街を歩く

この頃のあれこれ ちょっと文句あります

知人に連れられて札幌の穴場食堂に行った。北海道議会の一階にある食堂は議員ではなくても利用できるのだそうで、おまけに蕎麦がうまいという。確かにメニューを見ると蕎麦のラインナップ、それも量的変化がすごい。ところが、目についたのはざるラーメンで、何やらものすごくうまい食べ物のように見えた。そばを食えという隣の御仁の忠告を振り切りざるラーメンを頼んでみた。

結果は、玉砕というところか。まずいとは言わないが、これはあんまりな食べ物だった。せめて付け合わせで何か追加しないとね。次回は絶対そばにしよう。しかし、議員食堂の予約席に「小学生席」と書いてあったのは、実に謎だ。文字通りに、見学に来る小学生用の席なのか。できればもう少し説明を書き足して欲しいのだが。

そのざるラーメン騒動(自分だけで騒いでいた)の次の日に、お気に入りの大通り公園を見下ろす喫茶店に行った。コロナ対応ということで、イ入り口で注文する。その後は勝手に好きな席に座るという仕掛けに変わっていた。そこまで諦める。ただ、大通り公園に向けて広い窓があるのだが、そこが全面的にカーテンをかけられて見通しがなくなっている。そのカーテンを向いて一人掛けの席になっているのだ。あーあ、とためいきがでる。この店を使う意味が、9割くらいなくなってしまった。またお気に入りの喫茶店が一軒なくなった。

新しい生活様式とは、呪いのようなものだ。街と人を破壊する、何やら禍々しいものなのだ。

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久しぶりの神社詣で

晴れた日に自転車で街を乗り回すのは意外と快感だった。札幌の都心部は、歩道の幅が広いところは自転車通行可になっているらしいのだが、交通標識がまだらに設置されているのと、古いビルの前は歩道が狭いままだったりするので、自転車は車道を走るのか歩道を走るのか、まるで博打のような状態だ。そこを老若関係なく爆走チャリ、もちろん交通ルール違反が団体でのさばっている。

チャリの暴走の話の危険シティー札幌だった。それでも中心部を抜けて、きちんと車道を走れば、それなりに快適なサイクリングになる。10分も走れば円山公園にたどり着く。

円山公園の外れには北海道神宮がある。神社としては新参者で多分150年くらいしか歴史がないはずだが、それでも境内は清々しい、神社らしさがある。一年前には、外国人観光客で身動きが取れないほど混雑していたものだが。日本人が団体旅行でローマの神殿や教会堂を占拠していたのと同じことだから、ここは心を広く持とうなどと、イライラしながら思っていた。その外国人観光客がいなくなれば、普通の神社の風景に戻ってしまう。正直、ほっとした。

伊勢神宮は別格として、日本のあちこちにある神社の風景とはだいたいこんなものだろう。あまり人影も見えず、音もせず、掃き清められた境内をのんびりと歩いて、ちょっとだけお参りして帰る。宗教心はあまりないけれど、神社に来ると厳かな気分になる。そんな場所だ。

自転車で来て正解だったな、などと思いながら、帰りには円山公園でオシドリ探し。札幌の9月はサイクリングに向いている。

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札幌 ゴマ蕎麦で一休み

札幌都心部にある老舗のファッションビルの地下2階に、実に不似合いだと思うが蕎麦屋がある。札幌都心部はすっかり蕎麦屋が減ってしまい貴重な店なのだと思うが、民芸風の内装という昭和中期のままの店構えだ。居心地はすこぶる良いので文句はないが。女子高生が来たりすることは、絶対にあり得ないという店でもあるので、店内の平均年齢はすこぶる高い。

昼のピークと夜のピークの隙間、午後4時くらい入るとほとんど客はいない。それはしめしめという状態なので、すかさずお銚子を一本頼んだ。当然、冷にする。

銚子を半分くらい開けたところでもりそば登場。この時間は注文が入ってから茹でるのでちょっと時間がかかる。それを見越してのお銚子だ。往年の江戸の不良の食べ方らしい、そばにちょっと酒を振りかけ食べてみる。

