街を歩く, 旅をする

岡山アーケード そぞろ歩き

昔からある城下町では、鉄道の駅とお城近くの繁華街が離れていることが多い。岡山も新幹線が通る大幹線駅なのだが、お城から駅はかなり離れている。お城と駅を結ぶのが路面電車で、これを使ってお城近くまで行った。百貨店を中心としてアーケードが続く岡山の繁華街だが、残念なことにシャッターが閉まった店もかなりある。中心部の衰退は全国土の街で起こっていることだが、岡山も例外とはいえないようだ。このアーケード街が再生することは、おそらくない。そのうちにぽつりぽつりと店が消え駐車場に変わるようになる。そうなるとアーケードは一気に荒廃が始まる。そんな街をあちこちで見てきた。

おそらく、その引き金を引いたのは自動車移動中心の生活が始まったことで、それに商店街の対応が遅れたことだ。そして、決着をつけたのが駅前にできた大規模人工都市であるショッピングモールだ。
このショッピングモール対繁華街の戦いは、都市の新陳代謝と見ることもできる。しかし、都市再生というにはほどとおり。ただただ、旧繁華街で起こっているのは、自分たちの街の新陳代謝を起こせずにゆっくりと老衰しているという現実だろう。
その衰えゆく街並みの中で、いやいや、俺たちはまだ負けませんぜというような元気のある看板を見ると、他人様の街でありながらホッとする。例えばこの「漆器雑貨」と書かれた看板の力強さがたまらない。
今の時代に漆器の専門店を続けていることもすごいが、城下町の時代にはさぞかし名門の老舗だったのではないか。漆器とは、今でいうところの高級ブランドであり、嫁入り道具で持っていったり、代々伝わる冠婚葬祭の必須道具だったはずだ。
見た目は古そうな看板だが、定期的にメンテナンスしているように見える。電話番号五十四番とはこれまたすごい。岡山の中で最初期に電話を引いた大金持ち商人だったということがよくわかる。看板に感動するとは稀な経験だった。書体は旧字で右書きであるから、少なくとも戦前、おそらく明治末ごろからの看板だろうか。

こちらは昭和中期の看板だと思うが、今でも「ラジオ」店というのがすばらしい。昭和の始まりごろから続く店だろうか。当時、ラジオは近代家電の代表で、最新鋭の情報機器だった。近代文明の最先端を感じさせるものだったはずだ。
そしてラジオはテレビに置き換わり、パソコン、スマホと時代の主力情報機器は進化を続けた。今ではラジオ専用機を持っているものなど数少ない「趣味」専用の機械だ。(ちなみに、自分はラジオ専用機を持っておりますが、なにか?)
すっかり減少している喫煙者が店の前に集まっていたので、何か特殊なことでもあるのかと興味を惹かれたが、単純に大型の灰皿があるからそこでタバコを吸っているだけだったようだ。ラジオ店の集客がタバコになっているという不思議さには、あれこれ考えてしまった。

店の中では何を売っているのか覗いてみたら、なんとも雑多なもの、おそらく家電製品の一種を含めたあれこれが並んでいる。ドンキの家電売り場のようなカオス状態だった。じっくり時間をかけて眺めてみたら面白そうだったが………

そのラジオ店の先で、これまた不思議な店を発見した。何を売っているのかよくわからない。店頭で飲食業をしているような感じもするが、入り口付近には様々な人形が並んでいる。どうやら骨董品屋というかアンティックショップというか、いろいろな古いものを雑然と並べて売っているようだ。
営業中と書いてあるが、この看板もひょっとして売り物なのではないかとおもってしまう。ちなみに店頭でソフトクリームを注文するにはどうすれば良いのか。従業員は誰もいないので、店内に注文しに行くのだろうか。あれこれ興味が尽きない。

一番すごいのは、この薬品メーカーが作った遊具で、たしか十円入れるとごとごと?動くものだったような記憶がある。ただ、十円玉挿入口は塞がれていた。これも売っているのだろうか。値札は見つけられなかったが。まさしく不思議空間だ。

アーケード探索に疲れて喫茶店でもないかと探していたら、すてきな食堂を発見した。もう少し腹が空いていればノータイムで入ったのだが………
少しくたびれた感じのする岡山繁華街は、実は「私、脱ぐとすごいんです」的なグラマーな魅力に溢れているワンダーランドらしい。もう一度、ゆっくり時間をかけて遊びに来たいものだ。
多分、土曜の午後、人出が多い時間が楽しそうだ。ちなみに岡山は財政破綻都市の手前くらい借金が多いらしいので、アーケード復興の予算はないだろうから、ここはクラウドファンディングを使い、面白い街づくりをするというのはどうかなあ。対イオンとして大正昭和をテーマに全面レトロなテーマパークみたいにするとか。商店街の観光地かは面白いと思うのだけれど。

