街を歩く

ダム巡りの旅

コロナの終わり頃に、北海道ダム巡りの旅を完了した。最後のダムは金山ダムだったので、富良野の街も訪れた後、三笠の化石博物館に立ち寄ったのを思い出した。化石の話からの連想で北海道の観光政策の悪辣ぶりに憤慨していたのだが、北海道が日本国領土として正式に開発され始めてから160年、その間は一度も文化的な活動が盛んになることはなかったと思う。
そもそも北海道は革命政府である明治政府が予算もないまま北方からの防衛拠点として開発されなければならなくなった。おまけに徳川政権の持つ様々なな権益を全て没収したにもかかわらず、それでも金が足りない。おまけに知恵も足りないので、旧徳川勢力の武力放棄と棄民政策を合わせて敗軍となった東軍の大半を北海道開拓に送り込んだ。
西南戦争は勝ち組の薩摩の内部分裂であり、貧乏武士同士の権力と金に対する執着の強さから起きたことだ。この後に北海道に送り込まれる棄民たる旧徳川勢力を合わせて反政府軍ができなかったのが不思議なのだが、第二次革命が起きればもう少しマシな整体になったのではないかと思うと残念だ。
まあ、片方の旗印になるべき最後の将軍はどうしようもない臆病者であり、反政府側に立った薩摩大物も仲間割れをした相手に対する冷徹さが足りていない気がする。自分たちは負けてもいいから、薩摩誰かが権力者として生き残ることを願っていた節がある。

貧乏武士のルサンチマンが産んだ権力志向の明治政府だから、宗教を含め旧世代の文化否定からはじまり、自分達の都合の良い話に統制することが大好きで、結果的に愚者が操る愚民の国となり亡国への道を知己進んだ。
その亡国の象徴が北海道開拓であり、軍事目的と棄民でできた土地に、新しい文化など生まれるはずがない。全国から集まってきた棄民集団だから、いつの間にか特殊な方言が成立したが、北海道弁?が文化的遺産だと強弁できるか。無理だろうなあ。

それでも石炭や遠洋漁業など経済的な牽引車があった時期は、全国から集まったミックス集団らしい融合的な精神が育つ土壌はあったはずだが、それも明治革命の勝ち組である西軍のものたち、例えば薩摩や長州や土佐の一味は北海道にはほとんど入植していない。犯罪者でもなければ、西国の民が北海道に移る必然性はなかった体。

そのせいか、北海道人には西国言葉にアレルギーを示すものが多い。これだけテレビ番組で関西系の言葉が氾濫しているにもかかわらずだ。西国は文化的にはロドと並ぶ先進地帯だったので、その西国文化を拒むことは開拓地の文化を著しく停滞させたのだと思う。

隠して文化的に誇るべきものを持たないまま(歴史も浅いせいで)、北海道が観光資源とするものは手付かずの自然と豊富な食料という、なんとも言いようのない資源しか持たない。
おまけに国土防衛の観点から、無住の地にも張り巡らされた軍事的な道路網を当たり前として受け入れているのだから……………

そして、北海道にある巨大ダムの数々は、その目的が曖昧のまま予算消化のために作り上げられたものでしかないように見える。莫大な開発予算を国から提供されていたので、そのお裾分けとしてダムが大量生産されたと思っている。それでなければ流域人口が稀な地域にあれほどダムを作る必要性があるか。ダムの目的の大きば部分は治水であり、発電であるはずだが、北海道のダムの配置を見れば、それが実に怪しいことがわかる。まあ、全国のダムニオ随分と怪しいものは多いが。

北海道ダム巡り最後のダムでそんなことを考えていた。本当に、北海道で反政府運動、第二次革命が起こらなかったのは不思議なのだ。負けた東軍のお行儀が良かったのか、育児がなかったのか。ロシアの力でも借りて反革命……………なんていうのは世界史ではザラにあることなんだがなあ。北海道出身の総理大臣でも出ない限り、この被差別?感は残っているような気もするが。ああ、これはゴールデンカムイの世界か。

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