街を歩く

住吉大社は国際色で染まっていた

住吉大社に来たのは2回目だ。前回は高野山詣の帰りに電車を途中下車してお参りした。記憶に残っていたのは、お社がたくさんあるということだけだった。その時はさほど混み合っていたという気がしなかったのだが。
今回は、まるで縁日の日のように人がうじゃうじゃいた。何がどうなったらこうなるのだ。

それでも、タイミングがあればこんな人のいない写真も撮れる。南海電車の到着のタイミングで人が押し寄せてくるからだ。鳥居前の横断歩道を一群の参拝客が過ぎればポカリと人の気配が消える。
ただ、鳥居前のお菓子屋からスピーカーで流されるお経のような「宣伝文句」が鳴り渡る。ふた昔ほど前、新興宗教集団が歌っていた歌(?)に似ている。同じ文句を延々と繰り返すのだ。これはほとんどブレイン・ウォッシュのテクニックではないか。

一旦境内に入れば、そこは大集団が右往左往している。この日は七五三のお参りに来ている家族が多かったせいだ。それも親子だけより、祖父祖母同行の大ファミリーが多く見受けられる。大阪の風習なのかもしれないが、ジジババはやたら元気が良いので、その大家族集団の移動に伴い傍若無人といいたいぐらいの大音響でジジババの会話がもれてくる。他人様の家庭事情がダダ漏れというのは、なんといえば良いのだろう。正直居心地が悪いというか申し訳ない気がしてくる。今日の晩御飯の予定を教えられてもねえ。

ただ、その日本人的夕飯談義を打ち消すように、多種多様な外国語が前後左右から押し寄せてきた。英語、フランス語くらいであれば言っていることはわからなくても言葉の聞き分けはつく。コリアン、チャイニーズ、カントン語、タガログ語くらいまでもなんとか言語の判別くらいはできる。しかし、東南アジアを含むアジ系言語が乱れ飛ぶと、これはもうお手上げというか。カオスだ。
八百万の神様の中には、アジア系言語に堪能な方もいるに違いない。しかし、イスラーム圏やユダヤ、キリスト教のように「一神教」を信仰する人たちは、おそらく多神教の中でもその神様の数が世界最大と思われる「八百万の神」が存在する宗教、神道の施設で何をするのだろうか。
日本人の大多数は無宗教だと言われるから、その無宗教な人間が、例えばバチカンの大教会に行っても宗教的意味や価値はゼロだ。建物見物だけしてくるというのは、思想的矛盾はないが、宗教的には軽い冒涜なのかもしれない。バチカン見物に行った我が身を反省してしまった。
しかし、一神教を信ずる人たちが、神社を見て建物見物に来ましたというのは、建前だとしてもちょっと座りが悪い。まあ、でも八百万の怒れる神からの神罰……はないよね。大丈夫だよね。きっと。臨界点が来るまでは。外国人観光客の方々には、お賽銭を忘れずに。宗教的な意味ではなく、参観料と考えて貰えば良いかなあ。地獄の沙汰も金次第、なんて古い言葉もありますし。

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