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しめ縄であれこれ考えてみた

松江から車で30分ほどの山中に熊野大社がある。主神は素戔嗚(すさのお)なので、出雲王国併合後に出雲大社の押さえとして、国の反対側に置かれたのだろう。出雲大社はどちらかと言うと海寄りにある。熊野大社は瀬戸内海に通じる交易路の山側にある。政治的軍事的意図が見える立地だ。
ただ、ここまで車で来るとわかるが、なんとも辺鄙な場所だ。現代の都市住人から見れば山間僻地と言いたくなるほど山の中だが、古代から中世にかけては日本海と瀬戸内海をつなぐ要路であり便利な場所だったのだろう。

御神体が山とか岩である神社は、祭神がその土地固有の神様であることが多い。が、ここは征服者である素戔嗚とそのお妃が祀られている。地についた国神ではなく、支配地に引っ越してきた神様だから、場所はどこでも選べる。神域は比較的平ら名所だった。やはり神様にもすみやすい場所はあるものだ・

お参りをしようと思い気がついた。かかっているしめ縄が出雲大社と同じ様式だ。これは何を意味するのだろう。神社本殿の建築様式は時代や地方によって色々と変化する。
有力貴族の氏神などの場合は独自な様式が好まれるようだが、いわゆる国衙にある一宮は国家権力の出先機関であり、地方の独立性は存在を認めていないはずだ。国神が有力神であった場合は、それを弾圧するのではなく高天原神族に系統ごと取り込まれる(と言う体裁をとる)場合が多い。
だからこのしめ縄のように、出雲大社の様式を高天原神族系の神社で踏襲するのは、何か重大な理由があるのだろう。はっきり言って、素戔嗚が大国主に遠慮する理由がよくわからない。

記憶モードではいけないと写真を引っ張り出してみたが、やはりサイズの大小はあるがしめ縄の形は同じに見える。やはり出雲神族の支配地は特別扱いだったのだろうか。今では、それを気にする人もいないほど同化されている。
皇国史観でガチガチの「宗教者」たちは、この天照系高天原神族と出雲神族の関係をどう捉えているのだろうか。個人的には保守系(あるいは右翼と呼ばれる思想)が皇国史観にこだわる理由がよくわからない。そもそも皇国史観の元は江戸期に起きた、武家政権の正当性議論(簡単に言えば徳川家は武家政権始まりの源氏よりもすごーく偉いの理論付け)だったはずだ。もっと言えば、将軍家になれなかった水戸徳川の恨みつらみ成分も、それに多く含まれているように思う。
そんな理論を、徳川家政権を潰した明治政府が使うと言うのはなんともおかしみを感じる。まして明治政府が敗戦により全否定された現代で、どう言う理論になっているのだろうと思うが、宗教だから理論付も整理も要らんと言われればそれまでと納得する。

こちらは出雲大社の拝殿 しめ縄が同じ形式


まあ、そう言う宗教人と話をしてみたいとはけして思わないけれど。出雲国はあちこちに古代の証が残っている歴史ロマンの宝庫だ。凡庸な推理小説などを読むより、神社巡りをして歴史のあれやこれやを推理する方が余程面白いと思うのだがなあ。

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厚切りの刺身がハードすぎる

鳥取島根を根城に展開している居酒屋チェーンがあり、その鳥取駅前にある支店にふらりと立ち寄ってみた。なんともにぎにぎしい店頭だが、元気な居酒屋はこんなかんじなのだ。
入り口前に教室で授業に使うようなホワイトボードが置いてある。そこには本日のおすすめがびっしりと書いてある。なぜにホワイトボード?と思ったが、夜になれば黒板は見ずらい。よく考えられている。

店内は相当賑やかだった。居酒屋で特有な従業員の掛け声、これが結構すごい。おまけに客の中には子供連れのグループもあり、子どもの声、親の声、おまけについてきた爺さん婆さんの声が入り乱れている。これを賑やかだというか、喧騒と捉えるか。
まあ、お通夜のように静かな居酒屋も気持ちが悪いので、これはこれでよしとしよう。
カウンター席であれば一人で静かに酒が飲める。と思っていたら、さすがに人気店であっという間にカウンターも満席になってしまった。カウンター席で大声を出す客はいないのが救いだ。
メニューを眺めていると、やはり見たことのないものが並んでいる。遠くに来たのだなという感じがする。サワラのたたきは珍しい。サワラは関西以西の食べ物だと思うのだが、瀬戸内海一帯から日本海北部まで食されている。昔はサワラが獲れるのは新潟あたりまでだったのが、今では秋田の北部まで広がっているようだし、この前に聞いたニュースでは函館沖でも釣れるらしい。
サワラが北上すればするほど、西国の食文化が広がる。人の移動だけではなく気候変動も食の進化を促す時代だ、やれやれ。ちなみにここ数年、北海道でもえりも岬沖で酒が取れなくなり、その代わりのようにブリが大漁らしい。北海道の人はあまり鰤を食べる習慣がないので、下魚扱いのようだ。

