書評・映像評

イノセンス 甲殻機動隊異聞

DVD版 by amazon

気がつけば、もう20年近く前の作品なのだ。絵的な観点から見ればCGか普通に使われるようになった時代だった。自動車の移動シーンでは背景の絵柄との不具合というか、違いが目立つ。話の展開は少佐が電脳世界の中に溶け込み行方不明?になった後のバトーの暮らし、ということになるのか。いわゆるギミック的なSF設定もなく、登場人物も少ない。眈々とバトーの捜査ぶりを描くだけで、盛り上がりに欠けるといえば、確かにストーリーに膨らみはない。

押井監督らしいといえば当たっているのか、「抑えた物語」という点ではパトレーバーから、この後のスカイクローラーにつながる一連の押井作品は同じ色調だった。テレビ版の攻殻機動隊がガンシーン乱発のドンパチ・サスペンスだったのと比べれば、明らかにトーンを抑えた違う物語に仕上がっている。

この作品の後から、妙に屈折したキャラ造形が増え始めたような記憶がある。少年ジャンプ的な「努力と友情」で正義の戦いをするというお話はすっかり減っていったのではないか。機動戦士ガンダム・シリーズに出てくる一連の主人公キャラが全員屈折していた(屈折していった)少年だったが、それの大人版が、このバトーなのだと思う。本編攻殻機動隊では少佐の補佐役として、いい味出していたのが、この話ではすっかり陰鬱で下を向いているキャラに変わってしまったようだ。もとこロスなのだろう。

スピンアウトでキャラ変させるのは、押井作品のもう一つの特徴でもあると思うが、ここまで屈折させなくても良いのでは。択捉の工業地帯の描写はなかなか見所があるが、先の戦争で壊滅したはずの関東地区あたりで、もう一つの話を作ってくれないかと思っていたのだが。続編が出なかったのは興行的な問題よりも、押井監督の「次は実写」という作品へのこだわりだったのだろうと思う。できれば明るいバトーの話が見たかった・・・。絵をじっくり楽しみたい人には向いている抑えた大人のアニメーションだ。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0000APYMZ/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_XqqcEb2TDRXZS

書評・映像評

初めてのキングトーンズ

ラジオで聴いた曲をもう一度聴きたいと思っても、題名を聞き逃したらアウトだなとずっと思ってきたが、どうも最近は事情が違うらしい。

2年ほど前のラジオ番組のエアチェック(古いなあ)したものを聞いていたら、気になった曲があり、これをIPhoneでsiriに聞かせて曲名検索ができた。

あとはラジオ局のサイトで番組を検索すると、音楽を含めて記録が確認できる。そして分かった曲がキングトーンズの「夢の中で会えるでしょう」だった。ボーカルに聞き覚えがあるような気がしていたが、まさかこれほど古い曲だったとは。これはもう仕方がないとアマゾンでCD購入するまで、検索開始から5分もかかっていない。すごい時代だなあ。

キングトーンズの名曲といえば、グッドナイトベイビーしか知らなかったが、この人たちは本当にすごいボーカルグループだったのだといまさらながら感心した。ムード歌謡、演歌っぽい曲もあるが、本命はドゥアップ。秋の夜向きかもしれない。

書評・映像評

技術要塞戦艦大和 工程管理と標準化

仮想戦記ないでの思考実験

表紙 by amazon

仮想戦記というジャンルの小説がある。1980年代後半から一気にジャンル作品が増えたのは、バブル崩壊時代の「負けた意識」が、同じ負けた時代「第二次世界大戦」でのIFを、もしかした勝てたかもしれないという状況を望んだ読者が多かったということだったのではないか。読者のほとんどが戦争を知らない世代になっていたことも、書き手の制約が外れた要因だったのだろう。

