書評・映像評

コロナとの暮らしを振り返ると

写真はイメージです (笑)
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「深夜食堂」の最新刊(二十六巻)を読んであれこれ考えてしまった。このコミックはテレビ番組として何シーズンも映像化された。その後、映画にもなり、最新版はNetflixで放映された。新宿ゴールデン街にある(と言う設定)、深夜に開店する飯屋に出入りする人々のあれこれを描いた作品だ。物語の中で季節はうつろうが、年月は変わらない「永遠のサザエさん」状態にある。基本的に社会の変化は感じにくい、あるいは表現されない類の作品だろう。ところが、時事ネタどころか社会変化が重要なテーマになってしまった。

深夜開店する店だから、当然のようにコロナの初期は休業、あるいは昼間営業をするしかない。その当時のドタバタは前巻に描かれている。後々コロナと言う狂騒社会を検証する時には新聞や雑誌の記事などより、こうしたコミックの方がよほど参考になるだろうと思う。(テレビや新聞会社では最近流行りの捏造騒動が起きそうだ)

今回の巻では、そのコロナ社会が少し落ち着いて深夜営業を再開できるようになった時期、それでも客はマスクをかけているという微妙な時期にあたる。
一話ごとに、コロナの前と変わることのない庶民の暮らしぶりを切り取っている。人情噺が中心で、コロナに影響を受けて人生を棒に振ったような登場人物はいない。それだけに、マスクをかけている客たちの姿は、のちの時代になってこのコミックを読む読者には、コロナの時代にみられた特殊な社会状況を解説しておく必要があるだろう。
同じ社会混乱期の中で制作されたテレビドラマや映画をみてみると、マスクをつけた登場人物はいない。コロナなど全く起きていないパラレルワールド(並行世界)の話かと思いたくなるほどだ。確かに、演者たちがマスクをかけて登場すると、半分覆面状態だから顔がわかりにくいと言う物理的演出の問題もあるだろう。

ただ、マスクをつけてもドラマを成立させることは可能で、仮面ライダーなど主人公の戦闘シーンでは顔が全く見えない。敵役に至っては最初っから人の顔をしていない。また、アニメ的な演出をするのであれば、正義の味方(良いもの役)は青いマスク、悪者は赤いマスクなどで見分けをつけることもできるだろう。
だからこそ、コロナ時代の映像制作ではあえて意図的にマスクなしの社会を描いていたはずだ。撮影現場では政府の諸注意を守って撮影しています、などと言うテロップも入っていた時期がある。記憶にある限り、マスクをつけたり外したりするリアルな社会を映し取っていたのは、「孤独のグルメ」くらいではないだろうか。旅番組などではマスクをつけた出演者が動き回っていたが、あれはドラマとは違う類の番組だろう。
だからこそ、コミックというメディアの中で「マスク社会」のドタバタをリアルに記録した作品は貴重だと思う。10年後に紙媒体での出版が事業として残っているかは微妙な感じがしているが、電子出版は紙媒体と比べてはるかに作品の生存性は高いから、この作品が電子媒体ですら読めなくなることはないだろう。未来の読者に向けて「コロナの社会」とはどんなものであったかの解説文を、ぜひ巻頭に付け加える改定を行なって欲しい。

そんなことを考えていて思い出したことがある。先の大戦で宣戦布告が遅れたまま戦争を開始して、散々国民を煽っておきながら、最後には無条件降伏を受け入れ終戦するまでの期間が3年半あまりだった。コロナの狂騒期間は3年ほどだったから、大戦後に戦時の社会を振り返ってあれこれ議論が湧き上がったのと同じように、コロナ時代のあれこれ、馬鹿馬鹿しさを振り返るべき時がすぐにやって来る。
特に政治屋のバカっぷりと、一部医療関係者の売名行為、テレビメディアを中心とした扇動行為があったことを歴史の事実として記録し忘れないようにしなければいけない。ただ、このリアルな歴史が捏造され改変され記録されるのも目に見えている。昭和20年代に起こった右派左派それぞれの戦争の記録を読み返せば、同じことが起こることは容易に予想がつく。そして、悪徳政治屋はいつでも自分たちに都合の良いように歴史を書き換える。というか、都合の良い歴史を記録する。
別にこれは日本だけに限ったことではなく、人類が文字を発明した頃から延々と続く種族的な性向だ。人類は「嘘つき」がデフォルトな状態の生物であることに間違いはない。

