
一時期、秩父に足繁く通っていたことがある。札所巡りもしていたが、秩父が昔は独立国だったと知り、古代ヤマト王朝との関わりに興味があったからだ。秩父鎮守である秩父神社はおそらく独立国からヤマトの軍門に降ったあたりで一度変身しているのだと思う。古代秩父が独立国であったならば、神社の様式などが違うはずなのだが。島根や岡山にある神社は古代ヤマトと異なる形式を維持している。ヤマト政権が地域文化の象徴である主神の姿までは強奪しなかったことがわかる。まあ、反乱対策だったとは思うが。
秩父神社は江戸期に徳川治世で再度変身したらしく、古代の姿は残していない。そのためなのか、戊辰戦争後の革命政府が推進する皇国史観と神道礼賛政策とは対立しないで済んだようだ。
秩父は明治初期における富国強兵モデル地区だったから、革命政府も強く出られなかったのかなとも思う。まあ、西日本の田舎から出てきた下級武士にとり、関東の西の果てにある東国の田舎に興味が薄かったということもあるだろう。
政府の無関心が秩父夜祭を生き残らせたと考えれば、田舎者の政府は意外と文化の保存に役立つのかもしれない。世界史的に見れば、世界中どこでも田舎者が起こした権力は必ず文化破壊を行うものだが。ルネサンス前の西欧世界は、まさに田舎者が都会者に挑む「十字軍」という強盗集団を生み出した。
イスラーム世界が高い文化水準を保ったのは、イスラームを信じる世界の内乱で王朝交代が起きていたせいだろう。19世紀から20世紀にかけて欧州の田舎者、文化的に周回遅れとなったロシアの策動が混乱を引き起こした。また世界の田舎者だった北米大陸の国家が工業化に成功して、これまたならず者国家となったことが混乱を増幅した。
戊辰戦争後の日本も、田舎者の誇大妄想が大戦による破滅まで一直線につながっている。田舎者の暴力は、いつも世界に混乱を引き起こしているのは間違いない。
夜祭の絢爛豪華な山車を見て、そんなことを考えていた。秩父は田舎とはいえないなあと。

行くたびに思うことだが、秩父夜祭はとてつもなく寒い。が、秩父だけでなく冬の観光地はとにかく寒い。冬は山の中とかに近寄ってはいけない。海沿いでも名古屋より東は近寄ってはいけない。
カメラを持つ手も悴んでしまいシャッターが押せなくなるほどだ。だから、冬になると赤いラーメンをよく食べていた。辛いラーメンがラーメンの主流になったのは一体いつからだろうか。
辛いラーメンのルーツの一つは酸辣湯麺だと思うが、それの進化系が全国あちこちで並行的な進化を遂げたというべきだろうか。千葉の勝浦担々麺は実に辛い。もう一つの千葉名物、アリランラーメンはもっと辛い。
埼玉はうどん文化圏なのでラーメン屋は目立たないが、味噌ラーメンのチェーン店では必ず辛い味噌味がある。神奈川の家系ラーメンにも「辛いそば」はあるが、勢力としては弱めだろう。広島の辛いそばや宮崎の辛麺は専門店になる程に別格の地位にある。
秩父によく行く蕎麦屋はあるが、そういえばラーメン屋にはほとんど行ったことはなかったな。今年の春キャンプは秩父に行って、帰りに辛いラーメン食べてみるか。あ、そういえば秩父には趁達があったか。あそこに辛麺あったかなあ。