングするという進化をなしとげ、数々の追従者を生み出した。それは「彩未」派という新ジャンルに認定するべきだろう。
中京では「台湾ラーメン属」が最大勢力になるが、それと対抗した味噌ラーメンも存在しそうなので、後日の研究テーマとしたい。

ちなみに、東北諸県と新潟県で味噌ラーメンの勢力は極小だが新しい味噌ラーメンチェーンも生まれている。
新興ラーメン圏である長野は、長きにわたるそばとの戦いにようやく曙光を見出し、信州味噌ベースの名店が勢力拡大中だが、味噌ラーメンと並行進化したハルピンラーメンがエース的存在だろう。

旅をする

呼び込みに誘われて

岡山駅正面に立つ高島屋の裏手は、どうやら岡山の飲み屋街にあたるらしい。もう少し西側に行けば、ちょっと怪しいお店も存在しているようだが、岡山は立派な教育県なので風俗店は見当たらない。まあ、健全な飲み屋街で間違いないだろう。
その裏通りを彷徨き回っていると、タバコを吸いに表に出てきたらしい居酒屋のお兄ちゃんに声をかけられた。看板を見るとなかなか良さげではあるのだが、前日も焼き鳥を食べたのでどうしようかと迷ってしまった。
特にいくあてがあるわけでもなく、岡山名物〇〇がたべたいという欲求もない。行き当たりばったりで、どこかの店に飛び込もうとしていたから、通りをもう一回りしたのちにこの店に入ることにした。

岡山には銘酒が多いはずだが、不勉強で全く見知ったブランドが見当たらない

注文をするときに、先ほどのお兄ちゃんが「「戻って来てくれてありがとう」と一言かけて来た。こちらは曖昧に頷き、おすすめはと聞くと鍬焼きはどうかと言われた。いつものように、「じゃあそれで」と全く人任せな注文をしてしまった。その後で、メニューを真剣にみて追加を選ぶことにしたのだが、結局追加したのは鶏皮の酢の物だった。

当然ながら、こちらの方がすぐに出てくる。食べてから後悔した。この鶏皮はうますぎる。鶏料理はこれだけにしておいて、別の肉を頼めばよかった。まあ、旅先でよく起こる居酒屋あるあるだった。
しかし、旅先で居酒屋に入るたびに思うことだが、なぜお江戸の居酒屋と同じ名前のメニューがこんなにうまいのだろうか。お江戸を標準にすると、人生ちょっと不幸なのではないか。
まったく感覚的な話だが、お江戸より2割安く、お江戸より2割以上美味いのが地方都市の居酒屋レベルだ。初めてお江戸に出てきて入った居酒屋の法外と思える値段と、出されたものを食べての落胆を思い出す。まあ、それにもすっかり慣れたけれども。

続けて出て来た鍬焼きは、平たく言えばクワのような形の鉄板で焼いた鶏肉で柚子胡椒をつけて食べるものだ。宮崎名物、地鶏焼きインスパイアな料理だった。こちらもうまい。ただ、一人で食べるには量が多い。一人飲みの欠点は、時にこうした大ボリュームメニューに当たってしまうことだ。
鶏皮もかなりの量だったので、この日は鶏料理二皿で満腹になってしまった。うまいものを食べた報いだと諦めるしかない。できれば、もう一品か二品試しにたべてみたかったなあ。鳥肉に関しては素晴らしい店だったから、他の肉も試してみたかったのだが。

ほろ酔い気分で歩いていた帰り道、これまた声をかけれらたのだが、その声が随分と小さい。教育県岡山には存在しないと思っていたキャバクラの呼び込みで、確かに見上げてみれば、一見するとやたら明るいスポーツバーのようにものがある。それがキャバクラらしい。というか、こんな明るい健全ムードでキャバクラ営業できるのか、さすが教育県だなと変な感心をしてしまった。
こちらの客引きはあっさりとご遠慮してホテルに戻った。岡山の夜、二人の客引きに声をかけられたが、なんとも不思議な街なのだ。

食べ物レポート, 旅をする

岡山で一番うまいもの賞

岡山初日で買えなかった「たくあんサラダ」なパンを翌日手に入れた。見た目は限りなくシンプルなコッペパンだ。横須賀で買ったコッペパンサンドに似ている。つまり中身が何にもわからない「謎」パンだ。

中身を開けてみたら、マヨネーズで和えたたくあんが具材になっていた。これまたシンプルの極みだ。
どころが、食べてみたら、感動の嵐だった。今まで食べたパンの中で一番美味いかもしれない。これまで食べたことがなかった、それが盛大に悔やまれる。人生にたまたま仕掛けられた罠にハマった気分だ。なぜ、このパンのことを知らなかったのだろう。人生の大事な時間を無駄にしたような気さえする。我が人生で、最良の師である「某ケンミンショー」でも、このパンのことはしらされていないのではないか?

