旅をする

熊野詣であれこれ考えた

2017年の記憶 #21 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

熊野古道のブームがあった頃は、行きたかったけれど混雑していると嫌だなと後回しにしていた。その熊野詣でを、ようやく果たしたのが2017年だった。高速道路が途中までしか通っていなかったのも理由の一つだが、それもほぼ全通した。伊勢は七度、熊野は三度などというらしい。お伊勢参りはすでに4回ほどしているので、残り3回。熊野詣ではあと2回頑張ると良いのだが。
熊野奥地にある那智大社は神仏習合の地で、敷地は一緒だが入り口は別々みたいな、ちょっと楽しい空間だった。鳥居をくぐって、山門を抜けるというのはなかなか珍しい経験だと思う。

那智大社から那智の大滝を望むと、青岸渡寺が目に入る。確かにこのアングルで大滝を見るために作った神社仏閣なのだろうなと納得する位置関係だった。車でくればすぐ近くに止めることもできるが、歩いて登る時代は、実に大変だったろうな。このありがたみの差が、ちょっと気になるが、歩いて登るかと問われれば、首を横に振るしかない。修験道の行者の場所だ。

その熊野の平地にある寺で「補陀落渡海」に思いをはせた。船に乗って南にあるという楽園「ポータラカ」にわたるための儀式だ。宗教的儀式は、無宗教な人間から見ると、なかなか理解し難いものだが、人が信ずるもののために行う情熱というか意気込みの凄さは胸を打つ。この情熱が金儲けに向かえば大資本家、大経営者になるのだろうし、宗教で発揮されれば聖人名僧となるのだろう。ただし、この情熱が政治に向かうとこれは害悪にしかならず、悪代官などは良い方で、独裁者級になれば人類の災厄というしかない。
民主主義は最良の政治家を選ぶことはできない。元々が腐った人間しか政治をやろうとしないから「よいもの」は選べない。悪いものの中から最悪を避けるための必要悪みたいな制度だ。ただ、民主主義が機能していれば災厄級の独裁者は防げる。少なくとも任期が終われば解約できる。
悪い奴を選んで補陀落渡海を強制できないものかなどと考えながら、民主主義に思いを馳せた記憶が蘇る。

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