食べ物レポート

高知と言ったらここでしょう

変わりない外見は安心のもとだ

3年ぶりに高知に行った。コロナの前は、年に2−3回通っていたこともある高知だから随分とご無沙汰していたことになる。あちこちで行きつけの居酒屋が閉店に追い込まれているご時世で、まさかこの店も・・・とドキドキしていたが、相変わらずの年季の入った店構えに安心した。

店頭のメニュー看板も、相変わらずの定番メニューが並んでいて、これもひとまず安心というところだ。値段はちょっと上がっているような気もするが、記憶モードなので確かではない。上がっていたとしても全く気にならない「お買い得価格」が並んでいる。
親どり足というのは、高松名物の骨付鳥のアレンジだ。流石に鰹のタタキが一番上にのせられているのは高知人のカツオ好きのためか、旅行者にも名高い「葉牡丹」の県外客向けアピールか。そちらにしても、カツオが別格メニューであることは確かだ。

店内に入るといつものおひとりさま向けカウンターに座りメニューを開いてみる。マイ定番がきちんと書かれていて、もう一安心した。表ではイチオシされているカツオはあえて頼まずに、「ウツボのたたき」をノータイムで注文した。酒よりも早い注文なので、中のおっちゃんも面食らっていたようだ。
ウツボのたたきは、自分の経験上では高知以外で食べたことがない。みたこともない。ウツボのすき焼きもうまいが、やはり叩きの方が数段上だと思っている。薬味はカツオのたたきと同じなので、肉の味の濃い鰹にするか、淡白なウツボにするかという違いはある。肉質に弾力のあるのがウツボだが、カツオとは旨味の質が違う。肉肉しいのがカツオで、ウツボは魚らしいとでもいうべきか。
一切れを噛み締め、口の中に溢れる肉汁(魚汁)を楽しみ、歯ごたえを楽しむ。プルプル感を楽しむ。ウツボだったら一人で一匹食べられそうな気がする。

酒は地酒の冷酒も置いているが、ここは素直に地元の燗酒を頼む。いつも思うことだが、高知の燗酒は超熱燗だ。店の流儀なのかと思ったが、居酒屋ではだいたい熱めの燗のようだ。高知の酒飲みの好みなのかもしれない。
面白いのが猪口にするかコップにするかと聞かれる。これも迷わずにコップにする。熱々の酒を、コップに半分くらい入れて冷ましながらグイっと飲む方が高知らしい気がする。
お銚子の首に札がついているが、ここには酒の名前が書いてある。おそらく御燗番をしている人が、注文の多さで酒の銘柄を間違わないように酒名札をつけているのだろう。気温が下がれば、熱燗の注文がどっと増えるから、それなりの対応が必要なのに違いない。同じ銚子に入った酒は見分ける方法もないだろうし。
銚子の形や色で区別するというやり方もありそうだが、多分そんなことでは対応しきれないくらい一度に10本20本と注文するのだろうな。
知り合いの高知人と飲んだ時の経験から言えば、銚子を1本ずつ頼むことはありそうもない。それは「高知の奇跡」というべき事態だ。
昔はおっちゃんで占拠されていたカウンターも、自分の隣で飲んでいるのはカップルばかり。客層が微妙に変わったかという気もするが、それでも高知人の飲み方は変わっていないようだ。どちらのカップルも男女差なく豪快に酒をおかわりしている。まさに高知の居酒屋に戻ってきた気がした。

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #5 「村人」について

怪獣映画ではよく壊される街の代表 銀座

こうしたことを前提に「村人ですが、何か?」という比較的短めの題名を考えてみる。まず、「村人ですが」に潜んでいる意味はいくつか考えられる。まず「村人」とはゲーム世界でよく登場する話しかけると一言か二言だけ答える、その他大勢の役だ。その一言には隠されたお宝や武器を探すためのヒントであったり、今後の進路の重要情報であったりが含まれていることもある。
紛らわしい偽情報を流す村人もいる。また、全く役に立たないお天気の話しかしないという役もいる。手の込んだ例だと、3回お天気の話をすると、くどいと怒り始めて、こちらが謝りながらプレゼントをするとようやく情報を話し始めるみたいな仕掛けもある。
つまり、村人とは英雄グループの仲間にも入らず、旅をしないまま村という閉じた世界にいるものを意味する。そして「何か?」というフレーズは、本来脇役でしかない一過性の登場人物が、「この俺様、村人に対して何か文句あるのか?」と問いかけている訳だ。もう少し勘繰ってみれば、俺にいちゃもんつける気かと怒っているとも言える。
当然、村人に問いかけているのは英雄グループの一員だ。村人同士は会話をする仕様になっていない。だからこのシーンは、主役(英雄)が脇役(村人)に、それもチョイ役にものを尋ねたら、逆ギレしてブイブイいっているという構図ではないか。ここまでイメージ喚起を具体的に迫っているとは言えないが、長文題名の意図するところはシーンの換気力にある。
そして読者(購入者)は、こう考え始める。なぜ、主人公であるはずの英雄に対して、その他大勢の脇役、モブキャラでしかない村人が絡んでいるのだと。これは新しいパターンの話なのでは? 面白いのかも? 読んでみようか?と言う連想ゲームの始まりが「村人タイトル」になっている。
書店で売っている本に付けられる「帯」と似たような効果をもたらすテクニックだ。「帯」とは表紙では(デザイン的に)書くことができない惹句、売り文句を表紙の上に邪魔にならない程度に付け足す道具だ。それを投稿サイトにずらっと並ぶ「タイトル・題名」と帯化したのが、この長くて説明的なタイトルということになる。
他の長文タイトルも、似たような効果を狙ってつけられているのは間違いない。書き手のテクニックとして、すっかり定着した感じがする。ただ、それはエンタメ・ビジネスサイクルにとっては、もはや不可欠な道具であり業界のお約束なのだろう。口語体で、話しかけるように長文の題名をつけるのは、ラノベ書きの定石その1といえる。そして、定石通りのタイトル名が、アニメや実写化された動画のタイトルになるので、世の中のエンタメコンテンツの題名が長文化していく。テレビドラマの題名もそれにつられて長くなっている。非常に穿った言い方をすれば、Web世界が現実世界を侵食している。

