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若狭一ノ宮

城巡りをしていると、城址という言葉がぴったりとあう「城の跡」がある。古城跡とわざわざ言いたくなる風情があるからだ。ところが、それと異なりしっかりと整備もされて観光地化された「城」もある。国の記念物やお宝に指定されて、おそらく築城当時よりも賑やかしくなっている。
同じように、一ノ宮巡りをしていると、今でも地域最大の信仰拠点となり賑やかな「大きい神社」もあれば、昔の街道筋に建てられて今ではすっかりおとなしくなった「古宮」とでも言いたくなる神社もある。
この「若狭国一宮」は、まさしく典型的な古宮という感じがした。境内がただただ静かで、凛とした気に包まれている。参詣する者もほとんどいない。しかし、境内はきれいに整えられている。

これぞ古式ゆかしい神社だろうと思って境内に入って行ったら、おやまあ、なんとも今風の看板が見えてきた。パワスポ宣言だった。なるほど、これは……………確かに若い方向けの親切なご説明だが。

本殿に向かう道は実に清潔な神社の境内なので、なんだか「ぱわすぽ」とひらがなで書いてほしい感じがする。カタカナで「パワスポ」だと、だいぶ印象が違うと思うのは、個人的な感性の問題だろう。

門を抜けると拝殿がある。その背後にある本殿は、これまた当たり前だが、隠されていてよく見えない。

その拝殿の手前に、学習コーナー?が設置されていた。これは、神社巡りをしていて初めての経験だ。鳥居の手前あたりに、神社の由来やら祭神に関わる説明が置かれていることは多い。拝殿までの参道が長ければ、そこに境内の案内板があったりする。出雲大社のように拝殿・本殿に行く手前に、たくさん取り巻きの「お社」が置かれていることもある。
しかし、お参りする前に学習させる専用場所があるのは、すごいことだ。神様というより宮司の熱量が違うらしい。

千年杉が本殿脇にそびえていた。巨木という形容詞が似合っている。木も千年生きれば神様になるということで良いのだろう。巨木揃いの伊勢神宮でも樹齢千年という木を見た記憶がない。
これはなかなかすごいものを見せていただいた。

神仏習合が進んでいた江戸期には、衰退した神社も多かったようだが、明治になり国家神道が始まると、神社のランキング制度も整備され「古の神社」が軒並み復活した。その時の面影みたいなものが感じられる。
ヨーロッパや中東にある一神教の教会は石造りが多いので、百年単位で続く建造物だが、日本の神社は木造であり、建て替えが頻繁に起こる。遷宮は再生と復活の象徴みたいなもので、長く続くことに執着している風はない。潔さ、みたいなものが「神道」の本質の中にあるような気がする。
ただ、古くからある神社に対して「古びた」という形容をすることもない。「ふるい」ものと「新しい」ものが共存している世界が、神社の中にはあるのだと気付かされるのは、こうした「古くてきれいな神社」にお参りした時だ。宗教心とは少し異なる。原初からの「人に在らざるもの」を畏れ敬う気持ちとは、こういうことなのかもしれない。

日本海沿岸の古王国で敬われてきた祭神と出会う機会は、東国に住んでいるとなかなか少ない。だから、こんな西の場所にわざわざ来ることになるのだな。全国に「系列神社」を持つ大神ではなく、その地域限定で敬われる神様と会うのも貴重な体験だろうとは思うが、そこがパワスポ扱いになると、ちょっと微妙な気分になるのも確かだ。

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琵琶湖の横でイカを食べた

近江八幡という街に来たのは初めてで、地理感覚も全くないまま、駅前に彷徨い出てみた。晩飯をどこで食べようかという、いつものお気楽な夜散歩だった。ホテルに行くまで近江八幡市郊外から中心地に向けて車で走ったので、やはり郊外型展開をしている小売、飲食店が多いのはわかっていた。
この街が典型的な車社会の地方都市だとすると、駅前はあまり期待できない。地方都市で駅前繁華街に次ぐ2番目の飲食店候補地は、市役所周辺と相場が決まっているが、市役所はホテルから見て駅の反対方向にあった。あきらかに、市役所も車社会対応立地にあるということだ。当然、市役所周辺に居酒屋、飲食店はありそうもない。
J近江八幡駅はJRと近江鉄道の駅が併設しているので、乗降客数は多いはずだ。小規模であるがターミナル駅であり、そして商都近江八幡なのだから、それなりの繁華街はあるのだろうと期待していた。
結果的に分かったことは、この街は南北に広がる琵琶湖東岸でベッドタウン化しているようだということだった。首都圏で言えば、都内ターミナル駅から私鉄で30分程度の町という感じだろうか。全国チェーンは大体揃っている程度の賑やかさがある。そんな駅前をうろうろして、結局は駅に一番近い店を選んだのは、単純に店名が気に入ったこと。そして、看板にある「肉炉端」の文字が気になったことだ。隣に焼き鳥屋があったら、そちらにしたかもしれない程度の軽い動機だった。

琵琶湖周辺で地のものと言ったら鮒寿司くらいしか思い出せないほど、馴染みのない土地だ。それでも日本酒は地場にある酒蔵のものを置いていた。すかさずそれを注文することにした。近江の酒を飲むのは初めてだった。