名物の刺し盛りを一人前にして頼んだ。普通は三人前くらいのギョッとするほど盛りの良い刺身盛り合わせが人気の店だそうだ。一人前の一皿を見て、その身の厚さに驚いた。お江戸のペラペラ系刺身を見慣れている身からすると、この厚みはぶつ切り級に見える。すごいぞと喜んで食べ始めた。すぐに、厚切りの欠点がわかってしまった。歯応えのある新鮮な刺身を分厚く切ったものは味が強く感じる。一切れ目はすごく良い、が二切れ、三切れと食べ進めると急速に満腹感が押し寄せてくる。
身の量というより、魚の味の濃さに圧倒される。生の魚はもうご馳走様という感覚になる。よく考えれば、この刺し盛り一皿(一人前)は、ステーキに匹敵するくらいの肉量なのだ。自分の体力(食の限界量)も減っているから、食べ始めの早い時期に体が正直に反応するらしい。普段はイカだのタコだのという軽量級で低カロリーの刺身を好んで食べているせいで、この豪速球なカンパチやらサワラやらというサカナサカナしたラインアップに、強烈な一撃をくらったということになる。

もう少しあれこれ頼んでみようと思っていたが、この日は刺身だけで早々とギブアップになってしまった。鳥取の刺し盛り、破壊力抜群でした。
それよりなにより、箸袋の一言が……………好きだなあ。また行きたくなる名店でありました。

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鳥取は意外と近い?

鳥取城跡は公園になっていた。全国に残るほとんどの城跡は公園になっている。地方自治体が管理し、市民の共有財産として開放すると必然的に公園になるしかない。それは理解できる。一部の都市では城跡が広大なこともあり、その中に県庁や博物館、高校や中学を置くこともある。
その点から見ると鳥取城は、実に簡素というか公園として上手に使われている。復元天守閣などを作り観光資源とする手もあるが、それも費用対効果を考えると簡単には踏み切れないだろう。
見物目的の復元城など全国各地にゴマンとある。最近の城郭見学者にインバウンドが急増しているを考えると、復元天守も現存天守もあまり大きな差はないだろうし。インバウンドによる観光立国など考えない方が良い。現在、観光業が抱える最大の問題は、客数減による需要低下ではなく、人手不足による供給現象だろう。この先、人口が増えることはかんがえられないので、人手不足はほぼ永遠に続く。ビジネスを考えるときに、重要な視点を失っているの観光業界の経営者だけではなく、それくらいしか外貨獲得手段がなくなった、ボンクラ政府のビジネス感のない官僚ではないか。
だとすると、鳥取城くらいの残し方が程よいバランスという気がする。

鳥取市だが、どうもお江戸界隈で暮らしていると西国、特に日本海側の地域はとてつもなく遠い気がしてしまう。新幹線が通っていないのが遠く感じる一番の理由だろうか。その分、空港の密度は高い。鳥取県には鳥取と米子に空港がある。島根県には米子空港のすぐ隣なのに出雲空港があり(軍事用の空港であれば同一拠点扱いされる近さだろう)石見空港がある。なぜか石見空港は隣県山口と共同利用されているのか、正式名称は萩・石見空港だ。島根県にあるのに萩が頭につく不思議さだ。
おそらく空港誘致の時に、山口選出議員が頑張ったのだろうなあ。山口・島根、どちらも首相を出した選挙区だし、保守政党も強いし、どんなことが起きたかは簡単に想像がつく。

では空港がたくさん必要なほど人流があるかというと、これはまた別の問題だ。この日本海側の地域を自動車で走ってみるとよくわかるのだが、建設途上の高速道路がまだらに開通していて、おまけに暫定的に無料区間が多い。おそらく全通まではまだ何十年?もかかるのだろうが、人口の多い場所周辺についてはかなり整備が終わっている。鳥取島根の幹線である国道9号は、それなりに整備が終わっているのでスムースな流れだった。そして何より山陰地方から山陽地方へ続く高速道路はほぼ整備が終わっている。中国山地の中は移動が思った以上に簡単だった。