その仮想戦記の中でも、それなりの理屈を立て大日本帝国の継戦能力を高めるという「リアル」派と、未来人が超決戦兵器を授けてくれました的「スーパー」派があった。今ではすっかりスーパー派はいなくなり、リアル派が最低限の歴史改変を行った結果はどうなったかという形での、思考実験が主流だ。その歴史改変を明治期の日露戦争で敗戦した結果として設定したのは故佐藤大輔の「レッドサン・ブラッククロス」だった。著者の主張は、そこまで時代を遡って日本の体制を変えないと日本は先の大戦で勝てない。それくらい戦争をするのに向いていない国だったということなのだが。

それと対照的なのが、この作家の歴史改変手法で、ガダルカナル戦は「もし兵站線の改善ができていれば負けなかった」とか、素材を含む技術体系を変えていれば零戦はもっと強くなっていたので「ミッドウェイ戦は・・・」と言った話を好んで作る。
要素的には継戦能力の改良のため「兵站の重視・確保」「標準化による量産性向上」や、生存性向上のため「レーダーの早期実用化」「陸海軍共同兵器開発」など史実的に起こらなかった、あるいは不十分だったことの改良とその波及効果という話になる。戦艦大和が出てきても、大和強いぞという話にはならず、砲弾の改良により大和の集弾能力を上げさせる。そのために何ができたかとかという話になるから、読む方としては延々と金属の性質と火薬の改良方法を学ぶことになる。それを飽きさせずに書くのが書き手の力量とも言えるが。

この技術要塞戦艦大和という題名をどう読み解くかといえば、国力(造船能力)に欠ける日本は、戦争時に建艦能力不足で負ける。戦線が拡大したときに前線に対する兵站問題(兵器や医療食料品)が解決できない。それも敗戦の原因となる。それらの諸問題をどう解決するべきかという海軍技術者のサラリーマン物語として仕上げている。
そもそも話の出だしからして笑わせられるのだが、大和の建造予算が足りないので、作る予定がない潜水艦を予算化し、その予算を流用して大和を作る企みが全てのきっかけだ。まるで今の日本政府のやり口のようだが、所詮政府のやることは、今も昔も変わらんのよという作者の意図が透けて見える。

そして戦争勃発により、予算が青天井化したため、作るはずのない潜水艦を作ることになる。もともと作る気がなかったので、革新的な、ある意味現実から随分かけ離れた設計思想が採用されていた。それがブロック工法と艦体設計の標準化、溶接による建造工程の簡素化なのだ。現代風に置き換えれば、ワンオフ製品を排除し、パーツやブロックの共有化を行い、過剰なカスタマイズも認めないというところか。

船体の共有化により潜水艦支援艦も空母も巡洋艦も貨物船も同じ設計図を使う。共有化した船体以外はそれぞれ用途に応じて「部品」をつけるというやり方で、戦艦建造に特殊技術が要らなくなる。ここでもう一つのIFが発動するのだが、現代の潜水艦と同様の「水中速力の向上」が盛り込まれる。この時代の潜水艦は、水中速度が極度に遅く「水に潜ることが可能な船」でしかなく、水中で戦闘機動ができる船ではなかった。そこをエンジンの改良というIFを持ち込み、高速水中機動戦ができる潜水艦を完成させた。
こうしてできた潜水艦は、試作オンリーのワンオフだったはずが大量生産され予想もしない戦力になる。

溶接できる高張力鋼がブロック工法には必要なのだが、その高張力鋼のおまけとして、輸送コンテナが発明され、そのコンテナの使用により兵站維持が楽になる。そもそもコンテナの運用が海軍主体ではなく陸軍主体になるというのが、作者の皮肉でもあるのだが。海軍はどんぱちにしか関心がなく、太平洋域の侵攻に巻き込まれた陸軍への補給について関心が薄いという、おバカな海軍という描き方だ。(事実、歴史でもそうだったし、現行の帝国海軍後継者である海上自衛隊もシーレーン確保能力はない。そこは米海軍任せだ。この話はリアルにすると相当きな臭い話になるので割愛)