街を歩く, 食べ物レポート

歌舞伎町 ハーレムナイト

やはり歌舞伎町は、ハーレム な感じがする

歌舞伎町タワーは昨年の話題を攫ったものの一つだろう。旧新宿コマ劇場前の広場を取り囲むように幾つもの高層ビルが出来上がったが、このビルほど賑やかしいものはないと思う。極めて歌舞伎町的でにぎにぎしい。
このビルの前に、いわゆる「キッズ」グループが屯しているのだが、どうらや公的機関が排除活動を始めたようだ。西新宿に多数集まっていたホームレスを排除したのと同じ手法だから、この先は簡単に予想がつく。広場は常設イベントスペースになるようだ。

初めて入ったが、自分で衣をつけて自分で揚げるセルフ串揚げは面白い

そんな歌舞伎町で、なぜか男二人でセルフの串揚げ食べ放題店に入り忘年会をすることになった。忘年会繁忙期を避けるために予定していた11月の飲み会が、何度かリスケになり、結果的に12月の中旬という忘年会ピークに合わせて歌舞伎町で酒を飲むことになった。周りにいる客はほとんど忘年会だったし、歌舞伎町なので外国人客も次々とやってくる。なかなか気忙しい。

イカがうまかったが、小さすぎるぞ

串に刺されている具材はどれも小ぶりなので、とりあえず10本くらい取ってきて揚げてみることにした。セルフ方式なので「安全安心」を心がけ、野菜あるいは加熱調理品だけにしようと思ったが、エビの串刺しには心を揺さぶられつい何本か取ってしまった。

タコさんウインナーの意味はなんだったのだろう

元・唐揚げ屋のくせに(笑)、ちょうど良い上がりのタイミングが読めない。適当に引き上げてみたら、どうも揚げ時間が長すぎたようだ。その次には早めに引き上げることにしたら、今度は生揚げだった。
スマホを使ってタイマー管理でもした方が良いかと、ふと昔の職業意識が芽生えるが、所詮飲み屋のつまみだし、そこまで気張るのもなんだかなあ。あっさり諦め適当に揚げることにしたのだが、なんとみるみる揚げ方が上手になっていくではないか。揚げている途中のジュワジュワいう音で揚がり具合がわかるようになってきた?らしい。

ソースは典型的な中濃ソースと梅味のものを選んだが、当然のようにチーズ味のソースもあった。今や平成世代にはチーズ味は鉄板なのだ。串揚げに飽きるとカレーライスも食べられるし、デザート類も並べてある。お口直しにアイスクリームも食べられる。
ただ、これを満喫するには、おそらく二十代の体力と揚げ物大量摂取に耐えうる油耐性が必須条件だ。おまけに、飲み放題をつけても「油負け」するので酒も飲めなくなる。年齢的には全く不適な選択肢だった。

やはり歌舞伎町は厳しい先生なのだ。幾つになっても教育的指導を与えてくれる。くそ、だから歌舞伎町で飲むのは嫌なんだ。これも、幾つになっても学ばない自分が悪いのだけれど。

街を歩く, 食べ物レポート

居酒屋 @池袋西口 IWGP

池袋は西口と東口で見せる顔が随分と違う。西口には大劇場があり、その前の公園もイルミネーションで飾りつけられると、どうも異世界感が増してくる。普段の西口のわい雑さはどこに行ったという感じもするのだが、夜は街の顔を美人に変えてしまう。

リアウ昭和がそのまま体験できる「生きた花石」で「生き残った奇跡」

ただ、一本裏通りに入ればそこは当たり前だが厚化粧の美人ではない日常空間が広がっていて、いつもの池袋西口らしい居酒屋がある。この日は長く付き合いのある友人たちと気楽な定例飲み会の日で、ここが会場になっていた。定例飲み会と称して都内あちこちの伝統的居酒屋周りをしている。今回は池袋西口編だった。そして、この店は昭和の空気が連綿と続くThe 居酒屋であり、昭和の絶対空間の生き残りだ。

