街を歩く

西国の由緒正しき神社

福岡県は古代日本において大陸と半島への入り口であり、最重要拠点であったはずだ。個人的には邪馬台国=古代ヤマト王朝の源流と考えているので、この辺りにあった古代都市国家が列島統一に乗り出したはずだと思っている。つまり、日本の起源はこの九州北部にあったはずだ。
だから、九州各地に存在する古からの神社は、古代都市国家群の象徴、権力中心、政治経済の拠点という性格があったはずなのだが、その中でも八幡信仰はちょっと異質の神を祀るものであると思う。
宇佐神宮とその分社は北部九州に多いが、この筥崎宮も八幡様を祀った由緒正しきお社であり、北部九州にあった古代国家群が勢力凌ぎ合った証拠ではないのかと思っている。つまり、八幡様はおれの神様だ、勝手に拝むなー!、何を言っている、八幡様はうちだけの神様じゃー みたいな国同士の争う姿が思い浮かぶ。

神社にはいくつかの伝統的な様式があり、鳥居の形やしめ縄の形状、あるいは屋根の形などで神様界の勢力図がわかるらしい。お奉りされている神様も元々の神に加えて、色々と追加でお引越しされてくる方もいらっしゃるようで、まさに時の国家勢力が奉じる「我が神様」が、時代によっておいでになる?構造だ。特に、西国、つまり九州や中国の神様と国家と神社の配置は実に興味深い。

八幡様は武神として、鎌倉以降の武家政権には重要視された。あれこれ調べてみると武家といっても平氏源氏の頃は武士というより軍事貴族といった色彩が強い。戦闘の専門職、軍人化するのは室町後期から戦国期にかけてであった。貴族の地方領地で徴税業務を受け持っていた現地雇用の役人が、領地保全のため武装集団化して、ついには領地を簒奪した。つまり反乱者集団ということになる。それが武家の始まりといえば身も蓋もないが、その反乱者の武装集団がなぜか貴族たちが拝む神様のひと柱を自分たちのものにした。それが八幡信仰と考えると、なかなか面白い。荒ぶる紙の筆頭である「素戔嗚」神ではなく八幡様という点も興味深い。
そんな武家も戦国期が終わると一気に非軍事官僚化する。江戸期に至っては軍事知識は喪失し、文官化した元軍人階級という有様だったようだ。だから、西国からの動乱、戊辰戦争に負けたのも無理はない。戦争する気がない軍人とは、そもそも職務怠慢だろう。


戦国期は当然ながら、軍事技術者であり戦闘技術(マーシャルアーツ)に優れたプロ集団が武家と呼ばれていた。その軍事専門家が好んでいたのが八幡様ということらしい。つまり八幡さまは戦闘技術の元祖プロフェッショナルと目されていたのだろうか。

楼門の一角に戦国武将が寄進したと書かれてある。それが現存しているのもすごいことだが、歴史の教科書に出てくる勇将が、おそらく戦勝祈願を含めて寄進したのだろう。同じ八幡様でも宇佐八幡宮は皇室直結というイメージが強い。石清水八幡宮は、やはり源氏の嫡流が奉じるというようなイメージがあり、寄進先がここになったのかなの。西国武将にとって岩清水は遠すぎるのかもしれない。

広々とした境内には参拝客と観光客が大量に訪れていた。1000年も昔の人がここを歩いていたと思うと、何やら感慨深いものがあるが、ひょっとすると2000年前の人も歩いていたのかもしれない。
お江戸では考えられないタイムスケールだし、生まれ故郷の蝦夷地、それも札幌であればたかが150年しか歴史がない。2000年前に歩いていたのは、少なくともヒグマでありエゾシカしかいない。人族として存在していたとすれば縄文人がいたのか? そもそも縄文人というより古代アイヌ民族ではないか。などと、あれこれ思いを巡らす羽目になった。
西国の神社は、ともかくすごいのであります。

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