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串鳥をオフ札幌で楽しむ

札幌を代表する飲食チェーンといえば、「串鳥」という答えが正解だと思う。札幌にもローカルのチェーン店はいくつかある。とんかつや日本蕎麦、ラーメン、スパゲッテなどで複数店を展開する企業も多い。夜のススキノでは綺麗なお姉さんの接客が売り物の隠れた大チェーンもある。ただし、知名度、店舗数でいえば串鳥がナンバーワンだろう。(いくつかの居酒屋チェーンがあったが、すでに本州資本に買収されているので除外する)その串鳥の札幌市外にある店が、地元の支持を受け盛況だ。飲食店としてはラーメン屋や蕎麦屋がありそうな郊外駅の駅前だが、ランチ営業もしながら、平日では夜も満席になることが多い。焼き鳥のテイクアウトもやっているが、おすすめは若鶏の半身揚げで、焼き鳥屋とは思えない専門店並みのクオリティーの高さだ。(失礼しました。でも、愛用させていただいてます)

今年から、お通し代100円いただくことになりました、すみません、と入り口のポスターに書いてあった。コロナの後遺症だなと同情したが、おすすめの串5本セットを頼むと100円以上値引きしてくれる。ハッピーアワーの時間延長もしてくれる。などなど。お通し代を帳消しにするくらいのサービスも実施中で、さすが串鳥と感心した。豚しそ巻と新生姜の豚巻(食べかけ)は好物なのだが、しそまきは割引セットに入っていたのでお得なお買い物だった。
昔はススキノで串鳥の空いている店を何軒か探し回るのが当たり前だったが(今でも金曜日にはそうなる)、ススキノ以外の住宅地でも串鳥が増えたこともあり、週末に行けばファミレス化している。子供の頃から、じいじばあばと一緒に焼き鳥屋に行く経験をしたら、大人になっても串鳥ファンになるという、まるでマクドナルドのような経営戦略だ。
一度、札幌市民の串鳥接触率を調べてみたいものだ。おそらく、ここ一年で札幌市外から移住してきた新参者を除けば、ほぼ100%ではないのかな。ちなみに東京都内では荻窪と吉祥寺にあるので、串鳥が懐かしくなればちょっと足を伸ばしても良いかなあ。でも、緊急事態宣言と言う禁酒令(それしかできないのかと侮蔑するクズ政策)では、行っても仕方がないか。

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大通公園がたいへんです

これは7月上旬に撮った写真だが、札幌の夏の名所「大通公園」が、コロナとオリンピックの二つに責められて大変な状況だった。今頃は、会場も公開されてマラソン開始を控えているはずだ。

札幌市中心部に広がる大通公園は季節に応じていろいろなイベントに使われる。冬の雪まつり、夏のビヤガーデンがその代表だが、春秋にもイベントが詰め込まれて、年中なんらかのお祭りが開催されている。そのお祭りの間の期間は、散歩をするにはちょうど良い空間でもあり、観光客、札幌市民合わせて、まさに都市公園の典型的な風景だ。ところが、今年はフェンスとバリケードで封鎖された異形な空間になっている。

公園の中心部である4丁目、5丁目がこの有様で、物々しさと合わせて馬鹿馬鹿しさすら感じてしまう。テロ対策という意味合いもあるのだろうが、反対派にデモや集会をやられるのを避けるということなのではと邪推してしまう。イベントには反対運動が付き物だとは思うが、市民の視点から見れば「なんだかなあ」という気分になるのではないか。

オリンピックパラリンピックが終わった後も1ヶ月近く封鎖は続くらしい。問い合わせ先は組織委だから、何を問い合わせても無視されるか、返事が来るのは来年の今頃になるだろう。それくらい信用のできない組織ときめつけるほど、あれこれやらかしてくれているからなあ。なんだか、9月の会場封鎖期間中に、オリンピックの記念碑でもできそうな怪しさもある。札幌が再度の冬季オリンピックに立候補するとして、そんな怪しげなものを作ると、今回のオリンピックのドタバタが古傷として残るようで逆効果だろうと思う。

封鎖空間を西に一丁ほど歩けば、そこはいつもの大通公園の姿なのだ。しかし、観光客もいないコロナ空間なので、これはこれで異様な光景であるのだなと、無人の芝生を見て思った。普段であれば、この芝生には親子連れが座っていたり、若い学生達が元気に話していたりするのだが。
今年の大通公園はたいへんです。

