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竹田城のふもと

雲海に浮かぶので天空の城と呼ばれる竹田城は、ぜひ一度行ってみたい念願の場所だった。竹田城の下には当然ながら城下町がある。そして、JR播但線の竹田駅が街の中心のようだ。
古代から中世にかけて日本海と瀬戸内海を結ぶ陸路は、主力幹線だったから山間の盆地のあちこちが中継地点として、そして領国支配の拠点として開かれている。竹田城下もその一つだ。
ちなみに、中世までの東国は生産性の低い未開発地だったので(冷害も多く)、経済と文化は西国偏重だった。
鎌倉に幕府が置かれたのは西国、そして京都から政治的独立性を高めたかったからだが、それは東国の経済力が低く西国と対抗するには地理的距離が必要だったという意味もあった。

竹田駅のすぐそばに、造り酒屋を改造した施設がある。竹田城の資料館であり、宿泊施設でもある。実におしゃれな空間だが、あまり観光客はいない。冷静に考えると竹田城に登る観光客の大部分は、朝一番の雲海がお目当てだろうから、日中に歩いているはずがない。

とはいえ、観光施設に誰もいないのも寂しいものだ。昔の蔵を活用したお店もあるのだが、人影がない。雲海の出やすいのは気温差のある秋とか冬とからしいので、真夏日どころか猛暑日の続いた夏場には人気がないのだろう。

資料館に行くとジオラマがあり、これは見るだけで良い場所だなという気がしてくる。城攻めをする立場に我が身を置き換えると、実に嫌な城だ。前面は聳り立つような急斜面で、後背地はいささか斜度が緩いようだが回り込むのは、道無き道を突き進む覚悟が必要になる。とても大軍を率いて攻め寄せるルートがあるとも思えない。

観光案内所への案内板が、なんとも味わいのあるものだった。手作り観光地という言葉が頭に浮かんだ。しかし、竹田駅に辿り着くには播但線という難度の高いローカル線を使う必要がある。秘境駅とまでは言わないが、青春18きっぷの旅でもなければなかなか訪れることのないところだ。
この駅に立つとずいぶん遠いところに来たのだなという感覚がする。長野や岐阜の山の中では感じたことがない、アウェイ感があるのは何故なのだろうか。やはり、案内所や駅で聞いた「声」のせいだろうか。西国の言葉は、日本語の源流のはずなのだが、何故か異国の言葉のように感じてしまう。旅先で起きる「感傷」に違いない。

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京都駅であらまあな駅そば

京都駅で降りたのは5年ぶりくらいになる。コロナ前の平和な時代に青春18きっぷの旅をしていた時以来だ。この駅舎を見るといつも思い出すのが平成ガ◯ラ第3弾でガ◯ラが駅舎内で大決闘をしていたことだ。ガメラの身長が実感できるぞと、この駅を見るたびに思い出す。第一弾の福岡ドームを罠にしたところとか、東京タワーを倒した後に巣を作ったこととか、平成ガ◯ラシリーズは、大きさのリアリティーが精緻に設定されている。怪獣映画の名作と言えるシン・ゴ◯ラやシン・ウルト◯マンでさえ、このリアリティーはかなわない。

ただ、京都駅は新幹線利用が多いので在来線に乗り継いだ記憶はほとんどない。たまたま今回は降りたホームに立ち食いそばの店を見つけて、ふーんと思った。
京都にはたびたび来てはいるが、実は食べ物に関して思い入れがない。京都でこれが食べたいと思うことはほぼない。他の大都市であれば、少なくとも一つや二つは、また食べてみたいという名物料理がある。例えば、名古屋の味仙「台湾ラーメン」とか、大阪阪神百貨店「いか焼き」とか、B級の名物はよく思い出す。しかし、京都にそれはない。強いてあげるとすれば、餃子の王将の発祥店舗に行ってみたいと思うくらいだ。

