街を歩く

奈良の話をもう一つ 橿原神宮の周辺

乗り鉄の端くれとして、この駅は全国ベスト10に入れて良い造形美があると思います
全国一宮巡りをした神社オタク?とし、この槇原神宮と熱田神宮が神社世界の2Topsだと思います

奈良県南部は和歌山県まで峻烈な山峰が続く。奈良盆地の地形を考えると飛鳥宮のあったあたりは後背の山並みが自然の防壁となる守りに固い場所だっただろう。古代のヤマト王権としては防衛を重視した拠点い政宮をおいたと想像できる。
古代の建造物は礎石をおかず直接地面に柱を置いたので、20年ほどすると柱の根本が腐ってくる。その度に建て替えが必要となり、その度に政庁を移転した。同じ場所に政庁群を立てることをしなかったから、都があちこちに移っていったらしい。おまけに政庁の立替には夥しい大木が必要だから、大木が周りにある場所が引っ越し先になっていたのではないか。

王権が強くなり豪族連合から王に対する権力集中が進んだじ、つまり奈良時代後期になると防衛拠点という意味合いは薄れ平地の真ん中に都が作られた。平城京は軍事的ににみると全く防衛拠点にはむいていない。
平城京から平安京に移った時は、大陸国家との摩擦が強めり、防衛意識が高まったせいだと聞いたことがある。確かになら盆地の真ん中よりは、内陸部にある京都盆地の方が守りやすいだろう。あわせて、平城京には神社と寺が増えすぎ、反政府勢力が多すぎるということもせんとの理由であったらしい。今の現代日本でも宗教団体はなかなかの政治勢力を持つが、古代から中世にかけては、王権に対抗するほどの政治勢力であり利権集団であった。そのりゆは明らかで、政権中枢部、つまり宮家や有力豪族の後継になれない子供達が、寺や神社の押し込まれたからだ。
言ってみれば権力中枢にいるものたちの身内であり、同族の落ちこぼれ集団とでも言える権力者予備軍でもあった政だろう。

まあ、そんな古代史の裏側というか生臭い権力闘争を思い浮かべながら神社を見て回ると、ちょっと違う世界が見えてくる。そんな想像を広げるには、外国人で溢れきった平安京跡地より平城京ができる前の「なら」を見るのが良いのではないかなあ。 

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