岡山、すごいぞ!!であった。

「福神漬けサラダロール」は前日食べて感動していたのだが、改めてもう一度食べると、こちらも「たくあんサラダロール」とは甲乙つけ難い名品であるとわかる。龍虎決戦と言いたい。嗚呼、美味しい。

中身はカレー味のマヨネーズに福神漬けが入ったものだ。シンプルだが美味い。やはりこれを食べる時は、たくあんサラダと福神漬けサラダ、各一本づづを購入し交互に食べるのがよろしい。一度に2本食べると相当に満腹になるが、どちらか一本だけ選べと言われても選択に困る。
このサラダロールを食べるだけのために岡山に住むのはしんどいが、これを食べるために岡山に行くのは、アリだと思う。それほどの名品だ。
なんとか、東京に出店してくれませんか、岡山のキムラヤさん。お願いします。

旅をする

吉備津神社で古代国家を思う

備中国一宮、吉備津神社は一度来たことがある。桃太郎伝説の絡みで、この地にいた有力氏族である「うら伝説」を聞いたからだ。うらとは温羅と書く。おそらく古代ヤマト朝による侵攻と吉備支配の過程で残された物語だろう。
大和国に王朝首府をおいた古代ヤマト朝が中国(西部戦線)北陸(北東部線線)丹波(北西戦線)東海道(東部戦線)の4方面戦線を同時に構築した時の西国侵攻主導者が吉備津彦だったというのだ。
個人的には、この話は盛りすぎだと思う。日本書紀の話は、基本的に針小棒大な作り話が多い。大陸の大国に倣い正式な歴史書を作ろうとした勢いのまま、筆が滑るというか虚飾まみれのホラに膨れ上がっている気配が濃厚だ。今風に言えば、盛りすぎというやつだ。
古代において街道すら整備されていない小国分立状態の時期に、4方面作戦が同時に行えるほど国力があるわけもなく、また人口を考えても兵員数には限りがあるだろう。仮に各方面の諸国家と大和の国力対比が10倍あったとしても、予備兵力を考えれば4方面作戦は無理だ。軍事の常識に古代も現代もない。兵量(人の数)と武力(兵器を含めた質)の掛け算で勝負は決まる。
だから、吉備国で古代ヤマトとの戦争が起こりヤマトが勝った時に、吉備王国の王族をヤマトの一族扱いにして支配者とした。それがヤマトから派遣された将軍と称される吉備津彦のあり姿ではないかと思う。
本来、征服者であれば子孫が支配を受け継ぐ(ヤマトの代官として)はずだが、吉備津彦に子はいなかったようだ。ヤマト朝としては吉備王国の支配者の血筋を消したかったのだろう。

独自な建築様式なのだそうだ

そんなことを考えるきっかけになったのが、吉備津神社の特異な建築様式だ。この独特フォルムは吉備津神社だけのものらしい。ただし、その造形は古代に確立したものではなく、中世に生まれたようなのだが。中世になり古代から続く禁忌が外れた、みたいな妄想をしてみたい。その時期は南北朝の紛争で天皇系統の正当性があれこれ取り沙汰された時期でもあるし……
出雲も統一ヤマト朝による被征服国だが、出雲大社には独自の様式が残されている。ヤマト朝の支配様式というか、大国の王族、神族は根絶やしにせずヤマトに同化した形で存続させたのだろう。
おそらく完全撲滅させると反乱が起き、それに対応できるほどの超絶した国力があったわけではないからだ。古代ヤマト朝は豪族の連合政権で大王も持ち回りみたいなものだったようだから、同化政策が現実的かつ主導力だったと思う。
吉備国や出雲国のような海上貿易を行う大国との関係は、征服というより緩い連邦からの統合みたいなものだったのではないか。