だから、たまたま昼飯を食べ損ねていたこともあり、駅のホームで蕎麦を食べることにした。見た目が京都風な気配を感じさせないことも良い。

注文したのは冷やしきつねそばだった。ただ、関西アルアルのうろ覚えなのだが、キツネはうどん、タヌキは蕎麦でどちらも油揚げが乗っているものだと記憶していたが、店頭でメニューを見るとうどんも蕎麦もキツネだった。そして、タヌキがメニューに存在していない。よく見ると、メニュー写真は全てうどんだった。つまり、この店で蕎麦はサブ、うどんがメインなのだろう。

店内で他の客の注文を見ていると、確かにうどんと蕎麦は7:3くらいだった。おそらく自分と同じように京都ローカルではない東国からの旅行者が蕎麦、地元の人々はうどんという棲み分けのように見える。立ち食いそばで東西の境目が見えてくるのは京都ならではの面白さだろう。ちなみに、小倉駅の立ち食いはうどんオンリーだった。名古屋駅新幹線ホームにはきしめんの店があったが、在来線はどうなっているのだろう。確かめてみたいなあ。
京都の立ち食い蕎麦は「雅」な感じは全くなく、お江戸の品川駅で食べるのと何の変わりもない。まあ、駅そばなんてそんなもので良いのだろうし。

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日本三景 制覇した

竹田城に行こうと思い福知山に泊まった。その途中というか、ずいぶん遠回りをして「天橋立」を見に行った。テレビの旅番組では常連中の常連観光地だが、実は関東から出かけていくにはなかなか難度の高い場所だ。新幹線で京都まで行き、在来線特急を乗り継いでいくことになる。今回の行程でよく理解できたが、丹波・丹後に行くには、京都市内を抜け延々と山の中を通り抜ける山間ルートで、車窓の光景は山と木しかない。あまり面白いのない道のりだ。そして、鉄道ではなく自動車で移動したとしても、光景に変わりはない。国道は山間を流れる川沿いに伸びているので、見える景色は山と川になる。だから日本海側に抜けると、実に爽快な気分になる。天橋立は、当たり前だが海の景色だった。

車のナビ通りで天橋立に辿り着いたが、そこは観光客向けの駐車場だった。まあ、ナビとしては正しい。予備知識もなしで突撃してきたので、駐車場の管理人の方に、あの有名な光景はどこに行ったら見られるのか聞いた。まったくおバカな質問だという自覚はあるが、とりあえず徒歩5分くらいのところにビューランドというものがあるということがわかった。

朝一番の登頂を目指し長い行列ができていたが、開場後はあっさりとリフトに乗ることができた。モノレールもあるが、晴れた日であれば開放感のあるリフトの方が楽しい。

リフトに乗ること5分くらいで山頂に着く。この展望する場所を「飛龍観」という。天橋立の光景が、龍が天に登るように見えるからだそうだ。飛ぶ龍を見る場所という意味合いになる。なるほどなあ。ただし、これは帰りがけに仕入れた知識だ。

リフトを降りて坂道を少し上がったところで振り返ると、おお、あのよく見る光景が目の前にあった。なるほど、確かにこれはすごい。映像の数倍もリアルが素晴らしいということを実感した。周りにいる観光客はほとんどが日本人で、さすがにお勉強熱心な人も多く、飛龍観の説明が気を並んで読んでいた。

有名な股のぞきをするための台がいくつか置いてあるが、ちょっと前にここから股のぞきをして転落したというニュースがあったので、台から離れた場所で股のぞきをすることにした。そのあと、台の上でのぞいてみようとしたが、これはかなり危ない。高齢者はバランス感覚が悪いので、挑戦してはいけないデンジャラスゾーンだと逃げ出した。

帰りはリフトではなくモノレールにしたが、それが正解だった。車両全面に広がる光景は実にゴージャスなものだった。だんだんと高度が下がり、天橋立の見える角度が変わるのも見ものだ。

展望台の上であちこち場所を移動しながら写真を30枚ほど撮ってみた。一番良さそうなものがこれだ。良い写真を撮るには、やはり数で勝負だなと改めて思った。アマチュアカメラマンはフィルムをケチるから良い写真が撮れないと言われたのは、もはや遠い昔のことだ。今ではスマホでもデジカメでも嫌というほど撮りまくって、その中からお気に入りの一枚を選び出すのが正しい撮影のお作法だろう。残る条件は天候の良し悪しで、こればかりは旅行のタイミングを調整するか、金にあかせて長期滞在するしかない。
今回は、とりあえずの晴れでめでたしめでたし。このあと、そそくさと竹田城を目指すことにした。

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同名の焼き鳥と間違えた?