とすれば、このような「コロナの日常」を設定にして、同時代性の高い情報を切り取っている作品は大切に保存しておくべきだと思うのだ。少なくともコロナ社会の狂気は、歴代の自民党政権・内閣で最強最長だった総理大臣、そしてその後継内閣を叩き潰したのだ。だからこそ、後世で語られるべき歴史的時代だったとも思う。
ついでに言えば、アフターコロナの自民党内閣は、先代の強さもなく日和見のくせに、戦後処理もまともにできない、歴史に残らない有象無象であるとも思うので、すぐにみんな忘れてしまうだろうなあ。

深夜食堂のサイトはこちら→ https://www.shogakukan.co.jp/books/09861634

書評・映像評

本棚から一掴み その2

これも棚からひとつかみ取り出してきた本で、居酒屋ガイドブックだ。発行は2015年だから、情報価値はほとんどないだろう。永久保存版と銘打ってはいるが、立ち食い蕎麦屋と同じで居酒屋もコロナに対する抵抗力が弱かった。名店であっても、店主が高齢の場合は閉店してしまった店が多いようだ。
また、この本が発行された平成末期は低価格が良しとされていた時代でもあり、掲載されている店はどちらかというと低価格志向の店が多い。
角打ちなる言葉に誘われて、あちこちの立ち飲みの店に遠征した記憶もあるが、その頃はまだ一人飲みは少なかった。角打ちに行くにしても少人数でサクッと飲むような感じだった。今では、すっかり一人飲みが多くなったので、改めて令和版の一人飲みガイドブックが発行されないものかと期待してみるのだが。
すでに若年層のアルコール離れが言われて久しいので、購読層が限定される。一人飲みはオヤジやジジイの専業的楽しみだからデジタルではなく、紙での出版が望ましい。この時点で厳しい気がしてきた。ライターは誰がとか、ムックにするか新書判にするかなど、あれこれ考えるととても出版は無理だという気がしてきた。幻の一冊になること決定だ。

太田さんの本は随分と買い込んでいた。紹介された店もあちこち行ってみた。出張の時には、全国にあるいくつかの店をありがたく使わせていただいた。最近ではテレビで居酒屋探訪番組を欠かさずに拝見している。
これも改めて思うことだが、居酒屋巡りのリストとして「本」は活用しやすい。ただ、今では住所や電話番号などの店舗情報はスマホでチャチャっと検索できてしまう。それどころか、人気メニューや価格までもグルメサイトで探し出せる。サイトの中の情報は、この居酒屋ガイドにある体験記録、特に情緒性などの要素は吹き飛んでしまった「生の情報」なのだが、それでも良い時代になったということだ。(ちなみにグルメサイトの感想文はどこまでが本物で、どこまでがやらせかという問題が解決していないので、ほぼ読まないことにしている)
確かに飲食店の情報を入手するのが難しい時代は、食通とか言われる人の感想や意見に頼るしかなかった。今の時代は、道具立ても含めて、その他大勢扱いされていたモブ・群衆の大量意見を計量化してみることができる。
一人の食通が言う意見よりもみんながつぶやく平均的な意見の方が役立つと感じる時代になった。こうなると食通の意見は権威もなく、影響力も無くなるのかと思うのだが、それはそれで食の民主主義という理解をすれば良いのかもしれない。アルファブロガーと呼ばれる声の大きな発信者も存在するが、やはり大衆の発する声の集合量にはかなわない気がする。
だからこそ、カリスマの意見に従うのではなく、ファンとして好みの店を慕っていく。そんな楽しみ方が時代に合っている感じだろうか。その読者代表が書いた体験記録で一つの店の話を読んで、ああ、この店に行ってみたいなあと思う。これはグルメサイトで感じない「知的遊戯」ではないか。それでも、とりあえず次に行きたい店を選んだら、グルメサイトで営業しているかどうか確かめなければな……………