全編通してダメな組織の典型として、かなり大袈裟に書かれている海軍だが、この組織は現代日本ではどこにでもある会社組織の典型として見ても間違いはない。だから、作者の指摘する海軍の構造改革は、海軍の後継官衙であるところの現日本政府にも当てはまるし、大多数の企業組織にも当てはまるだろう。陸海軍の部門対立は、省庁の対立であり、ワンオフ・カスタマイズ製品の横行は効率論を考えない(自分のお手柄に固執する)管理職の意識問題だろう。

少なくとも「工程の標準化」「パーツ・ブロック化」「カスタマイズ排除」は現代日本の企業文化と相入れないもののような気がするが、そこを起点に組織改善を求めることが、大日本帝国と異なる「負けない未来・組織」を作ることになるのだと理解できないか。

この話が導くこと。仮想戦記とは、実は現代組織論への問題提起なのだな。

Uncategorized, 書評・映像評

ラノベの共振軸とは (表紙で判断してはいけないよ)

ラノベ、ライトノベルと言われる小説の一ジャンルだ。昔はジュブナイル(青少年向け)として描かれていた文庫形態の小説でシリーズ化されるものが多い。大体のお約束として、主人公は高校生から大学生くらいの年代で、異世界だったり超能力者のいる世界だったり、冒険と人間関係の軋轢の中、ちょっとだけ恋愛モードもありながら精神的に成長していく(大人の階段のぼる)SF的なお話だった。

それがここ数年で、web小説の一ジャンルとして急成長し、ウェブサイト経由で書籍として出版される、アニメ原作になるなど一躍現代的なメディアミックスの各商品となってきた。そして、その主たる構成が「転生もの」だ。ある日突然、なんらかの理由で主人公が現実の世界から訳のわからん、魔物がいたり、超能力者がいたりする世界に飛ばされる。主人公が死んで転生するパターンが多いが、タイムスリップしたり、魔界の誰かに拉致されたり、理由ははどうでも良い。そして、なぜかその異世界では日本語が通用し、なぜか善良な悪魔みたいな異生物が仲間になる。身もふたもない言い方を知れば、異世界を用意した上での願望充足小説といえば良いか。
そして、もう一つの共通項が表紙(あるいは本編内の挿絵)で、アニメ系美少年美少女、たまには成人美人が描かれている。この辺りは登場人物造形のお約束ごとでもあるようだ。

エルフと人が住む世界で、エルフに育てられ人的思考ができなくなった
適合不全な若者が再生?する物語

さて、芝村裕吏作「やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい」は、このラノベの約束事をずいぶんはみ出している。人族と魔族が共存している異世界で、捨てられた人間の子が、自分を人間と思わないで育ったらという設定の主人公がいる。その主人公(ただし自分は人間ではないと信じたまま)人族側に立って悪戦苦闘する話だから人間と噛み合わない。おまけに超絶的な力(いわゆるチート)は持たず、誰に習ったわけでもない軍略を極めていくという話だ。唯一ラノベのお約束を守っているといえば、登場女性キャラに大モテなのだが、そのまとわりつく女性キャラの誰をも迷惑に思っている。ストイックぶりというか、自分は人間ではないぞ的意識が不思議な雰囲気を出している。そんな人間には同調しにくい性格をしているくせに、いつの間にか人族以外のはぐれた魔物はどんどん仲間にしている。このまま行くと人魔獣連合による世界統一目指してい口ことになるだろう。この女性キャラ取り巻き問題は、芝村裕吏のヒット作「マージナルオペレーション」シリーズとも共通している作者独自のスタイルだ。しかし、この「やがて僕は・・・」の原型は、佐藤大輔の「エルフと戦車と僕の毎日」にあり、そのオマージュというか対応作品であるような気がする。