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釧路の変貌がちょっと悲しい

釧路の話をもう少し続ける。釧路市民でこの店を知らない者はいないと言われるレストラン「泉屋」は、初めて釧路に行った時に知人に連れられて以来、数十年愛用している。釧路末広町という大繁華街(当時は本当に人混みが凄かった)で、休日であれば空席待ちをするほどの超がつく繁盛店だったと思う。いわゆる洋食屋なので、メニューは豊富だし肉料理主体なので、若い時代は本当にガツガツと食べ、腹一杯でうまかった記憶しかない。

この泉屋の最強メニューがスパカツで、ミートソースのスパゲッティの上にカツがどんと載っている。今思えば洋食屋であればどこで売っていても良さそうなメニューなのだが、当時はどこにもなかった?ので、他の店で食べた記憶はない。まだ、ファミリーレストランの普及期前で、喫茶店でランチセットを頼むのがオシャレっぽい時代だった。スパゲッティーは喫茶店で食べるものみたいな感覚だった。おそらく、喫茶店ではカツをあげることが面倒くさかったのだろう。そういえば喫茶店ランチにカレーはあってもカツカレーはなかった。
スパカチを食べるには釧路に来て泉屋に行くしかない、とまでは言わないが、それくらいインパクトのあるメニューだった。熱々の鉄板でソースがジュージューしながらテーブルの上に置かれると、思わずゴクッと唾を飲み込んだものだ。生まれて初めての「シズル」を感じた時だったと思う。

その末広町の真ん中にオシャレな百貨店があった。丸井今井釧路店は、飲食店や酒場が取り囲むように立ち並び、釧路地域の商業中心として輝いていた。しかし、いつの間にか百貨店は閉店し、その後に商業ビル化したが、それも閉店してしまったようだ。今やシャッターで閉じられた廃ビルのようで、自転車置き場に変わっている。このシャッターの前を、札幌のススキノを上回るような数の若い人たちが歩き回っていた、などとは想像もできないだろう。夜の8時過ぎには歩道から人が溢れて車道を歩いていたものなのだが。

この親子のブロンズ像はいつ頃できたのだろうか。全く記憶になかったが、おそらく街頭整備でアートが喜ばれた華やかな時代の生き残りなのかもしれない。お母さんの視線が実に良いのだが。

元百貨店の前が放置自転車置き場になるのは、街のスラム化につながる。アメリカの地方都市で、これと全く同じようなことが起きているのを何度も見た。スラム化は犯罪から始まるのではなく、大型ゴミの放置という街の維持機能の低下から始まる。
釧路市役所の方々、ぜひここを見つめ直し、考え直して欲しいと思う。一度スラムになれば、街を取り戻すのには膨大なコストがかかるというのもアメリカ社会が実証している。自分の好きだった街が、劣化していくのは辛いものがある。都市中心部の再開発とまでは言わないが、景観維持、環境維持は市民の財産を守ることにつながる。是非ご検討を。

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やはり釧路でうまいもの

休日に釧路入りした。本日の夕飯はどこにしようかと迷うところだ。釧路名物と言われれば「炉端焼き」だったはずだが、たまにしかこの街を訪れないと、炉端焼きのどの店が良いのか迷ってしまう。おまけに、休日は休みの店がほとんどだから、炉端焼きは最初からパスと決めていた。いつもの居酒屋でお世話になることにしたのは、そんな消極的な理由だったが、この店の料理は完成度が高いのだよなあ、という信頼感はある。それにしても、店の前が何やら賑やかなのは、やはりこのご時世のせいなのだろう。釧路で牛タン推しに出会うとは思わなかった。

釧路といえば水産業の街で、「魚がうまい」のは間違いないが、その中でも一番の好物は厚岸産の牡蠣だ。当然、生牡蠣を期待していたのだが、どうも季節のせいか蒸し牡蠣か焼き牡蠣になるようで、ちょっと迷ったが蒸し牡蠣を注文した。大粒の牡蠣はうまい。厚岸産の牡蠣は何種類かあるのだが、これが一番大きい種類だった。

