食べ物レポート, 旅をする

クラシカルディナーin松山

松山に滞在した時間は極めて短いのだが、妙に印象に残る街だった。大街道から松山市駅に続くアーケードを散歩して、かなりくたびれたところで遅めの晩飯に選んだのは、なんとも風流な?、いや、見た目賑やかな居酒屋だった。
店名がなかなか笑わせてくれる。これが自◯党だったら、入るのを躊躇ったと思う。店名の頭に「立憲」の文字がついたら、随分嫌な感じがして入らなかったかもしれない。
しかし、民の酒なのだから、それは歓迎するべきだ。

商店街を歩く中で散々見かけてきた鯛めしの看板にひきずられて、まずは鯛の刺身を頼んでみた。面白いなと思ったのが、醤油が甘い濃口だったことだ。海を隔てた大分の醤油、いわゆる九州醤油に似ている。大分と愛媛は瀬戸内の端というか伊予灘を挟んだ向かい合いの地なので、一部の食文化は同化しているのかもしれない。
鯛の刺身は好物なので美味しくいただいた。お値段を考えると、これはすごい値打ちがあるような気がする。

当然のように、追加したのが宇和島じゃこ天で、まずは何もつけずに一口。続いて醤油をつけて味変。魚の練り物としては宮城の笹かまぼこがまず思い浮かぶのだが、あれとは違う魚の揚げ物の代表だ。全国各地に、魚の練りものを揚げた「天ぷら」「〇〇揚げ」「〇〇天」は数多くあるが、個人的な好みで言えばじゃこ天が一番だ。
特に揚げたて、熱々を食べるとほんのりと人生の幸せを感じる。普段はほとんど練り物を食べないのだが、これだけは別格だ。これに続く揚げ物といえば、宮崎の飫肥天だと思うが、あちらはかなり甘い味付けなので同じ魚の揚げ物として種族は異なる。飫肥天も揚げたてはとてつもなく美味い。

サーモンのカルパッチョとは………

こういう大衆居酒屋では、それなりの定番がある。モツ煮であったり串焼きであったり、おでんであったりする。ただ、その大衆居酒屋にも技術革新の波は押し寄せてきているのだ。
なんと、メニューに当たり前のようにカルパッチョがある。ちょっと興味を惹かれて注文して見た。瀬戸内魚のカルパッチョに違いないので、どんな魚が出てくるか楽しみだった。
答えは、サーモンだった。なんだか肩透かしを喰らったような気もする。善意に解釈すれば、カルパッチョは洋物メニューなので、洋物の魚にしたということかもしれない。しかし、まさか、瀬戸内の街でサーモンを食べることになるとは。まあ、その個人的な期待を除けば、おいしいカルパッチョ松山版ではありましたよ。

熱燗を頼んだら地元の酒がコップで出てきた。これが、まさに大衆居酒屋の大衆居酒屋たるところで、銚子ではなくカップ酒というのが素晴らしい。ただ、周りを見渡してもほとんどがビールとサワーだったから、コップ酒はすでに廃れゆく酒文化なのだと、この地でもまた改めて確認できてしまった。残念。

ドリンクメニューの端っこに書いてあった注意書きが、果てしなく悲しみを呼ぶ。居酒屋に来て飲み物(酒とは言わない)を注文もしない客がいるのか。確かに駅前の居酒屋だから、飯を食べにくる客もいるのだろう。ただ、居酒屋は飯では儲からない。酒を頼み、つまみを頼み、締めで食べてもらうために安価な飯を置いている。それを、水と飯で注文されると儲からないどころか赤字かもしれない。
俺は客だぞ、飯だけ注文して何が悪いと言い張るクレーマー客が大量発生したのだろうな。
不文律とは書かれていなくても守るべきルールはあるということを言う。それが通じなくなれば文化は破壊される。ジジババは若い世代にそれを教え伝えなければいけないと思うのだが、ふと心の中をよぎる疑惑がある。この水だけ飯食い客は、いい歳をしたオヤジやオバン、いや、もしかするとジジババではないのか。多分、そうんだろう。
最近の若いものは……………というセリフは、なんと3000年以上昔のバビロン帝国の記録に残っているそうだから、ほぼ人類が誕生して以来ずっと続いている悪習だろう。ただ、最近のジジババは、道徳律が崩壊したクズ人間が多いのも事実で、若者をあげつらう資格などかけらもないとは思うのだ。
世も末だな。

