旅をする

おそらくこれが最後の

厳島神社には何度かお参りに行った。行くたびに、ここは日本一美しい神社ではないかと思う。観光地として有名だが、歴史的には瀬戸内海交通の要所でもあり、軍事・戦略的見地からするとこの島の支配は極めて重要だった。
そこに霊験のある神社がおかれるのは当たり前といえば当たり前なのだが。

しばらく改修工事で周りを囲われていた大鳥居も今ではスッキリしている。たまたま潮目の時間が良かったので、綺麗な姿を見ることができた。

周りを海で囲まれた神社の廊下は実に絵になる。早朝だったのでまだ観光客も少なく、良い写真が撮れた。日中であれば、渋谷の雑踏かと思うくらい人がいるみたいだ。すれ違うのも大変な神社というのもなんだかなあと思うが、伊勢神宮や日光東照宮、浅草寺や善光寺などのスーパー人気スポットに引けを取らない人気ぶりだから仕方がない。

たまたま窓枠が写真のフレームみたいだなと思ったので、それっぽく撮った一枚だが、対岸(本土側)のビル群と鳥居の対比は、あまり良い絵柄にならない気もする。ただ、この辺りは海側に突出した箇所で、外国人観光客の集団撮影会場のようになっているところだから、ちょっと離れて写真を撮ろうとするとこんなアングルになるのだなあ。

帰り際に見つけた光景だが、どうもこの島の主人たちは、春の権力闘争トーナメントの時期になっているらしく、結構な音を立てながら頭突き合戦をしていた。これぞまさに文字通りの頭突きだなと感心した。ツノが生えてくるまでの時期にしかできそうもない荒技だった。
この神社に来るのは今回が最後になりそうな気がした。美しい光景に出会えたし、とても満足だった。なんだかこの先も、これが最後という感覚が増えていきそうな……………

駅弁

かしわの街へ

今回は旅の途中でできるだけ駅の立ち食いそばを食べてみようと思っていた。ところが、今や立ち食いそば、駅そばは滅びゆく業種のようで、そこそこ大きな駅のどこに行っても見当たらない。
ようやく下関駅で見つけたが途方もない混雑ぶりで入るの諦めた。あの混み具合は最盛期の渋谷駅そばに匹敵する。下関市民はそれほど立ち食いそばが好きなのだろうか。
そこで、海峡を渡り巨大駅小倉に辿り着くと、なんとホームの間の通路に「駅うどん」を発見した。やはりうどん文化圏の北部九州らしく、蕎麦はおまけだった。ただ、あいにくと北部九州のコシのないうどんが苦手なので、あえてうどん屋でそばを注文した。
普通にうまい。出汁がカツオではなくアゴ出汁のようだ。食文化の東西さを味わう。ちなみに蕎麦はツルツルと啜るのではなくワシワシと食べていった。
いつもであれば天ぷらそばやきつねそばを注文するところだが、やはり九州に来たのだから、それなりのものにしなければ遠征した甲斐がない。
九州には燦然と輝く「かしわ」トッピングが存在する。九州各地にあるかしわ飯も美味いが、この甘辛く煮た鶏肉トッピングが実にうまい。お江戸でも是非取り入れて欲しいものだ。

全面的うどん推しの店でそばを頼むのはいささか気が引けたが、周りを見ていると次々とくる客の三人に一人くらいはそばだったので、あまり申し訳ないと思わなくてよさそうだった。

かしわそばを食べてとても満足した後、改札口を出る手前でトラップに引っかかってしまった。あー、これこれ、有名なかしわ飯駅弁ではないか。これを素通りするのは難しい。が、今買ってしまうと荷物になる。在庫がたっぷりあるようであれば、帰りに買いたいところだ。
時間は午後に入っていたが、昼飯のピークは過ぎている。それでも棚には山積みだった。これだけあれば、帰りでも大丈夫だろう。鹿児島本線には、これまた有名なかしわ飯駅弁もあるが、今回はこちら、小倉駅バージョンにしておこう。

ホテルに戻り本日の晩飯になったのがこの駅弁だった。問答無用でうまい。好みだ。日本駅弁における我が個人ランキングで、不動の123は横浜崎陽軒シウマイ弁当、長野県横川の釜飯、山形県の牛飯ど真ん中、これが3トップだが、それに勝るとも劣ることはない。
九州は「鳥料理の王国」だ。だが、その中でも鳥の出汁で炊いた米の旨さは、別格というべきだろう。駅弁界には全国各地に美味い鳥弁がある。こと鳥弁に限定すれば、秋田県大館の鳥弁が筆頭格だと思っていたが、今後は西の横綱、東の横綱と東西の巨頭を呼び替えるようにしなければいかない。もちろん西の横綱は「かしわ飯」だ。