最近、飲むことが多くなった熱燗を注文してみた。やはりというか、またかというか、燗酒の温度が熱すぎる。おそらくレンジアップでお燗をするのだろう。それが悪いとは言わないが、銚子にいれる酒の量と温度はほぼほぼ一定なので、レンジアップの時間設定をもう少し考えてほしい。
この店だけに限らず、おおかたの居酒屋では熱燗が「超熱い」温度で出てくるので、辟易しているのだ。これは日本酒を熱燗で飲む人が減ってしまった弊害だなと思う。
ちなみに熱めのお茶は60度を超える。それはフーフーいって飲む熱さだ。ごくんと飲み込むのはしんどい。しかし、超熱燗はその熱々お茶に近い温度なのだ。日本酒をフーフーしながら飲むのは、あまりに情けない。(フグのヒレ酒は例外的に熱い酒だが)

食べ物のメニューを見てみたが、やはり「近江国名物」みたいなものは見つからない。まあ、駅前居酒屋に入って観光客が食べたいようなご当地名物を探す方がおかしいと言えばおかしい。北海道であれば、毎日イクラや蟹を食べているはずだという思い込みみたいなもので、実際にはそんな食生活を送る現地民はいない。観光客の誤解というか「あるある」
地元の客が普通に食べているものの中に、何か珍しいものがないかと探してみたが、やはり見つからない。普通の居酒屋メニューが並んでいた。それに文句をつけるのもおかしなものだ。
その中になぜか、名古屋名物だと思っていたどて焼きがあったので、それを注文した。味噌味が普通に美味い。食文化の東西分岐点みたいな言葉が頭の隅を掠めたが、それは無視することにした。

次に本日のおすすめと書いてあった、イカのお造りを頼んでみた。(ちなみに西ではお造り、東では刺し盛りと呼び方が変わるようだ)琵琶湖でイカが釣れるはずもないから、おそらく北陸からくるのだろう。ひょっとすると大阪湾からかもしれない。海のない滋賀県で、海産物を食べるというのもこれまた奇妙なものだが、現地で暮らす人にとっては普通の注文だろう。
筍のような土器の上にイカが盛られているのは初めてみた。これはこれで確かに美しいという気もするが、イカに見えないというよりイカらしくないと思うのは文化的偏見かもしれない。琵琶湖のほとりの駅前居酒屋で、まるで新宿や池袋あたりで飲むような感じがした。これは、日本社会が均一化している象徴だな、とちょっと寂しくなった。
酒も肴も普通に美味いのだが、旅先だと変な感傷を持ってしまうのは、旅の多い人生を送ってきた代償のようだ。そのせいか、いつもであれば一杯やった後、駅前でご当地ラーメン屋を探すのだが、今回は大人しくホテルに引き上げた。
ちなみにこの店の看板メニューはステーキだった。もし機会があれば、あのスタミナステーキを食べてみたいものだ。そう言えば、近江牛って有名だったような。

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近江国一宮で考えたこと

近江国一宮は琵琶湖南岸、京都に程近い場所にある。古代日本の中心が奈良から京都に移って行った頃、琵琶湖周辺から尾張にかけての地域は大和朝廷の勢力限界だったようだ。大和朝成立時には、尾張の豪族連合が支援したという説を読んだことがあるが、この地域を回ってみるとなるほどなと思う。
今回、愛知県東部と三重県を車で走ってわかったのだが、尾張・伊勢・近江は意外と近い。おそらく首都である奈良や京都と、徒歩2−3日で行き来する朝廷直轄地、支配地域だったのだ。
その首都周辺で防衛拠点を担った、あるいは東征の進発拠点になったのが、琵琶湖南岸であったと考えられる。そこに近江一宮が置かれたのだろう。
この先の場所から東に進むと、関ヶ原近くで美濃国一宮があり、そこから徒歩一日もかからない場所に尾張一宮がある。古代日本の大動脈は瀬戸内海路だったが、陸の要路は奈良から伊勢に抜ける山道(現在の国道1号)と琵琶湖東岸から関ヶ原を抜け尾張に至るルートだった。それが東海道と中山道だ。この神社は中山道方面の拠点だったということだ・

その近江一宮「建部神社」の参道に、何やら今風な看板があった。神社の由来をイラスト物語で解説している。妙にリアルな現代イケメンと現代風美女イラストに、なんと感想すれば良いのか微妙すぎる。若い人向けには「映え」狙いの神様として受けそうだ。
しかし、ルックスより重要なのは、祭神が「日本武尊」と「大己貴尊」という、これまたなんとも微妙な神世界のバランスをとったものだ。征服王朝のシンボルであるヤマトタケルとあわせて、出雲系神族のボスであるオオナムチもまつるという。古代大和王朝の占領政策が露骨に現れている感じがする。やはり近江国一宮は王城の地に近いだけあり、軍事拠点でありながら政治都市だったのだと思わせる。

ドローン空撮の写真もあり、おまけにイラストを使った大津絵変化キャラも登場しているので、建部神社はなかなかビジネスセンスがある「オヤシロ」らしい。個人的には、一ノ宮が賑やかしいのは良いと思うので、若い人向けにパワースポットとしての人気を盛り上げる努力は是非進めてほしいものだ。神社の維持にも金はかかる。寄付だけではなかなか大変だろう。

