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吉備国で 古代日本を思うこと

吉備国とは備前・備中・備後を合わせた瀬戸内中国地域の中心にあたる古代国家だ。今で言えば岡山から福山にかけたあたりに広がっている。古代日本でヤマト朝が日本征服事業を進める中で侵攻を受けた、中国地域でも大勢力の一つだったのが吉備国だろう。ここを落とさなければ瀬戸内海交通を抑えることはできない。古代ヤマト朝が押し進めた東征における、エポックメイキングなイベントが吉備制圧だったのではないか。
ただ、吉備の神さまは出雲の神様のように国から追い払われたりしていない。現地で生き延びることができた。国神として信仰が許されたのだから、吉備は武力制圧ではなく非戦のままで降伏による併合だったのかもしれない。
ヤマト朝建国ストーリーでは、いく柱もの神様が東国に追いやられている。大国主、素戔嗚、武甕槌大神などなどは、強大な抵抗勢力の表れだろう。ヤマト朝の大将軍が征服の成功により、ご褒美として神格化した(古代の勲章みたいなモノ)のではなく、亡国の王族が追放された先で神として存続したと考える方が辻褄が合う。
征服のご褒美組の筆頭は日本武尊(やまとたけるのみこと)だろうし、最強の亡国王は大国主だ、と思っている。

備後国一宮、吉備津神社は海からずいぶん離れたところにあった。どうもそれが腑に落ちない。吉備国は瀬戸内海海運を抑える海洋王国だったのではないか。その国の中心地である一宮が内陸部に引っ込むということは、海岸防衛戦に負けて陣地後退したということだろうか。
そう考えれば、川沿いに内陸に引きこもり、防御縦深を深くしたとも考えられる。ヤマト朝が西から攻略してきたとすれば、この地が第一次防衛線で、岡山あたりにある本拠を守るため、あえて拠点を内陸部に移動したと推測もできる。
神社にお参りに来て古代日本の戦時状況に思いを馳せるというのもずいぶんと物騒な話だが、吉備津彦さまであれば許してくれるだろう。

古代の神社、特に一ノ宮と言われる歴史の長い神社は、その立地が当時の、つまり古代ヤマト朝成立前の時期に、その地域の中心地だったはずだ。今では無くなっている地方王国でも政庁は一宮周辺にあったはずだ。だから、一宮周辺の地形は防衛拠点、要塞跡地と思って眺めるとなかなか興味深い。
そして、古代ヤマト朝最盛期に建立された各国の国分寺跡は、ヤマト朝が意図して作り上げた軍事拠点、武力拠点、行政支配拠点であるから、一宮と国分寺の位置を比べると、これまたあれやこれやの歴史妄想が湧き出す。
今ではすっかり平和の象徴で信仰の中心になっている一宮も、建立当時は政治的軍事的要所であったはずだが、今では戦も起きない。すっかり七五三を祝う平和な場所に変わっている。

神社の外装といえば「朱」と決まっているようだが、これも時代がだいぶ下った時からの「豪華色」らしい。この「朱」の塗料を作るのには膨大な資金がかかるそうだ。いわば金箔を張り巡らした金満建造物ができる前の時代に、一番金がかかる豪奢な建物が朱塗りだった。つまり、建主が権力者であることを示す意味があった。
だから、朱色に塗られた神社は征服者の証であるはずだとずっと思っていたのだが、吉備津神社が朱色とはちょっと意外だった。土着の神が征服民族の神に置き換えられた(昇格した)ということか。

しっかりと古代日本史や神社の様式をお勉強したわけではないので、勘違い、思い違いなのかもしれない。ただ、この地に住む人に2000年近く前から「我らが神様」と信仰されてきた吉備津彦(これも別名であったのが改名させられた可能性もあるが)さまにとっては、どうでも良いことなのかもしれない。

くどいようだが、この神社のある場所は、後背にある山を合わせて防衛拠点として見るとなかなか興味深い地形なのだ。瀬戸内海運国であったはずの吉備国で、神社を築くとしたら鹿島神宮的な海辺になるはずなのだ。それがなぜこんなな海から離れた山の中に………
歴史をネタにした妄想は楽しい。それはさておき、吉備津神社は清々しい神社でありました。

