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一之宮 最大の難所と遭遇

志摩国一ノ宮は、海の近くにあり、それも崖の上にあるらしいと、事前の下調べで分かった。参詣するのにどこで駐車をすれば良いかとか、そこから歩いて30分かかるとか、色々と勉強したつもりだった。ただ、「一宮」であり、古代中世を含め、その国の住民が皆参拝に行った由緒正しい神社なのだから、そんな僻地、難所にあるはずがないと思っていた。難所にある唯一の例外は、富山の立山山頂付近にある雄山神社くらいだろう、と思っていた。その雄山神社でも麓の方に、別の社を備えていて、足弱な参詣者に対して便宜を図ってくれている。よもや国を代表する一宮が、お参りするのもたいへんな不便な場所に、それも修験者しか行けないような場所にあるはずがない………などと甘く見ていた。

山道を行くのは分かっていたが、参道?入り口近くの表示を見て、もう少し慎重に考えるべきだった。片道30分かかるということだが、平地で普通に歩けば30分で2kmくらいは歩けるはずだ。それが、1kmに満たない距離なのに30分かかるというのだから、当然のように歩きづらい、歩行距離が出ない場所だということだ。
富士山だって、高さは4kmに満たない。平地で4kmを歩くのはのんびり歩いても1時間程度のはずだ。山登りであり、距離だけで言えば斜面を登るのだから、直線の4kmより長くはなる。距離が倍になったとしても8kmだ。しかし、富士山を登るためには何時間かかるか。山を登るということに対して、その手の想像力が足りなかった。

かなり高い丘を上り下りをすると、すっかり息が切れていた。そこには綺麗な海水浴場があった。防波堤があるが、それ以外には何もない。海水浴をするために、この山登りをするのかと思うと、気が遠くなる。海水浴をする前に登山などしたいものはいるのだろうか。確かに、プライベートビーチっぽい隔絶感はある。ただ、あたりを探しても見当たらなかったのだが、トイレはどこにあるのだろう。しかし、ここまでの道のりはまだまだ前哨戦だった。

海水浴場の脇が、正式な参道にあたるらしい。その入り口に、なぜか竹の杖が無造作に置かれていた。最初は何があるのか分からなかったくらいだが、よくよく見るとさまざまな長さの使い込まれた竹の杖のようだ。じんわりと嫌な感じがしてきた。杖が欲しいほどの急坂なのだろうか。とりあえず「転ばぬ先の杖」と思い、長めのものを一本持っていくことにした。

ここから、高さが不揃いな石段というか登山道を登ることになった。二百段くらいまでは数えていたような気がするが、その後は数えるのを諦めた。高さで言えば100mくらい登ったような気もするが定かでない。途中から杖を使い始めた。よく見る登山映像のように、両手に杖を持った方が登るのには良いという気がしてきた。杖一本は平地の補助、登山の補助には両手持ちだと、初めて理解した。
石段の高さが不規則で、おまけに滑りやすい。昔の街道はこんな感じだったのかなと思う。熊野古道歩きがブームになっているようだが、こんな道を登り降りするのであれば、古道巡礼はしっかりお断りしなければと確信した。
何度も立ち止まり、ここから帰ればずいぶん楽ができるのでは、という誘惑にもかられた。1km弱の距離を30分かかるというのは、こういう意味だったのだ。結局、神社前にたどり着くまで30分以上かかった。杖がなければ、途中で逃げ出したような気もする。

ほぼ、息も絶え絶えという感覚で辿り着いたのが山頂というか崖の上にある鳥居前だった。本当に、志摩国の領民はこの山登り、崖上りを延々と行ってきたのだろうか。そもそも、これは修験者のための神社ではないか……………

ようやく辿り着いた拝殿は、予想以上に簡素だった。確かに、この山の上に社を建てるのは、材料運びもしんどいが、建築する大工も毎日登山になるのだから、さぞかし難儀な現場だろう。などと変なことに感心してしまった。ありがたいことに、この鳥居の正面にベンチが置いてあった。お参りする前にベンチで休憩しなければ気力も湧いてこない。せめて水くらい持ってくるのだったと、また別な後悔をすることになった。
当然のように宮司さんは常駐していない。中に入ると、御朱印のもらい方が掲示されていた。まず電話で別な場所にいる宮司さんに連絡を取り、山を降りてから指定の場所に行く。そこで、御朱印をもらうという手順だった。

また、30分かけ山を降り(このときには足がガクガクでひさが笑う状態だった)、車の運転をする前に足を揉み解し、乾き切った喉を潤すべくたっぷり水を飲み、それから気力を振り絞りつつ慎重に運転した。5分もかからずに指定場所に着いた。御朱印はすぐにもらえたが、その後は移動するのが嫌になった。

目の前が小さな港になっていて、漁船が何隻か泊まっていた。湾の中なので波もなく穏やかな志摩の海だった。しばらくぼうっと海を見ていたが、そのままでは動けなくなりそうなので、無理矢理に車へ乗り込んだ。
おそらく一宮巡りでは、ここが最難所だろう。もう一度行けと言われたら、はっきり断りそうだ。秩父札所巡りをした時も、登山しなければいけないお寺があったが、アレの数倍のしんどさだ。感覚的には金毘羅様を登った時に近いが、あれと比べても倍くらいしんどいかもしれない。古代の日本人は、あんな山登りが当たり前だったのだろうか。
大和朝時代や中世に志摩国でお住まいだった方々に、この辺りを是非聞いてみたい。現代人はひ弱だと言われるだけのような気もするが。

