小売外食業の理論, 旅をする

もう一つのうまいものin金沢

金沢駅の正面に立つと、一際目立つ華麗な門に出会う。日本の駅で一番美しいと感ずる金沢駅の入り口だ。同じような観光都市であっても、新幹線を降り立った場所は実にがっかりすることが多い。その典型が京都駅で、南北どちらの入口も「らしさ」などかけらもない。
東京駅は、オフィスビルこそ首都の景観だと言い張れば、なんとなく説得ができそうだ。特に丸の内は、丸ビルなどの風景こそ首都のあり方であり、お江戸風情など全く昔語りのノスタルジーと切り捨てている。そう思えば良いことだ。改装後の東京駅丸の内側は、その首都のあり方を伝えている「名所」だろう。たった150年前の建物すら保存しようとしない、近代日本の潔さだ。
逆に中途半端なのが、新大阪や新横浜、新神戸などの「新」がつく駅で、これはいわばどうでも良い駅の象徴だ。昭和中期の文化とは、こういうものだったという反面教師なのかもしれない。東北新幹線の駅は、どこの駅も同じ見栄えだし、九州新幹線では駅舎が街から浮いている気がする。
だから、やはり、金沢駅はすごい。

そのすごい(と想う)駅の近くにあるホテルで会食をする機会があった。レストランの入り口には、ドーンと大皿が飾られている。この皿には実用的価値はない(と思う)。美術品として作られたものだ、この皿の上に料理を乗せたりしないはずだと思うのだが………
それにしても、この状態をなんといえば良いのだろうか、言葉を選ぶのに困る。皿を陳列している、では正しい意味にはならない。飾るというのとも違う気がする。訪れた客に美しいものをお見せする、ということだろう。押し付けがましさはない。美しいものは、隠してしまうのではなく、見せるものだという意識だろうか。
やはり、古都というものが作り出す文化は、たかが100年程度では仕上がらないということがわかる。お江戸でも江戸文化が完成するまで200年余りかかった。そのお江戸を継承していない文化強奪都市「東京」は、強奪後150年経ったいまでも古都を名乗る貫禄はない。

ビルの中隔に庭園を作ろうとする試みは、文化強奪都市東京でも見かけることはある。ただ、規模で見ると箱庭程度の貧相さだ。京都の町家改造レストランで見かける小ぶりのものがよほど立派にみえるものだ。設計思想の根底に、あざとい経済効率が入り込むから東京の箱庭は貧しく見える。それなら盆栽でも並べておけば良いのにと思う「なんちゃって箱庭もどき」がほとんどだ。
この金沢のホテルでは、レストラン面積の1/3程度が空中庭園になっていた。席効率だの回転率だのという、レストラン経営の公式からすると、無駄の極みというしかない。その不経済な代物が平然と存在することが、古都の古都たる所以なのかと思いしらされる。

おいしく懐石料理をいただき、ゆったりとした時間を過ごした。おそらく、贅沢というものは、こういうことを言うのかと思う。レストラン、飲食店、外食産業、いろいろな言い方はあるが、食べ物を提供することを生業とする者にとって、味という無形のもの、雰囲気という無形のもの、過ごした時間の満足度合いという計量できないものをどうしつらえるのか。その一つの答えが、ここにあるなあとぼんやり感じていた。

味の嗜好は個人差がある。万人がうまいというものは無い。それでも、見た目や盛り付けや器で楽しませることができる。料理は舌で味わう前にも目で楽しむものだ、というのは人類にとって不変の事実だ(と勝手に思っている)。
それは日本料理だけのものでも無いので、日本料理文化礼賛論者とは一線を画しておきたい。なんでも日本が一番という文化的狂信者はどうにも好きになれない。
どこの国の料理にしても、器と料理のバランスこそが、美味しさの秘密であることは確かで、家庭料理とプロの料理の一番の差は味付けではなく「豊富な器」が可能にする美なのだと思う。

最後に出てきたいちごのシャーベットの器に一番驚かされた。シャーベットの出来栄えは素晴らしい。甘さ控えめなのが、和食の締めとして調和している。ただ、この華麗な皿が伝えてくるものが、金沢のご飯を「目で楽しんで」いただけましたか、と言うメッセージのような気がした。すごいな金沢。
金沢発のファストフードチェーンができれば、なんだか日本食文化の革新になりそうな気がしている今日この頃。金沢カレーが進化すると、何か革命的なことになりそうなのだけれど。