擬似昭和な飲み屋は大増殖中だ

お目当ての店の横には、大チェーンが運営する二毛作飲み屋の最新バージョンがあった。おしゃれなバーカウンターが売り物だったはずの店が、いまでは暖簾をかけて居酒屋もどきになっている。
どうもこのセンスは、昭和レトロというより文化の揺り返しみたいなものらしい。ミニスカートや厚底ブーツが何十年ぶりにまた流行るみたいなものだろう。当然、昭和を懐かしむジジイを対象にしたものではなく、昭和と江戸時代の区別もつかない若い層向けの新コンセプトだ。昭和のj雰囲気でコンセプトを固めれば、それはもはや怪獣酒場やジャングルレストランと同じ「異空間」を楽しむ場所、テーマレストランの変形になる。そこを勘違いする昭和親父は多いのだが。
どちらにせよ、擬似空間の昭和とリアルな昭和が併存している不思議な池袋西口の光景だ。

まず頼んだのはタコブツとマカロニサラダ。そもそもポテトサラダではなく、マカロニサラダを頼んでしまうのは、我ながら不思議だ。マカロニサラダは炭水化物をおかずに炭水化物を食べるような微妙な肴というかつまみだと思う。マヨとマカロニという組み合わせは、多少なりとも罪悪感を感じさせるヘビーカロリーフードだ。
タコぶつは昔は安い肴の典型だったはずだが、今ではタコはすっかり高級品になってしまった。お気楽に頼める肴ではないのだが。
ダメな居酒屋であれば、細切れなタコが2−3切れしか入っていないこともあり、店によって当たり外れが大きい「困った定番メニュー」だろう。しかし、この店では大正解で、大ぶりに切られたタコぶつだった。タコの存在感がある。えらい。感謝だ。

おかわりの注文も、ど定番ばかりで、オニオンスライスにイカ天Etc. と進行する。いかにもお江戸の居酒屋っぽいものばかりになるが、そもそも目玉商品になるようなご当地名物がお江戸には存在しない。逆に、名物はないけれどドがつく定番があるということか。

最後に注文した煮凝りも、煮魚の残りを気まぐれに出すような店はあるが、メニューにしっかりと載せているところは少ない。自宅でたまにできる鍋の残り物みたいなふやけた柔らかさではない。しっかりとした噛みごたえがあるし、歯応えすらある硬い煮凝りだった。
あまりうまく言えないのだが、この食材の始末の良さみたいなものが、お江戸居酒屋料理なのかもしれない。魚の兜焼きだとか、あら煮みたいなものを食べるたびに感じることでだ。あの手この手で「原料」を使い切る工夫が、うまい物の発明に繋がっている。昭和というより江戸時代から続く、江戸町民の知恵みたいなものではないか。経済都市江戸で生まれた食文化は、その大部分が底辺階級、下級町民向けのものが発祥のような気がする。蕎麦、握り鮨、鰻にどじょうなどなど。貧乏な独身男性向けの立ち売り商売が発祥だと聞いている。お殿様向けの高級料理は、お江戸が京都を越えることができなかった。だが、大金持ちの商人が生み出したお江戸食い道楽は今でも残っているようだ。今ではどじょうもウナギも握り鮨も庶民のものとは言い難いけれど。

そんなお江戸文化論を頭の隅に置きながら昭和な居酒屋を出てみれば、そこには二十一世紀日本の大都市文化が広がっている。池袋西口は本当に不思議空間なのだなあ。

街を歩く

年の瀬が迫ってきて

12月上旬に感じる年末感

クリスマスツリーをみると門松を見るより年末感がする。世間的にはクリスマスツリーの撤去された後の門松の方が、年の瀬を感じおさせるのだと思う。クリスマスにとクエ別な思い入れがあるのは、長年働いてきた会社の特性というか強制刷り込みのせいなので仕方がない。今年のクリスマスは今までやったことがないイベントを企んでいるのだが。

その年末感に突き動かされて(笑)味噌ラーメンを食べに行った。深い意味はないが、最近はよく味噌ラーメンを食べ比べている。醤油ラーメンはあまり味の変化がないが、味噌ラーメンは店ごとにまるっきり個性が違うものが登場するので「びっくり箱」を開けるような気分があり楽しい。
いつもの埼玉発ラーメンチェーンでは、関東風のオーソドックスな味噌ラーメンが出てくるが、今回はそれにネギを足してみようと、ネギタワー味噌ラーメンなるものを注文してみた。
そうしたら、ネギが別添で出てきた。うーん、これはなんと評価するべきだろう。確かに、このチェーンは夏の冷やし中華もトッピングは別皿で出てくる。合理的と言えばそうだが、手抜きと言った方が正しい気もする。そのセルフ方式で「ネギタワー」と言われても……………

