


会津若松駅を早朝に出発して、只見駅に着いたのは9時近く。ワンマンカーはここで終了となり、車掌が登場した。この駅に至るまでには、いくつかのダム湖を見ながら山間を潜り抜けてきた。ここまでが、奥会津、福島県側の駅になる。この先の駅は、新潟県に所在するので、只見駅は県境の駅で会津の果てということになる。
只見駅に到着するまで、最初のダム湖周辺では、車窓から写真を撮る乗客が多かったが、ダム湖の光景が何回か続くと、次第に写真を撮る人は減り、ついには座席で寝たままになっていた。人の世の哀れ、みたいな感じの寝方だったのがおかしかった。やはり早朝から乗りっぱなしで3時間近い鉄旅だと、若くても老いていても疲れてしまうらしい。

停車時間を利用して駅の周りを歩いてみた。すると、そこに一枚の看板があり、越後長岡藩の人、河井継之助に関わりがある場所だと分かった。
戊辰戦争は京都伏見から戦闘が始まり、政府所在地である江戸の制圧を目的として西軍が東進した。幕府の大将である「征夷大将軍」が逃げ出したせいで、幕府軍は統制を失っていた。有名な勝・西郷会談で江戸の無血開放と江戸城(千代田城)の引き渡しが決まっていたのだから、この会合の時点で戦争は終了のはずだ。ところが、西軍は越後と奥州へ軍を進める。
その目的は、戦闘による資金強奪、つまり軍資金の足りな西軍が追い剥ぎ・強盗・恐喝を企んだのだ。後に新政府などと偉そうなことを言うが、革命軍の実態はテロ組織であり、ごろつきな反社会的集団と規定されるべきだろう。
ただし、歴史的には、どの時代のどの世界でも革命軍は常にテロ集団から始まり、強盗集団と化し、その後に自己を正当化する。これは一つの例外もないといって良いくらい、人類という種が持つ欠陥というか習性だ。だから、戊辰戦争が特異な形態であったとは言えない。あくまで普遍的で堕落的な行動を、忠実に実行しただけだ。
戊辰戦争で戦闘が激化したのは、越後長岡戦争と会津攻略戦を含む奥州戦線だった。強盗にやる金はないと突っぱねたから、ゴロつきに絡まれた形だ。戊辰戦争終了後の自己正当化により、名目上は尊皇攘夷から始まった革命思想の実現と言い張るようになる。だが、実際は倒幕に血道を上げたテロ活動と集団強盗であったが、勝てば官軍の通りに、明治政府成立後に事態は捏造された。この明治政府の主張が覆されるのは、70年後の敗戦で皇国史観が粉砕されてからだった。
ビジネスマンが大好きなし歴史小説の大河、司馬遼太郎氏も明治政府までは小説を書いた。この河井継之助を主人公とした北越戦争も題材にしている。が、その後の昭和軍政、明治政府の産んだ鬼子については沈黙している。流石に昭和初期の日本については、自己正当化の歴史観で語ることができなかったのだろう。
話を戻すと、西軍の強盗集団に果敢に挑んだのが長岡藩だが、その戦争の悲惨さに戦闘を主導した家老、河井継之助には批判も多いと、司馬遼太郎は語っていた様に記憶している。
ただ、東国における戦地で、司馬氏と同じ感想を持つ人はどれくらいいるのだろうか。この看板を見る限り、河井継之助を支持する人も多いような気がするのだが。越後と会津の境目で倒れた武人には、やはり敬意を表すべきだろうと思った。
余談だが、その西軍に侵略された長岡から出現したのが後の海軍元帥「山本五十六」であり、奥州討伐で散々にやられた東北諸県出身の陸軍要職者も多い。



只見駅から先は新潟県になる。小一時間で上越線と合流する小出駅についた。思っていた以上に小さい駅だった。長岡と水上を結ぶ上越線も、運行本数の少ないローカル線なので、複数路線が乗り入れる交通の要衝という感じがしない。小出駅での乗り換えには待ち時間があり、駅前を眺めてみたが極めてさっぱりとしていた。コンビニも見つからない。

只見線から降りた乗客は40-50人ほどだった。小出駅から長岡・新潟方面に向かうものが半数、水上方面に向かうものが半数といった感じだろうか。このタイミングで乗り継げば、各駅停車で首都圏に戻れば夕方には着く。この一本を逃すと、次の水上で乗り継ぎは3時間後になり、お江戸まで戻るれば夜になる。
首都圏方向へ向かう乗客は、いわゆる「撮り鉄」らしき若者が多い。カメラや三脚を抱えている。それに加えて、「乗り鉄」の高齢者カップルが数組いた。平日の昼下がり茹だるような暑さの中、列車を待っている。
この日、長岡地方は日本一暑い場所になっていた。前日は会津が日本一暑い場所だったから、暑い場所を連続して移動する羽目になった。しみじみ夏らしい旅なのだが、もう暑いのは勘弁してほしいというのが正直なところだった。






















