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興国寺城とキャラの街

戦国時代を通して関東の覇権を争った北条氏の開祖、伊勢新九郎が最初の居城としたのが興国寺城だ。現在の沼津市にある。沼津といえば相模湾有数の漁港だが、東海道の交通結節点として重要な場所だった。富士山の麓を周り甲府から東海道に出てくると、この場所にあたる。その戦国時代の重要防衛拠点を任された伊勢新九郎・宗瑞が作った城を、その後何代かの領主が改築増築して大規模な山城とした。
伊勢氏(北条氏)が拠点を、伊豆韮山、相模小田原へと移したこともあり、興国寺城の城主はめぐるましく変わったようだ。
その北条一族の話を大河ドラマにする運動が起こっているみたいなのだが、そうなるとメインの舞台は韮山か小田原になるのではと思う。この沼津の町に及ぼすインパクトはあまり大きくないような気もするが。

興国寺城跡には神社がある。神社の後ろは高い土塁というか土壁だった。城といえば石垣というイメージがあるが、戦国初期の城はほとんどが土壁、土塁で構成されている。
土壁もこれだけの高さがあれば、石壁に劣ることない防衛施設だし、攻め手から見れば難攻不落に近い。この傾斜度の高い斜面を草鞋で登ることを想像するだけで、うんざりという気分だろう。おまけに、壁の上からは石を投げたり、矢をいかけたり、丸太を落として嫌がらせをするのだ。

城の入り口手前は平らな場所になっているが、これはおそらく戦国時代の後で廃城になった時期に、農地にされていた跡ではないか。防衛施設にこのような見通しの良い平地は必要ない。あるいは、防御柵などが張り巡された一次防衛施設だったのかもしれない。
ただ、普通はそのために一次防衛施設として水堀あるいは土掘をつくる。やはり戦国時代終了後の改修ではないか。
土壁の上まで登れば小高い丘になっているので、沼津市街が見渡せる。東海道の防衛拠点としては優れた場所だ。やはり、歴史は現地に行って観察しないとわからないことも多い。
例えば、安土城跡に行って地形と地勢を理解すると、戦国時代の歴史・歴史小説がよくわかるようになる。新幹線で関ヶ原から京都まで通り過ぎる旅ではわからないことだ。各駅停車の旅で城を目指して転々と移動すると、その昔、東海道を歩いた軍隊や徒歩旅行者の視点で景色が見えてくる。

その戦国時代の貴重な名残をとどめる沼津市で、今は二次元乙女たちが成功を収め、全国から観光客を吸引している。情報が財をなす現代で、戦国時代より効率的に街の経済を支配するアニメキャラ。
伊勢新九郎も、こんな未来は夢見ていなかっただろう。興国寺城跡から「絵」で全国を制覇するものたちが生まれるとはね。
ただ、この現代の経済戦争における戦闘乙女たちに一番喜んでいるのは、JR東海かもしれないなあ。

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自由に使える 自由軒

晩飯にはB級なグルメが良いと思いネットであれこれ定食屋を検索して発見した一軒がこの店だった。表に立つと、実に味があるルックスで、おお、これはタリを引いたと思った。暖簾にかかる「おでん」が、実に期待を持たせてくれる。

引き戸を開けて店内に入ると、すかさず「お帰りなさい」と言われた。これはちょっと嬉しい。長く通っていた恵比寿にある居酒屋でも、入店の一声が「お帰りなさい」だったが、それを遠く離れた西国の街で聞くとは。

カウンターに座ると、目の前にはおでんの鍋が見えている。壁の品書きを見回すが、おでんの具材は何も書かれていないので、現物を見て注文するようだ。豆腐とちくわ、そして巾着を注文した。ただ、おかみさんによると巾着とは言わないらしいが、よく聞き取れない。餅入りなんとかと言っていた。
構わずに、食べてからの楽しみとそれを頼んだ。おでんの上には甘い味噌がたっぷりとかけられて出てきた。味噌おでんは東北、青森でも定番だが、この赤味噌系のルックスは初めて見た。味噌田楽はこんな見栄えだったか。
出汁が染み込んだおでんは美味いものだが、濃いめの甘味噌もそれを引き立てる。巾着だと思っていた油揚げの中身は餅だった。ああ、これも美味いなあと感激した。酒の肴として餅はどうよという気もするが、出汁が染みた油揚げと合わされば、すっかり気分は天国だろう。

