書評・映像評

書評のような……滅亡後の世界

この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた (河出書房新社) 

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滅亡後の世界を描いた書物はたくさんある。SFやコミックではお手のものの世界設定だろう。核戦争で滅びた、感染症化拡大で滅びた、巨大隕石の衝突で滅びた、宇宙人に侵略されたなどなど滅びのパターンはたくさんある。ただ、物語としては滅亡の原因が主テーマではなく、滅びた後で起こる人類文明、社会の変化を語るものがほとんどだ。
有名なところでは、映画「マッドマックス」コミック「北斗の拳」などが大戦争後気象条件まで変わった荒涼たる世界で、暴力が問題解決の全てになった社会を描く。それも、力無きものを救う救世主伝説としてのヒーロ物語だ。大体が平和と愛の復活と未来の希望を語る。

ところが、この本では滅びた世界の話はほとんど語られない。政治社会的考察も皆無に等しい。ただ、文明社会が崩壊した後、人々は一度は文明を後退させながら、必ず文明復興の動きが起きるという想定をしている。その文明復興の手順とそれに必要な最低限の知識、要素を語るのが本書の目的だ。だから、滅亡後の世界が世紀末覇者の君臨する世界であるかどうかは考察の対象外だ。
ただ、略奪者から守りを固める自衛共同体が母体となり、文明再建集団が生まれるという想定のようだ。確かに、生産をせず略奪するものばかりが蔓延れば、人類は紀元前一万年くらいの採取生活のレベルまで退行するだろう。それはもはや文明と言えない。破滅要因は自然環境にも影響を及ぼすだろうから(例えば核の冬)、1万年前よりも生存条件は悪いはずだ。略奪社会では人類生存すら危うい。だから、防衛コロニーこそが文明を守る、文明を再興する最低単位となる。
その最低単位が、現在21世紀社会で享受している文明の利器や恩恵を、どこまで失いどこまで食い止めるかが本書のスタート地点になっている。そして、そこから比較的短時間で文明を再興する手順を考えている。

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退行しながら踏みとどまる文明レベルとして、12−13世紀ヨーロッパの農耕社会を想定しているようだ。そこのレベルより下になると、途端に再興する難度が上がるということらしい。確かに西欧社会は、西ローマ帝国滅亡後、ルネサンス期の文明復興が始まるまで、5世紀以上も文明レベルがどん底にまで落ち込んだ。
ローマ時代の文明レベルが比較的保たれていた東ローマ帝国でも、イスラムとの争いの中、急速に文明維持機能を失っていった。その歴史的な喪失感というか、文明的トラウマが西欧社会にはあるのだろう。実際にはヨーロッパが文明レベルとして低迷していた時期、東アジアの大国、そしてイスラムの各王朝ではローマ時代に匹敵する文明が維持されていた。その辺りも、さりげなく触れられてはいるが、文明再開の手法はあくまで西欧社会の進化をモデルにしている。どうにもそこが物足りない気がする。西欧資本主義、科学主義社会の再現がテーマなので仕方がないと諦めるしかない。ただ、そのモデルの先には、やはり核を含む大戦による滅亡が待ち構えているだけなのではと思うのだ。社会的考察なしで文明再建論をすることの危うさかもしれない。
そして、文明再興の目標レベルは20世紀初頭あたり、工業文明が蒸気機関から内燃機関に変わり、初期の電気インフラが出来上がる程度を目標にしている。真空管による初期段階の通信・情報関連技術までも目指している。けして、スマホと電気自動車の世界に戻れるわけではない。
世紀末マニアには文明再建マニュアルとして、楽しく読めるはずだ。

個人的な話だが、進学時に理系を選んだのは、まさしくこの話に出てくるような「文明破壊」が起きた後の社会で、荒野のロビンソン・クルーソーとしてどう生きていくかを、真面目に考えていたからだ。
ただ、その時には世紀末覇者が発生しないという前提で(極めてご都合主義的設定だ)、一人で孤独に生きているという馬鹿馬鹿しい話でもあった。まさに中二病的な思い込みでしかない。なぜ、このようなことを考えていたのかは思い出せないが、小学校低学年からずっと思い込んでいた「滅びの文明観」なので、中二病というより小二病といった方が良い。ただ、その小二病への対応が人生進路に深く影響してしまった。三子の魂百までも……ではないが、小二の魂がジジイになるまで付き纏ったのは確かだろう。まあ、結局のところ文明は滅びず、その前に自分が滅びる年齢まで生き延びてしまったのだから、笑うしかない幻想だった。
しかし、この本を学生時代に読んでいたら、もっと真面目に滅亡後の世界に取り組んだような気がする。日本にはほとんどいないであろう「プレッパーズ」、社会が滅びることを前提に、核シェルターなどの生存設備を自分で作り備える人たちの一員になっていたのではないかとも思う。滅亡SF好きなら必読。良書で、おすすめの一冊だが読むのには手こずること間違いない。

この本のリンク先はこちら→  https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309464800/

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読書の質は量で決まるか Yes!