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戦国 夢の跡 長篠城跡

東海地方をめぐる名城旅で、取りこぼしていた長篠城に、ほぼ3年ぶりで辿り着いた。コロナの流行であちこちの公共施設、博物館や歴史に関わる記念館などは休業、受け入れ停止など厳しい対応が続いていた。流行波の間でも、開けたり閉めたり対応はバラバラで、一筆描きのようなコースを決めて一気に城をめぐるということが、事実上できなくなっていた。
疫病退散を願いお参りに行くにして、神社仏閣では御朱印の受付をしないところが多くなった。書き置きしたしたものを配布する形に変わっていた。そのうち祈祷がリモートになる時代が来るのかもしれないが、現代日本を守護している八百万の神様たちにデジタル適応をお願いしても良いものか、甚だ疑念が残る。天竺由来のお釈迦様だと、空の上からデジタルな糸を垂らしてくれるかもしれない。ただ、少なくとも閻魔大王は直接面談を諦めそうにない気がするが。
城巡りの間に、あれこれと妄想してしまった。

長篠城記念館が建っているところは、城の内堀脇に当たる場所で、目の前には堀の跡と広場が広がっている。この広場に本丸を含めた城の建造物が建っていたのだろう。
城址というものは、その場で昔の姿を想像してみないといけない、想像力が要求されるゲームだ。城址に行って今の姿を見れば、そこは芝生を植えてある公園だったり、散策用の道が広がる庭園だったりする。しかし、当時は戦闘施設であり無駄のない合理的空間だったはずだ。防御施設であるから、防衛目的で建物が配置されていた。それを、現存する石垣や地割りなどから想像するのが楽しい。

堀の跡も、一見すると水もなくなり雑草や樹木が生えている。しかし、当時は身を隠したり登る時の手がかりになる「木」や「草」を放置したはずがない。石垣ではない堀の壁は、滑りやすい粘土で覆われていたはずだ。そもそも、城の周りは全ての樹木を伐採して禿山にしていなければ、夜襲の時など隠れ場所を放置することになる。そんなことをするおバカ武将は戦国期を生き延びられるはずがない。いま現在で見る公園とその樹木を、全て取り払った姿を脳内CG?で再現する。それが城巡りの楽しみというか必要能力だ。

戦国期に建てられた城のほとんどは、徳川の治世になると廃城になっている。わざわざ城を壊した場合もあるが、大半の城は戦闘状態に備える必要がなくなり、朽ちて無くなるままになった。勝ち組の徳川支配下の城のいくつかは、あきらかに占領政策の道具として、あるいは権威誇示と居城目的で立派なものに建て替えられた。防衛施設から治世の象徴への転換だ。
しかし、負け組の城は破却されたものがほとんどだ。大阪城のように、豊臣氏製の城をわざわざ埋め戻し、その上に徳川版大阪城を再建したのは、豊臣家の滅亡を強く印象付けるための「占領政策」だったに違いない。
安土城のように織田氏が滅亡した後は寺院になったり、豊臣ゆかりの城は放置され消滅したりで、負けてしまえばただのゴミ山となった城も多い。巨大土木建造物が、治世者の権威を示す時代は戦国期と共に終わったのだろう。唯一の例外は日光東照宮くらいか。
ただ、江戸期になると関東以西の山で、巨木は既に切り倒し尽くされ、神社仏閣あるいは城などの巨大建造物は材料不足で建造できな区なっていたらしい。江戸城を作るためには、関東以北の木が使われたようだが、それで日本の巨木は在庫一掃されてしまったようだ。
樹齢何百年という立派な木が残っているのは、もはや古から続く神社の境内くらいだろう。流石に徳川家でも、その手の木はおそらく御神木だから畏れ多くて伐採もできない。
長篠城も歴史的役目を終えると、建造物はなくなり静かな場所になったようだ。あちこちで行われた復元城を建造するという話もないようでで、昔を偲ぶものは堀と石垣だけだ。
ここは三河・遠江と甲斐の衝突地点に当たり、徳川と武田の死闘が繰り広げられた場所だが、今は静かな地方都市で、昔の戦争など思い出すこともない「戦国 夢の跡」というにふさわしい。

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戦国 夢の跡 大垣城

大垣城と言われて何を思い出すかといえば、やはり関ヶ原の戦いで西軍の拠点となったことだろう。斎藤氏から織田氏へ支配が変わった統一美濃も、徳川期になり街道防衛目的だと思うが、細分化された小国群になったと記憶している。その美濃国で、関ヶ原から近江、京都へ抜ける回廊の拠点となったのが大垣だろう。ここから西に進むと左右に山が迫る狭隘な地になる。現代では意味がない「軍事拠点」も、当時は濃尾平野の支配権を確保するためには要の場所だったはずだ。

西国からの江戸防衛戦略が、徳川家康が行った領国の地域割で明らかになる。大垣城は琵琶湖脇の彦根城と共に、西国からの侵攻を防ぐための前拠点であり、最終防衛線は家康自ら築城した名古屋城になる。
そこを抜かれた場合は、東海道筋に巨大な築城は行われていないので、箱根が自然障壁を生かして活躍する最終防衛陣地として使われることになったはずだ。織田氏の行った方面軍活用による中央集権体制は攻めの軍政組織だった。豊臣氏は統一国家体制を構想する前に滅亡した。戦乱が終わり平和が訪れる時代に起こる大軍縮に耐えられなかったとも言える。そこで外征に解決を求めた。(膨大な軍を戦乱で消費しようとした面もあると推察するのだが)
強権を持って平和体制に移行しようとした徳川政権は、江戸という新興首都の防衛策として、全国の要衝を一族で支配した。その分布を見れば、偏執的と言いたいくらいの街道防御拠点だ。そういう視点で城跡の地政的要因を探るのは、なかなか楽しい。
ただ、大垣城は城跡を見る限り、防衛拠点としてより徳川政権の威力伝達という色合いが強い気がする。一面が平らな田畑が広がる農村地帯に突如そびえる天守閣を要する城は、今で言えばスカイツリー的な目立つ存在だったろう。
防衛施設としての面影は、再現された門の辺りにしか伺えない。彦根城とはその点がちょっと異なっているようだ。

