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戦国時代について考えたこと 安土城跡で

織田信長が本能寺で倒れず、戦国時代の日本を統一して終わらせたというIFなお話は多い。織田・豊臣・徳川と続く統一過程で、成り上がり伝説を作った秀吉や忍耐と辛抱で天下を手に入れた家康などはビジネス界でも格好の経営書題材として人気がある。それだけに破天荒な性格で当時の常識をひっくり返して天下布武を行った創造型リーダーの信長に関しては、どうも評判が良くない。
ただ、ここでよく考えなければいけないのは、織田信長の言行を記録したものは少ないことだ。
多くの話のネタ本として使われる信長公記は、徳川時代になってから書かれているものだし、若き日の家康の同盟者である信長は、家康の引き立て役として描かれている。こんなすごい人だった信長さんも、結局は我らの家康公の徳には叶わなかったんだよね、というお話の仕立てだ。
当然、宿敵であった秀吉に対する記録はもっと酷い。歴史は勝者だけが書き記すことができる。だから正史よ言われているものでも、当然ながら攻め滅ぼしてライバルについては悪様に描く。歴史とは歪曲されたものであり、勝者に都合よく、敗者は性格が悪く悪政を敷いたから成敗されたのだという構図を取る。
これは人類が文字を発明して以来、どの地域でもどの時代でも必ず起こる、自己正当化と自我肥大症候群がもらラスものだ。人類普遍のありようなのだ。歴史を書き換える?のはどんな宗教よりも根が深い人の根源的な性だろう。まさに誰もがかかる「俺ってすごいでしょう」症候群なだ。

現代の歴史学者はそう言った正史とされるものの裏を取るため、当時の文字記録として第三者的だった(つまり権力基盤から遠ざかっていた)公家や坊主・神官などの書き残した記録や日記を漁り、つなぎ合わせる作業をしている。
当時の武士の識字率はどれほどであったかは推測しかできないが、成り上がりであればあるほど読み書きが不得手であったと考えられる。武家同士の書簡、手紙の類はお殿様が書記役に欠かせたものだから、多分に文章として装飾が多いようだ。つまり公式文書は、嘘が混じっている可能性が高い。
だが、直筆と思われるものもあり’例えば兄が弟宛に送った手紙など)、あれこれを組み合わせて炙り出しのように歴史事件を探るそうだ。

だから、織田信長が信長公記にあるように暴虐な君主であったかとなると、実は相当に疑わしい。実際にはどういう思考をしていて、どういう治世を敷こうとしていたのかを知る手段は極めて少ない。信長公記をネタ本にあれこれ戦国時代の歴史を語るのは、ある意味でフィクションの片棒を持つようなものだと思う。
これは戦国時代に限らず、古代ヤマト王権成立の時代を描いた古事記や日本書紀にも当てはまる。針小棒大、白髪三千丈の類で満ち溢れていると思った方が正解だ。

戦国時代に関しては、個人的に秀吉が嫌いだという性もあろ、どちらかというと信長贔屓になる。成り上がりの末に狂気に囚われ暴政を恣にした豊臣家が2代目で滅びたのは当たり前という気がする。人たらしでのし上がった秀吉が晩年は恐怖の対象になったのだから、盛者必衰を地で行っただけのことだ。
戦国時代の覇者徳川が善政をしいたかと言われるとそれもどうかなという感じだ。少なくとも、当時の農業先進地帯であった西国武士を抑え込み、京都の政治的影響力を排除するため東国江戸から統治を行うという先進性はあったのは認める。鎌倉時代よりさらに東遷したのは大正解だ。実質的な新首都建設は、その後の西国大名への統治性あっ区と合わせて、それなりに合理的だた。
苦労人だけあって、成り上がり秀吉より強かだ。が、もっと徹底的に西国と京都を弾圧するべきだったのだと思う。
おそらくは時間をかけながら徳川政権5代目あたりで西国を全て徳川直轄地にしてしまうくらいのことはできたはずだし、京都の朝廷と廃する程度の実力はついていたと思うのだがなあ。

もう一度行きたい安土城考古博物館 安土城 1/100の再現モデル

だから、織田信長が生きていたら、日本をどう統治したかはついて想いを馳せる。唐天竺まで攻め入ると言っていたようだが、日本統一が完了すると最大の問題は戦時から平時への経済転換だ。自分の兵隊も含め、戦国大名が抱える兵隊は英和な時代には過剰な負の遺産となる。
その処理は基本的に人員整理しかない経済的な大問題になる。戦国時代、兵隊の給料は、敵の兵隊を叩き潰してその領地を奪い取り、その分を味方に配分するという典型的な略奪経済だから、全国統一後は潰す相手がいなくなり人員の昇格・昇給どころか給与の欠配につながる。
かと言って、兵隊を解雇して野に放てば必ず盗賊化する。暴力しか能力がない集団が生きていくには暴力を資本にするしかない。終戦処理の最大の課題とは、この「兵隊」を穏便に引退させる社会に溶けこませることにある。
おそらく信長は国外進出して派手に戦争を起こし、適当に元の敵であり破れて従ってきた大名ごと処分する気だったのだろう。

その時代には、安土城を天皇家に譲り宗教的権威社に祭り上げる一方で、公家や寺社勢力の排除を進め、朝廷を解散して織田王国を作り、博多あたりに拠点を移していたのだと思うのだ。
戦国時代末期の日本にあった鉄砲総数は、全ヨーロッパにあった鉄砲数を遥かに上回っていたらしい。またスペインやポルトガルの常備軍など戦国大名の率いる兵数と比べても桁桁違いに少ない。大型船さえ作れれば織田日本はユーラシア大陸の半分くらいは制覇できるほどの軍事大国だった。明朝が女真族に滅ぼされるタイミングで大陸での傭兵団になっていた可能性すらある。そのミニチュア版こそ秀吉が起こした半島侵略戦だ。

戦国時代の荒々しい気分を残した織田日本が成立していれば、海外進出は当然のことだっただろう。徳川の統治により平和だが内側に縮んだ江戸期日本は生まれなかったはずだ。

そんな妄想を安土城の下で抱いておりましたのは、2022年の秋のこと。コロナがほぼほぼ終わり旅が解禁された時期のことでありました。

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