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小学生の頃から本を読むのが好きだった。今のように多様な趣味、暇つぶしの道具がなかったこともある。本を読むことしかなかったというのが正解だろうか。現代の暇つぶしはテレビやDVDで映像を楽しむのはもはや少数派で、youtubeなどの配信系映像やゲーム、それもオンラインで楽しむことが主流だろう。暇つぶしにやることが多すぎて、時間配分が生活の最大課題になってしまった。自分ですら、ニュースなどをサイトで巡回し、溜まった録画をみながら、なお新刊に手を伸ばすなど24時間暇つぶしに関わらなければ無理だ。
もはや暇つぶしどころか、娯楽ではなく業務に近いものがある。だから、長年慣れ親しんだ娯楽・趣味である読書は著しい時間制限が必要になってしまった。学生の頃は、朝起きてからから寝るまで、ぶっ続けに12時間以上本が読めたものだが、今では1日1時間がせいいっぱいだ。

それでも5年ほど前に読書記録を残すアプリを見つけて、日記がわりに書き込んできたが、この2月末で1700冊になった。平均すると1日に約1冊読んだことになる。記録漏れもあるが、漫画・コミックであれば概ね1時間で一冊読めるので、こんなものだろう。昔は手が出なかった大長編 全80巻みたいな本を片っ端から読んで行ったせいもある。逆に活字本は読書速度が低速化し、1日一冊はもはや無理だ。それでも戦国時代の考証本とか世界史のウンチク本みたいなものは集中的に読んだりもする。脳細胞の劣化防止策として読書は有効だろうと信じて、年間500冊読破を目指したい。

ちなみに読書レビュー系のアプリは、出版社関連でいくつか出ているようなので、現代の希少種である本好きの方がいれば、使ってみると良いのでは。何年か経つと、なかなか面白い自伝風の読書記録が出来上がる。この年は、なぜこの本読んでいたのかとか色々な記憶が蘇る。映画を見て原作が読みたくなったとか、尊敬する先輩に勧められたのだったなあとか。

個人的には濫読することで読書力、つまり理解力と想像力は広がると思っている。少ない本を読んだだけで、世界の理解が増すのは一部の天才だけではないかと思うので、本日も濫読をしております。同時進行で読んでいる本は、英国植民地の奴隷と砂糖生産の話「砂糖の世界史」と大人向けコミックで悪徳警官を描く「クロコーチ」と下町ロケットの作者が描く政治家の話「民王」、それに翻訳本で「宇宙が始まる前にはなにがあったのか?」と「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」、翻訳SFで「ユナイテッド・ステーツ・オブ・ジャパン」。まさに濫読の極みでありますよ。

使用しているアプリは「読書メーター」で、角川系の代物です。ご参考まで。

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #1 SFの孫

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最近は大規模本屋がどんどん潰れてしまい、一時期、自宅のある町では大きな本屋が壊滅した。仕事先である恵比寿や通勤途上にある新宿などで大きな本屋を使えば良いので、仕方がないと諦めていたが、ようやく駅前再開発で地元に大きな本屋が開店した。専門書なども多少は置いてある。が、小説は少なく昔の本屋の面影はない。
それにもまして、自宅周りの本屋に行くと一番売り場が大きいのはコミックで、これが売り場の半分くらい。残りの1/3が雑誌で、文庫本をあわせても小説売り場の半分はラノベになっている。一般書籍では文庫本が少し頑張っているが、いわゆる単行本になると児童向け書籍の棚より小さい。
今や、エンタメとしての活字の主流はラノベで、コミックという画像付き物語と市場を分け合っているのが実情だ。当然ながらベストセラーも直木賞受賞作ではなく、アニメとコラボしたラノベ原作という時代だ。
そもそも全世代で活字を読むという習慣が減っているのは間違いないが、テレビの視聴がYouTubeに置き換えられているように、視聴する媒体が変わったということではない。
つまり「紙の本」が「電子ブック」に変わったのではなく、「本」=「活字」を読む人が純減しただけだ。そして、数少なくなった「活字読み愛好者」は、ジャンルとしてのラノベに集中しているということだろう。活字印刷物はすで死にゆくメディアになった。そして、ラノベが活字世界の最後の砦になっている。
一般的なジャンル小説としては、高齢な読書耽溺層が支える一部の時代小説が堅調なくらいで、推理小説の数少ない人気作家を除けば壊滅状態かなと思う。学生時代から個人的好みで読み続けるSFも、すでにマイナー分野のようだ。まともにSF本を売っているのは、新宿紀伊國屋本店くらいだと思う。他の大規模書店では、もはやSFも滅亡寸前と言って間違いない。生き残ったSF者は、わずかにAmazonに救いを求めるしかない。


