書評・映像評

シンクロニシティー

シンクロニシティーという言葉をたまに感じることがある。共時性と訳されるようだが、関係のない二つのことが意味を持ったように同時に起きること、みたいな理解をしている。偶然の一致という方がわかりやすいかもしれないが、そこに偶然ではない何か意味がありそうということだ。
今年の夏のシンクロニシティーは、たまたま読み始めた「歴史小説」と「コミック」だった。小説の方は積読のまま2年以上放置していた。コミックは題名を勘違いして、一巻目を手にしてしまった。読み始めたのはほぼ同時期で、しばらくして同じ場所の物語だと気がついた。

コミックはすでに連載が完結し、今年アニメ化された作品だった。舞台は和歌山県北部、和歌山と淡路島の間の海峡にある小島だった。小説の方は、最初の舞台が広島と愛媛の間につながる瀬戸内の島で、村上海賊の本拠地だったが、話の流れで大阪南部でおこる本願寺戦争に移る。そこで登場するのが、泉州海賊の一味。その本拠地は淡路島の向かいにある和歌山北部で、海峡の島を通る商船を商売の種にしている。

小説もコミックも早いテンポで話が展開する。ハラハラドキドキの良質のエンタテイメントだが、どちらも主人公は若い女性で、それも性格的に突き抜けているというか元気印が歩いているような「豪傑姫」だ。周りの男が霞むような存在感がある。

コミック「サマータイムレンダ」は、ごくたまに少年ジャンプが生み出す極めて良質の物語で、現在ダラダラと超長期化しているダメな連載(これも初めの頃は良質エンタメ作品だったのになあ)とは決定的に異なる。どんでん返の連続で、スピルバーグ作品を見るような疾走感がある。

和田竜作品「村上海賊の娘」はコミック化もされているが、これは是非とも実写版で映画化してほしい良質の時代劇なエンタテイメントだ。

https://www.shinchosha.co.jp/book/306882/

夏休みの読書感想文が宿題だった時代に、こんなエンタメ作品があれば、感想文を書くのも楽だったのになあとしみじみ思う。この歳になってとは思うが、本を読んでその舞台になった場所に行ってみたい(いわゆる聖地巡礼というやつだ)と思わされた。
良い作品には読み終わった後も惹きつける魅力があるということだろう。アニメの放送が終わってしばらくしたら、この島を訪ねてみるのも良いかと思う。今の時期は、アニメファンに囲まれて小さな島めぐりをすることになるのでちょっと気が引ける。冬になってからひっそりといくのが良いのかもしれない。
今年の夏のシンクロニシティーは、良い旅の始まりにつながることを期待しよう。

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #5 「村人」について

怪獣映画ではよく壊される街の代表 銀座

こうしたことを前提に「村人ですが、何か?」という比較的短めの題名を考えてみる。まず、「村人ですが」に潜んでいる意味はいくつか考えられる。まず「村人」とはゲーム世界でよく登場する話しかけると一言か二言だけ答える、その他大勢の役だ。その一言には隠されたお宝や武器を探すためのヒントであったり、今後の進路の重要情報であったりが含まれていることもある。
紛らわしい偽情報を流す村人もいる。また、全く役に立たないお天気の話しかしないという役もいる。手の込んだ例だと、3回お天気の話をすると、くどいと怒り始めて、こちらが謝りながらプレゼントをするとようやく情報を話し始めるみたいな仕掛けもある。
つまり、村人とは英雄グループの仲間にも入らず、旅をしないまま村という閉じた世界にいるものを意味する。そして「何か?」というフレーズは、本来脇役でしかない一過性の登場人物が、「この俺様、村人に対して何か文句あるのか?」と問いかけている訳だ。もう少し勘繰ってみれば、俺にいちゃもんつける気かと怒っているとも言える。
当然、村人に問いかけているのは英雄グループの一員だ。村人同士は会話をする仕様になっていない。だからこのシーンは、主役(英雄)が脇役(村人)に、それもチョイ役にものを尋ねたら、逆ギレしてブイブイいっているという構図ではないか。ここまでイメージ喚起を具体的に迫っているとは言えないが、長文題名の意図するところはシーンの換気力にある。
そして読者(購入者)は、こう考え始める。なぜ、主人公であるはずの英雄に対して、その他大勢の脇役、モブキャラでしかない村人が絡んでいるのだと。これは新しいパターンの話なのでは? 面白いのかも? 読んでみようか?と言う連想ゲームの始まりが「村人タイトル」になっている。
書店で売っている本に付けられる「帯」と似たような効果をもたらすテクニックだ。「帯」とは表紙では(デザイン的に)書くことができない惹句、売り文句を表紙の上に邪魔にならない程度に付け足す道具だ。それを投稿サイトにずらっと並ぶ「タイトル・題名」と帯化したのが、この長くて説明的なタイトルということになる。
他の長文タイトルも、似たような効果を狙ってつけられているのは間違いない。書き手のテクニックとして、すっかり定着した感じがする。ただ、それはエンタメ・ビジネスサイクルにとっては、もはや不可欠な道具であり業界のお約束なのだろう。口語体で、話しかけるように長文の題名をつけるのは、ラノベ書きの定石その1といえる。そして、定石通りのタイトル名が、アニメや実写化された動画のタイトルになるので、世の中のエンタメコンテンツの題名が長文化していく。テレビドラマの題名もそれにつられて長くなっている。非常に穿った言い方をすれば、Web世界が現実世界を侵食している。

