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城を旅する  郡上八幡城は山の上

郡上八幡の町は、高速道路のインターからすぐそばにある。というよりもあまりの山間地なので、街の隣にインターを作るしかなかったのだろう。インターから降りて国道沿いに街に入ると途端に対向車線のない道路になる。あちこちに道路の脇が広がっていて、そこで対向車をやり過ごす。昔ながらの街並みを残しているところでは、こうした交通のブラックホールが残っている。
そして、郡上八幡城の下にある駐車場まできてみたら、ほぼ満車。だが、なんと城の下にある駐車場が空いているというので進入した。これがまさかの歩行者と共用の一車線で、カーブを切るときには切り返しが必要なほどの山道。その曲がるところに歩行者が車を避けていると、まったく進めなくなる。ちょっと大きな車では通行するのも難しいなと思うが、そこをなんとか10分以上かけて山頂近くまで登り切った。休日だったこともあり、人と車でごった返す山頂駐車場で一息つく。これは歩いて登るのもしんどいが、車で登るのも神経的に厳しいものがある。

平日だあれば空いているかもしれない山頂駐車場

駐車場から歩いて10分程度でお城につくのだが、これがまずまずの坂道で、山城登城のしんどさを再確認。

石垣は野面積みなので戦国前期以前の築城だろう。

お城に上がる道もクネクネ通り曲がっているし、アップダウンすらあるから、確かに攻城対策は万全だっただろう。


天守閣は小ぶりだが、山頂に立つので流麗とでもいうべきか。

郡上八幡城 天守

ここから見下ろす郡上八幡の町は眼下に広がるが、木曽の河川を使った交流の元締めみたいな場所なので、さぞ昔は商売繁盛だったのだろう。しかし、毎日ここに登ってくるサムライ官僚たちはさぞかし大変だったと同情する。

郡上八幡の夏はとても暑いので、夏の登城登山は避ける方が良さそうだ。

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ダムを見に行く 冬になればおやすみ

今年最後のダムは北海道

ダムは山の中にあることが多い。だから、雪が降り始めると、基本的に終わりになる。平地ではまだ雪が降っていなくてもダムの周りは凍結していることもある。特に、現地に行ってみるまでは道路状況もわからないことが大半なので、危ない目に合わないとも限らない。
ダムを見に行って崖下転落など洒落にもならない。

北海道 十勝ダム ロックフィル型
今年の最後のダム

雨の時期も危ない季節だし、台風が来れば道路が閉鎖されるような場所にダムがある。
こうして、ダメな時期を消していくと、意外なほどダム巡りの時期は限られる。

山形県 長井ダム 重力式ダム

東北でもやはり山の秋は早いので、せいぜい10月前半くらいと思っていたが、今年は台風の当たり年で、やはりタイミングが限られていた。週間予報とにらめっこしながら、晴れの続く日を狙うしかない。山形南部のダム巡りに行った時は午前中が雨降りだったが、県を東西に行き来しているうちに晴れたり曇ったりしていた。ダムに着いた時はたまたま晴れ。宮城県北部のダムは、好天に恵まれ気持ちの良い秋のドライブだった。ちょうど稲刈りが始まる時期で、水量も多い。田舎道のはずなのに妙に交通量の多いのは、いわゆる裏バイパスで地元民が抜け道に浸かっているからなのか。

宮城県 長沼ダム
これは水門

宮城県北部のダムは、好天に恵まれ気持ちの良い秋のドライブだった。ちょうど稲刈りが始まる時期で、水量も多い。田舎道のはずなのに妙に交通量の多いのは、いわゆる裏バイパスで地元民が抜け道に浸かっているからなのか。

流麗なアーチ型

温泉町鳴子から、車で10分ほどにばよにある鳴子ダムは。きれいなアーチ型ダムで、ダムの表と裏の両方から見ることができる。こういうところでは準備をしっかりすれば雪の中のダムも見ることができるのだろうけれど、寒いし、危ないし、ご遠慮申し上げるという物だ。

宮城県 鳴子ダム

来年のダム巡りは、多分4月からになるのだろうね。その頃にはダムカレーももっと増えていそうだ。

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掛川城 街道を抑える拠点

掛川という街には全く馴染みがないが、地図を見れば戦国時代の東西の要衝だったのだろうということはわかる。

大手門とは表の玄関

今川、武田、松平(徳川)が凌ぎを削った陣取り合戦の中心地になる。今の静岡と浜松の間で東西対決、甲府方面から南下勢力という場所だ。
立派な大手門があるが、実はここから本丸まではなぜか民家が連なっている。昔の縄張りは無視されたのだが、おそらく明治期に政府に虐められたのだろう。あちこちに残る復元されたお城でも大手門は立派なものが多い。お城の玄関口であり正面でもあり、それなりに風格が必要というものだ。

門の上の窓からは狙撃手が狙っていた?

