旅をする

記憶に残るラーメンが蕎麦の地「安曇野」に

2017年の記憶 #13 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

安曇野の近くに、松本の老舗ベーカリーの支店があり、そこにパンを買いに出かけた時の発見したラーメン店だ。安曇野といえば蕎麦の名店が揃っているところで、当然「今日のランチは蕎麦だ」と決めていたのだが、ロードサイドのラーメン屋の看板に釣られてしまった。駐車場に車を入れたのは昼のピークを過ぎたあたりだったので、竜車上も空きが目立つ。店内もそれなりに空いていたのだが、なんとなく「この店はいけるかも」という勘が働いた。そもそも最近では変わっているかもしれないが、長野ラーメン、信州ラーメンという言葉を聞いたことがなかった。やはり蕎麦王国でラーメン文化は弱小勢力なのね、と思っていたのだが、長野県で独立勢力が「信州ラーメン独立軍」として頑張る時代になったようだ。基本的に信州味噌を使った濃い味のラーメンが多いような気がする。

豚骨の味噌味という難しいジャンルで、予想以上にうまいものに出会ったぞ、というのが第1感だった。味玉に自信ありということだったが、これもしっかりと味が染み込んだ一品で、何より感動したのが大きな海苔の勇姿だった。ラーメンを頼む時、追加トッピングで海苔を頼むことも多いノリ好きとしては、この一枚海苔はまさしく感動ものだった。
ただ、食べ方が難しい。スープに浸かって柔らかくなった部分を食べ、残りの海苔をスープに漬け込み、柔らかくなったらまた食べるという繰り返し。ラーメンを食べていながら海苔に満足を覚えるのは初めてかもしれない。

ネットでチェックしてみたら、上田が本店らしく、このご時世でも元気に営業しているようだ。そうとなれば、今年の夏は安曇野で蕎麦とラーメンの連荘だ。

旅をする

戸隠神社と蕎麦

2017年の記憶 #9 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

戸隠という地名を知ったのは、半村良の伝記物のどれかだったように思う。古代日本の鬼伝承について読んだ本でも、長野県の山奥の地、戸隠、そして鬼無里(きなさ)が舞台となっていて、一度行ってみたいと思っていた。初めて戸隠に行った時は、長野からやたら細い山道を通ってたどり着く辺鄙な場所で、山里という感じを強く持った。その後、何度か訪れる機会があったが、やはりいつも山奥の場所だと思った。車で行けばそれなりに簡単に着くが、昔は徒歩でここを登ったのかと思うと、信仰心というのはすごいものだなと改めて感じる。戸隠神社は自分の中でも好きな神社のベスト5の中に入る。何度もお参りに訪れる価値があるところだ。ちなみにお気に入りの神社は、秩父の三峯神社、長野の諏訪大社下社、奈良の三輪神社、熊本の阿蘇神社など。ちょっと古びた感じがお好みの神社だ。

世間一般的には「戸隠」というと神社より蕎麦の方が知名度が高いような気もする。自分でも戸隠神社参詣の楽しみの一つは、蕎麦を食べることだ。ただ、この門前町の蕎麦屋は平日だと休んでいる店も多いので、蕎麦を食べるつもりなら週末に行くべきだろうと思う。お目当ての蕎麦屋が休みだと、ちょっと残念な気分になるからだ。この日は初めての店を「見た目」と「駐車場」で選んだ。店選びの理由なんて、食べ物の旨い不味いだけでは決まらないという典型だ。特に外観、ファサードは観光地の場合、とても重要だと思う。単純にお目当ての店が休みだったから、まあ戸隠だったら、どこの蕎麦屋でも旨いだろうという理由のない安心感もある。だが、実はこれが正解だった。良い店を見つけるには、多少の運も必要だということらしい。