【続く】

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #4 「何か」までまだ少し寄り道中

写真はイメージです 放浪旅に歌舞伎役者キャラは似合うと思ったから歌舞伎座にしてみた

最近のヒットゲームでゲームとラノベのお作法を比べてみる。FF15の主人公チーム・キャラ4人プレイとDEATH STRANDINGのソロ配達人が、典型的な物語づくりの対比になる。FF15は「スタンドバイミー」のオマージュのような気もするし、DEATH STRANDINGは「ポストマン」 D プリン作のオマージュだと思う。
典型的なグループ旅物の体裁を取るのがFF15で、ゲームの全体構造もストーリーも古典的英雄譚の形を忠実にまもっている。女性キャラが登場しないのが、いささか定石から変わっているくらいのものだ。
DEATH STRANDINGは、旅物の定石を破り、最後まで一人旅だ。手助けする仲間も、同行してくれる魔物もいない。襲ってくるミュータントや化け物はいるが、それも倒さなければならないことは稀で、戦わずに逃げても物語は進む。
この一人旅がラノベ(活字)になったとしてヒット作品になったかというと、これはかなり怪しい。ラノベ→ゲームは成立しても、ゲーム→ラノベは難しいという例だ。やはり現代のエンタメ産業としてのゴールデンルールは、
ラノベ(webテキスト)→ラノベ(出版)→コミカライズ(出版)→アニメ(動画放送・配信)→ゲーム(スマホ・専用機量対応)→インスパイア系ラノベ(web)ということなのだろう。
そのエンタメ・サイクルの出発点であるラノベweb版で重要視されるのが、ともかくクリックしてもらうことだ。そのための手段が題名・タイトルで興味を惹くことであり、題名のあらすじ化・長文化現象が起きる原因となる。

そういった意味を合わせてラノベ作品「村人ですが 何か?」を考えてみる。(ようやく本論に戻ってきた)主人公は転生者であり、本来は(お話の決め事としては)何らかの超常的な優位技術を持っているはずだ。しかし、題名にある通り「村人」として転生する。村人とはRPGゲームでは、いわゆる何の能力もない最低レベルの「ヒト族」という設定で、主人公の問いに一言、二言答えるだけの存在だ。だから、主人公の同行キャラになることなどゲームの都合上ありえない。
ところが、この物語では主人公が、その最低レベルの「ヒト族」の弱者で、守るべき幼馴染が「勇者」という設定だ。世界を守る役割を持った強者を最弱キャラが守るという掟破りな話になっている。まずこの時点で、英雄譚の鉄板定石が壊れている。
題名の意味することは、主人公の設定がキャラとして最低レベルで冒険になど全く向いていない、それに何か文句あるの?という読者に挑戦的な意思表明だ。(ちなみに、手元にあるラノベの最長題名は31文字だった。昔の原稿用紙でいえば2行分に当たる)
そして長文化した題名は、わかりやすさを考えると口語体になる、ならざるを得ない。漢字や熟語を題名に多用することの意味は、形容を抽象化し圧縮するためにある。そもそも論で言えば、より少ない単語で題名を作りあげることの意味はその意味の圧縮性にある。だから小説を全部読み終わって、初めて題名の意味がわかることが多い。(それが小説読みの楽しみとも言える)
ところが、ラノベの題名は抽象化が必要ないからか長文でも問題がない。そして、読者に話しかけるような会話文にしても問題ない。逆に会話形式の方がわかりやすくなるとも言える。「ミケの旅」と書くと、ミケという人だか猫だかわからないものが、どんな時代のどこの国を歩き回るのかわからないし、旅の目的も想像できない。ともかく何かがあちこちに放浪するお話なのだろうか、と理解というか推測をするだけだ。
ところが「精霊使いの美少女ネコが、エルフの国からドワーフの街に追放されてジジイに復讐を誓う件」と書かれていれば、主人公ネコは名前であって、おそらく種族はエルフであり、ドワーフの街に追放されるのだから、エルフとドワーフは少なくとも敵対関係で、ネコはエルフ種族の年寄りな男性の誰か、つまり族長と長老とかいう年寄り連中に仕返ししたいのだな、くらいは予想できる。
小説Webサイトにずらりと並ぶタイトルリストから、ぽちっとクリックさせるために生み出された戦術と言われれば納得できる。

【続く】

書評・映像評

ラノベのあれこれを考えててみた #3 「何か?」の続き

Photo by Emiliano Arano on Pexels.com
主人公は巻き込まれてから活動をするのがお作法だが (写真はイメージです)