お城の謂れは本丸内の資料館などで学ぶことができる。東海地方の城址はどこでも資料館が設置されているので、戦国期の歴史に興味がある人向けによく整備されている。東日本の城址では、東海筋が一番お勉強できる。逆に関東以北になると、戊辰戦争の動乱期後に政治的に廃城にされたり破却されたりしたせいか、資料館などの施設は手薄だ。源平の争い以降、延々と続く東国と西国の争いは今でもあちこちに爪痕が残っているということだ。
数年前だが、西国では明治維新150年といってあちこちで祝賀の展示やイベントをやっていた。同じ時期、東国、特に東北では戊辰戦争150年を振り返るという趣旨で、東北における戊辰戦争の意義を見直すというものだった。明治政府統治下では敗軍として発言できなかった東北の怨念が、一気に噴き上げた感じがあった。そもそも西国軍は維新などという言葉は使わなかったはずだし、自分達が革命軍などとも思っていなかっただろう。全体的な認識として武力による政権交代程度でしかなかったし、動乱の中心だった下級武士からすると、出世の機会、栄達の足がかりくらいだったはずだ。そういう勝ち組である西国軍に蹂躙されたはずの東海道諸藩だが、戊辰戦争時には各藩ともさっさと降伏したので、大きな戦闘が起きていない。だから、敗軍の城であったはずが諸城が今では歴史遺産として整備されている。東北諸県の城とはずいぶん違う。
そして大垣城では、徳川期に治世を担った戸田氏をほめている感じがするので、東国西国の争いには巻き込まれなかった中間ゾーンというところだろう。

再現された本丸を見るには、公園側の広場からの方がよく見えるようだ。お城の規模も影響しているのはずだが、大垣城の中は広々とした公園になっていた。神社や学校になってはいない。

考えてみれば、徳川期にあった名城、居城は全て徳川親藩譜代の領国に置かれていたはずだから、戊辰戦争後には潰されるのも当たり前だ。徳川系列以外で巨城を所有していたのは加賀国前田家の金沢城、陸前伊達家の仙台城(天守閣はない)、肥後細川家の熊本城くらいではないか。
当然、戊辰戦争(西国動乱)から起こった明治政府は、城に対する関心が薄かったはずだ。西国軍は、自分達の根拠地に大きな城がないところから出てきたものばかりだし、おまけに参加人員の大半は下級武士だから登城する機会も少なかっただろう。城に対する「何か」を持ち合わせていないものが大半だったはずだ。
いつの世もどこの世界でも、反乱軍や革命軍は伝統破壊に熱心だ。昔の権威を破壊することで、自分達の権威を「可視化」させようとする。
確かに平和な時代は「武装拠点」としての城は不要だし、城を解体すると良質な建築資材が入手できる。明治初期に日本中から城がなくなったのも無理はない。歴史に学ぶというのは、こういうことだなと、大垣城の再建本丸を眺めながら思っていた。

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椿大神社と都波岐神社

伊勢国の一宮は伊勢神宮だろうと思い込んでいた。だが、この椿大神社が伊勢国一宮であり、もう一つ同じ名前を持つ(つばき)都波岐神社がある。二つの一宮は山の神と海の神のような補完関係にあるようだ。古代日本で、大和政権中枢がある奈良盆地に東国から入る街道は、鈴鹿を抜けて山越えだった。現在の国道1号線と同じルートだろう。山間を抜ける道には、昔も今も差がありはしない。だから、この椿大神社の位置は首府に入る手前の交通及び防衛の要衝だったはずだ。また、伊勢湾を海路で渡るルートもあったはずで、それの抑えの場所が都波岐神社あたりの海沿いにあったのだろうと推測してみた。だから一ノ宮が二つあるのかもしれない。
ちなみに伊勢神宮は通称で、正式名称は「神宮」なのだそうだ。つまり、日本の神社の大元締めであり総本山みたいなもので、伊勢国を代表する神社というより大和朝廷率いる古代国家の中心という意味合いを持つということだろう。

そんなことを考えながら駐車場から参道を歩いていた。全国に散らばる一ノ宮でも有数の規模だなと思う。山の中に祀られている神社は、規模が大きいものが多い。山全体を神域とするほどでは無いが、少なくとも麓から登って行ったあたりは全域が神社の敷地になっている。
その大規模神社の中でも、椿大神社は一際おおきい。奈良にある大神神社より広いかもしれない。

ちょうど秋の祭礼の時期だったようで、参道周りには燈明というか明かりが並べられていた。古代から続くライトイルミネーションみたいなものだろう。現代ではほのかに感じる明かりも、昔はさぞかし眩いものに思えたのではないか。闇を照らす灯りとは、神がもたらす平和と安寧の象徴のような意味合いを持っていた、そんな気がする。

拝殿正面を見ると、やはり日本海沿岸の海神系統神社とは様式が異なるようだ。古代ヤマト王朝の統一様式みたいなものだろうか。巴の印は初めてみた。やはり神道本家筋である伊勢国では、神社巡りをしていても、いろいろと初めてに巡り合うことが多い。