そんな参道を抜けると、正統な神社と言っては失礼だが、実に伝統的な建築物が登場する。

拝殿も屋根の形からすると、正統大和朝系のもののようだ。心を沈めお参りしようという気になる。神社の屋根を見て厳かな気持ちになるというのも変なものだが、神社や寺をみて「美」であったり、「安らぎ」などを感じるようになるまでにはずいぶん歳をとる必要があった。高校生の修学旅行でこの感覚を理解しろというのは、「ヒト族」の生理として無理だろうと思う。

ちなみに、この神社の駐車場は社務所の裏手にある。大変便利な場所なのだが、入り口が分かりにくい。おまけに、再三書いているが、古いナビでは神社の裏手にある山沿いの住宅地に連れて行かれた。どうも同じ被害に遭う人は多いようで、住宅地のあちこちに注意書きが貼られていた。地図屋が悪いとは言わないが、ナビ制作会社はロジック見直したほうが良いと思うぞ。そのうち、みんなGoogleマップしか使わなくなり、車載ナビは音楽業界のCDみたいな「存在するが売れない」商品になってしまう気がする。

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彦根城 残念ながら入り口まで

おそらく琵琶湖周辺で最大の城は、この彦根城だろう。琵琶湖湖岸に築城され、水運の拠点であり、東近江の防衛拠点でもある要所だ。大阪から琵琶湖、東海道、中山道と江戸へ続く徳川防衛ラインの第一次防衛陣、琵琶湖決戦場の要だ。
城も大きいし、ここを担当したのは徳川家臣でもトップ4の一角を占める井伊氏だ。武田のあとを継ぐ赤備は、戦国期屈指の武装集団だった。などなど、お城を訪れる前の基礎知識はそれなりにある。予習の成果が出ていたのだが。

お城の記念館が開くのは9時だということは下調べでわかっていた。だから、開館前に城内を早朝散歩をしようと意気込んで行ったのだが、なんと城内に入るところが「有料ゲート」になっていて、開館前は入れない。結局、日程の都合上、外回りをちょっと歩いておしまいになってしまった。

あちこちの城巡りをしてきたが、この彦根城ほど、何もしないままで立ち去ったところはない。残念無念というしかない。もっとたっぷり時間をかけて見てみたい。某有名な陸軍大将のように、I shall return と捨て台詞を残して城入り口から立ち去る羽目になった。次回は、春先に鉄道旅で戻ることにしよう。 彦根の町は賑やかそうだし、たっぷり時間をとって「観光旅行」してみたい。

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津城・松坂城・田丸城 三重の三名城

津城跡を見ると堀の広さが目立つ

三重県の名城シリーズを一気に回ることにした。最初は「津城」だ。県庁がある津市では、築城名人といわれた藤堂氏による「津城」跡がある。場内はお決まりのように公園になり変わっている。広い堀と高い石垣だけが当時を偲ぶものだ。津城は典型的な平地に建てられた平城だが、それでも統治というより防衛のための拠点だったのだろうと思う。特に、堀の幅の広さが圧倒的だ。
城を見る時には、現在の市街地ではなく、当時の海岸線を想像して考えなければならないのだが、やはりこの地は伊勢湾に面した港湾都市であり貿易拠点だったのだろう。そこに睨みを効かせるには、港の近くに城が必要だったのではないか。
伊勢と尾張境界地で怒った長島一向一揆を収束させた後でも、伊勢北部は織田氏にとって物騒な地域だったはずで、その前線に反乱鎮圧拠点を作る必要があったということだろう。

2番目のお城は、松坂城だった。この城は戦国後期の築城らしい。平野部にぽこんと突き出た丘の上に建てられている。明らかに防衛拠点としての立地だ。敷地も広い。山の地形を生かした立体的な構造で、規模も大きい。やはり伊勢は反乱の地という認識だったのか。
ただ、江戸期には紀州藩直轄になったようで、これは西国からの侵攻路を塞ぐという意味合いもあったのではないか。福井から名古屋、津と南北に続く徳川・松平系城郭を西国一次防衛線と見ると、徳川政権が西国の反乱をどれほど危険視していたか推測できる。和歌山から津にかけて、徳川家支配にしたことで、紀伊半島周りの海路封鎖が可能になる。どれだけ西国を脅威に感じていたかがわかるが、それでも2世紀も経ってから西国動乱は起こった。いや、これだけ防衛戦略を立てていたから、2世紀持ったと考えればそれなりの意味がある。

松坂城を見て思うのが、やはり金持ちの殿様が作る城は立派になるという典型的な例だ。まず石垣の厚みが違う。また、丘の南北両面を使った立体構造というのも金がかかる作りだ。松坂は戦国後期から江戸初期にかけて商人の町として成長を始めたらしく、文化水準も高い「豪商都市」だったようだ。
戦乱は破壊しか生まないが、平和は文化を生む、という教訓が実現した場所だし、近江商人と並ぶ伊勢商人の拠点でもあったらしい。交易路は海路が中心だったので、今の東海道ベルトラインとは違う場所が栄えていた実例だろう。