大手門から200−300mほど歩くと、お城、天守閣の下にたどり着く。石垣がしっかりしている。

石積が設計の精緻さを表す

そこから階段を上がって丘の頂に天守閣、実に戦国的築城だ。当時の天守閣からの光景はさぞかし見晴らしよく、お殿様の気分を高めたのではないか。

天守閣は居城ではない?

天守閣自体は小ぶりなもので、居城として使われたというよりも戦時の篭城拠点ということだろう。この辺りは浜松城も同じだ。ただ、駿河国を東西に行き来しようとすると、この掛川周辺が要地であり、いくつかの川とともに防衛、侵攻ともに戦略拠点であったと思う。

やはり防衛拠点だろう

切り立った崖が印象的な掛川城だが、この崖下にお殿様の居住と執務の場があったようだ。

こちらからは攻めるのも無理

そのお屋敷に展示されている鉄砲と槍なのだが、当時の男性平均身長は150cmくらいだったはずで、身長の三倍近くある槍を持って行軍するだけで大変だったのだなと思い知る。これがただの木の棒だとしても相当に重いはずだ。鉄砲は10kg近いようだし。これで1日平均40kmちかく徒歩移動したのだと・・・。

槍の長さは5mを超える

鉄砲もこうして近くで見ると、ほぼ銃身でできている、それにわずかに持ち手というか握り手がついているだけという簡易な構造。当時の日本は世界最大の鉄砲保有国だったそうだから、戦国時代の軍備費はさぞがし莫大だったのだろうなどと想像してみた。

鉄砲も持ち手がない重量物。狙いをつけ保持するだけで一大事だ

この鉄砲、現在の量産技術があったとしても一丁5万円くらいはするだろうし、当時だったら、その十倍くらいはしたのではないか。
鉄砲部隊100人として、正面装備の鉄砲で5000万円、その他付帯設備として弾や火薬を揃えると(多分おまけに整備用の職工も付随したはずで)、一編成で人件費除いて1億円くらいか。

いやはや戦国武将は予算のやりくり大変だったろうなあ。

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ノリタケの森

名古屋駅から歩いても行ける場所にノリタケの工場があった。そこが今は公園のようになっているという話を聞いて訪れることにした。

駐車場は公園の裏側に当たるようで、ナビをみながらやっとの思いでだどりついた。そこからぶらぶらと歩きながら、旧工場施設のあった方向へ向かう。煉瓦造りの工場と思しき建物がある。

その左右にある緑の円筒が立っている場所こそが、旧ノリタケ工場であったらしい。緑の円筒は焼き物窯の煙突のあととのこと。

正面から左右に煙突跡が立ち並ぶ姿は、まるで現代美術のオブジェのようだ。そして、その後ろに見え隠れするマンション群が、まあ、光景をぶち壊しているのも都会派オブジェと見れば良いのかもしれない。

このノリタケスクエアといわれる工場跡地は、きれいな都市型公園として造成されている。芝生の向こうに見える名古屋駅そばの高層ビルが、これもまた奇妙なアンバランス美に見える。

旧工場群は、今となれば実に美しいレンガ積みの建物で、名古屋っぽくないと言えば地元の人に叱られそうだが、明治時代の華やかさみたいなものは良いね。

煉瓦の建物の向かいに池があり、その向こうには現代の高層ビル。都会の中のシュールさだが、実はこういう場所は名古屋だけではない。東京の何箇所か、一般人の入れないところにも(皇居は除いて)、こんな場所はあるんだよね。一度グーグルアースで検討してみることをお勧めする。

実際に足を踏み入れてみると、昔の金持ちのスケールが違うこと、よくわかるよ。

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黒部ダム礼讃 その2

ダムカレーという楽しみ

黒部ダムレストハウス二階のレストランは、おしゃれ感が全くない。高速道路のSAにあるセルフサービスの飲食コーナーが一番似ている。自動販売機で食券を買い、並んで商品を受け取る。ただ、色々と珍しいメニューがあるので、それなりになかなか楽しい。