話は少し逸れるが、現代の新しい物語の形として考えるべき、RPGと呼ばれるゲームではこの英雄譚の変形が主流だ。基本的にゲーム内の世界は、第三者視点(神の目)で見た神話もどきのファンタジー系であり、活字メディアのラノベ系と極めて近しい。
RPGのストーリーはこれまで述べたような「同行者との旅」と、そのサイドストーリで構成される。大作になれば同行者が膨大に増え、多数の中から選択できるようにもなる。サブストーリの数も物語の分岐として増える。
ところが、最近のゲーム界のヒット作では「ソロ活動」で支援者ゼロという旅ものが多くなってきている。ただ、どうもこれは物語として相性が悪いようで、「一人称視点」での戦闘ゲームへ別系統ものとして進化していった。ただし、一人称視点では物語性が足りず、そこを補うためにところどころに状況説明シーンを挟む必要がある。
ラノベの中でも、一人称語りの話は増えてきたのは、このゲーム世界の変動が影響している気がする。ただし、ラノベキャラの視点は微妙に第三者視点が混在する。書き手が世界の創造者だからこその混在だ。

ところが、ラノベと時代を共有してきたゲーム界でもう一段の進化が起きた。ゲームで操るプレーヤーがストーリーとは関わりがない行動を取れるようになり、世界を彷徨き回る「オープンワールド」という仕組みが一般的になったことだ。
完全な一人称視点で、ストーリーを無視した「遊ぶ」世界が展開された。ドラゴンクエストなどに代表される、初期RPGは多少寄り道はしても、基本はゴールに向けて一直線に進む物語だ。ボスを退治して物語世界は完結するのがお約束だった。ところが、最近の大作RPGは、ゴールはあるが、ゴール後もその世界をほっつき回ることが可能という設定になっている。物語がゴールまで続く直線、一次元世界だとすると、ゲーム世界にはゴールはあるが周辺に広がって行動できる二次元空間ということになる。

ラノベとゲームは互いに影響し合い共進化を遂げてきた。ラノベの読者とゲームプレイヤーは、ほぼほぼど重なり合った層になっているようだ。その結果として、ラノベ(テキスト)とコミック(画像)とアニメ(動画)とゲーム(疑似体験)が一体となって成立するビジネスモデルが出来上がった。
ラノベも読みコミカライズされたコミックを買い、アニメ化作品をフィギュアと共に楽しむ。売り手は一粒で何度でも商売ができる「美味しい」鉱脈を発見してしまった。
当然、その連鎖反応の開始点であるラノベ(テキスト)形態も、将来的に複合メディア化できるように整えられる。登場するキャラは性格づけと共に、メリハリの効いた体型や種族のバリエーションが必要だ。全て登場人物が日本人ではいけない。主人公を日本人にするとしたら、男女・年齢・体型、出身地(言葉遣いや方言)で区別をつけなければならない。
普通の地方都市にある高校から一クラスを異世界に転生させるなどという荒技も最近よく登場するが、そうなるとリアル世界ではあり得そうもない特殊キャラ、つまり普通ではない高校生を30人近く作り分け登場させるハメになる。一つのクラスの中に、悪者も含めた社会の縮図を作るというのは、文字だけの話作りとしては無理がある。
それを描き分けるのが嫌なら世界設定を変えて、「悪の秘密結社」戦闘員A、戦闘員B・・・のような没個性キャラにするしかない。ただ、これでは物語が進まない。戦闘員Aの悩みや人生観に感情移入できる読者は少ないだろう。
だから、すでにラノベは文字単体のメディアではなく、複合したメディアを意識した作品づくりが要求される。ネットで好きなように文字を紡いで小説を書き上げても、それが「出版」される段階から、新・メディアビジネスモデルの洗礼を受ける。
ラノベは映像化、動画化、できれば実写化までを見込んだ現代エンタメ・メディアの基礎であり出発点になっている。
もう一つの複合メディア・立体化の開始点は「ゲーム」になっている。当然、ラノベとゲームは互いに影響し合っている現在進行形で進んでいるが、ゲーム世界の方が物語構築ツールとしては少し先を行っているようだ。

【続く】


書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #2 口語文体としての『何か?』

Photo by Josh Hild on Pexels.com
アメリカンヒーローといえば、夜の高層ビル街がお決まりらしいが(写真はイメージです)

題名の「村人ですが 何か?」についてちょっと考察する。ラノベの題名が年を追うごとに長くなっている。ラノベ第一世代の題名は、それなりに小説らしいものがほとんどだった。「〇〇の旅」とか「〇〇の憂鬱」など基本的に2単語の題名が多い。たまに「〇〇の——— とんでもない理由」みたいな題名プラス惹句というパターンもあった。それが第二世代になると題名というよりあらすじ的な説明文になる。
典型的なのは「〇〇ですが何か?」「あれこれxxxして、〇〇になった件」のようなもので、最近では題名だけで100字近くになるものまで登場している。
ネットで見た解説によると、長い題名はネット投稿から生まれた「ネット小説」の特徴で、読者が投稿小説のリストを見るときに、話の中身が簡潔に説明されている方が選択されやすいということらしい。確かに、「紫の復讐」などという抽象的な題名よりは「長耳エルフが烈火龍の咆哮に耐え世界を取り戻した件」の方が、登場人物や対抗勢力の想像がつきやすい。特に、エルフ好きやドラゴン好きには魅惑の題名に思えるだろう。
SFでも「アンドロイドは電気羊の夢を見る」とか「あなたに、神のお恵みを」「たった一つのさえたやり方」のような短文的題名の名作があった。翻訳の都合もあったのかもしれないが、長めの題名は斬新感があった。ちなみに当時の日本SFの巨匠たちの作品は、ほとんどが「〇〇のXX」的なものだったので、翻訳SFを目立たせる対比として短文題名だったのかもしれない。