帰り際になると山道に明かりが入っていた。もう少し遅い時間であれば、さぞかし幻想的な光景になるのだろう。明かりには寄進した方の名前が入るようだが、やはり皆さん願うのは、家内安全に商売繁盛らしい。これも古代から変わらぬ願いだろう。

お参りが終わって帰り際に気がついたが、神社の入り口までバスが来ている。これも一宮巡りでは初めての経験だ。定期バスが運行するほど参詣者が多いということもすごいことだが、観光客向けというよりは。バスを通わせるほど「神社」に詣でる地元民が多いということだろう。観光客的な参詣対応であれば、駐車場を整備すれば足りることだ。やはり伊勢国は「神道の国」なのだろう。

都波岐神社は、海岸に近い場所の住宅地の真ん中にあった。というより神社の周りに住宅が密集したという感じだろうか。道幅も狭く、車がすれ違うのも難しいような、生活道路というより抜け道と言いたいくらい狭い道だった。
確かに一宮は古くからある神社ばかりなので、神社周りはどこもみな同様に狭い道、通り抜けが難しい道に囲まれている。代々続く、そして長年暮らす人には、すっかり慣れ親しんだ道で格別問題も感じないのだろう。
ナビに誘導されて神社に向かうときにいつも思うことだが、一生に一度の参詣者としては、神社周りで駐車場を探しさまようことが多い。いやほとんど迷う。ヘタをすると15分程度は彷徨することが多い。この日も、駐車場探しで朝から時間がとられた。結局、見つけた駐車場は社務所の裏側だった。

一宮が複数箇所ある国は、おそらく古代日本において複数勢力が対抗していた地域、國だったのだと思う。例えば海側の民と山側の民のような、居住地の違い、つまり生計の立てる手段の違いは、地域差別を生む大きな意味合いがあったのだろう。漁師は海での安全と大漁を願う。山での暮らしは、穏やかな天候を望み、台風や旱魃などの被害を嫌うだろう。当然、漁民と農民とではお祭りする神様も違う。そんな太古の暮らしに想いを馳せるのも神社巡りの楽しみだ。

こちらの神社は、なんと見るからに現代建築で、一見するとあちこちによくある都市型の寺のようにも見える。神社のありようも、時代に合わせて変わるものだなと感じた。東京赤坂の日枝神社を見たときに思った「都市型神社」という言葉が脳裏に蘇った。同じ一ノ宮でも、ところによっては古代から続いているような巨大木造建築もあれば、コンクリート製現代建築もある。色々と違ってくるものだ。
神社の地域差を痛感したのは、次に回った志摩国一ノ宮を訪れた時のことだ。

街を歩く, 小売外食業の理論

ファストフードDXと古典的手法

所用があり朝早くから渋谷に出かけた。用事が済んで軽く朝食でもとろうと、久しぶりに和風ファストフードに入った。ツルッとうどんでも食べようと思った。券売機で食券を買ったあと席についてみたら、あれあれ?と気がついたことがある。
マクドナルドではモバイルオーダーアプリを使うことで、テイクアウト注文をするとカウンターに並ばず座席まで注文した商品を持ってきてもらう(店内配達というべきか)仕組みがある。コロナ流行の初期に開発完了して実用化されていたが、実際に使ったことはない。それが、この和風ファストフード店でも導入されているのに気がついた。
確かに、これは客にとっても従業員にとっても便利だろう。客の立場からすると席に座ってゆっくり考えて注文できる。券売機での注文は商品を選んでいる時に、後ろに次の客が並ぶと、無言のプレッシャーがかかるという致命的な弱点があるからだ。後ろの客を気にして慌てて注文を決めると、追加注文の機会が消える。店側からすると買い上げ点数増加、単価アップの機会が失われるマイナス要因になる。
従業員の手間を考えると、スマホアプリ注文では現金管理がいらなくなる。釣り銭の確保や現金の残高チェックなど雑用が消える。客とは非接触になるので注文時のトラブルも減る(少なくともスマホアプリの不具合は従業員のせいではない)。
客がどこの席についたかもわかるので、無駄に「いらっしゃいませー」などと言いながら客席管理をする必要もない。そもそも、日本語を喋らなくても商品提供が完結する。これは都心部の店舗で究極の救いだろう。

素うどんではなく、ハイカラうどんを頼んだ。いつも思うことだが、なぜあげ玉の入ったうどんが「ハイカラ」と呼ばれるのだろう。確か京都あたりでの呼び方だと思ったが。関西圏というか近畿というか、あの周辺の言語感覚は東国とは随分と異なる。東京を中心とした東国文化が優れているとは言わないが、近畿圏、西国の言語や食文化は、東国から見る時には異文化として捉えないと、無用な差別意識や優越意識を呼び込む。差別の発端は宗教や思想などではなく、食べ物や見た目で始まるものだろう。プロ野球やサッカーの贔屓チームの違いですら喧嘩が起きるこの国で、食べ物の嗜好が違うと文化差を言い連ねるバカたちがどれだけいることか。
ハイカラうどんと、たぬきうどんの違いを考ているうちに、東西異文化と差別意識に思いが至った。朝から高尚な知的活動をしてしまった。

異文化ついでに、おそらくほとんどの人はこんなことをしないだろうなと思う、「文化の果て」的行動をしてみた。牛丼に乗せる紅生姜をうどんの上に乗せてみた。紅生姜好きの衝動的行動だったが、あれれと思うほどうまい。牛丼文化とうどん文化の奇跡的合体だ、麺と丼飯のマリアージュだと、文化論考察の第二弾をしてしまったほどだ。
ちなみに大阪府南部では、紅生姜の天ぷらというものが標準で存在しているが、大阪北部になると見かけることが少ない。大阪の南北ですら食文化が異なるようだ。人と人が仲良く暮らしていくためには、異文化探索は重要だなと改めて思う(笑)