「お話」の好みは時代によって変わっていくものだから仕方がないことだが、空想科学小説と言われていたジャンルがSFとなり社会的に認知されたのが1970年代だった。その時代のSFは映画化、アニメ化を含め映像化されたものが多い。そしてそのSFの直系後継者がラノベなのではないかなと思っている。
ラノベはSFが基本設定としていた「この世ではない別の世界」を舞台にお話を展開するというやり方を(意識してか無意識なのかは定かではないが)、ストレートに踏襲、引き継いでいる。ジャンル小説としては、ラノベはSFの孫みたいなものかなとも思う。ちなみにハードSFと言われる科学的設定をそれっぽく理論化しているジャンルは、ラノベでは出現していない。(知る限りでは、たぶん)
たまに、ラノベ作品でも異世界の設定を疑似科学的に説明することはあるが、そこが物語の本筋ではないからハードSFの子孫とは言えないだろう。そもそもハードSFは登場人物の会話がステロタイプで説明的という、笑いたくなる特徴がある。世界設定のお話が全て、という作品が多い。そこが面白みだから仕方がないのだが。
ラノベがSFの傍流というか下流という理由は、異世界(ファンタジー系)でモンスターが生存している、あるいは人と共存している世界が基礎設定として使われることが多いせいだろう。ただし、その世界は存在するだけで、世界の成り立ちの説明は曖昧であるか、ほとんど説明されない。世界の成り立ちの説明があるかどうかが、SFとファンタジーやラノベの差だと思っている。
あるいは次元スリップ、タイムスリップなどで、過去に飛ばされたり、並行世界(現代日本によく似ているが、なぜか怪獣が出現する)に転移したりという設定も多い。SF好きとしては、スターウォーズのような宇宙船と帝国と異星人とお姫様がごちゃまぜになって出てくる世界は実に楽しい。しかし、スターウォーズ第1作封切り時には、この映画の話をするときに、あれはSFではなく空想・ファンタジーの世界だよねという「おことわり」が必要だった。
当時は架空世界を精緻に構築していないとSFとして認めないような雰囲気があった。例えば超光速航行をワープの一言で済ませて、なんの説明もしないのはSFとして反則だろうという類の話だ。そんなSF世界の決まり事をあっさり無視したのがラノベの元祖たちだった。
今ではラノベの世界設定は、なんの説明も必要ない。それがあたり前な物語として認識されている。つまりSFっぽいお話ながら、科学ゴリゴリ解説が必要であれば(あるいは、そういう話を大量に放り込めば)ハードSFになる。それ以外のフワッとしたモンスターや超能力が当たり前の世界のお話はライトノベル、こんな分け方なのかもしれない。

そのラノベも第二世代に入っているようだ。ラノベを読んで育った読者が書き手になったということもある。第一世代のラノベは、それなりにSF的設定やSF的決まり事を尊重していた。ただ、その縛りがだいぶ緩くなったのがラノベ第一世代ということだ。
そして今では第二世代がジャンルのお約束を揶揄するような書き方をしている。例えば、主人公が「よく読んでいた異世界転生ものでは、必ずこんな話になるはずなのに・・・」とぼやく。これは楽屋落ちというしかない。つまり物語の中にメタ物語の構造が埋め込まれる。それを書き手も読み手も楽しむ。そして、いわゆる楽屋落を喜ぶほどラノベ愛好社会が膨らんだことを意味する。小説として確立された「ジャンル」ということだ。
衰亡するSFというジャンルを、軽く流しながら受け継いだラノベ業界で、それを広げる役割を果たす、「成長した第二世代」という感がする。今のラノベをSFの孫という意味はそこにある。

その楽屋落ちの典型パターンに、転世者物語(ラノベ)を愛読していた主人公が、なぜか異世界に転生してしまったというお話も数多くある。ジャンル小説を読み漁ったジャンル小説の書き手にとっては、その設定が当然すぎるだろう。その読者もジャンル小説愛好者と最初から想定されているので、くどくどとした設定解説がいらないのが特徴だ。
そのラノベ・第二世代書き手の中でも、SF的な残り香が強いお話として面白かったのが「村人ですが何か?」小説版だ。SF的なテイストは隠し味程度で文体は軽い調子の口語体だが、会話の量が他のラノベと比べても少ないのが目立つ。
個人的に面白いと思うラノベ作品の特徴として、「異世界構築の理屈」をどのように説明するかがある。この作品の独特な「世界の成り立ちと冒険者・勇者の戦う動機」は、まさにSF的な領分のお話なのだが、物語の焦点はそこではないところが、やはりラノベであってSFとは違うということだろう。個人的には主人公たちのあれこれ、ラブコメ的展開はほとんどどうでも良くて、背景事情と物語の整合性みたいのがやたらと気になってしまった。ラノベの楽しみ方としては邪道なのかもしれないが。最後の方では、世界を改編しようとする悪者を退治するというゴールデンパターンにはなるのだが、そこに行くまでの過程では世界を救うつもりなどかけらもなさそうな主人公の行動が「今風」ラノベではあるのだが。
王子様が龍を退治してお姫様と幸せに暮らしましたとさ、という展開では売れるお話にはならないのが、現代ラノベのお約束なのだ。