さて、「村人ですが、何か?」についてを考察する前にラノベのお作法について、いくつか確認しておく。まずは、ラノベのお手本というか先行形態のファンタジー小説について確認する。
ファンタジー系のお話の定石は、勇者が世界を救う旅をするということだ。インドの神話、ギリシアの神話、メソポタミアの神話、古今東西ありとあらゆる文明で語られてきている物語の原型は、英雄が世界を救う旅をした後、最終的に悪を滅ぼす物語と断定して良いだろう。それが神話冒険活劇・物語のアーキタイプ、原型であり、追加パターンとしていろいろなバリエーションがつく。
まずヒーロの素性に関してバリエーションが生まれる。英雄が生まれる経緯が、神様の落とし子だったり、ただの村人が精霊と合体したり、復讐に狂って悪魔になったが何故か改心したりなどなど、英雄誕生の理由はさまざまだ。ただ、基本的に英雄とは神の恩寵を受けた特殊な人扱いで、並の人間が苦労の末に成り上がるものではない。
また、旅の同行者が、あれこれおこす事件や、過去のしがらみが原因で、必ず旅に付き纏う。というか勝手についてくる。この同行者パターンは3つほどある。悪人に囚われている女性や子供などを救った後で、その救った「弱きもの」が無理矢理ついてくるのがパターンその1。
異常能力者、賢者など常人を超えた能力を持った強者が、何らかの制約で悪者に操られたり手下になっていたのを、戦いを通して解放した結果、制約条件が主人公にうつり(いやいやだったり、感謝したりして)ついてくるのがパターン2。
パターン3はその変形で、モンスターや魔物、人族的体型を取らない異族(天使とか悪魔、妖怪を含む)が、好奇心だったり受けた恩だったり、あるいは古き誓約を果たすために同行する。これは犬形態、虎形態、竜形態などがある。
物語の最初から最後まで英雄がソロ活動するというお話は読んだことがない。だいたい物語の冒頭でパターン1が発生し、半分より手前でパターン2あるいはパターン33が起きる。その結果として、物語後半は3−4名のパーティー活動になり、お約束のようにパーティー・メンバーの一人か二人がいなくなったり、裏切ったりする。
そのパーティー分裂を解消しながら、最後はラスボス、つまり制圧目的の退治で任務完了という流れだ。神世の時代から変わらないヒーローものの鉄板展開で、人類のDNAに刷り込まれたとも思える「英雄譚」のアーキタイプだろう。

そしてファンタジー小説・物語の正統後継者たるラノベも、この典型的な原型・アーキタイプを保持している。このアーキタイプを忠実に守っているラノベ(小説)が、10巻20巻と超長編変化している。(グインサーガーのようにギネスに乗るほど長いものまで生まれた)
逆に、アーキタイプから外れた作品は2巻で打ち止め、3巻で終結することが多く、セオリーを守らない実験作品は人気が出ないということのようだ。多くの読者は、設定は新しいが、話の筋はマンネリという作品を好むということだろう。身もふたもない言い方をすれば、永遠の「水戸黄門御一行旅」こそが、ラノベのヒット作として求められている。

【続く】

書評・映像評

シン・ウルトラマン観察録

Photo by Daisy Anderson on Pexels.com

ウルトラマンの画像は版権があり使えませんので、権利フリー画像を怪獣で検索したら出てきた写真がこれ。日本人とはセンスが違うなあ。

ウルトラマンの新作というか新解釈された映画がヒット中らしい。制作はシン・ゴジラのチームだから、その作風というかテイストも似たようなものになるのだろうとおもって、のこのこと平日の朝イチの回を見にいってきた。埼玉の片隅の街の映画館なので、予想通り館内は空いていたが、これまた予想通り観客は高齢者がほとんどだった。空想特撮映画のはずだから、客層はドラえもんと似通った親子連れになる……とはいかないようだ。リアルタイムで初代ウルトラマンを見ていた世代も今や還暦越えをしているのだから、この映画もオールドファンが中心になるようだ。最近の青と赤がシンボルカラーになった新型ウルトラ一族を見ている若い世代には、興味をひかないテーマであるようにも思う。タイトルに惹かれて内容を吟味しないまま、小学生が勘違いして見にくることもあるかもしれないが、それはウルトラマンとの出会いとしては相当に不幸なことになる。小学生を連れてくるであろう親たちも、自分の見てきたウルトラマンとの差異に違和感を感じるはずだ。