朝のハイカラうどんを食べたあと、渋谷駅に向かって歩いていて見つけた立ち食い蕎麦屋の店頭ポスターにまたまたびっくりさせられた。左側のつけ汁そばは「酢辛」だから、これはラー油そばの進化系だろう。「酸辣湯麺」の応用なのかもしれない。豚肉とニラというパンチのある組み合わせだから、明らかに「みなとや」インスパイア系を上回る進化だ。
ところが、それよりもびっくりなのが「時価の松茸そば」だった。時価って何と言いたくなる。鮨屋のマグロでもあるまいし…… この二枚のポスターでわかるのは、立ち食い蕎麦は異形な方向へ進化しているようだということだ。
原材料高による値上げの欲求と高級化路線は相性が良い。松茸蕎麦は、その現実的な対応ではあるが、一体どれくらいの注文があるのだろうか。逆に左の新つけそば、一杯五百円というのはなかなか巧妙な作戦で、盛りそば380円や天ぷら蕎麦450円?(きちんと値段を確認してはいないが)を、500円に引き上げる効果は明らかにある。
なんだか、古典的なマーケティング・テクニックだが、意外とこれが効き目がありそうで、うどんファストフードのデジタル対応と比べて、あれこれ考えさせられてしまった。
早朝の渋谷は、なんとストリートで学ぶ、発見と考察の研究機関みたいなところだった。

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一向一揆と百名城 鳥越城

お城巡りであちこちを旅してきたが、道路に建てられた案内板で、これほどはっきりしたものは見たことがない。街の誇りというか、お城に対する取り組み方が真剣なのだなということが伝わってくる。

山上にある城の跡に上る道がある。そこの入り口には立派な石碑があり、案内図もある。ただ、この夏の豪雨の被害により登山道は閉鎖されていた。なんとも悔しいが、山の下から山上を見ることしかできない。

鳥越城は典型的な山城だが、ここが防衛拠点となった理由が非常にわかりにくい場所だ。交通の要衝というには街道筋や海・川の水運拠点から離れているような気がするのだが。ただ、今の石川県から富山県にかけて、当時は巨大勢力になった「一向一揆」の拠点であったようだ。
応仁の乱以降、全国で下剋上の嵐が吹き荒れたが、北陸から越後にかけては各地で紛争があいつでいて「戦国期のホットスポット」だった。九州や四国で起きた、島内統一のような動きが起きなかったのは、越前朝倉氏と越後上杉氏の間に存在した戦闘結社「一向宗門徒」による宗教共和国の存在が大きい。
現代日本の徴税比率(社会保険費、消費税による間接税強奪分を合わせる)はおよそ収入の4割なので「4公6民」となる。これが、そこそこ生存できる限界税率だろうし、一揆などの反乱を起こさせない限界税率だ。戦国期は6公4民程度が当たり前で、農民は生存限界転移かに置かれていた。当然、反乱は多発する。江戸期になり4公6民が定着したのは、戦費が減ったことと反乱防止が目的だったはずだ。
一向一揆は、その農民反乱が扇動により巨大化したものだが、そこには旧領主の暴虐的な税収奪があったせいだ。現代日本でも革命が起きる一歩手前程度まで税収奪は進んでいる。先の大戦で負けたせいで、明治政府が行った暴政、「過大な戦費による増税」がチャラになったが、敗戦後の社会改革は外国に強制された革命に近い。政治屋たちは歴史に学ばないおバカなので、現代の一向一揆の萌芽に気づいていないようだ。山城に登れなかった腹いせに、そんな現代日本革命構想を妄想していた。

北陸には今でも浄土真宗を受け継ぐ家が多いと聞く。宗教と合体した政体は、徳川期になり骨抜きにされたが、地元の民は宗旨を変えずに生き残ったということだろう。地域の集客施設である道の駅の後ろ側に、一向一揆の歴史博物館があるった。道の駅では、通常は温泉施設や、高齢者介護施設などが設置される場所だ。そこに「一向一揆」の歴史を説明する施設を作る。それほど、地域に根ざした宗教ということだ。
全国に200ある名城認定された城の中でも、この鳥越城は独特な感がある。城を治めた武将、一族が語られない。一向宗門徒の支配におかれた場所であるせいだろうか、〇〇氏が築き▲▲氏が居城とした、というような戦国お城ストーリーがない。

そして、これも今では歴史博物館などではお約束の戦国キャラが、この博物館前にしっかりと鎮座していた。武将と姫様は理解できる。しかし、坊さんがキャラ立ちしているのは極めて珍しい。さすが、一向一揆の博物館だ。
しかし、この戦国キャラ、お城キャラ、武将キャラ達は、どこの城を見に行っても微妙な違和感がある。子供に親近感を持たせて上で、歴史や郷土に興味を引こうという「勝手な大人」の教育的な目論みが透けて見えるからだ。どうせなら若い旅人を取り込む観光振興策として、萌えキャラ制作に振り切った方が良い気がする。
この「怪しいキャラ」こそが、城巡りをするときに感じる一番モヤモヤするものだ。自治体の担当者の皆さん、キャラ作りは是非ご一考を。

