街を歩く

夜散歩 in 高知

高知の夜に街中を彷徨い歩いてみた。南国高知の夏場であればうんざりするような暑さでとても歩く気にはなれないが、冬は高知であれ凛とした厳しさはあるが歩けないほどの寒さでもない。ただ、夜も早い時間であるのにほとんど歩いている人を見かけない。寒いからか、町外れのせいなのか。
随分と長い間工事をしていた橋がいつの間にか囲いも解けて完成したのに気がついた。ライトアップされているが、決して高知市内の繁華街とは言えない場所なのだ。これが「はりまや橋」であれば、さぞ観光客が撮影に群がっているだろうに。市内を流れる川は江戸時代の高知の街が作られた時に水運の要として整備されたもので、それにつながるように城下に運河がて張り巡らされていたそうだ。(某国営放送の旅番組で解説していたものを受け売りしてます)
その運河も今ではすっかり埋め立てられてしい(暗渠化している)、例のガッカリ名所「はりまやばし」がそのなれの果てになっているそうだ。運河都市は大阪や江戸といった大都会を始め、その景観をすっかり変えてしまっている。今の時代に運河が残っていれば、車の往来には困るのだろうが、観光地としては空前の人気ぶりになっただろうなあ。

時代の流れは外食企業にも押し寄せている。高知市民であれば(年配者に限る)誰も知らないものはいないと言われる屋台餃子の店は、いつの間にか営業形態を変えていた。川沿いにあった本当に屋台だった店は、いつの間にか近くの駐車場に大きな屋根をかけた擬似屋台営業に変わっていたのだが、どうも改正食品衛生法の基準を満たすためにはもう一息の変身が必要だったらしく、新たにできたものは完全なる密閉空間に閉じこもった屋台村もどきになったようだ。確かに、餃子とラーメンとビールだけでは現代の客層には対応しきれないのかもしれない。単店でメニューを広げるより、複数業態で広げるのは良い策だと思う。

正面は別の店だった


初めて高知で屋台餃子を食べたのは15年ほど前だった。地元企業の社長に連れて行かれたのだが、その頃でもほぼ観光地化していたらしい。それよりも随分と前のことだgあ、思い返せば初めて高知に来た夜は、まだ市内中心部にたくさんの屋台があり、そこの中の一見で酒を飲んだ記憶もある。屋台のおばちゃんからは、いかに高知が大きい街で飲み屋が多いか力説されたのを覚えている。同行者は大阪と神戸から来ていた。自分も含め高知より大きい街から来たのだがなあと心の底で思いながら、うんうんと頷いておばちゃんの話を聞いていた。


屋台は道路交通法や食品衛生法の規制、というか弾圧で消滅しつつある江戸期以来の文化であるのだが、行き過ぎた規制は文化を破壊する。これはどこかの国の宗教弾圧に名を借りた異文化抹殺に近いものがある。行き過ぎた宗教独裁、あるいはバカな独裁者のいる国ではよく起こることだが、「この国」のような独裁者のいない国でも官僚が独裁者になり代わり自分たちの利権のために暴走する。文化圧殺とは官僚の金儲けと天下り先の創生を意味する。

店名の下に(仮)とあるのは、官僚の弾圧が覆った時、本来の屋台に戻るのだという強い意志の現れ……………ではないかなと勘繰ってみた。もしそうであれば、官僚による文化圧殺打破のための「革命」に参加するぞ、と鼻息を荒くしておりました。

この国は本当に革命前夜なのではないかと思う今日このごろ。歴史的に振り返ってみると、日本の歴史では概ね70年ごとに政変、革命、敗戦などで政権がひっくり返る。先の大戦で負けて大勢の大変換が起きてから80年たった。歴史から見るとそろそろなんだよね。

屋台復活の狼煙をあげようかなあ。

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