旅をする

金沢の知らなかった旨いもの

金沢駅で土産物を探していたら、目に飛び込んできた看板だが、思わず何度も読み返してしまった。「ブリのたたき」と書いてある。「タタキ」といえば、まず思い浮かべるのは「カツオ」であり、その高級品は藁で焼いている。焦げ目がびっしりついた鰹のたたきは大好物だ。
もう一つのたたきといえば、「アジのたたき」になる。これは刺身の変形番みたいなもので、火で炙っているわけではない。なぜ、この料理形態が叩きと言われるのかは分からないが、千葉あたりで食べる「アジのたたき」は極めてうまい。細かく包丁でたたいて(細切れにして)香味野菜と味噌で混ぜた「なめろう」もアジの食べ方としては絶賛するが、どちらにしてもアジは大ぶりに切りつけた刺身より細かく切った「たたき」の方がうまいような気がする。
という「常識的たたき感」をぶち壊す?鰤のたたきとは、一体なんだ。初めて聞いた言葉だ。写真を見る限り、鰹のタタキのように表面を炙っている感じがする。

ということで、ノコノコと土産物売り場に行って「鰤のたたき」を探してみた。簡単に見つかった。魚コーナーで山盛りになって売られていた。人気No.1らしい。値段を見ると、それなりにお高いものだが、金沢の鰤なのだから一級品だろう。

見た目は、鰹のタタキによく似ている。おそらく、製法は同じだろう。カツオより鰤の方が脂が乗っていそうなので、焦げ目もつきやすいかもしれない。味は、実食してみないと分からないが、やはりブリはぶりだよねという気がする。
おそらく西日本のブリ好き人種にとっては、北陸のブリが至高の「鰤」に思えるのではないか、と勝手な想像を巡らせてしまった。東国で鰤料理といえば、ブリ大根一択みたいなところがある。ブリ後進地帯という自覚もあるので、ブリのうまさなど語る資格もない。
から、やはり金沢観光の主格層は西日本からきているのだろうから、「ブリ」推しは効き目がありそうだ。

そんなことを考えながらスーパーの魚屋を覗いていたら、これまでみたことのない「ぶり大根」を発見した。ぶり大根寿しと書いてあるから、糀で漬け込んだ甘酸っぱい食べ物だと想像がつく。これの方が、北陸伝統食という気もする。金沢からもう少し北に行けば、鰤と鮭の食文化境界線になり、新潟にいくと、このブリ大根も「さけ大根」が主力に変わるだろう。

ぶり大根の隣には、これまた北陸定番である「鯖」がいた。個人的にはぶり大根よりサバ大根の方に惹かれる。やはり、日本海沿岸は発酵食文化圏なのだ。
北海道の飯寿司のルーツは、この北陸辺りにある「魚の麹漬け」なのだと改めて思った。しかし、ブリ、サバ、鮭、どれもうまそうだった。

食べ物レポート

自宅近くに開いたラーメン屋#1

このラーメン屋で初めて入った店は川越にあった。車旅の帰り道でなんとなく看板が目に入ったラーメン屋というだけだったのだが。予想外にうまいラーメンだったので、それから何度か通った。埼玉県内に何軒か支店があるので、自宅近くの店にも行ってみた。そのお気に入りになったラーメン店の支店が自宅近くの街道沿いに開店したのは、今年の夏頃だった。
たまに通る道に何か新しい店が建築中だったのは気がついていたのだが、看板が上がるまでなんの店なのか分からなかった。遠くから見て味噌ラーメンというのはわかったが、例の店だとわかるには店に近づいてみなければならない。通り過ぎるだけでは、なかなかわからなかった。いざ出来上がった店に行ってみると、コロナ対応なのか餃子の無人販売が設定されている。あれこれ考えるものだと感心した。

入り口から店内に入ると、ちょっと暗めの内装で、ラーメン屋というよりバーっぽい感じもする。オシャレ路線のラーメン屋にチャレンジしたかと思ったが、メニューはいつも通りの「ド」がつく「味噌ラーメン」だった。価格表記が税込みに変わったせいで、ちょっと値上げしたようにも見えたが、多分値段は変わっていない。
最近、外食では税込み表記にする店が増えている。おそらく、値上げのタイミングで「えいや!」と、わかりやすい税込み表記に変えているのだろう。流通・小売のインチキ価格表示(?)と比べると、明らかに外食は潔い。