かしわはうまいぞ、の北九州だった。

旅をする

西国の果てで思うこと

下関には何度か仕事で来たことがある。ただほとんどが通過点での旅だった。まともに飯を食べたのは一回くらいだろうか。フグ屋の社長にご馳走になったのだが、なぜかフグより美味いよと、おこぜの薄造りを勧められた。確かにおこぜはうまかったのだが、なんとなくモヤモヤした気分になったのを覚えている。
その下関がJR西日本の終点かというと、どうやらもう少し先の小倉までのびているようだ。山陽線の目的地表示に駅名ではなく「九州方面」と書いてあるのがなんだか微笑ましい。
下関から小倉に行く電車はほぼ満員だった。大都市である北九州・小倉に遊びに行くのだろうか。中高生が埼玉県の街から東京へ繰り出すみたいなものかもしれない。下関は山口県というより、経済的には北九州市に飲み込まれている感じもする。

その本州西の果て、下関市にある神社は、大阪の住吉大社と同系列らしい。海神を祀る神社は日本に何ヶ所もあるが、福岡、下関、大阪と続く海神ルートは明らかに過去の海上交通の主導線を想起させる。
福岡線は壱岐・対馬とつながる大陸航路の入り口だったはずだし、ここ下関は瀬戸内ルートのスタート地点だ。大阪南部は奈良に通じる公式港だったのも間違いない。神様の縁起を辿るとなんとなく古代史が見えてくるものだ。天照系神族と地方神の関係も面白いが、瀬戸内海岸諸国と天照系神族の配置も面白い。天照系神族は征服と統治のバランスで配属先が決まったのだと思う。現代で言えば、支店を開設するたびに転勤させられる営業部長(優秀)みたいなものだろう。
天照系神族では乱暴者扱いされている素戔嗚は、実は敏腕な営業本部長で、配下に幾多の営業部長(地方担当)を従えていたのではないか。

そんなことを考えながらお参りしてみたのだが、この神社は実に真当というかオーソドックスな佇まいだった。

一宮としては少し小ぶりな気がする。おまけに海神様なのに山の上に立っているのが不思議だが、古代はこの辺りまで海岸線が近づいていたのかもしれない。

本州の西の果ては、そのまま九州への入り口になる。古代から人の行き来は盛んだったはずだが、関門海峡から九州サイドを覗いてみるとあまりに近い。感覚的には利根川の両岸に広がる街みたいな感じすらする。
古代から中世にかけて海運が主流であった社会・時代に、この海峡は文化的な境界としてはなんの意味もなかったのだろうなあ。そう思うくらいの幅しかない。下関と北九州では使う言葉も同じような気がするのだが。違うのだろうか。よくわからないまま、川のような海峡を渡ってみた。

街を歩く

NYT おすすめのリアル

どこかでみたようなカラーリングの車体は山陽本線の列車だ。広島から岩国まではそれなりの本数が走っている。大都市圏の通勤列車だ。編成車両数も多い。ただ、この色は妙に懐かしい感じがする。今でも多少は走っている西武線の旧式車両と同じ色に見えるせいだ。
だが、同じ電車が岩国から先はほとんどローカル線扱になる。運行頻度は激減して、一時間に一本しか走らない。思い返せば、仙台を過ぎた東北本線も似たようなものだから、JRの都市近郊線以外はみんなこの程度の運行形態なのだろう。奥羽本線はもっとひどかった。
もはや鉄道は地域の主要交通網とは言えない。運転が出来ない交通弱者の限定利用しか考えられていない。すでに長距離移動は新幹線、そこから短距離移動は自動車でという分業も成り立ってはいるのだが。短距離移動用のローカルバスは、ほとんど病院に通う老人向けという扱いだ。
つまり、田舎町を旅行する者にとって、今や日本は結構不便な国になっている。すでにアメリカのように、飛行機で移動した後はレンターカーでという世界になってしまった。
世間に溢れるインバウンド客は流石にこのローカル線には乗っていないだろうと思っていたが、しっかりと数組乗り込んでいた。面白いことに西に進むにつれて、インバウンド客の人種が変わる。近さもあるのだろうが、半島からの旅行者が目立ってくる。もう一つの気づきだが、アジア系旅行者は車内でもうるさい。欧米系、インド系と思われる旅行者は大概がおとなしい。東南アジア系の集団も人数が多くなればうるさくなる。国民性なのか、乗車時のマナーが国によって違うのかはわからない。コロナの時と同じように、いきなり電車の中で殴りかかる暴力ジジイが出現しそうな雰囲気だ。飛行機で来れば東京も大阪も福岡もほぼ変わらないだろうに。なぜ、西にくると旅行者の構成が変わるのか、この辺りが実に不思議だ。

岩国での新発見は、コンビニで見つけたヨーカンパンだ。初めてみるタイプだが、高知の宿毛で作られているものに似ている。味付けはそれなりに甘い。一度、某ケンミンショーでヨーカンパン特集でもしてくれないものだろうか。