岡山駅近くにある百貨店の裏側は、相当に賑わう飲屋街だった。ただ、不思議なことに魚居酒屋・寿司屋が見当たらない。地元民であればみんな知っている有名店がありそうなものだが、旅先で訪れた街ではなかなか見つけにくい。いかにもうまそうな大衆居酒屋的な店はどこも満席で入れそうにない。飲み屋難民だななどとぶつぶつ言いながらさまよっていたら、どこかでみた店名がある。
北海道ではおそらくナンバーワンの知名度を誇る焼き鳥チェーンの名前ではないか。ついに、東京・大阪を乗り越え岡山まで出店したかと感動した。

いつものように セセリとつくね 

おまけに看板を見ていると、骨付鳥まであるではないか。この骨付鳥は瀬戸内海の反対側、讃岐国では圧倒的な人気商品のはずだが、瀬戸大橋を超えて岡山にも渡ってきたか、すごいぞ串鳥………と思って気がついた。脳内で店名を漢字変換したので気がついた。この店は、「串鳥」ではなく「串どり」ではないか。妙にパクった感がある。いや、たまたま同名で字が違うだけだと思う。そういえば見慣れたロゴもないしなあ。と思いつつ、これも何かのご縁かとこの店に入ってみることにした。

中に入れば普通の焼き鳥屋で、注文した焼き鳥は普通にうまかった。問題なしだ。それでも岡山の骨付鳥が気になったので、焼き鳥の追加注文は取りやめにして、骨付鳥を頼んでみた。

出てきたものは、讃岐の骨付鳥とはだいぶ異なる。と言うか、ルックスは骨付鳥とはほとんど別物で、食べてみれば味付けも全く別物だった。似ているのは親鳥の肉が固いことだけだった。料理というものは生まれたところからだんだんと変化しながら伝播していくものだと理解はしている。しかし、瀬戸内海という海を渡ると距離的には近くても劇的な変化を遂げてしまうらしい。料理の創作とアレンジの間には、これまた随分と深い深淵があるようだ。鳥料理について、また一段と学んでしまう夜となった。

食べ物レポート, 旅をする

カツカレーのうまい店

岡山発の土讃線高知行き特急には超有名キャラのラッピングがされている(全部ではないらしい)が、高知駅で折り返すためホームで停車している車両をじっくり眺めることができる。バイ◯ンマンは悪役なのに人気キャラのようで、中央部車両に主役級の登場をしている。一度この特急には乗ったことがあるが、内部もキャラワールド満載でなんだかほっこりとした気分になる。来年は某国営放送でこの著者が主役になるらしい。ちょっと前には牧野先生で盛り上がった高知だが、来年も朝ドラは高知推しになるようだ。

高知駅から岡山とは反対方向に土讃線を乗ると終点が窪川になる。そこから先、高知県最西部の宿毛に至るまでは、JRと直結する「私鉄」での旅だ。一度は宿毛に入ってみたいと思うのだが、あまりに遠い。高知から特急で四時間強かかるのだ。同じ時間で、高知駅から空港に行き、空路で羽田、そして東京駅まで行ける時間だ。高知は東西に長いというが、それを鉄道旅で実感したいとはあまり思わない。自動車で移動すると、宿毛のはるか手前で高速道路は終わる。自動車移動も楽ではないしもっと時間がかかる。

