街を歩く

仕出し弁当で思うこと

仕出し弁当を最後に食べたのは、もう何年も前になる。経験的に言えば、簡便な会議食として出されることが多かった。ばらつきはあるが年間50食以上食べていた時もある。それくらいランチョンミーティングなる昼休み返上での滅私奉公を強制されていたということだ。そうなると、いつもの同じ弁当だと飽きてしまうので、3−4社の仕出し弁当屋をヘビーローテーションして使うことになる。
その中で不人気な店は消されていくもので、結局、一年も経てば絞り込んだ一社の定番弁当のようになってしまうのだが……。
会議食以外となるとぐっと機会は減って、簡便な法事とか身内の冠婚葬祭の準備の時に使ったくらいだろうか。コロナが流行っている間は、会議はリモート、冠婚葬祭は中止みたいなものだから、社会環境的にここ3年ほど仕出し弁当を食べる機会など無くなっていた。
おまけに遠出をすることもめっきり減っていたから、車移動での旅先、仕事先でコンビニ弁当を掻きこむこともなくなっていて、弁当自体ここしばらく食べた記憶がない。なので、久しぶりに弁当を食べる楽しみを思い出した。

コンビニ弁当と違い、中身の見えない容器に入っている仕出し弁当の最大の楽しみは蓋を開ける時にある。食べて美味い美味いと思うのは、楽しみの2割くらいで、8割は蓋を開けた時の「グワっ」と迫ってくる飯とおかずのビジュアルにあると思っている。
だから、色気のないおかず、例えば全面茶色の唐揚げ弁当みたいのが出現すると、明らかに魅力度が低下する。とんかつ弁当も同じで、うまさをビジュアルで損をする典型だろう。和食、特に幕内弁当的な、形も彩りもちまちまと多様化しているものが一番の好物なのは、そのビジュアルにある。
懐石弁当と言われるジャンルでは、大きめの弁当箱におかずとおかずの隙間を生かした統合ビジュアルを設計しているが、折詰的幕の内弁当はその隙間がなくコンパクト設計なので、おかず自体の彩りが重要だ。結果的に、卵の黄色、豆などの緑、にんじんやトマトの赤が多用されるきらいはある。漬物としてはあまり冴えない桜漬けやしば漬けが多く使われれのも、安価な彩色アイテムということだろう。
しかし、こまごまと小難しいことは考えている場合ではなかった。まだ熱が残る天ぷらを茶塩で食べる。卵焼きと鮭は濃いめの味付けなので、それを肴にあさり飯を掻きこむ。合いの手に煮物を楽しむ。特に、筍のしゃりしゃりとした食感がうれしい。
レンジアップしたコンビニ弁当では味わえない「食べる楽しみ」だった。今だったら、美味い弁当を食べるために、つまらん会議も我慢できそうな気がする。あれほど飽き飽きしていたはずの仕出し弁当も、すっかり「お楽しみ」にしてしまうアフターコロナな今日この頃ではありますねえ。

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