いや、某公営放送でブラ◯モリの後継番組として、珍しい食べ物行脚を仕込んでもらっても良いのだが。商品名が出せないから無理か。

延々とローカル線を乗り継ぎ、山口県県庁所在地に初めて辿り着いた。これで、日本47都道府県全ての県庁所在地を踏破したことになる。47都道府県全部に足を踏み入れたのは随分前のことだが、福井市と山口市は47都道府県達成後も行く機会がなかった。個人的な感覚で言えば、山口市は鹿児島市より遠い。そもそも元・長州には本当に来る用事がなかったせいだろう。初めて山口県で訪れた場所は大島にあるジャム屋で視察だった。福井市に行ったのは恐竜博物館を見に行くついでだったが、山口市にはついでに寄る場所もなかった。

西国武士が全盛を極めたのは平安末期から平氏勃興の時期だろう。その後、東国武士に擁立された反乱軍が、平家と共に西国武士連合を蹂躙し、しばらく軍事政権は東国にとどまった。都落ちした初代将軍は、よほど京が嫌いだったのだろうし、西国武士集団を恐れていたのだ。その後を継いだ東国武士団の首領も東国の田舎出身でありながら、一度負けた内乱を西国武士の支援を受けて制した。そのため、本拠地を京に移した。これが失敗だったのは脆弱で短命な政権だったことで証明済みだ。
それでも一時期は勢力を強め、東西で二政府体制をとった室町政権が急速に弱小化する。それにつれ、東国政権による支配から頚城を解かれた西国武士団は、大規模な地方軍閥状態を迎える。東国武士が鎌倉以来の正統性であれこれ諍いをしているうちに、西国武士集団は実力本位の争いと統合を仕掛けていた。

ただ、それも最後は東国をまとめ上げた徳川政権に臣従することになる。西国武士雌伏の時期は、また300年近く続くことになる。なぜ武家政治が続いた1000年近くの間、西国武士が東国武士に従えられていたのか、その理由を考えると面白い。おそらく要因は西国農業の生産性が東国と比べて高かったことにあると思う。中世から近代にかけて東国は常に貧乏地方だった。そのために、金の持っている西国を略奪するしかなかった。
小京都を作った大内氏のように栄華を極めた豪族は、東国の歴史を眺めてみても奥州藤原氏くらいしかいない。関東以北で強大な軍事政権ができなかったのは、戦争を続けるだけの資金を持てなかったせいだろう。
国というものは金がないと凶暴化する。いつの時代も、それこそ今の時代でも同じことで、ユーラシアの西で起きている戦争も同じ構造だ。貧乏が嫌になった国が、自分より先に金持ちになりそうな国に強奪を働く。金目当ての戦争に正義などあるはずもない。

ところが、比較的金持ち揃いだった中世日本の西国では、そんな弱肉強食的思想を持つ大名が少なかった?ようで、西国武士は文化的であったのかもしれない。

ニューヨークタイムズでおすすめの観光地指定された山口でそんなことを思っていた。しかし、この街、観光地にするならもっとあれこれ改善しないと悪評が立ちまくりそうだ。
少なくとも、JRの駅に早くコインロッカー整備してくれないか。県庁所在地の駅でコインロッカーないなんて見たことないぞ。駅前にタクシーもいないし。バスは一時間に一本やってくるみたい超間引き運転だ。せめて観光資源のある県庁付近までシャトルバス運行くらいしてくれよ、と言いたい。

うーん、やはり金持ちのお殿様の血を引く気性ののんびりした一族が多いのだな、きっと。

旅をする

近代都市と城郭と………

小倉城は九州における幕府の防衛拠点の一つだった。当時の主力高速移動路、瀬戸内海ルートを使用して移動する場合、門司下関と渡るルートと陸路で日田を抜け大分あたりから渡るルートがあったはずだが、陸路防衛のため日田は幕府直轄地になっていた。そのため交易地として日田は栄えたていた。現在の鉄道、高層道路網と当時の主要交通とはかなり異なっていたのがよくわかる。古代、中世でも港のあるところだけが栄えたわけではない。
それにしても北九州市、小倉は当時から大きなターミナル地域だったはずだ。今でも人が集まっている。小倉駅を降りて思ったのが、この旅では一番の人出ということだった。歩くと誰かとぶつかりそうになるくらいの混雑度だ。

駅から地下鉄がつながっているのはよくある都市の光景だが、駅ビルの真ん中からモノレールの線路が伸びているのは、なんとも言えない。かなり異質な風景であり近未来的な絵柄だなと思う。お江戸にある羽田空港行きのモノレールと比べても、こちらが数段立派そうだ。その近代鉄道風景を見ながら15分ほど歩くと、全く違う景色にであう。これが歴史ある大都市というものだろう。