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駅そばを食らうはずが

福山の駅前というか駅に直結した場所で駅蕎麦を発見したのだが、実はこの店の屋号が店頭ではよくわからない。お江戸でよく見かける駅そばは、店頭の看板や暖簾でしっかりわかるのだが。

店内に入ると、どうやら屋号は「めん」らしい。いや、「あじわい処 麺」らしい。多分、広島県のJR駅のあちこちに支店があるのではないかという気もするが、実際に確かめてみるつもりはないので、あくまで憶測だ。

その店の入り口に大きなラーメンの看板があったので、最初はラーメン屋なのだと思った。瀬戸内のこの辺りでは尾道ラーメンが有名だが、見た目にはちょっと似ているような気がする「福山ラーメン」だ。
説明書きを読むと、ますます尾道ラーメン的な雰囲気も感じるが、ここはお店の気合を信じて福山ラーメンを頼むことにした。

見た目は背脂ちゃっちゃ系みたいだが、味はさっぱりしていた

出てきた福山ラーメンは、もろに店頭看板と同じルックスで、まさに看板に偽り無しだ。実食してみると、これまた看板に書かれている通りで、個人的にはちょっと懐かしい昭和の醤油ラーメン的な味わいを感じた。
最近の人気店では豚骨ベースが当たり前の濃厚味が中心だから、鶏ガラスープでさっぱりと……………などとくると、これぞ昔の王道だったのだよ、と言いたくなる。が、今では、これがすっかり変化球扱いになっている。
朝から美味しくラーメンを完食したが、周りで食べているサラリーマンは皆うどんだった。どうやら、福山はうどん文化圏みたいな気がする。瀬戸内の反対側は愛媛県なので、うどん県香川の影響は薄い気もするが、そもそも瀬戸内全域がそばよりうどんなではないかと思う。
広島名物お好み焼きでも中に入れる麺は、中華麺よりうどんを好む人が多いと聞いたこともある。うどん県のラーメンはどんな変化をするのだろうか。そういえば、香川でラーメン屋に入った記憶は全くないから、それもいつかは確かめてみたい。
旅先の街に行ったときには、駅そば探しで少し時間をかけてみようかと思った。また面白いものにお目にかかれるかもしれない。
旅するときにテーマは大事だよね。

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ソフトクリームを食べに行った訳ではないけれど

松山城を見るときのベストアングルはここかなと思った場所がお茶屋になっていた。朝早い時間だったのでちょっと肌寒い感じはあるが、せっかくのお茶屋から観光しているので、ここは一念発起して食べるべきものがある。

ご当地ソフトクリームを、これまではバカにしてきた。失礼極まりないとは思うが、観光地の味変ソフトではないか。中身はどれも一緒だ、みたいな気分だった。ソフトクリームは気温が高くても、低くてもうまさに影響するせいもある。暑すぎる時はソフトクリームではなくかき氷が良いし、寒くなるとお汁粉とかホットココアが飲みたくなる。
ソフトクリームをおいしく楽しもうとすると実に温度帯が難しい、などと言う手前勝手な屁理屈を捏ねていたのだが……………

突然、改心した。回心した。そして、イヨカンソフトを食べて見て会心した。なんとお城の上で「かいしん」三部作を成し遂げた。
それを引き出したのが、販売窓口に貼ってあった一枚のポスターだ。ソフトクリームミックスを味付けして味を変えるのではなく、トッピングとソースで味変をしている。これなら味のバランスがとりやすい。ソフトミックスを上級なものにすれば、味も良くなるはずだ。
昔、どこかのご当地アイスで薔薇の香りをつけたものがあった。その人工的な着香がどうにも鼻について、以来、ご当地ソフトクリームを苦手とするようになった。こんなヘンテコな味のものを売り物にするとは、観光地とはいえ食い物屋としての矜持はないのかなどと、勝手なことを考えていた。
ただ、この伊予柑ソフトを見て考えが変わった。これからは、機会があればご当地ソフトを食べても良いなと思う。歳を食って少しだけ寛容になったのかもしれない。
ちなみに伊予柑ソースをつけて食べると、とてもうまい。ソフトクリームではなくフローズンヨーグルトにすると夏向き商品になりそうだ。抹茶あずきも美味そうだが、これを松山で食べる理由が難しい。静岡とか京都であればお茶の産地として成立しそうだが。ソフト道の奥は深いぞ、と気を引き締めることにした。

