街を歩く

夢の跡

山中城跡 入り口からすぐのあたり

こんな風景を見たら公園の土手?と思うかもしれない。が、これは立派な城跡だ。戦国時代の東国では、築城技術が遅れていたこともあり石垣のある城がつくられるようになったのは随分遅い。戦国時代末期ではないか。
関東では一大勢力だった北条氏の箱根防衛戦となった山城は、基本的に土の壁、土塁が中心だった。ただし、その規模は巨大で箱根の峠に向かう山の中腹をほぼ占拠していた。ただ、その土塁をめぐる攻防戦はたった一日で終わる。
築城技術の差もあるのだろうが、おそらく戦争技術が遅れていたのだろう。畿内を巡る幾多の戦闘経験を積んできた織田軍とその後継者たちは、戦時技術の急速な進歩を体験している。弓と槍主体の歩兵近接戦から鉄砲を主力とした長距離戦への移行が最大の変化だが、土木技術の発達に伴いより堅固な築城を行えるようなった頃でもある。堅固になった白を落とすのは単純な力攻めでは難しくなった。その結果、大兵力に物を言わせて白を城を包囲した持久戦、兵糧戦に持ち込むまでになった。
東国、特に関東では鎌倉以来の築城と野戦で勝負していたのだから、聖地に仕上がった西国の先進戦争技術に敵うはずもない。

その技術進歩に取り残されていた東国武士が関ヶ原以降で日本の覇権を握ったのは、徳川家康が関東に移封され戦争技術が一気に進んだことにあると思う。関ヶ原は野戦であり戦争技術に差が出ない。おまけに築城技術対城攻略技術のぶつかり合いもない。数がものを言う勝負だった。

その後の大阪城攻めでは、出丸からの攻勢防護という新技術が生まれ(真田丸の話だ)、それに対抗して大砲による遠距離射撃での城砦破砕という新技術が登場した。これは技術進歩のぶつかり合いで、そして、戦国期を終わりにさせる最終決戦だった。
大阪城の攻防を最後に日本では攻城戦が終了する。 
当然ながら、滅亡した北条氏の時代遅れな城など保持されるはずもなく、山の中の公園跡地程度にしか見えない。まさに強者どもの夢のあとだ。

個人的には江戸城(千代宇田城)を見にいくよりは、この箱根峠西側のある北条氏の城跡を見る方が、歴史浪漫に浸れると思いますけどね。ただし、見た目は大きな駐車場とさびれた公園緑地でしかないので、ありし日の姿を想像できる歴史力が必要ですけど。

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