意味不明の唐揚げ ダム湖に島はないはずだが・・

最近ダムの周辺で提供され始めた「ダムカレー」。ライスを堤体(ダムの壁というか堤防というか本体)にみたてて、カレーはダム湖の水、そしてカレーの反対側に下流にある木などの自然物をトッピングとしてあしらうのがお約束。カレーは地元の食材を使ったりして特色を出すことが多い。そして、黒部ダムのダムカレーだが・・・・ちょっと雰囲気が違う。ダムカレーとして初見のグリーンカレーが「黒部ダムカレー」だった。黒部のダム湖の水は緑か?と突っ込みたくなるが、一大観光地の黒部ダムの意地というものか。ご飯の微妙な形のアーチは、黒部ダムの直線部とアーチ部の組み合わせを模しているようだ。

なぜここにというメニューも多い  ラーメンもあります

面白いのが、このグリーンカレーの黒部ダムカレーにナンがついたものがあり、ナン付きダムカレー(ライスなし=堤体なし)は、ビックリアイデアというか、これはもうダムカレーではないでしょうと言いたいくらいだ。思わず笑ったが、これはぜひレストランの料理長に再考を求めたいものだ。

トンネルは暗い、ただ暗い

レストハウス脇からバス乗り場に向けてのトンネルがある。暗くて、水が滴り落ちていて、そして寒い。トンネルを2−3分ほど歩くとバス乗り場というのだが。

くらい、寒い、水が・・・

階段を登ったところがバス乗り場で、一気に明るい、暖かい場所に戻る。ほっとする。バス乗り場の前には記念品、お土産売り場もあって、文明のもとに帰ってきた感がある。電波も通じるのでスマホも使える。やれやれ文明はありがたい。

それなりに段数はある、バスに乗るのもたいへん

バスは30分から1時間おきなのだが、この日は混雑していたこともあり臨時便が出た。来た道を折り返し扇沢まで戻ると、有料駐車場は満車になっていた。ざっと100台くらいが止まっている。その下に無料駐車場が50台くらいあったから、確かにダムの上は混雑していたのに納得する。臨時バスが出たはずだ。

バスを降りたところにある駅標

扇沢の駅?はバスの発着場としては随分立派で、これはこれで何というか黒部ダムらしいというか、こんな山の中にこれまた大きなものを建てたのだななどと感心しながら、都会に戻ることにした。大町駅までは専用バスがあるので、車がなくても黒部ダムに行くことはできる。紅葉の頃に行けば、また違う景色が見られるのだろう。

扇沢駅?

ダムを見に行くのも、それなりに大変なのだよね

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黒部ダム礼讃 その1

黒部ダムは、日本で一番有名なダムではないかと思う。そもそも一般人がダムの名前を覚えていることなど、滅多にないというものだ。
黒部ダムは長野県と富山県の県境にあるので、富山からダムまでのルートと、長野からのルートの二通りがある。ただ、車での移動はできないので、どちらから行くにしても交通機関への乗り換えが必要だ。

バスの到着駅?

長野県からのルートは大町市の扇沢から電気バスに乗り、長いトンネルを走る。ダム建設時に資材搬入に使われたトンネルで、関西電力専用。バスが電動と言うのは電気会社運営だから当然だろうが、以前は屋根にパンタグラフを乗せたトロリーバスだった。とりあえず一階の切符売り場でバスの切符を買い、二階からバス乗り場に向かうのだが、駅というよりバスターミナル。土産物や食堂がある。バスの乗客には、軽装の観光客もいれば重装備の山歩き風のグループもいる。おそらく、富山側にハイキングでおりていくのだろう。

記念撮影用のバスのヘッド部分

「黒部の太陽」は、今は亡き石原裕次郎主演の、ダム建設物語映画だが、これをリアルで見た人はほとんどいなくなってしまっただろう。だから、この言葉の意味や話をわかる人がどれくらいいるかだが(多分70代以上限定)、最近ではブラタモリで破砕帯の説明がされていたから、そちらの方が記憶にある人が多いような気がする。

この映画のことは誰も知らない?