ザンタレ 小盛り

釧路の名物、その2としては「ザンギ」が挙げられる。ザンギの発祥の店が、釧路の繁華街にあるというのちょっと有名な話だ。ただし、これについては諸説あるらしく、釧路市民の心情を考えて、ザンギのルーツ談義には突っ込まないようにするのが、正しい釧路の居酒屋作法だろう。昔、実際にそのザンギ発祥の店に行って食べたことがある。その店のザンギは、ちょっと自分の中のザンギ。イメージとは違っていたが、伝説とはそんなものだろう。ちなみにザンギとは、中国の鳥唐揚げ、炸鶏(サーチー? 字もうろ覚えだ)が訛ったものだという話を聞いたことがある。ニンニクや生姜をたっぷり使っているから、案外にも中華風味付けの鳥唐揚げというのは正しいかもしれない。その「ザンギ」に甘酸っぱいタレをかけたのが「ザンタレ」という料理だ。これは釧路市の隣町にある食堂?が有名で、これまたわざわざ食べに行ったこともある。個人的には、宮崎のチキン南蛮と匹敵する優秀鳥料理だと思う。

そして今やすっかり高級品となってしまったつぶ刺し。これも釧路名物というわけではないのだろうが、新鮮なツブが食べられるのであればめでたいことだ。当然、炉端焼きと同じで「焼き物」も色々と食べられるのだが、隠れ名物はシシャモで、釧路の知人は有名な鵡川のしシシャモより釧路のシシャモが格段にうまいという。これにも礼儀正しく反論はしないことにしているが、釧路のしシシャモはリーズナブルな価格で、確かにうまい。スーパーに並んでいるシシャモもどきしか食べたことのないかたには釧路の絶対定番としてお勧めしたい逸品だ。

この居酒屋の隣が、釧路有数の繁華街末広町の中心だと思うのだが、今はすっかり全国チェーンの店に乗っ取られた?感じもある。このビルの最上階がディスコ(古いなあ)だったと知る人は、今やほとんどいないだろう。今は高齢者になったとはいえ、生まれた時から高齢者だったわけでもなく、じいちゃんばあちゃんも昔は「デスコでフィーバー」していたのだ。バブル時代の代名詞であるジュリアナ東京開店よりも5年以上も前のことだ。

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幣舞橋といえば、霧の中?

今や覚えている人の方が少ないと思うが、「釧路の夜という楽曲がとても有名だったことがある。その曲が歌われていた頃は、釧路の夜の街、酒場街は混雑の極みで、札幌の薄野と匹敵するくらいの繁盛ぶりだった記憶がある。その「釧路の夜」がかかるモニュメントが、もう一つの釧路名物、幣舞橋のたもとにあった。これは初見で、モニュメントに近づいたら、あの気だるい声の歌が突然流れ出してびっくりした。

どうやら夜にはライトアップされるこの場所は、インバウンド向けと思しき写真スポットのようだった。この時は若いカップルが1組座っていたが、自分ともうひとりのおっさんが写真をとっているだけで、観光客の姿は見当たらない。ちょっと残念な感じだった。夏もさかりになれば、もっと人が集まるのだろうか。

幣舞橋(ぬさまいばし)は、北海道人にはそれなりに有名だと思う。この橋の反対側が小高い丘になっていて、NHKの天気予報などで流す釧路の風景というと、その丘の上からとった幣舞橋というシーンが定番だからだ。札幌のテレビ塔上から撮った大通公園と同じくらいの定番シーンだ。当たり前だが、市内の幹線道路が通る橋なので車は通るが人通りは少ない。それでも、日本3大がっかり名所とされる某県某橋とは違い、名所としての規模感なるほどというもので、観光地としては大変良くできました的な感じがする。この幣舞橋のすぐ近くが釧路の繁華街なのだが、都市機能の郊外移動が激しい北海道では、当然ながらゴーストタウン化が進んでいる。それはまた別の稿で。

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釧路駅前で思うこと

道東という言葉がある。北海道の東部地域という意味合いで、同じように道北、道南、道央となる。道西はない。十勝がちょっと微妙で、位置的に道東にあたると思うが、十勝モンロー主義などと言われるように、十勝は一種独立的地域で「とかち」という存在を見せつけるところがある。道央の中心都市は札幌、道北が旭川、道南が函館というのに異論はないだろうが、道東については釧路というとちょっと微妙な感じになる。十勝の帯広の方が今や都市規模としては大きい。帯広駅はすでに高架化され新しくなっているが、釧路駅は昭和の駅感がたっぷりだ。(そこが情緒的には良いところだと思うが)