小売外食業の理論

居酒屋DX 予想以上に高度化

平成生まれのオヤジ向け低価格酒場、大衆酒場の元祖というべきこの居酒屋が10年ぶりくらいで店頭イメージの改装を行なった。あまりの変わりぶりに、最初は店が潰れてしまい、後釜が入ったのかと思ったほどだが、よくよく見ると店名は同じだった。
そもそも昭和の大居酒屋チェーンが、平成不況の真っ只中で代替わりというか時代に合わせて変化対応した業態だった。それがコロナの大暴風の中で、令和バーションに進化したようだ。
コロナ期には、流石にこの店もメイン顧客のオヤジたちですら自宅待機やら早期帰宅やらで利用が減っていたはずだ。
おそらく家庭内圧力もあり、帰りに一杯というオヤジ行動は制限されていたはずだ。コロナ時代の「狂気」は過ぎ去ってみれば笑い事だ。が、社会全体が牙を剥いたような魔女狩りをしていたことをエアすれてはいけない。その魔女狩りで滅びつつある業種は多々ある。パチンコ屋などはその典型だろう。夜の商売も元通りに復活するのは無理ではないか。演劇などのエンタメ系ビジネスでは、脱落した演技者やスタッフが業界復帰できるのだろうか。
当時は大多数のオヤジたちが所属する家庭でも、魔女狩りのような行動制限が続いていたことは間違いない。居酒屋はとんだとばっちりを食らった。そして3割が消滅した。

改装された入口周りのイメージチェンジは理解できる。商品のわかりやすさを全面に押し出している昭和や平成ノスタルジーを感じさせるメニューばかりだ。開業当初のコンセプトである「安い」は表面上消えたようだ。安い居酒屋からノスタルジー・郷愁メニューへ転換はマーケティング的には大きな意味がある。「安い」を支えていた若者には期待しないという対象顧客絞り込みの表れとも見える。オヤジ専科として生きていく決意表明みたいな気もする。
店内に入ると、いきなりQRコードを渡され、これでスマホから注文できるという。ただ、「もしよかったら………」という追加ワードがあり、なるほどオヤジの中にはスマホ非対応というかガラケー依存者もいるからなあ、その辺りの微妙な対応が何やら情け深いのか、こちらをデジタル・ダメオヤジと見下されたのか、あれこれ悩ましい。周りを見渡すと、やはり口頭注文も多いから、仕方がないか。
気を取り直して、QRから画面を読み出してみた。なかなか使い勝手は良い。某回転寿司屋や多くの居酒屋に置いてある、注文のしにくいタブレットから比べると数段上のレベルだった。画面遷移もわかりやすい。
蛇足だが、注文用タブレットの開発者(発注企業内担当者だけではなく製造側IT企業を含む)は、本当に店で注文したことがあるのかと言いたいくらい、バカロジック、ダメダメシークエンスの塊が多い。きっと低予算、低開発能力でやっつけてしまうせいなのだろうな。

新メニューとしては揚げ物が増加していた。それと、定番メニューを含め値付けは1割ほどあげたように見える。新製品は旧製品との入れ替えを含めメニューの半分以上になっていた。定番メニューは値上げをしたまま残している。売上点数の低い定番はカットしたので、値上げを目立たせないうまいやり方だ。値上げしても注文したくなる定番を残し、値上げを目立たせないように新商品群を大量投入して新しいプライスラインを作る。上手だなあと感心した。

定番商品については細かく手を入れている。例を上げると定番マカロニメニューは1割以上値上げしながら、見た目で5割くらい増量している。勝手な想像をしてみると、メニューを改定するにあたり、単純に値段を上げたのではない。これまでの販売実績から、一人当たりの摂取重量であるとか注文数や注文の組み合わせなどを分析したのではないだろうか。いわゆるトランズアクション分析だ。大衆居酒屋がそこまでやるか? 考え過ぎかもしれないがと思いつつ、量が増えたメニューもあれば減っているメニューもあり、原価だけで調整したようにも思えない。大規模データ分析は、今後の外食企業における主要分析技術になる……………はずなのだがなあ。メニューのABC分析程度でお茶を濁して生き残れる時代ではないだろう。

新価格コンセプト(と勝手に命名してみた)で、おそらくこれが導入目的の一つ「原価の調整用新メニュー」だと思ったニラ料理だ。目的は、「低価格」「低原価」「高粗利」の実現であるはずだ。
ニラをぶつ切りにして辛いソースをかけるだけ。オペレーション・フレンドリーでもあり、今回の新製品投入では、メニュー体系の見直し、商品のイン&アウトを検討したような気がする。

そして、なぜか店内メニュー札を含め「推しメニュー」になっていた焼きそばの存在だ。これも明らかに低価格・低原価・高粗利商品に見える。焼きそばながら具材はほぼない。キャベツすら存在しない。お祭りの縁日で売られる屋台の焼きそばより簡素だ。これ以上はシンプルにできない究極の「素・焼きそば」だろう。青のりとマヨネーズで食べる「素・焼きそば」は、ほとんど「酒のつまみ」と化している。量も食事というには少ないが、これをつまみに酎ハイを飲むとすれば逆に、多すぎる量かもしれない。
スマホ注文だけがDXではないのだ、としみじみ感心した。メニュー、それも量と価格の再検討をした上で、注文画面のメニュー配列も検討したはずだ。
オヤジ向けの大衆居酒屋で起きている進化こそ、苦境に喘いでいる外食産業各社が学ぶべきことだろうなあ、と焼きそばをつまみながら真剣に考えた。ちなみに日本最大のファミレスチェーンは自社のDXをあれこれ喧伝しているが、実は単純値上げしかしていない。業界的には周回遅れランナーに近いような気もするのであります。配達用猫ロボも役に立っているのかな。