この松山城を築いたのは、戦国武将では成り上がり最終組の一員だった加藤嘉明だ。ただ、このような立派な城を築いた豊臣政権の成り上がり武将だが、その後彼らは皆、徳川との抗争の中で没落していく。武士の哀れということだろうか。それでも城は残る。

伊予柑ソフトは松山城で食べるから美味いと思うのだ、という気もするが、松山市内のどこかでも売っていそうだ。お城見学のついでに食すということであれば、春か秋の気温の穏やかな時にロープウェイで山上に行くことをお勧めする。
松山市民の中には、毎朝お城に歩いて登る人もいるそうだから、軽い登山のつもりで行くのも良いと思うが、自分であれば山上に着くと疲労困憊して、ソフトクリームを食べる気力などかけらもなさそうな気がする。(うん、間違いないな)

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松山城

天守閣の入り口で団体ツアーのガイドさんがツアー客に入場券を配っていた 親切だな

松山城に行った。朝早く起きて、朝一番のロープウェイに乗った。山上の城閣を見る位置に一番乗りしたと思ったら、いきなり団体観光客の中に飲み込まれ、その後は外国人観光客グループに取り囲まれ、なんと朝から賑やかなことだと驚いた。

気分はすっかりお殿様だ

城の端、山上からの景色は絶景だった。さぞかしお殿様はこの光景が気に入っていただろう。山の上にあり、眼下に街並みが広がるといえば岐阜城が思い浮かぶ。越前大野城も似たような光景だったが、もう少しこぢんまりとしていた。城下に広がる街並みで言えば、松山城が一番の景色かもしれない。

しかし、その風景よりも感心したのが、山上にある井戸だった。城は長期間籠城することもある「防衛要塞」だから、当然ながら食料の備蓄と飲料水の確保が絶対条件だ。しかし、この山の上に自然な井戸があるはずもない。山中のどこからか水を引き貯める仕組みを作っていたはずだ。それがすごいと思う。

天守閣に至るまでにこの防御施設 櫓から攻撃される 城攻めは辛いと、この段階で心が折れる?

もう一つの感心したことは石垣の高さだ。一体どれだけの手間をかけてこの大量な石を山の上まで引き上げたのだろう。完成まで20年近くかかったそうだが、おそらく石を運び上げるのが工期の大半だったのではないか。
石積みの棟梁がいたとして城が完成する頃には、後継が次の棟梁になっているはずだ。20年とはそれほどの時間だ。親子二代の職人などゾロゾロいたに違いない。すごいなあ。

あちこちの城を見て回ったが、銃眼をしっかり見たのは初めただった。確か小さい穴は鉄砲、縦に長い穴は弓を打つときのものだったはずだ。実際に銃眼から外を覗いてみると、予想以上に視界が狭い。ただ、この城は城攻めをしようとすると敵兵が門や塀に誘導され、必ず銃眼にさらされる仕組みになっているから、ある意味誘導路と多重の罠とみれば良いのだろう。そして銃眼の多さは、建築主、設計者の執念を思い起こさせる。

日本にある数々の城だが、こと天守閣に関しては現存(戦国期・江戸期前期に建築されたまま残っている)しているものはたったの12しかない。ほとんどのお城は、先の大戦において空襲で焼けたものも含め、戦後しばらく経ってから再建されたものだ。
江戸期に徳川政権が成立したとき、かなりの天守閣は廃棄されたし、戊辰戦争後の明治政府は反乱拠点となることを恐れて、多くの城を打ちこわした。(忖度して壊した藩主も多い)
明治政府は革命政府である以上に文化の破壊者だったのは間違いない。文化的素養の低いものが政権を取ると、繰り返し起こる文化破壊だが、これは日本だけでなく世界的にありとあらゆる時代で起こっている。人類という種の蛮性だろう。

城壁の角を見ると優雅な曲線が現れれいる。この幾何学的美しさは、当時の石積み職人の素養の高さの表れだろう。現代建築には見られない美しさだ。

お城廻をして歴史に思いを馳せるのは、なかなか高尚な趣味だと思っているのだが、まあ、普通に観光している人となんの変わりもなく「おー、すごいなあ」と言っているのが実態であります。 (超特急で松山城ツアーは終了した)