壁に貼られたメニュー(品書き)にシャコ酢があった。ひょっとすると、ジャコ酢、つまりちりめんじゃこの酢の物かという疑念も頭を掠めたが、注文してみれば大好物のシャコだった。確か、ここから岡山寄りにある町はシャコの名産地だから、そこから届いているのかもしれない。
なんだか、とてつもなく贅沢をした気分になったのは、最近めっきりシャコが食べられなくなったからだ。確か江戸湾でもシャコはよく取れるはずなのに、食べる機会がない。お江戸のシャコはどこに行ったのだろう。
これは思わずおかわりがしたくなるほどの美味さで、旅先で拾った儲け物で美味しい肴だった。瀬戸内の海に感謝だ。

そして、締めのメインに選んだのがオムライスだ。最後の最後まで「やきめし」とどちらを注文するかで迷った。が、やはりオムライスがあれば、頼まないわけにはいかない。ひょっとすると飲み屋的に小ぶりなサイズであれば、ちょっと無理をして「やきめし」をおかわりしても良いかと思っていたが、出てきたモノをみてすぐに諦めた。どう見ても普通サイズの1.5倍、いや厚みを入れたら2倍くらいのボリュームがある。これでは一皿完食するのも難しそうだ。
味付けは昔ながらのケチャップ味チキンライスで、予想通り、期待以上で満足度120%のオムライスだった。おまけに、添え物の福神漬けがサイドアイテムといいたいくらいの盛りの良さ。これにも感謝だ。
感服しました「自由軒」さま、ありがとうございます。全てが美味しい・嬉しい・楽しい定食屋であり居心地の良い居酒屋でありました。

帰り際に覗いてみたら、お城がライトアップされていた。良い町だな、福山。

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福山城

福山城に着いたのは夕刻だった。城が夕日にさらされる頃で、自然のライトアップとでも言いたいくらいに夕日に染まる城壁は美しい。ちょっと感動してしまった。
城を見る時に一番気になるのは石垣で、それが野面積みという凸凹感がはっきりしたものほどワクワクしてくる。
戦国後期以降の、綺麗に石を整形して真っ平にされた石壁は、それはそれで美しいのだが、なんとなくちょっと残念な気分にもなる。城が要塞としての実用美を誇っていた時代から、権威の象徴として様式美を追求するようになる。そんな切り替わりがわかってしまうからだろう。

再建されたコンクリート製の城も、現代的な様式美の現れで、それは美しいフォルムだが、建築当時からの天守が残っているものと比べると、やはりちょっと残念な気分になる。
そういう意味では、戦国終了後の最終形態である千代田城(江戸城)が復元されないのは良いことだと思う。現実問題として、皇居を一時移転しなければ江戸城復元は難しいから、そんなことを発案できる自◯党政権は、まあ、ないだろうなあ。

福山城は平城なのだが、お城の基盤はかなり盛り上がっているので、城下町から仰ぎ見るお城になっている。江戸から明治にかけて町が平面的だった時代は、さぞかし豪壮な光景で領主の権威を高めたに違いない。
天守を取り巻く石垣とその階段は当時のままのようだが、城が要塞であった時代の実用性みたいなモノが感じられる。この高さが不揃いの石段こそ、まさに戦時施設であることの証明だ。などと思っているが、ひょっとすると後代に改造されたものかもしれない。お勉強不足だ。

今ではすっかり公園になっているが、築城当時は木など一本も生えていなかっただろう。敵兵が侵攻してくる時に、防御に利用されるものなど残しておく意味がない。そもそも城壁から鉄砲や弓矢で攻撃するのだから、敵兵が利用できる遮蔽物など残してはいけないだろう。