書評・映像評

本棚から一掴み 滅びゆくもの 

日曜午後のFMラジオ番組で、「今日は棚から一掴み」といってオールディーズをかける時がある。これがなかなか多様な音楽が入り混じるので楽しみにしているのだが、それにならって自分の本棚に眠っている本を「棚から一掴み」で取り出し、パラパラと見直す(読み直すではない)ことがある。
若い頃から買い集めていた本はほぼほぼ断捨離したので、本棚に残っている本はまだ読んでいない本が半分、どうしてもこの本は捨てられないという本が半分になる。
その捨てられない本の中に、グルメガイドみたいな本が何冊か残っている。発行年は2015年前後だから、すでに閉店した店も多いはずで、情報価値は著しく低い。似たような本の最新版がないかと、試しにAmazonで検索してみたが、蕎麦屋のガイドブック(のようなもの)は最近ほとんど発行されていない。ムックでも見当たらない。かろうじて存在しているのはWEB専用のデジタル出版だった。
扱い品が蕎麦のせいなのかと疑ってみた。ただ、蕎麦愛好家が高齢者に偏っているのだとするとデジタル本というのはちょっと理屈に合わないので、若い蕎麦好きの人口が減っているという意味だろう。書店で買ってくれるほどの蕎麦好きが減っただけなのだろうか。ただ、これがデザートであったり、パスタや軽量イタリアン、エスニック系料理であれば、まだ紙媒体でもガイドブック的なものが発行されていそうだとは思うのだ。ラーメンであれば、ガイドブック、人気店ランキング本も簡単に見つかるから、やはり蕎麦のせいなのだろう。

おまけにコロナによって立ち食い蕎麦屋は相当な数の店が消滅したようだ。日本的ファストフードの王者も、時代の流れというよりパンデミックによる環境変化に太刀打ちできなかったということだ。我が身を振り返ってみても、早朝に電車移動で改札を出たら強い出汁の匂いがしてきて空腹感に襲われる、みたいな状況はここ数年ほとんどない。この数年、わざわざ食べに行った時を除けば、ファストフード的に立ち食いそばを食べたことはほとんどない。
都内のあちこちにある立ち食い蕎麦屋を記憶していた、脳内立ち食い蕎麦マップももはやほとんど役に立たないだろう。それでも、わずかに生き残った立ち食い蕎麦屋、駅そばをぶらりと訪れてみたいとも思う。とりあえず来週には新宿駅東口の馴染みの店(先月まだ生存しているのを確認した)に行って、山菜天ぷら蕎麦でも食べてくることにしようか。
滅びたものへのノスタルジーと笑われても仕方がないが、想像上の蕎麦店巡りをするには、この2冊が十分お役に立つ本だった。

面白コンテンツ, 書評・映像評

時短レシピーの進化系

この本には大変お世話になった。特に、題名にある美味しい煮卵の作り方は、まさに天啓だった。何度もレシピー通りに煮卵を作り堪能した。冷蔵庫の中で1週間くらい熟成して食べてみたりもした。レシピー本に乗っているメニューを作ろうとすると、調味料を追加で買ってこなければいけないであるとか、ちょっとだけしか使わない食材が必要になったりすることが多い。結果的に、眺めて楽しむだけ、いつかきっと作ってみたいと思うだけの「幻メニュー」になる。
ところが、この本の中にあるものは、そうした初期抵抗値が少ない、あるいは全くないので、幻化する前に実現化する。冷蔵庫の中身で似たようなものがあれば、それで作ってしまっても良いというお気楽さがある。
一年に何度か本棚から取り出して、あれこれ見繕って作ってみようと思うレシピーが多い。料理本は古くなると使いにくくなるものだ。時代の好みみたいなものがあり、味付けも変わっていくから、古い教本的な料理本は買い替えたほうが良いと思っている。具体的に言えば昭和中期から平成中期までのの料理本は実用的ではなく、もはや史料的価値しかない。(個人的見解です)
ただ、この本は捨てる気にならない実用本で、おまけに休日前の夜寝る前にあれこれ眺めるにはちょうど良い。
今ではスーパーの食品売り場に行って、並んでいる安売り特価品を選択し、それを使ったレシピーを検索するのが当たり前な時代らしいので、レシピー本など廃れていくばかりだとは思う。ただ、この本のように「時短」というテーマで一括りにして、作り方や材料の選び方が並べてあれば、応用可能な実用本としての価値は高い。
一度麺つゆを使った煮卵を作れば、冷蔵庫内の調味料を使いカレー味とかマヨ・タルタル味とかケチャップ・トマト味とか変形は自由自在だ。色々な時短メニューの閲覧性を考えると、レシピーアプリをあれこれ検索するよりも便利さでは上だろう。
実用本として生き残るには、この本のような「本ではない使い方をされる本」みたいな発想が必要なのだと思うのであります。

