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戦国 夢の跡 大垣城

大垣城と言われて何を思い出すかといえば、やはり関ヶ原の戦いで西軍の拠点となったことだろう。斎藤氏から織田氏へ支配が変わった統一美濃も、徳川期になり街道防衛目的だと思うが、細分化された小国群になったと記憶している。その美濃国で、関ヶ原から近江、京都へ抜ける回廊の拠点となったのが大垣だろう。ここから西に進むと左右に山が迫る狭隘な地になる。現代では意味がない「軍事拠点」も、当時は濃尾平野の支配権を確保するためには要の場所だったはずだ。

西国からの江戸防衛戦略が、徳川家康が行った領国の地域割で明らかになる。大垣城は琵琶湖脇の彦根城と共に、西国からの侵攻を防ぐための前拠点であり、最終防衛線は家康自ら築城した名古屋城になる。
そこを抜かれた場合は、東海道筋に巨大な築城は行われていないので、箱根が自然障壁を生かして活躍する最終防衛陣地として使われることになったはずだ。織田氏の行った方面軍活用による中央集権体制は攻めの軍政組織だった。豊臣氏は統一国家体制を構想する前に滅亡した。戦乱が終わり平和が訪れる時代に起こる大軍縮に耐えられなかったとも言える。そこで外征に解決を求めた。(膨大な軍を戦乱で消費しようとした面もあると推察するのだが)
強権を持って平和体制に移行しようとした徳川政権は、江戸という新興首都の防衛策として、全国の要衝を一族で支配した。その分布を見れば、偏執的と言いたいくらいの街道防御拠点だ。そういう視点で城跡の地政的要因を探るのは、なかなか楽しい。
ただ、大垣城は城跡を見る限り、防衛拠点としてより徳川政権の威力伝達という色合いが強い気がする。一面が平らな田畑が広がる農村地帯に突如そびえる天守閣を要する城は、今で言えばスカイツリー的な目立つ存在だったろう。
防衛施設としての面影は、再現された門の辺りにしか伺えない。彦根城とはその点がちょっと異なっているようだ。

お城の謂れは本丸内の資料館などで学ぶことができる。東海地方の城址はどこでも資料館が設置されているので、戦国期の歴史に興味がある人向けによく整備されている。東日本の城址では、東海筋が一番お勉強できる。逆に関東以北になると、戊辰戦争の動乱期後に政治的に廃城にされたり破却されたりしたせいか、資料館などの施設は手薄だ。源平の争い以降、延々と続く東国と西国の争いは今でもあちこちに爪痕が残っているということだ。
数年前だが、西国では明治維新150年といってあちこちで祝賀の展示やイベントをやっていた。同じ時期、東国、特に東北では戊辰戦争150年を振り返るという趣旨で、東北における戊辰戦争の意義を見直すというものだった。明治政府統治下では敗軍として発言できなかった東北の怨念が、一気に噴き上げた感じがあった。そもそも西国軍は維新などという言葉は使わなかったはずだし、自分達が革命軍などとも思っていなかっただろう。全体的な認識として武力による政権交代程度でしかなかったし、動乱の中心だった下級武士からすると、出世の機会、栄達の足がかりくらいだったはずだ。そういう勝ち組である西国軍に蹂躙されたはずの東海道諸藩だが、戊辰戦争時には各藩ともさっさと降伏したので、大きな戦闘が起きていない。だから、敗軍の城であったはずが諸城が今では歴史遺産として整備されている。東北諸県の城とはずいぶん違う。
そして大垣城では、徳川期に治世を担った戸田氏をほめている感じがするので、東国西国の争いには巻き込まれなかった中間ゾーンというところだろう。

再現された本丸を見るには、公園側の広場からの方がよく見えるようだ。お城の規模も影響しているのはずだが、大垣城の中は広々とした公園になっていた。神社や学校になってはいない。

考えてみれば、徳川期にあった名城、居城は全て徳川親藩譜代の領国に置かれていたはずだから、戊辰戦争後には潰されるのも当たり前だ。徳川系列以外で巨城を所有していたのは加賀国前田家の金沢城、陸前伊達家の仙台城(天守閣はない)、肥後細川家の熊本城くらいではないか。
当然、戊辰戦争(西国動乱)から起こった明治政府は、城に対する関心が薄かったはずだ。西国軍は、自分達の根拠地に大きな城がないところから出てきたものばかりだし、おまけに参加人員の大半は下級武士だから登城する機会も少なかっただろう。城に対する「何か」を持ち合わせていないものが大半だったはずだ。
いつの世もどこの世界でも、反乱軍や革命軍は伝統破壊に熱心だ。昔の権威を破壊することで、自分達の権威を「可視化」させようとする。
確かに平和な時代は「武装拠点」としての城は不要だし、城を解体すると良質な建築資材が入手できる。明治初期に日本中から城がなくなったのも無理はない。歴史に学ぶというのは、こういうことだなと、大垣城の再建本丸を眺めながら思っていた。