普通の味噌ラーメンでも、ボリュームたっぷり

ガツンとくる味噌味がいつも通りだった。この店はトッピングアレンジで、何段階か異なるメニューがあるようにみえるが、基本は味噌と辛味噌ベースなので、その日の腹具合でトッピング量を変えれば良い。夏だろうが、冬だろうが、腹ペコの日に「ガシガシ」と熱い麺をかき込み、額に汗をかくというのがこの店での正しい食べ方だ。最近はメンマ追加の代わりに、野菜マシにすることも多い。体に気を使う歳になったとは言わないが、野菜がうまいと思うことも増えてきたからだ。次は海苔追加にしてみようか。
世の中に元気なラーメン屋が増えると人生は少しだけ楽しくなるのだ。と、満腹になってしみじみ思った。小市民的よろこびはここにある。

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若狭国 行けない城だった

この城も典型的な山城で、城跡にたどり着くのは難儀な登山になるようだ。城への登口には、誘導するようにノボリが立てられていた。ちょっと前であれば、このノボリに釣られてどんどん山の方に行ってしまったが、最近は「疑う」ことを覚えたので、このノボリは怪しいという危機察知ができるようになった。おそらく、探すべき場所はここではない。

駐車場に車を停め、なだらかに続く坂道を200mほど上がっていくと、そこに資料館らしきものが見えてきた。お決まりの城キャラ撮影ボードもあるので、ここが目的地らしい。危なかった。危うく山中彷徨をしてしまうところだった。しかし、駐車場には案内板を置いて欲しいものだなあ。

この建物は、元の奉行所を再現したものらしい。詳しいことが書いてある説明板はありがたい。特に、城周りの地勢を描いてある図が素晴らしい。これを見れば、城跡に行くのがどれだけ難儀かよくわかる。

気分的には城周りの柵を模したようなディスプレイがあった。確かに戦国期の城はこんな感じだったのだろう。城壁が石垣とは限らない。泥で作った土壁でも、粘土で固めて上から水をかけ泥状にされたら、城攻めで登ることも容易ではない。下手をすれば滑り落ちて味方を巻き添いにするコメディー詠歌のワンシーンみたいなことになる。昔々に見たドリフターズのコントや、風雲たけし城そのままの後継だろう。
確かに、山城周りは木も切り倒されツルツル斜面になっていたはずで、この場所は史実に基づいた再現ではないかと興奮したのがだ、どうもその手の説明書きが見当たらない。ひょっとすると山の斜面を造成するときに無造作に放置された跡かもしれないなと気がついた。うーん、正解はどちらだろう。
やはり城周りは気がなかったと思いたいのだが。そして山城が放置されて百年も経つと生えてきた木々に埋め尽くされているというのが、今の城跡ではないのだろうか。この辺を某国営放送で解説してくれないものだろうか。

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八幡山城は恋人の聖地だった

琵琶湖東岸に散在する百名城の中で、とびきり変わっているお城が八幡山城だ。織田から豊臣に政権が移った後に築城された。それもとびぬけて高い山の上で、似たような城は織田氏の岐阜城だろうか。岐阜の郡上八幡城も似たような山上の城だった。
城に上がるには、登山道を登るかロープウェーを使うかだが、そもそも歩きで山登りは選択肢にない。ロープウェーの乗り場手前には八幡宮がある。それなりに由緒正しい場所なのだ。

平地からぽこりと立ち上がっている山なので、ロープウェーで登っていく時に琵琶湖東岸の平地が見渡せる。ここが商人の街、近江八幡だった。地面を車で走っていても分かりにくいが、山の上から見渡すと琵琶湖東岸地域の地政学的な意味がよくわかる。
普段はマップを見ているだけだが、グーグルアースを使って鳥の目視点になると、地形と地政がよくわかる。それが自分の目で「リアル」に見えてくるのは、なかなか感動の体験だった。

何枚か写真を撮っていたのだが、この写真の右側にあるのが安土山周辺部で防衛拠点として眺めると、なるほどなあという気分になる。

ロープウェー山頂は散歩コースになっている。登ってくる時に見た琵琶湖東岸とは反対側に回って行けば、眼下に琵琶湖が一望できる。確かに、これは城巡りとは別格な「普通の観光地」だった。秋には紅葉が楽しめるそうだ。しかし、羽柴政権になり、戦国時代が終わりかかっている時に、こんな山の上に城を立てる意味があったのだろうかという、ささやかな疑問が浮かんでくる。

石垣の石は小ぶりなものが多いが、この山の上まで運んだのだから、大きな石を使えるはずもない。微妙に形が平たいものに偏っているが、これも運搬の都合上だったのだろうか。今の時代に同じものを作ろうとしたら、石の運搬だけで専用道路を作ったりするはずで、10億円単位で金がかかるの建造物になるだろう。などと山頂の石垣を見て思ったことだ。