エルフ世界でガチの戦車戦を展開した。佐藤ワールド全開。

さて、芝村裕吏作「やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい」は、このラノベの約束事をずいぶんはみ出している。人族と魔族が共存している異世界で、捨てられた人間の子が、自分を人間と思わないで育ったらという設定の主人公がいる。その主人公(ただし自分は人間ではないと信じたまま)人族側に立って悪戦苦闘する話だから人間と噛み合わない。おまけに超絶的な力(いわゆるチート)は持たず、誰に習ったわけでもない軍略を極めていくという話だ。唯一ラノベのお約束を守っているといえば、登場女性キャラに大モテなのだが、そのまとわりつく女性キャラの誰をも迷惑に思っている。ストイックぶりというか、自分は人間ではないぞ的意識が不思議な雰囲気を出している。そんな人間には同調しにくい性格をしているくせに、いつの間にか人族以外のはぐれた魔物はどんどん仲間にしている。このまま行くと人魔獣連合による世界統一目指してい口ことになるだろう。この女性キャラ取り巻き問題は、芝村裕吏のヒット作「マージナルオペレーション」シリーズとも共通している作者独自のスタイルだ。しかし、この「やがて僕は・・・」の原型は、佐藤大輔の「エルフと戦車と僕の毎日」にあり、そのオマージュというか対応作品であるような気がする。

ファンタジー世界で落ちこぼれ高校生が転生し復活する物語

しかし、佐藤大輔の「エルフと戦車と・・・」には、もう一段、伏線が潜んでいたと思う。豪屋大輔作の「A君(17)の戦争」が下敷きにあると推測しているからだ。実は豪屋大輔は佐藤大輔の別のペンネームであるという噂が作品刊行時からずっと流れていて、どうやら本当らしい。作品の語り口や登場する兵器に対する描写、戦術や戦略論などはまさしくファンタジー世界版の第二次世界大戦だった。「A君・・」の世界は魔族が戦うファンタジー世界だが、魔法を動力とした怪しい兵器体系があり、そこに転生したA君17歳が、現実世界で感じていたコンプレックスをバネにファンタジー世界でそれなりに尊敬を受け成長していくという話だ。そして、これも佐藤大輔諸作品と同じく途中でバッサリと話が止まる。中断してしまう。未完のまま10年以上放置される。(ちなみに佐藤大輔最後の作品は恒星間宇宙もので、第1巻で終わりになってしまった)

おそらく佐藤大輔は、多少考えるところがあり、「A君(17)の戦争」を書き直すつもりで「エルフと戦車と僕の毎日」に取り掛かり、おそらくは完結するつもりで書いていた。これが終わったら「皇国の守護者」も面倒を見る気だったのだと思う。それが、果たせないまま絶筆となった。そして、芝村裕吏がファンタジー世界という出版社からの注文に対して「やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい」で、佐藤大輔の描ききれなかった転生高校生のファンタジー世界成功物語を、完結まで語り尽くそうとしているのではないかと個人的に想像しているのだ。

佐藤大輔ファン、そして芝村裕吏ファンとしての妄想だが、この三作品は共振を起こしているように似ているのだ。今度こそ完結編を読んでみたい・・・。

追記
「蜘蛛ですがなにか」は「転生したらスライムだった件」の影響から生まれた作品だそうだ。このジャンルの作家は、熱狂的なジャンル作品のファンでもあるから、佐藤大輔・芝村裕吏のリレーもありそうな気もするのだけれど。

書評・映像評

創竜伝 ラス前らしい 田中芳樹の良心

表紙 by Amazon

https://www.amazon.co.jp/dp/4065173817/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_xjGqEbWZ6B83M

未完の大作だらけだった田中芳樹の放りっぱなし作家ぶりが(笑)が、ここ数年実に勤勉になったと感心し、ありがたいことと感謝している。

放置していた作品は記憶にある限り以下の通り
タイタニア  88年に第一部、91年に第3部、その後22年ぶりの2013年に第4部を刊行し完結
完結まで25年

アルスラーン戦記 86年第1巻、99年に第10巻、そこからその後6年空けて再開し2005年第11巻
2008年13巻、またしばらく休み14年に第14巻、17年に第17巻で完結
完結まで31年