普通にもりそばを注文しようと思ったが、追加すればつゆが何種類かセットになるようで、信州名物のくるみダレも合わせてセットにした。東京のビジネス街で頼む(それも老舗ではない普通の街の蕎麦屋)の蕎麦は、サラリーマンの定番昼飯だが、食べてもあまり感動はない。腹を満たした、必要に応じて食事をしたという感じがする。(決してまずいとは言わないが)
ところが、ちょっと都会を離れた鄙なところで食べる蕎麦はご馳走感がすごい。この差はいったいなんなのだろうといつも思うのだが・・・。長野はあちこちに(山の中、田舎の畑の脇など)蕎麦の名店がひっそりと存在している。そんなところのそばを、ハシゴしてみたいものだ。

旅をする

岩国で戦国アウトドア

2017年の記憶 #7 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

岩国市の近くの山の中にある、屋外エンタテーメントレストラン「いろり山賊」をテレビの番組で見て、一度行ってみたくてたまらないと思ったまま数年がたった。青春18きっぷ西日本の旅のゴールはここにしようと決めた。岩国からでは1日で東京まで戻れないので、帰り道はどこかで一泊しなければならない。仕方なしに戻れるところまでを帰り道にした。名古屋泊になった。名古屋飯は好物なので文句はないが、青春18切符の旅は行き当たりばったりだとアクシデントも起きる。名古屋までなかなか遠い。
さて、この山の中の屋外レストランだが、日本にはなかなか存在しないエンタメ系レストラン。アメリカではあちこちにあるが、東京や大阪ではこの手の店はほとんどない。屋外で露天の掘り炬燵に入って食事をするという経験はなかなかのものだと思う。屋根はかかっていたが雨の日にはどうするのだろうと気にはなった。それはそれで楽しいのかもしれない。室内にもテーブルはあるが、晴れていれば寒かろうと暑かろうとお外で食べたい気分になる。もう一つ不思議なのが、屋外の席のあちこちにビールの自動販売機があること。酒は自販機で買ってねということらしい。

掘り炬燵の席から炉端に移してもらった。注文した食べ物が山賊おにぎりと山賊焼(鳥のももを串に刺して焼いたもの)だが、確かに見た目からして山賊が山の中のアジトで焚き火で焼いた的な感じがプンプンする。手掴みでワシワシと食べると気分は山賊の子分くらいにはなる。山賊焼は店に入ってすぐの大きな囲炉裏に串を刺して大量に焼いていた。ヤマメの串焼きを焼いているのはみたことがあるが、鳥のモモ焼きが10本以上ぐるりと輪を描いて刺さっているのを見ると、何やら勇壮な気分になる。山賊の宴会だ。車を運転して行ったのだが、ナビの位置が微妙にずれていてずいぶん迷ってしまった。最寄りのJRの駅からタクシーで行くのが正解かもしれない。夜に行けば篝火でもっと気分が盛り上がりそうだ。ここは大人の遊園地なのかもしれない。

旅をする

高野山で昼食難民

2017年の記憶 #6 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

高野山といえば、思い出すのは「孔雀王」だ。高野山で修行したモンスターハンターが妖怪と戦うというコミックで、式神使いのサブキャラが結構渋い。呪を唱え印を結ぶ、和風ヒロイックファンタジーの走りだったと思う。だから、高野山は自分のイメージの中で妖怪と戦う密教戦士の総本部みたいなものだった。そしてとてつもない秘境で平民がいくには果てしなく遠い「秘境」と思い込んでいた。近しいイメージで言えば、長野県戸隠とか鬼無里といった山奥の地のもっと山奥盤というところだ。

それでなんとなく遠すぎていけないと思い込んでいたのだが、ちょっとネットで調べてみたら、小学生が遠足で行けそうなくらいの場所らしい。拍子抜けしてしまった。そこで、関西神社巡りの中に1日日程を追加して、南海電車で高野山の麓までちょいちょいとついてしまった。そこから高野山の上まではケーブルカーで、これまたちょいちょいと・・・。ケーブルかはなかなかのイベント感のある乗り物だった。頂上駅では駅員さんが案内してくれて、町の中央というか寺院複合体の中心部、つまり本山まで行くバスに乗り込んだ。事前の下調べが足りずに、どこにいけばわからなかったボンクラ旅行者に駅員さんが丁寧に説明してくれ。親切な町だ、という印象が強い。