なんとなく不良の気分になりながら、蕎麦を食べ終わったら、次は小洒落た飲み屋で待ち合わせだ。待ち人が妙齢の美人さんだったらうれしいのだが、世の中はそんなに甘くはない。オヤジ二人の怪しい飲み会なので、テンションは上がらないまま地下鉄に乗った。地下鉄の中で冷めて行く酔いが物悲しい。

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バー で過ごすひとときの意味

すすきのは、今やかなり覚悟して遊びに行かなければならない場所という社会的雰囲気があり、飲みに行くとしても微妙な距離で薄野の周辺にすることになる。おそらく半年近く薄野界隈に足を踏み入れていない。

なので薄野から南に地下鉄で数駅離れた飲み屋街をうろちょろするハメになっている。コロナが拡大する直前くらいに来て、非常に気に入っている店は立ち飲みのバーだ。

店主おすすめの氷無しハイボールが気に入ってしまった。確かにハイボールは飲む時に氷が邪魔だということに気ずかされた。なんでもカクテルはグラスの表面に水滴がついたら、それが流れ出す前に飲み干すのが良いと聞いたことがある。氷無しハイボールもその話を思い出しながら、キュキュッと早めに飲みきるのが良い。ぬるくならない。泡がしっかり聞いている。

一緒に行った知人はさっポリウイスキーなるものを注文していた。気になったが確かめる前に酔っ払ってしまったので、次回はこれを試さなければならない。確かこの店のポテトサラダもなかなかの名品だったはずで。

一軒目からバーに行くというのもよいかもしれない。地下平岸駅直結のバー。

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串鳥 南2条通り散策

札幌で夜遊びをする人が激減しているような気がする。少なくともススキノを避けるというのはクラスター発生数を見ても理解できるが、offすすきのもすっかり客足が減っているようだ。いつも待ち行列ができている焼き鳥屋も、ノータイムで入れてしまった。

札幌に行ったら必ず立ち寄る名物チェーン いつもは混雑して入れないのだが

コロナ対策は入口から万全、客席も稼働率半分といったところなのに、ピーク時でも待ち客ゼロかあ。なんとなく申し訳ない気分だった。

鮮度良し、味よし。北海道の焼き鳥らしい。

好みの焼き鳥を数本頼み、日本酒を2杯飲んだところで退場することにした。普段であれば、待ち行列に遠慮して早めに退出を心がけていたが、今回は長居をしても迷惑はかけそうもないのだが、やはり微妙に居心地が悪い。店内に客が少なく、なんとなく会話も静かで、これが「新しい生活様式」というものの結果なのだなと思うと、いらっとしてきたのが原因だ。

なんだかなあ、テイクアウトでおうち居酒屋しかないのかなどと思ってしまった。

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立ち飲み屋のコロナ対策

札幌には珍しい立ち飲み屋が、札幌駅前のビルの地下にある。なかなか目立たない場所で、それなりに「通」な飲み人に紹介でもされなければ、入るのも抵抗感がひっそりとした入り口であるのだが。地下通路を歩いていて、ふと気がつけば営業していたので、久しぶりに入ってみた。

もつ酢とおでん ちょい飲みジャストサイズだった

つまみ2品とドリンク1杯のちょい飲みセットを注文した。心なしが席と席の間の空間が広いような気がするが、立ち飲みだからそれもありえないはなしなので、てーぶるをとっぱらったのかもしれない。一人飲み向きに壁に向かった席もあるが、二人用テーブル出入り口方向を見ながら飲んでいたら、6人くらいの団体が登場して、どこで飲むのかと思ったら目の前の10人くらいが使える大テーブルで飲み始めた。

テーブル全部を使って間隔を開けるのかと思ったが、肩がつくほど密集していた。飲み好きの集団心理は、コロナを超えてしまうのか。店の思惑通りにはいかないものだなあと・・・。入り口で消毒と検温をさせられ、店側のコロナ対策は十分に理解できているはずなのに。どうしてそんなにくっつくよと思う。なんとも複雑な気持ちになりつつ、一杯飲んで退場した。一人で飲むには実に良い店なので、この先は集団客の同行者数の制限しなければならないのか。5名様以上はご遠慮くださいとか。