創竜伝 第一巻は87年、2003年に第13巻が出た後、19年に16年ぶりで第14巻が出て、来年には最終巻刊行予定(希望)らしい。完結まで33年かかることになる。

世の中に未完の大作と言われる作品は多いが、一人でこれだけ未完作品を長期に抱えている作家も珍しい。

タイタニアは超未来の星間帝国の話だし、アルスラーン戦記は中世ペルシアが想定世界なので、時間がかかっても世界の変容はないのだが、創竜伝は現代テーマなので、33年も経つと色々と不都合が生じる。ダメダメな政治家はいつの時代にもいるので、そいつを揶揄するのは問題なかった。ダメな総理大臣はいくらでもおかわりが聞いたからだ。
ところが作品世界を彩る小道具が困った状況になっている。刊行当時の87年世界は、まだ携帯電話が本格的に普及する前で、ポケベルがまだ全盛だった頃。それが最近巻ではスマホにインターネットが世界を構成する重要小道具になっている。学識高い人にものを聞くより、スマホで検索する方が早いし説得力もある。国際社会も大変動しているから、なかなか整合の取れない作品世界となってしまった。まあ、それはご愛嬌として、我慢できる。最大の問題は4人の主人公の動きが悪くなってしまった。つまり、書き手であるところの田中芳樹が高齢化して、ドタバタが書けなくなっているという疑惑だ。やはり書き手は若いうちでなければ、活劇ものを描くのが難しいようだなと思う。
どうも最終巻は月に入って怪獣大決戦的な話になるようなので、それであればなんとか書ききれるかなとは思うが。
アルスラーンの終わり方のあっけなさ、タイタニアのバッサリ具合を思い起こせば、四兄弟が昇天して終わりというのもありえない話ではない。(昇天とは文字通り神の世界に戻るという意味で)

「おまけとして」
どうやら長編多作型の作家に未完作品が多いようだ
記憶にある未完作品をご披露すると、
半村良 「太陽の世界」 全80巻の触れ込みで書き始め20巻で放置された。
妖星伝は15年間を開けて最終巻が出た。

平井和正 「幻魔大戦」「真幻魔大戦」はちょっと微妙だが「青年ウルフガイシリーズ」は終りが見えないまま放置。

小松左京 「日本沈没」の続編は谷甲州により完結したが「虚無回廊」は未完。

書評・映像評

ナミヤ雑貨店の奇跡 職人芸の極み

表紙 by Amazon

映画にもなった東野作品だが、やはりこう言う話を描かせると本当に上手い人なのだな。オムニバス形式で登場人物が微妙にオーバーラップする。物語の舞台は、80年代のバブル期と2010年代を行き来する。時系列が前後に飛びながら話を収束させていく。思わず登場人物の時点と関係を作表して整理したくなるほどだ。
ただし、この整理表を見た瞬間に全てのネタがバレてしまうので、一冊読み終わった人しか見てはいけないものだろう。

この話は昭和後期に発表されていれば、間違い無くSFとして扱われたであろう作品だが、今ではこの程度のタイムスリップ、パラレルワールド的に話を展開させても、小学生ですら驚かない。そもそも小学生でもタイムスリップとか次元転移が常識になったのは何時頃からだろうか。少なくともドラえもんで刷り込まれたSF的概念に誰も抵抗を覚えなくなったのだ。とすれば、40年前の小学生が大人になり、自分の子供とドラえもんの話をするようになった時から、SF的ガジェットは大人も子供も共有できる「一般化した」ものになったのだと思う。
この東野作品も、そうしたドラえもん(その他各種SFアニメ・コミックなど)で教育された大人たちが読者になった時代だから、タイムスリップ的事象に余分な説明をしないでスラッと書けたはずだ。タイムトラベラーの説明が必要だった「時をかける少女」から、読者も作者も随分と進化したものだ。