石垣の厚みと高さは城の建設値段に直結する要素だ。大きな石を使えば移動に金も手間もかかる。そもそも大きな石は山の中にしかない。それを平地まで人力で持ってくる。金がかからないはずがない。石垣を作るのに小さな石だけでは防御の能力に限界がある。殿様が金持ちだったか、その辺りも城の見どころなのだ。松坂城は残っている石垣が多すぎて、丹念に見て回るととても時間がかかる。そのせいで、昼食に食べるはずだった松坂牛がコンビニランチに化けてしまった。残念至極、無念だ。

三つ目の城は、伊勢国南端部に残る田丸城だった。ここも松坂城と同じ平山城だった。ぽこんとした小さな山というか丘の上に建っていた。山の上に城跡を見に行こうとしたが、なんとそこは学校になっていた。今時のご時世で、平日昼間にノコノコとよそものオヤジが学校に入って行けば、間違いなく不審者、いや、犯罪者扱いされる。学校の正面玄関手前まで行って、引き返すことにした。
しかし、その学校に登る道も車はすれ違えないほど幅が狭い。注意して運転しないと脱輪しそうな道幅だった。やはり、伊勢国の道は軽自動車向きだとしみじみ思ってしまう。

お城の跡は学校になっていた

石垣は、それなりに大きな石を使ったものだった。今は石垣の上に建造物がないから、単なる低い塀にしか見えないが、当時はこの上に矢間を備えた防御壁が立っていたはずだ。曲がりくねった石垣の間を通ろうとすると前後左右から矢を射かけられる。計算尽くされた構造なのだが、今では車で通るときに、大型車だと面倒な切り返しも必要になるクランク道路だ。時代によって道の意味も変わる。

城巡りをしていつも思うことだが、石垣の上に大きな木を植えるのはやめてもらいたいものだ。城跡を保護するというのであれば、公園としての植樹など勘弁してよというもので、もし木を植えるなら、その意味をきっちりと説明してほしい。史跡保護という観点で言えば、全国の城跡は、明治政府による暴政、城の破却政策の結果、原型をとどめていない。それが100年も続き、勝手に生えた木が大きく育ってしまい、まるで昔から城には木を植えていたような勘違い?が起きているのではないか。少なくとも殿様が本丸周りに居住していて、そこに庭園を作っていたという場合以外は、城の中に木を植える必然性はないはずだ。

三重県にある三名城は、それぞれ築城された時の目的や用途が違うので、規模も立地も異なる。それを日帰りで見比べることができる三重県民はなかなかの歴史遺産持ちだと、ちょっと羨ましくなる。
琵琶湖周辺と京都周辺は戦国期の大規模騒乱地区だったせいで、名城跡が多い。そこからちょっと離れた場所に残る城址も、畿内の政治闘争と関連で見てみるとなかなか面白い。歴史的な意味が築城の謂れにあるので、もう少し歴史のお勉強をしてからこの三名城を再訪してみたいものだ。

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多気北畠城館跡 恐怖ドライブ

織田氏の領国拡大初期に征服された伊勢国。その親玉だった北畠氏の居城跡に行ってきた。織田氏の伊勢侵攻は一向一揆と合わせて語られることが多い。ただ、伊勢国で言えば、北部にあった小豪族の里「伊賀」が忍者関連で話題になることも多く、伊勢国国主「北畠氏」の物語というのはあまり目にしない。
その北畠氏の拠点に行こうとして車を走らせていたら、どんどん山奥になっていく。なぜ、こんな山奥に拠点を置いたと言いたくなるほどだ。埼玉や群馬の山際にある山村地区と比べても、その秘境ぶり?は、群を抜いている。ただ、そこに至る3桁国道自体は相当に整備されていて、走りにくいほどでもない。
城跡周辺には道の駅もあったので、それなりの通行量があるということだ。

城は山の上にあったようで、麓には「北畠神社」があった。なかなか広い境内と、巨木があちこちにある由緒正しい神社のようだ。城巡りのついでにお参りしてきた。その境内の中に、一体の像があり、北畠氏をしのぶものだった。まさに中世武家貴族の代表的な姿に見える。

戦国初期に覇を競った旧守護大名は、ほとんど没落してしまった。室町幕府の中枢を占めた高級武家貴族も、戦国期を生き延びたものは極めて少ない。高級官僚ほど京都駐在が長く、領国経営を部下に任せたため、何台かすると乗っ取られたという室町幕府の政治構造が原因だったようだ。成り上がりで急成長したオーナー企業が、2代目3代目で従業員上がりの部下にのっとられるのと、全く同じ構造だ。人の愚かしさは1000年経っても変わらない。歴史に学ぶことはないダメ生物らしい。
北畠氏は織田に攻め滅ぼされ、織田に吸収され歴史から消えた。戦国期の没落守護一族の典型だろう。琵琶湖周辺で勢力を広げていた守護、守護代も皆織田に滅ぼされた。ほとんど一山いくら状態で消滅していった。北畠氏はその先頭だっただけだ。
しかし、尾張からこの伊勢の山奥まで攻めてくるとは想像を絶する。あの山道を何千人もの兵士が歩いてきたのだと思えば、気の遠くなりそうな大事業ではないかと改めて感心した。