【続く】

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #4 「何か」までまだ少し寄り道中

写真はイメージです 放浪旅に歌舞伎役者キャラは似合うと思ったから歌舞伎座にしてみた

最近のヒットゲームでゲームとラノベのお作法を比べてみる。FF15の主人公チーム・キャラ4人プレイとDEATH STRANDINGのソロ配達人が、典型的な物語づくりの対比になる。FF15は「スタンドバイミー」のオマージュのような気もするし、DEATH STRANDINGは「ポストマン」 D プリン作のオマージュだと思う。
典型的なグループ旅物の体裁を取るのがFF15で、ゲームの全体構造もストーリーも古典的英雄譚の形を忠実にまもっている。女性キャラが登場しないのが、いささか定石から変わっているくらいのものだ。
DEATH STRANDINGは、旅物の定石を破り、最後まで一人旅だ。手助けする仲間も、同行してくれる魔物もいない。襲ってくるミュータントや化け物はいるが、それも倒さなければならないことは稀で、戦わずに逃げても物語は進む。
この一人旅がラノベ(活字)になったとしてヒット作品になったかというと、これはかなり怪しい。ラノベ→ゲームは成立しても、ゲーム→ラノベは難しいという例だ。やはり現代のエンタメ産業としてのゴールデンルールは、
ラノベ(webテキスト)→ラノベ(出版)→コミカライズ(出版)→アニメ(動画放送・配信)→ゲーム(スマホ・専用機量対応)→インスパイア系ラノベ(web)ということなのだろう。
そのエンタメ・サイクルの出発点であるラノベweb版で重要視されるのが、ともかくクリックしてもらうことだ。そのための手段が題名・タイトルで興味を惹くことであり、題名のあらすじ化・長文化現象が起きる原因となる。

そういった意味を合わせてラノベ作品「村人ですが 何か?」を考えてみる。(ようやく本論に戻ってきた)主人公は転生者であり、本来は(お話の決め事としては)何らかの超常的な優位技術を持っているはずだ。しかし、題名にある通り「村人」として転生する。村人とはRPGゲームでは、いわゆる何の能力もない最低レベルの「ヒト族」という設定で、主人公の問いに一言、二言答えるだけの存在だ。だから、主人公の同行キャラになることなどゲームの都合上ありえない。
ところが、この物語では主人公が、その最低レベルの「ヒト族」の弱者で、守るべき幼馴染が「勇者」という設定だ。世界を守る役割を持った強者を最弱キャラが守るという掟破りな話になっている。まずこの時点で、英雄譚の鉄板定石が壊れている。
題名の意味することは、主人公の設定がキャラとして最低レベルで冒険になど全く向いていない、それに何か文句あるの?という読者に挑戦的な意思表明だ。(ちなみに、手元にあるラノベの最長題名は31文字だった。昔の原稿用紙でいえば2行分に当たる)
そして長文化した題名は、わかりやすさを考えると口語体になる、ならざるを得ない。漢字や熟語を題名に多用することの意味は、形容を抽象化し圧縮するためにある。そもそも論で言えば、より少ない単語で題名を作りあげることの意味はその意味の圧縮性にある。だから小説を全部読み終わって、初めて題名の意味がわかることが多い。(それが小説読みの楽しみとも言える)
ところが、ラノベの題名は抽象化が必要ないからか長文でも問題がない。そして、読者に話しかけるような会話文にしても問題ない。逆に会話形式の方がわかりやすくなるとも言える。「ミケの旅」と書くと、ミケという人だか猫だかわからないものが、どんな時代のどこの国を歩き回るのかわからないし、旅の目的も想像できない。ともかく何かがあちこちに放浪するお話なのだろうか、と理解というか推測をするだけだ。
ところが「精霊使いの美少女ネコが、エルフの国からドワーフの街に追放されてジジイに復讐を誓う件」と書かれていれば、主人公ネコは名前であって、おそらく種族はエルフであり、ドワーフの街に追放されるのだから、エルフとドワーフは少なくとも敵対関係で、ネコはエルフ種族の年寄りな男性の誰か、つまり族長と長老とかいう年寄り連中に仕返ししたいのだな、くらいは予想できる。
小説Webサイトにずらりと並ぶタイトルリストから、ぽちっとクリックさせるために生み出された戦術と言われれば納得できる。