現在公開中の映画なので、ネタバレをするとよろしくないとネットのあちこちで大騒ぎになっているから、ネタバレはしないようにするが。
シン・ゴジラと同じでリメイク作ではない。出現世界の設定を微妙に変化させ、屁理屈が成立する世界を作り出している。例えば、なぜ日本にだけ怪獣が出現するかとか、無数にある星間文明社会の先進星域からくる侵略者たちはなぜ地球に攻めてくるのかとか、いろいろな何故?に答えようとしている。
シン・ゴジラや平成ガメラシリーズで貫かれているのは、怪獣映画でさりげなく「ある(存在する)こと」になっていて説明されない、「理由」を現実社会に合わせて説明しようという姿勢だ。例えば、本当に怪獣が出現したとすると政府はどう呼称するかだ。不明巨大生物的な発想になることは間違いない。コロナの対応を見れば政府がいかに臨戦能力、即時対応能力に欠けているかは簡単に理解できる。
また、対応部局がどこになるのかも揉めるだろう。怪獣が生物であれば、厚生労働省になるが、被害をもたらす害獣であれば対応は警察の範疇になる(はずだ)。よくテレビニュースで出ている、熊の捕獲、猿の捕獲は警察のお仕事になっている。ところが警察の捕獲能力を超える暴力的存在になれば、治安維持から国土防衛任務が変わるので防衛省、そして実戦部隊として自衛隊の出動になる。ところが、最初の脅威度が不明の時期は、防衛出動の指揮系統と発令者があやふやだ。おそらく台風や洪水と同じで、最初の段階は県知事からの依頼になるはずで、そこで人死を含め被害が拡大すると、初めて政府管掌案件になる。それでも最高指揮官である総理大臣が防衛出動命令を出す度胸があるかというと、地方都市の壊滅程度の被害が出ないと閣議決定にならないだろうし、野党は「他国の軍事介入、それも核使用の可能性」などと言い立て反対するのは見え見えだ。
実はこの辺りのリアルをもっと見せて欲しかったと思うのだが、映画の中では裏設定としてさらっと流されている。それに、作中内では予想以上に陸自のパワープロジェクションが有効で、シン・ゴジラの山手線暴走作戦よりよほど役に立つメインパワーセクションとなっていた。

全体的にみて、やはりリアルタイム・ウルトラマン(初期再放送を含む)視聴者、要はおっさん世代が、ニヤリとしながら見る映画なのかなと思う。世代ごとに楽しみ方はあるだろうが、初代ウルトラマンの複数放映回がオマージュの題材とされている。当然、初代ウルトラマンを見たことを前提に楽しむようにできている。
初代をリアルで見た世代も、是非一度テレビ放映されたシリーズをレンタルでも良いから全巻見た後で、特にゼットンとの戦いを確認して記憶を取り戻した後で、見ることにすれば何倍も楽しめる。
特にウルトラマンはその前作のウルトラQとの関連付け作品もあり、できればウルトラQも見直しておいた方がもっと楽しめる。

やはり、シン・ウルトラマンはウルトラマンへのオマージュでありながらも、「シン」の意味は「真」ではなく「新・解釈」なのだろう。もちろん、新解釈には「エヴァ」的要素も随所に盛り込まれている。
もう一つ、映画の中身とは別件の感想として、長澤まさみが演じる女性隊員?役は、初代の富士隊員の方が良かったなあと懐かしんだ。ジジイになった証拠だな。
個人的には シン・ウルトラマン>シン・ゴジラでありました。

映画のサイトはこちら→ https://shin-ultraman.jp

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書評のような……滅亡後の世界

この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた (河出書房新社) 

Photo by Peter Spencer on Pexels.com

滅亡後の世界を描いた書物はたくさんある。SFやコミックではお手のものの世界設定だろう。核戦争で滅びた、感染症化拡大で滅びた、巨大隕石の衝突で滅びた、宇宙人に侵略されたなどなど滅びのパターンはたくさんある。ただ、物語としては滅亡の原因が主テーマではなく、滅びた後で起こる人類文明、社会の変化を語るものがほとんどだ。
有名なところでは、映画「マッドマックス」コミック「北斗の拳」などが大戦争後気象条件まで変わった荒涼たる世界で、暴力が問題解決の全てになった社会を描く。それも、力無きものを救う救世主伝説としてのヒーロ物語だ。大体が平和と愛の復活と未来の希望を語る。

ところが、この本では滅びた世界の話はほとんど語られない。政治社会的考察も皆無に等しい。ただ、文明社会が崩壊した後、人々は一度は文明を後退させながら、必ず文明復興の動きが起きるという想定をしている。その文明復興の手順とそれに必要な最低限の知識、要素を語るのが本書の目的だ。だから、滅亡後の世界が世紀末覇者の君臨する世界であるかどうかは考察の対象外だ。
ただ、略奪者から守りを固める自衛共同体が母体となり、文明再建集団が生まれるという想定のようだ。確かに、生産をせず略奪するものばかりが蔓延れば、人類は紀元前一万年くらいの採取生活のレベルまで退行するだろう。それはもはや文明と言えない。破滅要因は自然環境にも影響を及ぼすだろうから(例えば核の冬)、1万年前よりも生存条件は悪いはずだ。略奪社会では人類生存すら危うい。だから、防衛コロニーこそが文明を守る、文明を再興する最低単位となる。
その最低単位が、現在21世紀社会で享受している文明の利器や恩恵を、どこまで失いどこまで食い止めるかが本書のスタート地点になっている。そして、そこから比較的短時間で文明を再興する手順を考えている。