どちらにしても、古代ヤマト朝が精一杯に背伸びをして中華大国に見栄を張った結果が、日本書紀の盛りすぎ伝説になっていると思う。現実的には、案外周りの国にペコペコと頭を下げながら同盟国を増やしていった、勤勉で臆病で腰が低い国づくり過程だったのではないかと思う。
そもそも文書記録を輸入文字である漢字に頼っているのだから、それだけで国の立場というものがわかる。現代日本の歴史をアメリカ英語で記述して、それを国家としての正史とするみたいなものだろう。
当時でも存在していたはずの国粋主義者であれば、自国の歴史を他国語で記録するというのは、なんだかなあと思っただろう。現代であれば、Right Wing方面から集中砲火を浴びそうな暴挙なのに、今ではそれを正統歴史書として扱っている。やはりこの国は古代から変な国なのだ。
大陸国家が、特に春秋戦国から漢代に至る時代を、宗教面に視点を置いて、古代日本にどのような影響を与えたかは考察してみたいものだ。大陸のスーパーステートが東の小国である島国に与えら宗教的影響は、日本神話にどのような衝撃を与えたのだろう。それが日本の文化の源流、特に神道形成への影響は大きかったはずだ。道教の成立や仏教の伝来以前だから、古代中華帝国の宗教体系はかなり呪術的なものだったように記憶しているが。
それと同じ時期に滅ぼされた国である吉備国の成立は調べようもないだろうが。歴史は妄想からだなあ。

食べ物レポート

中華そば の源流

不勉強にして岡山ラーメンという存在を知らなかった。岡山駅前を歩くと行列ができていたので足を止めてみた。カウンターだけのラーメン屋だが、地元以外の観光客も入っているようだった。

入り口脇に店のいわれが書いてある。どうやら豚骨ベースの醤油味ラーメンらしい。瀬戸内地方は、どこでも魚介系スープが前提だと思い込んでいたが、それは間違いのようだ。写真を見るとかなり黒っぽいスープなので、九州中心の白濁豚骨ラーメンとは異なっているのがわかる。トッピングもシンプルのようだ。

その日は行列に並ぶのを諦め、翌日に再訪した。昼のピークをずらしたので並ぶことなくすぐ席についた。注文は一番オーソドックスな中華そばにしたが、自販機のメニューボタンが迷いを誘う。並びがちょっとわかりにくいのでまごついてしまった。普通の中華そばは一番大きいボタンにしてもらえればなあ。
出てきたラーメンを見たら、全てがスープの下に沈んでいる。これだけサブマリンなラーメンも初めて見た。チャーシューとメンマは比較的水面から浅いので存在はわかる。しかし、ネギすら沈んでいるというのは、スープの比重のせいか? あれこれ疑問も湧いてくるが、とりあえず実食。
思い描いていた濃厚豚骨風な味はしない。濃いめのスープに見えるが、予想外に淡白系なスープだった。麺も素直で主張してくることもない。調和、というのが第一感だった。
見た目よりおとなしい。これをベースに岡山ラーメンが展開したのだとしたら、確かに岡山ラーメンは「おとなしい系ラーメン」というべきだろう。お江戸の支那そばほどさっぱりではないが、味のバランスが良い。支那そばよりこちらの方がはるかに好みだ。

食べ終わり表に出たらまた行列ができかかっていた。どうやら店内の空き具合を見計らって地元客が列を作ったり通り過ぎたりしているらしい。老舗の風格というか、岡山市民の合理性というか。
ともかく美味しいラーメンだった。

旅をする

予期せぬ登山

朝早くに岡山の街を出て高速道路を走る。その時には気が付かなかったのだが、中国自動車道は山の中を走るのでずいぶんと高度が高いところに道があるようだ。高梁の町近くで高速を降りると、そこからくねくねとした山道をずいぶん時間をかけて降りてゆく。川沿いに伸びる平坦地に着いた時は、一仕事したなと感じるくらい坂道を降りていた。
その一番下から、また山の上にかけて登っていくと頂上に城がある。事前に調べていたら、山の中腹に駐車行がありそこから20分ほど登るとのことだった。20分とは軽い山登りだなとナメ切っていた。自分の体力を過信していたバチが当たった。

駐車場脇には登山の心得は書いていない。登っていく要所にあるビューポイントらしいものだが、それも無視して上り始めた。douyaら、そこのポイントで休みながら登れという「正しい助言」だったのだが……………
5分で後悔した。