今では市役所が置かれているあたりには城が築かれていた。というか、城跡に行政の建物が間借りしているという方が正しい。全国あちこちで、県庁は城跡や城のお堀脇にあることが多い。ここもその例に違いない。
大手門付近に人の背丈より高い巨石を置くのは戦国末以降に建てられた近代城郭の特徴だ。どうだ俺の城は、こんな立派な石を運んできたんだぞ、すごいだろう、と威張るためのものらしい。威張りンボ・ナンバー1は間違いなく江戸城で、ナンバー2が大阪城だろうか。重機もない時代に、梃子と縄と滑車でこんな石を積み上げるのだから、すごいものだと感心する。

今ではすっかり庭園風景に変化している城内も、よく見れば戦闘目的で作られたことがわかる。ちなみに石段の高さはわざと不揃いにして上りにくくするという工夫をすることもあるようだが、この城の石段は整然としていて上りやすい。おそらく後世に修正されたものだろう。

この城も一度棄却された城を再現したようだ。この高さの石積みはなかなか見ない。堀の幅を合わせると難攻不落の堅城だったのだろうが。今ではインバウンド客が集まり自撮りをする名所らしい。
西に来るに従ってインバウンド客の姿も、言葉も。一気にアジアンなグループが増えていた。しかし、インバウンド客がなぜ城や神社を見に来るのだろう。日本人観光客もバチカンに行って教会を見たりするし、ベルサイユ宮殿にも大挙していく。日本人の大半は宗教観念も薄いし、軍事防衛に関する知識も驚くほど足りない。だから、観光で行く場所が宗教施設であれ防衛施設であれ、なんのためらいも感慨もないだろう。ただただ見るだけだから、日本人にとってそこには何の不思議もないのだが。パールハーバーに行って沈没した戦艦を観光するのですら躊躇いがない。自分たちが加害者側にあったことすら忘れているからできることだ。そんな日本人がインバウンド観光客のあれこれを言い募るのもおかしなことなのだが。


城はまあよしとしても、神社に来てお参りをしているらしいキリスト教やイスラーム教、つまり一神教の方々は何を思っているのだろうか。これが一番不思議だ。異教の神を悪し様にノノしるために来るとも思えない。となると、あれは一神教圏内における例外、つまり無宗教者なのだろうか。本当に不思議だ。

城を見に行くものたちも、その城にこもって戦っていた侍ウォーリアーが明治の武力革命を成し遂げた後、世界一好戦的な国と狂信的な軍になっていたことを理解しているのだろうか。そもそも日本民族が平和だったのは江戸期だけで、歴史的にそれ以外の時代はのべつまくなしで戦争、反乱、動乱、反革命が続いていた。世界で有数な暴力国家だった。たまたま島国で内輪揉めが中心だったが、それでも何度かは暴発的に半島や大陸に乗り出して戦争や略奪をしている。周辺国からすると厄介なならずもの国家だった。昭和の暴走では、何と一国で世界中を敵に回すという前代未聞の暴力国家だった。国家理性のかけらも無い状態でようやく敗戦を受け入れた。


昭和の後半と平成は、すっかり日本人もおとなしくなっていたが、歴史的に見て古代から近代を振り返ってみても、70年も経つと必ず暴力騒動を起こす民族でもある。平和に対する学習効果は驚くほど低い。そして、暴力革命や内乱は、いつでも経済的文化的に低水準の地域から始まるのも日本史の常識だろう。インバウンド客が押し寄せる歴史的建造物「城」が、いつ実用的な施設に変化するか。歴史は繰り返す、という言葉を城を見上げながら思い出していた。

旅をする

豊後一宮は火消しの神様

神社仏閣巡りをしていると、どうしてもカーナビに頼ることになる。昔は道路地図を見ながら目的地を探すので、周辺施設や道路の名称、ランドマークなどあれこれ予備情報も一緒に記憶していたものだ。だが、今では住所や名前で行き先が検索できてしまう。道筋など気にすることもないから、当たり前だがランドマークなど覚えない。
これがビジネス街とか住宅街であれば、あまり問題は起こさない。ところが、こと神社仏閣を目指すと、そもそも住所自体が山の一角全体を表していたりする。だから、目的地を設定すると、例えば神社の拝殿に設定されたりする。そうなると、車で行った時にはどこに駐車するのか問題が発生する。それ以上に、ナビが最短ルートで示す道筋は、神社裏手の山の中を抜けるとか、それも車がすれ違えないような細い道を設定してくることはしょっちゅうある。その度に、こいつ頭悪いぞと罵るハメになる。
今回も全くそうなった。広い道(国道)から参道に向けての道が選択されず、住宅地が広がる山の中を越えて、鳥居の前に案内された。鳥居前はクランク状になっている。おまけに車両幅ギリギリくらいの狭い橋を渡って右折の指示だった。そこの道幅も極めて狭い。狭い橋の上で切り返しをする羽目になった。やれやれ。