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椿大神社と都波岐神社

伊勢国の一宮は伊勢神宮だろうと思い込んでいた。だが、この椿大神社が伊勢国一宮であり、もう一つ同じ名前を持つ(つばき)都波岐神社がある。二つの一宮は山の神と海の神のような補完関係にあるようだ。古代日本で、大和政権中枢がある奈良盆地に東国から入る街道は、鈴鹿を抜けて山越えだった。現在の国道1号線と同じルートだろう。山間を抜ける道には、昔も今も差がありはしない。だから、この椿大神社の位置は首府に入る手前の交通及び防衛の要衝だったはずだ。また、伊勢湾を海路で渡るルートもあったはずで、それの抑えの場所が都波岐神社あたりの海沿いにあったのだろうと推測してみた。だから一ノ宮が二つあるのかもしれない。
ちなみに伊勢神宮は通称で、正式名称は「神宮」なのだそうだ。つまり、日本の神社の大元締めであり総本山みたいなもので、伊勢国を代表する神社というより大和朝廷率いる古代国家の中心という意味合いを持つということだろう。

そんなことを考えながら駐車場から参道を歩いていた。全国に散らばる一ノ宮でも有数の規模だなと思う。山の中に祀られている神社は、規模が大きいものが多い。山全体を神域とするほどでは無いが、少なくとも麓から登って行ったあたりは全域が神社の敷地になっている。
その大規模神社の中でも、椿大神社は一際おおきい。奈良にある大神神社より広いかもしれない。

ちょうど秋の祭礼の時期だったようで、参道周りには燈明というか明かりが並べられていた。古代から続くライトイルミネーションみたいなものだろう。現代ではほのかに感じる明かりも、昔はさぞかし眩いものに思えたのではないか。闇を照らす灯りとは、神がもたらす平和と安寧の象徴のような意味合いを持っていた、そんな気がする。

拝殿正面を見ると、やはり日本海沿岸の海神系統神社とは様式が異なるようだ。古代ヤマト王朝の統一様式みたいなものだろうか。巴の印は初めてみた。やはり神道本家筋である伊勢国では、神社巡りをしていても、いろいろと初めてに巡り合うことが多い。

帰り際になると山道に明かりが入っていた。もう少し遅い時間であれば、さぞかし幻想的な光景になるのだろう。明かりには寄進した方の名前が入るようだが、やはり皆さん願うのは、家内安全に商売繁盛らしい。これも古代から変わらぬ願いだろう。

お参りが終わって帰り際に気がついたが、神社の入り口までバスが来ている。これも一宮巡りでは初めての経験だ。定期バスが運行するほど参詣者が多いということもすごいことだが、観光客向けというよりは。バスを通わせるほど「神社」に詣でる地元民が多いということだろう。観光客的な参詣対応であれば、駐車場を整備すれば足りることだ。やはり伊勢国は「神道の国」なのだろう。

都波岐神社は、海岸に近い場所の住宅地の真ん中にあった。というより神社の周りに住宅が密集したという感じだろうか。道幅も狭く、車がすれ違うのも難しいような、生活道路というより抜け道と言いたいくらい狭い道だった。
確かに一宮は古くからある神社ばかりなので、神社周りはどこもみな同様に狭い道、通り抜けが難しい道に囲まれている。代々続く、そして長年暮らす人には、すっかり慣れ親しんだ道で格別問題も感じないのだろう。
ナビに誘導されて神社に向かうときにいつも思うことだが、一生に一度の参詣者としては、神社周りで駐車場を探しさまようことが多い。いやほとんど迷う。ヘタをすると15分程度は彷徨することが多い。この日も、駐車場探しで朝から時間がとられた。結局、見つけた駐車場は社務所の裏側だった。

一宮が複数箇所ある国は、おそらく古代日本において複数勢力が対抗していた地域、國だったのだと思う。例えば海側の民と山側の民のような、居住地の違い、つまり生計の立てる手段の違いは、地域差別を生む大きな意味合いがあったのだろう。漁師は海での安全と大漁を願う。山での暮らしは、穏やかな天候を望み、台風や旱魃などの被害を嫌うだろう。当然、漁民と農民とではお祭りする神様も違う。そんな太古の暮らしに想いを馳せるのも神社巡りの楽しみだ。

こちらの神社は、なんと見るからに現代建築で、一見するとあちこちによくある都市型の寺のようにも見える。神社のありようも、時代に合わせて変わるものだなと感じた。東京赤坂の日枝神社を見たときに思った「都市型神社」という言葉が脳裏に蘇った。同じ一ノ宮でも、ところによっては古代から続いているような巨大木造建築もあれば、コンクリート製現代建築もある。色々と違ってくるものだ。
神社の地域差を痛感したのは、次に回った志摩国一ノ宮を訪れた時のことだ。