街を歩く, 旅をする

松山の街歩きで疲労困憊した

JR松山駅は繁華街から離れたところにあるのでちょっと不便かもしれない

松山の話が続くが、この街には何度かきている。しかし、街の記憶が全くない。四国随一の大都市なのだが、仕事の時は空港から打ち合わせ先まで車で直行し、そのあとは会食場所にまっすぐ行ってホテルに泊まり、翌日は他の都市に移動をするか空港から東京に戻る。そんな行程ばかりだったから、街の景色など全く覚えていない。それは松山だけに限ったことではないので、全国あちこちの街に行ったが、記憶がしっかり残っている街は意外と少ない。
どうもそれではいけないと思い、今回は夕方から街歩きをするべく、ホテルもアーケードのある繁華街の入り口付近にしてみた。ただ、松山は二拠点都市というか、お城の下にある商店街と私鉄の駅前が賑やかな場所で、その二点を結んでいるのが「都心部」アーケード商店街に当たるようだ。
その上に、ややこしいことにJRの松山駅は、この2拠点から離れたところにある。交通結節点が街の中心地になるというシンプルな都市構造ではない。複雑系な街だった。

アーケードを入ってすぐのところにMのマークのバーガー店があるから、ここは一等地とわかる

地図を見るとわかったのだが、松山の街はお城のある山をぐるっと回る路面電車の環状線があり、そこから放射状に支線が伸びている。時計で言えば3時方向にちょいとはみ出して伸びているのが道後温泉に向かう支線だ。9時に当たるところから伸びているのがJR松山駅につながる線。そして6時に当たる方向に伸びているのが伊予鉄松山市駅につながる線になる。
だから路面電車を上手に乗り継ぐには、ちょっとコツがいる。おまけに市内の各所にバス路線が張り巡らされているから、松山市民には住み心地は良さそうな街だと思った。
しかし、その複雑な交通動線が観光客にはなかなか難度が高い。にもかかわらず、電車の中には外国人観光客も多い。なんとも不思議な光景だった。おまけに、外国人観光客はあまり迷うこともなく電車を乗り継いでいるらしい。スマホの中にとてつもなくスーパーな旅行アプリでも入っているのだろうか。見せてもらいたい気もする。

アーケードは長い。実に長い。おそらく端から端まで歩くと1km以上ありそうだ。遅めの夕方だったが、それなりに人通りも多い。地方都市で見かけるシャッター街とは無縁のようだった。それでも7時近くになるとほとんどの店が閉店しているので、夜の引けは早そうだ。

松山には先の大戦の終末期に米陸軍による都市空爆を防衛するための航空部隊が置かれた。最後の傑作機「紫電改」を配備した部隊で、パイロットは全国に残っていた名人級をかき集めたそうだ。
その部隊を松山の人々は支えてくれたのだが、敗戦と共に全ての紫電改は米軍に接収され、松山に紫電改のかけらも残っていなかった。
それが昭和の後期、墜落して海中にあった紫電改が発見され引き上げられた。それが亜媛県南部の街で展示されている。今では紫電改のことなど覚えている人も少ないだろうが、街中の商店街にそれを記録するものが掲げられていた。これは尊いなと、思わず頭を垂れた。

もう一つ、面白いなと思ったのが、街中のあちこちで「鯛めし」を推しまくっているのだが、推しの鯛めしは松山名物ではなく宇和島名物らしい。なので、この辺りの地理的距離感というか松山と宇和島の関係性はどうなっているのだろう。お江戸で言えば埼玉県大宮の名物を千葉県千葉市で売りまくっているみたいな感じがするのだが。
伊予国ということで一体感があるのかなあ。ただ、宇和島と松山ではお殿様も違っていたはずだから歴史的には違う街なのだと思う。まあ、美味いものには国境なしでも良いけれど。

アーケードの端っこにある伊予鉄の駅には大手百貨店も入っているので、まさに大都市の駅前という風格がある。駅周辺にはさまざまな飲食店やエンタメ系の店が立ち並んでいた。どうも、この都心部散歩をした感覚で言うと、松山の街は観光客相手の土産物屋も少ない、松山に住む人に向けた街という印象だった。
街の規模感としては政令都市のような超大都市と比べて、ちょうど良い賑わい感がある。気候も温暖で、海の幸にも恵まれ、きっとこのあたりは昔から過ごしやすい国だったのだろうという気がする。