本神は天照神族のトップ級 というだけで融合政策、統治方針が想像できる

どうも豊後国には一ノ宮が多い。おそらく歴史的経緯なのだと思うが、宇佐神宮を報じていた地方一族と古代ヤマト朝の軋轢が主因だろう。この国の原住氏族はヤマト朝と張り合えるほど強かったのだ。おおそらく征服ではなく同化政策が取られていたのだと思う。天照神族との併存、同化、融和が見て取れる。
そういえば、山陽道の天照系神族と地方神が混在していた。瀬戸内海の東西は天照系神族が抑えているので、なんとなく争いの跡が見えてくる。

参道は短めだがこれは近くの山の周りに住宅地が広がってしまったせいのように見える。ご神域というか神社の周りはもう少し広い地域だったのではないか。

拝殿もシンプルな形で目立ったところもない。オーソドックスな神社と見て間違いなさそうだ。

ただ、「鎮国」の二文字は珍しいか。平城京以降、鎮護国家は仏教が主流になっていたはずで、外来宗教である仏教が隆盛を極めるにつれ、神社勢力は後退したはずだ。
時の権力者、それが公家であれ武家であれ、その一族で権力を継がないものは、ほとんどが寺に押し込まれた。現代風に言えば、天下り先が大きな寺院だった。
だから、仏教界が栄えたとも言える。平城京から平安京へ遷都した最大の理由は、奈良が寺で埋め尽くされてしまったせいだと聞いたことがある。天下り先が足りなくて、都全部の空き地を食い潰すまで、下請け寺院を増築しまくったということだ。
その時代、つまり古代から中世にかけての移行期間から神社は外来勢力である仏教に負けないよう、寺と合体して生存を図ることになる。それが長い間続き、平安後期から鎌倉、室町、そして江戸期にいたり「寺も神社もみんな一緒」でありがたやになったのは実に日本的らしいという気もする。が、戊辰戦争後の成り上がり下級武士の作った明治政府は、その神と仏の混交を嫌う。自分たちの権威づけのために、神道を新しい「政のシンボル」に引き上げた。
まあ、いつの時代も宗教は政治の道具に使われやすい。そんな歴史的な流れの中で、各国の一ノ宮も仏閣、寺院と付かず離れずの関係を保っていたはずだが、明治期以降独立勢力になり、新しい信徒集団が形成された。(まあ、国の下請けに戻ったとも言えるか)経済的に自立できたというべきだろう。

消防団の方が集団でお参りに来ていた 流石火消しの神様だ

その自立の過程で、それぞれにお奉りされている祭神の得意技?も発達した。より広く知れ渡るようになった。火消しの神様だったり学問の神様だったり、現世利益と近しいほど参詣する人間が多くなったのは間違いない。お酒の神様、穀物の神様では五穀豊穣の神にアップグレードされたケースもある。本来、古代日本では盛んでなかった商売繁盛の神様が出現したことなど、外来神族と合体してまで発展を遂げた新種なのだと思う。

みたいなことを、この火消しの神様にお参りしながら考えていた。狛犬の由来も大陸西方から渡来してきたものだし、日本の古代宗教である八百万神信仰は、ある意味、神族の合体と融合の連続こそが宗旨みたいなもので、大陸系の神族や、それを信仰する民族の差別化、差異化とは無縁の宗教だった。ヒンドゥー教や古代中国の神仙思想から派生した道教など多種多様な神を封じる宗教もある。ただ、その世界観は絢爛豪華というか重層的な神界構築がなされている。が、日本の八百万の神々、おまけに高天原は実にゆるふわ的なメリハリのない世界だ。天界というと抱く厳格さや重厚さのイメージが湧かない。ハレとケで乗り切っていくゆるさが特徴だろう。


当然、神獣である狛犬も害なすもの以外にはおおらかな守り神だったはずだ。この火消しの神様を一体誰から守るのか、八百万の神の中に火つけの神様がいるとしたら、その一味から守るのだろうな。などと、あれこれ哲学的に考えてしまいました。ナビのせいで道に迷ったせいでありますよ。

旅をする

城廻りのチートで妄想したこと

お城回りをしていると、城を見ることなくおしまいになることがある。すでに廃城になって久しく痕跡すらうっすらとしているという仕方のない場合もあるが、現在は発掘整備中で立ち入れないとか、山の上に石垣だけ残っているが登山道が山崩れを起こしているとか、様々な理由がある。
そこで登城を諦め、山の上にあるお城の跡地あたりを山の下から眺めて、ああ、この辺に城があったのだなと思っておしまいというケースだ。ちなみに、登山道があっても片道1時間かかるみたいな難コースの場合、個人的に心が折れて諦めることもままある。
毛利家の本城があったところも、山の姿を見て諦めた。麓にある歴史博物館で、山城の造作や配置地図を見てますます諦めてしまった。ただ弁解するが、この城は山を丸々一つ使って尾根沿いに出城をいくつも配置するという重厚な山岳要塞で、おまけにすでに廃城になっている。一部は自然の中に戻っている。視察するにも高度な知識が必要な「超上級城オタク」向けの難度Gレベルだった。(言い訳です)