【続く】

ガジェット

オピネル

#9は成人男子向け普通サイズ 握りの大きさが自分にはジャストサイズ

随分昔にオートキャンプをしていた頃、手頃な野遊び道具としてオピネルのナイフを使っていた。刃渡りがちょうど良いというのもあったが、折りたたみ式で持ち手の柄がちょうど握りやすい大きさだった。手入れもせず乱暴に使っていたが、たまに手入れをする程度で錆も出なかった。
そのナイフをいつの間にか無くしてしまっていたらしい。道具箱の中からなくなっていた。ただ、野遊びに行かなくなったので気にもしていなかった。近頃また野遊びに行こうかと道具をあれこれ整理していたら、やはりナイフが見つからない。シングルバーナーも見当たらないので、野遊びにいく時に持ち歩く道具をひとまとめにしたまま、どこかで処分してしまったようだ。
道具はなくなればまた買えばいいと思っていたが、どうもそれは正しくないようだ。気分の問題もあるが、それ以上に使い込んでいくと手に馴染むというか、使い勝手の良さが増していく。新しいものを手に入れると、またその「馴染ませる」工程を再度こなさなければいけない。それがどうにも面倒臭いと感じるようになった。

刃を広げた大きさは、キーボードより小さい

オピネルはフランス製のナイフで、刃がステンレスのものと鉄製のもの2種類がある。ステンレスのものはまさしく工業製品で、製品のばらつきもないし、刃に錆が出ることもない。
鉄製のものは、あれこれ問題がある。まず刃先が研ぎ上がっていないので、自分で砥石を使い研ぎ上げる必要がある。マーカーに刃物職人としてのプライドはないのかと言いたいが、値段がそれなりに安いこともあり、文句をつけてはいけない気がする。
刃を研ぎ上げたら、丁寧に機械油で刃先を保護する必要もある。すぐに錆びるからだ。鉄製の刃物なので、錆びると表面だけではなく内部まで侵食される。だから使っていない時も時々取り出して、研いでみたり、機械油で保護してやるなり、色々と手間をかけることになる。
折りたたんで柄の中に刃を収めようとしてもスッキリとハマらないこともあるらしい。木製の柄なので湿度によって膨らんだりするようだ。そうなると柄の方も調整が必要になる。
多分、この面倒臭さを楽しめということなのだろう。フランス人の感性というのは理解し難いと思う。これがドイツ製だったりすると0.5mm単位での精度で仕上がっていそうだ。アメリカ製だったら最初からステンレス刃しか作っていないと思う。おフランス製のゆるさというか適当さは、フランス好みの人が楽しむものだろう。個人的には錆びて使えなくなるナイフなど、ありがたがる代物でもないとは思うのだが。
と言いつつ、砥石を新しく買わなければと思うあたり、だいぶフランス病に犯されている自覚もあるので……

街を歩く

大都会で一杯

迫力のある入り口看板

池袋のセルフ飲み屋「大都会」に半年ぶりに出かけてみた。ちょい飲みするにはお気楽な店なのだが、ここしばらく都合の良い時間に池袋に行くことがなかった。たまたま池袋にいても土砂降りだったりして、タイミングが合わないことが多かった。

久しぶりにふらりと立ち寄ったのだが、あまりにも暑い日だったので、冷たいビールとか冷酒とかの選択肢もあるはずなのだが・・・。いつもの通りおつまみ付き晩酌セットを頼んでしまい、酒はついつい熱燗にしてしまった。酒が出てきてから、あちゃーと思ったが遅すぎるというものだ。
今更ながら冷たい酒を頼めばよかったと反省しても遅すぎる。冷蔵庫から「冷水」を取り出してきて、猪口で一口ちびりと酒を飲むと、冷水を一口。これを繰り返しているうちに、そこそこ酔いが回ってきて、冷たいビールに変える気力も失せた。
隣の席にいたサラリーマン3人組が威勢よく話しているのが聞こえてくる。聞くつもりもなかったが、暴力的な声量なので会話が手に取るようにわかってしまった。
営業成績と嫌な客への文句と上司の批判。サラリーマンの話題とはきっと1000年前から変わっていないのだろうと思わせる、鉄板な居酒屋トークだった。
これはコロナが終わった証明みたいなものかな、などと思ってしまった。だが、それにしても午後の早い時間から、これほど気合を入れて飲んでいるサラリーマン3人組は一体どんな会社で働いているのだろうと、そちらの方が気になった。
結局、そのやたら元気に酔っ払っているサラリーマンに当てられて、飲む気力を無くしてしまい早々と退出した。
次に行く時は気温に気をつけよう。特に飲み物の温度に注意しよう。それともう一つの注意事項は、座る席をカウンターのはずれで周りに誰もいないところにするのが良さそうだ。昼から気合の入ったサラリーマン達が、ちょっと眩しいというか、近寄りたくないというか………