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一向一揆と百名城 鳥越城

お城巡りであちこちを旅してきたが、道路に建てられた案内板で、これほどはっきりしたものは見たことがない。街の誇りというか、お城に対する取り組み方が真剣なのだなということが伝わってくる。

山上にある城の跡に上る道がある。そこの入り口には立派な石碑があり、案内図もある。ただ、この夏の豪雨の被害により登山道は閉鎖されていた。なんとも悔しいが、山の下から山上を見ることしかできない。

鳥越城は典型的な山城だが、ここが防衛拠点となった理由が非常にわかりにくい場所だ。交通の要衝というには街道筋や海・川の水運拠点から離れているような気がするのだが。ただ、今の石川県から富山県にかけて、当時は巨大勢力になった「一向一揆」の拠点であったようだ。
応仁の乱以降、全国で下剋上の嵐が吹き荒れたが、北陸から越後にかけては各地で紛争があいつでいて「戦国期のホットスポット」だった。九州や四国で起きた、島内統一のような動きが起きなかったのは、越前朝倉氏と越後上杉氏の間に存在した戦闘結社「一向宗門徒」による宗教共和国の存在が大きい。
現代日本の徴税比率(社会保険費、消費税による間接税強奪分を合わせる)はおよそ収入の4割なので「4公6民」となる。これが、そこそこ生存できる限界税率だろうし、一揆などの反乱を起こさせない限界税率だ。戦国期は6公4民程度が当たり前で、農民は生存限界転移かに置かれていた。当然、反乱は多発する。江戸期になり4公6民が定着したのは、戦費が減ったことと反乱防止が目的だったはずだ。
一向一揆は、その農民反乱が扇動により巨大化したものだが、そこには旧領主の暴虐的な税収奪があったせいだ。現代日本でも革命が起きる一歩手前程度まで税収奪は進んでいる。先の大戦で負けたせいで、明治政府が行った暴政、「過大な戦費による増税」がチャラになったが、敗戦後の社会改革は外国に強制された革命に近い。政治屋たちは歴史に学ばないおバカなので、現代の一向一揆の萌芽に気づいていないようだ。山城に登れなかった腹いせに、そんな現代日本革命構想を妄想していた。

北陸には今でも浄土真宗を受け継ぐ家が多いと聞く。宗教と合体した政体は、徳川期になり骨抜きにされたが、地元の民は宗旨を変えずに生き残ったということだろう。地域の集客施設である道の駅の後ろ側に、一向一揆の歴史博物館があるった。道の駅では、通常は温泉施設や、高齢者介護施設などが設置される場所だ。そこに「一向一揆」の歴史を説明する施設を作る。それほど、地域に根ざした宗教ということだ。
全国に200ある名城認定された城の中でも、この鳥越城は独特な感がある。城を治めた武将、一族が語られない。一向宗門徒の支配におかれた場所であるせいだろうか、〇〇氏が築き▲▲氏が居城とした、というような戦国お城ストーリーがない。

そして、これも今では歴史博物館などではお約束の戦国キャラが、この博物館前にしっかりと鎮座していた。武将と姫様は理解できる。しかし、坊さんがキャラ立ちしているのは極めて珍しい。さすが、一向一揆の博物館だ。
しかし、この戦国キャラ、お城キャラ、武将キャラ達は、どこの城を見に行っても微妙な違和感がある。子供に親近感を持たせて上で、歴史や郷土に興味を引こうという「勝手な大人」の教育的な目論みが透けて見えるからだ。どうせなら若い旅人を取り込む観光振興策として、萌えキャラ制作に振り切った方が良い気がする。
この「怪しいキャラ」こそが、城巡りをするときに感じる一番モヤモヤするものだ。自治体の担当者の皆さん、キャラ作りは是非ご一考を。

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一乗谷 栄華のあと

一乗谷といえば、戦国期に花開いた徒花というか、北陸入り口の強豪「朝倉氏」の居住地であり、滅びた場所だ。地図で見るとわかりやすいが、福井平野から山の中に向かってしばらく行ったところで、川沿いにひらけている南北を山に閉ざされた狭隘な土地だ。
一乗谷の名の通り谷が開けた場所であり、右も左も山に囲まれている。防衛拠点としては、西側である川下方面だけ考えれば良いので(山越えをしようにも、山の広がりが南北に深い)、優れた場所だろう。実際の核として、城は南側の山上に建てられていたから、備えは万全ということだった。
それでも、織田氏との北陸戦争で負けた後は、焼き払われ廃墟と化した。その遺構が発掘されて再現されているのをテレビ番組で見て、これは一度行ってみなければと思っていた。滅んだ文明?には、なぜか好奇心を煽られる。

当時の街並みを再現している施設があった。その街並みで土塀沿いの道を歩く。門をくぐると武家屋敷があった。当時の様子を再現している。
石垣の上に土塀を作っているのは都市防衛戦を意識したものかなと思った。しかし考え直した。おそらくこれは戦争ではなく、当時はやたら存在した野盗、つまり傭兵としての足軽予備軍みたいな悪党集団との戦闘を意識しているのだろう。