長いトンネルを抜けて、そこから100段近い階段を上り切ると黒部ダムが見えてくる。ダムの天辺を端から端で歩くと5分以上かかる。そのダムの突き当たりが富山県側に行く交通機関の乗り場になる。つまり、長野から富山に行くには、必ずこのダムの上を歩くことになる。ダム湖を眺め、放水される滝のような水を見ると、実に巨大なものを人が作ったという感慨に浸ってしまう。昔の人が巨大なものには神様が宿ると信仰対象にしていたことに思いを寄せると、この黒部ダムにも神様がいておかしくないかと言う規模だ。「ダムの神様」、東宝怪獣映画に出てきそうだな。

放水中のダム

ムのてっぺんを天端(てんば)というそうだが、そこを富山県方向に歩き振り返ると、これまたすごい光景が見える。この山の下をトンネルが通っているが、山の中腹に見えるあたりにも構造物がある。当時は一体どれだけの工事をしていたのだろう。
山の下にある建物がレストハウス。お土産屋や軽食売店、レストランなどがある。レストランは二階にあるので、ダムを見ながらの食事が可能だ。

レストランは大混雑だった

天端から放水を見下ろすと、虹がかかっていた。そして、その遥か下に地面が見える。確かに、これが人間が作ったものなのは理解しているが、なんだか那智の滝を見たときのような厳かな気持ちになったのは、巨大さの持つ力というものだろう。

虹が見えた

〈続く〉

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岐阜城 天下布武の始まりで思う

岐阜城に行ったのは初めてだった。そもそも岐阜市に行ったことがあるのは仕事の関係で一度だけ。それも県庁の会議室に1時間いただけなので、岐阜の街自体を見たこともないというのが正しい。
自分で車を運転して岐阜市内にたどり着くと、確かに岐阜城の周りに町がへばりついたような格好で、現代都市としては使い勝手が悪いだろうと思った。岐阜城の下にトンネルが抜け道として作られている理由がよくわかる。お殿様から見れば城の周りが一望なので都合が良かったとは思うが、下々のものにとっては、ちょっとした用事があってもぐるっと山の麓を回らなければならなかったのだから、当時からなかなか大変だっただろう。

さて、岐阜城は金華山の頂上に立つ典型的な山城で、ここまで毎日通っていただろう下層武士官僚、およびその手下たちはかなり足腰が強くなったはずだ。今ではロープウェイがあるので、10分もかからずに楽チンに頂上近くまで行けるのがありがたい。

そのロープウェイも、登る途中で見下ろせば、こんな急峻な岸壁を歩いて登れるはずがないと思う。それでも途中に三重塔があるのが不思議だ。

ローウウェイの頂上駅から歩くこと5分ほどで岐阜城の天守閣が見えてくる。計算されたような門塀の向こうにお城が見える。ところがここからがまた結構厳しい登り下りがあり、お城にたどり着く頃には足がガクガクになる。日頃の運動不足のせいにしてはいけないのだが、戦国時代の人々は本当に足腰が達者だったのだろう。 

そして、その上り下りの続く坂道の辿り着く先に浮かび上がるのがこの光景だ。確かにこれは恐れ多くも・・・という気分になる。たまたま晴れた日だったこともあり、威容というか荘厳というか、青空を背景に浮かび上がる城の姿は、支配者のシンボルという感じがする。
ここで信長と帰蝶が暮らしていたのか、天下布武の構想をここで練っていたのかと。今歩いている道も彼らは歩いたのだろうか。などとちょっと感慨深くなる。

お城の右側の方には、登山道路があるようで、たくさんのハイキング客がお城の周りで休憩していた。高さや道路の取り付け具合を含め、山登り初心者や日帰りハイキングには向いているのだろう。帰りにロープウェイを使うという抜け道もあるし。同じ道を竹中半兵衛が城攻めで登っていたかもしれないというのが、ゾクゾクする。歴史的な一体感と言えば良いのだろうか、戦国時代の城を訪れると感じることだ。
確か織田信長は出世(領土拡張)するたびに城を変えている。振り出しは那古野城、次に清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城だったと思うが、その大半がう甘じろだ。高いところが好きだったのだろう。

ただ、お城の下から見上げると意外と小さいのだよね。

岐阜城はこちら

お城巡りは歴史小説とセットでどうぞ おすすめは司馬遼太郎「国盗り物語」

食べ物レポート, 旅をする

名古屋で一杯やる時は・・・

名古屋の繁華街といえば、栄になる。その飲み屋密集地帯に大きな居酒屋があり、その名を「だるま」という。名物は「名古屋飯」と言われる、名古屋ローカルフードが勢揃いなのだ。何年かぶりで来てみれば、なんだかずいぶん明るくきれいになっていた。ちょっと前に改装したそうだ。前は、薄暗くて微妙に哀愁がある親父の居酒屋っぽかったのだが、すっかりコンビニ的な明るさでヤングアダルトな店に変わっていた。
そんな新装のカウンターでまずは専用グラスに入った生ビールを飲む。