戦国期 西に異本の大雄であった毛利氏の鎧


山の麓にある博物館から山城跡全体を眺めると、よくもこれだけの城砦を作ったものだと感心する。当時は、城の周りの樹木が伐採されていて城の全容が見えたに違いない。城という建造物は、敵に攻めるのが嫌だなと思わせなければならない。難攻不落という感覚が城を見た瞬間に与えるようでなければ存在価値がないとも言える。だから、森の中に隠されたファンタジー世界の城みたいなものでは「城の異様」が見えないから存在する意味がない。
そもそも、戦国期にまでには西日本の山々がほぼ禿山になっていたはずで、古代から刈り尽くした森林資源は再生不能に近い状態だったはずだ。長く京都から遷都できなかったのは、中世朝廷が貧乏だったこともあるが、それ以上に首府造営をする為の建築資材・大木資源が西日本では枯渇していたせいだという。
だから、戦国の覇者、徳川家康は江戸に首府を移した。まだ東日本、東北の森林資源が残っていたからだ。
先の大戦後、日本は禿山になった全国の山々に必死で植林をした。それが昭和の後期には大きく育ち、今では日本の山は過剰なほどの樹木に覆われているが、これはこの国にとって1000年以上存在しなかった景色らしい。
間伐を含め山地の森林資源メンテナンスがたち遅れているからこそ、あふれんばかりに生い茂る緑の世界が当たり前だと勘違いしているのが現代日本人だ。その結果として正しい知識もないまま樹木の伐採をやたらと嫌うが(不勉強な、あるいは作為的にデマを流す環境保護主義者のせいで)それが森林の健全な新陳代謝を妨げていることに無神経すぎる。そもそも現代日本で自然林などほとんど存在していない。伐採しても運び出せないような山奥ですら、大戦後の人は植林していた。宮崎県と鹿児島県・熊本県の境あたりでも自然林など驚くほど少ない。(だから、僅かに残った自然林は保護されているのだが、大半の都市住人は自然林と人工林の区別がつかない)あの広大な北海道ですら、かなりの割合で自然林が人工林に置き換わっている。

山登りをサボりながらそんなことを考えていた。そういえば、関西に多数ある大規模古墳も建造された頃は木など生えていなかったのだったようだ。古代日本で古墳とは巨大な人工物、建造物であることに意味があり、そこに木が生えていたら自然にある里山小山と変わらない見栄えになる。そんなことをときの権力者達が許すはずがない。
その後、権力者の意識が変わり古墳の整備を怠っていたから、勝手に木が生えているだけなのに。権力者の威容を誇るものは、古墳(土の山)から、大伽藍・寺院(木造巨大建築物)に置き換わったせいだ。
宮内庁は古墳の整備を嫌がっているらしい。予算の少なさもあるのだろうが、数が多すぎて自分たちでは管理ができないということの方が大きな理由なのだと思う。国を歪める官僚主義はいつも怠慢という裏理由がある。それは官僚制の始まり、はるか古代から続いているのだ。森林の再生よりも強い保守的官僚思想(俺の仕事を増やすな)とは、まさにこの国の特質的な文化だろうに。

街を歩く

再建された城を見て思うこと

広島城は、広島の中心部繁華街から歩いて15分くらいの場所にある。この街は原子爆弾の投下により一面の焼け野原になった。当然そのときに、市内にあるほぼすべての建物が消失した。なんとか外観をとどめているものが原爆ドームとして残されている程度だろう。城も当然ながらなくなり、戦後再建された。
広島は近くに帝国海軍の拠点もあり、いわゆる軍都だった。原子爆弾投下の候補地はいくつかあったようだが、概ね軍事施設、あるいは兵器製造施設が目標になっていたようだ。
すでに、東京、大阪、名古屋といった大都市は爆撃機集団に蹂躙されていた。この時点で日本は経済的に継戦能力を失っていたし、人的資源も枯渇していた。そもそも陸軍200師団、つまり200万人の陸軍兵士にタダ飯を食わせるのだから、国力が持つはずがない。現代でもいきなりホームレスが200万人生まれたら社会保障政策は破綻する。

普通に考えてみるとわかるが、原子爆弾投下に至ったのは当時の政権がいかに無能であったか、あるいは現実逃避していたのが明らかだ。結局、二発の原子爆弾投下により継戦派の反対を食い止め、玉音放送で終戦した。
明治政府という戊辰戦争なる暴力革命により産み出された鬼子が、80年余り暴走した挙句に潰えた。鬼子が滅んだ後、つまり戦後になってその亡国集団が、われわれは国を想って行動したなどとほざけるほどの平和の社会になった。ようやくそんな時代が来て城は再建された。全国各地にある再建城をみるたびにそんなことを思う。