釧路といえば「丹頂鶴」と短絡的に思い込んでいたが、よく考えると最近では釧路湿原の方が知名度が高いかもしれない。周辺は木材、石炭、硫黄の産地で、釧路はその積み出し港であり物資集積地として発展した。産業基盤は水産業、石炭鉱山、そして製紙工場と一次・二次産業が厚く、まさに道東の中心地だった。道東の中核都市釧路は、また観光地の起点でもあり、阿寒湖、摩周湖に代表される道東観光は北海道の人気抜群な観光地でもあった。自分の中では、函館よりもお気に入りの観光地だった。釧路の街がとてつもなく元気で賑やかだった頃のお話だ。

釧路から伸びる鉄道網は、北海道東部の産業基盤を支える動脈であった。釧路から東に伸びる花咲線と、西に伸びる根室本線がある。根室本線が幹線で、旭川から帯広を経由して釧路を結ぶ北海道東部のメインルートだった。のちに、根室本線は旭川発ではなく滝川から富良野経由に変わり、その後は日高山脈越えで札幌→帯広→釧路と走る石勝線に変わり札幌からの移動時間が短縮された。釧路と網走を結ぶ釧網線も道東の2大都市を結ぶ産業路線だった。鉄道華やかなりし時代の跡が、この周年記念プレートになる。釧路の栄華の跡とも言える。

釧路駅のホームに立つと、ラッピング列車が止まっていた。ただ、ちょっと悲しいのが二両編成のうち、一両だけなのだ。なんだか、JR北海道の苦境がそのまま現れているようで物悲しい。確かに、北海移動何のローカル線で一両編成の列車を1日に何本か走らせるために鉄路の維持管理を行うのは経営的に大変なことだろう。バスへの運行切り替えにすれば、鉄路維持費は無くなり、道路の維持費は国と自治体持ちだ。経済的な意味をわきまえない、鉄道ノスタルジーでは語れないリアルな経営の話なのだ。昔のように貨客車を走らせて運行効率を上げるとか、駅に宅配便の営業所を直結するとか、何か新しいビジネスモデルがいるはずなのだが。民営化されているのだからコラボ企画で黒猫ラッピング車とか、飛脚のマークの車とか開発しても良さそうなのになあ。
この一両だけのラッピング車両は、個人的にはなんとか鉄道残して欲しいなあ、と思わせる切ない光景だった。

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日本最東端の駅  ちょっと、言いたいです

地図を見るとわかることだが、日本列島の最東端に伸びるJR花咲線は、終点根室から微妙に東寄りに進み東根室駅が日本最東端の駅になる。端っこ好きとしては、これまで最東端駅を見逃していたのが恥ずかしい。最南端と最北端はすでに完了しているので、残すは最西端のみ、どうやら長崎県にあるようだ。そこに行くのはいつになるのか。端っこ旅としては面白そうだが。

この駅にはホームしかない。駅舎は今は存在していない。駅の横は、集合住宅が何軒があるので、やはり根室市の住宅地にあたるのだろう。駅には車で行ったが、確かにまわりには一戸建ての家が多い。ただ、時刻表を見れば明らかだが、通勤通学に使えるほどの列車密度はない。

一応観光客向けの看板?というか指標が立っている。ホームの下には車が2−3台置ける程度のスペースはある。ここに車を止めてパーク&ライドができそうだが。駅前には本当に何もなかった。最南端の駅では観光客向けの土産物屋とか食堂があったのになあ。

全国秘境駅を巡るというテレビ番組があった。そこに出てくる駅は、見た目がこんな感じだった。ホームが片側だけで、単線で・・・と言う秘境感を出していた。しかし、この駅はすぐ後ろに住宅地があるし、秘境駅のイメージは全くない。

素朴な感想なのだが、JR関係者はもう少し商売を考えても良いのではないのかなあと思う。根室駅で東西南北の端っこ駅スタンプラリーみたいな紙が置いてあったが、まさにこの場所でそれを宣伝しないとねえ。なんだかちょっと残念な気分になってしまった端っこ駅の旅でありました。