仕方がないので、自分でタワーを作ってみた。やはり予想通り、タワーは直立しない。ピサの斜塔のように傾いている。なんだか微妙な残念感がある。ただ、自作してわかったことだが、タワーを正しく作るにはそれなりの技術が必要みたいだし、手間もかかる。どうせ食べる時はタワーを崩してネギラーメンにするのだから、別添セルフでも同じだろう、ということのようだ。身も蓋もない、というしかない。上手にタワーを作ったとしても配膳の間にタワーが倒れる可能性もある。
仕方がないかあ。と諦めることにしよう。

チャー酒の代わりに追加で頼んだ焼き鳥も、なんだかパックに入っていたのをそのまま袋から出しました感があり、世の無情を感じてしまう年の瀬であります。

街を歩く

休日の渋谷はごみだらけ

祝日の朝早くから渋谷に用事があり出かけた。朝早くだというのに、というか朝早くだからというか、渋谷の街中を酔っ払った若い方がたむろしていたり、奇声を上げていたり、なかなか賑やかだった。
おまけに路上がゴミだらけで、まるで20年前に行ったNYCを思い起こさせる。このゴミだらけの道路も道沿いにある商店の営業が始まる頃には、街の人たちが掃除をしてくれているから、ゴミも目立たなくなるのだろう。
酔っ払いが汚した朝の街をまともに見るのは初めてだったせいもあり、なんともいえない気分になる。おまけに、ゴミとして散らかっているのが缶チューハイやビールの空き缶と弁当の殻・箱で、路上で二次会、3次会をやったことがわかる。
若い方?は、飲み屋に行って酒をのむ金がないのだろう。(多分)おまけに飲んだ後、飯屋に行って何かを食べる金がないのだ。ということがわかった。コロナの間に流行した路上飲みは、飲む店が空いていないせいだったはずだが、今では通常営業している飲み屋に行かず路上で飲むらしい。これは単なる貧乏の現れのように思える。
深夜の路上飲みはコロナの落とし子で、もはや見栄を張ることなく路上飲みができる文化?態度が出来上がったみたいだ。もはやホームレスの宴会と深夜の路上飲みには境目がない。文化の退廃というより、美意識の変化なのか。
増税メガネのおっさんは日曜の朝、渋谷の街でゴミ拾いのボランティアでもしなさい。そうすれば、いかに国民が貧乏になったか実感できるぞ。と思いました、はい。
高級マンションが立ち並ぶ某公営放送の搬送口あたりでも、コンビニ込みと空き缶は散乱していた。この辺りの住民は、高い家賃を払いながらゴミにまみれた町に暮らすことを納得しているのだろうか。

その渋谷の高級マンションが立ち並ぶ一角で、まさかの昭和アパートを発見した。雨戸が締め切っているので、まだ誰か住んでいるようには見えないが、深夜の喧騒(路上飲み会)が嫌で雨戸を締め切っているのかもしれない。やはり東京という街は、まだまだあちこちに不思議空間が残っているのだなあ。

その昭和が取り残されたようなスペースから5分も歩くと、超絶大都会の渋谷109前にたどり着く。そこでは、なんとこれまた平成前期カルチャーの落とし子、たまごっち復活のイベントがやっていた。なぜ、109前でこれだよと頭を捻ってしまったのだが…………
イベントを仕切っているらしいおっさんが、ベビーカーに乗っている子供に、何やら渡していた。たまごっちの英才教育を2歳児くらいから始めるつもりかと思ったが、おそらくターゲットはベビーカーを押している母親で、まさに彼女はリアルにたまごっちで遊んだ第一世代だ。それに気がつくと、イベントおっさんが急に頭が良い人に見えてきた。また、たまごっちが流行るのかな。確か第一世代では過剰在庫で販売会社が潰れかかったはずだが。


渋谷には昭和と平成と令和のカオスが共存しているのだな。

街を歩く, 旅をする

大阪そぞろ歩き看板コレクション

よく晴れた日、それも気温があまり高くない日に街歩きをするのが好きだ。今年の夏のように、日中歩くと人死にが出そうな暑さでは街歩きもできない。おまけに今年は暑い時期が長かったので、お散歩にちょうど良い気候になったと思ったら、そのまま一気に肌寒く感じるようになり、あまり街歩きをしていない。
そこで、今回は大阪の街に朝早く乗り込んで、都心部を歩き回ってみることにした。あちこちで面白そうな看板や店構えを写真に収めるのは、お気楽な趣味だろう。

