
大阪出身のラーメン店へ一年に何度か思い出したように食べに行っていた。大阪ミナミにある人気ラーメン店が東京に進出した時、「3度食べると病みつきになる」という不思議な広告をしていた。ひねた考え方をすれば、1度目はおいしいと思わないということになる。そして、1度目の実食した結果といえば、確かにこれはラーメンなのだろうかという疑問だった。それから広告のいう通りに追加で2回食べてようやく、なるほどこれもラーメンかあ、と思うようになった。
見た目通りに薄めの醤油スープというか塩味というか、ともかく不思議なスープだった。それに炒めた「白菜」が大量に入っている。お江戸のタンメンは大量の炒めキャベツが乗っているが、白菜は新鮮だった。
お江戸の支那そば系と言われるシンプルラーメンよりも、こちらの方が洗練されているなと思うようになったが、ともかく日本を西に行くと色々なラーメン変種があるのだと思い知らされたものだ。
これに匹敵するびっくりラーメンは「久留米ラーメン」だった。あれはとんこつラーメンんの源流として、ラーメン界の地平線にある存在だ。とんこつラーメンが西の地平線にあるとすれば、これは北西あたりの地平線にあるラーメンだろう。

商品名は「おいしいラーメン」という。最初に見た時はふざけた名前だと思った。おいしいかどうかは食べた客が決めるものではないか。おまけに美味しいと思うには3度食べなければいけないという。食い物屋を舐めんなよ、と腹立たしく思ったものだ。
この辺りが東国と西国のジョーク感覚の違いなのかもしれないと気がついたのは、随分たってからだ。
お江戸で仕事をしていると、どうしてもお江戸の味は日本全国に通用すると思い込んでしまう。実際には、日本全国で通用するのは舶来ものの味しかない。ハンバーガーやフライドチキンがローカルな味付けにしなくても良い「全国共通」の味になれたのは、米国生まれという付加価値のせいだろう。
これが北海道の味や九州で大人気では決して許容されない。ましてや日本全国の流れものが共通社会を築いているお江戸では、お江戸の味=全国の平均(悪い意味で)でうまくもないが不味くもない、誰も文句を言わない味が支配的になる。だからお江戸の味は、全国どこに行っても人気者にはなれない。
ただし、お江戸風と称して地元アレンジを施したものへ進化する。鮨や天ぷらなどの伝統食で起こったことが、イタリアンやフレンチという渡来もの料理でも起こる。大阪イタリアンとか博多フレンチのように言われる。
戦前に流入した大陸の麺料理アレンジ品、つまり支那そばがラーメンに各地で進化したのは当然のことなのだ。
このラーメンも、大阪の客に合わせた何らかの進化圧があったのだろう。少なくとも、お江戸どころか関西圏における近隣地域のローカルラーメンとも全く異なる。奈良のスタミナラーメン、和歌山ラーメンのコッテリ系とはまるで系統が違う。京都のドロドロ系ラーメンとは別種の生物くらいの差がある。神戸付近のラーメンも西国特有の濃厚スープ系だから、これとは似つかない。関西ローカルのどれとも違う独自進化種であり、おそらく日本全国でみても類似品が見当たらない。(個人的な経験値ですが)

ところが、その大阪ラーメンが今度は「日本の味」と言い始めた。ラーメンに日本の味と言い切れる標準品などあるはずがないだろうと、またまた思ってしまうのだ。が、それも言ったもの勝ちということなのか。あるいは、大阪的ジョークなのか。
やはり実に不思議な店なのだ。ちなみに、この午前中に食べたラーメンは朝の腹ぺこを満たすのには適度なものだった。そして、両隣に座っていたのはどちらも外国人カップルで、朝から餃子ラーメン炒飯セットをもりもり食べていた。確かに、日本の味を「ちょっと間違った意味で」受け入れている気がしたが、これが国際化ということなのだな、きっと。
あれこれと哲学的になってしまった、渋谷の朝飯でありました。立ち食いそばでも食べればこんな面倒なこと考えなくて済んだような気がする。