食べ物レポート

中華居酒屋 どんく

恵比寿駅から渋谷寄りに居酒屋が集まった一角がある。昔ながらの飲み屋街というか、不思議とチェーン居酒屋がほとんど存在しないのは、大箱が入るだけの新しいビルがないせいだと思う。古くて小さな雑居ビルが多いから、こじんまりした居酒屋や飲み屋が多い。たまにおしゃれな店が開いても、一年もすれば撤退することが多い不思議な街だ。
そんな飲み屋街でもう30年以上続いている店が何軒かあり、その中でも年に何度か立ち寄るのがこの店だ。長崎ちゃんぽんの店という看板がかかっているが、麺専門店ではなく、町中華というよりも中華居酒屋といった方が良さそうだ。
店舗の外観は、時々変わる。店長の思い入れが出ているのかと思うが、手作り感満載でなかなか楽しい。店内は10年に1度くらい改装するが、その度に店内が暗くなる。ここしばらくはさほど変化はしていない。この季節になると、ちょっと変わった冷やし中華が食べられるが、それ以外は年中変わり映えのしない(笑)、定番メニューで勝負の店だ。

炒めメンマ ネギ乗せ

他の中華料理店でメンマを頼むと、ラーメンに乗せるメンマそのものが出てくると思うのだが、この店のメンマは「炒めたメンマ」なので、酒の肴にはよく合う。ただし、日によって味付けが変わる。微妙にではなく大幅に変わる。当たり外れが激しい(と思っている)ので、それを楽しむ度量の大きさが客には必要とされる。
まあ、「どんく素人衆」には難度が高い。超ヘビーユーザーが楽しめる通な逸品だ。味が薄いと思う日は、卓上にあるラー油をドバッとかけて食べる。味変ではなく、最初から味を調整をする。それが、この店の有益なHow toであり、楽しみ方だ。できれば紹興酒と合わせて食べたい。

この店のおすすめメニューは色々あるのだが、どれもこれも他の店では食べられないだろうユニーク系だ。麺系統では、このスタミナラーメンに限る。ただ、これも日によってルックスの違いが激しいし、味の違いはもっと激しい。麺の上に乗っているのはニラ・肉炒めなのだが、かなり濃い味付けなのでスープの中に溶かし込んで食べる。そうするとスープがだんだん濃い味に変わっていく。最初と最後ではスープの濃さが変わる感じがする。
実は、このスタミナ野菜盛りは、麺ではなく定食にもなる。濃い味付けのニラ肉炒めなので、丼飯ともよく合う。腹ペコの時はそっちの方が良いような気もするが、「日によって違う味」を楽しむには、麺とスープの方が良いような気もする。だから、猛暑の夏でも冷やし中華を頼まずに、スタミナ麺を頼んでしまうのはどんく中毒の初期症状だ。これが進むとランチでスタミナ麺を頼み、夜になると居酒屋タイムで冷やし中華を肴に紹興酒を飲むようになる。
そんな馴染みの町中華の店があるのは、人生のささやかな楽しみだと思うのだが。最近では恵比寿がわざわざ出かける街になってしまったのが残念だなあ。

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えててみた #3 「何か?」の続き

Photo by Emiliano Arano on Pexels.com
主人公は巻き込まれてから活動をするのがお作法だが (写真はイメージです)

話は少し逸れるが、現代の新しい物語の形として考えるべき、RPGと呼ばれるゲームではこの英雄譚の変形が主流だ。基本的にゲーム内の世界は、第三者視点(神の目)で見た神話もどきのファンタジー系であり、活字メディアのラノベ系と極めて近しい。
RPGのストーリーはこれまで述べたような「同行者との旅」と、そのサイドストーリで構成される。大作になれば同行者が膨大に増え、多数の中から選択できるようにもなる。サブストーリの数も物語の分岐として増える。
ところが、最近のゲーム界のヒット作では「ソロ活動」で支援者ゼロという旅ものが多くなってきている。ただ、どうもこれは物語として相性が悪いようで、「一人称視点」での戦闘ゲームへ別系統ものとして進化していった。ただし、一人称視点では物語性が足りず、そこを補うためにところどころに状況説明シーンを挟む必要がある。
ラノベの中でも、一人称語りの話は増えてきたのは、このゲーム世界の変動が影響している気がする。ただし、ラノベキャラの視点は微妙に第三者視点が混在する。書き手が世界の創造者だからこその混在だ。