この店は夜になると、お祭りの縁日屋台のような感じになるのでは

ブランニュー酒場とは一体どういうものだろう。大阪に来てよく感じるのが、この大阪系造語力だ。お江戸にもあれこれ不思議な言語感覚を発揮する店は多いが、どう言えば良いのだろう、大阪は街全体が「造語」で溢れている。日本語の使いまわす能力がお江戸より2段階くらい上なのではないかと思っている。
店名から察するに、鰹のたたきと馬肉の店かなという感じがしたが、ひょっとするとサザエさんの弟の方かも。だとするとワカメが登場していないのはおかしいか。そうなると、この店の社長夫妻の名前なのかもしれない、などとあれこれ想像してしまう。夜に来ると楽しそうだが。大阪でカツオを食べるのもなあ。

この漢字二文字の店名は実に潔い。炭酸飲料水の赤いロゴも良さげだ。この赤い看板は目にすることもすっかり少なくなった希少ものだ。こういう店にはふらりと入ってモーニングセットでも注文してみたくなる。多分、いやきっと、緑色のソーダ水もあるに違いない。クリームソーダ、飲んでみたかったなあ。エビピラフという名前のチャーハンもありそうだし。

天王寺の裏通りで発見したインパクト抜群の居酒屋看板。置かれている提灯には大阪下町焼き鳥と書いてある。大阪下町の風情はこの賑やかさなのだろうか。確かに、横丁から下駄履きのちえちゃんが出てきても不思議ではない。
しかし、提灯をよくよく眺めてみると、全国の有名チキン料理がずらっと並んでいて、大阪下町名物とはいったいどれのことだろうか。不思議空間だが、言ったもの勝ちというのが大阪下町なのかもしれない。
そもそも居酒屋に自転車で来ているのがすごい。帰りは押して帰るのだろうなあ。乗って帰れば間違いなく道交法違反でありますよ。いや、客の自転車ではなく従業員のものかもしれない………

その近くにあった、これまた魅力的なファサードの店で、入り口から入ったところにあるのがスタンド、要するにスタンディングで飲む店。つまり立ち飲み屋だ。ふらっと入ってみたくなり中をのぞいてみたが、満員だったので諦めた。
このスタンドという言い方は、お江戸では見かけた記憶がない。京都の錦市場の近くでたまに立ち寄る店もスタンドと書いてあったが、着席できた。やはり酒飲み文化も東と西では違うのだなあと、改めて思う。
2階にある台風飯店は、その名前だけで入ってみたくなる。ここでも大阪人的日本語造形センスに凄さを感じる。お江戸であれば四谷三丁目の裏路地あたりにありそうな店だが、天王寺では居酒屋ストリートのど真ん中にある。この辺りの店を回って歩くだけで、一週間くらい楽しい大阪滞在ができそうだし、ぜひ、してみたい。

そして、今現在の大阪で最も際物、最もあれこれ言われているキャラも現物を見つけた。テレビのニュースで見た時には、げげげの鬼〇〇に出てきた、目が100個ある妖怪を思い出した。ちょっと前の時代であれば、キモカワとか呼ばれたかもしれないが、どうも令和のセンスではないような気がする。
万博が中止になれば、レアもの扱いになり人気沸騰するかも……………いや、しないだろうなあ。やはりキャラはゆるいだけではなく共感を得られないといけないと思う。キャラ関連はグッズ商売ネタとして有象無象が集まってくる集金装置なので、どうしても利権に結びつきやすい。主催者が威張れば威張るほど、そんな感覚がしてしまうものだ。
どうも、大阪庶民の言語センスの良さと、官僚組織のセンスのなさ、頭の悪さのギャップが大きすぢて理解できない。大阪自治体官僚も、プライベートな時にはおもろいおっさんなのだと思うが、仕事中は真面目スイッチ、いや、つまらんスイッチが入ってしまうのか。知事の発言を聞くたびに、不思議な街だと思う。
まあ、官のセンスの無さは大阪に限ったことではなく、全国共通ダメダメだから仕方がないか。知る限りではあるが日本全国ほとんどの地方自治体でも、霞ヶ関の劣化コピーばかりが蔓延っている。ただ、お江戸も浪速の街も、劣化度は全国トップクラスだということか。

街を歩く

住吉大社は国際色で染まっていた

住吉大社に来たのは2回目だ。前回は高野山詣の帰りに電車を途中下車してお参りした。記憶に残っていたのは、お社がたくさんあるということだけだった。その時はさほど混み合っていたという気がしなかったのだが。
今回は、まるで縁日の日のように人がうじゃうじゃいた。何がどうなったらこうなるのだ。