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退行しながら踏みとどまる文明レベルとして、12−13世紀ヨーロッパの農耕社会を想定しているようだ。そこのレベルより下になると、途端に再興する難度が上がるということらしい。確かに西欧社会は、西ローマ帝国滅亡後、ルネサンス期の文明復興が始まるまで、5世紀以上も文明レベルがどん底にまで落ち込んだ。
ローマ時代の文明レベルが比較的保たれていた東ローマ帝国でも、イスラムとの争いの中、急速に文明維持機能を失っていった。その歴史的な喪失感というか、文明的トラウマが西欧社会にはあるのだろう。実際にはヨーロッパが文明レベルとして低迷していた時期、東アジアの大国、そしてイスラムの各王朝ではローマ時代に匹敵する文明が維持されていた。その辺りも、さりげなく触れられてはいるが、文明再開の手法はあくまで西欧社会の進化をモデルにしている。どうにもそこが物足りない気がする。西欧資本主義、科学主義社会の再現がテーマなので仕方がないと諦めるしかない。ただ、そのモデルの先には、やはり核を含む大戦による滅亡が待ち構えているだけなのではと思うのだ。社会的考察なしで文明再建論をすることの危うさかもしれない。
そして、文明再興の目標レベルは20世紀初頭あたり、工業文明が蒸気機関から内燃機関に変わり、初期の電気インフラが出来上がる程度を目標にしている。真空管による初期段階の通信・情報関連技術までも目指している。けして、スマホと電気自動車の世界に戻れるわけではない。
世紀末マニアには文明再建マニュアルとして、楽しく読めるはずだ。

個人的な話だが、進学時に理系を選んだのは、まさしくこの話に出てくるような「文明破壊」が起きた後の社会で、荒野のロビンソン・クルーソーとしてどう生きていくかを、真面目に考えていたからだ。
ただ、その時には世紀末覇者が発生しないという前提で(極めてご都合主義的設定だ)、一人で孤独に生きているという馬鹿馬鹿しい話でもあった。まさに中二病的な思い込みでしかない。なぜ、このようなことを考えていたのかは思い出せないが、小学校低学年からずっと思い込んでいた「滅びの文明観」なので、中二病というより小二病といった方が良い。ただ、その小二病への対応が人生進路に深く影響してしまった。三子の魂百までも……ではないが、小二の魂がジジイになるまで付き纏ったのは確かだろう。まあ、結局のところ文明は滅びず、その前に自分が滅びる年齢まで生き延びてしまったのだから、笑うしかない幻想だった。
しかし、この本を学生時代に読んでいたら、もっと真面目に滅亡後の世界に取り組んだような気がする。日本にはほとんどいないであろう「プレッパーズ」、社会が滅びることを前提に、核シェルターなどの生存設備を自分で作り備える人たちの一員になっていたのではないかとも思う。滅亡SF好きなら必読。良書で、おすすめの一冊だが読むのには手こずること間違いない。

この本のリンク先はこちら→  https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309464800/

書評・映像評

読書の質は量で決まるか Yes!

Photo by Thought Catalog on Pexels.com

小学生の頃から本を読むのが好きだった。今のように多様な趣味、暇つぶしの道具がなかったこともある。本を読むことしかなかったというのが正解だろうか。現代の暇つぶしはテレビやDVDで映像を楽しむのはもはや少数派で、youtubeなどの配信系映像やゲーム、それもオンラインで楽しむことが主流だろう。暇つぶしにやることが多すぎて、時間配分が生活の最大課題になってしまった。自分ですら、ニュースなどをサイトで巡回し、溜まった録画をみながら、なお新刊に手を伸ばすなど24時間暇つぶしに関わらなければ無理だ。
もはや暇つぶしどころか、娯楽ではなく業務に近いものがある。だから、長年慣れ親しんだ娯楽・趣味である読書は著しい時間制限が必要になってしまった。学生の頃は、朝起きてからから寝るまで、ぶっ続けに12時間以上本が読めたものだが、今では1日1時間がせいいっぱいだ。

それでも5年ほど前に読書記録を残すアプリを見つけて、日記がわりに書き込んできたが、この2月末で1700冊になった。平均すると1日に約1冊読んだことになる。記録漏れもあるが、漫画・コミックであれば概ね1時間で一冊読めるので、こんなものだろう。昔は手が出なかった大長編 全80巻みたいな本を片っ端から読んで行ったせいもある。逆に活字本は読書速度が低速化し、1日一冊はもはや無理だ。それでも戦国時代の考証本とか世界史のウンチク本みたいなものは集中的に読んだりもする。脳細胞の劣化防止策として読書は有効だろうと信じて、年間500冊読破を目指したい。

ちなみに読書レビュー系のアプリは、出版社関連でいくつか出ているようなので、現代の希少種である本好きの方がいれば、使ってみると良いのでは。何年か経つと、なかなか面白い自伝風の読書記録が出来上がる。この年は、なぜこの本読んでいたのかとか色々な記憶が蘇る。映画を見て原作が読みたくなったとか、尊敬する先輩に勧められたのだったなあとか。