金剛峯寺前に立ち、ささやかに感動した。おお、これが妖怪ハンター養成所か。などと不謹慎なことを考えながらお参りする。思っていたよりもこじんまりした感じがするが、京都にある巨大宗派の本山と比べるのがおかしいのだろう。こちらは密教修行のための本山で、京都にあるのは政治的示威が必要な教団本部だから違いがあって当然だろう。関東、西国、四国の札巡りが終わるとお礼にここにくるそうだ。その後、バスを乗り継ぎあちこち回って高野山をすっかり堪能したのだが、昼時を過ぎてそろそろご飯を食べようと思ったら、どの食堂も満員で空席待ち。平日であっても高野山は大量の参詣者が押し寄せてくるらしく(季節が初夏ということもあり)、完全に昼食難民となった。あまりの空腹に耐え金、コンビニで買ったアメリカンドッグをベンチで食べることになった。(弁当やおにぎりもほぼ売り切れ状態だった)
やはり罰当たりなことばかりを考えていた報いだろう。次回はもっと崇敬の念を持って再訪したい。そして、忘れずに食事の予約もしておこう。

旅をする

成田でうなぎ

2017年の記憶 #5 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

首都圏では一番訪れた機会が多い町が成田だと思う。勤務先があった恵比寿は毎日通う場所だったし、帰りがけにいっぱいやるため新宿には立ち寄ることが多かった。そうした日常的な街と違い所用があるから、わざわざやってきたという感じがするのが成田だが、厳密にいえば成田の町ではなく成田空港に来ていた。空港を訪れた回数でいえば、羽田空港の方がはるかに多いが、羽田は感覚的に「駅」なので通過点意識しかない。成田空港は「駅」というより、長旅の始まり、第一チェックポイントみたいなところがあ理、意識の上では「街」だった。
そのせいで、あれほど有名な「成田山新勝寺」のお不動様にお目にかかったことがないことに気がついたのは、タモリの出演する某テレビ番組をみたときだった。そこで、青春18切符の残り、最後の一回分を使い成田に行ってみることにした。東京駅から千葉で乗り換え成田駅までは、なかなか乗りご耐えるある距離だ。この頃から御朱印集めを始めたこともあり、日帰り旅としてはなかなかの充実ぶりになった。お不動様を拝んだ後の楽しみは、「うなぎ」。

最近ではますます高級品化してしまった鰻だが、どうやら成田詣に鰻はつきものらしい。門前町をぶらぶらと歩いていると何軒も鰻の店が目に付く。事前に調べていた有名店も、平日ということでスルッと入れた。店頭で鰻を捌いているのが覗き見できるのが、新鮮さを感じさせる。鰻重は上品に食べるものではないと勝手に思い込んでいるので、熱々の鰻をご飯と一緒にガツガツと勢いよく食べる。江戸時代はまるぎりにしたものを焼いて食べたようだが、この開きで焼くスタイルを考えだした職人?は偉大だ。東京に出てきて初めて食べた鰻にびっくりしたのはもうずいぶん昔のことだ。蒲焼といえば秋刀魚の蒲焼の缶詰しか知らなかった地方出身者にとって、うなぎとは本の中でしか知らない、何やら怪しげなうまいものの代表だった。今では自前で注文できるようになった、我が身の立身出世(大袈裟な・・・)の印みたいなものだ。一年に何度か無性に食べたくなり、今日は鰻を食べるぞと勇んで外出することもある。名古屋のひつまぶし、諏訪の鰻の名店、そして高知の四万十産鰻、どれもこれもうまいものだ。今年の夏は鰻三昧してみようかなあ。