そんな高知のDeep西部への入り口にあたる(?)四万十町、窪川にたびたび仕事で訪れている。四万十ポークというのが売り物らしく道の駅では、「豚」料理がマックスで出てくる。お店の方に聞くと豚丼がおすすめなのだそうだ。が、それは前回食べた。今回は、絶対カツカレーにすると決めていた。
実食の結果を言うと、大変うまいカツカレーだった。カツは揚げたてなのでじゅわと熱い。実に勝つらしい勝だった。しかし、絶賛したいのはカレーの方で、当然ながらポークカレーなのだが、これが実に素晴らしい。ほぐれた豚肉が混ざっている。スパイスのバランスが絶妙で、中辛な感じのコクのあるカレールーだった。これはカツ抜きでも十分に堪能できる。問題は、このカレーを楽しむために、一体どれだけの距離を移動しなければならないかと言う点にある。
うまいものを食べるにはそれなりに代価を支払わなければならないのは理解できるが、カレーの十倍近い交通費をかけるとなると、そうそう簡単には堪能できない。実に悩ましいカレーと出会ってしまった。

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福知山から篠山城

福知山駅に降りたのは今回が初めてだった。数年前に青春18きっぷの旅で春の日本海側を旅した時も、山陰本線をこの駅で乗り換えたくらいで駅前の風景を見ることもなかった。今回の目的地は竹田城で、JRの乗り継ぎで行けなくはない。山陰本線で和田山駅に行き、そこから播但線に乗り換え竹田駅で降りる。ただ、これはローカル線の乗り換えという悲しい事情で時間効率がとても悪い。福知山からレンタカーで移動するのが、京都・兵庫北部の山間地を回るのには都合が良い。

駅のホームで気がついたのだが、この駅から京都丹後線で天橋立まで行けるのだった。どうも西国、特に日本海側の地理には疎いので、この辺りの地理感覚が疎かになっているなあ。

ローカル線は大体が1両もしくは2両編成なので前面に連結用の受け口がある。これがなんとも可愛らしいというか愛嬌がある。青春18きっぷの愛用者にとってローカル線の接続駅はとてもお世話になる路線なのだが、福知山は通貨駅でしかなかったと反省した。

福知山駅を外から眺めると予想以上に大きな駅だった。京都丹後線(私鉄)の乗り入れ駅だということもあるし、城崎や宮津(天橋立)といった観光地へ向かう列車の発着がある要衝なのだ。

福知山線にのり大阪方面へ向かうと、篠山口駅で乗り換えになる。ちょっと寄り道をすることにして篠山城を見に行った。篠山は戦国末期、徳川の西国支配に拠点として築かれた。戦国末期以降の築城だけに、いわゆる平城で堀が広い仕様となっている。山の上に築かれた城は廃城になったあと廃墟感があるが、平城は堀と石垣が残っているので巨大建築物という感が残っている。

今では土産物屋が残る大手門前も、当時は大繁華街だったのだろう。強者どもが夢のあと、という寂しい感じがしないのは良いのだが、駅前あたりは意外にさっぱりとしている。今と昔のギャップを感じるのは、お城のある地方都市ではよくあることだ。しかし、丹波国とは山と山の間にある盆地の集合体だったのだと改めて思う。この国が古代から続く先進地帯だったとは今では思いもよらないことだなあ。

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もう一つの一宮 丹生都比売神社

和歌山から車で30分ほどの山の中にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は、静かな佇まいの端正なお社だった。熊野・高野山を守る守護なのだそうだ。神仏習合時代の典型的な考え方で、仏閣を守る神社という構造は全国あちこちに存在する。明治政府の成り上がり者たちは、それを嫌い仏閣の廃棄、廃寺を断行した。ほぼほぼ宗教弾圧であり、イスラームのテロリストたちが仏教芸術を破壊したよりもタチが悪い。
基本的に明治政府の治民政策は、江戸期と比べてあまりの無能さに目を見張る。おそらく、明治政府の官僚、特に上位者たちの頭の中はお花畑と幻想しかなかったに違いない。戦国末期の豊臣政権並みの愚鈍さと傲慢さだと思う。だから、両者とも滅びたのだが。