その石垣の隣のコンクリート製ロープウェー駅が、なんだか不思議なものに見えてくる。そういえば、この駅を建てる時に資材はどうやって運び込んだのだろう。昔の漫才ネタ、地下鉄車両はどこから入れるかみたいな話だなと、セルフツッコミしてしまった。

山頂駅からちょっと登ったところに展望台がある。その展望台に、あまりに秀逸というか「すごい」ことが書いてあった。幸せひろがれプロジェクトは良いと思う。綺麗な景色を見れば、誰でもそれなりに良い気分になる。しかしだ、なぜ恋人の聖地? という疑問が沸々と……………
まあ、日本全国に恋人の聖地を名乗るところはたくさんある。鐘を鳴らしたり、鍵をつけたり、愛の誓いのやり方も色々だ。
だから、琵琶湖の西に沈む夕日を見て、愛を語るというのも、多分「あり」なのだろう。しかし、ベタすぎる場所という気もするのは、こちらが歳を取りすぎたせいに違いない。

恋人の聖地についてあれこれ考えた後、あたりをぐるっと歩き石垣をみると、やはり恋人の聖地というより戦国武者の夢の跡という気がしてきた。恋人たちも、殿様も高いところがお好きなようだ。

この石垣を作った人たち、石を運んだ人たちにとって、この山は愛しい人を想うよりも、石の重さに辟易したのではと、ちょっと意地悪く考えた。愛の形も時代で変わるのだね。

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琵琶湖北岸 辿り着けない名城

琵琶湖周辺は戦国時代の合戦頻発地なので、攻防に合わせての名城が多い。が、当然ながら紛争地、係争地の最前線でもあり、「城」の重点は居住地、行政府というより防衛拠点だった。となると築城される場所は守りやすい場所であり、自然障壁を活かせる場所になる。
湖や川を使って天然の水堀にする場合もあるが、一番多いのは山の斜面を利用した山城だ。そして、一戦ごとに使い捨てる野戦築城というインスタントな城も多くあるくらいなので、名城扱いされている城でも、今は自然に帰っているというか、見放されて荒れ放題となっている場所も多い。
柴田・羽柴決戦の地で有名な「賤ヶ岳」だが、そんな重要な決戦場が山の上にあるとは思ってもいなかった。賤ヶ岳という地名で平地の決戦だと思い込んでいた。琵琶湖の北岸にある小高い山が賤ヶ岳で、決戦は山岳戦だったのだ。まったく知らんかった。

しかし、柴田勝家はなぜ自分の本拠地近くに羽柴軍を引き摺り出して戦おうとしなかったのだろうか。北陸は柴田領のようなものだし、信州から関東にかけては滝沢が逃げ出した後、徳川が暗躍していた。羽柴軍が掌握できていたのは、織田本拠地と言える尾張、美濃、伊勢を除いた畿内と備前、備中。そして明智の旧領である丹波くらいだ。最大勢力とはいえ、信長の遺児を中心とした反羽柴連合が組まれれば、相当に苦戦したはずだし、毛利が反羽柴連合に加わる可能性は大きい。柴田は織田家家老筆頭だったはずだから、人心を纏める器量くらいあっただろうに。
決戦場として、賤ヶ岳は秀吉の根拠地長浜に近すぎる。自他の兵站線を考えても、決戦場としては不利だ。北近江を抑えたとして、琵琶湖西岸は反逆者明智氏の本拠地であり、美濃は横死した織田信忠の根拠地でもあるから、織田氏後継者を目指すのであれば、まだまだ地続きで制圧しなければならない土地は多い。大戦略的には伊勢、尾張、三河あたりの勢力と連合して羽柴軍に当たると考えるものだろうに。
織田信長の使えない次男三男を担いて、合議制諸家連合政権にする。その時、一番目立つ羽柴は、毛利と組んで日干しにするみたいな長期戦略を立てればよかったのになあ。
賤ヶ岳の戦いは攻城戦ではないので、あたりに城もないかといえば、準備のために作った城がある。ただ、そこは旧北陸道沿いでいくのも大変な場所だから、この余呉湖にスタンプがあるといいうわけだった。

その賤ヶ岳から20kmほど南下したあたりが秀吉の本拠地があった長浜になる。ただ、長浜は浅井氏の居城であった小谷城から程近い湖岸にある人工都市だ。浅井氏滅亡後、北近江支配の拠点として作られた。信長存命であれば、琵琶湖沿岸近くで起こる紛争時の、戦略予備として明智、羽柴を配置したはずだ。朝倉亡き後の北陸侵攻軍後詰めとしての意味合いは薄いだろうし、そもそも羽柴軍は全力で西国調略を行っていた。だから、長浜は軍都としての性格は薄い。