たまたま見かけた道路標識で気がついたのだが、鳥取から姫路までは約100km、1時間強の移動距離でしかない。思っていたよりはるかに近いではないか。おやまあ、だった。
鳥取城といえば秀吉により攻め落とされた(包囲網による飢餓攻め)だったが、同じ頃に有名な備中高松城の水責めも行われていた。高松城は岡山市の外れにある。姫路に本拠を置いていた秀吉から見れば、鳥取も岡山も同じ程度の距離感だったのだと改めて気がついた。
1日の行軍スピードを20kmとして考えれば姫路鳥取間は5日の工程だし、30km行軍であれば3日半だ。時速4kmで8時間の移動と考えると、(軍事行動だし)十分可能だろう。例の有名な秀吉の大返しも、この距離感を理解した上で考えてみればそれなりに納得できる。(1日30kmは移動できるとして、それを5日も続けるのはちょっと無理そうだが)
現代では車移動で1時間-2時間が当時の軍事的行動半径だったのかと、姫路鳥取の距離標識を見て思った。となると、鳥取は意外と近いところなのだった。

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若桜鉄道というローカル私鉄の話

レトロな駅舎 JRでは取り外されている大きな時計がある

国鉄民営化の後に新生JR各社が唯一積極的に取り込んだこと、それが廃線だ。東海道新幹線を皮切りに全国に伸びる新幹線網を人質に取り、従来の路線、在来線は廃止、あるいは第三セクターへ移管して赤字を地域へ押し付けるという荒技だ。現在国外逃亡中の大手自動車会社・元経営者も腰を抜かすほどの剛腕ぶりだと言える。
なんとか営業改善を図り事業存続しようという私鉄、例えば銚子鉄道や大井鉄道のような知恵を使う経営はかけらもない。旧国鉄時代から変わらない官製思考であり、民営化しても頭の中は中央政府の官僚そのままだったと言いたい。
現代の言い換え経営用語に選択と主柱という言葉がある。これを悪用する経営者は多いが、旧国鉄、そしてJRの経営はこれを日本国中に知らしめた素晴らしく(悪い)実例だ。そもそも国鉄の経営が悪化したのは、敗戦後に失業者の受け入れ先として悪用したのが原因だろうと思う。カットできない人員が増えたら、事業拡大して従業員の飯の種を確保しなければならない。それを税金で賄おうとした、経営マインドがかけらもない悪手の結果だ。
そのボンクラ経営の後継がいまのJR各社なのだが、先代とは違う意味で悪しき経営センスを発揮している。東京都知事が駅ナカビジネスに血道を上げるJRに対して駅構内の税減免措置を止めるといったのは、輸送という本業ビジネスを蔑ろにすることへの苛立ちだったと思う。輸送業はそっちのけにして、品川駅をモデルにした駅ナカビジネスを拡大していった。要は輸送ではなく商業テナントの大谷になるという選択肢だ。この悪しき制度は燎原のようにJR各社に広がった。


廃線、移管はJR東日本だけではない。JR西日本管轄下でも、中国地方で瀬戸内と日本海を結ぶ山間路線が風前の灯だ。すでにJRの手を離れ第三セクターに移管されたところも多い。そのローカル私鉄の中でわざわざ乗りに行きたいと思わせる「すばらしい鉄道」も生まれている。列車に乗ることの目的が「移動」ではなく「乗るという体験」に変わる。乗車目的がエンタメに置き換えられ新ビジネスとして再生された。ビジネスモデルの再構築とはこういうことを言うのだ。
鳥取から伸びる若桜鉄道がそれを実現している。一度ぜひ乗ってみたいと思わせる仕掛けが満載だ(そう思うのは、鉄オタだけかもしれないが)
その象徴が終点駅の若桜駅だ。なんともフォトジェニックな美人駅なのだ。

さくらマークがよいなあ

ローカル私鉄の車両は、大都市圏で使われたものが中古で出回ることが多い。場所によっては、私鉄各社の電車が揃っていることもある。それがローカル私鉄の楽しみ方らしい。鉄オタ番組を見ていると学ぶことだ。
ところが、ローカルでも非電化路線の場合は、JRからの払い下げ車両になる。ディーゼル車両が貴重品らしいのだ。ディーゼルはあの独特の重低音が良いと言う鉄道ファン(乗り鉄)は多い。確かに首都圏などの大都市圏では、すでにディーゼルは初滅しか買った老兵だ。乗ってみるにはローカル線に行くしかない。
そして、各社ローカル私鉄の特徴は車体の塗装、カラーリングに現れる。ボディーカラーは当然だが、車体につけるキャラマークだったり、ロゴマークだったりがユニークで、車体を見る楽しみがある。
してるによっては、特別な専用塗装にはせず旧会社の車両をそのまま使っていることもある。そうなると、列車に乗るたびに見栄えも違えば客席も違ったりするのだが、それはそれでまた別の楽しみになる。鉄オタ、乗り鉄は、ともかくいろいろな蘊蓄を傾け(自分に対してだが)満足度を上げる平和な種族だ。(笑)