要所要所に立て札があり、あれこれ注意が書かかれてあった。一番初めに見たものは「慌てて登るな」だったが、この時点ですでに上り切れるかどうかが大問題になっていた。逃げるなら今だぞ、的な心情になっていた。

こういう具合に階段になっているのはまだ良い方だ。少なくともこの先に階段の端っこがあるのは理解できる。とりあえず、この階段を上り切ったら考えよう、と自分を騙しながら一歩一歩上る。10歩登っては一休みみたいな気分だった。

もうそろそろ天辺に着くのではないかと思った頃、「ここが中間地点」という看板に出会い、完全に心が折れた。気分は9割下山する方向に向いている。それを騙して、また上り始める。立ち止まる。考える。このダメダメサイクルが延々と続く。

中間点から石段を延々と上り、たまに平坦な場所に出るが、そこを少し歩くとまた上り坂が始まる。頂上に近づくにつれ、そうしたギミックというか期待感を抱かせた上で裏切るみたいな道作りになっていた。この城を攻めることになった兵隊はさぞかしフラストレーションが貯まることになっていただろう。築城主の底意地の悪さがあから様に感じられる。だから名城と言われるのか。

ようやくゴールかと思った見晴台のような場所がある。そこから山の下を見下ろすと高梁の街、民家が見える。景色は良いが、そこから振り返るとまた山を登る坂道が見えてくる。実にけしからんつくりだ。

精神衛生上、全くよろしくない山道を登ること40分。すでに規定時間の倍近くになっていた。天守閣がある広場には入場券を買ってはいるのだが、その切符売り場に上がるたかが十数段の階段が無限の高さに思えるほど疲労困憊していた。

天守閣周りの小さい広場でしばし休憩していると、汗が急速に冷えてきて寒い。ただ、夏であれば暑さでもっと早くギブアップしたような気もする。岡山の城廻は地獄の旅だなと思った。
明治の大規模城塞破壊の時代を生き延びたのは、この山登りの面倒臭さのせいだったかもしれない。少なくとも現存12天守の中で、この場所が一番しんどいのは確かだ。
ひいひいいながら駐車場まで降りてきて、土産物売店の方に、エスカレーターくらいつけた方が良くないですかと聞いたら、働くもの全員そう思っていますとのこと。客から言わないとなかなか管理団体が腰を上げないそうだ。
だから、声を大にしていいたい。備中松山城にエスカレーターをつけよう運動を始めませんか。もちろんクラウドファンディングもつけましょう。そうしないと永遠に設置されそうもない。

お城の公式ホームページ?はこちらhttps://www.city.takahashi.lg.jp/soshiki/9/shiro4240131.html

街を歩く

岡山イオンの街づくり考察

レストラン街で異色のスイーツ専門店があった クリームソーダが目を引く

岡山のイオンは駅前に大型店を建てるという、イオンの新出店戦略の一号店だったはずだ。一度視察に来てみたいと思っていたが、間にコロナが起こりずいぶんと時間が経ってしまった。
イオンも含め、ショッピングモール開店時のテナント構成は意外と当てにならない。ゾーニングも含めて、開店して2-3年経ったくらいからその店特有の配置が完了すると考えても良さそうだ。
デベロッパー側は新規性の高いテナントを入れたがる。新規テナントは売り上げの予測も立てられないまま、いわばみずてんで開店を決める。そして、早ければ半年で退店していく。そこを狙っているわけでもないのだろうが、2件目や3件目で入居してくるテナントは、他のモールでもしっかりと実績のある実力派だ。
だから、新規開店時に無理な条件で出店はしないが、閉店跡地への出店依頼があると「やれやれ、そろそろうちの出番だな」ということで、好条件を代償に出店をする。
だから、3年もすると各フロアーごとに出退店が完了して、安定期に入っているとみて良い。
その時期のテナント構成が、いわば定石布陣にあたるとみている。開店景気も終わり、その街で生き残れるかどうか、モールの実力が現れる時期だ。