お城の中を散策していると、お城デートをする何組かのカップルとすれ違った。こちらは城の石垣を見て、この出っ張りの上には櫓があったはずだとか、落石用の壁はこの辺りに作ったら効果的だななどと、危ないことを考えているのだが、そぞろ歩く男女はそんな怪しいことを思うはずもない。
漏れ聞こえる会話も、平和で微笑ましい話題だった。400年以上も前、この城を建てた軍事技術者たちは、戦闘効率に頭を悩ませ、今、この城を歩く人たちは今日の晩飯に頭を悩ませる。城の役目がデートの場所になったのは、きっと人類にとって素晴らしい進化なのだ。夕日に染まるお城はそんな、ちょっと感傷的な感想を抱かせてくれるのでありました。

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大三島の風景

大三島バスストップで高速バスを待っていた。目の前には生口島につながる大橋が見える。なんともフォトジェニックな場所だ。瀬戸内の海は穏やかで、秋だというのに汗ばむくらいの陽気で、実に快適だった。この穏やかな海を戦国期には海賊が横行していたのだから、なんとも不思議な気がする場所なのだ。

その景色の中を自転車の大集団が通り過ぎていった。しまなみ海道はサイクリング愛好者にとって垂涎の場所らしい。ざっと見た感じで30-40人くらいの自転車乗りが通過していったが、どうもペースメーカーの掛け声、それもハンドマイクを使った大声なので、なかなかにやかましい。
ぺースおとすなとか、あと500M?頑張れとか、必死で漕げとか、壮絶な絶叫モードで号令をかけるのも、自分で自転車を漕ぎながらなのでそれなりに大変だろうと感心はした。が、やはりうるさい。ひょっとするとサイクリングツアーのガイドというか、ディレクターなのかもしれない。大変なお仕事だとは思うが………
都会の選挙カー並みの騒々しさだった。選挙カーといえば、あの候補者名を連呼するたびに、こいつには絶対投票しないと思う。そう考える有権者も多いはずだが、なぜあれほど候補者(というなの騒音源)は叫ぶのだろう。票を入れたくない奴の名前ほどよく覚えるというのは、選挙カーの皮肉だな。

大三島の神社の前に土産物屋が何軒かあり、その中の一軒が「まんじゅう屋」だった。普段は饅頭などに手を伸ばすこともないのだが、この時はちょっと気が変わった。フラフラと店頭にまで引かれてしまった。神の島のおまんじゅうと書かれてある。ちょっと気になるというものだが、ひょっとすると神のお告げだったのかもしれない。
「今日は我が饅頭を食べよ、そして崇めよ」ということかなあ…………

店の看板を見ると、どうやら村上さんの店らしい。ひょっとすると海賊親分たちの何十代後の子孫かもしれないなと思って笑ってしまった。海賊の子孫がまんじゅう屋になるとは、なんとも平和な業務転換ではないか。時代に合わせて人気商売を選ぶのは大事なことだ。
今でも海賊を続けていれば、祖業とは言え水先案内人ではなく水上犯罪者にしかなれない。皆に愛されるまんじゅう屋への転身は大正解だ。

饅頭は出来立てで、2種類あった。白い方は温泉地によくある蒸しまんじゅうみたいで賞味期限が1日限り。茶色い方が神島まんじゅうで、こちらが本命の土産物饅頭のようだ。
久しぶりに饅頭を食べたが、どちらも甘さ控えめで美味い。が、神のお告げは降りてこない。それがちょっと残念ものだった。饅頭一個で神のお告げを願うのは不謹慎というものだろう。
少しは神様にあやかれたと思いありがたく感じるの正しい饅頭のお作法だ。とりあえず、ご利益、ご利益と唱えながら完食した。大三島は良いところだなあ。