再現された武家屋敷を見ると、思っていた以上に狭い。2k+sみたいな間取りだった。居室と寝室の外に小さな茶室が一つ。キッチンは土間で、カマドが大きい。あかりとりの窓はない。障子が大きく開放的で、日中は明るい部屋のようだが、冬は寒そうな作りだった。
三畳の茶室が一番日当たりの良い場所にあるというのが、当時の一乗谷文化は高いレベルにあったことを表している。

しかし、一番文化的にレベルが高いと思ったのは、戸外にあるトイレだった。扉はないが展示よのためだろうか。実際にはムシロくらいはしきりに使っていたのではとも思う。あるいは、トイレで尻を出していても恥ずかしくない風俗だったのか。

土塀の外は、全部に武家屋敷が再現されているわけではない。野原のまま放置されているが、当時の区画や井戸(給水口)の跡がわかる。山際まで街が広がっているように見えるが、戦国時代から江戸時代は、里山がほぼ禿山になっていた。燃料として、伐採できるかぎり山の木は刈られていたので、当時の一乗谷は意外と解放感がある谷間だったのかもしれない。

この発掘され再現された場所を見ると、一乗谷の城下町は町割計画に沿って作られた人工的な都市で、おまけに給水網もあるのだから、明らかに当時の京都を越えるレベルではなかったか。応仁の乱から逃げ出してきた公家や坊主たちが、一乗谷に持ち込んだ文化の高さと相まって、この地は地方権力者の居住地というレベルを超える繁栄ぶりだったのだろう。

それにしても感心するのは、ここまでの大規模都市が数百年に渡り、田んぼや畑の下に埋もれていたということだ。織田軍により朝倉氏が滅亡し、町が焼き払われた後、誰も住もうとしなかったということだ。
確かに織田氏による朝倉氏殲滅以降、戦国期は急速に終わりに近づく。江戸期に入り戦争がなくなれば、山間部にこもっている必要もない。交通の便が良い平野部に街を築いた方が良いのは明らかだ。一乗谷は滅びたまま静かに400年近く埋もれていたと思えばなかなか感慨深い。

武家屋敷の他に民家というか商家も復活再現していた。これは、武家屋敷と違い小さな窓があるだけのワンルームなので、中は相当に暗い。昼でも作業ができるのかと思うほどだ。あんなに暗い中で作業をしていたのだろうか。戦国期の人間は、暗闇特化型の視力を持っていたとも思えないのだが。それとも猫族のような夜向け視力があったのか。

商家の跡は、専業店舗と専業工場ができるくらい分業が進んでいた文化都市の証として考えられる。ただ、この家で冬を越すのは考えたくもない。毎年冬が来るたびに、死人が出そうなくらい寒そうな家だ。寒さは人を殺す。それに耐える生活は勘弁してほしい。本当にどうやって冬を越したのだろう。

そして最後に発見したこのアニキャラパネルが、一乗谷の異世界感をマックスにしてくれた。うーん、これはご当地キャラでもなく、町おこしキャラでもなく、聖地巡礼向けキャラなのだろう。
ただ、あちこちのお城にいる違和感を感じる武将キャラと比べても、このキャラと朝倉遺構とのギャップはありすぎのような気がする。
歴史遺跡でギャップ萌えというものがあるのかどうかはわからないが、福井市の関係者の方々には展示場所の再考を願いたいものだなあ。せめて武将キャラ、朝倉義景くんあたりで勘弁してほしい。

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雲の上の城 大野城

越前大野城という名前だけは覚えていた。天空の城という、どこかで聞いたアニメの題名みたいなキャッチフレーズだけが記憶に残っていて、誰のお城だったのかとか具体的にどこにあるのかとか、全く知識がなかった。この城のある大野から程近い勝山にある恐竜博物館の方がよほど知識があった。城巡りを初めて、一度行ってみたいと思いながらも、不勉強のままだった。
お城の前に立って改めて戦国の城だなと感心した。小高い山の上から領地を全てを見渡し、他国からの侵略に備えるという、まさしく山城の名にふさわしいものだ。最終防衛線である本丸の石垣もやたらに高い。城が立つ山の下から見上げると、あそこまで攻め上るのかと嫌になる。岐阜城ほど高い山の上ではないが、攻め手をうんざりさせる効果はあるなと思った。

お城の下には大きな観光施設と駐車場がある。そこから登山開始するのだが、お城巡りガイドによると登りに20ー30分ほどかかるとある。お城の下にある案内板で見ると800mなので、それなりの山道だとわかる。
今回のお城回りの旅では、これが何度目の登山になるのか。ジジイになってから城巡りをするのは肉体的にハンディがありすぎるなと改めて思う。四国の金比羅さんも絶望的な登山参詣だったが、山城巡りもほとんど苦行みたいなものだ。途中まで車で上がれるお城はまだ良い。麓から山道を登れと言われたら、逃げ出したくなる城も多い。郡上八幡城などまさに修行登山だ。