神仏習合は古代から現代にも通じる、日本人的な「融合」好きが現れているようだ。そもそも古代ヤマト朝は九州から東に攻め込み、各地域の小国・大国を飲み込んで大きくなった。その侵略時には鷹揚というか策略的というか地域神も捨てることなく自陣の神話体系に取り込み続け、ついには八百万も神がいるまでになったのだから、日本人の融合好きは筋金入りで間違いない。一貫して政策的にも「ヤマト」対「地方」の対立を嫌ったことは間違いない。


日本人が信じていた信仰体系と砂漠の民が信ずる「ただ一つの絶対神」しか存在しない世界とは、そもそも根本的に違う。日本人は古代からゆるい世界が好きなのだ。明治以降、砂漠の民が源流の西洋文化に追いつき追い越せと頑張ってはみたが、たった70年で亡国し破綻した。その明治政府の愚行は、この神様の違いではないのかなと思う。
日本人にとって、絶対正義や全てを捧げ我のみを信ぜよという絶対神との契約は、どうも肌に合わないというか、峻別され過ぎたように感じたのではないか。理屈や論理ではなく、肌感覚での判断だとは思うが、その手の違和感はなかなか根深い。
絶対神を報じる宗教、そしてのその信者たちのもつ強い倫理観や価値観、正義感はおそらく大多数のゆるい日本人にとって、苦手なものなのだ。もっとゆるくてもいいんじゃない?と言いたいのが、日本人的気質であるように思う。
西洋世界は格好いいと憧れてみたものの、その根底にある「厳しい論理」は、明治の日本人でもついに理解できなかったのではないか。そして、「明治の反乱軍=革命軍」の後継者たちも、やはり絶対神との契約が精神の根底にある西洋的価値観、宗教感を理解できなかった。ただ、それを2度の大戦でかろうじて勝ちを収めたことで、俺たちも西洋社会の仲間入りを果たしたと錯覚したのだろう。
ただし、それは西洋社会、絶対神を信ずるもの達からすると、異文化の発展途上国が暴走したに過ぎない。目障りになれば叩き潰すべき対象でしかなかった。なぜなら、絶対神を信じず、科学と経済だけを掬い取ろうとする「背教社会」でしかない。


明治政府の劣化コピーでしかない昭和初期の政府は、西洋社会の背景思想を理解しないまま世界全部を相手に戦争をしてしまったし、おまけに完敗した。あれほどの負けっぷりは歴史的にみても稀有ではないかと思う。ローマに滅ぼされたカルタゴより遥かに状況は悪いと思う。
そもそも終戦条件を決めずに戦争を始めるのは、愚か者以外の何者でもない。昭和政府は明らかに政治的にみて欠陥品だった。ただ、欠陥政府の愚行は、現在の東欧戦乱を見れば簡単にわかるが、いつの時代でも起こることだ。たまたま昭和政府の負けっぷりが一際大きいだけで、その後米国、ソ連も地域戦で酷い代償を支払わされている。日本だけがおバカだとは言えないことも明らかだ。

世界史的には、戦に負けて影の形もなくなるほど消滅した国は多い。ローマに負けたカカルタゴは有名だが、ユーラシア大陸の東側でも、北方民族と漢民族が4000年近く争い続けている。その間の中華王朝はどれだけ滅亡したことか。
日本史で振り返れば、昭和の敗戦に匹敵するのは、織田信長の長島門徒集根切りくらいだろう。砂漠の民の後継者たちが抱く思想は、今でも日本人には理解できていない気もする。

境内は綺麗に掃き清められていた。暑い日だったので打ち水もされていた。全国の一宮の中でも、これだけ丁寧に守られているところは少ないような気がする。
特に、東日本の一宮はほとんどがかなり傷んでいる。旧官幣大社といえども、地域の信仰の中心としての存在が減っているのだ。信仰のあり方というより、現実的には地域の人口が減り過ぎているためおこる、経済的弱化のせいだろう。