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鉄道旅の最良のお供

鉄道旅最大の楽しみは、車窓からの風景と言いたいところだが、実は駅弁と缶ビールにある、と我が人生でずっと思ってきた。それは今も変わらないが、車窓からの風景を眺めながらぬるくなったビールを飲むのは、だんだんと嫌気がさすようにもなった。冷たいビールが欲しくて、列車の発車間際にわざわざホームの売店でビールを買ったのに、ビックリするほど生ぬるいものを渡されてガッカリしたりするせいもある。特に夏場の新幹線ホームは、冷たいビールを調達するのが難しい。そして、もっと困ったことにJR北海道の駅では、ホームの売店が消滅しているので、ビールの調達法には苦労がいる。改札に一番近いビール売り場はどこだ?を見つけ出さなければならない。
昔は最善の手段が特急の車内販売だった。販売員の方に、キンキンに冷たいのくださいと言うと、箱の底からゴソゴソ出してくれうこともある。車内販売はドライアイスで冷やしているのか、うまくいけば直冷されているキンキンに冷たいものにありつけることもある。しかし、最近の観光客減少を受け、車内販売は中止になってしまった。
仕方がないので、駅近くのコンビニで、一本だけ冷たいビールを買う。ちょっと悲しい。銘柄は迷うことなく、北海道限定のサッポロクラシック。全国あちこちにご当地銘柄のビールはあるが、クラシックは一番のお気に入りだ。麦芽100%であればエビスビールとどこが違うのだと言う方もいるかもしれないが、これは飲んでみなければわからない。エビスよりすっきりしているのは間違いないが。

そして、今だけ限定なのかどうかは知らないけれど、サッポロクラシック・ゴールデンカムイラベル。実はこのラベルの下にこっそり書かれている英文の説明がなかなか泣かせる。不死身のスギモトがヒーロで、埋蔵された宝物探しと死闘。さまざまなコラボ商品はあるが、こと北海道においては、北海道人が愛してやまない?サッポロクラシックとゴールデンカムイのコラボを上回る物は存在しない、と言っておこう。世の中、意外とご当地ヒーローは少ない。
古いところで言えば、東京桜新町とサザエさん。これを使うと波平ビールかマスオさんビールか?博多っ子純情とか、土佐の一本釣りとかもなんとか行けるか?大阪下町でじゃりン子チエもありか。エヴァの箱根は尖りすぎだろうし、ジブリ作品はモデル地が明示されていないし、トトロビールでは何やら飲むのが申し訳ない・・・。

やはりアイヌ料理駅弁(現在おやすみ中らしい)とクラシックで北海道旅が良いなあ。

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根室の先端で

納沙布岬に行くには、根室市内から南回りと北回りがあるのは地図を見ればわかる。が、それを太平洋周りとオホーツク海周りというのは、観光業的なセンスの表れだ。ただ、意地悪くいえばどちらも太平洋だろう。オホーツク海は太平洋の一部ではないのかなあ。それでも行きはオホーツク海回りだったので帰りは太平洋ルートにすることにした。

オホーツク回りでくれば目の前に国後島が見えるはずなので、気分的には北回りが良さそうだ。この日はあいにくの曇り空で「島」の姿は見られなかった。陸側には延々と牧場が続いているのが、これまた絶妙な景色になる…ただ、晴れていればの話だ。

この門というかモニュメントは、根室の名物みたいなものだろう。北方領土を返せ、という強いメッセージをシンボル化したものらしい。北方領土を返せというのは、一度、亡国した国の悲願みたいなものだろう。歴史的に見ても、江戸時代の日本とロシア王朝の間で決めた国境は、本来の国境線だ。その後、日露戦争を含め戦争により領土が変更されたのは、戦争の成果が領土拡張であった時代のことだから、増えたり減ったりは歴史的に当たり前だ。
そして、戦争に負けたら領土は取られるのが国際政治のルールなので、先の大戦で負けた後は明治時代の成果まで没収されたのは仕方がない。帝国主義云々ということより、戦争と領土の取り合いは、国際社会で今でも変わりがない「普遍のルール」だろう。
「返せ北方領土」は、心情的にはわかるが、北方領土が取り上げられたのは戦争に負けたせいで、その負ける戦争を始めた政治家やその取り巻きを処罰もせずに野放しにした国の責任だろう。恨むなら、国を恨めということのような気がする。