食べ物レポート

恵比寿のラーメン屋 再再訪

久しぶりに恵比寿に出かけた。所用を済ませた帰りに、最近お気に入りのラーメン屋に寄った。コロナの始まりごろに開店した店だが、当時の混雑ぶりは一段落しているようで、昼でも並ばずに入れた。こんなことで日常が戻ってきたなどと感じてしまうくらい、コロナの2年半は面倒臭い時期だったのだな、などと思ってしまった。
電車も昔のように混雑しているし、足早にすれ違う人の多さは大都会が(悪い意味で)元に戻りつつある証拠だろう。コロナの間は他人に近づくのを避けている人が多かったせいか、道を歩いていても誰かにぶつかる(ぶつけられる)ことはなかった。第7波だとマスメディアが騒いでいた頃から、道を歩いているとぶつけられることが多くなった。スマホを見ながら歩く人間が増えたせいだ。
人は本当に何も学ばないものだとしみじみ思う。コロナの時代は、少なくとも、大都会は歩きやすい場所になっていた。今は、元通りで都会のダメな部分が復活している。

店頭にかかっていたお品書き板も微妙に変わっているような気がする。原価上昇で値上げしたのだねとすぐわかる値段の付け替えが痛々しい。つけ麺は麺の量が多いから、小麦が値上がりすると影響は大きいだろう。

らあ麺はいつものように普通に美味しい。スープの味がちょっと変わった気もするが、そもそも開店から2年も経ってスープが進化しないようでは店が潰れてしまう。人気店は麺、スープ、トッピング全てがゆっくりと進化していくものだからだ。老舗と言われるラーメン店ではその努力が続けられているから、老舗になっている。
この店の味は昔と変わらない、などというのは味音痴な客のノスタルジーでしかない。油や小麦の原材料は10年単位でゆっくりと変化、進化している。10年前であれば国産小麦でラーメンを作ることができるグルテン値の高い高い品種はほとんど存在していなかった。今では新品種が普及し、国産小麦で製麺したラーメンが当たり前になっている。
醤油や味噌の原材料である大豆も品種改良が続いているので、同じ工程で同じ味噌や醤油ができるはずがない。原材料のゆっくりとした変化に合わせて、当然ながらスープの作りや製麺するときの粉の配合など、日々変化に対応する必要がある。
進化を忘れない店だけが生き残っていけるのだと、改めて思いながら、進化したらしいスープを啜っていた。恵比寿で働いていて週一みたいなハイペースで来ていたら、きっとわからない変化なのだろうなとも思った。たまに来るから良いこともあるということか。次回は魚介系メニューにしなければなあ。

街を歩く, 食べ物レポート

老舗居酒屋で池波正太郎を気取ってみた

東京のシンボルタワーというより、東京東部、下町地区の象徴という気がするスカイツリーだ。東京駅から東側を歩いていると、アレっと思うようなところからスカイツリーの姿が見える。
鶯谷の駅から歩き始めてふと見上げた先にスカイツリーがあった。スカイツリーが完成してから随分と時間が経った。おやまあ、というか、また会いましたね的な親しみも感じるようになった。街の光景に馴染んできたという感じがする。

JR鶯谷から歩いて10分もかからない、表通りから引っ込んだ住宅街の一角にある老舗の居酒屋で、友人と待ち合わせをした。住所は根岸なので、実に下町界隈に出没した感じがする。そもそも鶯谷の駅で降りたのは、これが初めてかもしれない。浅草からぶらぶら歩いて入谷を過ぎ日暮里まで歩いた記憶はあるが、鶯谷周辺には近付いていなかった。東京にぽっかり空いた未踏地区の冒険に出たような気がする。
山手線の内側を湯島から日暮里まで歩いたこともあるから、やはり鶯谷駅周辺だけ足を踏み入れたことないまま、謎の空白地帯になっていたようだ。

今風の無国籍な料理が並ぶチェーン居酒屋とは全く趣が異なる、シンプルなメニューだった。かまぼことかたたみ鰯とか、時代劇に出てきそうな食べ物が並ぶ。まさに池波正太郎的グルメ世界なのだ。というよりストイックな美食空間とでも呼びたい。
池波正太郎が今でも生きていたら、江戸風物の古典料理以外にエスニック料理や昆虫食まで手を広げていたとは思う。知性の高いグルメ探求者は、知的探訪というか興味本位で悪食になるはずだからだ。オムライスを楽しんだ翌日には、タイ飯でグリーンチリとココナッツミルクにした図済みを打つような暮らしは悪くない。池波正太郎氏にはナンプラーとニョクニャムの違いを熱く語ってもらいたいものだ。
ただ、そうした現代版拡張グルメを楽しんだ後は、やはりこの店のような古典的居酒屋で休憩するのではないかと思う。新と旧を取り混ぜ、伝統と新進気鋭を気ままに楽しむのが、正しい食い道楽のお作法であるとも思う。

最初に出てきたのはお通しというより突き出しという感がある、シンプルな「煮豆」だ。ちょうど10粒あるなと思ったが、これはひょっとするときっちり数を揃えて出しているのだろうか。そうかもしれない。ありそうな話だ、と豆をつまみながら思った。味付けはほんのりというかほとんど味がしない。ただ豆を食べたという充足感がする。