ただ、手紙のタイムスリップという話だけでは物語として膨らむはずもない。5話の物語のどの話の中でも不幸な人間関係が縦軸となり、そこにナミヤ雑貨店主とその人生相談に関する回答が絡むようになっている。それぞれの話の主人公たちは誰も幸福ではなく葛藤を抱えたままだ。その葛藤が続きの話の中で解消されたこととして語られたり、サラッと逸話として流れたりする。この辺りが名人芸とでも言うべき気持ちの良さ、長く放置された伏線が回収されるスッキリ感となる。
読み切ってみると映画化されたものを見たくなってきた。原作がどのように料理されたのか、ちょっとドキドキする。

80年代、バブルの時期って、もはや経験者の方が少数派なのだなと思いつつ。

書評・映像評

アサシンクリード  12年前のゲーム

今やamazonでも買えないほど古いゲーム・・もちろん中古では買える

パッケージ by amazon
PS3版もあるが、そちらは流血シーンが自主規制されているらしい。日米のゲーム感の違いか?

アサシンクリード とは、訳してみると暗殺者の信条、信念という感じか。アサシン教団、つまり宗教的な暗殺教団の存在は、今では伝説とする考えが支配的らしい。
ただゲームの設定としては、ファンタジー世界と同じ扱いで問題はないだろう。ゲームとしては背景がイスラームとキリスト教の対立が起こっていた十字軍世界なので、冒頭に「フィクション」であり、宗教信条が雑多な集団によって作られた(宗教的な偏りはない)という言い訳が必要になったのも無理はない。

さて、ゲームとしてはすでに10年以上前の作品なのでゲームシステムも含め古びてはいる。ただ、当時としては相当に進んだ設計だった。ファイナルファンタジー12あたりと同時期なのでビジュアルでは3D的な展開となっている。最近では当たり前になったオープンワールド的な部分もあるが、基本的にはシナリオ通り進行しなければ話が進まない、ゲームのゴールにたどり着けない。
要するにアクション型の謎解きゲームで、シーンの合間に多少動画によるストーリ展開があるという、現在の主流なゲームスタイルの元祖的作品だろう。続編も10作近く作られているので、やはり人気シリーズであり、ドラクエやファイナルファンタージー的なコアファンがいるということだ。ジャンルとして「龍が如く」と似たところがあるのだろう。新作が出るとつい試してみたくなるということか。

ゲーム自体は謎解きもほとんどなく単調だ。ターゲットを指示され暗殺すると、スキルが上がり強くなる。最初は雑魚キャラを倒すのも精一杯だったが、最終局面では雑魚キャラ撫で斬りも可能になる。暗殺目標を9回倒し続けるのだから、最後の方ではほぼ作業になってくる。良くも悪くもシリーズ物の第一作品とはそういうものだ。ただ、このシリーズが長く続いているのは、なんと言っても画像の緻密さと美しさなので、その点を楽しめるのであれば、これは名作というべきだ。

オヤジにとっては指先の訓練になるというメリットもある。もっともスーパーマリオで3面までしかいけない腕前にもかかわらず、そこそこ楽しめるということはアクションゲームとしては優しい部類なのだと思う。

押し入れに押し込めていた昔のゲームを引っ張り出してきて、年末年始は楽しく過ごせましたとさ。

書評・映像評

横浜駅SF  日常の非日常化

表紙 by amazon

横浜駅sf

ロードムービーという映画のジャンルがある。要は旅をする主人公を描く物語で、少年が旅で成長する、青年が旅で世のほろ苦さを学ぶ的なストーリーと理解している。主人公の性別は問わないが、男の子が登場することが多いと記憶している。

SFでも旅を背景にした物語は多い。「ポストマン」が典型的な名作だ。あえて言えば戦争SFの名作と言われる「宇宙の戦士」も、兵隊があちこちに出張っていく物語といえば、そう言えないこともない。日本SFで言えば筒井康隆の名作があるが、なんと言っても旅作家椎名誠の「アド・バード」が、旅SFでは屈指の名作だと思っていた。

