街を歩く

伝統芸たる蕎麦屋で一杯

1年ぶりくらいになる。久しぶりのモッキリセンターだ。今年は昭和100年だそうだから、この店の開店、90年前というと昭和の初期になる。モッキリというのは、いわゆるコップ酒のことで、お江戸で言えば角打ちの店みたいなものだろうか。ただ、肴のメニューは充実している。カウンター席には昼からオヤジ族がのさばっているが奥には座敷もあり団体客がいたりもする。
昔は第一センターとか第二センターとかあったのかなあ、などと暖簾を見ていつも思うことだが、実際はどうだったのだろう。

メニューは昭和のストロングスタイルだ。小洒落たカタカナメニューは見当たらない。そして、表の看板には書いていないが「そば」がうまい。そばが置いてある居酒屋は明らかに戦前の伝統を守っているといってよろしい。(えへん)
締めといえばラーメンといえば、ほうけもの扱いされる時代が昭和初期だ。いや、蕎麦屋自体が居酒屋の前身だったはずで、蕎麦屋が食事処に変わったのは戦争が始まり食糧不足になった悪しき変化らしい。米が食えないならそばを食えという、どこぞのマリーさんみたいなことを言ったおバカな政治屋がいたらしい。

この日は遅い昼飯を昔馴染みのラーメン屋でと思っていたのだが、なんと定休日だった。そこで、急遽予定を変更してこの店に来た。海苔のついたそばを一本つまみ、蕎麦つゆにつけ啜る。それから冷たい日本酒を一口飲む。どうもこれが、昭和初期までの伝統的そば屋使用法だったらしい。
お江戸の町内には風呂屋と寄席と酒屋と床屋があったそうだ。そして食い物屋と言えばそば屋だったらしい。町内、つまり100m四方程度の領域で、江戸庶民の世界は完結していたのだ。その伝統的都市生活は明治政府の発足により急速に変化したが、その名残はあちこちに残っている。
占領軍たる明治政府軍人が急激に「江戸ナイズ」したせいだ。まあ、田舎から出てきた貧乏侍が大都会江戸の風潮に染まるのは、出世した気分を感じる最良の手段だったのだろう。無理も無い。豪奢な工芸品も没落した幕府用心から大放出され、成り上がり者の天国になった。そして江戸在住の旧幕府官僚はあちこちに放擲された。江戸文化の拡散は明治期に急速に進んだが、それは成り上がった田舎者たちのおかげというしか無い。
そのおかけの一面として、当時の属領たる蝦夷地にも蕎麦屋ができてお江戸の風情を楽しめるようになったのだ。北海道に残る老舗蕎麦屋は、そんな怪しいルーツを抱えているが、今ではその痕跡も見当たらない。すっかり高級化した料亭みたいな蕎麦屋が生き残っているばかりだ。
その蕎麦屋で一杯という良き風習を、この居酒屋が令和の時代に残していく最後の牙城になるものだろうか。まあ、蝦夷ではなく江戸の文化だけどね。

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