個人的には濫読することで読書力、つまり理解力と想像力は広がると思っている。少ない本を読んだだけで、世界の理解が増すのは一部の天才だけではないかと思うので、本日も濫読をしております。同時進行で読んでいる本は、英国植民地の奴隷と砂糖生産の話「砂糖の世界史」と大人向けコミックで悪徳警官を描く「クロコーチ」と下町ロケットの作者が描く政治家の話「民王」、それに翻訳本で「宇宙が始まる前にはなにがあったのか?」と「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」、翻訳SFで「ユナイテッド・ステーツ・オブ・ジャパン」。まさに濫読の極みでありますよ。

使用しているアプリは「読書メーター」で、角川系の代物です。ご参考まで。

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ラノベのあれこれを考えてみた #1 SFの孫

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最近は大規模本屋がどんどん潰れてしまい、一時期、自宅のある町では大きな本屋が壊滅した。仕事先である恵比寿や通勤途上にある新宿などで大きな本屋を使えば良いので、仕方がないと諦めていたが、ようやく駅前再開発で地元に大きな本屋が開店した。専門書なども多少は置いてある。が、小説は少なく昔の本屋の面影はない。
それにもまして、自宅周りの本屋に行くと一番売り場が大きいのはコミックで、これが売り場の半分くらい。残りの1/3が雑誌で、文庫本をあわせても小説売り場の半分はラノベになっている。一般書籍では文庫本が少し頑張っているが、いわゆる単行本になると児童向け書籍の棚より小さい。
今や、エンタメとしての活字の主流はラノベで、コミックという画像付き物語と市場を分け合っているのが実情だ。当然ながらベストセラーも直木賞受賞作ではなく、アニメとコラボしたラノベ原作という時代だ。
そもそも全世代で活字を読むという習慣が減っているのは間違いないが、テレビの視聴がYouTubeに置き換えられているように、視聴する媒体が変わったということではない。
つまり「紙の本」が「電子ブック」に変わったのではなく、「本」=「活字」を読む人が純減しただけだ。そして、数少なくなった「活字読み愛好者」は、ジャンルとしてのラノベに集中しているということだろう。活字印刷物はすで死にゆくメディアになった。そして、ラノベが活字世界の最後の砦になっている。
一般的なジャンル小説としては、高齢な読書耽溺層が支える一部の時代小説が堅調なくらいで、推理小説の数少ない人気作家を除けば壊滅状態かなと思う。学生時代から個人的好みで読み続けるSFも、すでにマイナー分野のようだ。まともにSF本を売っているのは、新宿紀伊國屋本店くらいだと思う。他の大規模書店では、もはやSFも滅亡寸前と言って間違いない。生き残ったSF者は、わずかにAmazonに救いを求めるしかない。


「お話」の好みは時代によって変わっていくものだから仕方がないことだが、空想科学小説と言われていたジャンルがSFとなり社会的に認知されたのが1970年代だった。その時代のSFは映画化、アニメ化を含め映像化されたものが多い。そしてそのSFの直系後継者がラノベなのではないかなと思っている。
ラノベはSFが基本設定としていた「この世ではない別の世界」を舞台にお話を展開するというやり方を(意識してか無意識なのかは定かではないが)、ストレートに踏襲、引き継いでいる。ジャンル小説としては、ラノベはSFの孫みたいなものかなとも思う。ちなみにハードSFと言われる科学的設定をそれっぽく理論化しているジャンルは、ラノベでは出現していない。(知る限りでは、たぶん)
たまに、ラノベ作品でも異世界の設定を疑似科学的に説明することはあるが、そこが物語の本筋ではないからハードSFの子孫とは言えないだろう。そもそもハードSFは登場人物の会話がステロタイプで説明的という、笑いたくなる特徴がある。世界設定のお話が全て、という作品が多い。そこが面白みだから仕方がないのだが。
ラノベがSFの傍流というか下流という理由は、異世界(ファンタジー系)でモンスターが生存している、あるいは人と共存している世界が基礎設定として使われることが多いせいだろう。ただし、その世界は存在するだけで、世界の成り立ちの説明は曖昧であるか、ほとんど説明されない。世界の成り立ちの説明があるかどうかが、SFとファンタジーやラノベの差だと思っている。
あるいは次元スリップ、タイムスリップなどで、過去に飛ばされたり、並行世界(現代日本によく似ているが、なぜか怪獣が出現する)に転移したりという設定も多い。SF好きとしては、スターウォーズのような宇宙船と帝国と異星人とお姫様がごちゃまぜになって出てくる世界は実に楽しい。しかし、スターウォーズ第1作封切り時には、この映画の話をするときに、あれはSFではなく空想・ファンタジーの世界だよねという「おことわり」が必要だった。
当時は架空世界を精緻に構築していないとSFとして認めないような雰囲気があった。例えば超光速航行をワープの一言で済ませて、なんの説明もしないのはSFとして反則だろうという類の話だ。そんなSF世界の決まり事をあっさり無視したのがラノベの元祖たちだった。
今ではラノベの世界設定は、なんの説明も必要ない。それがあたり前な物語として認識されている。つまりSFっぽいお話ながら、科学ゴリゴリ解説が必要であれば(あるいは、そういう話を大量に放り込めば)ハードSFになる。それ以外のフワッとしたモンスターや超能力が当たり前の世界のお話はライトノベル、こんな分け方なのかもしれない。