若狭鉄道の車両は落ち着いた赤だった。計画では姫路まで通じる中国地方東部の幹線になるはずだったが、工事は諸事情で中断され放置された。廃線の話が出ると、存続論が高まり、そのままJRから分離された典型的なローカル(おまけに過疎地)路線だ。今では観光路線として再生を図っている。

門司駅の改造駅舎に匹敵する「良さげ」なデザインだった

駅舎の中、切符販売窓口の横はおしゃれなカフェになっていた。駅舎の中に入れたてコーヒーの香りがしている。写真右側は待合室だが、これもゆったりとくつろげる空間だった。鳥取から若狭鉄道を使い終点まで乗り鉄旅をして、駅でコーヒーを楽しみ、また帰りは始発列車に乗り込み車窓を楽しむ。実に良いぞ。鉄道は移動のためだけに使うのではなく、乗る楽しみのために使う。そんな時代になったのだなと改めて思った。

若桜鉄道の路線図 リンクはこちら

https://kanko.town.wakasa.tottori.jp/wordpress/wp-content/themes/wakasakanko/img/wakatetsu_meguru_map.png?v1.0.1

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伯耆国一宮

鳥取県は東西で因幡国と伯耆国に分かれる。あまりこの辺りの国区分に詳しいわけではないが、国と国の境目は大体が大きな川や山で区切られている。関東で言えば、武蔵国と相模国、あるいは武蔵国と下総国の境は大きな川だ。
ところが因幡と伯耆の境目を探すと地図上ではなんとなく微妙な感じがある。日本海沿岸の西部地域は中国山地が海にまでせまっている。その海岸のあちこちにひらけた小さな平野が散在している。国府が置かれたのはそんな平野部だが、その平野部と平野部を山が遮っている格好だから、交通路は陸路と海路があった。海路の中心地と国府の場所が一致していないのもなかなか面白い。
鳥取県では鳥取市と倉吉市がそれぞれ平野部の中心地で、因幡、伯耆を管轄していた、という理解をしていたのだが、これも地図を見ただけはなく車を走らせて移動してみると、ちょっと違う感じになる。


一ノ宮の多くは山の中にある。それでも旧国府の近くにおかれるので、古代から中世にかけて日本各地の中心地は山の中だったのだとわかる。おそらく航海術の問題もあり、海岸に大都市、商業中心ができにくかったのだろう。商業の中心は港に注ぐ大河の上流、山の中に作られた。海陸の中間点であり交差点に国府や一ノ宮が置かれたということらしい。
ただ、現在の交通網や都市をみると、一ノ宮のある場所はすでに要所としては役目を終え、すっかり鄙びた場所になっている。伯耆国ではその感が一段と強く感じた。隣の国の出雲大社と比べると、やはり格段の差がある。

この神社は小高い山上にある。山のふもとには小ぶりな湖があり、おそらくはその湖のどこかに港がおかれ、古代・中世では海上輸送の重要ポイントだったのではないか。港を見下ろす要所に神社があるというのは、もっともな話だ。しかし、実際に神社まで向かう途中、この道を進んでいって本当に大丈夫かと言いたくなる細い道だった。
鳥居の前に到着すると小ぶりな駐車場があり、そこでようやく方向転換できる。そこまでは対向車が来たらすれ違うことさえ難しい細さなので、運転していても実に心細い。これまであちこちいった一ノ宮では、ここが一番細い道だった。つまり、だいぶ取り残されてしまった神社ということになる。これに匹敵するところと言えば伊勢志摩の古宮だろうか。あちらは車も通れず徒歩で山道30分だったなあ。

それでも流石に伯耆国一ノ宮だけあり、境内は広々として、かつすっきりとしている。行き届いた手入れをされているのだ。

この境内にお札の並べ方を説明する立札があった。これは初めてみたが、なるほど、こういう作法なのかとありがたく学ばせていただいた。しかし、これはなんのために置かれているのだろうと思う。伯耆国の民は神棚に複数のお札を並べる習慣があるのだろうか。
ちょっと勘繰ってみると、お伊勢様とは高天原神族である天照大神のことだろう。氏神様とはこの地域の神様のことで、おそらく高天原系神族として吸収されてしまった出雲神族の系統に違いない。左の崇敬する神様となれば、これは間違いなく古代出雲王朝の主神となる。
よくはわからないが、氏神様を大切にという意味には、侵略者の神と自分対tの神の併存を願う意志があるのではないか。あえて言えば、隠れキリシタン的に自国の神様を忘れないみたいなことだと思う。よくこれが、明治時代の過激な皇国史観と激突しないで生き延びたものだ。
勉強になった。