ところが、ラノベと時代を共有してきたゲーム界でもう一段の進化が起きた。ゲームで操るプレーヤーがストーリーとは関わりがない行動を取れるようになり、世界を彷徨き回る「オープンワールド」という仕組みが一般的になったことだ。
完全な一人称視点で、ストーリーを無視した「遊ぶ」世界が展開された。ドラゴンクエストなどに代表される、初期RPGは多少寄り道はしても、基本はゴールに向けて一直線に進む物語だ。ボスを退治して物語世界は完結するのがお約束だった。ところが、最近の大作RPGは、ゴールはあるが、ゴール後もその世界をほっつき回ることが可能という設定になっている。物語がゴールまで続く直線、一次元世界だとすると、ゲーム世界にはゴールはあるが周辺に広がって行動できる二次元空間ということになる。

ラノベとゲームは互いに影響し合い共進化を遂げてきた。ラノベの読者とゲームプレイヤーは、ほぼほぼど重なり合った層になっているようだ。その結果として、ラノベ(テキスト)とコミック(画像)とアニメ(動画)とゲーム(疑似体験)が一体となって成立するビジネスモデルが出来上がった。
ラノベも読みコミカライズされたコミックを買い、アニメ化作品をフィギュアと共に楽しむ。売り手は一粒で何度でも商売ができる「美味しい」鉱脈を発見してしまった。
当然、その連鎖反応の開始点であるラノベ(テキスト)形態も、将来的に複合メディア化できるように整えられる。登場するキャラは性格づけと共に、メリハリの効いた体型や種族のバリエーションが必要だ。全て登場人物が日本人ではいけない。主人公を日本人にするとしたら、男女・年齢・体型、出身地(言葉遣いや方言)で区別をつけなければならない。
普通の地方都市にある高校から一クラスを異世界に転生させるなどという荒技も最近よく登場するが、そうなるとリアル世界ではあり得そうもない特殊キャラ、つまり普通ではない高校生を30人近く作り分け登場させるハメになる。一つのクラスの中に、悪者も含めた社会の縮図を作るというのは、文字だけの話作りとしては無理がある。
それを描き分けるのが嫌なら世界設定を変えて、「悪の秘密結社」戦闘員A、戦闘員B・・・のような没個性キャラにするしかない。ただ、これでは物語が進まない。戦闘員Aの悩みや人生観に感情移入できる読者は少ないだろう。
だから、すでにラノベは文字単体のメディアではなく、複合したメディアを意識した作品づくりが要求される。ネットで好きなように文字を紡いで小説を書き上げても、それが「出版」される段階から、新・メディアビジネスモデルの洗礼を受ける。
ラノベは映像化、動画化、できれば実写化までを見込んだ現代エンタメ・メディアの基礎であり出発点になっている。
もう一つの複合メディア・立体化の開始点は「ゲーム」になっている。当然、ラノベとゲームは互いに影響し合っている現在進行形で進んでいるが、ゲーム世界の方が物語構築ツールとしては少し先を行っているようだ。

【続く】


書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #2 口語文体としての『何か?』

Photo by Josh Hild on Pexels.com
アメリカンヒーローといえば、夜の高層ビル街がお決まりらしいが(写真はイメージです)

題名の「村人ですが 何か?」についてちょっと考察する。ラノベの題名が年を追うごとに長くなっている。ラノベ第一世代の題名は、それなりに小説らしいものがほとんどだった。「〇〇の旅」とか「〇〇の憂鬱」など基本的に2単語の題名が多い。たまに「〇〇の——— とんでもない理由」みたいな題名プラス惹句というパターンもあった。それが第二世代になると題名というよりあらすじ的な説明文になる。
典型的なのは「〇〇ですが何か?」「あれこれxxxして、〇〇になった件」のようなもので、最近では題名だけで100字近くになるものまで登場している。
ネットで見た解説によると、長い題名はネット投稿から生まれた「ネット小説」の特徴で、読者が投稿小説のリストを見るときに、話の中身が簡潔に説明されている方が選択されやすいということらしい。確かに、「紫の復讐」などという抽象的な題名よりは「長耳エルフが烈火龍の咆哮に耐え世界を取り戻した件」の方が、登場人物や対抗勢力の想像がつきやすい。特に、エルフ好きやドラゴン好きには魅惑の題名に思えるだろう。
SFでも「アンドロイドは電気羊の夢を見る」とか「あなたに、神のお恵みを」「たった一つのさえたやり方」のような短文的題名の名作があった。翻訳の都合もあったのかもしれないが、長めの題名は斬新感があった。ちなみに当時の日本SFの巨匠たちの作品は、ほとんどが「〇〇のXX」的なものだったので、翻訳SFを目立たせる対比として短文題名だったのかもしれない。