ラノベの話 続く

【以下はご参考まで】
アマゾンのリンクを貼っていますが、アフィリエイト宣伝などしていません。調べてみたいという方への参考程度です。ちなみに題名で検索するとコミック版の方が目立ちます。小説版は探すのに苦労するのが今の時代でしょう。最近は紙媒体である本より電子媒体であるkindleの方が人気のようです。

公式サイトは→  村人ですが何か  https://gcnovels.jp/villager/#

書評・映像評

イノセンス 甲殻機動隊異聞

DVD版 by amazon

気がつけば、もう20年近く前の作品なのだ。絵的な観点から見ればCGか普通に使われるようになった時代だった。自動車の移動シーンでは背景の絵柄との不具合というか、違いが目立つ。話の展開は少佐が電脳世界の中に溶け込み行方不明?になった後のバトーの暮らし、ということになるのか。いわゆるギミック的なSF設定もなく、登場人物も少ない。眈々とバトーの捜査ぶりを描くだけで、盛り上がりに欠けるといえば、確かにストーリーに膨らみはない。

押井監督らしいといえば当たっているのか、「抑えた物語」という点ではパトレーバーから、この後のスカイクローラーにつながる一連の押井作品は同じ色調だった。テレビ版の攻殻機動隊がガンシーン乱発のドンパチ・サスペンスだったのと比べれば、明らかにトーンを抑えた違う物語に仕上がっている。

この作品の後から、妙に屈折したキャラ造形が増え始めたような記憶がある。少年ジャンプ的な「努力と友情」で正義の戦いをするというお話はすっかり減っていったのではないか。機動戦士ガンダム・シリーズに出てくる一連の主人公キャラが全員屈折していた(屈折していった)少年だったが、それの大人版が、このバトーなのだと思う。本編攻殻機動隊では少佐の補佐役として、いい味出していたのが、この話ではすっかり陰鬱で下を向いているキャラに変わってしまったようだ。もとこロスなのだろう。

スピンアウトでキャラ変させるのは、押井作品のもう一つの特徴でもあると思うが、ここまで屈折させなくても良いのでは。択捉の工業地帯の描写はなかなか見所があるが、先の戦争で壊滅したはずの関東地区あたりで、もう一つの話を作ってくれないかと思っていたのだが。続編が出なかったのは興行的な問題よりも、押井監督の「次は実写」という作品へのこだわりだったのだろうと思う。できれば明るいバトーの話が見たかった・・・。絵をじっくり楽しみたい人には向いている抑えた大人のアニメーションだ。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0000APYMZ/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_XqqcEb2TDRXZS

書評・映像評

初めてのキングトーンズ

ラジオで聴いた曲をもう一度聴きたいと思っても、題名を聞き逃したらアウトだなとずっと思ってきたが、どうも最近は事情が違うらしい。

2年ほど前のラジオ番組のエアチェック(古いなあ)したものを聞いていたら、気になった曲があり、これをIPhoneでsiriに聞かせて曲名検索ができた。

あとはラジオ局のサイトで番組を検索すると、音楽を含めて記録が確認できる。そして分かった曲がキングトーンズの「夢の中で会えるでしょう」だった。ボーカルに聞き覚えがあるような気がしていたが、まさかこれほど古い曲だったとは。これはもう仕方がないとアマゾンでCD購入するまで、検索開始から5分もかかっていない。すごい時代だなあ。

キングトーンズの名曲といえば、グッドナイトベイビーしか知らなかったが、この人たちは本当にすごいボーカルグループだったのだといまさらながら感心した。ムード歌謡、演歌っぽい曲もあるが、本命はドゥアップ。秋の夜向きかもしれない。

書評・映像評

技術要塞戦艦大和 工程管理と標準化

仮想戦記ないでの思考実験

表紙 by amazon

仮想戦記というジャンルの小説がある。1980年代後半から一気にジャンル作品が増えたのは、バブル崩壊時代の「負けた意識」が、同じ負けた時代「第二次世界大戦」でのIFを、もしかした勝てたかもしれないという状況を望んだ読者が多かったということだったのではないか。読者のほとんどが戦争を知らない世代になっていたことも、書き手の制約が外れた要因だったのだろう。