註)ちなみにこの本の元ネタであるブログを見てきましたが、2020年が最終更新でしたので、現在はお休み中なのかお引越ししたのかもしれません。

書評・映像評

情報の断捨離 社会の断絶

1998年12月発行

不要なものを捨てていく断捨離から、使うものしか残さない断捨離に移行するべきだろうなと思い、まずは衣料品から捨て始めた。そろそろスーツはいらないのでは………と思うし、礼服も葬式にしかきそうもないから不要だ。黒い革靴は何足も捨てた。
本棚から溢れていた本もほとんど処分したが、それでも未読の本はそっくり残してある。一度読んだ本であれば、再読する気があるかどうかで判別するのだが、資料としてとってあった本はなかなか判断が難しい。例えば、燻製の作り方とか、ロープの結び方大全みたいな本は、二度と読むこともなさそうだし実用にすることもないとは思う。ただ、捨てられない。なので、本棚の奥に隠して二度と目に触れないように(笑)する。処分しようかどうしようか悩まなくて済む。同じようなカテゴリーに入るのが、このトレンドの記録みたいな本だ。
目次を見ると、第1章 12年間のヒット商品をレビュー とある。12年間とは87年から98年までのことで、バブル時代の最後から平成不況の前半に当たる時期だ。
ちなみに87年のヒット第一位は自動製パン機、88年は東京ドーム、そして98年は映画「タイタニック」だ。読み返せば懐かしいと思うが、その当時生まれていなかった平成生まれが今の若者世代なので、そもそもこれってなんですかという疑問しか浮かんでこないだろう。昔はお笑いの鉄板ネタだった「タイタニックごっこ」を理解するのはオヤジオバンからジジババになりつつある。
また、最終章 21世紀のスタンダードを探る  を読み返すと、ともかく予測というのは………という気分になる。99年のヒット作予測では、デジカメが200万画素時代到来と書いてある。今やスマホのカメラでさえ800万画素が標準仕様だし、そもそもデジカメ自体が消滅の危機にある。同じようにNTTにナンバーディスプレイサービスについても考察されているが、固定電話が世から消えつつある。時代予測が難しいというより、そもそも意味がないことなのかもしれない。
こんな世の中から消えてしまったものがオンパレードなので、もはや「資料」としての価値があるかというと、多分、ないのだ。あえて資料扱いすれば、現代考古学とでもいうべき分野に適応するかどうか。その時代を振り返ってみても、表紙に書いてある「次のエースを探す」ことに役立ったのか微妙な感じしかない。

2010年12月発行

こちらは、12年後に出された続刊みたいなものだが、編集テーマがちょっと変わっている。帯にある「流行は繰り返す」と前書の「次のエースを探す」には、ずいぶん異なるニュアンスがある。世紀末直前の98年には次世紀を予測するという「力強さ」があったが、21世紀に入ると「流行は繰り返すのであれば昔を探れば良い」という、後ろ向きで弱気なスタンスになっている。
ちなみに2010年のヒット作はスマホ、新登場で目立っているのが東京スカイツリーだから、これはそこそこ現在と繋がる感じがする。だが、予測のパートはふんわりとしたものだ。平成後期の社会全体が自信をなくしていた雰囲気がよく現れている。そして、この後に東日本大震災が起き価値観の大変動が起こった。つまり予測の立て様がなくなるほど社会や意識が変わってしまった。この後、続刊は出版されていないように記憶している。ただし、12年サイクルで発刊されるのだとすると、そろそろ続刊が出るのかもしれないが、コロナという世界的大変動があったから、やはり無理かも(すでに出ているのか?)
どちらにしても、この本も資料的価値があるかと言われると、やはり微妙だろう。若手研究者が消費者意識の調査でもするときは、字引きがわりには使えるかもしれない。ただ、自分で持っていても使えることがあるかというと、多分、ないだろう。
学生時代の同窓会をやる時に持って行って、クイズのネタとして使う手はあるかなあ、などと考えている。たまごっちが流行ったのは何年だったでしょうとか、ビデオデッキ(もはや死物)が初めて100万台売れた年は何年だったでしょうとか。記憶が弱くなってきた世代にとっては、良い頭のトレーニングになるかもしれない。
世代を超えて繋げていく価値がある知識など、あまりないのだね。

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シンクロニシティー

シンクロニシティーという言葉をたまに感じることがある。共時性と訳されるようだが、関係のない二つのことが意味を持ったように同時に起きること、みたいな理解をしている。偶然の一致という方がわかりやすいかもしれないが、そこに偶然ではない何か意味がありそうということだ。
今年の夏のシンクロニシティーは、たまたま読み始めた「歴史小説」と「コミック」だった。小説の方は積読のまま2年以上放置していた。コミックは題名を勘違いして、一巻目を手にしてしまった。読み始めたのはほぼ同時期で、しばらくして同じ場所の物語だと気がついた。

