街を歩く

蝦夷地のマイル・ゼロ起点

今日で今年も半分終わってしまう。なんとも加速度がまし時の流れが早くなっている気がする。子供の頃の1日はもっと長かったんだよなあ……………きっと

ここが明治政府による北海道開拓の起点になる場所

北海道開基150年などといってとぼけたお祝いしていた年は、戊辰戦争150年と「リメンバー:を誓っていた東北諸県の式典と同じ年だった。おまけにその年は、西国で明治維新150年などといって浮かれていた。同じ日本の中でも150年の振り返り方はいろいろあるものだと感心したし呆れもした。
最近ではようやく復権がなされたアイヌの土地を強制占領したのが北海道開基ではないかと思うからだ。現在は共存空間なる怪しい述語の博物館もできたが、基本的には差別と迫害の歴史から目を背けてはいけないと、北海道生まれ北海道育ちである自分は思うのであります。
同じ話は、実は南の果て、琉球王国の併合でも起こっている。おそらく言語的、文化的、DNA的に言えば琉球は広い意味での日本民族(その定義は曖昧だが)なのかもしれないが、歴としたとした政治的独立勢力だった。ただし、島津氏に武力制圧されていただから敗戦国の自治という部分もあった。
この辺りは1000年以上かけて行ってきたヤマト朝廷の侵略と統一の最終段階だったと考えることもできる。ところがそのまま、半島から大陸、そして太平洋へと進出していった能天気ぶりは、まさに古代ヤマト朝廷の征服メンタリティーの直系子孫とも思える。
それが150年を祝う西国のスタンスだとすると、これはちょっと危うい。まあ、その時の総理大臣が長州出身だったせいもあるとは思うのだが。
早く沖縄県や北海道選出の総理大臣が生まれて、歴史的な見解を披露して欲しいものだ。

この起点となる場所だが、創成川と呼ばれる因果の野鳥にある。近くには、今ではすっかり観光客目当ての施設になってしまった二条市場がある。要するに開拓時代の水運の拠点だったということだ。
札幌の中心部を流れる豊平川は札幌の街を東西に分断しているが(というより川の両岸に街が広がったということだろう)、そこから運河を引き込み交通の要所とした。これが明治以前のことだ。その後、小樽札幌間の鉄道を敷設し大港湾都市小樽と陸路で繋げ、北海道開拓の中心地としたのだが、水運の重要さに変わりがなかった。だから二条市場の近くに「狸小路」と呼ばれる繁華街、歓楽街、風俗地域が出来上がった。おえどでいえば浅草と吉原みたいな関係になるのか。
鉄道駅と北海道庁ははここから北に500mほど離れたところに作られた。これも全国あちこちの城下町で見られる、繁華街と官庁街の切り分けルール見たいんものと同じだろう。

その水運の要であった運河も今ではすっかり名残でしかない。全国各地で川に蓋をして暗渠にしてしまった暴挙を考えると、今でも水が流れているだけマシというものか。ちなみに、この皮を源流(南側)に遡るとすすきのエリアではかもかも川という可愛らしい名前になっていて鯉なども泳いでいるのだが、そのいわれはよくわからない。札幌の原型は京都の街にあるそうなので、鴨川加茂川をあやかったのかもしれないが。

この運河を作った方「大友さん」は銅像になっている。確かに札幌開拓の功労者であるし、明治前の開拓者の代表とも言えるだろう。今でも札幌の小学生は札幌の歴史を学んでいるのだろうか。ただ、それは明治政府とその後継者に都合の良い視点で書かれた「勝ち組」の歴史だし、それを鵜呑みにしてしまうのは危険だなと理解するのに自分は40年以上かかったのだよね。
でも、かの北海道開拓初期を舞台にした「ゴールデンカムイ」が、その偏った歴史観に一石を投じてくれたので、今の若い方はもう少し違った見方をしているかもしれないなあ。

たまには酒も飲まずに、真面目に哲学、歴史学的考察をすることもあるのであります。ただ、この後は昼飲みオヤジの聖地、モッキリセンターへ真っ直ぐ繰り出したのですがねえ。

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