苦行の予感とは裏腹になだらかな坂がダラダラと続く。思っていたほどきつくはない。途中で何組かの高齢者カップルとすれ違ったくらいで、高齢者にも優しい登り道だった。要所要所にショートカットする階段がある。ぱっと見では五十段から百段くらいかだが、それは遠慮して坂道を登り続けた。

お城周りの全体像はこの案内板でわかるのだが、麓からお城までの直線距離は非常に短い。おそらく100mくらいだろう。ただ、そこを十重二十重につづら折りになった坂道があるということだ。登りながら下界を眺めると意外なほど高低差が感じられる。登ってきて高さが増した感じが体感できるのは嬉しい。

観光施設にあったポスターを読むと、大野城のあらましがよく理解できる。越前の王者だった朝倉氏を滅ぼした後、越前の中心は平野部に移った。防衛戦が必要なくなり、経済中心の治世が始まったからだ。その時に、越前山間部の押さえとして大野城が築かれたようだ。信じられないことだが、この大野の盆地に対して山越え(現在の岐阜県、富山県方面)の侵攻があると想定されていたということだ。戦国時代の雑兵は、なんと健脚だったことか。現代であればハイキングのレベルを超え、重登山に近い山道を何日もあるいて行軍したのだ。

山頂に着いた頃には日も高くなり、雲海が消え始める時間だったようだ。それでも街の半分を覆う雲が見えた。街に着いた時は空が雲で覆われていたから、そのときに山頂にいればまさしくポスターのような光景が見えたのだろう。

土産物とトイレを兼ねた観光施設は、正直にいうと「道の駅」より立派だった。越前大野の名物はなんであるかも知らなかったので、ちょっと時間をかけて店内を見て回った。どうやら「けんけら」という干菓子というか煎餅のようなものが名物らしい。これは一つ買ってみて試食した。甘さ控えめでやたら硬い。京都の生ではない方の八ッ橋みたいな感じだたった。

この手ぬぐいをぶら下げている?ディスプレイはきれいなものだったが、越前は手ぬぐいの染め物が有名なのだろうか。加賀の有名な染め物くらいは自分でも知っているが、越前で木綿手ぬぐいの染め物とは、全く知見がない。反省した。

天守閣の下にあった築城主金森さんの銅像を見て、これまた頭の大きい人だったのだなと思った。限りある戦国武将知識の中で「金森長近」の業績はほとんど記憶にない。大好物の戦国趣味レーションゲーム「野望シリーズ」でも、能力は平均以下の文官で戦闘向けではないくらいしか覚えていない。放置しておいらたら彼の領土からよく侵攻開始されたという要注意人物程度の記憶だ。
ところが、この白にきて色々と見てみると、なかなかの優秀な知性かだったようで、認識を改めた。良い殿様だったようだ。

などと思いながらお城の一番上に上がったら、お約束のお城武将キャラがいて、おやまあ、この方が銅像と同じ方だとは……… キャラ作成に関わる方たちの、なんというか、すごい想像力に、感銘したというか、呆れてしまった。お城も若い人を観光客として惹きつけなければいけないから、色々と大変なのだろう。あの銅像を感心してみるのは、やはり城好きジジイくらいだろう。

食べ物レポート, 旅をする

一筆啓上 丸岡城

お城巡りをしていると、時々びっくりするような「あれやこれや」に出会うことがある。丸岡城の駐車場で見つけた「一筆啓上」には、「ああ、あの有名な一文は、このお城の殿様が書いたものだったのか」と気がつかされた。
旅を終えた後であれこれ調べてみると(全くの不勉強ぶりだが)、徳川配下の本多氏が戦場で書いた手紙だそうだ。確かに、簡潔でありながら、お家の大事をもれなく書いている。手紙の手本と言われる意味がよくわかる。

丸岡城はこんもりとした小さな丘の上に立っていた。周りが平野なので、これだけの高さ(30mくらいか)でも、周囲を見渡すには問題ない。城の守りとしては手薄な気もするが、ここも戦国後期に築城され、反乱や諍いが制圧された後の城なので、やはり穏やかな時代における治世の拠点ということだったのだろう。

城としてはおとなしい部類だ。百名城に選ばれたのはお城の見栄えというより、この一筆啓上手紙が重要なポイントだったのではなどと思う。

しかし、今や日本全国どこに行っても、それもお城巡りで、ご当地キャラというかお城キャラがいるのにはびっくりする。戦国時代の武将を題材にしたゲームでイケメン武将が大量出現したので、それぞれの居城に「イケメンキャラ」がいるのは理解できる。
ただ、有力武将、著名武将がいない場合は、おとぼけ気味のユニークキャラがいるようだ。この丸岡城も、本多のお殿様キャラではなく、「城丸くん」はどんなキャラなのかちょっと興味がある。目元の赤ともみあげを見ると、随分と歌舞いたモデルがいるようだが。