コミックはすでに連載が完結し、今年アニメ化された作品だった。舞台は和歌山県北部、和歌山と淡路島の間の海峡にある小島だった。小説の方は、最初の舞台が広島と愛媛の間につながる瀬戸内の島で、村上海賊の本拠地だったが、話の流れで大阪南部でおこる本願寺戦争に移る。そこで登場するのが、泉州海賊の一味。その本拠地は淡路島の向かいにある和歌山北部で、海峡の島を通る商船を商売の種にしている。

小説もコミックも早いテンポで話が展開する。ハラハラドキドキの良質のエンタテイメントだが、どちらも主人公は若い女性で、それも性格的に突き抜けているというか元気印が歩いているような「豪傑姫」だ。周りの男が霞むような存在感がある。

コミック「サマータイムレンダ」は、ごくたまに少年ジャンプが生み出す極めて良質の物語で、現在ダラダラと超長期化しているダメな連載(これも初めの頃は良質エンタメ作品だったのになあ)とは決定的に異なる。どんでん返の連続で、スピルバーグ作品を見るような疾走感がある。

和田竜作品「村上海賊の娘」はコミック化もされているが、これは是非とも実写版で映画化してほしい良質の時代劇なエンタテイメントだ。

https://www.shinchosha.co.jp/book/306882/

夏休みの読書感想文が宿題だった時代に、こんなエンタメ作品があれば、感想文を書くのも楽だったのになあとしみじみ思う。この歳になってとは思うが、本を読んでその舞台になった場所に行ってみたい(いわゆる聖地巡礼というやつだ)と思わされた。
良い作品には読み終わった後も惹きつける魅力があるということだろう。アニメの放送が終わってしばらくしたら、この島を訪ねてみるのも良いかと思う。今の時期は、アニメファンに囲まれて小さな島めぐりをすることになるのでちょっと気が引ける。冬になってからひっそりといくのが良いのかもしれない。
今年の夏のシンクロニシティーは、良い旅の始まりにつながることを期待しよう。

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #5 「村人」について

怪獣映画ではよく壊される街の代表 銀座

こうしたことを前提に「村人ですが、何か?」という比較的短めの題名を考えてみる。まず、「村人ですが」に潜んでいる意味はいくつか考えられる。まず「村人」とはゲーム世界でよく登場する話しかけると一言か二言だけ答える、その他大勢の役だ。その一言には隠されたお宝や武器を探すためのヒントであったり、今後の進路の重要情報であったりが含まれていることもある。
紛らわしい偽情報を流す村人もいる。また、全く役に立たないお天気の話しかしないという役もいる。手の込んだ例だと、3回お天気の話をすると、くどいと怒り始めて、こちらが謝りながらプレゼントをするとようやく情報を話し始めるみたいな仕掛けもある。
つまり、村人とは英雄グループの仲間にも入らず、旅をしないまま村という閉じた世界にいるものを意味する。そして「何か?」というフレーズは、本来脇役でしかない一過性の登場人物が、「この俺様、村人に対して何か文句あるのか?」と問いかけている訳だ。もう少し勘繰ってみれば、俺にいちゃもんつける気かと怒っているとも言える。
当然、村人に問いかけているのは英雄グループの一員だ。村人同士は会話をする仕様になっていない。だからこのシーンは、主役(英雄)が脇役(村人)に、それもチョイ役にものを尋ねたら、逆ギレしてブイブイいっているという構図ではないか。ここまでイメージ喚起を具体的に迫っているとは言えないが、長文題名の意図するところはシーンの換気力にある。
そして読者(購入者)は、こう考え始める。なぜ、主人公であるはずの英雄に対して、その他大勢の脇役、モブキャラでしかない村人が絡んでいるのだと。これは新しいパターンの話なのでは? 面白いのかも? 読んでみようか?と言う連想ゲームの始まりが「村人タイトル」になっている。
書店で売っている本に付けられる「帯」と似たような効果をもたらすテクニックだ。「帯」とは表紙では(デザイン的に)書くことができない惹句、売り文句を表紙の上に邪魔にならない程度に付け足す道具だ。それを投稿サイトにずらっと並ぶ「タイトル・題名」と帯化したのが、この長くて説明的なタイトルということになる。
他の長文タイトルも、似たような効果を狙ってつけられているのは間違いない。書き手のテクニックとして、すっかり定着した感じがする。ただ、それはエンタメ・ビジネスサイクルにとっては、もはや不可欠な道具であり業界のお約束なのだろう。口語体で、話しかけるように長文の題名をつけるのは、ラノベ書きの定石その1といえる。そして、定石通りのタイトル名が、アニメや実写化された動画のタイトルになるので、世の中のエンタメコンテンツの題名が長文化していく。テレビドラマの題名もそれにつられて長くなっている。非常に穿った言い方をすれば、Web世界が現実世界を侵食している。