その仮想戦記の中でも、それなりの理屈を立て大日本帝国の継戦能力を高めるという「リアル」派と、未来人が超決戦兵器を授けてくれました的「スーパー」派があった。今ではすっかりスーパー派はいなくなり、リアル派が最低限の歴史改変を行った結果はどうなったかという形での、思考実験が主流だ。その歴史改変を明治期の日露戦争で敗戦した結果として設定したのは故佐藤大輔の「レッドサン・ブラッククロス」だった。著者の主張は、そこまで時代を遡って日本の体制を変えないと日本は先の大戦で勝てない。それくらい戦争をするのに向いていない国だったということなのだが。

それと対照的なのが、この作家の歴史改変手法で、ガダルカナル戦は「もし兵站線の改善ができていれば負けなかった」とか、素材を含む技術体系を変えていれば零戦はもっと強くなっていたので「ミッドウェイ戦は・・・」と言った話を好んで作る。
要素的には継戦能力の改良のため「兵站の重視・確保」「標準化による量産性向上」や、生存性向上のため「レーダーの早期実用化」「陸海軍共同兵器開発」など史実的に起こらなかった、あるいは不十分だったことの改良とその波及効果という話になる。戦艦大和が出てきても、大和強いぞという話にはならず、砲弾の改良により大和の集弾能力を上げさせる。そのために何ができたかとかという話になるから、読む方としては延々と金属の性質と火薬の改良方法を学ぶことになる。それを飽きさせずに書くのが書き手の力量とも言えるが。

この技術要塞戦艦大和という題名をどう読み解くかといえば、国力(造船能力)に欠ける日本は、戦争時に建艦能力不足で負ける。戦線が拡大したときに前線に対する兵站問題(兵器や医療食料品)が解決できない。それも敗戦の原因となる。それらの諸問題をどう解決するべきかという海軍技術者のサラリーマン物語として仕上げている。
そもそも話の出だしからして笑わせられるのだが、大和の建造予算が足りないので、作る予定がない潜水艦を予算化し、その予算を流用して大和を作る企みが全てのきっかけだ。まるで今の日本政府のやり口のようだが、所詮政府のやることは、今も昔も変わらんのよという作者の意図が透けて見える。

そして戦争勃発により、予算が青天井化したため、作るはずのない潜水艦を作ることになる。もともと作る気がなかったので、革新的な、ある意味現実から随分かけ離れた設計思想が採用されていた。それがブロック工法と艦体設計の標準化、溶接による建造工程の簡素化なのだ。現代風に置き換えれば、ワンオフ製品を排除し、パーツやブロックの共有化を行い、過剰なカスタマイズも認めないというところか。

船体の共有化により潜水艦支援艦も空母も巡洋艦も貨物船も同じ設計図を使う。共有化した船体以外はそれぞれ用途に応じて「部品」をつけるというやり方で、戦艦建造に特殊技術が要らなくなる。ここでもう一つのIFが発動するのだが、現代の潜水艦と同様の「水中速力の向上」が盛り込まれる。この時代の潜水艦は、水中速度が極度に遅く「水に潜ることが可能な船」でしかなく、水中で戦闘機動ができる船ではなかった。そこをエンジンの改良というIFを持ち込み、高速水中機動戦ができる潜水艦を完成させた。
こうしてできた潜水艦は、試作オンリーのワンオフだったはずが大量生産され予想もしない戦力になる。

溶接できる高張力鋼がブロック工法には必要なのだが、その高張力鋼のおまけとして、輸送コンテナが発明され、そのコンテナの使用により兵站維持が楽になる。そもそもコンテナの運用が海軍主体ではなく陸軍主体になるというのが、作者の皮肉でもあるのだが。海軍はどんぱちにしか関心がなく、太平洋域の侵攻に巻き込まれた陸軍への補給について関心が薄いという、おバカな海軍という描き方だ。(事実、歴史でもそうだったし、現行の帝国海軍後継者である海上自衛隊もシーレーン確保能力はない。そこは米海軍任せだ。この話はリアルにすると相当きな臭い話になるので割愛)

全編通してダメな組織の典型として、かなり大袈裟に書かれている海軍だが、この組織は現代日本ではどこにでもある会社組織の典型として見ても間違いはない。だから、作者の指摘する海軍の構造改革は、海軍の後継官衙であるところの現日本政府にも当てはまるし、大多数の企業組織にも当てはまるだろう。陸海軍の部門対立は、省庁の対立であり、ワンオフ・カスタマイズ製品の横行は効率論を考えない(自分のお手柄に固執する)管理職の意識問題だろう。

少なくとも「工程の標準化」「パーツ・ブロック化」「カスタマイズ排除」は現代日本の企業文化と相入れないもののような気がするが、そこを起点に組織改善を求めることが、大日本帝国と異なる「負けない未来・組織」を作ることになるのだと理解できないか。