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探索 島根の酒とは

居酒屋探訪をする旅番組をよく見る。一人飲みが気に入るようになったきっかけだが、最近ではどうも番組内容がワンパターンなので食傷気味にもなってきた。あれは、コロナの外出強制自粛時期だから楽しかったのだろうか。自分が旅をできなかったための代償機制だったようだ。今では実際にあちこち行けるようになったから、テレビ画面で見ているだけより、カウンターに座って飲み食いする方が良いのは当たり前………ということになる。
そのソロ酒の店を選ぶ嗅覚というか眼力というか、これは場数を踏まなければ身につかない。初見の店で、店構えだけで雰囲気の良し悪しを判断するのだから当然だが、入ってから「良い店を選んだ」と自分を褒められることは稀だ。勝率は5割に届かない。2回に一度はハズレを引くというのが実感で、良い店に当たるのは5回に1回くらい。あとは、「普通の居酒屋」で、可もなく不可もなしという結果になっている。
それでも、この店は良さそうだなと思うことが多い。店頭の行燈を見てなんとなく期待感が湧いてきた。

入り口は実に賑やかだが、人気店らしく入り口を潜ったときにはカウンター席が二席だけ空いている繁盛ぶりだった。店頭に立つ女優さんが宣伝しているので、てっきりこの方は島根県出身だと思ったのだが、調べてみるとどうも島根には全く関係ないようで、おまけによくよく見ると推しているのは宮崎県の焼酎だった。店主がこの女優さんのファンなのか、それとも焼酎の営業担当者がとてつもない圧をかけて押しつけだのかもしれない。今回は島根の地酒を飲む気なので、焼酎は関係ないのだが。でも、ちょっと気になる。

イカはいつ食べてもうまい

日本海沿岸ではイカがおすすめメニューになっていることが多い。そういえば函館のイカもこの季節だったような記憶がある。イカはいつ食べても美味いので大歓迎だ。ただ、すでにイカは高級魚扱いなので値段を見るとびっくりする。そこが悲しい。

変わったご当地メニューでもないかと探してみたら、穴子の串揚げというのがあったので注文したら、出てきたのが実に名前の通りの代物だった。味も、全く完全に「アナゴ」味だった。意外だったのは、穴子が天ぷらよりもフライに向いている魚だということだ。ひょっとするとうなぎもフライにすると絶妙かもしれない。しかし、この二串だけというのはちょっと寂しい。串揚げはやはり5本くらい出してほしいものだなあ。

フライト的ねーずは禁断の相性だったはずだが

店長の推しメニューの中で全く島根との関わりに見当がつかないものがあり、恐る恐る頼んでみたのがこれ。たこのフライをマヨネーズソースであえたもの、何ともすごいルックスだ。「タコからネギマヨあえ」という。見た目は文字通りそのまんまだ。
実食した感想として一言、「たべたらうまい」だった。見た目とは裏腹だ。どうも最近、日本中の居酒屋で増殖している「チーズ系ソース」と「アレンジ・タルラルソース」については一度本格的に調査(笑)してみよう。
平成から進化し続けてきたニューフェースだが、これが令和の時代に爆発的な展開をしそうな予感がする。高カロリー排他主義者は、令和の時代に少数民族化してきている感じがする。どうも強烈なダイエット志向も滅びゆく時代のようだし、健康志向と濃厚味嗜好を並立させる時代でもある。令和は昭和・平成が産んだ「いろいろな食べ物があるので、食べすぎる必要がない世代」ではないか。あくまで仮説だが、コロナの強制外出自粛措置と関係があるようにも思う。
濃厚味のタコフライを食べながら、味の嗜好変化について分析的な思索をした、島根の有意義な夜であります。

街を歩く

ファストフード 鳥取の陣

世にも珍しいとまでは言えないかもしれないが、おそらく世界中見渡してもなかなかお目にかかれない光景が鳥取駅前に存在する。
写真ではちょっと見にくいが、手前がMマークのハンバーガー店で、その奥にあるのがKのマークのフライドチキン屋とそこに同居しているピザ屋だ。おまけにこの2店の間を通る道は両側の店のドライブスルーが使える。直接に激突しているバトルフィールドだ。
大都市の繁華街であれば、ほぼ隣り合うくらいの距離でハンバーガーとフライドチキンの店が並んでいることはある。しかし、地方都市のドライブスルーがついている自動車対応の立地ではまずあり得ない。競合度合いが強すぎるからだ。当然適度な距離を取る必要がある。
おまけに、この直接激突地にはピザ屋までがついているとは、アメリカ合衆国の植民地かと言いたくなるほどの密集具合だ。まあ、これは実にすごい。おまけに写真の左手にはシアトル系珈琲店も出店している。その上に、ここの場所は鳥取市役所のまん前ときている。色々と条件が重なりすぎる、すごい場所だなあと感心してしまった。