松山といえば、夏目漱石の坊ちゃんが思い浮かぶが、実は司馬遼太郎氏の大作「坂の上の雲」で語られた秋山兄弟も、相当に力を入れた地元の推しキャラになっている。この二人は坊ちゃんとは違いリアルな人物なので、推しやすいのかもしれない。
土佐では明治革命期の坂本龍馬推しで、伊予では明治の大戦で活躍した秋山兄弟推しになる。その辺りの違いが明治期四国の時代感というか、土地柄の違いというか、微妙さなのだな。松山での一番の気づきがこれでありました。

街を歩く

PARCOのポスター展 

自宅近くのパルコが閉店する。開店から閉店までしっかりお付き合いをしたことになる。ちょっと気になってパルコの沿革を調べてみたら、池袋パルコ開店が69年、渋谷パルコが73年だった。75年に開いた札幌パルコが、自分にとってのパルコ初体験で、自宅近くのパルコが83年開店。振り返れば我が人生はパルコと共にあると言っても過言ではない。
本当か(笑)と突っ込みたいところだが、確かに自分の中のカルチャー・ポップな文化という言葉は、ほぼパルコと同義だった。よく時代が変わるとか終わるとか言われるが、それを自分ごととして捉えたことはない。ただ、このパルコの閉店は、まさに自分ごとのような気がしている。
その閉店間近のパルコでポスター展が開かれているのだが、これがまたしょぼいというかひっそりというか、普段使うことのない「階段」の壁を使っての展示会だ。それでも気になって見に行ったら、懐かしいさに涙が溢れそうになった(笑)

すでに亡くなってしまった津田沼パルコのオープンポスター

エアブラシを使ったイラストは70年代を象徴する画法?だと記憶している。この後、スーパーリアルという技法に進化していきSFチックなイラストが大量出現したはずだが、それも今ではCGに置き換わっている。時代だなあ………
でも、この絵柄はなんとなく懐かしい。実物は見たはずがないのだが。ひょっとすると札幌パルコで張っていたのかもしれない。

この手のシンプルなコピー使いは、パルコの独壇場だった。パルコが文化だと信じていた頃の記憶だ。西武セゾングループが若者文化の発信者、擁護者であった時代で、老舗百貨店の野暮ったさとは好対照だった。サブカルチャーなんて言葉も覚えたし、たまにはエンタメ系ではないメッセージ色の強い映画を見に行ったりしたのも、間違いなくパルコ文化の影響だった。

このパルコ文化と並行して読み漁っていたのが、昭和軽薄体と言われていた椎名誠氏のエッセイだった。相変わらず山に海に出没している元気な高齢者に成長されたようだが、自分の中では椎名諸策とパルコが同じ系統の文化として完全に同期している。
パルコの広告はテレビのコマーシャルでもたっぷり見たはずなのだが、なぜかポスターの記憶しかないのが不思議だ。
自分が広告関係の仕事に関わっていた時、頭の中のお手本はパルコの諸作品だった。いつかはあんなCM作ってみたいなあ、などと思っていたが……………

そういう意味で、パルコのポスターはメッセージが強い。伝達力が桁違いだと思っていた。これに匹敵するのは、全盛期の新幹線広告くらいだろう。それが国鉄期だったかJRに変わってからだったか記憶は曖昧だが。
広告が社会的、文化的なメッセージ力を持っていた最後の時代かもしれない。

階段で連張されているポスターを見ると、妙に悲しいものがある。なんといえない切なさを感じてしまう。どこかの現代美術館で額装して展示してくれないものだろうか。
まあ、実際には広告ポスターなので、消費され使い捨てられる運命にあるものなのだ。だから、それを美術品扱いしろと言うのも仕方のないことだが。
やはり、ちょっと寂しい。

これが40年前の開店告知ポスターのようだ。ガンガンの夏かあ、確かにあの夏は初めて関東に来て体験した亜熱帯な夏だったので、不快な湿度の記憶しかない。ガンガンというよりジメジメという言葉が似合っていると感じていた。早く金を貯めてエアコンを買うのだと決心したのを覚えている。
扇風機の風が全く涼しく感じられない、寝苦しい夏の夜とパルコの記憶はリンクしたままだ。
ポスター展示最終日は閉店日、あと何回か見に行くことになるだろうなあ。

旅をする

道後温泉は檻の中

湯築城見学に行ったあと、歩いて行ける距離にある道後温泉を見物することにした。路面電車で一駅分だから、大した距離ではない。お城のある公園から歩いても5分とかからない。
道後温泉に行くのはこれで2度目だが、最初に行った時は車移動だったので頭の中に地理感覚は全くないままの温泉突入だった。だから記憶に残っているのは、道後温泉入り口のクラシックな建物と、思っていたより随分と狭くて薄暗いお風呂の光景だった。

