街を歩く

ラノベの話 2

空前のヒット作最新刊 完全にラノベ界の定石を外した戦闘シーンだけの駄作に陥ってしまったのが残念
 画像はGCノベルズサイトからの引用 

正確な数字は覚えていないがラノベ、それも長編シリーズを中心に乱読したので、読んだ数は200冊を超えているとは思う。それだけ読むとラノベの人気作が持つ共通性も見えてくる。それについてあれこれ考えをいじくり回してみた。
ラノベの特徴を一言で言えば「水戸黄門漫遊記」だろう。それも冴えない主人公が、あれこれ偶然な要素に助けられ勧善懲悪を完璧に達成することにある。少年ジャンプに代表される少年コミック世界と異なるのが、努力の結果ではなく偶然に手に入れた力で(チート、インチキな能力)世界を改変していくということに尽きる。

当然努力をしなくて良いので、激突を繰り返した末に固い友情で結ばれるなどという少年コミック、特にジャンプ系の鉄板ストーリーにはならない。主人公の周りを取り巻くキャラクターは、基本的に主人公崇拝型に設定される。だから固い友情で結ばれたライバルが、たまに主人公を裏切ってお話を盛り上げるという展開はおこらない。
実はこの裏切りと信頼の繰り返しこそが、ジャンプ世界の原則であり絶対的なドラマツルギーでもあり、ある意味でストーリー展開上の必須要素になっている。他の少年誌ではこの縛りが緩い。が、マガジン・サンデーであっても、「明日のジョー」のようなキャラ成長系物語では、ほぼ定番展開であることに間違いない。

ラノベのヒット長編において主人公が葛藤する相手は「ひと」「ライバル」「友人」ではなく「神」になる。そしてその「神」殺しが世界を救うための使命になる。つまり、軍全手に入れた能力でヒト世界の頂上を極めた者となることが多い。
「神」を倒したもの、「神」の超越者はすでに人ではなくなると思うが、そこは曖昧なままにされている。また、神を創造した神が登場したりもする複層入れ子世界だったりもするが。少なくとも殺される神は悪神か邪神扱いされるので罪悪感は感じないお気楽ものだ。まあ、人に滅ぼされる神というのも「概念的」におかしい。神と名乗る詐欺師的存在だろう。

ラノベとは水戸黄門のような絶対負けない悪党退治の旅、あるいは社会変革が前提にあるので、多少遠回りのルートを通ることになっても「悪」は必ず滅ぼす。「善」をなすのは自己満足のためであり、民や世界のためではない。たまに「俺はこの世界を救いたい」などと呟く主人公も出現するが、それは「世界」という単語の使い方が間違っているだけだ。この場合の「世界」は自分を崇めるたかだか10人程度の仲間達を意味する。現実のエセ政治家のようなお為ごかしの甘い言葉は吐くこともない。
その点は、書き手読み手の共通理解として、わざわざ語られることもない。だが、支配者の大半は現実世界と同じくらい悪党だらけで、その悪党を退治するのに必然性の説明はいらない。悪は滅ぶべきだが、現実社会では誰もそれをしてくれないから、悪党が滅される話が読みたい、痛快な気分を味わいたいというのが暗黙の了解事項だろう。
余談になるが、ウルトラマン世界では、初代は侵略者を次々撃退して疲労困憊してM87星雲に帰っていった。セブンは侵略者にも事情があると忖度して精神的に疲労して帰っていった。セブンが大人ウケするわけだ。ライダー世界では、初代から社会の矛盾に悩みまくっているので、韓流ドラマのような展開が多い。悪の結社にも良い奴がいたりする。背伸びをしたい子供か大人になりたくない大人に受ける話だった。ラノベは、この辺りの面倒臭さを一切切り捨てる。

だから、必然的に物語の世界は悪党が蔓延り、あるいは悪党に滅ぼされかかった困窮社会であり、衰亡国家である。その世界は異世界の魔法が支配する世界でもよいし、魔法の代わりに超科学が使われる別の銀河系であっても良い。世界設定などある意味でどうでも良いのだ。比較的魔法世界が使われるのは、悪党としてのステロタイプである「魔王」と「魔物・魔族・ヒト以外の異形のもの」の存在が使いやすいからだ。
超未来や別宇宙に普通のヒトを投入すると、最低でもその社会と現代日本・現代世界との違いは説明が必要になる。魔法の世界であれば、ここは魔界だの一言で済ませることができる。この差は書き手にとって大きい。世界設定の負担が全然違う。
また、現実世界では数多の物理法則で縛られて実現できないことが、魔法のせいで最も簡単に実現できるのも強みだ。主人公を努力なしで無限に強くさせることは重要な基本設定だろう。例えば今の自分では勝てない魔王が現れた場合、ジャンプ世界ではどこかの山奥にいる「偉いヒト」に教えを乞い特訓を受ける。努力と友情はジャンプ世界で鉄板の物語要素だ。ところが、ラノベ世界では違う。努力をする方向が違う。どこかに落ちている「魔力を究極に上げる石」を探しに行くのだ。その旅が努力といえば努力だが。
そして、その探究の旅の途中で、大抵は主人公に服属する強い奴がくっついてくる。それもスナック菓子についてくるおまけを手に入れるようなもので、本体のスナック菓子自体が簡単に手に入る。そして、おまけはタダなのだ。

水戸黄門漫遊記最終回で、スケさんカクさんが倒され黄門さんが大ピンチになるなどという展開がありえないように(そんな話を見てみたい気もするが)、ヒットラノベで主人公が解決できないピンチに陥ることはない。
黄門様の旅が深刻化しないのと同じ理由で、ラノベの中で厳しい戦闘が起きたとしても、たいていは一回で決着がつく。RPGゲームでよく使われる小ボスを倒したら中ボスが出てくるとか、大ボスを倒したら第二形態が出てきて、それを倒したら最終形態が出てくるみたいな、玉ねぎの皮を剥くような面倒な展開は珍い。

最終戦でスケさん・カクさんの手が落とされたとしても、戦闘終了後には必ず手はつけてもらえる。弥七が異世界に飛ばされても、戦闘が終われば必ず回収してもらえる。予定調和で完全平和が訪れるのが、絶対的なお約束だ。
この完全ハッピーエンドもラノベヒット作の特徴で、主人公の活躍も虚しく世界は滅びたというエンディングは見たことがない。いや、正確にいえば世界が滅びるエンディングにした書き手は、そこで作品を終了させることになる。たとえ最終ページに「続く」と書いてあっても、次巻が世に出ることはない。

ただ黄門様の旅が主人公(役)の変更はありながら延々とシリーズが続いたように、ヒットラノベ作でも物語世界が変わる(異世界になるとか隣の宇宙に行ってしまうとか)ことはあっても、同行キャラクターの性格やチーム編成ははほぼ代わりなく、永遠とも思えるマンネリの旅が続く。
それで良いのだ。読者はそのマンネリが望みなのだし、シリーズごとに「悪」キャラは魅力的にグレードアップする。前シリーズの悪役が善人に見えてくるほどの悪行を尽くし、読み手からするとさっさとこいつを退治してくれよとイライラ・ドキドキさせられる。それが最良のシリーズ作品というものだ。

だから、ヒットラノベを読む時には誰がカクさんで誰がスケさんかを予想しながら読むのが正しいお作法だろう。

だから基本的にラノベはコミック長編「俺は海賊王になる」が、もっとわかりやすくなった物語と言って良い。ところが、コミック界の偉業である「両さんストーリ」がラノベ界で生まれてこないのは不思議なことだ。その辺りも考えてみたい。

コメントを残す