【続く】

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #4 「何か」までまだ少し寄り道中

写真はイメージです 放浪旅に歌舞伎役者キャラは似合うと思ったから歌舞伎座にしてみた

最近のヒットゲームでゲームとラノベのお作法を比べてみる。FF15の主人公チーム・キャラ4人プレイとDEATH STRANDINGのソロ配達人が、典型的な物語づくりの対比になる。FF15は「スタンドバイミー」のオマージュのような気もするし、DEATH STRANDINGは「ポストマン」 D プリン作のオマージュだと思う。
典型的なグループ旅物の体裁を取るのがFF15で、ゲームの全体構造もストーリーも古典的英雄譚の形を忠実にまもっている。女性キャラが登場しないのが、いささか定石から変わっているくらいのものだ。
DEATH STRANDINGは、旅物の定石を破り、最後まで一人旅だ。手助けする仲間も、同行してくれる魔物もいない。襲ってくるミュータントや化け物はいるが、それも倒さなければならないことは稀で、戦わずに逃げても物語は進む。
この一人旅がラノベ(活字)になったとしてヒット作品になったかというと、これはかなり怪しい。ラノベ→ゲームは成立しても、ゲーム→ラノベは難しいという例だ。やはり現代のエンタメ産業としてのゴールデンルールは、
ラノベ(webテキスト)→ラノベ(出版)→コミカライズ(出版)→アニメ(動画放送・配信)→ゲーム(スマホ・専用機量対応)→インスパイア系ラノベ(web)ということなのだろう。
そのエンタメ・サイクルの出発点であるラノベweb版で重要視されるのが、ともかくクリックしてもらうことだ。そのための手段が題名・タイトルで興味を惹くことであり、題名のあらすじ化・長文化現象が起きる原因となる。

そういった意味を合わせてラノベ作品「村人ですが 何か?」を考えてみる。(ようやく本論に戻ってきた)主人公は転生者であり、本来は(お話の決め事としては)何らかの超常的な優位技術を持っているはずだ。しかし、題名にある通り「村人」として転生する。村人とはRPGゲームでは、いわゆる何の能力もない最低レベルの「ヒト族」という設定で、主人公の問いに一言、二言答えるだけの存在だ。だから、主人公の同行キャラになることなどゲームの都合上ありえない。
ところが、この物語では主人公が、その最低レベルの「ヒト族」の弱者で、守るべき幼馴染が「勇者」という設定だ。世界を守る役割を持った強者を最弱キャラが守るという掟破りな話になっている。まずこの時点で、英雄譚の鉄板定石が壊れている。
題名の意味することは、主人公の設定がキャラとして最低レベルで冒険になど全く向いていない、それに何か文句あるの?という読者に挑戦的な意思表明だ。(ちなみに、手元にあるラノベの最長題名は31文字だった。昔の原稿用紙でいえば2行分に当たる)
そして長文化した題名は、わかりやすさを考えると口語体になる、ならざるを得ない。漢字や熟語を題名に多用することの意味は、形容を抽象化し圧縮するためにある。そもそも論で言えば、より少ない単語で題名を作りあげることの意味はその意味の圧縮性にある。だから小説を全部読み終わって、初めて題名の意味がわかることが多い。(それが小説読みの楽しみとも言える)
ところが、ラノベの題名は抽象化が必要ないからか長文でも問題がない。そして、読者に話しかけるような会話文にしても問題ない。逆に会話形式の方がわかりやすくなるとも言える。「ミケの旅」と書くと、ミケという人だか猫だかわからないものが、どんな時代のどこの国を歩き回るのかわからないし、旅の目的も想像できない。ともかく何かがあちこちに放浪するお話なのだろうか、と理解というか推測をするだけだ。
ところが「精霊使いの美少女ネコが、エルフの国からドワーフの街に追放されてジジイに復讐を誓う件」と書かれていれば、主人公ネコは名前であって、おそらく種族はエルフであり、ドワーフの街に追放されるのだから、エルフとドワーフは少なくとも敵対関係で、ネコはエルフ種族の年寄りな男性の誰か、つまり族長と長老とかいう年寄り連中に仕返ししたいのだな、くらいは予想できる。
小説Webサイトにずらりと並ぶタイトルリストから、ぽちっとクリックさせるために生み出された戦術と言われれば納得できる。