旅をする

お伊勢参りでかき氷

2017年の記憶 #4 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

伊勢神宮入り口にある参詣者向けの商店街というか、門前町というか、土産物や食べ物が楽しめる一角がある。人工的に作られた商店街なのだが、それも随分と時間が経ってすっかり「町っぽく」なっていた。伊勢名物、あんこ餅の「赤福」の社長さんががんばって旗振りをしたそうだ。赤福は本店は実に大きく立派な建物だったが、この「おかげ横丁」の中にも何店か出店している。当然、赤福のあんこ餅を食べる人で賑わっている。ちょっとした順番待ちも起きているので、違う場所に行ってみたら、そこでは「かき氷」を食べている人を見つけた。5月下旬の暑い日だったせいもあり、何やらとてつもなくうまそうに見えて、急遽あんこ餅からかき氷に変更した。

柔らかなかき氷に抹茶味のシロップがかかっていた。少し食べたところで、氷の中にあんこの芯があるのに気がついた。気になって「芯」を確かめてみることにしたら、何やら相当な大きさのあんこ塊が出てきた。氷を食べて、キーンとしてくる頭を、温かいお茶で宥める。箸休めというかスプーン休めにあんこ玉を少し食べる。かき氷が何段階か進化した、ラスボス級かき氷だった。
やはり和菓子の老舗が考えることはさすがだ。物価とか、洗練とか、かき氷には似つかわしくない言葉が浮かんでくる。歴史のある街は違うなあと感心した。この街は、少なくとも江戸中期から300年以上、伊勢参り観光客を相手にしてきた、凄腕の観光業者集団だから「接待商売」のレベルが違う。北海道の自然を全面に押し出した「考えなしの素材提供」と比べれば、その巧妙さのレベル違いは歴然だ、などと文化的考察に浸りつつ、かき氷を堪能した後は「赤福」を追加してしまった。伊勢商人の観光技に完敗だった。

旅をする

 大阪みなみで酢豚

2017年の記憶 #2 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

2017年の春先に関西に出かけて神社仏閣巡りをした。その時の起点を大阪の「みなみ」にしたのは、高野山が主目的地だったからだ。南海電車の特急で高野山を目指すことにしたための難波泊まりだった。大阪には数知れないほど出張していた。それでも、難波駅界隈に宿泊することはなかった。大体は阪急梅田駅周りに泊まっていた。たまに浮気をしても神戸三宮界隈だっだ。
ホテルの近くで晩飯をと思って、千日前をぶらぶらしていた。有名な洋食屋のカレーを食べに行こうかなどと思っていたが、あの有名な饅頭屋の行列を見つけて気が変わった。饅頭屋の二階にある中華料理やの看板が目についたからだ。そしてその中華料理屋でメニューを見て、これまたなんの躊躇いもなく酢豚定食にした。思い返せば、大阪で酢豚を食べるのは初めてだった。
結果は(個人的な意見だが)、東京酢豚と比べるとちょっと甘い。ただ、他の大阪の中華料理店の酢豚を食べ比べていないので、この店だけの違いなのかもしれない。奈良で食べた酢豚も神戸で食べた酢豚もやはり甘い感じがしたので、やはり関西圏では甘めの味付けが好まれるのかもしれない。甘い酢豚が不味いというつもりもないし、丼飯をモリモリ食べ切るほどで「おかず」として上等なものだった。確かに大阪に行ったら粉物だ、というちょっと偏った意識はあるが、大阪は首都圏に次ぐ大規模都市圏なので洋食や中華もおおいに楽しめるはずだ。次回は中華料理屋巡りでもしてみようか。その時の比較対象は酢豚とチャーハン、天津飯あたりかな。