名古屋名物といえば味噌煮込みうどん、きしめん、味噌カツ、えびふりゃーといったところだが、高級路線ではひつまぶし、安直なとところではスガキヤラーメンも名古屋ローカルとして有名だろう。
しかし、なんと言っても、どて煮を忘れてはいけない。居酒屋の定番のもつ煮込み、牛すじ煮込みなどの煮込み系料理をドーンと乗り越えた味噌味の煮込みというか、味噌で煮たもの。甘辛味がよろしいようで、どて煮発祥の店にも行ったことがあるが、どうやらこの味の濃い料理は、お店による差が出にくいのではないか。どこの店で食べてもうまいようだが・・・。

何やら昔の日めくりカレンダーのような人生の教訓を学びながら酒が飲めるのもありがたい。帰りに子供のお土産に買って帰りたくなる。一体何種類くらいあるのだろう。

手羽先と味噌カツも忘れてはいけない。手羽先は元祖よりもそれを真似したチェーンがすっかり大手になってしまったが、手羽先唐揚げ自体は名古屋のあちこちで食べられる。これは確かに店が違うと味が違う。胡椒の加減が一番の差のようだ。味噌カツは、味噌の味で決まるので、どて煮と同じで店の差はないような。ただし、衣の暑さの具合で味は変わるような気もする。濃い味付けが酒を飲む時には良い塩梅となる。名古屋は酒飲みの場所だと聞いたことはないが、出てくる料理は酒向きばかりだなと感じることが多い。

そして、これを名古屋めしと言ってはいけないよという飛騨高山地方の漬物ステーキ。もともとは鉄板で少し発酵の進んだ古漬けを焼いて食べるということなのだが、冬に野菜がない時代は保存食の漬物を焼いて食べていた。それが現代では、嗜好品として一般的になったようだ。その飛騨料理を堂々とメニューに加えるのは、だいぶ強気だとは思うが、名古屋人からすると名古屋の(影響力・支配力)範囲は日本海まで及ぶということなのだろう。卵のかけっぷりは鉄板ナポリのアレンジだし、たっぷり鰹節というのもおそらく名古屋流(きしめん的食べ方)。おまけにソースが味噌、醤油など4種類もある。確かに名古屋的に発展し拡散した料理だから岐阜高山料理などと言わず、広域名古屋圏料理とでも言うべきだろう。

東海北陸道路で走るとわかるが、名古屋と北陸との境はおそらく白川郷あたりに敷かれているのだと思う。岐阜のケイちゃん焼きも、いつの間にか。この店では名古屋めし扱いだったし。おそらく名古屋人の思考回路では、名古屋→大名古屋→広域名古屋→名古屋以外の日本くらいの広がりで、西は京都、東は沼津あたりまでは名古屋圏なのだ。

そのうち福井のサバ料理、へしことか、焼津の黒はんぺんあたりまでは名古屋飯化するかもしれないが、それもまた楽しみだ。
そして、純名古屋飯としての新興勢力といえば、台湾ラーメンから生まれた台湾まぜそばが人気上昇中、次の名古屋飯とその進化はなかなか見逃せない。

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浜松城はちょっと素敵だった

徳川初代が開いた城はいくつかあるが、出世の振り出しは浜松城、成り上がった先は江戸城ということになるだろう。
(隠居した駿府城はおまけ)

織田・豊臣・徳川の三代で終結した戦国時代だが、その東海こそが主戦地だった。織田が美濃、近江、越前、伊勢あたりの切り取りに精力的だったときに、東側の遠江、駿河(今の静岡県)では徳川が防波堤的な役割を果たしていた。東日本は今川と北条と武田が三つ巴の泥沼状態であり、そこに越後上杉がちょっかいをかけるたびに騒乱となる。上杉と今川が抜けた後、武田・北条が手を出してきて、その防衛戦が続いたのが東海だった。そのため静岡県に歴戦の城が多い。戦争状態が長く続いたことの現れだろう。