小谷城も山の上に造られた山岳要塞みたいなものだが、いくつかの峰をつなぐ立体要塞で、おまけにそこに城主が居住していた。当然ながら、防衛拠点としては重厚になる。自分が住むところを攻められて簡単に諦めるわけにはいかないだろう。実査に、小谷城攻めは随分と難航した。最後は物量戦で押し切られるが、織田に反抗した諸将の中では、大健闘した部類に入る。

今では登山すると城跡が見られる。この日も登城ならぬ登山客が何組もいた。やはり山上にスタンプを置くと、百名城屈指の難関スタンプ置き場になることは間違いない。麓にある記念館に置かれていた。。
そこには土産物も売っている、なんとも有難い場所だ。しかし、この小谷城址の穴あき撮影板は、なんとも言い難い。小学生の修学旅行にでも使われているのだろうか。それとも最近増えた城巡り女子への対応だろうか。小谷城もたどり着くのが難しいお城だった

近江地域のたどり着くのが難しい城三つ目は鎌刃城だ。米原から車で20分程度の山の中にある。旧中山道の宿場だったらしいところに、スタンプは置かれている。地域のボランティアらしき団体が、あれこれの管理をしているようだが、建物の中には人の気配がない。週末だけ開館するのかもしれない。お城は、この町からほど近い山の上にあるらしいが、行き方がなかなか面倒だ。この手の場所はナビが信頼できない。ナビ城では通行可能な道になっているところが、ガードレールもない崖沿いの獣道的道路であることは度々経験している。
城巡り、神社仏閣巡りをしていると、そんな無駄な経験値だけは積み上がっていく。この歳になって危機察知能力が磨かれるのは、良いことなのか甚だ疑問ではあるのだが。

というわけで、近江地区はお城の近くに行って雰囲気を味わうだけのダメな「城巡り」になってしまった。次は、登山の覚悟と装備を固めてやってくることにするか、と思ったが、次の機会はないような気がする。

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国境で越前手前の蕎麦

普通に美味しい山菜そば 乗っている山菜は東西同じもののようだ

柴田・羽柴の織田氏後継者争い決戦の場、賤ヶ岳のそばに余呉湖という小さな湖がある。某国営放送のぶらぶら地域を歩き回る番組であれば、「おお。この湖は噴火で琵琶湖から切り離されたカルデラ湖で………」などと言われそうな地形だった。(本当にカルデラ湖かどうかはわからない)
ワカサギ釣りでにぎやかになるところらしく、天女の羽衣伝説もあるようだ。その湖水のほとりに観光施設があり、いわゆるビジターセンターになっている。そこが名城スタンプの設置場所で、こんな機会でなければ一生訪れることもないような観光地だった。確かに名城スタンプの設置場所は、城のそばにはないことも多い。山城の跡のようなところは駐車場もなく歩いて登山するしかない。その登山客の休憩場所、トイレ脇にスタンプが置かれていることもある。
そういうハードなスタンプ場所に行くことは、城に対する地形的理解が深まり、肉体的鍛錬もできるというメリットは「ある」。が、決して望んでそんなことをしたいわけでもない。だからスタンプ設置場所が、それなりの施設(平地)であるとホッとする。歴史博物館やお城資料館のような展示施設に置かれている場合は、できるだけ時間をとって観覧するようにしている。
しかし、中には鳥の巣箱みたいな箱の中に、扉を開けるとスタンプがぽつんと置かれていることもあるので、そんな時は弁当持参でピクニックに行くくらいの気概が必要だ。ここは、土産もの販売所と食堂が併設されている「立派な施設」だった。食堂からは湖の景色も楽しめる。
この湖は越前と近江の国境にあたるが、所属は近江だ。現在は滋賀県長浜市になる。つまり、あの有名な越前そばの場所ではない。だが、気分的にはほぼ越前だし、「うどん」の場所ではないだろうと、山菜そばを注文した。関東の醤油で真っ黒と形容される色濃い蕎麦つゆではなく、透明感のある淡い色の蕎麦つゆは、やはり西国に来たのだなという感じがする。