戦国期に、互いに攻め合っていたことで戦闘技術や築城技術が一気に向上した。また火縄銃が取り入れられることで、戦略レベルの変化(いかに高価な鉄砲を買い揃えるかという経済力)と戦術レベルの変化(平地戦では鉄砲隊の数を揃えた一斉射撃、城の守備戦では防壁からの十字射撃など)が著しい。
この北畠氏の居城は、そうした時代の流れの中に飲み込まれた典型なのかもしれない。

中世最古の石垣とはこのことだろうかと、神社で見つけた石積みを眺めてみた。築城術に詳しいわけではないが、確かに石の積み方が素人目に見ても適当すぎる、というか洗練されていない。だいたい段差のある石積みだと、敵兵が簡単に登って上がれるわけで、防壁としての意味合いは低くなる。木で作った柵よりはマシという程度ではないか。
やはり戦闘術や築城術は実戦でその効果が証明されて、初めて普及するのだから(命懸けの検証だから当然だが)、この北畠式石垣が戦国標準にならなかったのは、一族滅亡という結果で検証された「ダメ出し」の証だったということか。朝早くの神社でそんな物騒なことを考えていた。

よく考えれば、伊勢国をめぐる戦いがあったのは、今から500年以上も昔のことで、その時に戦火で焼け野原?(はげ山?)にされた森もすっかり再生するだけの時間はあった。この樹齢50年、100年という大木を景色から消去してみれば、当時の北畠氏居城の有様が見えてくるのだが。
あまりに木が多すぎで想像力が追いつかない。

この後、伊賀に抜ける山道を走った。どうやらナビが古いせいで、旧道に迷い込んだらしく、ガードレールもない、すれ違うこともできない細い道を走る羽目になった。死にそうな気分だったし、後ろからダンプカーに圧迫された。(だいたいダンプカーのような大型車は通行禁止のはずだが、三重の山の中は無法地帯なのか)
散々な経験をしてようやく広い道に出たと思ったら、なんとダムの上流の道だった。ダムというのは交通の不便なところに、わざわざ建設用の道路を敷設して作るものだ。道なき場所に道を通して初めて出現する巨大建造物だ。その道なき場所のもっと奥を通ったのだから、危険で危ない道だとしても不思議ではない、というべきなのだろう。ただ、2度とあの道は通りたくない。


三重県山間部を走った教訓として、
①  山道では古いナビを使ってはいけない、特に最短距離モードは絶対不可 
② 山道の3桁国道は信じてはいけない。できれば通ってはいけない 
③  国会議員に力がない県では山道は細いらしい (新潟県と長野県の山道を通った時の経験だが、県境から露骨に道幅や舗装状態が変わる) 
次からの城巡りでは、できるだけ有料道路、高速道路を使って道幅の広いところを走ることに決めた。後は過去の国会議員をよく調べることにしよう。道路族であれば、多分安心だ。文科省とか環境省などと仲良しな議員は、道幅改善、安全安心道路の建設には役に立っていないはずだ。お城の保存には多少貢献するかもしれないが、お城を観光資源化するのであれば国交省の管轄だから、やはり道路改善はダメだろう。
人は体験からしか学べない。特に、ナビから危険度は学べない。一つ賢くなった気がする。しかし、この道は伊勢街道の本筋らしいので、昔の人はさぞかし大変だったのだろうなあ。

街を歩く, 旅をする

敢國神社 忍びの里で神さま

伊賀国と言えば忍者だろうと思っていたら、神社に着いて地元の人もそう言っているのだと笑ってしまった。忍びの里、伊賀甲賀と看板に書かれている。そもそも甲賀は三重県ではなく滋賀県ではないか。県境を越えた観光政策というのも珍しい。ただ、それに文句があるわけではない。ただ、一宮ですら「忍者」を持ち出しているのが不思議だなと思った。八百万の神様の中には、武ばった髪も多い。筆頭は須佐之男命だろうし、タケミカヅチ命も超絶武神だ。だが、忍者の元祖の守り神がいたとは聞いたことがない。ひょっとすると大国主系列でアンチ大和な神様がいて、その方が「忍者」元祖だったかもしれない。神様の本拠地である伊勢国の北方を抑えているとすれば、忍者守護神はなかなか戦略眼をお持ちのようだ。
おまけに忍者のカシラ(頭領)である服部一族とも関わりがあると書いてある。うーん、伊賀親分ハットリ氏を甲賀忍軍は認めるのだろうか、神社の中立性みたいなものは大丈夫なのか、などと考えてしまう。一宮では期待できない「妄想」の種をお参りする前に見つけてしまった。

おまけにこのボードは「例の」顔抜き写真の場所になっていた。気分は「ニンニン」のハットリくんということだろう。神社の前で、この手の写真を撮る場所があるのは初めてみた。明治神宮や靖国神社のようなところで、この撮影用窓あき看板を出したら、さぞかし「ライトな方々」からクレームが出そうな気がする。
しかし、八百万も神様がいるのだ。中には、アニメの神様もいるだろうし、ゆるキャラ担当の神様だって新しく任命されていそうな気がする。と、妄想が加速した。
元祖キャラとして考えれば、日光東照宮の眠り猫だって建立時に創造されたキャラだろう。奈良東大寺の鹿だって神様のお使い集団だから、NRA48でも結成して奈良を盛り上げる史上初のアニマル・ライブキャラと考えられないか。個人的には、奈良のあの物凄く濃いキャラ「せんとくん」より、鹿キャラ48の方が人気出そうな気もするのだが。神社とキャラは案外相性が良いのかもしれない。