さて、「村人ですが、何か?」についてを考察する前にラノベのお作法について、いくつか確認しておく。まずは、ラノベのお手本というか先行形態のファンタジー小説について確認する。
ファンタジー系のお話の定石は、勇者が世界を救う旅をするということだ。インドの神話、ギリシアの神話、メソポタミアの神話、古今東西ありとあらゆる文明で語られてきている物語の原型は、英雄が世界を救う旅をした後、最終的に悪を滅ぼす物語と断定して良いだろう。それが神話冒険活劇・物語のアーキタイプ、原型であり、追加パターンとしていろいろなバリエーションがつく。
まずヒーロの素性に関してバリエーションが生まれる。英雄が生まれる経緯が、神様の落とし子だったり、ただの村人が精霊と合体したり、復讐に狂って悪魔になったが何故か改心したりなどなど、英雄誕生の理由はさまざまだ。ただ、基本的に英雄とは神の恩寵を受けた特殊な人扱いで、並の人間が苦労の末に成り上がるものではない。
また、旅の同行者が、あれこれおこす事件や、過去のしがらみが原因で、必ず旅に付き纏う。というか勝手についてくる。この同行者パターンは3つほどある。悪人に囚われている女性や子供などを救った後で、その救った「弱きもの」が無理矢理ついてくるのがパターンその1。
異常能力者、賢者など常人を超えた能力を持った強者が、何らかの制約で悪者に操られたり手下になっていたのを、戦いを通して解放した結果、制約条件が主人公にうつり(いやいやだったり、感謝したりして)ついてくるのがパターン2。
パターン3はその変形で、モンスターや魔物、人族的体型を取らない異族(天使とか悪魔、妖怪を含む)が、好奇心だったり受けた恩だったり、あるいは古き誓約を果たすために同行する。これは犬形態、虎形態、竜形態などがある。
物語の最初から最後まで英雄がソロ活動するというお話は読んだことがない。だいたい物語の冒頭でパターン1が発生し、半分より手前でパターン2あるいはパターン33が起きる。その結果として、物語後半は3−4名のパーティー活動になり、お約束のようにパーティー・メンバーの一人か二人がいなくなったり、裏切ったりする。
そのパーティー分裂を解消しながら、最後はラスボス、つまり制圧目的の退治で任務完了という流れだ。神世の時代から変わらないヒーローものの鉄板展開で、人類のDNAに刷り込まれたとも思える「英雄譚」のアーキタイプだろう。

そしてファンタジー小説・物語の正統後継者たるラノベも、この典型的な原型・アーキタイプを保持している。このアーキタイプを忠実に守っているラノベ(小説)が、10巻20巻と超長編変化している。(グインサーガーのようにギネスに乗るほど長いものまで生まれた)
逆に、アーキタイプから外れた作品は2巻で打ち止め、3巻で終結することが多く、セオリーを守らない実験作品は人気が出ないということのようだ。多くの読者は、設定は新しいが、話の筋はマンネリという作品を好むということだろう。身もふたもない言い方をすれば、永遠の「水戸黄門御一行旅」こそが、ラノベのヒット作として求められている。

【続く】

食べ物レポート, 小売外食業の理論

外食DX考察 サイゼリヤ

サルシッチャを食べようとすると、どこに行けばいい?
高級イタリアンレストランに行っても、所詮イタリアからの冷凍輸入品で保管状態もあやしい

どうやらtwitterで、「サイゼリヤ貧乏人食べ物」説を唱えたおバカさんがいて炎上しているらしい。このサイゼリヤ批判は、なぜか定期的に起こるが、その度にサイゼリヤ弁護人が大量出現して、勘違いしているおバカさん(炎上元)を一気に葬り去るというのがネットの「お約束的」な活動になっているようだ。
サイゼリヤをバカにする思考は、吉野家、マクドナルド、ガストなどの低価格チェーンも同列に批判のまとにする。俺はそんな安物を食べたりしないし、安物には満足していないぞ、エヘンエヘンという、上からマウント的な発言が批判の元なのだが。どうにもやりきれないのは、「俺はお前たちと違う」という見下し思想をネットで公開する浅はかさなのだ。見下したければ勝手にすれば良いのだが、それをわざわざネットで広げる必要もないだろうに。問題になっているのは見下し思想よりも、それを公開する頭の悪い行為なのだと思う。
個人的には、本当に日常的に高いものを食べている「リアル」な人種は、わざわざ低価格品を見下したりしないだろう。そもそも「安い食べ物」を実食していないはずだ。だから、炎上元の大部分は「実際にはそこそこサイゼリヤでも食べているが、それは認めたくないものだ」的な自称アッパー・グループの貧困層なのだろうななどと想像している。
ちなみに、外食産業従事者として言えば、サイゼリヤと同品質のものを提供するためには、販売価格を倍にしなければ利益を出せない企業がほとんどだろう。原材料購入、セントラルキッチン、店内厨房、商品提供用動線、店舗立地など様々な収益構造を支える要素をクリアしなければ、あの値段で利益を出せない。それ位以上に、ダメな店であれば1000軒も出せない。おまけに全国展開するのだから、地方の味の好み、ばらつきなどを超越しなければならない。ローカルチェーンが全国チェーンになれないのは、その地方差を抜き出ることができないせいだ。全国チェーンの作るのは誰でもできる「仕事」ではない。資本力があるからできるという業種でもない。
そもそも、炎上元になっている人たちはサイゼリヤの料理のどこを具体的に難癖をつけているのかと思うのだ。
非常に簡単なことだが、同じ料理をそのままお高い食器に盛り付けされてテーブルに出されたら、一皿2000円でも払ってしまうだろうと思う。サイゼリヤの料理はその程度に完成度は高い。
手作りが料理うまいというのは、プロでなければいつも同じレベルに料理を仕上げるのが難しいという意味だろう。同じ料理を同じように作ることは、技術のない素人には真似できないということだ。
また、家庭料理ではなかなか用意しにくい、ちょっとだけ使う調味料が味の決め手になっている「プロ仕様の味付け、食材調達」もプロとアマチュアの差になる。だから、プロの仕事が大量生産できないかと言われれば「出来る」。手作り=プロの仕事ではない。
それを突破するのがセントラルキッチンという現代技術だし、大量購買による原材料の規格厳守、専用調理機器の使用と長期保管の技術などで、商品のばらつきを防ぐというビジネスモデルが必要だ。
外食業界に置いて、おなじ経営・運営要素を使いながら、倍の値段をとるファミレスの方が多いだけだ。高いもの=うまいものという方程式は無条件に成り立つものではない。
と、プロの目から見て問題指摘を(僭越ながら)させてもらった。まあ、平たく言えば、「プロの食い物屋、なめんなよ」なのだ。