この話が導くこと。仮想戦記とは、実は現代組織論への問題提起なのだな。

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ラノベの共振軸とは (表紙で判断してはいけないよ)

ラノベ、ライトノベルと言われる小説の一ジャンルだ。昔はジュブナイル(青少年向け)として描かれていた文庫形態の小説でシリーズ化されるものが多い。大体のお約束として、主人公は高校生から大学生くらいの年代で、異世界だったり超能力者のいる世界だったり、冒険と人間関係の軋轢の中、ちょっとだけ恋愛モードもありながら精神的に成長していく(大人の階段のぼる)SF的なお話だった。

それがここ数年で、web小説の一ジャンルとして急成長し、ウェブサイト経由で書籍として出版される、アニメ原作になるなど一躍現代的なメディアミックスの各商品となってきた。そして、その主たる構成が「転生もの」だ。ある日突然、なんらかの理由で主人公が現実の世界から訳のわからん、魔物がいたり、超能力者がいたりする世界に飛ばされる。主人公が死んで転生するパターンが多いが、タイムスリップしたり、魔界の誰かに拉致されたり、理由ははどうでも良い。そして、なぜかその異世界では日本語が通用し、なぜか善良な悪魔みたいな異生物が仲間になる。身もふたもない言い方を知れば、異世界を用意した上での願望充足小説といえば良いか。
そして、もう一つの共通項が表紙(あるいは本編内の挿絵)で、アニメ系美少年美少女、たまには成人美人が描かれている。この辺りは登場人物造形のお約束ごとでもあるようだ。

エルフと人が住む世界で、エルフに育てられ人的思考ができなくなった
適合不全な若者が再生?する物語

さて、芝村裕吏作「やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい」は、このラノベの約束事をずいぶんはみ出している。人族と魔族が共存している異世界で、捨てられた人間の子が、自分を人間と思わないで育ったらという設定の主人公がいる。その主人公(ただし自分は人間ではないと信じたまま)人族側に立って悪戦苦闘する話だから人間と噛み合わない。おまけに超絶的な力(いわゆるチート)は持たず、誰に習ったわけでもない軍略を極めていくという話だ。唯一ラノベのお約束を守っているといえば、登場女性キャラに大モテなのだが、そのまとわりつく女性キャラの誰をも迷惑に思っている。ストイックぶりというか、自分は人間ではないぞ的意識が不思議な雰囲気を出している。そんな人間には同調しにくい性格をしているくせに、いつの間にか人族以外のはぐれた魔物はどんどん仲間にしている。このまま行くと人魔獣連合による世界統一目指してい口ことになるだろう。この女性キャラ取り巻き問題は、芝村裕吏のヒット作「マージナルオペレーション」シリーズとも共通している作者独自のスタイルだ。しかし、この「やがて僕は・・・」の原型は、佐藤大輔の「エルフと戦車と僕の毎日」にあり、そのオマージュというか対応作品であるような気がする。

エルフ世界でガチの戦車戦を展開した。佐藤ワールド全開。

さて、芝村裕吏作「やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい」は、このラノベの約束事をずいぶんはみ出している。人族と魔族が共存している異世界で、捨てられた人間の子が、自分を人間と思わないで育ったらという設定の主人公がいる。その主人公(ただし自分は人間ではないと信じたまま)人族側に立って悪戦苦闘する話だから人間と噛み合わない。おまけに超絶的な力(いわゆるチート)は持たず、誰に習ったわけでもない軍略を極めていくという話だ。唯一ラノベのお約束を守っているといえば、登場女性キャラに大モテなのだが、そのまとわりつく女性キャラの誰をも迷惑に思っている。ストイックぶりというか、自分は人間ではないぞ的意識が不思議な雰囲気を出している。そんな人間には同調しにくい性格をしているくせに、いつの間にか人族以外のはぐれた魔物はどんどん仲間にしている。このまま行くと人魔獣連合による世界統一目指してい口ことになるだろう。この女性キャラ取り巻き問題は、芝村裕吏のヒット作「マージナルオペレーション」シリーズとも共通している作者独自のスタイルだ。しかし、この「やがて僕は・・・」の原型は、佐藤大輔の「エルフと戦車と僕の毎日」にあり、そのオマージュというか対応作品であるような気がする。

