旅をする

一向一揆と百名城 鳥越城

お城巡りであちこちを旅してきたが、道路に建てられた案内板で、これほどはっきりしたものは見たことがない。街の誇りというか、お城に対する取り組み方が真剣なのだなということが伝わってくる。

山上にある城の跡に上る道がある。そこの入り口には立派な石碑があり、案内図もある。ただ、この夏の豪雨の被害により登山道は閉鎖されていた。なんとも悔しいが、山の下から山上を見ることしかできない。

鳥越城は典型的な山城だが、ここが防衛拠点となった理由が非常にわかりにくい場所だ。交通の要衝というには街道筋や海・川の水運拠点から離れているような気がするのだが。ただ、今の石川県から富山県にかけて、当時は巨大勢力になった「一向一揆」の拠点であったようだ。
応仁の乱以降、全国で下剋上の嵐が吹き荒れたが、北陸から越後にかけては各地で紛争があいつでいて「戦国期のホットスポット」だった。九州や四国で起きた、島内統一のような動きが起きなかったのは、越前朝倉氏と越後上杉氏の間に存在した戦闘結社「一向宗門徒」による宗教共和国の存在が大きい。
現代日本の徴税比率(社会保険費、消費税による間接税強奪分を合わせる)はおよそ収入の4割なので「4公6民」となる。これが、そこそこ生存できる限界税率だろうし、一揆などの反乱を起こさせない限界税率だ。戦国期は6公4民程度が当たり前で、農民は生存限界転移かに置かれていた。当然、反乱は多発する。江戸期になり4公6民が定着したのは、戦費が減ったことと反乱防止が目的だったはずだ。
一向一揆は、その農民反乱が扇動により巨大化したものだが、そこには旧領主の暴虐的な税収奪があったせいだ。現代日本でも革命が起きる一歩手前程度まで税収奪は進んでいる。先の大戦で負けたせいで、明治政府が行った暴政、「過大な戦費による増税」がチャラになったが、敗戦後の社会改革は外国に強制された革命に近い。政治屋たちは歴史に学ばないおバカなので、現代の一向一揆の萌芽に気づいていないようだ。山城に登れなかった腹いせに、そんな現代日本革命構想を妄想していた。

北陸には今でも浄土真宗を受け継ぐ家が多いと聞く。宗教と合体した政体は、徳川期になり骨抜きにされたが、地元の民は宗旨を変えずに生き残ったということだろう。地域の集客施設である道の駅の後ろ側に、一向一揆の歴史博物館があるった。道の駅では、通常は温泉施設や、高齢者介護施設などが設置される場所だ。そこに「一向一揆」の歴史を説明する施設を作る。それほど、地域に根ざした宗教ということだ。
全国に200ある名城認定された城の中でも、この鳥越城は独特な感がある。城を治めた武将、一族が語られない。一向宗門徒の支配におかれた場所であるせいだろうか、〇〇氏が築き▲▲氏が居城とした、というような戦国お城ストーリーがない。

そして、これも今では歴史博物館などではお約束の戦国キャラが、この博物館前にしっかりと鎮座していた。武将と姫様は理解できる。しかし、坊さんがキャラ立ちしているのは極めて珍しい。さすが、一向一揆の博物館だ。
しかし、この戦国キャラ、お城キャラ、武将キャラ達は、どこの城を見に行っても微妙な違和感がある。子供に親近感を持たせて上で、歴史や郷土に興味を引こうという「勝手な大人」の教育的な目論みが透けて見えるからだ。どうせなら若い旅人を取り込む観光振興策として、萌えキャラ制作に振り切った方が良い気がする。
この「怪しいキャラ」こそが、城巡りをするときに感じる一番モヤモヤするものだ。自治体の担当者の皆さん、キャラ作りは是非ご一考を。

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