それでも、タイミングがあればこんな人のいない写真も撮れる。南海電車の到着のタイミングで人が押し寄せてくるからだ。鳥居前の横断歩道を一群の参拝客が過ぎればポカリと人の気配が消える。
ただ、鳥居前のお菓子屋からスピーカーで流されるお経のような「宣伝文句」が鳴り渡る。ふた昔ほど前、新興宗教集団が歌っていた歌(?)に似ている。同じ文句を延々と繰り返すのだ。これはほとんどブレイン・ウォッシュのテクニックではないか。

一旦境内に入れば、そこは大集団が右往左往している。この日は七五三のお参りに来ている家族が多かったせいだ。それも親子だけより、祖父祖母同行の大ファミリーが多く見受けられる。大阪の風習なのかもしれないが、ジジババはやたら元気が良いので、その大家族集団の移動に伴い傍若無人といいたいぐらいの大音響でジジババの会話がもれてくる。他人様の家庭事情がダダ漏れというのは、なんといえば良いのだろう。正直居心地が悪いというか申し訳ない気がしてくる。今日の晩御飯の予定を教えられてもねえ。

ただ、その日本人的夕飯談義を打ち消すように、多種多様な外国語が前後左右から押し寄せてきた。英語、フランス語くらいであれば言っていることはわからなくても言葉の聞き分けはつく。コリアン、チャイニーズ、カントン語、タガログ語くらいまでもなんとか言語の判別くらいはできる。しかし、東南アジアを含むアジ系言語が乱れ飛ぶと、これはもうお手上げというか。カオスだ。
八百万の神様の中には、アジア系言語に堪能な方もいるに違いない。しかし、イスラーム圏やユダヤ、キリスト教のように「一神教」を信仰する人たちは、おそらく多神教の中でもその神様の数が世界最大と思われる「八百万の神」が存在する宗教、神道の施設で何をするのだろうか。
日本人の大多数は無宗教だと言われるから、その無宗教な人間が、例えばバチカンの大教会に行っても宗教的意味や価値はゼロだ。建物見物だけしてくるというのは、思想的矛盾はないが、宗教的には軽い冒涜なのかもしれない。バチカン見物に行った我が身を反省してしまった。
しかし、一神教を信ずる人たちが、神社を見て建物見物に来ましたというのは、建前だとしてもちょっと座りが悪い。まあ、でも八百万の怒れる神からの神罰……はないよね。大丈夫だよね。きっと。臨界点が来るまでは。外国人観光客の方々には、お賽銭を忘れずに。宗教的な意味ではなく、参観料と考えて貰えば良いかなあ。地獄の沙汰も金次第、なんて古い言葉もありますし。

街を歩く, 食べ物レポート, 旅をする

駅そばを食らうはずが

福山の駅前というか駅に直結した場所で駅蕎麦を発見したのだが、実はこの店の屋号が店頭ではよくわからない。お江戸でよく見かける駅そばは、店頭の看板や暖簾でしっかりわかるのだが。

店内に入ると、どうやら屋号は「めん」らしい。いや、「あじわい処 麺」らしい。多分、広島県のJR駅のあちこちに支店があるのではないかという気もするが、実際に確かめてみるつもりはないので、あくまで憶測だ。

その店の入り口に大きなラーメンの看板があったので、最初はラーメン屋なのだと思った。瀬戸内のこの辺りでは尾道ラーメンが有名だが、見た目にはちょっと似ているような気がする「福山ラーメン」だ。
説明書きを読むと、ますます尾道ラーメン的な雰囲気も感じるが、ここはお店の気合を信じて福山ラーメンを頼むことにした。

見た目は背脂ちゃっちゃ系みたいだが、味はさっぱりしていた

出てきた福山ラーメンは、もろに店頭看板と同じルックスで、まさに看板に偽り無しだ。実食してみると、これまた看板に書かれている通りで、個人的にはちょっと懐かしい昭和の醤油ラーメン的な味わいを感じた。
最近の人気店では豚骨ベースが当たり前の濃厚味が中心だから、鶏ガラスープでさっぱりと……………などとくると、これぞ昔の王道だったのだよ、と言いたくなる。が、今では、これがすっかり変化球扱いになっている。
朝から美味しくラーメンを完食したが、周りで食べているサラリーマンは皆うどんだった。どうやら、福山はうどん文化圏みたいな気がする。瀬戸内の反対側は愛媛県なので、うどん県香川の影響は薄い気もするが、そもそも瀬戸内全域がそばよりうどんなではないかと思う。
広島名物お好み焼きでも中に入れる麺は、中華麺よりうどんを好む人が多いと聞いたこともある。うどん県のラーメンはどんな変化をするのだろうか。そういえば、香川でラーメン屋に入った記憶は全くないから、それもいつかは確かめてみたい。
旅先の街に行ったときには、駅そば探しで少し時間をかけてみようかと思った。また面白いものにお目にかかれるかもしれない。
旅するときにテーマは大事だよね。