再建城の中は歴史博物館的に整備されていることが多い。ただ、再建の時期によっては中の展示物が鼻持ちならない「護国」思想や過去賛美になっていることもあり、基本的に展示を見る気にならない。
この日も入り口だけでおしまいにした。アートならアート、歴史遺産としてなら一方的な被害者史観を廃し事実の展示にして欲しいものだが。

広島城の中に神社があった。広島城は山陽道の要所に作られた防衛拠点であり、また威を誇る大きな平城だった。だから残された敷地の中に神社が置かれているのは納得できる。古代日本では大陸から九州経由で文物が流れる、瀬戸内高速流通網の拠点でもあった地だ。当然、大物の神様が配置されたはずだが、よく考えるとちょっと西に西国最強とも言える厳島神社があるからなあ。この神社の立ち位置はちょっと微妙かもしれない・

広い場内を一周して繁華街に戻ると軽く汗ばむくらいの距離を歩いたことになる。やはりお城の跡地は、ウォーキングやジョギングなどで平和に活用されるのが一番よろしいようだ。

旅をする

毛利の栄華とは 西国の雄

西国の地は戊辰戦争の結果、江戸幕府の後継となる明治政府へ支配者集団を供給した。ただ、暴力革命で政権を取った中心は下級武士であり、当然のように成り上がり思想が強買った。それ故なのか、故地を大事に守ろうということはなかったようだ。反革命を恐れる明治政府官僚は、領地支配の象徴であった城郭を廃棄するよう命じた。戦国期終了後、江戸幕府の廃城政策も息生き延びた城も軒並み棄却された。
まあ、文化的素養の足りない暴力革命者は、世界中どこでも同じことを行なった。最近では中東で長く残っていた宗教遺跡を破壊したイスラームの新興勢力と明治政府の官僚は同質の狂気に蝕まれていたと言える。暴力で成り上がったものは、暴力の恐ろしさを理解しおびえるということだろう。
文化破壊政策はある意味人類の持つ基本的な愚かさなの現れだ。直立した猿として進化を始めた時代から変わることのない、知的生命体としてはあるまじき遺伝子的な欠陥だろう。
その破壊衝動の犠牲となった廃城の典型が岩国城だと思う。明治政府に多数の高官を送り込んだ、凶暴なる革命軍の主体であった長州軍にとっては、この城は藩祖一族の守った重要な城であったはずなのだ。が、あっりと捨て去った。
自分たちの故地を捨て、一斉にお江戸へ、新都市東京へ集団移転していった薄情者たちの仕業だと、再建された城を見て感嘆した。長州軍の暴走癖は帝国陸軍に組み込まれ、そのまま昭和の大戦にまで一直線に突き進む。

西南戦争で陸軍の主導権を失った薩摩集団は海軍を支配するようになった。昭和の大戦は結局のところ、薩摩対長州の内戦が陸海軍の対立に姿を変え、国全体を巻き込み暴走を続けただけのことだったのかもしれない。

城の中は博物館のようになっているが、目立つのは刀剣の展示だった。勘繰ってみれば、故地を捨ててお江戸に行った人間達は、廃刀令を出して反革命精力の武装解除を目指した。だから、権力者に近い勢力では刀が蔵の中に死蔵されていたと考えると、長州全域で刀がごっそりと残されていたというのもありそうな話だ。おそらく戊辰戦争の敗戦国、東北諸県では全部没収されたのだろうが。

ちなみに、太刀と刀は展示の仕方が違う。刃を上向けにするか下向けにするかの違い。太刀は腰から吊るした。刀は帯に挟み持ち歩いた。だから抜くときに刃の向きが正しくなるように、刃の向きが違うのだと聞いたことがある。
ついでに刀剣の話をすればだが、時代劇を見るとばさりばさりと悪者は切り倒される。が、本当は何人も切ると刃は曲がり、おまけに刀身についた脂肪分で切れ味は悪くなるようで、多人数相手の戦闘では変わりの刀を用意しなければならなかった。そうなると、業物と呼ばれる名刀も実戦では十分に威力を発揮できたのだろうか。
展示されていたものは全く刀剣素人の自分でも知っているほどの銘品だったから、余計そんなことを考えていた。

戦国時代の山城は、織田信長の岐阜城に代表されると思う。防衛拠点として難攻不落を感じさせることと支配者、権力者として民衆に力を誇示する(あんな高いところに立派なお城を建てるとは、うちの殿様はすごいぞ的な)にあったはずだ。
だから、この城も眼下に広がる支配地を見下ろして「よしよし、我が領地も平安であるぞ」などと殿様が喜んでいた……………はずはない。
殿様が山の上に住むとあまりに不便なので、山城は見せるだけ、政治を取るお館は山の麓に用意されている。まあ、それでも一年に何度かは山登りをしてこの景色を眺めていたことだろう。