などと、またまたあれこれ妄想を爆発させながらお参りしてきた。敢国神社は静かなお社で、その日は参詣者が誰もいないひっそりとしたものだった。個人的には、この静けさこそが神社には似合いだと思うのだが、古の服部一族も詣でた神社で心を鎮めてきた。
しかし、伊賀国は本当に山深いどころだな。

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伊賀上野城は忍者パーク

伊賀上野に初めて行った。この街は通り過ぎたこともないので、全く初見だった。街の真ん中にお城があるのは、なかなか珍しい。伊賀については忍者の里というくらいしか知識がないので、城の規模の大きさには驚いた。

駐車場に車を停め城の中に入っていくのだが、その入り口にいきなり「スーパーNINJA」アクションショーの掲示板がある。城よりも目立つ「忍術」推しだ。伊賀忍者は普段は何をしていたのだろう。全国に「忍びのもの」として散らばっていたにしても、いかにも怪しい。そもそも治世的に見ると、伊賀の地は完全な盆地だが平野部もそれなりに広い。せめて出るには大変だろうが、守る地として好都合だ。地方豪族が根拠地とするには十分な経済圏だったろう。それが「忍び」を出稼ぎ仕事に送らなければいけないほど貧困だったとすれば、何が原因だったのか。これは悩みどころだ。

案内図を見るとお城の周りに庭園が広がっているような雰囲気だが、これはあくまで平面図で、この地図を鵜呑みにしてはいけない。歩いてみるとわかるが、お城とは当然ながら防衛拠点として造られている。おまけに山城だから場内にもあちこちにアップダウンがあるはずだ。三重県山間部の恐怖ドライブをした後だけに、精神的にすっかりやられていて、元気に山登りをする気力は無くなっていた。そして、場内に入ると予想通り坂だらけだった。

歩きながら「芭蕉祭」の看板を見つけて思い出した。松尾芭蕉忍者説というものがある。世の中には面白いことを考える人がいるのだなと感心したお話で、芭蕉が俳句三昧でのんびり歩いた「奥の細道」旅程は、幕府隠密としてのスパイ旅行だったという話だ。
ただ、幕府のスパイであれば「新徳川」諸藩が多い東国ではなく、潜在的叛乱軍である西国をめぐるはずだろうと思う。少なくとも「西海道飲んだくれ旅」「肥前と薩摩を怪しむ旅」にならなければいけないので、どうにも怪しい。

お城公園の中は予想外に広く、そして予想通りアップダウンもあり、おまけに案内板を読み違い、あちこち迷ってしまった。その度に余計な階段を登ったり降りたりする。精神衛生上は甚だ問題ありな伊賀上野城内散歩になってしまった。ただ、坂道や階段を登ると本丸の姿が見えるのが救いだ。

石垣の高さ、厚み共に戦国以降の城郭の中でトップクラスの重厚さだが、それは幕府直轄統治だったせいだろう。徳川期の治世方針の表れだと思う。武威をもって民を圧する(他家を圧する)というものだが、戦国期を勝ち残り全国平定した直後であれば、武断政治は当然のことだろう。結果的にみると、下克上の風潮が消えるには100年近く時間が必要だったからだ。

伊賀上野城は戦国期築城術の完成形みたいなものなのだろうか。高知城を見た時も石垣の高さに驚いたが、やはり平地、あるいは低い丘程度で城を築く場合、最大の防御策は「高くて、登りにくい」城壁だったのだとわかる。
お金持ちの大名であれば、金沢城のように表面がすべすべに加工された石垣を作ることができる。江戸城は全ての石垣が、金をかけた平面仕上げになっている。多くの城では、荒く削って登りにくくした石積みで済ませているが、それでも防御効果は高い。城の造られた時代によって築城術、設計思想は異なるのだが、それを理解するには古い城、新しい城を見比べてみなければならない。
特に、石垣の質感であったり、積まれた石の大きさだったり(石が小さいと登りやすい)、城壁の角度などで登りやすいかどうか判断できる。おまけにかけた金も推察できる。この石の持つ重量感が写真ではよく理解できない。

復元された本丸は記念館になっていた

当たり前だが、リアルに勝る体験値はない。別に築城学を学ぶつもりもないが、復元された城よりも、長く残されてきた石垣の方が、歴史のリアルを感じられるものだ。ただし、お城によっては石垣も復元されていて、それが古く見えるだけという場合も多いので、勘違いしないことは大事だ。事前に予習しておかなければいけない「お城巡りアルアル」の一つで、何事も学ぶためには努力が必要なんだよね、という教訓。