そんなこんなでいささか腹を立てながらサイゼリヤに行ってきた。お目当てはこれまで見逃していた温アスパラのサラダだ。これもお値段300円だが、出てくるものは繁華街の高級レストランであれば、軽く1000円超えする品位だった。(サイゼリヤは単純に食器でずいぶん損をしている気がする)
温めたアスパラの上に、温玉とチーズが乗っている。いわゆる臭みの強いチーズなので、卵と和えると濃厚ソースに変身する。ここがサイゼリヤ的上手さなのだが、味に関して決定的なのは直輸入しているチーズだろう。
スーパーで売っているチーズで真似をしようとしても、それほど簡単にはいかない。とりあえず手近でも手に入るゴルゴンゾーラのような匂いの強いチーズで置き換えることは可能だ。しかし、それを300円で売って儲かるメニューに仕上げろと言われたら、イタリアンの名シェフであっても困惑するはずだ。大きな皿の上にアスパラを2−3本を並べて、その上に申し訳程度のソースがかかったものになるだろう。大量購買なしに美味いものを安く提供することは、基本的にできない。

目玉焼きは乗っていなくても良いのだけれど、やはりルックス重視なのか

あれこれブツブツ考えながら、追加でハンバーグを頼んでみた。これまで知らなかったのだが、ランチセットのハンバーグは合い挽き、単品メニューのハンバーグは牛肉100%なのだという。恥ずかしながら、違いをよくわかっていなかった。
言われてみればランチセットのハンバーグはふわふわ系だったかなあと思うが、かかっているソースがランチ専用の濃い味だったせいか、肉の味までは気が付かなかった。(いつもの通り、普通にうまいと満足していた)
なので、あえてランチセットではなく、単品ハンバーグ、一番何も追加になっていない目玉焼きハンバーグを頼んだ。
頭が理解しているせいもあり、肉質の違い(歯応えがある)はわかった……ような気がする。最初は肉だけで食べたので、肉と油の味も記憶することができた。
個人的にはびっくりドンキーの合い挽きハンバーグが好みだが、サイゼリヤの牛肉100%もうましだった。これも他のステーキレストランで目の前の鉄板で焼かれたりすると、一食2000円取られても満足しそうな気がする。

そんなわけで、いつ行っても大体満足できるコスパレベルの高いサイゼリヤだが、ことDXに関してはお勉強するところがほぼない。コロナの中、注文は口頭ではなく、注文票にメニュー番号を書いて渡すような仕掛けに変わった。直接接触を減らすということだが、ゼロになるわけではない。それよりもすごいと思ったのが、従業員のほとんどが、すでにメニュー番号を記憶していて、番号でメニュー名の復唱をすることだ。人の学習能力の高さを思い知らされた。これだと、タブレット導入を嫌がる経営者の気持ちがわかる。
サイゼリヤはランチ以外時間帯によるメニュー変更がないという運営方針もタブレットが導入されていない要因かもしれない。
会計はクレジットカード・電子マネーが使えるようになったが、マクドナルドのように「なんでもあり」にはなっていない。無人レジも今の所は導入されていないようだ。Wi-Fi導入、電源コンセント設置などの長居対応も見当たらない。いわゆる接客正面部分では、コロナ前と運営方法に大きな違いはない。
ただ、客の方がそれで良いと思っているとしたらどうだろうか。安全安心も含め、運営方法を大きく変更しなくても、顧客満足度が高いとすれば、つまり客離れが起きないとすれば、DXの意味合いが変わる。
元々、サイゼリヤは店内店外の運営方法、経営技術をギリギリまで磨き上げて低価格を実現している稀有な業態だ。そもそもDXなどと騒がれる前から、運営技術は人の手をできるだけかけない方向に進化していた。
サイゼリヤという革新業態には、いまさらDXなど不要だということなのかもしれない。ただ、真似をできる企業は少ないだろうなあ。