拝殿にかかる紫の幕は、なんと寺院からの寄進だった。なんとも言い難い。神と仏の助け合いなのだが、これを明治政府は嫌っていたのか。なんとも了見が狭いことだ。

拝殿からは複数のお社がお参りできる。熊野の三大大社を含め奈良界隈の神社はたくさんの神が祀られていることが多いようだ。さすが、まほろばの時代から続く神様銀座なのだとちょっとおかしくなった。
神社を一つ作るのにも莫大な費用がかかるし、そもそも社の寿命は20年くらいで定期的な建て替えが必要とされた。中世期になり柱に基礎・礎石をしっかり施すようになるまでは、古代の建築は柱の根元が水で腐食したらしい。遷宮の原因は、建築工法にあったという、古代史とリビアだ。

この橋が現世、人の世界と神域を繋ぐ境目、みたいなことなのか


神社建立よりも維持継続の方が経済的には大変だ。一度お祭りした神様を追い出すことはできないし、御社も潰せない。だから、高層ビルならぬ複数神を集めて管理を合理化する、大規模神社が増えていく。古代から中世にかけてのトレンドだった。
宗教関連費用の低減を図る政策は、あおによしの奈良時代から始まったのではないか。天皇が代替わりするたびに、その子や兄弟が天下り先として寺を要求したのだから、寺の数は代が下るごとに際限なく増える。寺の合理化ができないと神社の統合をするしかない。みたいな国家予算のやりくりが想像できる。寺を建てるための予算増が、古来からの神様のお住まい統合でまかなわれる、というか皺寄せされたという、現代日本にもありがちな状況だったのだろう。
由緒ある神社に詣でて、古代人の欲望に想いを馳せる。なんともやるせない気になるが、境内の気配はただただ荘厳だった。

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旅先で 夕方の散歩で歴史推理

JRの駅前が街の中心と思うのは、おそらく首都圏を含め東日本に住む都市住民の勘違い、思い込みかも知れない。明治中期の日本全国でおきた鉄道敷設ブームで、地方の中堅都市を結ぶ鉄道網は一気に広がった。その後、国策として鉄道の国営化が進み主要幹線はすべて国鉄路線となり、大都市近郊の私鉄はローカル線・通勤通学線として生き残った。
と。大雑把に鉄道の歴史を整理をしてみたが、そのモデルにあてはまるのはほぼ東国限定になる。いや、首都圏を除けば東国でもその理屈が成り立つところは少ないな。国鉄+私鉄が残っているのは、仙台・福島・弘前・宇都宮・高崎、そして例外的札幌くらいだろう。

その理由を考えてみた。明治の暴力革命で勝利を収めた「革命軍」、つまり明治新政府の主力は西国であり、西国の城下は温存されることが多かった。(勝ち組の特権だ)
鉄道駅は城下町・従来の繁華街を避け都市周辺部に敷設された。
はずなのだが、なぜか城下町に直通する路線を敷いた私鉄が多くあったのは、勝ち組西国の商人・資本が潤沢だったという特有の事情だろう。
それとは反して、東日本にある徳川傘下の地方では、城下町の温存など顧みる余地もなかった。あるいは無視された。廃藩置県で地方の小藩は消滅と合併の波に飲み込まれた。
そして合併で生き残った中核都市、比較的大身の藩のお城近くにジャンジャン鉄道を通した。その理由は、土地収用が簡単だっこと、つまり旧勢力が負けたため用地供出命令に文句を言える立場になかったということだと思っている。東国と西国で街の作りが大きく変わった理由は、当然だが鉄道を敷設する経済力と政治権力の差がもたらした結果だった。
西日本の大藩は勝ち組だから旧市街が温存され、国鉄と私鉄の二極が並立する街になった。東北を中心に負け組の街は国鉄一択だ。

