
自宅近くにあった(歩いて行ける)映画館が閉まった。最終日まで、このさいたまラブな映画は上映されていた。なんとなくこの映画を見てしまうと、映画館の閉館を認めてしまうような気がして、最終日まで見るのを我慢していた。
楽しく見終わった。いつもであれば空席が目立つ平日の午後だったが、満席だった。エンドロールが終わると、いきなり拍手の音が大きくなった。ちょっと涙が出そうになった。

元々のお話、コミック版原作は可愛げのないキャラたちのボーイズラブなお話だが、まあ原作を好き勝手にいじり回して、残っているのはさいたま自虐ギャグだけという感じなのだが、原作者も笑って許しているようで、実にお気楽に楽しめる。まあ、滋賀県と埼玉県の繋がりは、大都市周辺にありながら差別を受ける言われなき地方同士の共感ということらしい。それもまた納得できるが、今回は千葉が裏切り者扱いになっていて、そこにおかしみがある。千葉と同じ扱いを受けているのが和歌山だから、地域差別?が存在するという基本構造は東西で同じということだ。港区がなんじゃ、神戸や京都と威張るなやー、という映画だ。

おそらく最近の規制が厳しいテレビではできない作品だっただろう。ネット系独自制作作品でも、この手のディストピア型のお話は、良い子が見てはいけませんという扱いになるのでなかなか実現が難しい。差別の存在を認めた上で、差別している層を嘲笑うという高等技なのだがなあ。
最近はアニメなどでも暴力シーンで出血することがなくなってきた。悪キャラは斬られるとキラキラしながらチリになり消滅してしまう。性と暴力は、ハリウッドをはじめとした映画業界からすでに放逐されている。東映任侠映画のリアリズムはもはや遠い過去のものになってしまった。
最近のジェンダー関連の話題を考えると、男女の「性」をエンタメで扱うのはもはや不可能だろう。その捌け口がBLや百合になっているような気もする。だから、この作品は地域差別をネタに差別するものたちを晒しものにする喜劇として成立している。流石にさいたまネタをドキュメンタリーにすると重すぎるだろうし。
時代が経てば、非常に貴重な「The last movie」的作品として語られるようになる、そんな気がする。
BLを基本設定におき、笑いの粉を振りかけた地方と都市の格差を、さらに上位視点から俯瞰している。差別するものが一番バカだと、ニンマリ笑っている存在は、原作者なのか、映画製作者なのか。まあ、自虐ネタで笑い転げている埼玉県民の姿を見れば、諧謔こそ社会の潤滑油だと思い知らされる。「ああ、これはあるある。まさに俺達がやっていることだ。」というのが、埼玉県人の本音だろう。屈折したユーモアはいつも心の中の毒を気づかせるが、その解消にも役立つものだ。

最終日に出かけた見たら、そこにはご当地狭山丘陵の主人「巨大猫型ばけもの?」がお出迎えしてくれた。やはり、メイとさつきを見送ったように、この映画館の最後を見送ってくれるということなのか。

この映画館で観た映画はいったい何本あっただろう。開店から40年間と言われると、100本くらいは見たような気もするが。館内に貼られていた旧作のポスターをゆっくり眺めていたら、名前は覚えていても見ていない芸画がずいぶんたくさんあった。今ではレンタルで手軽に見ることもできるが、やはり映画は映画館で観たいなあ。これが郷愁というものなのだろうか。40年間、お世話になりました。