旅をする

ナマハゲを見てルーツをかんがえた

男鹿半島の入り口で歓迎されているのか追い返されているのか、巨大なまはげ

北海道は、蝦夷地と呼ばれていたのが「北海道」と名称変更になり、それを開基150年などといって祝っていたのが2018年だった。その前は青森(津軽)と海峡を挟んで対岸共通文化圏だった北海道南部を除けば未開の地だったわけだ。海岸沿いに、あちこちのアイヌ部族との交易所的な集落はあったようだが、大きな町といえば江刺・松前くらいのものだった。戊辰戦争の後、没落した反政府側諸藩の集団移民や日本海側諸地域からの食い詰め者の移住地(一旗あげるぞ、フロンティアみたいな感じ)、そして犯罪者の収容所、流刑地として活用された。
北米やオーリトラリアのイギリス植民地と似たようなものだ。対ロシアの防衛拠点として、政府主導の開拓が進められたとは言え、やはり「流れ者」が集まってできた混住地というのが正解だと思う。当時は日本海側の海運が主力であり、北は青森から南は鳥取、島根あたりまでが主たる移住者供給地帯だった。特に明治政府に抵抗した地域からの移住が多かったようだ。奥羽列藩同盟所属諸藩はその典型だろう。
そのため、各地の方言が微妙にミックスされた北海道弁が形成された。だから北海道弁というより流れ者の共通語だったのだろう。それが混住時期が長く続くと、北海道弁だと思っていたら、同じ言葉が岩手で使われていてびっくりした、などという北海道民の変な思い込み話もたまに聞く。元々は岩手や宮城など東北地域の言葉が、北海道に流入して広まったのだから、北海道民の言語モンロー主義には笑ってしまうところがある。

んだ、とは北海道でも聞く言葉かなあ?ちょっと微妙かなあ

自分のルーツを調べてみたら、父系は4代前に富山から北海道に逃げてきたらしい。水飲み百姓(小作農)の三男だか四男だかで、典型的な「貧乏人の一旗揚げるぞ的な動機」での移住だった。ところが、やはり夢は簡単に敗れ、日高地方で借金を踏み倒したのか?、夜逃げ同然に知り合いのつてを辿って芦別に入植。その後は真面目に開拓に励み、小作人を雇うほどの地主様になったが、戦後の農地改革でまさかの農地没収。それでも祖父の代ではそこそこの規模の自営農家となり、その次男であった父親が役人になった、というこれまた北海道では一山いくら的な典型的家系、ルーツ話だ。キンタ・クンテのような劇的な話ではない。
おそらくじい様の代あたりでルーツの富山とは徐々に切り離され、内地との距離感を持った北海道人化したというところだろう。だいたい苗字からして、明治代に強制的に与えられた農民向け姓名だし、浄土真宗の檀家だし、富山の底辺階級からの脱出組だ。
さすがに最近は北海道民でも、「内地」という言葉を使う人も減ったが、内地とは外地に対する言葉だ。内地は日本本国、つまり本州と四国、九州で構成される。外地は明治期に拡大した領土で、北海道と日露戦戦勝で得られた樺太、日清戦で獲得した台湾、朝鮮などの諸地域をさす。琉球も明治政府成立後のどさくさに紛れて編入したから外地だったのだろう。
つまり外地とは植民地の言い換えと言って良いと思う。植民地人の屈折と憧れ、望郷の思いを込めた「内地」と「外地」なのだ。東北、北海道は大和朝廷成立以来の領土拡張欲に強く彩られた、侵略戦争の結果であり、常に辺境扱いだった。(そもそも道の奥と書いて陸奥なのだ)
世界史的に見て、だいたい植民地は独立する。本国の搾取に耐えられないからだ。だから既に独立した地域は別として、北海道と沖縄は独立する余地があると思うが・・。(北海道民はジオン公国ほど人口がいないから、難しいかもしれない)