人口の割には関西圏に有力私鉄が多いのは、一つに勝ち組の支援をしていた関西系商業集団の力があったため。二つ目には明治政府がお江戸を国際的な首府・首都として飾りつけるため、金もないし時間もないまま、江戸では乱暴な鉄道開発が行われたせいだと思う。関西の私鉄網の充実ぶりと比べ、首都圏の私鉄は田舎の貨物線という体裁が強く残っていた。
新橋・横浜間の土地収用は当時でも簡単な作業ではないと思うが、「負け組」の江戸勢力には明治政府に逆らう力はなかっただろう。中央線が果てしなく真っ直ぐなのは、多摩地区が畑だらけの農村だっただけではないと思う。徳川直率の多摩在住御家人は、鉄道敷設のため所領没収になっても、明治政府に逆らえるはずもなかった。(まあ、個人的推測です)

和歌山もそういう意味では明治政府に降った徳川一族の領地ではあるが、やはり近畿圏では要衝の地なので、国鉄と南海鉄道という二重構造になっている。大阪と京都、大阪と神戸と同様に、交通網の複線化が図られる重要地だったのだ。ちなみに奈良と和歌山を繋ぐ路線は、実に鄙びたローカル線ではあるが、それでも存在しているのがすごい。

などということを考えついたのは、JR駅からお城を目指して散歩をした後だった。晩飯の店を探し、どこかにある繁華街を目指していたのだが、とうとう発見できなかった。駅前の大通りを歩いて城の麓近くまできて、体力的に限界となった。歩いた距離は大したことがないのだが、夕方でも残っていた暑さと賑やかな場所が見つからない徒労感で心がへし折られてしまった。
どうやら川がJR駅と南海鉄道駅エリアの境目らしい。戻ってから地図を眺めていたら、あと5分も歩けば繁華街に辿り着けたのだ。川をわたったら繁華街があるというのは、徳島県と同じ構造だなとぼんやり思った。どうも、徳島という地域は四国の一部というより関西の一部ではないか。大阪湾というのは大陸にあるとてつもなく太い川と同じで、瀬戸内海というより瀬戸内川と言っても良いのだろう。となると、和歌山と徳島は川の対岸くらいの地理感覚なのではないか。

和泉国の海賊は徳島まで海域支配域にめざしていたようだし、地図で見るのとは違い、実際にその地で暮らす人たちの感覚では、徳島と和歌山の一体感みたいなものは、「国」としてのまとまりはずいぶん違ったのだろう。
夕方の街歩きは、体は疲れるが頭の体操には良い時間だったと、弁明するのでありました。

翌朝登った和歌山城の石垣 美しい曲線だった
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ピジン英語と日本書紀

日本書紀の写本を見てぼんやりと考えていたことがある。ちなみに漢文に詳しいわけではない。高校時代に学んだ知識くらいしかないのだが、漢字の並び方がおかしいような気がする。
その後、中世に書かれた貴族の日記などの一部を見ると、なおさらおかしな感じがした。かな文字が一般化する前だから、漢字の羅列、一見すると漢文のように見える。が、妙な違和感がある。英語だと思って読み始めたら、ドイツ語文書でおまけにアルファベットの中にも見知らぬ文字が混じっていた。そんな漢字だ。
これは一体なんなのだろうかと悩んでいたが、一冊の歴史書でその謎が解明した。やはり、日本書紀の漢文はおかしいのだそうだ。
つまり、当時の国際公用語である中華帝国の文章様式を正しく扱えなかったらしい。言ってみればカタコト漢文だった。だから大陸政府の公人からすると、なんとなく書いてあることの「意味くらい」はわかるが、あちこちに文法的間違いがある「赤点・落第文書」ということだ。

古代ヤマト朝廷勃興期は、まだ日本固有の文字が存在していなかったから、漢字を使って記録するしかなかった。現代で置き換えてみると、政府の公式文書は日本語ではなく全て英語で書くと決められていて、役人をはじめとして全ての政府関係者は必死で英作文をするが、ネイティブな英文には程遠く、英語文書としては落第点、みたいな感じだろう。
実際、日本人が書く英語の文章は、相当流暢に英語を使う人であっても、独特の癖があるもので見るとすぐわかるらしい。日本語の文章ロジックと英語のロジックの組み立て方が根本的に違うにも関わらず、まず日本語で考えてそれを無理やり英語に置き換えるためのようだ。
当然、古代ヤマト朝の時代には、いくら漢文を学んでも、普通の役人(公式文書を記録する役割を持ったもの)ですらネイティブ文書は作れなかったのだろう。その歪みというか漢文法の不正を抱えたまま、日本書紀や古事記が編纂された。この歴史解説書著者の説明では、日本書紀はとりあえず意味は通じる程度の歪みだが、古事記は相当に日本訛りになっているそうだ。