電車ではないのだよね と確認しに行きました

今回は徒歩で温泉入口に到達したので、あれこれ待ちの景色が目に入ってくる。道後温泉の駅前には、これまた有名な坊っちゃん列車が止まっていた。よく考えると、この列車は歴史的遺物というわけでもなさそうだ。感覚的にはサンフランシスコのケーブルカーみたいなものだろうか。それでも観光目的の列車というのは、そのフォルムを含めなかなか美しいものだ。
終点で機関車を回転させて方向転換するパフォーマンスも、ひょっとすると原型はサンフランシスコのケーブルカーにあるのかもしれない。

動物園のおりか鳥籠か、と言いたくなるが………

駅前から土産物屋が立ち並ぶアーケードを通り道後温泉の前に行ったら、まさかのビックリ風景だった。鳥籠、というのが第一印象だった。建物自体のメンテナンス工事らしいのだが、さすが皇室御用達の名建築物らしく、これではほとんど歴史的寺院の修理と変わりがないレベルだ。確か、奈良唐招提寺の大改修もこんな感じで(幕が張られて中は見えなかったが)20年近くかけて工事をしていた記憶がある。唐招提寺の姿を拝むのに、ずいぶんと待たされたものだ。

さすが松山一の観光地なので、歩いている観光客のほぼ半数が外国人だった。この国はもはやローマやパリのように、地元の人間よりも観光客が多いところになってしまったのだなあ。そうなると、看板も日本語だけではいけない時代なのか、とプリン屋の看板を見ながら思った。

はいからさんが通るの時代かな

坊ちゃんとマドンナも松山を代表する名キャラクターだが、彼らも観光アイコンとしてはせいぜい100年程度の歴史しか持たない新参者だし、おまけに日本文学の造形がないと、この二人の関係性は理解できないだろうなと思うのだが。ぼっっちゃんとマドンナのカップル、これは日本人専用の観光ツールなのかもしれない。
そう言えば、この手の顔出しスタンドで写真を撮っているのは日本人だけのような気もする。確かめたことはないが……………

夕日を背景にした道後温泉駅はなかなか浪漫的な風情がある。ただし、この駅の周りで日本語を喋るものはほとんどいない。何やら、異国情緒すら感じる不思議空間だった。
それでも、ここから電車に乗って二つ先の駅からは、スーツにネクタイをしめたジャパニーズサラリーマンが通勤帰りで続々と乗り込んできたので、一気に車内は日本的お疲れ様な雰囲気に満たされたのであります。

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湯築城 名城の影に隠れた名城

大山祇神社、弾丸ツアーのため前泊した松山で、夕方に時間が空いたので松山の大名物「松山城」ではなく、より由緒正しき古城を見に行った。鎌倉時代から戦国時代まで伊予(愛媛)の領主となっていた河野氏の城跡だ。平地に造られ堀と土塁で守られた堅城だった。

夕方の閉館直前、ギリギリのタイミングで資料館に入ることができた。城跡から出てきた陶器などが陳列されている。1000年近く前の人がこの皿を使っていたのかと思うと不思議な気持ちになる。

資料館の後ろが小高い丘になっていて、ここに城、防衛拠点があったようだ。戦国時代前なので天守閣はなかったはずだが、原平時代から室町期にかけての戦闘形態を考えれば(騎馬武者同士の一騎打ち)、ここはなかなかの難攻不落な要塞だっただろうと推測できる。

堀の横の盛り上がりが土塁であり、堀を渡ってくる敵兵にはこの土塁の上から矢を射かけたり槍で突いたりナギナタで切り付けたりと(ああ、痛そうだ)、あの手この手で防衛戦闘をしたはずだ。そして主戦闘は石投げだったに違いない。戦国期の戦闘は、罵り合い(口喧嘩)→石投げ→矢→槍→刀で乱戦という手順で進んだらしいので、この堀と土塁は戦闘初期に有効だった防衛施設だろう。

ツワモノどもの夢の跡、と言えばそれまでだが。この地を長く支配した河野氏も戦国の終わりと共に没落する。そして、そこに進駐してきた加藤氏が、かの有名な松山城を築くのだが、それは戦国期の鉄砲導入による戦闘形態の変化と、城の意味合いが防御拠点としての城から支配力示威のための城に変わったことを意味する。