脱線したので話を戻すと、我がルーツの母系は、三代前、つまり母、祖母、祖母の父あたりまでしかわからなかった。3代前のひい爺様は秋田から樺太に移住したようだ。樺太は日露戦争の頃からロシア人と日本人の混住地になっていたから、おそらくその頃に移住したはずだ。母方は曹洞宗の檀家だったので、おそらく下級武士だったのではないかと想像している。爺様は、樺太の炭鉱で働いていたが(ルーツわからず)陸軍に徴兵後、樺太の守備隊で戦病死。母子家庭のまま終戦を迎え、樺太からの引き上げ船に乗るまで2年ほど抑留。その後、北海道に引き揚げてきて芦別で受け入れられた(その頃は炭鉱都市として人口が膨大していたため)ということのようだ。
つまり、自分のルーツを辿ると富山と秋田のミックスで、家系図が遡れるような家柄でもなく、典型的な外地人、植民地人ということになる。だから子供の頃、時々食卓に出てきたわけのわからん食べ物(おそらく由来は北東北から北陸地方の農民料理)には閉口したものだ。青菜の漬物を味噌で煮たものは、どうやら富山の山間部の料理のようだ。ハタハタの煮魚もよく出てきたが、あれは間違いなく秋田ルーツだろう。糠ニシンというニシンの塩漬けも、よく食卓に出ていた。糠ニシンなどは今や北海道の居酒屋で食べる特殊嗜好品のような気もするが、あれは北陸のへシコ(サバの糠漬けなど)が北海道的な変化を起こしたものだと思う。保存性が高いので、日本海沿海部で作られたものが、北海道山間部・内陸部にまで運ばれていたようだ。だから秋田・富山ルーツの食べ物というより、北海道全域的に広がっている「日本海沿岸部文化」だろう。
樺太で育った母が言うには、ししゃもとは岸辺に溢れているものを一斗缶にいっぱいに入れていくらという単位で買ってきて、自分で干すものだったそうだ。飯のおかずより子供のおやつみたいなものだったらしい。これは樺太文化というべきだろう。だから、実家にいる間は食卓にししゃもが出ることは極めて稀だった。スーパーで売っているししゃもはししゃもではないというのが母の持論だったからだ。などなど、いろいろなところに日本海沿岸文化は色濃く残っているのが、北海道の文化的ルーツとも言えそうだ。

ただ樺太に行った秋田からの移住者はナマハゲ文化を持ち込まなかったのは確かのようだ。秋田と言うより男鹿地方の文化だと言い切れるとも思えない。おそらく、樺太では稲作ができなかったせいで、あの独特のワラ装束が作れなかったからではないかなどと思っている。また、外地人は本国に対する文化的な渇望というか、こだわりが強かったようだ。たとえば全国各地で様々な盆踊りがあるが、北海道でも地域によって微妙なスタイルの差がある。地域によってはそれぞれの移住者の本拠地のスタイルが伝わっている。しかし、炭鉱地のような多種多様な地域から人が集まった場所では、ミックスされて北海盆歌みたいなものになった。今や、そのミックス形態が標準化し伝統的などと言われる。
しかし、ナマハゲのようなビッグイベントが根付かなかったのは、やはり何かの理由があるのだろう。ただ、その理由が思い当たらない。個人的には、北海ナマハゲみたいなのが残っていてくれれば楽しかったろうになあ、などと思うのだが。

旅をする

これも城跡  群馬の山の中の難易度の高い城 

日本100名城をめぐるスタンプラリーを始めて4年目だが、去年は丸一年どこにも出掛けられず、今年も夏まで城巡りの旅に出られるのか怪しい社会情勢だ。城巡り必携の参考書に公益財団法人日本城郭協会のオフィシャルブックがある。100個のスタンプを集めると100名城完了認定証がもらえる。おまけに続・日本100名城も認定されているので、名城スタンプラリーをコンプリートしようとすると正・続を合わせて200の城を回ることになる。何年かかることやら。
この城廻りで一番困ることは、スタンプラリーのスタンプのありかが各地でバラバラで、山の中に立っているポストみたいなものの中に収められていたりする。そのポストの場所の地図があるわけでもなく、城の入り口でもスタンプ設置場所がどこか説明がされていないことも多い(ほとんどだな)。山の中を必死にスタンプ探索作業するはめになったりするので、名城めぐりは体力も必要だ。また、地元の記念館や研究施設にスタンプが設置されている場合は、城跡から距離があるところも多い。城跡を見たあと1−2キロ以上歩くなんてこともある。100名城廻りはなかなか体力勝負な趣味、といって間違いない。たまにお城の伝承記念館のようなものの中にあり、スタンプを押すのに入場料が必要なこともある。