街を歩く, 旅をする

松山の街歩きで疲労困憊した

JR松山駅は繁華街から離れたところにあるのでちょっと不便かもしれない

松山の話が続くが、この街には何度かきている。しかし、街の記憶が全くない。四国随一の大都市なのだが、仕事の時は空港から打ち合わせ先まで車で直行し、そのあとは会食場所にまっすぐ行ってホテルに泊まり、翌日は他の都市に移動をするか空港から東京に戻る。そんな行程ばかりだったから、街の景色など全く覚えていない。それは松山だけに限ったことではないので、全国あちこちの街に行ったが、記憶がしっかり残っている街は意外と少ない。
どうもそれではいけないと思い、今回は夕方から街歩きをするべく、ホテルもアーケードのある繁華街の入り口付近にしてみた。ただ、松山は二拠点都市というか、お城の下にある商店街と私鉄の駅前が賑やかな場所で、その二点を結んでいるのが「都心部」アーケード商店街に当たるようだ。
その上に、ややこしいことにJRの松山駅は、この2拠点から離れたところにある。交通結節点が街の中心地になるというシンプルな都市構造ではない。複雑系な街だった。

アーケードを入ってすぐのところにMのマークのバーガー店があるから、ここは一等地とわかる

地図を見るとわかったのだが、松山の街はお城のある山をぐるっと回る路面電車の環状線があり、そこから放射状に支線が伸びている。時計で言えば3時方向にちょいとはみ出して伸びているのが道後温泉に向かう支線だ。9時に当たるところから伸びているのがJR松山駅につながる線。そして6時に当たる方向に伸びているのが伊予鉄松山市駅につながる線になる。
だから路面電車を上手に乗り継ぐには、ちょっとコツがいる。おまけに市内の各所にバス路線が張り巡らされているから、松山市民には住み心地は良さそうな街だと思った。
しかし、その複雑な交通動線が観光客にはなかなか難度が高い。にもかかわらず、電車の中には外国人観光客も多い。なんとも不思議な光景だった。おまけに、外国人観光客はあまり迷うこともなく電車を乗り継いでいるらしい。スマホの中にとてつもなくスーパーな旅行アプリでも入っているのだろうか。見せてもらいたい気もする。

アーケードは長い。実に長い。おそらく端から端まで歩くと1km以上ありそうだ。遅めの夕方だったが、それなりに人通りも多い。地方都市で見かけるシャッター街とは無縁のようだった。それでも7時近くになるとほとんどの店が閉店しているので、夜の引けは早そうだ。

松山には先の大戦の終末期に米陸軍による都市空爆を防衛するための航空部隊が置かれた。最後の傑作機「紫電改」を配備した部隊で、パイロットは全国に残っていた名人級をかき集めたそうだ。
その部隊を松山の人々は支えてくれたのだが、敗戦と共に全ての紫電改は米軍に接収され、松山に紫電改のかけらも残っていなかった。
それが昭和の後期、墜落して海中にあった紫電改が発見され引き上げられた。それが亜媛県南部の街で展示されている。今では紫電改のことなど覚えている人も少ないだろうが、街中の商店街にそれを記録するものが掲げられていた。これは尊いなと、思わず頭を垂れた。

もう一つ、面白いなと思ったのが、街中のあちこちで「鯛めし」を推しまくっているのだが、推しの鯛めしは松山名物ではなく宇和島名物らしい。なので、この辺りの地理的距離感というか松山と宇和島の関係性はどうなっているのだろう。お江戸で言えば埼玉県大宮の名物を千葉県千葉市で売りまくっているみたいな感じがするのだが。
伊予国ということで一体感があるのかなあ。ただ、宇和島と松山ではお殿様も違っていたはずだから歴史的には違う街なのだと思う。まあ、美味いものには国境なしでも良いけれど。

アーケードの端っこにある伊予鉄の駅には大手百貨店も入っているので、まさに大都市の駅前という風格がある。駅周辺にはさまざまな飲食店やエンタメ系の店が立ち並んでいた。どうも、この都心部散歩をした感覚で言うと、松山の街は観光客相手の土産物屋も少ない、松山に住む人に向けた街という印象だった。
街の規模感としては政令都市のような超大都市と比べて、ちょうど良い賑わい感がある。気候も温暖で、海の幸にも恵まれ、きっとこのあたりは昔から過ごしやすい国だったのだろうという気がする。