駐車場の脇には茶屋があり、観光客向けに食堂もある。昼飯を食べようと中に入ってみたら、食堂というより蕎麦屋だった。それも、注文を受けてから蕎麦を茹でる本格派のようで、良い意味で驚いた。
当然ながら、出てくる蕎麦は正統越前そばだった。カウンターで受け取るセルフ方式だが、そんなことは問題ない。そう思わせる仕立ての蕎麦で、大盛りにしておけばよかったかなと食べ終わってから思った。
カウンターで食券を置くときに、普通盛りで良いですか、と念を押された意味がよくわかった。蕎麦つゆと蕎麦の強さがよくあっている上に、大根おろしがうまさを引き立てる。越前そば旨しだ、まだまだ勉強が足りんなあ、というのが丸岡城での最大の感想だった。城を見に来て食べ物を知るというのも、アレレという気もするが。いや、城巡りで学ぶことは多い。

街を歩く, 旅をする

金沢で夜の散歩 都会の楽しみ

金沢駅の駅前改良工事が終わっていた。完成後の駅前広場は「都市美」というか「機能美」に溢れている空間に変わっていた。駅に向かう歩行者の散らばり具合が、都市としてちょうど良い。適度に賑やかな感じがする。東京のターミナル駅で見る、レミングの群れが暴走しているような猛々しさはない。
人という生物の生理的感覚として、大都市駅の密度はやはり異常というか、気に入らない空間なのだと思う。三密などというゲスな言葉とは無縁な、近代都市空間とはこういうものだと言っている気がする。

金沢駅西側はすっかりホテルとオフィスビルの街に変わっていた。不思議なことに金沢の人口を考えると、この街の賑わいは他の中規模都市、特に県庁所在地を凌駕している。賑わいだけを見ると、ほとんど政令指定都市のレベルではないだろうか。
いや、人口100万人を切る小型政令指定都市と比べてみても、金沢の方が賑わい度で上のような気がする。やはり、加賀百万石の威光というか名残というか、文化と観光の街として格の違いがある。

その影響を受けて駅ビルのなかも夜遅くまで営業しているお店が増えた。たまたま見つけた閉店時間間近のパン屋で面白そうなメロンパン?を見つけた。バナナと胡麻という組み合わせは見かけた記憶がない。おまけに好物のメロンパンなので、ついつい誘惑に負けて一つお試し買いをすることにした。
味は、バナナが強く胡麻はほんのりな感じだった。メロンパンの味は表面のビスケット生地で決まるものだと思い込んでいたが、この胡麻バナナメロンパンは、中のクリームが味の決め手だった。うーん、実に美味い。

閉店間際でもこれだけ並んでいるのは、売れ残っているのではなく、人気なので売り切ってしまうのだと思う。後で写真を見返していて気がついた。このパンはメロンパンではないのだな。どこにも「メロン」の文字は書いていなかった。見た目での思い込み……………おいしければ良いのだよ。

そのメロンパンもどきを買う時、もう一つ気になってしまったのが「加賀棒ほうじ茶デニッシュ」だった。加賀棒茶というものは、金沢名物として聞いている。お茶に詳しいとはいえないが、金沢で飲ませてもらった棒茶は美味しいものだった記憶もある。
しかし、一番惹かれたのはきな粉がかかっていることだった。揚げパンのきな粉がけは好物だ。シンプルなきな粉の味が好きなのだが、安倍川餅や信玄餅のようなきな粉まみれのお菓子も好んで食べる。

加賀棒茶よりもきな粉に引っかかったというのが正直なところだが、このパンの中身に入っているお茶クリームは上品な感じがして気に入った。パンというよりデザートに近い。お茶を使ったクリームは抹茶だけかと思っていたが、ほうじ茶で仕立てるあたりは、やはり金沢の味覚文化なのかもしれない。
夜の街をフラフラと歩き回っていると、こういう美味しい場面に出会うことも多い。適度な都会の賑わいが感じられる金沢は、さぞかし住みやすい街なのだろうなあ。
あの冬の曇り空は好きになれないんだけどね。

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加賀国 白山比咩神社 

神社の名前は難しい。「しらやまひめじんじゃ」 と読むのだそうだ。主祭神が白山比咩大神なので、日本海沿岸に広がる大国主系とは別系統の「越国」神社だ。調べてみると菊理媛尊(くくりひめのみこと)とも呼ばれるようだ。高天原神族の中では古手の神なので、やはり越の国でも大物の神様だったのだろう。
ナビの指示通りに辿り着いたた大きな駐車場から、鳥居をくぐり境内に入るとわかったのだが、こちらは表参道ではない。表参道はずっと下の方から続く階段だった。
足弱な人のためには坂道を登らないでお参りできるのはありがたいが、なんとなく裏口から入るようで申し訳ない気がした。
グーグル先生のナビロジックはちょっと変わっている。こちらがもう少し使い方を考えないと、裏口を勧めるらしい。本殿に近いからだろうな……………