メニューをみてあれこれ思ったが、まず値段の安さが目立つ。場所が場所だけに、観光地値段でも良さそうなものだが、どうも一般的な食堂と比べて2ー3割安い感じがする。おまけに、注文が入ってから調理する普通の食堂スタイルだった。
メニューの中で興味を引いたのが「おかんのカレー」で、味はなんとなく想像できる。それもどろっとした黄色っぽいカレーではないだろうか。そして150円足すとカツカレーになるのか。そばに追加して「カツそば」を注文したくなる。
興味深いのは、わざわざ『白ごはん』と書いてあることで、ライスではない。白がつくということは、味付きのご飯もあるのかと思うが、それはないみたいだ。
きつねうどん・そばはあるが、たぬきうどん・そばはない。カレーうどんと肉うどんはうどん限定らしい。親子丼、牛丼はあるが、カツ丼はない。しかし、かつ定食はある。
文句をつけるつもりは全くない。おそらく東西食文化の違いが、このメニューに綺麗に現れているなと思っただけだ。
久しぶりにきちんと昼飯を食べたような気がする。美味しい蕎麦をごちそうさまでした、と食堂のおばちゃんに言って店を出た。背中で聞いたのは、お江戸とは違うイントネーションでの「ありがとうございます」の言葉。遠いところに旅して来たのだなという、小さな感動だった。越前そばは、その後にしっかりと食べました。

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越前国 一ノ宮

越前国一ノ宮は大きな神社だった。敦賀は古代から日本海沿岸航路の要衝であり、京都から北陸道を目指すとき、陸路では最初の入り口にあたる。海路と陸路との結節点でもあった。瀬戸内海航路が古代日本のメインルートだとしたら、日本海ルートは最大のサブルートであり、日本海沿岸諸国こそが大和朝に対する最大脅威だったはずだ。北陸統治は初期大和朝廷にとって重要な戦略課題だったと言える。
その北陸統治の出先機関が敦賀に置かれていたのだから、一ノ宮は大和本国式神社でそれも大きなものでなければならなかった。その名残は鳥居前に置かれた官幣大社と記された柱でわかる。ただ、官幣大社の称号は大和朝廷のものではない。明治初期に制定された国家神道における階層付の名残だ。古代大和朝で統治機構の一部として活躍した大神社は、延喜式による神社一覧に設定されているが、官幣社とはあまり関わりがないようだ。
しかし、「官幣大社」に認定された神社は、古代から日本海沿岸地域の最重要拠点であったことに違いはない。

祭神の系譜を読めば、気比大神が地元の神、つまり日本海沿岸国家の伝承神であり、非征服国家の主神であったようだ。そして大和朝の統治が進むにつれ大和系神族が合祀されていく。古代日本の征服と統治と融和の歴史がよく見える。
地域の主神が、その他大勢の神になっていくのは何世代にもわたる統治と順地が必要だっただろう。大国出雲ではそれに逆らい続けていたから、出雲大社の独特さが残せたのではないかと思っている。まあ、それも明治政府による国家統制された神道という強化策で、日本の「地の神」は大和系神族の一味にされてしまったという感が強い。
江戸期以降、宗教の統制が緩んでいた時期が長かったせいか、明治政府時代の狂信的とも言える国家宗教がかなり異質に見える。その後、敗戦で国家神道が全否定されたこともあり、今の日本では「歴史」と「宗教」を捉え直すことすら行われていない。
大多数の一般人にとって、神道とは結婚式の時と七五三のお祝いに使われる伝統イベント主催者程度の認識しかないだろう。信ずる神の違いで弾圧されたり、非国民扱いされたりする暴虐の時代よりよほどマシだとは思うが。
よく世間の話題に上る「閣僚の靖国神社参拝」についても、隣国からのクレームがなければ、誰も関心を持たないだろう。まさに信教の自由だし、個人の信念の自由だ。隣国の宗教問題に口を出すのは、古代から中世にかけて起こった歴史的事件でしかない。
現代世界で問題なのは、隣の国がどの神を信じているかではなく、どんな兵器を持っていて自国の脅威になるかでしかない。ただ、それを「宗教」と絡ませようとする国があり、問題をややこしくさせている。
というように、神社の縁起を読むと、国際関係まで考える羽目になるのだが、現代日本人的にはもう少し軽い態度でお参りしても、神様は怒りはしないだろうと思う。

拝殿も立派だった。やはり、一宮はこれくらいの大きさであってほしい、というのは個人的な勝手な思いだが、どこの一ノ宮も歴史が長いだけにやはり地域の方に尊崇されている。
まあ、神社も見た目が大事なのは今にはじまることではない。神代の昔から、大きくて広い神社ほど大切にされていたのだ。屋根の形を見ると、どうやら日本海沿岸方式とはちょっと異なるので、ヤマトと越の両タイプがミックスされた融合型なのだろう。

ここにお参りした時期は、日本全国の神様が出雲出張されているはずで、お参りしても神様は不在かなとは思ったが、出雲は越前、若狭から案外近いので日帰出張している可能性もありそうだ。とすると、やはり真面目にお参りしなければな、などと馬鹿なことを考えていた。