海外にある強大な覇権国家、漢から始まり唐に至る大陸帝国に影響され続けた古代日本は、さぞかし文書を書けない野蛮な国として馬鹿にされていたのだろう。
その後の世界史を見ても、中世の江戸幕府鎖国時代は例外として、近世に入り大英帝国からアメリカ合衆国という海洋帝国に、文化的に従ったということだ。現代日本に氾濫するカタカナ英語、和製英語を考えれば日本書紀などの「変な漢文文書」は同じようなものだったのだと想像がつく。

日本の文化に多大な影響を与えた中華帝国の言語も、中世から近代にかけて国外勢力の影響を受ける。中国語と英語はロジック構成が似ているらしく、単語を英語に置き換えただけでもそこそこ意味は通じるようで、いわゆるピジン・イングリッシュが自然発生的に生まれた。日本語では生まれない便利さだろう。ピジン・イングリッシュは世界性がある言語とまでは言えないが、共通性は高いらしい。そして、今ではそれが簡易英語として世界語に進化しそうという話も聞いた。
かたやこの国では、カタカナ英語混じりで、助詞しか日本語でない怪しい言語「ピジン・ジャパニーズ」を話す日本人が多いことを思い出す。ピジンイングリッシュもピザインジャパニーズも言語として完成度が高いというつもりはない。が、異なる言語同士が互いに影響を及ぼし変質して何か新しいものが生み出されるというのは理解できる。

古代日本人が書いた漢文と、中世アジア人が生み出したピジンイングリッシュ、どうも似ているようだが、普及度合いでは随分と異なる。変な漢文と変な英語の共通性、この辺りが歴史をあれこれほじくり回す楽しみなのだな。

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道の駅でラーメンをたべた

最初の見栄え 

道の駅の食堂で食事をとることはあまりない。というか、ほとんどないというのが正しい。原因は簡単で、昼飯時はものすごく混んでいることが多い。客席待ちになる場合もある。そして、夜はほぼ営業していない。午後5時閉店という、昭和の大店法時代が生き残る営業時間がきっちりと守られている。
たまたま立ち寄った道の駅で、ランチ時間が始まるタイミングだったので、待ち客ゼロ状態だった。それではと早いランチにすることにした。ご当地ラーメンというか、丹精な塩ラーメン的なものがあったので、それを注文した。普段は塩ラーメンは頼むことはないのだが、ちょっとした気まぐれだった。
出てきたラーメンは、ちょっと変わったうどん的なルックスで、蒲鉾がラーメンには珍しい。どうやら塩ラーメンではなく、薄口醤油ラーメンのようだ。

忘れていたゆで卵が乗せられて完成品になった

などと食べる前にあれこれ観察していたら、調理場からおっちゃんがでてきて「わすれものしたー」と言いながら、ゆで卵の半分を乗せてくれた。なるほど卵のビジュアル・インパクトはなかなかのものだと感心した。
「素うどん」が「おかめうどん」くらいに見栄えが変わった。いざ実食してみると、やはりうどん的なあっさりとしたスープだった。蒲鉾がチャーシューの代わりなのかなあ。変わったラーメンだ。

おまけで注文したのが和歌山名物めはり寿司だが、高菜漬けでくるんだボール状のおにぎりで、これはこれで面白い食べ物だが、ラーメンの付け合わせにするとちょっと量が多いかなあ、という感じだ。たまたま道の駅で出会った異文化というか異・食文化にちょっと感動した。しばらくは道の駅ランチ、並んで待つことになってもたのしんでみようかな。