ファンタジー世界で落ちこぼれ高校生が転生し復活する物語

しかし、佐藤大輔の「エルフと戦車と・・・」には、もう一段、伏線が潜んでいたと思う。豪屋大輔作の「A君(17)の戦争」が下敷きにあると推測しているからだ。実は豪屋大輔は佐藤大輔の別のペンネームであるという噂が作品刊行時からずっと流れていて、どうやら本当らしい。作品の語り口や登場する兵器に対する描写、戦術や戦略論などはまさしくファンタジー世界版の第二次世界大戦だった。「A君・・」の世界は魔族が戦うファンタジー世界だが、魔法を動力とした怪しい兵器体系があり、そこに転生したA君17歳が、現実世界で感じていたコンプレックスをバネにファンタジー世界でそれなりに尊敬を受け成長していくという話だ。そして、これも佐藤大輔諸作品と同じく途中でバッサリと話が止まる。中断してしまう。未完のまま10年以上放置される。(ちなみに佐藤大輔最後の作品は恒星間宇宙もので、第1巻で終わりになってしまった)

おそらく佐藤大輔は、多少考えるところがあり、「A君(17)の戦争」を書き直すつもりで「エルフと戦車と僕の毎日」に取り掛かり、おそらくは完結するつもりで書いていた。これが終わったら「皇国の守護者」も面倒を見る気だったのだと思う。それが、果たせないまま絶筆となった。そして、芝村裕吏がファンタジー世界という出版社からの注文に対して「やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい」で、佐藤大輔の描ききれなかった転生高校生のファンタジー世界成功物語を、完結まで語り尽くそうとしているのではないかと個人的に想像しているのだ。

佐藤大輔ファン、そして芝村裕吏ファンとしての妄想だが、この三作品は共振を起こしているように似ているのだ。今度こそ完結編を読んでみたい・・・。

追記
「蜘蛛ですがなにか」は「転生したらスライムだった件」の影響から生まれた作品だそうだ。このジャンルの作家は、熱狂的なジャンル作品のファンでもあるから、佐藤大輔・芝村裕吏のリレーもありそうな気もするのだけれど。

書評・映像評

創竜伝 ラス前らしい 田中芳樹の良心

表紙 by Amazon

https://www.amazon.co.jp/dp/4065173817/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_xjGqEbWZ6B83M

未完の大作だらけだった田中芳樹の放りっぱなし作家ぶりが(笑)が、ここ数年実に勤勉になったと感心し、ありがたいことと感謝している。

放置していた作品は記憶にある限り以下の通り
タイタニア  88年に第一部、91年に第3部、その後22年ぶりの2013年に第4部を刊行し完結
完結まで25年

アルスラーン戦記 86年第1巻、99年に第10巻、そこからその後6年空けて再開し2005年第11巻
2008年13巻、またしばらく休み14年に第14巻、17年に第17巻で完結
完結まで31年

創竜伝 第一巻は87年、2003年に第13巻が出た後、19年に16年ぶりで第14巻が出て、来年には最終巻刊行予定(希望)らしい。完結まで33年かかることになる。

世の中に未完の大作と言われる作品は多いが、一人でこれだけ未完作品を長期に抱えている作家も珍しい。

タイタニアは超未来の星間帝国の話だし、アルスラーン戦記は中世ペルシアが想定世界なので、時間がかかっても世界の変容はないのだが、創竜伝は現代テーマなので、33年も経つと色々と不都合が生じる。ダメダメな政治家はいつの時代にもいるので、そいつを揶揄するのは問題なかった。ダメな総理大臣はいくらでもおかわりが聞いたからだ。
ところが作品世界を彩る小道具が困った状況になっている。刊行当時の87年世界は、まだ携帯電話が本格的に普及する前で、ポケベルがまだ全盛だった頃。それが最近巻ではスマホにインターネットが世界を構成する重要小道具になっている。学識高い人にものを聞くより、スマホで検索する方が早いし説得力もある。国際社会も大変動しているから、なかなか整合の取れない作品世界となってしまった。まあ、それはご愛嬌として、我慢できる。最大の問題は4人の主人公の動きが悪くなってしまった。つまり、書き手であるところの田中芳樹が高齢化して、ドタバタが書けなくなっているという疑惑だ。やはり書き手は若いうちでなければ、活劇ものを描くのが難しいようだなと思う。
どうも最終巻は月に入って怪獣大決戦的な話になるようなので、それであればなんとか書ききれるかなとは思うが。
アルスラーンの終わり方のあっけなさ、タイタニアのバッサリ具合を思い起こせば、四兄弟が昇天して終わりというのもありえない話ではない。(昇天とは文字通り神の世界に戻るという意味で)

「おまけとして」
どうやら長編多作型の作家に未完作品が多いようだ
記憶にある未完作品をご披露すると、
半村良 「太陽の世界」 全80巻の触れ込みで書き始め20巻で放置された。
妖星伝は15年間を開けて最終巻が出た。