レストラン街の中庭 は素晴らしいが冬には寒すぎるかも

そんなことを考えながらゆっくりと各フロアーを回ってみた。相変わらずレストランは店舗を詰め込みすぎで、どの店も席数が足りない。これでは、ピーク時に売り上げが取りきれないので人気店には条件が悪すぎる。ただ、不人気店では人気店が満員のため溢れ出すおこぼれが回るのでそこそこ売れるのだが。
どうもイオン側、つまりデベロッパーの認識、特に新規開店時の発想がいまだにバブル期的な残滓が多いように思う。テナントと共存共栄を図りたいのであれば、レストラン出店数を抑えて個店での席数を増やし、生存性を高めた方が得策だと思うのだが………

結局、一年程度で閉店に追い込まれ、そこに老舗ブランドばかりが出店すると、レストラン街が全国一律のテナント構成になるのは見え見えだ。ただ、その過当競争の中から次の世代の強者、生き残りグループが生まれるのかもしれない。丸亀製麺も、そうしたイオンの試練に立ち向かい勝ち残った強者だ。
パルコでスシローがワンフロア独占する時代なので、デベロッパーもテナントミックスに関して迷走中なのは間違いない。案外、イオン的スパルタ環境が好みのブランドも出現しそうだが、そんな店の店長は「どM体質」が要求されそうで、それはそれでいかがなものかなあ、などと屋上にある人工庭園で考えていた。
ここで弁当を食べると結構優雅な気分になりそうで、レストラン街に対して最強の敵かもしれない。

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津山城は霧の中

津山城は小高い丘の上に立つ山だった。石垣が平面加工してあるので、築城技術が整った頃、つまり江戸前期くらいに作られたものだろうと推測できる。岡山から鳥取に抜ける中国縦貫道の要所である津山に大きな城があるのは理解できる。
ここと、岡山城で縦深陣地を形成するのは戦略的に意味がある。ここを迂回しようとすると鳥取から豊岡、亀岡と抜ける京都周りの経路になるが、それもまた盆地を順番に下して行く長い戦闘が続く。秀吉の鳥取、岡山攻めに時間がかかったのはこの二正面制覇が問題だったのだ。

城の麓から天守閣後まではかなりの高低差がある。最初から嫌な予感がしていたのだが、これがこの先延々と続く備前、備中、美作国の山登りの始まりだった。

途中経過は省くことにするが、高さの違う石段を延々と上り続ける。石垣も何度か曲がりくねる、防衛拠点特有の構造だから、あとどれくらい登れば頂上に辿り着くのかもよくわからない、希望を持たせない作りだ。
天守閣跡は御殿が広がっていた平地だったが、そこには、よくこの高さを登ってきた、ご苦労、というずいぶん上から語りかける看板もあった。褒められても嬉しくない。

てっぺんで一休みしたあと降り始めたら、予想以上に足に来ていて階段を踏み外しそうになった。

山頂からは津山の町が見えるはずなのだが、思っていた以上に見通しが良くない。霧に霞んでいるせいだ。冬の晴れた日であればもう少しすっきりとした気配になっているのかもしれないが、山の中で曇天、霧雨状態であれば見通しが効かないのも仕方がない。
ものすごく疲れた割に達成感が感じられない。城から降りても町巡りをする気力も湧いてこない。こういう困った日もあるものだと諦めてさっさと退散することにした。

街を歩く

大阪みやげ

新大阪駅で見つけた、大阪とは全く関係のなさそうなスナック菓子だが、これには魔性の魅力がある。だいぶ昔にはやったチョコボールの中に非ギャが入っているものも、うっかり一個買ってしまってから泥沼にハマった記憶がある。
なので、この菓子は開封しないでこのまま封印することにした。確か売場でも大人買い禁止みたいなことが書いてあり販売個数制限がかかっていた。新大阪駅以外でも売っているのは間違いないだろうが、それを確かめてはいけないと思う。禁断の菓子だ。

大阪名物とは全く思わないが、トラジマとお好み焼き味のせんべいはイメージしやすい。これはすぐに開封して食べてみた。お好み焼きだと言われれば、まあ、そうかなあという味で、パチモンとは言わないが胡散臭い味がするのは確かだ。ある意味、本当に大阪らしいのかもしれない。