もともとフライドチキンとピザ屋は同じ会社の兄弟ブランドだったのだが、色々訳がありピザ屋は売りに出されてしまい今では資本関係のない別会社だ。そして、最近ではそれに加えてフライドチキンも売り払われてしまった。
ずいぶん長い間関わってきた二つのブランドだから多少なりとも感ずることはあるが、ビジネスとはそういうものだろう。会社を産み育てて、大きくなったら売っぱらう。現代の成功ビジネスモデルだ。ベタな感傷をもつ方がおかしい。しかし、外食産業もついにそのレベル、競合と競り合いながら切磋琢磨するのではなく、会社を安く買って高く売り捌く切り売り商売にまで達してしまったのかと思うと、別な意味で感傷を持ってしまう。外食産業ってなんですか……………・

駅前徒歩圏にあるドライブスルー店舗というのも時代変化の象徴だなあと感じた。自分ではこの立地は思いつかない。やはり、新しいビジネスは新しい人がやっていくものだ。

旅をする

因幡国一宮

因幡国一宮は鳥取市中央部から車で10分ほど離れた山の中にある。というより、古代日本ではこのあたりが因幡国の中心地であり、瀬戸内から中国山地を抜ける主要交易路の拠点だったはずだ。川を使った水運の拠点に、その国を治める国府と権威の象徴である一ノ宮が置かれた、というのが古代日本の行政構造であった理解している。
ただ、時代の流れとともに農地が拡大して、水運での利便性が良い場所が移動する。人の集まる場所が移ってしまう。ところが神社はお引越しをしないので(御神体が山だったり岩だったりすると、そもそも移動不可能だ)、一宮のあたりはひっそりとした場所になっていることが多い。日本海側の一宮配列を見ると今でも賑やかな場所に残っているのは、若狭国一ノ宮(敦賀)くらいではないか。越後から長門にかけて、ともかく一宮は山の中が多い。


因幡国一ノ宮と伯耆国一宮を比べると、隣国でありながらで賑わいというか周辺環境がだいぶ違う。鳥取市が近いだけ、因幡国の方が賑やかに見える。神社の佇まい自体は同じようなものだから、周りにどれだけ「人」「民家」が固まっているかということだ、現在では同じ県内にあるが、古代から中世にかけては色々と事情が異なっていたようだ。

この神社のご祭神は武内宿禰命で、ヤマト政権の東征、つまり統一戦争の中で派遣された軍事司令官だった。死後は神となり征服地の監督をするようにというお達しなのだろうか。
特に、出雲を中心とする日本海側諸国、諸部族の鎮圧制圧、そして支配権確立といった荒事の担当責任者は、死んでなお国のために尽くすという護国鎮守の神様になった。なんということでしょう、さすが神様になられるほどの素晴らしい司令官兼為政者だったのだ。
現代の「政治屋」には見習わせたいものだ。そう言えば因幡国の国会議員もこの国を率いようとした。(今でもその思いはあるのかもしれないが)できることであれば、この神様を見習って良い「政治家」を目指してほしいものだ。
隣県出身の元首相、そのまた隣県の元首相。どちらもステーツマンの矜持はあったのだろうか。ポリティシャンの気配が濃厚な方達だったが。

比較的小ぶりだが端正な御社だった。神社で古代の歴史に想いを馳せるのはいつものことだが、やはり最初期に古代ヤマト朝と熾烈に張り合っていただろう中国地方の神社では余計に考えることが多い。
そもそも、中国、「なかつくに」という言葉こそ、本国と侵攻地の中にあるという意味合いの名前ではないのだろうか。歴史ファンが好きな邪馬台国論争は横に置いても、この中国地方は、ヤマト朝の本拠地と最先端の侵略地の間にあったはずで、そうなると西にある方(つまり九州)が本拠地、今の関西から東海地方が最前線と考えられる。当然、九州北部は大陸と半島の強い影響下にあった。
古代のスーパーステートであった大陸王朝の興亡と、その王朝が滅亡するたびに発生したであろう旧国からの難民が押し寄せる半島国家は、古代東アジアでは影響の大きい国家軍だ。王朝が滅びれば(起これば)、玉突きでその影響を島国である古代ヤマトに及ぼしていたはずだ。帰化人と呼ばれる大陸、半島からの移住者(亡命者)がこの国に先進技術をもたらし、政治にも関与したはずだ。なかつくに、そして東の最前線まで伸びる兵站線とその補給はどうなっていたのかなど興味は尽きない。古代史は戦争の歴史でもあるからだ。