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瀬戸内 バスの旅で海賊島を見る

今治から1時間強かけて、島のバスターミナルに辿り着いて、そこから乗り換え

瀬戸内の島というと小舟が通う小さな島がたくさんというイメージがあった。今回、バスを使って移動することになり、まじまじと地図を眺めてみると瀬戸内海には結構大きな島があるのだと気がついた。
そもそも瀬戸内海は太古の時代、大きな盆地だったのが、ある時突然海の水が流れ込み、大きな湖から外海に繋がる内海になった。その時、盆地の中にある高地、山が今の島になったようだ。
だから、広島県尾道から愛媛県今治に続くしまなみ海道の島々は、実は瀬戸内盆地の高山だったということだ。その島の間の潮流は、高山の谷間を流れる急流みたいなものなのだと、地図を見て理解した。
日本の地理は小学校から習っているはずなのに、この歳になるまで瀬戸内をまともに見ていなかったのが明らかになった。(瀬戸内に限らずだけれども)
その島の間を船以外で移動するには、大きな橋でつながったとはいえ鉄道はな。バス移動になる。某旅番組で路線バスの旅を面白がってみていたが、ついに自分でバス旅をすることになるとは思わなかった。

全く地理感覚もなく、地名もわからないとバスの旅は実に難しいと、バス旅を実践してみるとよくわかる。バスの停留所前で次のバスが来るのを30分、40分と待つのも当たり前だと分かった。
ホームに上がれば五分と待つことなく電車が来る都会暮らしに慣れていると、この待ち時間の長さが気になるところだが、すぐに諦めがつくようになった。お天気が良ければ、バス停の前でぼーっとしていてもあまり気にならない。ありがたいことに、たいていの停留所にはベンチがある。
今治を早朝に出て、高校生の通学バスの中に紛れてこんで島に渡った。ちょっと時間があったので寄り道をしてみた。昔読んだ「村上海賊の娘」で登場した能島を見てみたいと思ったからだ。

能島は大きな島の間にポカリと浮かんで見える実に小さな島だった。こんな小さい島でで城を築き暮らせるのかと思うほどだ。港から見える能島の向こうには大島と伯方島を結ぶ大きな橋が見える。地図で見ると能島は大島と伯方島の間を塞ぐような1にある。ここを海路の関所にするのは当然という感じの場所だ。ここを避けたければ、ちゅごく側に回って尾道周辺に抜けるしかないが、そこには因島の海賊が待ち構えている。村上海賊は海路を完全に押さえ込んでいたのだ。

よく広さを例えるのに後楽園ドーム何個ぶんみたいな言い方をするが、パッとみた感じで能島はドーム1個分くらいの島に見える。

能島をのぞむ位置に立っているのが村上海賊の博物館だった。これがいつ出来たのかはわからないが、「村上海賊の娘」がベストセラーになったことで能島と村上海賊が有名になったのは間違い無いと思う。
主人公の海賊姫は、戦国期の破天荒な人物として描かれているが、人の命が軽い時代を飄々と生き抜く典型的な性格でもあり、人を斬り殺すことにも躊躇いがない。その明るい残酷さみたいなものをベースにして、海賊姫が変転していく様子を描いた時代小説の傑作だ。登場するキャラのほとんどが、人の命などかけらも大事に思わないバトルジャンキーばかりだが、なぜか物語は明るい。
その「村上海賊ストーリー」を知識のベースにして、このミュージアムを見るとなかなか楽しい。村上海賊は、お話に出てくる以上に「正義の味方」になっている。身贔屓と言えばそれまでだが、歴史の一翼を担ったご先祖さまは大切にするものだろう。
やはり全国各地にある戦国期のメモリアルな博物館は、しっかり時代背景を勉強していないと楽しめない。
戦国期ではないが明治の内戦に関しても地域で評価は違う。東北各地の博物館・歴史館では、戊辰戦争は防衛戦争で、官軍は侵略者という立ち位置を取る。これが西国の博物館になると、官軍対朝敵の討伐戦となり、革命ではなく維新であると美辞麗句で語られる。歴史とは声の大きいものによって語り継がれるフィクションだということがよくわかる。

こうした歴史博物館は、舞浜にあるネズミの王国のように、あまり基礎知識なしで楽しめるエンタメ系施設とはちょっと楽しみ方を異にするので、オヤジ向けといえば確かにそうだろう。子供が来ても楽しめるアトラクションもないし。

お決まりのゆるキャラもお出迎えしてくれるが、実は2階の展示室がすごかった。大変お勉強になったし、瀬戸内を中心とした海運と海賊の関係もよく理解できた。ありがたやだ。