一番大阪的なノリかなあと思ったのがこれで、千日前にある老舗洋食屋とのコラボらしい。確かにあそこのカレーは日本でも一二を争う独創性があるとは思うが、それがピーナッツと淡さてもねえ、と思ってしまう。
それより、あの名物女将の写真は使えないのかなあ。店頭には等身大の立て看板もあったはずだが。コロナの間に引退してしまったのだろうか、そちらの方がよほど気になる。
よくよく考えれば、大阪名物土産というと蓬莱の豚まんが絶対定番だろう。あとは、時間があれば阪神百貨店のイカ焼きかあ。個人的には、日本一巨大な田舎町という印象がある大阪なので、土産なんか買わないで、現地で楽しんで帰るのが一番正しい大阪の使い方みたいな気もする。街全体がアミューズメント施設で、街歩く人全員がキャストと思えば、日本最大のテーマパークとも言えるなあ。

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岡山城

岡山には何度も行ったことがあるのだが、幹線道路沿いにある店舗を見に行ったり、ショッピングセンターを視察したりで、街中を歩いたことがないままだった。お城に関心もなく、名所である公園にも興味がないのだから、お城周りに行く場所はない。
しかし、岡山城を一度も見ていないままでは後悔すると一念発起して、お城見学に行くことにした。ネットでマップを見ると駅前からはなんとか徒歩圏らしいが、近くまで路面電車も走っているので、お城近くまでは電車移動にした。
路面電車はのんびりと走るので(法定速度がかなり低いらしい)、街を覗き見るにはちょうど良い。岡山の城下町らしき繁華街で電車を降りて、そこから10分ほど歩いた。広いお堀を巡らせた立派な城だった。

石垣の積まれ方で、概ね築城された時期がわかる。戦国中期に始まった石垣の上に守備構造物を乗せる形は、戦国が終わった後の江戸初期に新規築城が止められるまで、時代と共に進化して至った。当然、最新兵器の鉄砲に対抗する設計も加えられ水堀、石垣、多層構造の防御拠点(三の丸、二の丸、本丸)による縦深防御などの築城基軸が生まれた。
岡山城は瀬戸内海に広がる高速海上街道の東部拠点であり、また日本海側との陸路の結節点でもあったため、立派な城が建てられた。関ヶ原敗軍である西国諸侯に対する防衛拠点でもある。江戸幕府、西国方面の主力防衛要塞だ。

いつものようにお堀の周辺で攻城作戦を練ってみるのだが、この城も力攻めが難しい戦国末期の傑作城らしい。そもそも山城ではなく平城で防衛拠点には向いていない。それを、人工的に仕立て上げた要塞だ。後背地は川で正面は深い堀になっている。
信州上田城と同じ構造で自然の障害を上手く活用した好立地だし、包囲戦を仕掛けようにも川が邪魔だ。おまけに飲み水も潤沢なので包囲戦を仕掛けた方が、山側から逆包囲も考えられる。守りに優れた名城なのだ。

黒一色の姿はなかなか武ばった感じがする。漆黒の城は精悍な印象を受ける。ただ、事前に全く研究していなかったので、城の中に入ってから初めて知ったのだが、この城は復元城だった。先の大戦で空襲を受けて焼かれてしまったそうだ。
日本の城の大半は、戊辰戦争後に頭の悪い西国革命政府により廃城になり、生き残ったものも大戦の空襲で焼けてしまった。たかが70年ほどの時間で歴史的建造物のほとんどが消えた。負けた大戦の責任を取ろうとしない明治政府の後継者も含め、近代日本失政の象徴とも言える。

城の中は博物館になっていて岡山城の歴史を学ぶことができるが、一番感動したのは城の礎石を復元したものだ。
名古屋城を完全に木造で復元するプロジェクトもあると聞いたが、今では城を再建するほどの国産木材、特に巨木は手に入らないだろう。山奥に入って樹齢100年を超える大木を探しまくれば可能かもしれないが、そんな木を切ることは環境団体が反対するに決まっている。
そもそも、古代から中世にかけて首都が東遷したのは、首都造営に伴い周辺の大木を伐採し尽くしたからだ。すでに本州東部はおろか北海道まで、巨大建築に向く大木は斬り尽くしているはずだ。
だから、礎石の復元で我慢して、あとは想像力を駆使して巨大な城のバーチャルな姿を思い浮かべれば良いと思う。木造大箱建築物が好きな首相がいなくなって良かったと思っていたら、もっとおバカな万博大好き知事が、これまた木材の無駄遣いの極みを趣味しているのだ。
西国の権力者達は上古の昔から本当にどうしようもないおバカな性分らしい。復元岡山城を見ながら、そんな歴史の過ちを考えておりました。