神社によってさまざまな対応だが、 そのお社の由緒を説明してくれる掲示があるところが半分くらい。お祀りしている神様の名前が書かれているくらいの簡素なものも多い。さすがにこの神社は一ノ宮だけあり、かなり詳しく説明されている。日本海沿岸部、北九州、瀬戸内などの古代大和王朝に吸収された地方王国では、神社の由緒をよく読まなければいけないと思う。征服王朝と滅亡した王国が祀っていた神様が、一つの神社の中で融合合体しているのがほとんどなので、それを読み解くのが神社巡りの楽しみの一つだからだ。
長野における諏訪大社のように、大国主命を担ぐ一族が亡命してきたような地域もある。東日本は日本武尊の統制伝説にあるように、比較的後の時代に征服されたので、神社と主祭神の読み良き方は別になる。それは、また別の機会に………

樹齢1000年のケヤキがあった。これだけ長生きしている古木はすでに神様の領域に入っているような気もする。まさに御神木だ。一ノ宮は長く続く神社ばかりなので、あちこちに樹齢500年、700年などの長寿な木はたくさんある。伊勢神宮内宮であれば、境内にあるすべての木が超長寿に見える。100年や200年くらいでは、まだまだ若いねえ、と言われそうな貫禄あるものばかりだ。それでも1000年越えはやはり少ない。思わず手を合わせてしまうありがたさがある。

こちらの鳥居が表参道を上がってきたところにあるもので、確かにこちらから入っていく方が正しいお参りのお作法のような気もする。

比較的小ぶりな神社だなという感じがするが、端正な姿だった。大きなお社も良いが、やはり小体な方が好みではあるのだ。加賀国一ノ宮は美しいな。

食べ物レポート, 旅をする

高級で回らない回転寿司

金沢、富山では回転寿司のレベルの高さが違うと何度も聞かされた。実際に、金沢でも富山でも回転寿司を食べてみて、その質の高さは納得している。そもそも回転寿司なのに皿がほとんど回っていないのが現実で、「まわる寿し」と書いてあっても、「たまに」の一言が抜けていると思う。
ここも人気店対応で、店頭に順番待ちの発券機がある。そこで席待ち予約をしてあとは呼ばれるのを待つ仕組みだった。呼ばれるまで10番くらいの番号差がある。30分くらい待つことになるかなと思ったが、もう少し時間がかかり、それでも40分程度で入ることができた。

本日のおすすめのメニューがカウンター席に置いてある。同じものは目の前にあるタッチパネルでもわかるのだが、一覧で見るにはこちらの方が圧倒的にみやすい。デジタルとアナログの融合として、なかなかありがたい仕組みだった。外食産業のDXとは、こんなふうにデジアナ合体策になるのだろうなあ。

まずは一番食べたいものを注文する。鮨の順番のセオリーというか理屈はいろいろあることは知っているが、そんなものを守ったことはない。自分のやり方は「食べたいものを食べたい順に」だ。特に、回転寿司などはすぐに腹一杯になるので、その前に自分の食べたいものを食べないと、とても後悔する羽目になる。
だから、最初はあわびにした。それも腹の膨らみを抑えられる「一貫」で注文できるのが嬉しい。

続いて日本海でご当地ネタといえば「ノドグロ」を忘れてはいけない。これは普段口にすることがない魚だけに、期待度は高いし、期待を裏切らない脂の乗った旨味だった。

そして、ご当地ネタとしては初見参の「たら」。能登沖で獲れたマダラとのことだが、鱈を刺身や鮨で食べるのは初めてだ。北海道では「たら」と「ほっけ」の生食は珍しい。
これは柔らかめの身がねっとりとした食感でなかなかに逸品だと思う。

その後はいつもの好物で、しめサバ(自家製)、イカゲソ、光り物セットを連続して食べ、締めはずわい蟹だった。ついつい勢いで頼んでしまったが、これは明らかに注文しすぎで、満腹中枢が限界になった。うまさに負けたということか。
100円回転寿司にはそれなりの良さやうまさがある。まさにコスパの良い「寿司」だろう。うまい「鮨」という言い方をするのであれば、やはり金沢の回転寿司はおすすめだ。
ただ、個人的経験で言えば、札幌の人気回転寿司もこれに負けない質の良さはある。が、ネタのバラエティーでは金沢が勝っているというところだろう。金沢の夜はまわらない回転鮨で満足した。

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金沢城の風格 そこで見た夢

金沢には何度も訪れた。仕事で行ったことも多いが、観光にも行っている。金沢の名所はだいたい見て回ったはずだ。ところが、なぜか金沢城だけは行ったことがない。隣の兼六園には何度も行ったのだが。お城に興味がなかったと言えばそれまでだ。
今回は石川門という兼六園よりの入り口からお城を見に行った。