店を出たら、なんだかどっと疲れてしまった。

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京都で看板めぐり

しばらく京都に入っていないが、一時期足繁く通っていた。ただ、観光地巡りをしていたのではなく、仕事のネタ探しだった。そのついでに看板の写真を大量に撮っていた。

ふり写真で撮影したのは2013年

京都三条の辺りを歩くと、いかにも老舗でございますという看板が大量に見かける。字が右から左に書かれているのだから、少なくとも戦前からかかっているものだと推測はつくが、その割に字がはっきり見えるのは修繕が施されているからか。それとも復元された現代製品なのか。

今時、足袋の専門店に出会うとも思わなかった。ガラスの引き戸もなかなかれとろではあるのだが、その入り口にかかる白いカーテンとなれば、金属製シャッターを見慣れたものには、これまた新鮮に感じる。

なんちゃらクリニック前世の時代に、この質実剛健ともいえる全文字漢字表記の歯医者さん。なんとなく髭を生やした強面の先生がいそうなきもするが、腕は確かだがずいぶん痛そうな感じ?

京都以外でこういう昔風の看板を見かけることはあるが、結構な割合でフェイク、模造品であることが多い。現役の看板を骨董品扱いするわけにはいかないので、風格のある歴史を感じる看板をリアルに見たければ、京都に行くしかないのだろう。ただ、これもき京都のひとが大事にまもってきたこともあるが、戦争の時に空襲を受けなかったことがいちばんの原因だろう。東京は空襲で建物ごと焼失したから、生き残った看板など数えるほどしかないだろう。

町歩きで色々と考えた。

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東京を歩く 

街歩きと称してブラブラと2時間ほど歩くのには、東京という街は面白い。街中を2時間も散歩できる街はそれなりの大都会でなければならない。小さな町では1時間も歩かないうちに街の端からはじまで通り過ぎてしまう。

東京駅 丸の内駅舎

東京駅の改装が終わったのは随分前だが、観光客が途切れたくらいのタイミングで見物に行った。ニューヨークやロンドンで見たようなアンティックな駅舎がちょっと気取っていて、東京らしいなと思った。八重洲口のいかにも現代的な味気のない部分と比べてみればよくわかる。最先端と時代ものの融合は、やはり400年近く続くお江戸の力だろう。

その東京駅丸の内側から線路沿いに銀座まで歩く途中には、小洒落たレストランが立ち並ぶ。大東京のサラリーマンが立ち寄る店だから、どれもこれも「見栄」の塊みたいなものだが、それが東京のサラリーマン文化だろう。まるでゴミの回収日みたいな空き瓶の山だが、これが歴としたレストランのファサード(外装)なので、まあ、これも東京かあと唸ってしまう。

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虎ノ門の蕎麦屋

たまに霞ヶ関から虎ノ門、新橋を歩くことがある。官庁周りに様々な企業が張り付いている典型的な官庁城下町で、余り好きな場所ではないのだが。JT本社あたりから新橋まで一気に再開発が進み高層ビルがニョキニョキ生えてきた感じがする。

そんな一角にこれまた古びた明治の頃から立っているような一軒の蕎麦屋がある。昼時にはいつも混み合っているのだが、交通が便利な場所にあるわけでもなく、蕎麦はうまいがわざわざこれだけの人が押し寄せるのかといつも不思議に思う。なんというか、そば信仰というか、蕎麦を食べる人間は人として一つ立場が上だ的な「食の階層制?」があるのではと疑っている。

蕎麦は好きだ、うどんよりも好みだ。ただ、高い蕎麦屋に行くとなぜかこの「俺って、そば通だからさ」的な隠れプライドみたいなものが気になる。そもそも不良と貧乏人の食べ物だったはずの蕎麦が、なぜこんなに精神性を持った食い物に成り上がったのだろう。お江戸では町内に蕎麦屋と銭湯と寄席が必ずあったそうだから、完全に大衆食堂だったはずだ。だから、蕎麦食いの作法みたいな本を見ると、妙に腹が立つ。