浜松城は、低い丘の上に位置する。天守閣は野面積みの(自然石を積み上げて表面が凸凹している)無骨な城壁の上にたつ。浜松城主になった大名は出世することが多かった。浜松城は出世城とも呼ばれるようだ。
しかし、この城で籠城するのはかなり厳しいのではないかと思わせる。今は公園になっている敷地が全て城の縄張りにあたるとして、やはり平地すぎる。これでは三方ヶ原の戦いで逃げてきたにしても、武田軍団の数であれば鎧袖一触だったのではないか。本拠地である三河岡崎から浜松に移ったのは、旧今川領に対する圧力であったのだろうが、その今川領を快速で突破する武田軍団には、家康一党が抵抗できるほど縦深が足りていなかったということだ。浜松から岡崎まで撤退してようやく織田軍団の支援が期待できる程度だろう。
戦時の城としては浜名湖あたりに築城すべきだったのではないかなどと夢想してみた。

結局、織田軍団による武田氏殲滅とその後の本能寺の変により徳川は一時的な安定を迎える。織田後継を狙う軍団長抗争(跡目争い)では、羽柴を攻め滅ぼす勢いだったが、結果的にはそこからまた耐え忍ぶ時期となり、おまけに故地を取り上げられ関東に島流になる。
追い払われた辺境の地、江戸城で引きこもらなかったのは、相当な精神力だ。だから、きっと憂さ晴らしに造ったに違いない江戸城は、実に巨大な城となる。今のお堀で囲まれた江戸城は内側の城であって、外郭部はもっと広い範囲に及ぶ。が、それはまた別の話。
江戸城を築いた時期(おそらく当時では老境に入り)、明日の我が身を案じる焦燥感に苛まれながら築城を指揮した老将の執念に、ただただ敬服するばかりだ。(個人的には、家康を政治家としても武将としても全く評価はしていないが)

しえお巡りとは別の話になるが、浜松城の下にあるスタバは、これまた実にぶっ飛んだお洒落っぽさで感心した。スタバはこうしたユニークな店を作るのがうまい。弘前城の向かいにも、元陸軍駐屯地司令官の官舎を改造したスタバがあった。確かにThe third placeという空間だ。お上手。

出世した後の家康の江戸城の話は、またいずれ

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高原の喫茶店

蓼科ビーナスラインにある一軒家喫茶店

ビーナスラインと呼ばれる高原道路は、茅野市で発掘された縄文遺跡から出土した女性の土偶を「縄文のビーナス」と名付けられたことに由来している。

縄文のビーナスは茅野市尖石縄文考古館で展示されている
 https://www.nagano-museum.com/info/detail.php?fno=136&tn=1

そのビーナスラインに立つ一軒家喫茶店がなかなかオシャレというか、居心地が良いので、晴れた日にはついコービーを飲みに行きたくなる。お店の前には5台ほどの駐車スペースがある。店内の客席もそれにあった5組も入れば満員になる。女性の店主が一人でやっているので、混雑する時には注文がなかなか出てこないこともあると断り書きがあるが、こちらの行く時間のせいか、待たされたことはない。
茅野市内からビーナスラインを登ってくる途中には、手打ちそば、北欧料理レストラン、おしゃれな雑貨店、そしてイングリッシュっガーデンが立ち並ぶ、かなり密集度の高い地域に当たる。
向かい側にはいつでも長蛇の列ができる蕎麦屋や、店の横の畑で取れた野菜が売り物のイタリアンレストランもあり、シャレのめした高原の商業集積地と言っても良いだろう。イングリッシュガーデンは、週末には100台近くある駐車場がいっぱいになる。

道路沿いに大きな窓があり、そこはカウンター席になっている。道を挟んだ向かいは野菜畑で、ビニールハウスの中はトマトやナスが育っているらしい。1000m近い高原なので、夏でもうんざりするような暑さにはならない。ビーナスラインと呼ばれる割りに交通量はあまり多くないので、ぼんやりと畑とその向こうに広がる青空を眺めていると、なんとなく心が落ち着く。ぼーっとしているのが心地よくなる。

夏でもホットコーヒーを飲む。アイスコーヒーは意外と苦手なのだ。この店のコーヒーは酸味が立った濃い目のブレンドで、午前中に飲むには良いようだ。ランチタイムにはそこそこ混み合うらしいので、早めに退散する。大手喫茶チェーンでは味わえない時間と空間は、一つの文化だなあと改めて思う。
田舎の喫茶店によるのは楽しみだ。

茅野市北山 「たてしな日和」 営業時間は短くて、お昼前から夕方まで喫茶店