【続く】

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えててみた #3 「何か?」の続き

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主人公は巻き込まれてから活動をするのがお作法だが (写真はイメージです)

話は少し逸れるが、現代の新しい物語の形として考えるべき、RPGと呼ばれるゲームではこの英雄譚の変形が主流だ。基本的にゲーム内の世界は、第三者視点(神の目)で見た神話もどきのファンタジー系であり、活字メディアのラノベ系と極めて近しい。
RPGのストーリーはこれまで述べたような「同行者との旅」と、そのサイドストーリで構成される。大作になれば同行者が膨大に増え、多数の中から選択できるようにもなる。サブストーリの数も物語の分岐として増える。
ところが、最近のゲーム界のヒット作では「ソロ活動」で支援者ゼロという旅ものが多くなってきている。ただ、どうもこれは物語として相性が悪いようで、「一人称視点」での戦闘ゲームへ別系統ものとして進化していった。ただし、一人称視点では物語性が足りず、そこを補うためにところどころに状況説明シーンを挟む必要がある。
ラノベの中でも、一人称語りの話は増えてきたのは、このゲーム世界の変動が影響している気がする。ただし、ラノベキャラの視点は微妙に第三者視点が混在する。書き手が世界の創造者だからこその混在だ。

ところが、ラノベと時代を共有してきたゲーム界でもう一段の進化が起きた。ゲームで操るプレーヤーがストーリーとは関わりがない行動を取れるようになり、世界を彷徨き回る「オープンワールド」という仕組みが一般的になったことだ。
完全な一人称視点で、ストーリーを無視した「遊ぶ」世界が展開された。ドラゴンクエストなどに代表される、初期RPGは多少寄り道はしても、基本はゴールに向けて一直線に進む物語だ。ボスを退治して物語世界は完結するのがお約束だった。ところが、最近の大作RPGは、ゴールはあるが、ゴール後もその世界をほっつき回ることが可能という設定になっている。物語がゴールまで続く直線、一次元世界だとすると、ゲーム世界にはゴールはあるが周辺に広がって行動できる二次元空間ということになる。

ラノベとゲームは互いに影響し合い共進化を遂げてきた。ラノベの読者とゲームプレイヤーは、ほぼほぼど重なり合った層になっているようだ。その結果として、ラノベ(テキスト)とコミック(画像)とアニメ(動画)とゲーム(疑似体験)が一体となって成立するビジネスモデルが出来上がった。
ラノベも読みコミカライズされたコミックを買い、アニメ化作品をフィギュアと共に楽しむ。売り手は一粒で何度でも商売ができる「美味しい」鉱脈を発見してしまった。
当然、その連鎖反応の開始点であるラノベ(テキスト)形態も、将来的に複合メディア化できるように整えられる。登場するキャラは性格づけと共に、メリハリの効いた体型や種族のバリエーションが必要だ。全て登場人物が日本人ではいけない。主人公を日本人にするとしたら、男女・年齢・体型、出身地(言葉遣いや方言)で区別をつけなければならない。
普通の地方都市にある高校から一クラスを異世界に転生させるなどという荒技も最近よく登場するが、そうなるとリアル世界ではあり得そうもない特殊キャラ、つまり普通ではない高校生を30人近く作り分け登場させるハメになる。一つのクラスの中に、悪者も含めた社会の縮図を作るというのは、文字だけの話作りとしては無理がある。
それを描き分けるのが嫌なら世界設定を変えて、「悪の秘密結社」戦闘員A、戦闘員B・・・のような没個性キャラにするしかない。ただ、これでは物語が進まない。戦闘員Aの悩みや人生観に感情移入できる読者は少ないだろう。
だから、すでにラノベは文字単体のメディアではなく、複合したメディアを意識した作品づくりが要求される。ネットで好きなように文字を紡いで小説を書き上げても、それが「出版」される段階から、新・メディアビジネスモデルの洗礼を受ける。
ラノベは映像化、動画化、できれば実写化までを見込んだ現代エンタメ・メディアの基礎であり出発点になっている。
もう一つの複合メディア・立体化の開始点は「ゲーム」になっている。当然、ラノベとゲームは互いに影響し合っている現在進行形で進んでいるが、ゲーム世界の方が物語構築ツールとしては少し先を行っているようだ。

【続く】


書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #2 口語文体としての『何か?』

Photo by Josh Hild on Pexels.com
アメリカンヒーローといえば、夜の高層ビル街がお決まりらしいが(写真はイメージです)