とは言いつつ旨い蕎麦を食べたいときは、昼ではなく午後も中盤になってランチ客がいなくなったあたりで、店の従業員も交代で昼休みを取る時間に行く。もりそばと酒を冷やで一杯。蕎麦を一本ずつつまみにして酒を飲むというのが、お江戸の不良の飲み方らしい。ちょっと気取ってこれを真似してみるが、空腹には勝てずどっぷりと蕎麦をつゆにつけてもぐもぐ食べる。まあ、蕎麦屋なんてこんなもんだよね。

そう言えば東京に出てきた頃は蕎麦屋信仰に毒されていたものだが。麻布十番までわざわざ食べに行ったりもしていた。お見返せば、やれやれご苦労さんであったなあ。

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ロイホでランチはひさしぶりだったのだが・・・

新宿の西口高層ビル街でランチを食べようと思ったら、それなりの値段を覚悟するべきなのだ。ナショナルチェーンであれば、全国どこでも同じ値段というのが日本の常識だが、チェーン店でなければそれなりの街の相場というものがある。例えば、東京駅界隈でいえば丸の内は高い、駅の反対側の八重洲は意外と掘り出し物の店がある。ちょっと北側の日本橋あたりになると、安い店を見つけるのが難しい。

新宿西口高層ビル街のランチも似たようなもので、その中で比較的リーズナブルといえばロイヤルホストかもしれない。日替わりランチが900円程度で、コーヒーをつければ1200円ほどになる。これが高いか安いかと言われると本当に微妙なところで、ラーメンは900円台、専門レストランであれば1000円は軽く超える。

食材、料理の質は高い。まさにロイホ。

そこでロイホのランチのコスパを検討してみる。日替わりがチキン南蛮とトンカツのコンビで、なんだかどこかで見たような光景だ。ランチは圧倒的に時間帯が短い、提供速度重視の商売だから、どうしても食数の多い日替わりランチは焼き物よりも揚げ物中心になる。それはわかるのだが、鳥と豚の揚げ物では胸焼けがする。かと言ってこじゃれた風なパスタランチもなあ・・・などと思い、結局無難に日替わりランチで良いかということになる。

新宿の街中には存在しないが、ガストやサイゼリヤのランチは同じようなワンプレートで500円税込なのだから、この価格差はなんだと言いたくなるのも確かなのだ。席も広くのんびりできのはロイホだ。レストランが提供するものは食だけではなく、店内のくつろぎや上質の接客も価格に含まれていることは承知している。ましてや新宿西口界隈という日本で最も家賃の高いエリアの一つなのだから、これでも値段相応というか、お買い得なのだよという声がどこからか聞こえてくる。

確かにロイホは値段以上の価値を生み出そうと真面目にレストランに取り組んでいる企業であり素晴らしいブランドだ。ただ、同業種と比べて価格がダブルスコアというのも何だかなあ、と思ってしまう。おそらく日本人の食に対する要望が、この30年間の平成の不況の中ですっかり落ちぶれてしまったのだろう。低い水準でも安ければ良いのだという志向というか、諦めが今のランチの価格意識になっている。サイゼリヤやガストがランチビジネスで儲けているかと問われれば、間違いなく儲けていないと言える。せいぜい家賃の回収分くらいにしかならないはずだ。それでもランチをやるのはブランドの強化であり、ランチの客がディナーにもきてくれることへの期待でしかない。

コロナの影響で1/3ほどの店を閉めることになったロイヤルだが、このランチの品位の高さと値段の高さでは商売がうまく成り立たなくなったということだ。おそらく30年前と価格自体はほとんど変わりがなく、それなのに今の方が遥かに高く感じる、コスパが悪く感じるのは、ファミリーレストランというコンセプトの疲弊なのか。昔ほどの満足感がロイホに行っても感じられない「質的劣化」が進んでいるのか。

残念ながらロイホのランチはドキドキしない。サイゼリヤの様な割り切ったコスパの良さで客の満足感を押しきれない。
チキンを食べながらそんなことを考えてしままった。

ランチがうまくなくなるわけだ。