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安土城を学びましょう 

JR安土駅のそばに「安土城城郭資料館」という立派なものがある。駅の出口を出るとすぐ脇にあるので、この手の博物館としては珍しいとても便利な場所だ。織田信長というよりも「安土城」に焦点を絞り切り、小ぶりながらキレの良い歴史博物館だと思う。
どうも地方にある歴史博物館は、そこに地域の歴史的遺物をなんでも押し込めてしまう傾向があり、整理が悪いというか何が言いたいのかわからないものが多い。夾雑物の多さを史料の豊富さと勘違いする「学芸員」が多いからなのかもしれない。あるいは、歴史的センスのない、派遣されてきた腰掛け管理職の横車という可能性もある。
個人的に思うことだが、その混乱が少ないほど、観覧者は理解がしやすい。その点、この資料館は実に素晴らしい。「安土城」一択だからだ。

安土城の再現モデルを見ると、なるほどこんな城だったのかと、感覚的に分かりやすい。ただ、こんなに真っ黒な城だったのだろうかという疑問も残る。たしか、安土城はかなりきらびやかな外観、内装だったと読んだ記憶があるのだが。真っ黒がルックスとして良いとされたのは、江戸期に入ってからではなかったか。
この黒塗りの壁と瓦では、山の中に溶け込んでしまうだろうと疑問が湧く。開城時には信長自身が入り口で入場料を取って領民に見学させたという、賑やかさというか晴れやかさはどこに行ったのだろう。

この安土城再現モデルが実に素晴らしいのは、係員の操作で二分割され(モーターで動く)内部が見えることだ。驚くことに、エレベーターまであったらしい。信長はこの屋上階付近に居住していたというから、階段では恐れ多いということだったのか。エレベーターの動力は、当然ながら人力だったのだろうなあ。
しかし、追い詰められたとはいえ、自分の親父が建てた立派な城を焼いてしまうのだから、信長の息子はやはり後継者にはなれない凡庸な二代目未満だったのだ。(二代目は信長と一緒に京都で敗死した)

地味に素晴らしい資料が、この安土城周辺のジオラマモデルで、当時の琵琶湖湖岸線を含めた、地政学的要素が一目でわかる。左が安土城なのだが、ここを攻めてこようとすると、右側の山上にある観音寺城から腹背を取られる。琵琶湖を船で渡って安土山西岸や北岸に取り付いても、それは敵前上陸作戦になり、当時最強の砲師団を持っていた織田軍に山上から撃ち降ろされるので、現実的には攻略が難しいだろう。そもそも琵琶湖周辺は織田領なのでどうやって大量に兵団輸送をする船を調達するか(造船するか)を考えれば、全く実行が無理な作戦になる。
普通に考えれば、当時の日本で最大級の防衛拠点だったはずだ。琵琶湖水運を使った用兵基地として使われていただろうし、織田信長直営の常時軍もいたはずだし、この安土城から信長を引き出さない限り、彼の治世は終わるはずがなかったのだが。そういう意味で、安土城から引き摺り出した明智光秀は反乱軍として賢かった。

入り口には信長愛用の南蛮具足が置かれている。これは、もう少しなんとかならないだろうか。せめて人型マネキンに着せるとかできないものか。そこがちょっと惜しい気がするが、ここは「織田信長資料館」ではなく、「安土城資料館」なのだ。だから、信長すら添え物というのであれば、それはまた正しい姿勢かもしれない。

初めて訪れた安土は、こじんまりとした地方都市だった。今では彦根や近江八幡のベッドタウン的位置付けにあるのだろうか。城巡りをするといつも思うことだが、お城とは戦国時代にはじけたウタカタの夢、その跡というのに一番ふさわしい場所だ。

駅前から安土城まで歩くと2-30分かかるようだが、次に来る時は戦国足軽の気分で歩いていくことにしよう。せんご

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安土城 首都だったはずの場所

安土城跡に初めて来た。織田信長好きとして一度は訪れてみるべき場所だとは思っていたが、やはり順番というものはある。信長の拠点が変遷した順番に、小牧城、岐阜城、安土城と信長のライフラインに沿って訪れるべきだろうという、変なこだわりだ。ちなみに清洲城は例外として残してある。