金沢城の全体を見るには半日かかりで歩き回る必要がありそうだ。よく広さを東京ドーム何個分みたいな表現をするが、この全体図を見る限りドームの2個や3個では足りない気がする。昔、真夏に兼六園を見に行って暑さで死にそうになって退散した記憶が蘇る。兼六園ですら見切れなかったのだから、金沢城全体を見て回るのは大冒険だろう。

お城の門は、ある意味侵入者の防御施設なので、小ぶりな城でも門は大仰なものだ。特に復元したお城では、門が大きめに作られている気がする。ただ、この金沢城の石川門は石垣と合わせるとほぼ原寸に違いない。門扉をしみじみ眺めてみたが、厚みといい頑丈さと言い、破城のための専門道具が必要だというのがよくわかる。

おまけに門を攻め落とそうとすると、門扉の上にある白壁に開いている矢間から、弓矢や鉄砲で撃退される。時には大きな石を投げてきたり、煮えた油や熱湯をかけたりもするから、攻めようとしてもそう簡単にはいかない。
攻城戦では、守備方の兵に対し3倍以上の人数で攻めても、城は簡単に落とせないというのは本当だなと思う。門の上から矢を射かけてくる弓兵一人を倒すのに、こちらは三人やられてしまうという計算だ。勝つためには二人やられる前に弓兵を仕留めなければいけない。
これは難しい算数だし、ほぼミッション・インポシブルのような気がする。おまけに門の脇にある石垣は、現代コンクリート建築のように表面がなだらかで、ロッククライミングの達人でも、このすべすべな石垣を登るのが難しそうだ。

あちこちで城を見てきたが、これほど石垣表面が平らな城は珍しい。江戸城の石垣を除くと、この金沢城くらいではないだろうか。ジグソーパズルのようにパーツを磨き上げてはめていくのは、もはや実用技術というより美術品に近い。
石積み職人の数も必要だろうし、さぞかし金がかかったことだろう。金持ち大名だけができる金満築城術であり、最高品質、プレミアでゴージャスなお城だ。さすが戦国時代の最後を信長、秀吉、家康と三代に渡りあい、そして生き残った前田家の産物と感嘆する。すごいな利家。長生きもしたし、すごい武将だったのだね。

門内はただただ広い。今では広場になっているが、当時は御殿の一部が立ち並んでいたのだろう。内堀もあるので、攻め込まれた時には防戦拠点として、第二次防衛線にあたる場所だ。この広場に立ち並んだ陣地は、縦深防衛拠点として脅威だっただろうなあ。

内堀に面する石垣も、それなりに表面を加工された手がかりのない石垣になっている。矢間も二層になっているし、内線防御になると兵密度は上昇するから、攻城戦を仕掛けてみても、一段抜けばまた一段見たいな「もう勘弁してよ」と言いたい状況になる城だ。
この第二線を抜いて本丸に辿り着くには、また一段レベルアップした仕組みが待っているのだから、金沢城攻めは一年かかっても攻め落とせないのではないかと思う。
戊辰戦争の時に福井と金沢で松平、前田が西軍に抵抗したら、そして冬季戦にまで持ち込まれたら、西国反乱軍は負けていたかもなあ、と思う。
おまけに福井から金沢に向かう山越の道は、兵站維持のためにはとてつもない障害になるだろう迂回路として海路による兵站維持を考えれば、金沢に近い港を制圧しなければならない。
他の陸路としては、中山道から富山に抜ける陸路、新潟から富山に至るルートも考えられるが、どちらも山越えの難路で、おまけに日本海側は有名な親知らず子知らずが待っている。
考えれば考えるほど、金沢城は日本海沿岸部を侵攻する軍にとって、とてつもない障壁になる。やはり徳川政権は最後の将軍が武断派でなかったから滅びたのだろう。

金沢城防衛戦を妄想しながらあちこち見ていたら、この内堀の底は深い泥で、入り込むと1mくらい体が沈むようになっていて、足が取られて動けなくなった兵に上から大きな石を投げつけるみたいな想像をしてしまった。そうして倒れた兵士を足場にして押し寄せる敵軍、そこに上の矢間から……………
金沢城で前田家1万人が籠城戦を始めると、西国軍は4−5万人を投入しなければならないので、兵員不足で東国戦線が形成できない。そのうち徳川系諸藩があちこちで呼応して反抗戦を始める。
そうなると京都にいる天皇・公卿を防衛するため戦線が琵琶湖周辺まで後退し、第二次関ヶ原勃発。そこへ英仏がそれぞれ西国連合、徳川に加担して欧州利権の代理戦争に発展し……………

金沢城ですっかり歴史IFを楽しんでしまったが、その妄想を引き起こすくらい金沢城は巨城だった。夢のまた夢であることには間違いないのだが、戊辰戦争の時に前田の殿様はそんな夢を見なかったのだろうか。