この本も読んでいるうちに、なんだか「アド・バード」に似ているなあと思っていたら、後書きで著者が「アド・バード」が好きで、その影響が・・・みたいなことを書いていたので納得した。

作品世界は横浜駅が全国に膨張していく時代の話で、そこに聴き慣れた単語「スイカ」「自動改札」「青春18キップ」「JR」などが頻出するのだが、自分が理解記憶している単語と作中単語は似ているようで異なっている。このズレ感が楽しい。また様々な世界事象を説明する造語、例えば「構造遺伝界」や「JR統合知性体」、「N700系電気ポンプ銃」などドキドキものの単語が並ぶ。正統SFではこの怪しい造語とガジェットが必須備品なのだが、これが実に楽しく散りばめられている。

主人公が、自分探しの旅に出て、意図せずに巻き込まれた事件が、既存社会を崩壊させる引き金を引くことになったという話なのだが、世界を救うような使命感を最後までもたないまま怪しい世界を彷徨うという、まさに王道的ロードムービーで完成度は高い。悪役も出てこない、敵役も出てこない、淡々とした話の流れが逆に心地よい。

サイバーパンクと言われた諸作もガジェットと造語の嵐だったが、それよりもはるかに分かりやすい。ただ、できればもうすこしこの横浜駅に占拠された日本を覗いてみたいという欲求に駆られる。続編ではその辺りが書かれているようなので、2冊合わせて異世界を堪能することにしよう。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062936836/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_4hqcEbDNWX9D2

書評・映像評

明治維新という過ち

表紙 by amazon

この本の主題は、二つあるのだと思う。
一つ目が、「明治維新」という言葉は、昭和初期の軍事クーデター(226,515事件)を図った連中の造語であり、昭和維新を語るために「明治維新」という言葉で美化したというものだ。そして、テロリストが昔のテロを美化するとはとんでもない思想だと断罪する。
二つ目が、「司馬史観」が、明治新政府を賛美するのは間違いだと、これもバッサリ切り捨てる。確かに司馬遼太郎作品は戦国期ものと、明治の前後のものに大別されるが、徳川政権をバッサリ切り捨て、明治政府を無条件に賛美する風がある。そして、自分が巻き込まれた昭和の戦争期前後については、沈黙したままだ。

「明治維新」をどう捉えるかについては、勝った官軍が自分たちを美化したという指摘は正しい。そして戊辰戦争後の明治政府が薩長同盟から長州単独政権になっていく過程で、徳川体勢=悪、薩摩=初めは仲間だが、悪になった、長州勢力=正義の味方、と書き残されたのだろう。そして生き残った長州勢力が陸軍を仕切り、大陸進出から世界相手の戦争へと突き進む構図だというのだ。これもああお胸正しいだろう。
だから、戊辰戦争とは西国下級武士の藩政クーデーターによるテロ組織創出、そして西国での広域連携した上で、現政権たる東国への反乱であると規定する。西日本出身者には、自分達が正義と思っていた歴史を否定されるので、甚だ面白くないかもしれないが、東国出身者、特に東北諸県では強いされるしそうだと思う。昨年も鹿児島で見たのは明治維新150年記念展示で、仙台で見たのは戊辰戦争150年展示だった。いまだに同じ歴史事象の捉え方が日本の西と東では大きく異なっている。