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伊勢神宮とおかげ横丁

五十鈴川にかかる橋を渡るときは、いつでもちょっと気分が上がる。別に日本人のDNAがとか、日本人の精神世界の原点が、などというつもりはない。単純に電線のない世界に川と森が広がる姿は美しいなと思う。それだけのことだ。
伊勢神宮の周りは、駐車場を探して随分とぐるぐる回った記憶がある。神宮の森の外は、普通に現代日本の住宅地が広がっている。ここだけが、どこか隔絶された感じはあるのだけれど。門前町の賑わいを見れば、やはり現代日本の風景でしかない。

それでも、都市部でありながら清流が流れている川というのは珍しい。生活排水が流れ込まない自然なままの川というのは、今や日本で希少なものになっている。四万十川や仁淀川など、高知県の有名な清流も下流に行けば普通の川になってしまう。昔は天然の難所であった大川である天竜川や大井川も、今では治水対策の成果で、夏には河床が見えるほど水が枯れる。昔ながらの綺麗な川というのは、意外と少ないのだと思う。

拝殿に向かう途中で見かけた光景だ。こもかぶりというか日本酒の樽がドーンと陳列されていた。どれも献上酒なのだろうが、見たことのない銘柄が多い。まだまだ知らない日本酒は多いのだなと、変なところで変な関心をしてしまった。この中に、サントリーとかニッカのウイスキーダルが並ぶと面白いだろうなあ、などと思って笑ってしまった。オーク樽を白い縄で固く縛り……………見てみたいな。
他の神社でもこの樽酒のだいちんれつはみたことがあるが、やはりこれだけの数の酒蔵が並んでいるところはない。諏訪大社でも、これの1/3くらいだったように記憶している。やはり、「The 神宮」の貫禄だろう。

伊勢神宮門前町といえば良いのだろうか、おかげ横丁は初めてみた頃から随分と広がって大きい街になったような気がする。景観作りがうまいのは、琵琶湖のほとりにある長浜黒壁もそうだが、西日本的なデザインセンスのせいだろうか。首都圏というか東国ではこの手の街づくりセンスが欠如している気がする。地元埼玉では小江戸川越などといって観光地化しているところもあるが、トータルのまちづくりとしてはチグハグで物足りない。徹底どの違いであり、街の住民や商売をやるものたちのコンセンサス、合意形成が難しいのだろう。単純に「わがまま」なだけという気もする。
グランドデザインを立てるのが、東国人は下手くそすぎるのか、真面目すぎて遊びが足りないのか、あるいはリーダー不足なのか。
神宮手前の赤福を見るたびに、そのあたりの違いがわかってしまう。

しかし、赤福で新製品が出ていた(らしい)のには驚いた。それもサブレーというから、和菓子ではないのだな、とこれまたびっくりした。和菓子老舗の革新というのは、みるからに戦闘力がありそうだ。ひょっとすると近い将来、「あんバタ赤福」が出現しそうな気がしてきた。老舗も変化を求める、いや老舗こそが進化を求める時代なのだと実感した。

この横丁も夕方になれば人通りも減る。歩いているのは修学旅行に来た中学生の姿ばかりだったが、それはそれでめでたいことだ。修学旅行が復活したのだから、コロナの大騒ぎが終了しつつあるということだろう。
いつもこの横丁でお世話になっている「白鷹」を販売する酒屋に立ち寄った。そうしたら、なんと向かいの店がスタバになっていた。古き良き酒屋とスタバが「ニアリーイコール」なルックスになっている。これも現代の門前町だなとあらためて感心した。できればスタバで赤福とコラボした「あんこラテ」みたいなものが飲めるようになれば楽しいなと思った。(確かめていないので、定かではないが、すでにご当地ラテとかご当地フラペチーノはありそうだ)
ただ、まだスタバのない町からお伊勢参りに来た中学生が、このおかげ横丁で生まれて初めてスタバにはいって、その「赤福ラテ」を注文したら、人生ではそれなりに重大な勘違いを(赤福にもスタバにも)してしまいそうな気がする……
横丁の大人の皆さん、ぜひそのあたりを、特に青少年に対する心遣いをお願いします。

旅をする

南宮大社と真清田神社

関ヶ原の近くにある南宮大社は、美濃国の一ノ宮だ。美濃国の一ノ宮としてはずいぶん西に偏った場所にあると思ったが、美濃国とは現在の岐阜県西部にあたる。岐阜県東部の山間地帯は、美濃国ではなく隣国である飛騨国なので、その分を割引して考えるべきだろう。
関ヶ原を抜けて畿内に至る旧来の街道筋にあたる場所だったから、現在の周辺都市の散らばり具合から見ると理解しにくいが、当時は交通要所にあったはずだ。全国にある一宮の大半が僻地にあると感じるのは、現在の交通網から考えるからで、当時は一宮が交通の要衝にあたる場所だったはずだ。
現在は、東海道新幹線や名神高速道路などが通っていいるため、昔の交通の要衝が分かりにくい。旧東海道や旧中山道などの大街道の跡地が寂れて見えるのは、明治以降に進んだ鉄道延伸とそれに伴う陸運の劇的変化のせいだ。当時の鉄道敷設は、城下町(都市部)を迂回して作られたバイパスというか本街道から離れた田舎道でしかなく、田んぼや畑の真ん中を突き抜けていた。(それは今の高速道路と同じだが)鉄道駅周辺が街の中心部に移行するまでは相当な時間がかかった。
ところが神社仏閣は鉄当駅近くに引っ越すこともないので、時が経つと街の真ん中から外れた場所になってしまう。この南宮大社も、そうした昔の拠点跡地立地の典型のようだ。ただ、オヤシロの周りにはびっしりと住宅が密集しているので、やはり門前町としては残っていたのかもしれない。