安土山に沿って地形を生かした作りの安土城は、城の入り口に手下武将の住居を配置し、強固な防衛線を構築していた。安土山の麓からみれば、重厚な縦深陣地そのものだ。その武将の家(実質上の防衛砦)の手前が琵琶湖に面する平地になっている。今ではすっかり田圃と畑になっているが、当時は琵琶湖の湖岸線となっていた。要するに巨大な天然の水堀のようなものだ。現代の地形から考えると誤解してしまうが、安土城は巨大な要塞という側面が強い。まさに、天下布武の象徴だろう。水際防衛が可能な交易と用兵の一大拠点だった。それも莫大な資金がなければ築城できない戦略立地だったはずだ。
安土山の隣にある山にも、織田氏後継者である信忠の城があり、親子二人で巨大山城群を押さえていたのだから、戦国期最大の防衛拠点だったはずだ。これに匹敵するのは、城内に門徒を居住者としてを抱え込んだ「石山本願寺」城砦群くらいだ。
全国に割拠する戦国大名勝ち組は、近隣諸国を攻めるのに忙しく、金も足りなかったのか、居城を大要塞化できたものは少ない。北条氏の小田原城は、関東一円の支配が叶ったからこそできた。武田も上杉も本拠地は意外と簡素な城しかない。
大きな城を作るには金がかかる。城作りは金持ち大名の道楽と言っても間違いない。周りの国とドンパチやっている最中は、兵士を雇い弾薬をそろえる方に資金が回る。
安土城を作った信長ですら、城造りに回す金は足りなかったようだ。安土転居前の岐阜城は、山の上にある優秀な防衛目的の城だったが、その規模は驚くほど小さい。小牧城は砦程度の小規模なものだった。やはり成り上がり・出世すごろく的に、成功すると城が大きくなる。
巨城といえば、徳川期に作られた徳川製大阪城、名古屋城、江戸城が挙げられる。この徳川城砦群を見慣れていると「城の規模感覚」がおかしくなる。戦国期の最終勝者だからできた大盤振る舞いだ。それも、金のかかる基礎工事は全て支配下に入った元・敵将に貢がせた物で、自分の懐は傷まず、相手の懐は大打撃という一石二鳥の大技だ。
そんなこともあり、現存する戦国期の城・城跡は意外と小ぶりだ。その中で安土城は飛び抜けて大きい。

この安土城の周りが、織田日本の首都になるはずだった場所だ。どうも信長は京都を都とするつもりはなかったようで、東西の要衝という点と琵琶湖水運を活用した軍事拠点として、安土城が織田日本の首府になるはずだったと思う。
その後、西国討伐が長引けば大阪城(石山本願寺跡地)に臨時首都が移る可能性もあったが、それもあくまで戦時限定拠点だっただろう。すでに瀬戸内海運を抑えるべく「堺」は調達済みだった。西日本を抑える拠点として、播磨(平清盛が福原に本拠を構えたように)に新首府を移したかもしれないが、その頃には信長も流石に寿命が残り少ないはずで。そうなったとしても、織田家本拠地はこの安土に残っただろう。

現在は門で閉じられた入り口だが、当時は安土城大手門までまっすぐ伸びていたらしい。最もすぐ手前が琵琶湖になっているのだから、安土城を攻めようとしても敵前上陸しなければ攻略のしようがない。陸路で攻めるには、信忠の抑える城の真下を通る必要がある。織田信長近衛軍は常備兵員数も十分で、最新兵器の鉄砲も武田を滅ぼした後は、溢れていたはずだ。おまけに安土山の裏側には織田軍専用軍港も持っていたのだから兵站を遮るのも難しい。この城を守りきれなかった信長の息子は本当にグズだったのか、手下がお馬鹿すぎたのかといいたくなる。

案内板がやたらと詳しいのは良いことだが、これを読んで理解するのは相当な「戦国知識」が必要で、その辺りは観光施設として見た場合、どんなものだろうかという気もする。

滋賀県と岐阜県で信長ゆかりの地の張り合い合戦みたいなものがあるのかという感じもしているが、愛知県はそれに参加していないようだ。尾張は城で持ついうが、名古屋城は家康直下の城だし、やはり江戸期は徳川に占有されていたためだろう。尾張が信長政権発祥の地とは今でも言いずらいのかもしれない。滋賀県でも有名な城は安土城ではなく彦根城だから、同じ県内でも「推し」武将が微妙にねじれているのかもしれない。岐阜県は信長推し一本で行けるところが強みだ。
彦根城が移る前の佐和山城は、石田三成の居城だったし、琵琶湖西岸の拠点であった坂本城は明智光秀の所領だった。琵琶湖周辺は、没落武将の消滅したお城がオンパレード状態で、その筆頭が安土城かもしれない。

JR「安土駅」にある安土城資料館では、お城の再現模型もあり、安土を学ぶには便利な場所だ。その話は別項で。