街を歩く, 小売外食業の理論

マクドナルドの時間

地元の駅前にひっそりと佇む感がたっぷりもマクドナルドがある。赤と黄色の看板がドカンとあげられている、ここが街の正面だよという風格たっぷりのマクドナルドの店とは違う。まあ、一応マクドナルドなんですけど、よろしければどうぞという控えめな感じだろうか。
景観条例が厳しい古都や旧城下町などでは、こういう渋めの外観に強制されているが、地元の街は西武グループが支配する人工繁華街なので、赤、黄、緑など原色の看板で溢れかえっている。そこに観光都市のような「ハイソ」なルックスのマクドナルドがある。違和感しかないのだが………
そして店内を覗き込むと、もう一つの違和感がより強く感じられる。店内は最新式のレイアウト、注文カウンターがあり、コロナ対策のガードボードもそれなりの高さのものが設置されている。法的基準をはるかに上回る、マクドナルド対応というべき「完璧さ」だ。
違和感の原因は、その最新鋭対応客席にいる客の、半数以上が高齢者だということ。それも大部分が後期高齢者っぽく見える。マクドナルドといえば、高校生大学生がたむろして、ドリンクとポテトを前に喋りまくっていたり、教科書を広げて試験勉強していたりする都市型コミュニティースペースみたいな感覚があった。特に、平日の午後は若者集団に占拠されているものという思い込みがあった。
ところが、なぜか自分よりも年齢が上としか見えない高齢者の集団があふれている。それもほとんどが一人で、ジジ・ババのおしゃべりグループは見当たらない。マクドナルドが日本に一号店を開けてから50年近くが経つ。当時は流行の最先端を追いかけていた二十歳の青年が今では70歳を超えるのだから、マクドナルド一筋50年というツワモノ高齢者がいても不思議ではない。が、そのツワモノがなぜか大量発生している不思議空間だった。スズメ百まで踊りを………ではないだろうが、二十歳で覚えたマクドナルドが忘れられないか?

全国のマクドナルドが高齢者愛好店になっているのかもしれないと思うと背筋がゾクゾクする。確かに、その兆候はあった。郊外型の小型店舗に行くと平日午後なのに駐車場は満車、客席は空席待ちになっていて、店内はジジババが目立っていた。コロナ前のことだった。
近場の大型郊外店でも二階席は半分ほど子供専用に仕切られていて、ファミリー優先だったが、残りの半分のテーブル席が新聞を読むジイさんで占拠されていた。確かに、マクドナルドは朝早くから空いている。昼のピークを除けば、客席には比較的余裕がある。コーヒーを頼めば、セルフ式の喫茶店やカフェなどよりはるかに安い。
おまけに、コロナ拡大の後遺症というべきか、いわゆるキャッシュレス対応を筆頭に、完全禁煙、Wi-Fi設置など店内に長居しやすい環境整備が進んでいる。これは学生やサラリーマンなど、いわゆる現役世代対応だったはずだ。
それにもかかわらず高齢者の愛好場所になったのはなぜだろう。おそらく高齢者天国だった図書館が長時間滞在をさせないようになっていることも原因の一つだろう。昼カラのような高齢者愛好施設が、コロナで使いにくくなったことなどもありそうだ。何より家にこもっていた高齢者が、大量に外にで始めたせいで、その姿が目立つようになった。色々な要因が複合して、マクドナルドの溜まり場化を推し進めているような気がする。
1990年代、アメリカ中西部の都市郊外でマクドナルドに行った時に、似たような光景を見かけたことがある。地元の人間が、マクドナルドは高齢者が飯を食べにくる場所だよと言うのを聞いてショックを受けた。まさに、それが令和の日本で出現している。
マクドナルドを若者に返せなどと言うつもりは全くない。ただ、日本の人口の1/3を占める高齢者が、自然発生的に集まる場所がマクドナルドになるとは、誰も予想していなかっただろう。
行政がこれに気が付けば、社会福祉政策も変わるかもしれないが、おそらくそれに気がつくころには既に高齢者の大量消滅期に入っている気もする。行政より先に、マクドナルドが「そこ」に気がつき、対応を始める方が早いだろう。高齢者向け専用バーガーが出現する日も近いのか。テーマは、歯に負担をかけないとか、喉に詰まりにくいとか、高齢者特有のニーズに対応する頃になるのだろうな。
マクドナルド=デイケア施設と言うのは、ちょっとしたブラックジョークだ。それでも、マクドナルドの看板に「マクドナルド・プラス」とか「マクドナルド・プレミアム」とか、「マクドナルド・シニア」とかいう高齢者専用マークがつくのは、そう遠い未来のことではない……………気がする。