「司馬史観」についての論評も厳しい。ただ、司馬作品が中国戦争から太平洋戦争まで(著者は大東亜戦争と呼ぶ)の前後について、全く書いていないのは度々他の評論でも見る。小説以外でも、司馬氏は明快な論評を避けているテーマであったようだ。徳川体制を嫌い、戊辰戦争前後の(著者いうところの)テロリストを、次の時代を切り開いた若者と描くことに反発があるのだろう。「竜馬が行く」では、「龍馬」と書かなかったことで逃げを打っていると指摘する。吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など教科書に異人扱いされている長州出身者を、バッサリとならずもの、小物扱いで、昭和に続く悪しき時代を作った元凶と言い切っている。司馬作品を好んで読んでいたが、確かに著者の指摘する英雄偶像化があるようだ時がついた。確かに竜馬が行くの主人公は爽やかすぎるのだ。歴史小説はあくまでも小説であり、ファンタジーなのだろう。実際に、竜馬が、西郷隆盛が、大久保利通があれほど爽やかでいいやつだったはずもないのだ。京都であれだけのテロがくりかえされる中で生き延びたということは、それだけで「良い人」だけではなかったという証明だろう。「いい人」や「軽率でおバカな人」はテロの嵐の中では生き残れない。

論の後半は、戊辰戦争で東北諸藩、奥羽越列藩同盟とならず者官軍(自称)との話になるが、ここはかなり情緒的な話になる。ただ、明治維新ではなく戊辰戦争と言い切る東北人の恨みは、それこそ千年かかる課題であり、加害者視点では理解できない重さなのだということも納得がいく論点だ。ましてや、東日本大地震での福島原発事件がある以上、明治政府対東北諸藩という構造が、平成の世で蘇った感もある。山口県出身の首相が、福島県に行って融和を求めても、なかなか同意は得られないことだろうとも思う。

少なくとも歴史教科書に対する様々な議論がある中で、この本の訴えかける「長州=官軍が作った歴史観に反対する」ということについては、歴史記述の公平、標準化を言う時に、ぜひ考慮しなければいけない論点だろう。

テロリストが作った明治政府を、いいように利用した昭和軍閥が描いた明治維新という歴史。そして敗戦により戦勝国寄りに書き換えられた近代史。少なくとも150年前と70年前の戦争による大混乱で、歴史が歪められたのは(勝った方が自分は正義で、負けた奴は悪い奴だったから退治されたという論理を通した)否定できない。
思想的には偏っているかもしれないが、近代史を再考するには良書だと思う。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062936836/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_4hqcEbDNWX9D2

書評・映像評

「百姓貴族」 リアルの農家エッセイ

表紙 by Amazon

タイトルには惹かれて手を取ったのは随分前のことで、1・2・3巻と立て続けに読んだ。それから本屋で見かけることもないまま何年かたってしまい、先日平積みされている6巻を見つけて買ってきた。

十勝の農業の話で、「銀の匙」でも書かれていたリアルな農家の生活や経済観が大量出展されている。都会人の「農業幻想」を木っ端微塵に打ち砕くリアルさが良い。この辺りは生き物を扱う牧畜と大規模な畑作(野生動物との戦い)の話であるからだろう。稲作であれば、この手の話題よりも治水問題、水利権争いや共同作業と機械化のぶつかり合いなどが大きな問題になるので、ザックリと言えば人同士の絡みの話になる。それだとそのまんま社会の縮図にしかならないので、絵的には面白くならないかも。などと考えもした。

荒川家の頑丈なお父さんの強靭ぶりもすごいが、「百合根」が投機的に扱われていたという話で、なるほどと肯いていた。確かにバブルの時期は、農作物でもそんな話があった。夕張メロン初競りで信じられないような値段(たしかひ一玉100万円くらいだったような記憶もあるが)がついてニュースになった。夕張は億万長者の街かと思ったものだ。それから10年くらいして、夕張市は破綻したが。

知り合いの農家に聞いたことだが、作付けカレンダーを作るのはお母さん、それに従って畑で働くのがお父さん、だから、農家の収入はお母さんの知恵によって著しく変動するみたいなことだった。農家も女性主導の社会ということだ。(うーん、これは性的差別にはならないと思うが)
この本を読みながらそんなことを思い出していた。確かに、百姓では王様には成れないが、貴族くらいになれる人はいるのだなあ。

https://www.amazon.co.jp/dp/4403671802/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_.dqcEbEVH2GD1