
松山の話が続くが、この街には何度かきている。しかし、街の記憶が全くない。四国随一の大都市なのだが、仕事の時は空港から打ち合わせ先まで車で直行し、そのあとは会食場所にまっすぐ行ってホテルに泊まり、翌日は他の都市に移動をするか空港から東京に戻る。そんな行程ばかりだったから、街の景色など全く覚えていない。それは松山だけに限ったことではないので、全国あちこちの街に行ったが、記憶がしっかり残っている街は意外と少ない。
どうもそれではいけないと思い、今回は夕方から街歩きをするべく、ホテルもアーケードのある繁華街の入り口付近にしてみた。ただ、松山は二拠点都市というか、お城の下にある商店街と私鉄の駅前が賑やかな場所で、その二点を結んでいるのが「都心部」アーケード商店街に当たるようだ。
その上に、ややこしいことにJRの松山駅は、この2拠点から離れたところにある。交通結節点が街の中心地になるというシンプルな都市構造ではない。複雑系な街だった。

地図を見るとわかったのだが、松山の街はお城のある山をぐるっと回る路面電車の環状線があり、そこから放射状に支線が伸びている。時計で言えば3時方向にちょいとはみ出して伸びているのが道後温泉に向かう支線だ。9時に当たるところから伸びているのがJR松山駅につながる線。そして6時に当たる方向に伸びているのが伊予鉄松山市駅につながる線になる。
だから路面電車を上手に乗り継ぐには、ちょっとコツがいる。おまけに市内の各所にバス路線が張り巡らされているから、松山市民には住み心地は良さそうな街だと思った。
しかし、その複雑な交通動線が観光客にはなかなか難度が高い。にもかかわらず、電車の中には外国人観光客も多い。なんとも不思議な光景だった。おまけに、外国人観光客はあまり迷うこともなく電車を乗り継いでいるらしい。スマホの中にとてつもなくスーパーな旅行アプリでも入っているのだろうか。見せてもらいたい気もする。

アーケードは長い。実に長い。おそらく端から端まで歩くと1km以上ありそうだ。遅めの夕方だったが、それなりに人通りも多い。地方都市で見かけるシャッター街とは無縁のようだった。それでも7時近くになるとほとんどの店が閉店しているので、夜の引けは早そうだ。

松山には先の大戦の終末期に米陸軍による都市空爆を防衛するための航空部隊が置かれた。最後の傑作機「紫電改」を配備した部隊で、パイロットは全国に残っていた名人級をかき集めたそうだ。
その部隊を松山の人々は支えてくれたのだが、敗戦と共に全ての紫電改は米軍に接収され、松山に紫電改のかけらも残っていなかった。
それが昭和の後期、墜落して海中にあった紫電改が発見され引き上げられた。それが亜媛県南部の街で展示されている。今では紫電改のことなど覚えている人も少ないだろうが、街中の商店街にそれを記録するものが掲げられていた。これは尊いなと、思わず頭を垂れた。

もう一つ、面白いなと思ったのが、街中のあちこちで「鯛めし」を推しまくっているのだが、推しの鯛めしは松山名物ではなく宇和島名物らしい。なので、この辺りの地理的距離感というか松山と宇和島の関係性はどうなっているのだろう。お江戸で言えば埼玉県大宮の名物を千葉県千葉市で売りまくっているみたいな感じがするのだが。
伊予国ということで一体感があるのかなあ。ただ、宇和島と松山ではお殿様も違っていたはずだから歴史的には違う街なのだと思う。まあ、美味いものには国境なしでも良いけれど。

アーケードの端っこにある伊予鉄の駅には大手百貨店も入っているので、まさに大都市の駅前という風格がある。駅周辺にはさまざまな飲食店やエンタメ系の店が立ち並んでいた。どうも、この都心部散歩をした感覚で言うと、松山の街は観光客相手の土産物屋も少ない、松山に住む人に向けた街という印象だった。
街の規模感としては政令都市のような超大都市と比べて、ちょうど良い賑わい感がある。気候も温暖で、海の幸にも恵まれ、きっとこのあたりは昔から過ごしやすい国だったのだろうという気がする。

松山といえば、夏目漱石の坊ちゃんが思い浮かぶが、実は司馬遼太郎氏の大作「坂の上の雲」で語られた秋山兄弟も、相当に力を入れた地元の推しキャラになっている。この二人は坊ちゃんとは違いリアルな人物なので、推しやすいのかもしれない。
土佐では明治革命期の坂本龍馬推しで、伊予では明治の大戦で活躍した秋山兄弟推しになる。その辺りの違いが明治期四国の時代感というか、土地柄の違いというか、微妙さなのだな。松山での一番の気づきがこれでありました。