ただ、一番感心したのは建物の外に置かれていた海賊船のレプリカで、こんな小さな船でそれも櫂で漕ぎながら航行したというのだから、これはびっくりだった。大きな船であれば漕ぎ手はまさに奴隷みたいなものだっただろう。

バスの乗り継ぎでたどり着くとまさしく秘境への旅みたいな感覚になるが、実は今治市内から自動車で1時間弱で簡単に辿り着ける。自動車で旅するのであれば、しまなみ海道を通る時に、ついでに立ち寄るお手軽スポットだった。
別に不便を求めてバス旅をしたつもりもないが、これまではずうっと飛行機とレンタカーをつなげた便利旅ばかりしてきたので、色々と学ぶことも多かった。だバス旅が、今更というかこの歳になってというか、あたらしい旅の仕方を学んでもねえ。
気分の上だけでもバックパッカーになったような……………島の旅でありました。

食べ物レポート

焼豚玉子飯 見参!!

某県民の紹介番組で見かけたご当地名品、名物料理には時々心をぐいっとそそられるものがある。愛媛県今治の賄い飯発祥という名物丼?は、一度食べてみたいものだとずっと思っていた。
テレビで見る限り、自分で再現できそうなシンプルメニューだが、なんちゃってコピーをする前に、やはり一度は実食してみたいのが人情だろう。
たまたま、今治で時間が空いたこともありネットで場所を調べてノコノコと食べに行ったのだが、徒歩15分かけて行く価値はあった。
ちなみに、地方都市はすでに自動車なしで生きてはいけない(生きてはいけるがとても不便な暮らしになる)社会なので、いざどこかに出かけようとすると、バスかレンタル自転車しか使えない。
ただバス路線は旅行者にはなかなか理解できない。事前にたっぷり時間をかけて調べないと、まず使いきれない。諦めて歩くかタクシーを利用するしかないのだが、行きにタクシーを使っても帰りの足の確保がこれまた面倒だ。というわけで徒歩にてレストランを目指した。
散々歩いた後で、駅前でレンタサイクルにすればよかったと後悔したが、とりあえず頑張って歩き通してヘロヘロになりながらたどり着いた。店舗前の駐車場は満車で人気ぶりがよくわかる。

トイレに行って帰ってきたらテーブルの上に乗っていた 提供速度は1分?

お目当ての焼豚玉子飯は予想通りのルックスで、おまけに牛丼より早いかもと思う提供速度だった。米の量は丼飯?としても多めだろう。目玉焼きの下には焼き豚の切り身が敷き詰められている。
比較的硬めの焼き豚(確かにチャーシューというよりやきぶただった)に、半熟卵の黄身を纏わせて食べる。甘い醤油タレが絡むと、実に旨しだった。
最初の感想は、なんともストロングスタイルな丼料理だ、というものだった。正確にいうと丼というより中華料理店によくある具乗せご飯で、かけご飯系のめしだ。系統的に言えば中華飯の一族だろう。
皿の上に見えているのは全面的に目玉焼きなのだから、冷静に見ればずいぶんシンプルなルックスだ。まさに玉子飯だ。ところが、その下に隠れている焼き豚と合わせると、「実は私、脱ぐとすごいんです」的なグラマラスな「飯」料理になっている。
岡山名物のバラ寿司に似た、表はシンプルだが中身は豪華な食べ物という感じだ。自作で再現しようとすると、まずは焼き豚の製造が高い難度になりそうだ。煮豚ではなく、焼き豚にするべきだろうと思う。甘いタレは市販の照り焼きソースをアレンジすればなんとかなりそうだが、焼き豚の仕込みに使ったものを流用する手もありそうだ。
ただ、この実食した「目玉焼き2個」に対応するボリュームにすると、自宅ランチとしてはちょっと多すぎるので、玉子一個バージョンにアレンジするべきだろう。