愛媛県は100名城が5城もある名城大国なのだが、松山城の名声が飛び抜けているので他の城が霞んで見えてしまう。しかし、伊予国は瀬戸内海上ハイウェイの西側入り口だから、戦略的には間違いなく重要拠点だった。その拠点として古城、湯築城は長宗我部氏の四国統一が始まるまでは重要な役目を長く果たしていたのだ。
乱は常に辺境より起こるので、四国南部と南九州から起こった戦国期の西日本騒乱は、瀬戸内所領を巻き込んで大騒ぎになるのだが。それは湯築城とはまた別のお話なのかもしれない。

ちなみに、このお城から徒歩5分でかの有名な道後温泉だった。全く知らなかった。

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あこがれの神社詣

テレビの旅番組で度々見る「しまなみ海道」は、一度だけ車で走ったことがある。その時は仕事の用事だったので、景色など全く覚えていない。ただただ高速道路を走っただけだった。
ただ、そのしまなみ海道の真ん中、大三島に神社があり、そこには一度行きたいと思っていた。古代日本の歴史の中で、実はこの神社こそが最大のエポックメイキングなポイントだと考えているからだ。
古事記・日本書紀に記載された古代ヤマト朝の伝承は、征服王朝であるヤマトが古代中華帝国の正史に習って書き記したものだから、自己賛美と自政権の正統性を語るのは当たり前だ。だから、日本海側、九州北部にあった有力諸王国を征服併合した後、巧みにそれぞれの国の神をヤマト朝の神話体系に組み込み融和を測った。
出雲王国の神も九州南部の神も(おそらく神の原型はその国を率いた王達であり、最大の抵抗者たち)取り込んだ。それが国譲りだの最高神の兄弟だのと言う形で伝説、神話化されたのだろうと思っている。
その取り込まれた神の一柱が、この大三島の御祭神なのではないか。ずっとそう考えていた。最高神の兄であり、単独でこの神社に祀られている。天照系お付きの神もいない。神格としては最上級だろう。おそらく、出雲よりも強い勢力が瀬戸内の海運を古代日本で牛耳っていた。その一族がここに祀られているのではないか。
ヤマト朝が東進して日本統一を図る上で、瀬戸内の海上交通は現代のハイウェイと同じ高速幹線路だったはずだ。そこをおさめる一族を取り込むために、最高神の兄というほぼ最強の立場を与えたと考えられないか。
そんな古代日本を夢想すると、やはりこの神社には一度行ってみなければならないと思い続けて随分経つ。しかし、この場所は、実に交通の要所から外れている。あまりにも不便だった。しまなみ海道ができて陸続きになったとは言え、交通機関はバスを乗り継ぐしかない。なかなか踏ん切りがつかないまま時間が過ぎてしまった。

ネットでバスの時刻表をいくつも確かめ、松山から高速バスと島内バスをいくつか乗り継ぐと、大三島経由で広島空港に繋ぐことができることがわかった。気分はすっかり某テレビ番組「路線バス旅」になる。
早朝に出発すると夕方の飛行機に乗ることができる。弾丸大三島ツアーが設定できた。

多少のトラブルがあり、松山からではなく今治からしまなみ海道行きバスに乗った

高速バスも島内バスも接続が良いわけでもないので、各所で待ち時間がある。それはそれで、これがバス旅というものだとのんびり楽しむしかない。晴れていて暖かい日だったので良かった。

しまなみ海道を走る高速バスは、各島で停車するため、何度か高速道路から降りてインターチェンジ近くのバスストップ(大型停留所)で止まる。一人二人と乗客が降りていくが、乗ってくる人はあまりいない。
そんなローカル線なのに、外国人観光客は何人か乗っているのが不思議だ。そもそもネット(多分英語版)でバスの時刻表などが乗っているのだろうか。バス停の表示も日本語だけだし。なんだか不思議さたっぷりのバス旅だった。

ようやく訪れた大山祇神社の境内はさほど広いものではなかった。ここに来るまで思い描いていたのは、伊勢神宮より少し小ぶりな程度の大規模造営なお社だった。なんとも拍子抜けしてしまった。