その時期には、正史にはかけないような「暗部」がヤマト朝成立前後にはたくさんあっただろう。それをあれこれと嗅ぎ回るのが、西国神社巡りの楽しみでもある。ただ、それはどう言い繕っても邪推でしかないし、個人的な趣味の範疇だ。批判に耐える学術研究はぜひ専門家にお願いしたい。敗戦から70年も経ったのだし、この国の成立期に関して考察すると、ぶつぶつ文句を言って絡んでくる諸先輩は、すでにみんなお墓の中だ。

武神様のお使いといえば、やはりこの金のおトリ様になるのだろうか。個人的には、これも当時の優秀なサポート役、参謀役が死後に武神の眷属として「おトリ様」になった(させられた?)気もするのだが。その方の名前が鳥っぽかったのかな、などとくだらないことも考えてしまう。
おわします神々には申し訳ないと思うが、神社とは歴史的な妄想を膨らませるのに最適な場所なのであります。

駅弁

週一で食べたい大好物の駅弁

山陰本線に乗って旅をする時の1番の楽しみはこれだ、と確信している。鳥取駅で売っている駅弁の中で有名なのはカニ寿司だが、実はこちらの方がお気に入りだ。駅弁大会などでは決して出現しない現地調達限定品だが、これに匹敵する素晴らしい酒の肴駅弁は、青森県にしかない。「津軽めんこい懐石弁当 ひとくちだらけ」だ。ただ、個人的な思考で言えば、このとっとりの居酒屋が最上級だと思う。
今回も事前に電話予約して確保してもらった。おそらく、当日にふらりと言っても売っていないのではないかと思う。
お値段はそれなりにする。普通のコンビニ弁当と比べると3倍近い。百貨店の地下で売っている高級弁当と変わりないと言えば良いだろうか。ただ、予約しても買う価値がある。(くどいなあ)

これを買って、夕方発の特急に乗り込み、2時間ほどの鉄道旅を楽しむ。合わせて飲む酒は冷たい日本酒が良い。飛行機では味わえない楽しみだ。離着陸の合間で食事をするのは極めて忙しない。機内で酒を楽しむなどほぼ虚しい努力だし……………

新橋にある鳥取県アンテナんショップでこれを販売してくれないものだろうか。鳥取から朝一の特急、新幹線と乗り継いで運ぶと5時間くらいかかるが、昼過ぎには新橋に到着するし、事前予約限定にしてもら絵ば良い。
鳥取県知事、鳥取市長、ぜひご検討ください。お江戸の人にはカニずしを望むものも多いと思いますから,合わせては配送計画をご検討いただければと。せめて、月水金の週三便体制でお願いします。合わせてJR西日本、東海の経営社の方々、新幹線利用の超高速配送ご検討ください。新幹線(こだまクラス)の一両を輸送専用に改造し、荷物の出し入れが簡単なガルウイング式に仕立てれば水産関係者も含め需要は膨大なものになると思いますが。鳥取島根の朝セリにかかった蟹が昼には銀座で食べられる、すごい需要想像だと思いませんかねえ。

旅をする

出雲大社 

出雲大社にお参りに来たのはこれで四度目のようだ。記憶がうっすらとしている。初めて行ったときは晴れていた。2度目と3度目は雨だったような……… 今回も雨模様のぐずついた天気だった。
車で行くと出雲大社の西側にある大駐車場に導かれる。ナビの設定が自動的に駐車場をゴールにしているらしい。そこに文句があるわけではないが、かの有名な大鳥居を見たければ、ちょいとナビの設定をいじる必要がある。

駐車場からの参詣道は土産物屋の並ぶ小路を抜けていく。そこに置かれている一枚の看板がなんとも好ましい。商売っ気はあまり感じられない。歓待の心が素直にでている。さすが、神様たちが集まる場所を守ってきた人たちだ。