いやはや、まだ食べたことのない「すごく美味い料理」はたくさん存在するのだな。

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おまけで城見学

今治の街は一度だけ通り過ぎたことがある。車でしまなみ海道を走り松山まで移動した時に所用があり郵便局に寄った。それだけの時間しか過ごしていない。
その街で、たまたま予定外の滞在をすることになった。ポカっと空いた時間を使ってお城を見に行くことにした。
今治城は海を防御帯に使った名城と言われている。戦国期の築城名人と言われた藤堂氏が作ったものだ。

城のお堀には海水が引かれている。堀の幅自体も通常見かけるものより幅広だった。お城を見るときには、いつも考えることだが、自分が攻めての親分だったらどこからどう攻め込むかだ。
今でも残っている城は、当然ながら戦国期に攻め滅ぼされなかった城ばかりなので、防衛思想は凡庸のものではない。散々、他国の城を攻め滅ぼしてきた勝ち残り組の戦国武将が、自分の攻城ノウハウを考慮した上で、自分が攻めても落とせない城として作り上げたはずだ。その難攻な城が現存している。だから、攻城ノウハウなどかけらもない自分が、その堅城を攻めようとしても攻略の糸口さえ見つからない。(素人考えなので当たり前だが)
戦国期前半、鉄砲が実用化されるまでは遠距離攻撃は「弓」と「矢」だった。普通の矢の有効射程距離は50mくらいだったらしい。矢自体はもっと遠くまで飛ばすことはできるが、殺傷能力が十分あるのは意外と短距離だったようだ。
だから堀を作ったとしてもその幅は50mもあれば十分という理屈なのだが、鉄砲の出現により射程距離は最大100mくらいまで伸びた。そうすると、鉄砲対策のため堀の幅は広がるはずで、堀の上には櫓や塀といった防御用構築物が作られるようになる。これが戦国後期に起こった築城思想の変化だ。
そうした戦国後期のノウハウが注ぎ込まれているのが藤堂氏設計施工の城だろう。愛媛県の有名な城、松山城が築かれたのはは戦国が終わった時期だから、設計思想としては松山城の方が新しい。しかし、海を使った防衛構想は現代にも通じる斬新なものだったはずだ。

復元された天守閣は小ぶりであるが美しい。何より石壁が戦国期特有の荒ぶれた見栄えなので、この城の美しさは堀と石垣なのだと、しみじみ思った・

今治から瀬戸内対岸までは大小の島々がつながり海の関所のようになっている。島と島の間を潜り抜ける航路は、朝晩で変わる潮流の流れのために、なかなかの難所だったらしい。
そこを利用した地元の民が、いわゆるみかじめ料を取る海賊になっていた。海賊といえば、某米国映画で有名なパイレーツを想像するが、あれはカリブ海で横行した海の強盗で、れっきとした犯罪だ。おまけに欧州では国家そのものがならず者であった時代だから、当時の欧州王国が勅許状を出して、国家公認の略奪に励んでいた。
瀬戸内の海賊は、それとは違うようだ。元々は有料で海路のガイドをする職業が、いつの間にか海峡通過のために関所代を払わなければ、暴力的に徴収するという発展的進化を遂げたらしい。海の民にとって生活の糧がガイド料だったはずだが、それが暴走して年月が経つとすっかり海上武装団になった。
室町時代、全国に張り巡らされた関所が交易と通行の阻害要因になったように、海賊の存在も交易にとっては邪魔になる。豊臣氏の天下統一後、海賊は禁止されるのだが、それは織田信長の楽市楽座から続く、商業自由化の流れの中で起こるべくして起こることっだったのだろう。
海賊時代の最後の頃に築城された今治城は、わずかにその頃の名残を残しているような気がする。

食べ物レポート

もう一つの焼き鳥

今治で足止めを食らった弾丸ツアーだったが、そこは意識を切り替えて前向きに今治を楽しむことにした。この地の名物といえば今治焼き鳥なので、泥縄的にネットで焼き鳥屋を調べてみたら、ホテルの近くに有名店があった。開店時間直後を狙って出かけた。そこで今治焼き鳥に初見参した。