そして、その北方領土返還を訴える納沙布岬のもう一つの石碑がこちら。アイヌと和人の抗争時に、殺された和人(要は日本本土から出稼ぎに来ていた民)を悼むものなのだが。これもまた、ずいぶんと和人寄りの視点で建てられている。
もともと、大和朝廷の時代に遡って、大和の支配する地とは現在の福島県境までで、そこから北は蝦夷(えみし)という異民族の地だった。それを併合した上で陸奥(陸の奥)などという、これまた蔑称というべき地名をつけて支配した。当時の北海道は、まさに辺境、異境、大和民族の生きる地ではなかった。
そして、その1000年後になり、蝦夷地(今度はエゾとよんだ)に侵入。この時点でも、明らかに蝦夷地は日本の国外で、植民地にもなっていない。アイヌ民族はこの蝦夷地から樺太、そして大陸にかけて広がっていた北方系民族だから、明らかに彼らがネイティブ民族だろう。和人が大陸から樺太、蝦夷地(北海道)と渡る交易ルートに商業的価値を見出し、蝦夷地侵攻を行ったのだ。これは北米大陸のヨーロッパ植民地入植者とネイティブ民族との軋轢と全く同様なものだ。
弱肉強食が歴史の世界であり、和人が襲われたのは和人が悪虐なことをしたからで、アイヌ民族の方が力が強かったから、自業自得みたいなものだ。(確かこれは、小学校でも教わった)
その結果、アイヌ民族と和人の戦争は何度か起こり、最終的には和人が数の優位を生かし占拠し、明治時代にはアイヌ民族を差別する形で法制化までされた。
だから、この石碑は、歴史的に勝ったものが、負けたものを差別した成果として建てられたとも見える。アイヌとの抗争に巻き込まれ犠牲になった和人を悼み(勝者の立場)、その隣で自分たちが仕掛けて負けた戦争で失った領土を返せと言う(敗者の立場)。

とてつもなく不思議なダブルスタンダードの世界だなと思った。歴史の生きた証拠とはこう言うことをさすのだろか。日本の東の果てであれこれ考えてしまった。

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チャシ 蝦夷地の城跡

根室市内から車で20分程度、納沙布岬の近くに「日本100名城」がある。多分、一番東で一番北にある名城だ。チャシと呼ばれるアイヌの軍事施設で城郭跡地だ。説明書きがなければ、ただの原っぱとしか思えない場所にある。ここに立てこもって戦争をしたとすると、いったい誰が相手だったのかと思うような場所だ。そもそも高配置に守るべき場所があるようにも思えない、

北海道全体には、このようなチャシが数十箇所あるようだ。アイヌの人たちが好戦的だったのか?それとも民族内紛争のようなものが活発だったのか?その辺りの知識が全くない。小学校の時に習った「北海道のおいたち」には、そんなことは全く触れていなかった。(記憶が定かではないが・・・)実は、アイヌ関連の歴史は、当時触れてはいけない、不都合な真実だったのだろうと思う。今でも、積極的に教えているとは思えない。教えてはいけない、教えたくない、不都合な真実は、明治以前で言えば大和朝廷の日本征服の話と、明治以降で言えば日露大戦以降の戦争に次ぐ戦争とその結果の亡国、その責任の話だ。アイヌの話はその隙間になる異民族抗争の話だから、余計に語りずらいのだろう。国連で非難されて、初めて関連文化施設を作ったくらいの反省のない国だから仕方がない。

この辺りは野鳥の観察地でもあるくらい、のどかな場所らしい。あたり一面が野原で、背の高い木は一本もない。冷涼な気候が木の成長を許さないということだろうか。原野という言葉がピッタリしすぎている。

チャシの入り口から見ると台形の城郭基盤が見て取れる。ここに城?が立っていたようだ。おそらく海岸がよく見える場所ということで作られたのだろう。ということは、戦う相手は海から攻めてきたわけだ。トドの背に跨った海洋戦士みたいなものか?などとおバカな空想をしていたが、夏だというのに気温は低い。冬だったら、眉毛が凍る寒さだろう。

高台にあるチャシの下には、今は漁港が広がる。船を泊めるのには良い地形だったのだろう。オホーツクの海が、冬には流氷に覆い尽くされるので港を作るのは苦労しただろうとは想像できる。

海岸に沿って伸びる漁港は、コンクリートで作られた防波堤に守られていた。つまり、ここは近代になって新しく作られた港でもある、ということだ。

こるまで5分ほどの距離の場所に、もう一つのチャシ跡があるようだが、そちらも見栄えは同じだろうとサボってしまった。茶氏の横には大きな風力発電の風車が建造されていて、その城跡と風車の対比も面白いかなと思ったが、あいにくの曇り空なので諦めた。