よくテレビで見かける太いしめ縄がある拝殿でまずはお参りする。これが本殿と言われても疑う人はいないくらいの立派な建物だが、実は本殿は隣にある。
日本に数々ある壮厳な神社の中でも一際異彩を放つと言って良い。神社として別格、という言葉が脳裏をよぎる。
伊勢神宮と出雲大社の違いはうまく言えないのだが、歴史的に考えれば征服者と被征服者の神だから、本来違っていて当たり前だ。ただ、被征服者でありながら巨大なシンボル、出雲大社の存続を許されたあたりに古代ヤマト朝と出雲王国の力関係が見えてくる。

いつ見てもすごいものだなと思う巨大しめ縄だ。作るのも大変だろうが、吊るすのはもっと大変だ。昔は人力で作業をしたはずだが、今では重機のお世話になるのだろうか。

昔見たときは、しめ縄の中に硬貨がめり込んでいた。下から投げてしめ縄の中に埋もれると幸運になるみたいな話だったと思う。ゼニ投げは他の参拝客に迷惑な話だったから止められたのかもしれない。あるいはパワースポットとして、厳かに拝む場所と再認識されるようになったとか…………神様へのお参りの仕方も時代によって変わると言うことかもしれない。

本殿の前で出雲大社独自の参拝法で拝む。二礼四拍手一礼という他ではあまり見られないものだ。ただ、今では一般的な二礼二拍手一礼も確か明治の頃に定められたもので(国家統制みたいなものらしい)、それまでは全国どこでも独自の参拝形式はあったようだ。
明治新政府の国家神道と皇国史観のあれこれについては、そろそろ冷静な分析が可能な時期ではないかと思う。在位期間が最長となった総理大臣の影響下で、またゾロ、明治時代の歴史観を復興させようという勢力が増えていたが、歴史と宗教は別物であるべきだと思う。
過去を振り返り定義するのは、その時代の勝者であるから、歴史はいつも正しく記載されるわけではない。そもそも歴史の正しさとは何かという議論する残っている。歴史書の大多数は、勝利者の宣伝として都合の良いように書かれることが大半だろう。江戸期の政治を明治期の政府が批判したように、明治の政府のやり方も大戦に負けた後では批判の対象になる。戦後にに書かれた史書は当然ながら明治政府を弾劾して当たり前なのだ。それが、明治政府にも良いことがあったのだぞ、などという議論が出てくるのは良いことなのか、それとも「悪いことを良いことと言いくるめる修正主義」なのか。などという議論ができるのが、戦後の世界の良い点だろう。明治政府の批判をして、特別高等警察に捕まることもない。ただ、その批判が抑えられていたのは昭和初期の為政者が平成の手前まで生き残っていたせいだろう。半藤氏の著作のような自由に歴史を批判すること、それが守られているのは大事なことだと思う。
ヤマトに滅びされた?国の代表とも言える出雲王国のその後を参考に、そろそろ明治政府以降の日本をあれこれフラットに考えても良さそうだが。出雲大社の神域で、そんなことを考えた。

拝殿前に大きな赤丸が3個ある。これは出雲大社の紋章か何かかと思っていたら、なんと古代の本殿を支えた柱の実物大基礎跡らしい。かなり太い木を3本束ねたものが柱なのだから、どれだけ巨大の建造物だったのだろう。古代出雲大社の復元予想図を見ると、当時の出雲王国の技術力、経済力がよくわかる。
この復元された大社に匹敵する建物は、奈良平安の仏教時代には生まれていないのではないか。戦国末期に建造された安土城、大阪城(秀吉バージョン)、名古屋城や江戸城(家康シリーズ)まで、超巨大建造物を造営する経済力を持った政権は、この国に存在しなかったということになる。ヤマト朝の治世下で建造されて焼失した巨大建造物があったのかもしれないが、どうもかの時代は古墳、要するに土木工事に熱中していたらしい。

本殿は直接見ることはできないが、本殿を囲む塀越しに屋根を見ることはできる。この屋根部分が10階建てビルの最上階くらいにあると思えば、かつての大社本殿のイメージに近いようだ。いやいや、初めてお参りに来た昔の人はさぞびっくりしただろうなあ

正面の大鳥居をくぐり参道を抜けるルートとは別に、駐車場脇から入って行くルートに建てられている石柱に、現代の参拝法に合わせた柔軟な対応(入り口はこちらからでも良いのだようという心配り)が伺える。長く続く神社を支えるのはこうした参拝者への気配りも含めた運営システムのアップデートなのだ、と現代風に考えてしまった。
伝統を守ることと時代に合わせた進化こそ、政権が滅び権力者が変わっても継続する「体制」として学ぶべきことは多いのではないか。千数百年前に亡国した出雲が1000年以上にわたって出雲大社を存続させてきた。そのノウハウを学ばずに、百年もたたずに潰えた明治政府の体制に希望を求めても無理だとは思うけどね。