題名の「村人ですが 何か?」についてちょっと考察する。ラノベの題名が年を追うごとに長くなっている。ラノベ第一世代の題名は、それなりに小説らしいものがほとんどだった。「〇〇の旅」とか「〇〇の憂鬱」など基本的に2単語の題名が多い。たまに「〇〇の——— とんでもない理由」みたいな題名プラス惹句というパターンもあった。それが第二世代になると題名というよりあらすじ的な説明文になる。
典型的なのは「〇〇ですが何か?」「あれこれxxxして、〇〇になった件」のようなもので、最近では題名だけで100字近くになるものまで登場している。
ネットで見た解説によると、長い題名はネット投稿から生まれた「ネット小説」の特徴で、読者が投稿小説のリストを見るときに、話の中身が簡潔に説明されている方が選択されやすいということらしい。確かに、「紫の復讐」などという抽象的な題名よりは「長耳エルフが烈火龍の咆哮に耐え世界を取り戻した件」の方が、登場人物や対抗勢力の想像がつきやすい。特に、エルフ好きやドラゴン好きには魅惑の題名に思えるだろう。
SFでも「アンドロイドは電気羊の夢を見る」とか「あなたに、神のお恵みを」「たった一つのさえたやり方」のような短文的題名の名作があった。翻訳の都合もあったのかもしれないが、長めの題名は斬新感があった。ちなみに当時の日本SFの巨匠たちの作品は、ほとんどが「〇〇のXX」的なものだったので、翻訳SFを目立たせる対比として短文題名だったのかもしれない。

さて、「村人ですが、何か?」についてを考察する前にラノベのお作法について、いくつか確認しておく。まずは、ラノベのお手本というか先行形態のファンタジー小説について確認する。
ファンタジー系のお話の定石は、勇者が世界を救う旅をするということだ。インドの神話、ギリシアの神話、メソポタミアの神話、古今東西ありとあらゆる文明で語られてきている物語の原型は、英雄が世界を救う旅をした後、最終的に悪を滅ぼす物語と断定して良いだろう。それが神話冒険活劇・物語のアーキタイプ、原型であり、追加パターンとしていろいろなバリエーションがつく。
まずヒーロの素性に関してバリエーションが生まれる。英雄が生まれる経緯が、神様の落とし子だったり、ただの村人が精霊と合体したり、復讐に狂って悪魔になったが何故か改心したりなどなど、英雄誕生の理由はさまざまだ。ただ、基本的に英雄とは神の恩寵を受けた特殊な人扱いで、並の人間が苦労の末に成り上がるものではない。
また、旅の同行者が、あれこれおこす事件や、過去のしがらみが原因で、必ず旅に付き纏う。というか勝手についてくる。この同行者パターンは3つほどある。悪人に囚われている女性や子供などを救った後で、その救った「弱きもの」が無理矢理ついてくるのがパターンその1。
異常能力者、賢者など常人を超えた能力を持った強者が、何らかの制約で悪者に操られたり手下になっていたのを、戦いを通して解放した結果、制約条件が主人公にうつり(いやいやだったり、感謝したりして)ついてくるのがパターン2。
パターン3はその変形で、モンスターや魔物、人族的体型を取らない異族(天使とか悪魔、妖怪を含む)が、好奇心だったり受けた恩だったり、あるいは古き誓約を果たすために同行する。これは犬形態、虎形態、竜形態などがある。
物語の最初から最後まで英雄がソロ活動するというお話は読んだことがない。だいたい物語の冒頭でパターン1が発生し、半分より手前でパターン2あるいはパターン33が起きる。その結果として、物語後半は3−4名のパーティー活動になり、お約束のようにパーティー・メンバーの一人か二人がいなくなったり、裏切ったりする。
そのパーティー分裂を解消しながら、最後はラスボス、つまり制圧目的の退治で任務完了という流れだ。神世の時代から変わらないヒーローものの鉄板展開で、人類のDNAに刷り込まれたとも思える「英雄譚」のアーキタイプだろう。

そしてファンタジー小説・物語の正統後継者たるラノベも、この典型的な原型・アーキタイプを保持している。このアーキタイプを忠実に守っているラノベ(小説)が、10巻20巻と超長編変化している。(グインサーガーのようにギネスに乗るほど長いものまで生まれた)
逆に、アーキタイプから外れた作品は2巻で打ち止め、3巻で終結することが多く、セオリーを守らない実験作品は人気が出ないということのようだ。多くの読者は、設定は新しいが、話の筋はマンネリという作品を好むということだろう。身もふたもない言い方をすれば、永遠の「水戸黄門御一行旅」こそが、ラノベのヒット作として求められている。

【続く】