ただし、目的はもう一つあった。今治焼き鳥にチャレンジも心惹かれながら、興味津々だったのが「せんざんき」という料理だった。これは今治特有の鶏の唐揚げのことらしいのだが、どうやら北海道名物?であるザンギのルーツらしいという説を聞いたことがあるからだ。ご当地鶏料理は全国あちこちで散々試してきたが、実はこの今治名物の鶏料理二品は今まで未見のままだったのでワクワクでありました。

鶏皮うまし キャベツはお口直しに

今治焼き鳥は串に刺さっていない。鉄板の上で肉を焼き、それを鉄の重しで押し付けて仕上げる。どうやら調理時間を短縮するための仕掛けらしい。造船町なので、飲みに来るおっちゃんたちが料理を待つのを嫌がる傾向にあるようで、時短調理になったと聞いた。
主流は鳥皮だとのことなので、まずはそれを注文した。串に刺さった皮とは全く別物で、カリカリとした歯触りとジュワッとした油が良いバランスだ。それを甘い味噌タレにつけて食べる。ポリポリという感じで一皿を速攻で完食した。これはなかなかいける食べ物だ。が、真似をするのはちょっと難しいかもしれない。

二品目に蓮根の焼き物を頼んだ。穴の中には詰め物がしてあり、それを味噌タレで食べる。頭の中に浮かんだのは、焼きおでんという言葉だった。普段はあまり食べない蓮根だが、こうして食べるとこれまた美味い。蓮根の硬めの歯触りが珍しい。芋料理ではこの歯触りは難しいだろう。レンコン、すごい。

胸肉と手羽の唐揚げ これもうましだ

そして最後に「せんざんき」に挑戦した。カリッと揚がった骨付きの鳥唐だった。おそらく醤油タレに漬け込んで味を染み込ませた、味付き唐揚げなのだが、これが北海道ザンギのルーツと言われると、ちょっと微妙な感じがする。
比較的薄味だということもあり、ニンニク醤油でガツンと来るザンギと比べると、相当にオシャレ感がある。
カリカリ衣の唐揚げがお好みであれば、これはまさにドンピシャな唐揚げだろう。これのもも肉も食べてみたかったなあ。

カウンターに小上がりがある小体な店だったが、実に清掃が行き届いていて、店内には焼き鳥屋でよくみられる油でベタついた感じは全くない。店主の接客もキビキビとしていて気持ちが良い。素晴らしいお店だと感嘆してしまった。
今治焼き鳥は、実に旨いものでありましたが、それはこの店主のおかげなのだと思う次第。やはり、お店の質は人で決まるということでしょう。

駅弁

鯛めしの駅弁

鯛めしといえば宇和島鯛めしを思い出す。が、瀬戸内海はあちこちで美味しい鯛が獲れるから「たいめし」の名所は多いようだ。瀬戸内の海はひと続きで一緒だから、四国側と中国側で海を挟んで鯛めし推しになることもあるだろう。
そんなことを思いながら、四国サイドの鯛めしを手に入れた。紐で結んだ駅弁は、何やら懐かしい雰囲気がある。今風のボックス・スリーブタイプの駅弁より見た目が好ましい。ノスタルジーを感じてしまう。ちょっと読みずらいが「来島名産」と書いてある。

蓋を開ければ、炊き込みご飯に鯛が混ぜ込んであった。完全調理済みの鯛が入っている。鯛そぼろよりも大ぶりだが、飯と一緒に食べると口の中でほんのりと鯛の味がする。おかずは、まさに添え物的だが、これが良いのだ。主役は鯛めしであり、その箸休め、味のバランス調整として卵焼きやかまぼこが入っている。この組み合わせも実に昔の駅弁風で心が和む。
まさに古典的な名作駅弁だろう。ホクホクしながら完食した。コンビニ弁当ではこれほどの完成度が高い弁当は作れないものなのかと、これまた不思議に思う。最近のコンビニ弁当の値段を考えれば、あと一息高くても納得のうまさみたいな攻め筋はあると思うのだがなあ。

鯛めしの製造元がうどん屋もやっていた。この店では炊き立ての鯛めしが食べられるらしいのだが、今回は時間もなく断念した。もし、また来る機会があれば寄ってみたいと思うが、多分、もうチャンスはなさそうだなあ。残念。