最高神の兄様だというのになあ、もう少しなんとかならんもんかい、というのが素直な感想だった。感覚的には、三番目の弟のお住まい、程度な感じがする。

それでも、これまで日本の古社を随分と回ってきたけいけんからすると、このお社は隅々まで掃き清められ手入れがなされている。一宮とは言え寂れてしまっている神社も多い。それと比べるとしっかりと保持されている。参詣者が多いこともあるのだろうが、神社を支える氏子の方々の努力が伺える。

平日の昼下がり、参拝者はさほど多くないのだが、これまた外国人旅行者が目立つ。境内の中だけを見れば日本人より多い気がする。
日本人観光客がローマに行って、バチカン見物に行くようなものなのだろうか。しかし、この場所に来る手間暇を考えると、実に不思議に感じてしまった。伊勢神宮を筆頭に西国には大社が多い。それなのに、わざわざここに来るとは、相当な神社通ではないか。

あれこれ考えながらお参りをした。1500年以上も昔に、この場所でヤマト朝の親分と瀬戸内海運の統領が会談したのかもしれないと思うと、なんだかむずむずしてくる。うーん、歴史は浪漫だ。

その古代日本に植樹されたという御神木があった。実年齢は不詳だが、確かに神木と言われる風格は備えている。これもまた歴史がある神社でしかお目にかかれない。伊勢神宮はお社内のあちこちに巨木、長命木はごろごろしているが、あれは伊勢神宮限定で、別格というものだ。

樹齢500年を超える樹木は確かに神の領域に近づいている気がする。この大木も1000年以上昔から、瀬戸内の主として人の生き方を見てきたのだろうか。さぞかし愚かしく感じたのではなかったか。

一番行きたかった神社でついにお参りを完了して、とても満足した弾丸ツアーでありました。でも、また行くことはないだろうなあ。

旅をする

おいでよ 久礼と誘われて

仕事柄あちこち旅をしてきた。一度っきりの町もあれば、何度も繰り返し訪れる町もある。年によっては2回3回と繰り返し訪れる場所もあった。そういう町では、何軒か馴染みの居酒屋ができたりもするのだが、おそらく自分の人生で一番長く繰り返し訪れているのがこの町だろう。
ずいぶん昔のことだが、仕事で使う食材を国産化しようという計画があり、その時に「ツナ」の調達先として考えたのが、高知県でも有名なカツオの町だった。なんのコネもなく、いきなりネットで探した相手に電話をかけ面談の約束を取り付けた。
その後、一人でノコノコと出かけて行って名刺を出したが、実は全く信用されなかったらしい。名刺の肩書きと風体がそぐわないという理由だったそうだ。後から聞いた話だ。確かに名刺の肩書きを信じてもらうには、それなりにTPOに合わせてスーツとネクタイは必要だったようだ。
ちなみにその時はチノパンにジャケット、背中にリュックサックという、全くビジネスマンらしくない軽装だった。(だそうだ、本人はあまり記憶にない)

この先は中村、宿毛と高知県西部まで到達する鉄路

JR四国、土讃線で高知駅から普通列車であれば1時間強。列車を降りれば駅前に商店街も見当たらない地方都市だ。すでにJR四国管轄にある駅の多くは無人化されている。この駅も特急が止まるにもかかわらず無人駅だ。

駅の中には昔の切符窓口が残っているが無人駅

駅前にはいつもタクシーが一台止まっている。駅前からコミュニティーバスも発着しているので、時間によっては発車時間待ちのバスが止まっていることもある。
5-10分おきにバスが来る都会の感覚からすると、3時間に1本という運行ペースに驚いてしまうが、田舎暮らしに慣れればそれはそれで使い方の問題らしい。
この町で月に一度のペースで仕事をすることになった。友人たちのおかげで、楽しいお仕事になりそうだ。長く生きていると良いことがあるものだ。

駅の構内に(改札口のすぐ外に)鳥居ができていた。八百万の神様がいるのだから、そのうちの一柱がカツオの神様であっても不思議ではない。御神体はなんなのだろうと不思議だったが、まさかカツオの頭ではないだろうなどと不謹慎なことを考えてしまった。

かわうそのしんじょうくん

この久礼の隣町は、最後の日本カワウソが目撃された町で、今でも生き残っているだろうカワウソの復活を応援している。個人的にも、四国山地の山奥でカワウソはひっそりと生き延びていると信じたい。
そのかわうそキャラ「しんじょうくん」をあしらった土産物をこのコンビニで買ってきたが、なんだか食べて良いものか気になって仕方がない。
次回行った時には、もう少し大量に買い込み罪悪感なしで食べてみたいものだなあ。