ちょうど七五三の時期にあたり、境内には子供(孫)を連れた家族がたくさんいた。これはなかなか和む光景で、正月の初詣に並ぶ「神社の賑やかさ」の象徴だと思う。
ただ、現代日本らしいなと感じるのが、七五三ファミリーの大半が大型のワンボックスカーで来ていることだ。完全な車社会になっている地方都市では、ファミリー外出用大型車+個人の専用移動手段としての軽自動車の組み合わせが徹底していることがわかる。境内の駐車場には軽自動車がほとんど見当たらなかった。ファミリーイベントには1ボックスカーで三世代が集合という現代日本の姿だ。大都会にいると、わかりにくい、平均的日本人の社会ということだろう。しかし、ベストセラーカーであるはずのセレナではなく、トヨタ系の大型車が多い気がした。やはり中京圏におけるトヨタの支配力がなせり技だろうか。
この神社に来るまで通ってきた生活道路では、すれ違う車両の7−8割が軽自動車だった。個人ライフは軽自動車で十分ということだろう。神社巡りをすると、日本経済がわかるなどと威張るつもりはないが、商業統計などではわからない地域社会と「人の暮らし」が見えてくるものだ。

神社巡りをするときには、拝殿の屋根の形に気をつける。神社の建造物に詳しいわけではないが、いわゆる天照系大和王朝スタイルと大国主系出雲王朝スタイルは、屋根の形が違う。この系統違いの神様を感じるのが、一宮を見るときにはポイントになる。大和王朝が周辺国を征服する過程で、自分達の神を押し付けないで地元の神を残した地域と、自分達の神で覆い尽くした地域がある。歴史の暗い部分が、社殿の形で現在に残されているというのは、なかなか興味深い。
ちなみに、関東圏から見ると美濃は西国のように感じるが、京都の東になるので歴史的には東国扱いだろう。ちなみ尾張(名古屋)の熱田神宮は日本武尊の東征時に立ち寄ったのだから、やはり東国で間違い無いだろう。
東国は、古代日本において基本的に被征服国家群であるせいか、国神が残されていないところが多い。だから祭神の確認も屋根の形と同様に、神社を見る上でポイントが高いところだ。

美濃国の隣、尾張国には一宮が二つある。一つは「大神神社」で、こちらはすでにお参り済みだった。住宅地の真ん中にあり、ナビを使うと神社の裏側に連れて行かれるというひどい目にあった。(古いナビは神社仏閣の位置指定が本当に酷すぎる)こちらの神社も、ナビのいう通り目的地に到着してみたら(神社敷地内にあるのだろうが)、なんと結婚式場だった。車のナビなのだから、神社の駐車場を第一優先に設定してほしい。ブツブツ………
などと文句を言いながら、駐車場探しをして神社の周りをほぼ二周した。その結果わかったのが、この神社は大通りに面しているが、周りはびっしりと住宅に囲まれた都市立地ということだ。昔からの交通の要衝、町の象徴としての位置が長い間変わっていない。その割に門前町というか土産物屋が少ないなという気がしたが、どうもコロナの間で休業したままの店が多いようだ。
確かに、コロナの時期に神頼みで神社詣をする人は少なかったのだろうな、と理解はできる。が、ちょっと寂しい。

門前にすごい物が立っていた。鎮座2650年とは、これまた凄まじい歴史だ。歴史に詳しい人はわかるだろうが、古事記や日本書紀に書かれている「神道国家」大和王朝の系譜でいくと、ほぼほぼ王朝樹立の最初期に開かれた神社ということになる。熱田神宮も日本武尊の東征時代からあったのだから、尾張国にはとても古い時代からいくつも神社があったということだ。伊勢志摩も含めて、尾張は大和王朝勃興期に、少なくとも対立関係ではなく同盟関係にあったということだろう。だから神社が置かれた時期がとてつもなく古い、ということを意味している。あちこちの一ノ宮をおとずれたが、 これだけの歴史があるところは初めてだ。

確かに、尾張国は天照大神の本拠地である伊勢神宮に近い。また、大和王朝の初期本拠地であった奈良盆地にも近い。当然、歴史的に大和王朝最初期から関わっていたことも確かだろう。京都は平城京から遷都してほぼ1000年の歴史を持っているが、その前は田舎町だった(たまに現在の京都周辺に「みやこ」が移った時期もあるが)。
その田舎町京都が開かれる1000年以上前から、この周辺は栄えていたということになる。愛知県一宮の皆さんは、もっと鼻を高くして威張っていても良いのでは、などと不遜なことを考えていた。
京都の一ノ宮は、平安京遷都時にともない政治的に、元の都、平城京にある大寺院や大神社を排除したこともあり、意外とこじんまりしている。それと比べると、この神社は昔の威容を残しているのだろう。宗教と政治は、いつの時代も密な関係なのだな。