そのラノベも第二世代に入っているようだ。ラノベを読んで育った読者が書き手になったということもある。第一世代のラノベは、それなりにSF的設定やSF的決まり事を尊重していた。ただ、その縛りがだいぶ緩くなったのがラノベ第一世代ということだ。
そして今では第二世代がジャンルのお約束を揶揄するような書き方をしている。例えば、主人公が「よく読んでいた異世界転生ものでは、必ずこんな話になるはずなのに・・・」とぼやく。これは楽屋落ちというしかない。つまり物語の中にメタ物語の構造が埋め込まれる。それを書き手も読み手も楽しむ。そして、いわゆる楽屋落を喜ぶほどラノベ愛好社会が膨らんだことを意味する。小説として確立された「ジャンル」ということだ。
衰亡するSFというジャンルを、軽く流しながら受け継いだラノベ業界で、それを広げる役割を果たす、「成長した第二世代」という感がする。今のラノベをSFの孫という意味はそこにある。

その楽屋落ちの典型パターンに、転世者物語(ラノベ)を愛読していた主人公が、なぜか異世界に転生してしまったというお話も数多くある。ジャンル小説を読み漁ったジャンル小説の書き手にとっては、その設定が当然すぎるだろう。その読者もジャンル小説愛好者と最初から想定されているので、くどくどとした設定解説がいらないのが特徴だ。
そのラノベ・第二世代書き手の中でも、SF的な残り香が強いお話として面白かったのが「村人ですが何か?」小説版だ。SF的なテイストは隠し味程度で文体は軽い調子の口語体だが、会話の量が他のラノベと比べても少ないのが目立つ。
個人的に面白いと思うラノベ作品の特徴として、「異世界構築の理屈」をどのように説明するかがある。この作品の独特な「世界の成り立ちと冒険者・勇者の戦う動機」は、まさにSF的な領分のお話なのだが、物語の焦点はそこではないところが、やはりラノベであってSFとは違うということだろう。個人的には主人公たちのあれこれ、ラブコメ的展開はほとんどどうでも良くて、背景事情と物語の整合性みたいのがやたらと気になってしまった。ラノベの楽しみ方としては邪道なのかもしれないが。最後の方では、世界を改編しようとする悪者を退治するというゴールデンパターンにはなるのだが、そこに行くまでの過程では世界を救うつもりなどかけらもなさそうな主人公の行動が「今風」ラノベではあるのだが。
王子様が龍を退治してお姫様と幸せに暮らしましたとさ、という展開では売れるお話にはならないのが、現代ラノベのお約束なのだ。

ラノベの話 続く

【以下はご参考まで】
アマゾンのリンクを貼っていますが、アフィリエイト宣伝などしていません。調べてみたいという方への参考程度です。ちなみに題名で検索するとコミック版の方が目立ちます。小説版は探すのに苦労するのが今の時代でしょう。最近は紙媒体である本より電子媒体であるkindleの方が人気のようです。

公式サイトは→  村人ですが何か  https://gcnovels.jp/villager/#

書評・映像評

イノセンス 甲殻機動隊異聞

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気がつけば、もう20年近く前の作品なのだ。絵的な観点から見ればCGか普通に使われるようになった時代だった。自動車の移動シーンでは背景の絵柄との不具合というか、違いが目立つ。話の展開は少佐が電脳世界の中に溶け込み行方不明?になった後のバトーの暮らし、ということになるのか。いわゆるギミック的なSF設定もなく、登場人物も少ない。眈々とバトーの捜査ぶりを描くだけで、盛り上がりに欠けるといえば、確かにストーリーに膨らみはない。

押井監督らしいといえば当たっているのか、「抑えた物語」という点ではパトレーバーから、この後のスカイクローラーにつながる一連の押井作品は同じ色調だった。テレビ版の攻殻機動隊がガンシーン乱発のドンパチ・サスペンスだったのと比べれば、明らかにトーンを抑えた違う物語に仕上がっている。

この作品の後から、妙に屈折したキャラ造形が増え始めたような記憶がある。少年ジャンプ的な「努力と友情」で正義の戦いをするというお話はすっかり減っていったのではないか。機動戦士ガンダム・シリーズに出てくる一連の主人公キャラが全員屈折していた(屈折していった)少年だったが、それの大人版が、このバトーなのだと思う。本編攻殻機動隊では少佐の補佐役として、いい味出していたのが、この話ではすっかり陰鬱で下を向いているキャラに変わってしまったようだ。もとこロスなのだろう。

スピンアウトでキャラ変させるのは、押井作品のもう一つの特徴でもあると思うが、ここまで屈折させなくても良いのでは。択捉の工業地帯の描写はなかなか見所があるが、先の戦争で壊滅したはずの関東地区あたりで、もう一つの話を作ってくれないかと思っていたのだが。続編が出なかったのは興行的な問題よりも、押井監督の「次は実写」という作品へのこだわりだったのだろうと思う。できれば明るいバトーの話が見たかった・・・。絵をじっくり楽しみたい人には向いている抑えた大人のアニメーションだ。

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