鳥もつ焼は、一人一本ずつに分けて出してくれた。一皿に盛り付けて勝手にシェアしてねという一般的な居酒屋とは一味違う心遣いなのだが、それを堪能するのは客側にもそれなりの素養というか、理解度の高さが必要だ。
ここしばらくの我が生活を振り返ってみると、コロナで在宅時間が伸び、テレビ視聴時間が増えたせいで、旅番組(過去放送したもの)と酒番組には詳しくなった。その影響で熱燗を飲むようになったのだが、確かに燗酒には冷酒とは違う旨さがあるなと感じるようになった。どうやら基礎代謝量が減ったせいで、色々と味覚にも変化が起きているようだ。まあ、普通はこれを老化と呼ぶ。ジジイ好みの味に傾いてきたというだけの話だ。だから伝統的な居酒屋、ほとんど会話が聞こえてこないような静かな店がありがたい。居心地が良い。
白鷹の熱燗で湯豆腐を食う的な池波正太郎世界が目の前に広がっているなあ。ちなみに、都内で白鷹を飲める店は本当に少ないのだよね。池波正太郎の世界で、日本酒の銘柄に言及していたかは全く思い出せないのだけれど。

旅をする

一乗谷 栄華のあと

一乗谷といえば、戦国期に花開いた徒花というか、北陸入り口の強豪「朝倉氏」の居住地であり、滅びた場所だ。地図で見るとわかりやすいが、福井平野から山の中に向かってしばらく行ったところで、川沿いにひらけている南北を山に閉ざされた狭隘な土地だ。
一乗谷の名の通り谷が開けた場所であり、右も左も山に囲まれている。防衛拠点としては、西側である川下方面だけ考えれば良いので(山越えをしようにも、山の広がりが南北に深い)、優れた場所だろう。実際の核として、城は南側の山上に建てられていたから、備えは万全ということだった。
それでも、織田氏との北陸戦争で負けた後は、焼き払われ廃墟と化した。その遺構が発掘されて再現されているのをテレビ番組で見て、これは一度行ってみなければと思っていた。滅んだ文明?には、なぜか好奇心を煽られる。

当時の街並みを再現している施設があった。その街並みで土塀沿いの道を歩く。門をくぐると武家屋敷があった。当時の様子を再現している。
石垣の上に土塀を作っているのは都市防衛戦を意識したものかなと思った。しかし考え直した。おそらくこれは戦争ではなく、当時はやたら存在した野盗、つまり傭兵としての足軽予備軍みたいな悪党集団との戦闘を意識しているのだろう。

再現された武家屋敷を見ると、思っていた以上に狭い。2k+sみたいな間取りだった。居室と寝室の外に小さな茶室が一つ。キッチンは土間で、カマドが大きい。あかりとりの窓はない。障子が大きく開放的で、日中は明るい部屋のようだが、冬は寒そうな作りだった。
三畳の茶室が一番日当たりの良い場所にあるというのが、当時の一乗谷文化は高いレベルにあったことを表している。

しかし、一番文化的にレベルが高いと思ったのは、戸外にあるトイレだった。扉はないが展示よのためだろうか。実際にはムシロくらいはしきりに使っていたのではとも思う。あるいは、トイレで尻を出していても恥ずかしくない風俗だったのか。

土塀の外は、全部に武家屋敷が再現されているわけではない。野原のまま放置されているが、当時の区画や井戸(給水口)の跡がわかる。山際まで街が広がっているように見えるが、戦国時代から江戸時代は、里山がほぼ禿山になっていた。燃料として、伐採できるかぎり山の木は刈られていたので、当時の一乗谷は意外と解放感がある谷間だったのかもしれない。

この発掘され再現された場所を見ると、一乗谷の城下町は町割計画に沿って作られた人工的な都市で、おまけに給水網もあるのだから、明らかに当時の京都を越えるレベルではなかったか。応仁の乱から逃げ出してきた公家や坊主たちが、一乗谷に持ち込んだ文化の高さと相まって、この地は地方権力者の居住地というレベルを超える繁栄ぶりだったのだろう。

それにしても感心するのは、ここまでの大規模都市が数百年に渡り、田んぼや畑の下に埋もれていたということだ。織田軍により朝倉氏が滅亡し、町が焼き払われた後、誰も住もうとしなかったということだ。
確かに織田氏による朝倉氏殲滅以降、戦国期は急速に終わりに近づく。江戸期に入り戦争がなくなれば、山間部にこもっている必要もない。交通の便が良い平野部に街を築いた方が良いのは明らかだ。一乗谷は滅びたまま静かに400年近く埋もれていたと思えばなかなか感慨深い。

武家屋敷の他に民家というか商家も復活再現していた。これは、武家屋敷と違い小さな窓があるだけのワンルームなので、中は相当に暗い。昼でも作業ができるのかと思うほどだ。あんなに暗い中で作業をしていたのだろうか。戦国期の人間は、暗闇特化型の視力を持っていたとも思えないのだが。それとも猫族のような夜向け視力があったのか。

商家の跡は、専業店舗と専業工場ができるくらい分業が進んでいた文化都市の証として考えられる。ただ、この家で冬を越すのは考えたくもない。毎年冬が来るたびに、死人が出そうなくらい寒そうな家だ。寒さは人を殺す。それに耐える生活は勘弁してほしい。本当にどうやって冬を越したのだろう。

そして最後に発見したこのアニキャラパネルが、一乗谷の異世界感をマックスにしてくれた。うーん、これはご当地キャラでもなく、町おこしキャラでもなく、聖地巡礼向けキャラなのだろう。
ただ、あちこちのお城にいる違和感を感じる武将キャラと比べても、このキャラと朝倉遺構とのギャップはありすぎのような気がする。
歴史遺跡でギャップ萌えというものがあるのかどうかはわからないが、福井市の関係者の方々には展示場所の再考を願いたいものだなあ。せめて武将キャラ、朝倉義景くんあたりで勘弁してほしい。