平井和正 「幻魔大戦」「真幻魔大戦」はちょっと微妙だが「青年ウルフガイシリーズ」は終りが見えないまま放置。

小松左京 「日本沈没」の続編は谷甲州により完結したが「虚無回廊」は未完。

書評・映像評

ナミヤ雑貨店の奇跡 職人芸の極み

表紙 by Amazon

映画にもなった東野作品だが、やはりこう言う話を描かせると本当に上手い人なのだな。オムニバス形式で登場人物が微妙にオーバーラップする。物語の舞台は、80年代のバブル期と2010年代を行き来する。時系列が前後に飛びながら話を収束させていく。思わず登場人物の時点と関係を作表して整理したくなるほどだ。
ただし、この整理表を見た瞬間に全てのネタがバレてしまうので、一冊読み終わった人しか見てはいけないものだろう。

この話は昭和後期に発表されていれば、間違い無くSFとして扱われたであろう作品だが、今ではこの程度のタイムスリップ、パラレルワールド的に話を展開させても、小学生ですら驚かない。そもそも小学生でもタイムスリップとか次元転移が常識になったのは何時頃からだろうか。少なくともドラえもんで刷り込まれたSF的概念に誰も抵抗を覚えなくなったのだ。とすれば、40年前の小学生が大人になり、自分の子供とドラえもんの話をするようになった時から、SF的ガジェットは大人も子供も共有できる「一般化した」ものになったのだと思う。
この東野作品も、そうしたドラえもん(その他各種SFアニメ・コミックなど)で教育された大人たちが読者になった時代だから、タイムスリップ的事象に余分な説明をしないでスラッと書けたはずだ。タイムトラベラーの説明が必要だった「時をかける少女」から、読者も作者も随分と進化したものだ。

ただ、手紙のタイムスリップという話だけでは物語として膨らむはずもない。5話の物語のどの話の中でも不幸な人間関係が縦軸となり、そこにナミヤ雑貨店主とその人生相談に関する回答が絡むようになっている。それぞれの話の主人公たちは誰も幸福ではなく葛藤を抱えたままだ。その葛藤が続きの話の中で解消されたこととして語られたり、サラッと逸話として流れたりする。この辺りが名人芸とでも言うべき気持ちの良さ、長く放置された伏線が回収されるスッキリ感となる。
読み切ってみると映画化されたものを見たくなってきた。原作がどのように料理されたのか、ちょっとドキドキする。

80年代、バブルの時期って、もはや経験者の方が少数派なのだなと思いつつ。

書評・映像評

アサシンクリード  12年前のゲーム

今やamazonでも買えないほど古いゲーム・・もちろん中古では買える

パッケージ by amazon
PS3版もあるが、そちらは流血シーンが自主規制されているらしい。日米のゲーム感の違いか?

アサシンクリード とは、訳してみると暗殺者の信条、信念という感じか。アサシン教団、つまり宗教的な暗殺教団の存在は、今では伝説とする考えが支配的らしい。
ただゲームの設定としては、ファンタジー世界と同じ扱いで問題はないだろう。ゲームとしては背景がイスラームとキリスト教の対立が起こっていた十字軍世界なので、冒頭に「フィクション」であり、宗教信条が雑多な集団によって作られた(宗教的な偏りはない)という言い訳が必要になったのも無理はない。

さて、ゲームとしてはすでに10年以上前の作品なのでゲームシステムも含め古びてはいる。ただ、当時としては相当に進んだ設計だった。ファイナルファンタジー12あたりと同時期なのでビジュアルでは3D的な展開となっている。最近では当たり前になったオープンワールド的な部分もあるが、基本的にはシナリオ通り進行しなければ話が進まない、ゲームのゴールにたどり着けない。
要するにアクション型の謎解きゲームで、シーンの合間に多少動画によるストーリ展開があるという、現在の主流なゲームスタイルの元祖的作品だろう。続編も10作近く作られているので、やはり人気シリーズであり、ドラクエやファイナルファンタージー的なコアファンがいるということだ。ジャンルとして「龍が如く」と似たところがあるのだろう。新作が出るとつい試してみたくなるということか。

ゲーム自体は謎解きもほとんどなく単調だ。ターゲットを指示され暗殺すると、スキルが上がり強くなる。最初は雑魚キャラを倒すのも精一杯だったが、最終局面では雑魚キャラ撫で斬りも可能になる。暗殺目標を9回倒し続けるのだから、最後の方ではほぼ作業になってくる。良くも悪くもシリーズ物の第一作品とはそういうものだ。ただ、このシリーズが長く続いているのは、なんと言っても画像の緻密さと美しさなので、その点を楽しめるのであれば、これは名作というべきだ。

オヤジにとっては指先の訓練になるというメリットもある。もっともスーパーマリオで3面までしかいけない腕前にもかかわらず、そこそこ楽しめるということはアクションゲームとしては優しい部類なのだと思う。

押し入れに押し込めていた昔のゲームを引っ張り出してきて、年末年始は楽しく過ごせましたとさ。