典型的な山城の跡

お城というと誰もが思い浮かべる、姫路城とか松本城とか熊本城とか、とにかく天守閣がどーんとそびえる3層、5層といった立派な建物というイメージがあるが、実際には天守閣のないものが多い。そもそも城跡に建物自体が存在しないで(復元もされていない)、地面に溝だけが残っているという方が半分以上だろう。
戦国時代に活躍していた山城の城址は、そんな「溝」を含めた凸凹が残っているだけというものが大半だ。真田一族が支配した群馬から長野にかけての地域にある山城跡は、その溝と斜面の典型だと思う。草が生えている斜面は、昔は濡れるとツルツル滑る粘土質の土が露出していたそうだ。関東ローム層という赤土が実に滑りやすいので、関東の城は石垣ではなく(積むのが面倒で金もかかったため)泥壁仕様が多かったようだ。だから、城跡を見にいくときは絶大な想像力を発揮しなければならない。
ここにあるのは草が生えた手入れ不足の斜面ではなく、水は入っていないが赤土の泥壁で補強された空堀だぞ、とか。この通路には上から落として怯ませる大きな岩が置いてあったり、投弾兵器としてソフトボールほどの石が山のように積まれていたのだぞ、とか。堀の下からワラワラと上がってくる敵兵に土塁の上から油を撒いたり熱湯をかけたりして追い払う戦国時代の攻城戦・防衛戦は、映画に出てくるような槍や刀で斬り合う勇ましい物ばかりではなかった。坂の上から熱湯をかけられ、あちちと思ったら泥に足を取られて、周りの兵を巻き込んで斜面をずり落ちるという光景を想像ずれば、昔懐かしの風雲たけし城みたいな滑稽感すら湧いてくる。
その戦術に合わせて構築された山城は、地形を生かした「いじめの思想」に基づいて設計されていた。滑って転んだ敵兵に、上から石をぶつける。盾で投石を防ごうとしたら岩を転げ落とす。そんな感じの防衛思想だから、矢を射るなどもったいない。そもそも城自体が消耗品だったので、戦に負けたりすればさっさと撤退するから、そのあとは廃城になることも多かった。

そんな戦国時代の戦闘効率主義に思いを馳せながら、山の中の草がぼうぼうに生えたところを見にいくというのは、相当に高尚な趣味だと自負しております。はい。

旅をする

土佐手ぬぐい

ハンカチがわりに手ぬぐいを使い始めて、20年くらいになる。色々と使い勝手が良いので、出張先でのお目当ては、ご当地手ぬぐい探しだった。ご当地ながらのデザインが面白い。その中でも土佐手ぬぐいという、高知の手ぬぐいシリーズは柄が野菜や魚で、色使いも鮮やかな優れものだ。

実は土産物屋以外で手ぬぐいを手に入れようとするとなかなか大変だ。東京で言えば浅草の商店街から外れたところに専門店が一軒あった。いわゆるお江戸デザインでそれはまた風情があるのだが、あれは東京都民向けというより浅草観光客向けなのだろう。デパートの呉服売り場に行けば、風呂敷と並んで置いてあるはずだが、日本橋のデパートですら品揃えは少なめで、新宿のデパートではほんの片隅に置いてある程度だ。いかに、手ぬぐいというものが廃れてしまったかとも思うのだが。

吸水性が良く、洗って使い続けているうちに微妙に色が変わってくるのが楽しみだ。恥から糸がほつれてくるのを、ハサミで切り揃えるのも楽しみの一つだし。旅先では使用したものを洗って一晩干しておけば乾いている。使い勝手抜群だとおもうのだがなあ。そもそも、ハンカチというものの存在も、何やら色々とお作法があるようなことを、おしゃれな方のエッセイで読んだりしたので、微妙な反発感もあり手ぬぐい派に転向した。最近はすっかり旅に出ることも無くなったが、手ぬぐいのストックは10年分くらいあるので困ることもないだろう。それでも、高知に行って土佐手ぬぐいの新作を手に入れてみたいなあ。