西国では残っている城が多いので、あれこれ歴史の綾に思いを寄せることになる。東国の城はほとんどが廃城になり思いを馳せる余地もない。
戊辰戦争を振り返ると西国から進軍した軍団は、当時の江戸幕府が対抗できないほどの大軍ではなかった。おまけに江戸幕府開府以来、入念に作り上げてきた東海道縦深防御帯は、簡単に突破できるもはずがない。優れた戦略思想によって作り上げられていた。
それがあっさりと破綻したのは、最後の将軍が弱虫すぎたからだ。あの世で家康が歯噛みして悔しがっていたに違いない。逆に言えば、ボンクラな将軍がいたおかげで暴力革命は成立したのだとも言える。

よく晴れた寒空に再建されたお城はよく映える。人の世の愚かしさと、城の美しさは意外とシンクロしているのかもしれない。西国の城は、自分にとって哲学の場でもありますねえ。

街を歩く, 食べ物レポート

駅地下人工横丁の驚異

徳島駅の地下にある居酒屋横丁的な施設が、何とも中途半端というか難しい営業をしている。観光客からすれば駅ビル地下に地元の名物料理屋があれば実に便利だ。しかし、近くのオフィスから来る地元客からすると、全国チェーン店でも問題はないだろうし、その方が喜ばれるのかもしれない。たとえば、大都市からの旅行者にとってシアトル系コーヒー店はありふれた街の光景だが、地方都市で言えばまだまだ「目立つための場所」なのだ。
確かに一階は観光客と地元客のミックス需要に対応して、土産物菓子屋とシアトルコーヒー店とファッション関係が雑居していた。

どうも自分の勝手な見立てだが、新幹線駅がある県庁所在地は地域の中核商業地になっている。広域から人を集める、県内の中心地としてそれなりに人気がある場所だ。ただ、大多数の県庁所在地は昔ながらの繁華街が駅とは違う場所にある。なので市内の商業地が二極化してしまうが、旧繁華街、それも大体はお城の下にひらけた旧城下町は、駐車場対策の遅れにより陳腐化し老朽化が進んでしまう。
ただ、このモデルも新幹線が通っていない街には適用できないみたいだ。四国の4県庁都市はこの典型で、どの街も駅前がパッとしない。駅前、駅ビルの再開発をしてみても郊外に流出した地元客を取り戻すことには成功していないように見える。特にJR駅前の賑やかさがない。松山や高松では私鉄駅前がそれなりの賑わいを見せるが、それでも中途半端だ。おそらく鉄道を通した頃の政治情勢がまちづくりに影響を及ぼしたのだろう。あるいは先の大戦で空襲により街が平面化?したかどうかの差なのかもしれない。


徳島駅前にあった三越も今ではテナントビル化しているようだが、駅前の回遊性は見られない。ちょっと寂しい感じがする。ずいぶん前に訪れた時には、何だかもっと活気がある街だったような記憶がある。新駅舎が出来てもっと賑やかになるのかと思っていたのだが意外だった。

その難しい立地で、これまた集客が難しい地下階に通常の飲食店を誘致するのが困難極まるであろうことはよくわかる。地元客で賑わうのはせいぜいランチタイムの一瞬だけで、夜の時間になれば地元客は従来からある賑やかな繁華街に流出していく。
それを食い止めるべく、居酒屋業態を多種類放り込み、昼夜の二毛作ではなく、夜昼の二毛作を目指している。ただ、居酒屋と定食屋は根本的にメニューの設計思想が異なるので、これは計画通りになるかというといささか怪しい。
夜と昼と二度見に行った。客の入りが当然店によって違う。昼も夜も満席になていたのは、何と鮨屋だった。ただ、その鮨屋でも夜は酒を飲んでいる客が少ない。なかなか思惑通りに客が踊ってくれないものだ。
そんな苦労を目にしながら、あれれと思ったのが居酒屋ランチで「モツ煮込み定食」というものがあったからだ。確かに定食屋でモツ煮を出す店は見たことがない。これは意外と盲点かもしれない。
地元の埼玉県で展開している郊外型うどんチェーン店の人気メニューがモツ煮定食で、意外とおっさんだけではなく、女性や子供にも好まれているらしい。ただモツ煮定食は基本的に安い。肉料理として生姜焼き定食やハンバーづ定食より1ランク安いから成立する料理ではないか。
そのモツ煮定食が1000円弱という値付けは強気というか、すごいなと思ったのだが、隣の席(カウンター席)に来る客が全員これを頼んでいた。あれまあ、と驚いてしまうキラーコンテンツだった。
勝手にあれこれと地下の居酒屋集合体を批判していたが、やはり現場を見なければ分からないことは多い。昼間のモツ煮込みは普通の定食屋で食べられないから人気メニューになるようだ。この発想は出てこないなあ。他の店でも夜メニューが昼の裏メニューとして人気を博しているのかもしれない。いやいや、おみそれしました。