松山といえば、夏目漱石の坊ちゃんが思い浮かぶが、実は司馬遼太郎氏の大作「坂の上の雲」で語られた秋山兄弟も、相当に力を入れた地元の推しキャラになっている。この二人は坊ちゃんとは違いリアルな人物なので、推しやすいのかもしれない。
土佐では明治革命期の坂本龍馬推しで、伊予では明治の大戦で活躍した秋山兄弟推しになる。その辺りの違いが明治期四国の時代感というか、土地柄の違いというか、微妙さなのだな。松山での一番の気づきがこれでありました。

街を歩く

PARCOのポスター展 

自宅近くのパルコが閉店する。開店から閉店までしっかりお付き合いをしたことになる。ちょっと気になってパルコの沿革を調べてみたら、池袋パルコ開店が69年、渋谷パルコが73年だった。75年に開いた札幌パルコが、自分にとってのパルコ初体験で、自宅近くのパルコが83年開店。振り返れば我が人生はパルコと共にあると言っても過言ではない。
本当か(笑)と突っ込みたいところだが、確かに自分の中のカルチャー・ポップな文化という言葉は、ほぼパルコと同義だった。よく時代が変わるとか終わるとか言われるが、それを自分ごととして捉えたことはない。ただ、このパルコの閉店は、まさに自分ごとのような気がしている。
その閉店間近のパルコでポスター展が開かれているのだが、これがまたしょぼいというかひっそりというか、普段使うことのない「階段」の壁を使っての展示会だ。それでも気になって見に行ったら、懐かしいさに涙が溢れそうになった(笑)

すでに亡くなってしまった津田沼パルコのオープンポスター

エアブラシを使ったイラストは70年代を象徴する画法?だと記憶している。この後、スーパーリアルという技法に進化していきSFチックなイラストが大量出現したはずだが、それも今ではCGに置き換わっている。時代だなあ………
でも、この絵柄はなんとなく懐かしい。実物は見たはずがないのだが。ひょっとすると札幌パルコで張っていたのかもしれない。

この手のシンプルなコピー使いは、パルコの独壇場だった。パルコが文化だと信じていた頃の記憶だ。西武セゾングループが若者文化の発信者、擁護者であった時代で、老舗百貨店の野暮ったさとは好対照だった。サブカルチャーなんて言葉も覚えたし、たまにはエンタメ系ではないメッセージ色の強い映画を見に行ったりしたのも、間違いなくパルコ文化の影響だった。

このパルコ文化と並行して読み漁っていたのが、昭和軽薄体と言われていた椎名誠氏のエッセイだった。相変わらず山に海に出没している元気な高齢者に成長されたようだが、自分の中では椎名諸策とパルコが同じ系統の文化として完全に同期している。
パルコの広告はテレビのコマーシャルでもたっぷり見たはずなのだが、なぜかポスターの記憶しかないのが不思議だ。
自分が広告関係の仕事に関わっていた時、頭の中のお手本はパルコの諸作品だった。いつかはあんなCM作ってみたいなあ、などと思っていたが……………

そういう意味で、パルコのポスターはメッセージが強い。伝達力が桁違いだと思っていた。これに匹敵するのは、全盛期の新幹線広告くらいだろう。それが国鉄期だったかJRに変わってからだったか記憶は曖昧だが。
広告が社会的、文化的なメッセージ力を持っていた最後の時代かもしれない。

階段で連張されているポスターを見ると、妙に悲しいものがある。なんといえない切なさを感じてしまう。どこかの現代美術館で額装して展示してくれないものだろうか。
まあ、実際には広告ポスターなので、消費され使い捨てられる運命にあるものなのだ。だから、それを美術品扱いしろと言うのも仕方のないことだが。
やはり、ちょっと寂しい。

これが40年前の開店告知ポスターのようだ。ガンガンの夏かあ、確かにあの夏は初めて関東に来て体験した亜熱帯な夏だったので、不快な湿度の記憶しかない。ガンガンというよりジメジメという言葉が似合っていると感じていた。早く金を貯めてエアコンを買うのだと決心したのを覚えている。
扇風機の風が全く涼しく感じられない、寝苦しい夏の夜とパルコの記憶はリンクしたままだ。
ポスター展示最終日は閉店日、あと何回か見に行くことになるだろうなあ。